2024年11月30日土曜日

原田尚美(第66次南極観測隊隊長)     ・南極を極める

 原田尚美(第66次南極観測隊隊長 東大大気海洋研究所教授)     ・南極を極める

原田さんは6年前第60次観測隊で副隊長を務めるなど、南極観測隊にこれまで2回参加されています。 今回南極観測隊初の女性隊長として、南極でやり残してきたことに再挑戦する研究者として、3回目の南極に挑みます。 出発を前にした原田さんにお話を伺いました。 

観測船「しらす」では11月20日一足先に南極抜向け出航。 私たちは12月5日に飛行機で成田からオーストラリアにはいります。 昔と違って今は舟が資材を、人とは別々です。 プラス面は時間を割くことが出来ます。 マイナス面は現地に着くまで船ですと3,4週間あり、イベント、打ち合わせなどを「白瀬」の人たちと一緒に過ごすことでしっかりとコミュニケーションをとることが出来て、現地に着くとすぐに仕事に入れる。 4月5日に帰国します。 越冬隊は2026年3月頃に帰国となります。 今回は隊長として行くにあたっては、責任を感じます。 決断を下すことが重要な役割になります。 諸条件によって100%計画通りには行かないので、どこを諦めるのかを判断して隊員に告げることになり、往々にしてネガティブな決断となります。 

専門は生物地球化学、古海洋学。 生物地球化学は、海の中でいろいろな環境の変化がありますが、そこに生息する生物、プランクトンの有機物を作る生産、生物の応答、作り出す物質(主に炭素)が海のなかでどう循環していくか、といったようなことの過程を一つ一つ明らかにしてゆくという分野です。 炭酸ガスがどんどん増加していますが、吸収する場の一つが海ですが、生物を介して吸収するというメカニズムがあります。 植物プランクトンが吸収した炭素がどのくらいの時間をかけて、リサイクルされてゆくのか、あるいは一部はいろいろな生物に食べられて糞や死骸となって、海底に落ちてゆく部分もあるので、それが全体のどのぐらいなのか、といったことを定量的に明らかにすることによって、海が微生物を介してどのぐらい二酸化炭素を海中に蓄積しているのか、と言ったことを研究する分野です。 海洋学は、海底堆積物を使った研究になります。 海底堆積物を採掘することによって、数万年前、数千年前の温暖寒冷の変動が自然のサイクルだけでどのぐらい起きていたのかという事を明らかにする分野です。 

先輩が赤道の海域で採取してきたサンプルがあり、それを使って修士論文のスタートをしました。 フィールドワークもしたくて、赤道の航海に参加しました。 東大の海洋研究所が所有する白鳳丸という研究船でした。 いろいろなフィールドワークをしたくて、南極観測隊に欠員が出た時に手を挙げました。(修士課程を終わる直前までは就職をしようと思っていましたが、取りやめて進学することにしました。) 1991年初めて南極に行きました。  南極では音が全くしない無音の世界に驚きました。  1995年海洋科学技術センター深海研究部むつ研究所研究員となる。 北太平洋の研究の後、2010年ぐらいから北極に携わりました。  二酸化炭素が生物を介して有機物として海水中に炭素を貯め込みますが、セジメントトラップ(ある期間海水中に置いて,海水中を沈降してくる粒子を集める装置)を設置して、どの季節にどのぐらいの粒子が海水中に蓄積しているか、1年間かけて調査をしました。  プランクトンの殻もトラップされてくるので、どういった生き物が炭素を作っているのかという事も判ります。 

2018年に2回目、南極観測隊副隊長として行きました。  マネージメント中心という事で行きましたが、1回目に失敗たことを思い出して、観測をしにくる場所だなと思いました。 3回目で隊長として行くことになりました。  自分ではなかなか出来ないので、観測するチームに一緒に行っていただきました。  セジメントトラップは33年前とは仕組みが変わっていません。 2週間ごとのサンプルを手に入れることが出来ます。 センサー類は大きく進歩しています。  

南極は地球を冷やす寒冷圏です。 温暖化に対する応答、北極は激しい温暖化に見舞われているが、南極は温暖化に対する応答が緩くて、余り氷が減っている印象がないし、海氷も大きくは変わっていない。  しかし2014年ぐらいから急激に現象が南極でも見られるようになった。 海と氷床の関係性を明らかにする監視観測が重要だという事で、第66次もトッテン氷河沖?の氷床の観測を行います。(一番融解が進んでいると言われている場所)

生まれは北海道帯広市です。 苫小牧が一番長く暮らしました。 子供の頃は理科は好きではありませんでした。 高校2年生の時に化学を選び、理科の面白さに気が付きました。 フィールドワークのフロンティア観にワクワクしました。  弘前大学の指導教官が南極観測の経験者でした。  名古屋大学大学院に進み、南極観測に繋がっていきます。     節目節目に巡り合った方との出会いで、いろんな魅力を教えていただきました。  登山が趣味です。 40代半ばから始めました。  最初が富士山でしたが、景色が変わりませんでした。  2番目に大雪山に登て、景色のすばらしさ、登山の魅力にはまりした。 93,4の山に登りました。 山を登り終えた時の充実感、達成感があります。 今年は余りいけなかったのですが、4,5つぐらい行きました。 

国連海洋科学の10年の推進役をやって来ました。  SDGsの目標の17の社会目標のなかで、進んでいないのが14の「海の豊かさを守ろう」なんです。 国連は危機感を感じて、加速してNO14を各国に薦めて行きましょうと旗を振ったのが、国連海洋科学の10年で、2020年から2030年まで加速してNO14に取り組みましょうと言う事です。 一般向けの海の辞典を作っていて、2025年秋に出版を予定しています。 海のことを知っていただきたい。 






 





2024年11月28日木曜日

長谷部愛(気象予報士)          ・〔私のアート交遊録〕 天気が語る名画の秘密

 長谷部愛(気象予報士)          ・〔私のアート交遊録〕 天気が語る名画の秘密

長谷部さんは1981年神奈川県生まれ。 テレビやラジオの現場を経験した後、2018年に気象予報士の資格を取得、気象予報士と共に現在は東京造形大学特任教師としても教鞭をとっています。 今年長谷部さんは気象予報士としての目線で、古今の東西の名画を見るという「天気で読み解く名画」という本を書き上げました。 名画に描き込まれた雲の形や、霧、光などから、その日の降水確率やその時代の気象情報が判るだけでなく、時代の異なる作品を比較することで、温暖化などの気象の変化などにも気付くことができるなど、名画の中には意外な発見が満ちていると言います。 従来のアプローチとは一味違った名画の見方に付いて、話を聞きました。

美術鑑賞をするときに、この空って雨が降りそうだとか、この季節は秋だとか、美術鑑賞をすることが多くて、気象予報士になってから益々天気についてどんどん解像度が高くなって行きました。  大学の時には教育学部の数学科でした。  数学が苦手で、苦手なものを教えられる先生になろうと思いました。  苦手な子に向き合って数学の面白みだとか教えられる先生になろうと思って、あえて苦手な数学科に入りました。  気象予報士になった数学が役に立って本当に良かったと思います。 天気予報は数式の分野になっているので、複雑な計算式の上に成り立っています。 いろいろなものに触れたいと思うようになって、マスコミの世界は視野が広がるのではないかと思って、放送局に就職しました。 

苦労して数学を勉強した割にはマスコミでは使っている場面は一つもありませんでした。  気象予報士は数学を学んでいれば有利だという噂を聞いて、受験することにしました。 合格率は4~5%ぐらいです。  1000時間ぐらい勉強しないといけないと言われています。  2年かけて4回目の試験で合格出来ました。  気象予報士の資格を取っても、就職率は1割ぐらいでした。  気象予報士の資格を生かしながらものを伝えるとなるとやはりマスコミという事になり、ラジオの気象予報士としてスタートしました。 東京造形大学で学生さんの前に立つ時に、学生さんの為になる天気の情報って何だろうと考えた時に、画家がなんか天気に左右された表現があって、それを説明できたとしたら、学生芸術表現の一つに天気というものが入って来るのではないかと思いました。 それを蓄積してゆきました。 

モナリザの背景には天気が関係しているのではないかと思います。  レオナルド・ダビンチ自体が芸術家でもあり科学者でもありました。  レオナルドの出身地が山間で、朝晩はかなり濃い霧などを見ていたと思われます。 背景を見ると霧などではぼやッとしている。 その効果を使って、遠くにあるものをぼやかして描くことで遠近法といて取り組んだと言われます。 

フェルメールの風景画は二つあります。  その一つがデルフトの眺望」(生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。)という風景画です。 本の表紙にはそれが描かれています。 空の5割が雲で描かれています。 雲の種類は10種類に分かれています。(本当は100種類ぐらいある。) 夏によく出る雲が描かれている。(入道雲とは違う。) この絵は初夏の朝ではないかと思います。 時計台には7時ちょっと過ぎを表している。  高いところから光が来ているので初夏ではないかと思います。 15,16世紀は小氷期の中でも気温の低い時代だったと言われています。  オランダは曇天が多くて晴れの日が少ない。 わざとこの絵に引き込ませるために、あえて故郷が光り輝いているところを描きたかったのかもしれません。 

ターナーの作品は嵐の作品とかが多い。 初期には輪郭のはっきりした作品を描いていた。 

晩年になればなるほど自分の芸術表現として、かなり崩していって、光の研究、大気の研究とかして行って、崩れて行った傾向があります。  嵐を描いたというのはイギリスならではないかと思います。 イギリスは強い低気圧とかがやってくることが多い。  真の姿に迫ろうとして輪郭を崩していって美術表現をしたのではないかと思います。 私も天気予報で伝える時に、最初は数字とかではっきり伝えていましたが、気象を学ぶにつれて、情感を持って伝えることを天気予報でするほうが、もしかしたら伝わり易いのかなあと思ったりします。 臨界?をぼかすような日本語の表現をするような言葉が多くなって来ました。 

印象派は光、季節を描くことを主題としていたので、本当にいろんなことが読み取れます。 モネの「ルーアン大聖堂」の連作では、天気、季節で変わりゆくさまを表現しています。  建造物で季節、天気が判るという事は凄いと思います。  

ゴッホはかなり大胆な画法ですが、「星月夜」などの空には渦巻きが描かれているが、ゴッホが南仏のあたりに移り住んでから、どんどん渦巻きが生まれて行きました。 これは風なのではないかと私は押したいと思います。 ミストラル(季節風)という風が南仏には吹いています。 それを表現して渦巻きを描いたのではないかと思います。 

ムンクも気象が関係していると思います。 背景が吃驚するぐらい赤い。 夕焼けがモチーフにはなっているが、これは大噴火の影響ではないかと言われている。 粉塵が舞いあがってより夕焼けの赤さが増すと言われています。 インドネシアで大噴火が起こって粉塵が世界中に行き渡る。  ムンクもおそらく見ていたと思います。 

北斎はデフォルメの天才と言われますが、「凱風快晴」の季節は秋で、秋を描くために、あの色と雲を持ってきたのではないかと思います。 途切れ途切れになっている雲(鱗雲、いわし雲)がたくさん描いてある。 秋を象徴する雲。 

湿度の高い輪郭のぼやけた風景を描こうとしたときに、水墨画の技法は風景を表現するのには最適だったのではないかと思います。(中国、日本) お薦めの一点は歌舞伎です。  歌舞伎の中に出てくる天気の音に注目して鑑賞を楽しんでいただけたら、より歌舞伎が面白くなるんじゃないかと思います。 雨、雷などのほかに、音のない雪にも音を付けているんです。 雪の音を太鼓で表現しますが、深々と降る雪、吹雪の雪を表現しています。










 



 




2024年11月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶

小林一茶は庶民の暮らしの中の喜びも悲しみも辛いこともすべて俳句に詠み込んでいった人生でした。 

目出度さもちう位也おらが春」     小林一茶

小林一茶は江戸時代の後期の俳人。 松尾芭蕉、与謝野蕪村と並んで、江戸時代を代表する3大俳人の一人とされています。 有名な俳句に

「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」

「名月を取ってくれろと泣く子

「雪とけて村いっぱいの子ども」 などがあります。

松尾芭蕉が江戸の前期で、与謝野蕪村が江戸の中期で、小林一茶が江戸の後期です。 一茶が65歳で亡くなった年に西郷隆盛が生まれている。 一茶が生きた時代には大衆文化が花開いた。 生涯に詠んだ俳句の数は2万句以上あります。 松尾芭蕉は約1千句で、蕪村は約3千句です。 

「めでたさも中くらいなりおらが春」 一茶が57歳の時に1年間の出来事をまとめた「おらが春」という句集がありますが、その一番最初に出てくる句です。 「おらが春」は遺稿で死後25年経ってから刊行された。  春は一般的な春ではなくお正月という事です。  「中くらい」という意味は一般的な中くらいという意味もありますが、一茶の故郷では「中くらい」を「いい加減」という意味があり、説が二つあります。  あまりこだわらず自分にどう響いたかの方がいいと思います。  病院で正月を迎えた時に、中くらいという発想はしみじみいいと思いました。(極端ではない。) 

我と来て遊べや親のない雀」   一茶

一茶も3歳の時に母親が亡くなってしまう。  父親が再婚するが、新しいお母さんと上手くいかなかった。 子供が生まれてから一層ひどくなり、毎日杖で叩かれていた。 外でも親のない子と差別されていた。  家の中にも外にも安心できる場がなかった。 わが身ながらも哀れなりけりとそういう気持ちで詠んだ句ですね。  

笋の、うんぷてんぷの、出所かな」  一茶

たけのこはいろんなところに出てくる。 場所によって立派な竹にもなるし、小さいうちにとって食べられてしまう事もある。  自分で選んで生えたわけではなく運ですね。 人間も同じですね。

 喧嘩すなあひみたがひに渡り鳥」   一茶

やれ打つな蝿が手をすり足をする」  一茶

一茶は蝿にすら哀れを感じている。 手や足をするのは、何処にでもとまれるように、汚れを落としているらしいんですが、一茶はそれを打たないように頼んでいるように見えたわけです。 僕も(頭木)病気したせいで命は大切に感じられるので、蚊も叩けないです。 薬を飲んでいて体の抵抗力は強くないです。 感染症になってしまう事は気になります。 

最晩年に一茶の家が火事で焼けてしまう。 土蔵に住むことになるが、なかは蚤だらけだった。 

「やせのみのふびんやるすになるいおり」?   一茶

自分が留守をすると、その間蚤は血を吸えない。 不憫だと同情して心配している。

「寝返りをするぞそこのけきりぎりす」     一茶

眠りながらも寝返りで虫をつぶさないように、気を付けて心配している。

蝶とぶや此世に望ないやうに」       一茶

普通、ひらひら飛んでいると綺麗だなあとか思うが、一茶は蝶が途方に暮れて飛んでいるように見えてしまう。 蝶に自分を重ね合わせて仕舞う。

「やせ蛙負けるな一茶これにあり」      一茶

語りかけている俳句はめずらしい。  普通俳句は客観的に描写をする。

「古池やかわず飛び込む水の音」    芭蕉

蛙を詠んだ句ではあるが語りかけてはいない。

じつとして馬にかがるる蛙哉」       一茶

大きな馬と小さな蛙が対比されていて、馬がクンクン蛙の臭いを嗅いでいる。 どうなる事やら蛙の方はじっと動けずにいる。  大きなものも→地位が自分より上とか、運命とか。

「散る花やすでにおのれも下り坂」     一茶

48歳の時の句。  当時40歳では初老。  人生もうまくいかなかったなあという感慨も含んでいる。 

「月花や四十九年のむだ歩き」       一茶  

月よ花よと49年間俳句を詠んできたが、無駄な事だった。 当時は人生50年と言われていた。 

「五十年一日も安き日もなく」      一茶

52歳になった詠んだ句。 

一茶は長野県(信濃国柏原)の宿場町で生まれた。 家は農家、長男で跡継ぎになる筈だった。  3歳で母親を亡くして、新し母親に殴られる日々になってしまった。 祖母が優しくしてくれていたが14歳の時に祖母が亡くなる。 15歳の時に江戸に奉公に出されてしまう。 その後の詳細は判らないが、一茶自身が書いたところによると、住む場所にも困って他人の軒下で雨露をしのいだり、苦しい日々を送った様です。 現存する最初の句は25歳の時の句、その後旅をして39歳の時に故郷に戻ります。 父親は病気で亡くなってしまう。 父親は田畑、財産を半分づつに分けるように遺言するが、母親と弟は承知しない。   ここから長い遺産相続の争いが始まる。  決着したのは12年後の51歳の時。 ようやく生まれた家に暮らせるようになる。 

「ふしぎなり生まれた家で今日の月」     一茶

「老が身の値ぶみをさるるけさの春」     一茶

政治が腐敗して幕府が傾いて、わいろが横行してお金がものを言う世の中でした。 人間まで値踏みをするのはおかしい。  社会の方こそ人の役に立たなくてはいけない。    助け合う、迷惑をかけあう、社会はそのためにある。  個人が社会の犠牲になるという事は逆ですね。 

露の世は露の世ながらさりながら」     一茶

一茶は52歳で結婚して54歳で初めての子が生まれるが、生後一か月で亡くなってしまう。  56歳の時に女の子が生まれる。 翌年正月に元気に迎えることが出来て、その時にこういう句を詠みました。 

「這え笑え二つになるぞ今朝からは」    一茶

無事に2歳を迎えられたことに喜びに満ちている。 しかし、その半年後に女の子も亡くなってしまった。 その時に読んだのが、この句です。露の世は露の世ながらさりながら」

露は葉っぱの上に乗る水滴で、儚いもの。  儚い世はわかっていたけれども、人間も儚い存在と判っていたけれども、それでもそれでもあんまりじゃないかと、そういう気持ちだと思います。 その後、次男、三男も生まれるが、みんな亡くなってしまう。 さらに妻迄亡くなってしまう。(37歳)  

「もともとの一人前ぞ雑煮膳」       一茶

一人で新年を迎えて、もともと一人で食べていた雑煮じゃないかと、自分に言い聞かしている。  周りに薦められて再婚するが、上手くいかず3か月で離婚してしまう。  脳卒中で言語障害になる。 それでも俳句は詠む。  64歳の時に再再婚する。 相手には2歳の男の子がいる。 翌年に火事に遭って、家が焼かれ土蔵で暮らすがここで亡くなる。  (1828年11月19日  65歳)   切実な人間の句を詠んでいる。 

生きる時に迷ったりするときに私は思い出します。 おぼろ=ぼんやり、はっきりしない、暗くて道がはっきりしない。  みずなり=水溜まり  人生の道ははっきり見えない。  迷いながらおそろおそろ歩いていても、水溜まりの足をつっこんでしまう。

「おぼろおぼろ踏めばみずなり迷い道」    一茶







2024年11月24日日曜日

秋吉久美子(女優)            ・年を重ねるたび、知らないを知る

 秋吉久美子(女優)            ・年を重ねるたび、知らないを知る

秋吉久美子さんは1954年静岡県出身。 幼少期は徳島県で過ごし、高校を卒業するまでは福島県いわき市で育ちました。 高校3年の時に松竹映画旅の重さ』のヒロイン募集を聞き、親に内緒でオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけとなります。 その後映画「16歳の戦争」に主演、本格的に映画デビューします。 「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」の青春映画3部作は当時の若者たちの心を揺さぶり、しらけ世代の寵児として注目を集めました。 その後数々の映画やドラマで活躍しています。 

今年70歳になりました。 去年からシャンソン歌手になりました。 おっちょこちょいと不器用ですね。 50年前に吉田拓郎さん、泉谷しげるさん等が集結してレコード会社を作ったんですが、私が歌詞を書いたり、高校の時に書いた詩に、当時のロックアーティストたちが曲をつけて下さったりしました。  母を送るという事は自分自身の総括ですね。  ちっちゃいころから総括を繰り返してきたような気がします。  2歳から記憶があります。 2歳の時に妹が生まれて、「今日から一人で寝るのよ。」と母から言われて寂しいなあと思ったんです。  シーツが冷たくて、冷たいなあと思いました。  と同時に気持ちいいなあと思いました。  それが最初の記憶でした。 それから自分自身の確認見たいなことをしてきました。  周りを見るにつけ、何で自分を確認していないんだろうと、自意識ないなあと、自分の生と死も客観視する様に子供のことからしてきた気がします。

父は映画が好きで、土曜日には必ず映画を観て帰ってきていました。 家のテレビでも映画劇場とか観ていました。  本とか、雑誌なども父は好きでした。 私も常にそれを見ているという感じでした。(小学生のころから)  クリスマスに本が贈られてくるてくることが楽しみでした。  或る意味現実世界からの逃避でもありました。  知らないことを知るというのが人生の醍醐味でもありますが、知っていることを表現するという事が女優の仕事かなと思いました。 チャンネルを合わせてゆく、無数のチャンネルを自分が持っていて、自分の中のライブラリー(汎用性の高い複数のプログラムを再利用可能な形でひとまとまりにしたもの  図書館、図書、覧や貸出用 の図書・雑誌・新聞・レコード・CDなどを納めた建物や部屋)ですよね。 女優という仕事は自分の中にある無数のチャンネルを開けてゆくというか、突入してゆく喜びであり、それを伝えるという喜びなんですね。 

本も好きでしたが、徳島県では一人で山歩きをする子供でもありました。 いわき市時代も川で一人で真っ暗になるまで遊んでいました。  山の中の洞窟で化石堀もしました。 岩の壁に向かって金づちとドライバーでやってゆくと、急に岩がパリンと割れて貝が出てきたりします。 何千年前の未知との遭遇ですね。(中学生の頃)  山の中で蛇に出会ったりすると怖さという喜びですね。 怖いという感覚が喜びに変わるんです。 或る時どぶ川でドブネズミと正面から見合いましたが可愛いんです。 大概の動物は正面から見ると可愛いという事に気が付きました。  いろんなことを見て知りました。 本も30ページを過ぎたあたりから折あってゆくと段々喜びに変わってきたりします。  人間も同じですね。  

好奇心の入口を勉強と言うならば、勉強好きですが、改めて勉強だとは思わないですね。  53歳の時に早稲田大学大学院公共経営研究科に入学しました。 公共=政治ですね。   興味があったのは哲学、倫理学、文化人類学でしたが、安保、ベトナム戦争などが有ったり、映画なども問題意識の高い映画が青春映画として公開されていましたが、その時代のいろいろある中で答えを見いだせないまま私自身は横に置いといてという感じの中で、人生の目的を絞れなかったんです。  正義感があればあるほど、人生というものは不平等になってゆくという、正義感がある若者ほど人生のなかで危険な道を歩くかなければいけないんじゃないか、というのを先輩たちの行動を見て感じて、もういいや正義なんてダサいみたいな、自分はヒッピー的なノンポリというか、そんな感じで、ドロップアウトする方向が正しいんじゃないかと、思っていたところがあり、人生に目的を見いだせなかった。  これこそは正義だという事はあったけれども、イコール危険と結びつきやすいという答をだしてしまったので、それを横に置いたまま生きてきてしまった。 

公共経営研究科という入口が開かれた時に、改めてこれを勉強するというのは、神のはからいというか、それはいいんじゃないかと思いました。 2年間学び、そこにエクスタシーを感じてしまうと、もう芸能界に戻ってこれなくなるんですね。 一日が40時間あればという感じです。 今、哲学の教室にも入っています。 英語で読む旧約聖書の会にも入っています。 詩吟もやっていて、映画を観て語る会にも入っていて、予習復習をやっていられない。「推し」の人がいて、京大では経済学、東大では東洋文化史、その先生が歴史、哲学、文化人類学をやっていて凄く面白い方で、今ついていきたい「推し」です。 脱皮の繰り返しというか、鮮やかな生き方で、ユーチューブ、著書なども見なければいけない。  歌舞伎も好きになって中村獅童さんのファンになっています。 江戸時代の庶民、ドフトエフスキーの庶民から庶民観にも興味が湧いてきました。  歌舞伎の世界から教えられることが凄くあるなと思いました。 

長生きするつもりはなくて、終わりがあるから充実するという人生があるわけですよね。  歳を取って一番いけないことは視野を狭めてゆく事じゃないかと思います。  体力がある限り視野を広めてゆく事が大事だと思います。  例えば、詩吟であれば、椅子に座りながら詩吟を吟じて、李白杜甫とも出会えるわけですよ。 中国の歴史の深さ、文化の深さが凄いと椅子に座りながら味わえるわけです。 哲学ではソクラテスと出会うのも可能だし、旧約聖書を読む会では何千年もの前の人の考え方にも出会える。 道徳心、宗教心が無いとソドムとゴモラをやってしまうんだなあと思います。  なんだってありだというような今の時代は、何千年も前の時代のソドムとゴモラの世界と一緒だななあという風に思います。 歳をとってゆく事はますます視野は広がりますよね。  若いときには正義感が邪魔をしてしまって、腹を立てるばかりじゃないですか。  歳をとって見聞を広げて、円熟の中で感じてゆくのが年齢じゃないでしょうか。
















2024年11月23日土曜日

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕 

高橋さんは1944年千葉県生まれ。 出版社勤務を経て作家活動に入りました。 40代の終わりに直木賞作家車谷長吉さんと結婚、ほどなく神経症を発病した車谷さんと向き合う日々を描いた詩集で1997年読売文学賞を受賞しました。 車谷さんは異色の私小説作家として知られ、苦労が多かったものの穏やかな時間も過ごすなかで、2015年車谷さんは急逝、9年が経ちました。 最新作の「この世の道づれ」には、夫婦で過ごした時間を改めて振り返る随筆と共に、高橋さんの詩作のモチーフの一つとなってきた、海や水についてのエッセーが収録されています。 作家同士の結婚の日々はどのようなものだったのでしょうか。 テーマとしてきた海や水の詩の背景には、想像を絶する過酷な体験や心の動きがありました。 その作品世界の原点についてもお話を伺いました。

車谷長吉は2015年、69歳で急死しました。  ショックで私は何を聞かれても、「申し上げることは何もありません。」と答えていました。  遺稿集を出したりしているうちに、言いたいことが沢山溜まってきて、「夫・車谷長吉」という書き下ろしの本をだしました。   そこに書ききれなかったことや、日常の暮らしぶりを描いたのが最新作の「この世の道づれ」です。 車谷の変人ぶりを面白がってもらえる本になったのではないかと思います。 彼の私小説は事実だけではなくて。嘘の部分も取り入れて作品を仕上げていました。 実名で出したりして、名誉棄損で訴えられたりしたこともあります。

夫は結婚後2年で脅迫神経症になりました。 幻覚幻聴に悩まされ、生活がめちゃめちゃになりました。  最初の5年はきつかったんですが、後の10年ぐらいは穏やかで、大きい旅行などした日々がありました。  私は幼いころから世間的にいい人であるように躾けられてきました。  余り嫌ですと言えなかった。 でも最近は厭な人のお別れ会などには欠席してしまいます。 毎朝慰霊に向かってお経をあげてお線香を上げています。 そしてお喋りします。 まだ二人で暮らしている気持ちなんです。 この人の文学を検証するという事が、今私の生きる励みになっています。 来年4月に姫路文学館で車谷長吉没後10年で、展覧会あがあります。  全集も後一巻で完結します。 その日までに出してあげたいと思っています。 夫のことは運命だったとしか言いようがないですね。 

テーマの一つが海や水です。 私の実家は海から100mぐらいのところにあります。(九十九里浜の海辺の町)  海辺で「どうろくじんさま」と歌いながら泥の船を作っていました。  或る時大人になって道祖神様という事と判りました。 海と陸の境目に出現するんです。 「どうろくじんさま」って素敵だと思いました。 海から悪いものが入ってこないようにというもののようですが。  泥の船を海に向かって舳先を作るんです。 波が来た時に船が海に向かって走ってゆくように見えるんです。 泥の船を作るのが好きでした。  作文は苦手でした。 

九十九里浜には津波は来ないと言っていましたが、津波が来て私の実家は半壊しました。 津波を見に行った人が犠牲になりました。(16人)  一階の柱の上の方に黒いシミが付きましたが、そのことを詩に書いています。

「海へ」という詩集の中から「海の言葉」

「壁の上のほうに真っ直ぐな
黒い線が残っていて それは
波が来た跡だと弟が言う
部屋の中に黒い吃水線を
海は引いていった
弟の家族は黒い線の下のほうに布団を敷いて寝る
彼らが寝ている間
海は寝ないで海の音楽を
くり返している
くり返している
あ 風が出てきた
あ 楽器が壊れた すると
弟たちは寝汗をかく
海は魚や昆布をふとらせ
貝がらを舌でなめ
月のように光らせる やさしいこともするが
時折陸地をのぞきに行く
やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと
おやすみ おやすみ
ずっとおやすみと
海は陸のいきものに言いふらし 言いふらし
もんどり打って帰ってくる
海の引く線は
透明であるべきだと
海は考える
しかし海は黒い線を引く」

海は好きだとか、良いなとか言いますが、海は人間とは別な言葉をしゃべるわけで、海の非情さ、を私たちは津波でもって知らされたわけです。 牙をむく時もあるという事です。   

「日常」

「おはようございます こんにちわ  頂きます  ごちそうさま  ありがとう     おやすみなさい  これらは日常の言葉である   この国に大地震と大津波が来て        放射能が降って  日常が揺らいできたから  日常をはっきり声にすることで              揺らぎを抑えようとする  抑えられる」

日常を回復していかなけらばならない、そう思って書いた詩です。 何もかも揺らいでどこに掴まればいいかという時、言葉に捕まればいいと思いました。 挨拶をすると落ち着く。 日常が引き寄せられると思いました。  命を救おうと文学賞を作りました。 全国から詩、短歌、俳句、エッセーなどを公募しました。 弟は防災士になりました。 文集も作りました。(5冊) 

私は大学ではフランス文学を専攻しましたが、友人が萩原朔太郎の「月に吠える」を読みなさいと薦めてくれました。 日本語の美しさを感じました。 卒業後出版社に就職しました。  会社が倒産して、怖いものがなくなったような、開き直った感じがしました。   次の出版社に行きました。(青土社)  詩集の編集なをし、詩を学んでいきました。 非現実を入れなければいけないんだなという事を学びました。 非現実を入れた方が強い詩になる。 詩集を自費出版で出しました。 会社を41歳で辞めました。 自費出版の詩集をつくる会社を興しました。 口コミで次々仕事が来るようになりました。 

詩は何となく降って来ます。(他力)  言葉が好きなのでなんか書いています。 生きる励みになっています。  俳句を作り始めて、俳句をやる様になると詩は駄目になるのではないかと思いましたが、俳句を作っていても詩が書きたくなってきます。 海を自分と同一化している時期がありました。  「私は海の一部だから」という詩も書いたことがあります。  80歳になりますが、目標が出来て、88歳までに四国お遍路88か所の札所を全部廻ろうと決意しました。 夫と廻ったのが2007年です。  









2024年11月22日金曜日

小森邦衞(「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 後編

小森邦衞(石川県立輪島漆芸技術研修所 所長「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 後編 

小森さんは昭和20年輪島市生まれ。(79歳)  中学を卒業後、家具職人を経て漆芸の技術である沈金の職人に弟子入りします。 23歳の時に輪島市に出来た漆芸技術研究所の沈金科に2期生として入学しました。  在学中に沈金職人として独立しましたが、再度研究所の髹漆(きゅうしつ)科に入って漆塗りなどを学び、作品を作り続けます。  小森さんの作品は40代になってから展示会で入賞するようになり、2006年61歳で人間国宝に認定されました。 美しい漆芸作品を追求しながら小森さんは研修所の所長を2020年から務めています。 その研修所は今年1月の能登半島地震で建物が損壊して、授業が出来ない状態になりました。 卒業予定の生徒は輪島市を離れて卒業制作を仕上げ、5月に卒業式が行われました。  10月になってようやく在校生の授業が再開し、来月12月には8か月遅れで新入生の入学式が行われる予定です。 災害を乗り越え漆芸の技術伝承に取り組み象徴としても小森さんの思いをお聞きしました。

研修所はおよそ9400平方メートルあります。 敷地内には大きな木が沢山植えられています。 1月の地震の影響で、研修所のトイレは建物の外の仮設トイレが使われていて、敷地内のアスファルトは地割れしているところもあります。 職員の人の中には、地震の後に起こった火事で家が全焼してしまって、仮設住宅で生活している方もいます。 生徒も家が全壊、半壊だったりして家に住めなくなってしまった人もいます。 研修所の建物も損壊して立ち入りが出来なくなってしまいました。 

石川県立輪島漆芸技術研修所のほかに石川県輪島漆芸技美術館の館長もやっていました。 

又重要無形文化財輪島塗技術保存会の会長もやっていました。 2日には家内の実家を見て回ってから美術館に行きました。 研修所は1月4日が仕事始めでしたが、外から順番に見て回り、どうしたらいいか打ち合わせをしました。 1月はほとんど毎日来ました。 1月9日に職員から今年は授業の再開は無理ですと言われました。 研修生の卒業生が17名いました。 作品を仕上げて卒業させてあげたいと思いました。 市外の各大学にお願いして卒業生、先生方も送りこんで、製作を仕上げてもらうという相談を持ち掛けました。 各大学に教室を一部屋空けてもらって対応することになりましたが、お金がありませんでした。   銀行に行って義援金の口座を作りましたが、法律的に使う事には制限があり駄目でした。  見舞金として口座を作ってそこに振り込んでもらえれば、すぐ使えるという事を教えてもらいました。  生徒にかかる費用を賄う事が出来ました。  5月7日に卒業式が出来ました。  17名中15名が卒業出来ました。  2名は輪島に住むことも出来ないようなことで理解しました。 

卒業式では「芸は人なり。」、「漆人となって羽ばたいて欲しい。」という言葉を送りました。  ものを作るということはその人柄が出てきます。 という事で「芸は人なり。」  そして漆芸家となって生きていただきたいと思いました。 在校生は10月半ばからスタートしました。 寄付金を元に5年後に本宿舎が出来ることになりました。 卒業生の作品が3点ここに飾られています。  蒔絵の技法で作られた硯箱(紅葉が細かく金粉で描かれている。)、沈金という技法で作られた箱(金でフクロウが黒い漆のなかに浮かび上がっているようなもの)、黒一色の漆で作られた3段重ねの重箱です。 

研修所では輪島塗だけではなく、日本全国の漆に関する事が学べる場所です。 日本全国、海外からも研修生が来ます。 イタリアからも来ています。  人間国宝の先生方が日本各地から教えに来ていただけます。  研修所にはちょうどコロナが始まった時に、私は就任しました。 3年間は生徒さんを集めるのにも苦労しました。  卒業して作品の成長具合を頑張っているなあとみると嬉しいですね。  生徒からの刺激を受けることもあります。 デザインですね。  自由な発想をします。 環境はしっかり整えてあげないといけないと思います。  9月には豪雨もありましたが、めげないで頑張らなければいけないと思います。 地震があって思ったのは、能登の人は辛抱強いと思いました。  皆さんからいろいろなご支援を頂いていますし、研修所をしっかり立て直してその方たちの恩返しをしたいと思います。 









2024年11月21日木曜日

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さんは群馬県出身。  小学生から高校まで童謡歌手として活躍、1969年に「夜明けのスキャット」でデビュー、今年歌手生活55年を迎えます。 1980年代からは姉の歌手安田祥子さんと童謡コンサートも開催、人気を集めています。 

*「人生は素晴らしい」 作詞:mildsalt 作曲:岩崎 貴文  歌:由紀さおり

歌手生活55年に記念曲  別れを沢山経験しなければいけない世代に突入したけれど、出会って素敵な時間を共有させていただいたことに「ありがとう」と言う気持ちで歌えばこの歌はきちんと成立するなと思って、お客様に気付かされたこともあります。 それを感じてからは素直に「ありがとう」という気持ちで歌っています。

55年の記念コンサートのタイトルが「新しい私」。  母が長唄をやっていて三味線があったのを思い出し、本條 秀太郎先生(日本民謡端唄俚奏楽・現代曲三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家)のところに習いに行きました。  自分の生き方に対しても謙虚でありたい、お客様に対しても謙虚でありたいというところから学びが欲しいと思いました。 三味線から能楽堂に繋がって、東京公演は実現しましたが、コロナになってしまって大阪、名古屋では辞めてしまいました。 弾き唄いを習得したいと思いました。 51,2年目から赤坂のライブでジャズメンと一緒に、着物を着てジャズも歌って、三味線も弾くという「新しい私」を披露しようとしましたが、最初の1年目は惨憺たるものでした。  続けて55年目でも新歌舞伎座からスタートすることになりました。 パリでも歌う事になり、フランス語で都都逸もやるという事になりました。 フランス語の勉強に3か月ぐらい通いました。 「夜明けのスキャット」などのほかに新しいものの取り合わせが欲しいと思ったんです。  

1946年群馬県桐生市に生まれました。 歌手になったきっかけは姉です。 横浜に移り住んで、姉が小学校の講堂で合唱団で習っていて、それをみて姉と共にお稽古するようになりました。 小学校1年生の時にコロンビアレコードのオーディションに受かって、レコーディングをしました。  1969年に由紀さおりとして、「夜明けのスキャット」でデビューしました。 その後姉と一緒に歌ったりしました。 ソロで歌う時と全然違います。  皆さん方にご支持を頂いたことが、一番大きな原動力になりました。(二人で歌う事は38年続けてこられた。)  

30代の後半に激痛が走って病院に駆け込んだら、子宮筋腫でしたが直ぐには手術が出来なくて、5年ぐらい悪化させてしまいました。  手術に耐えられる身体を作ってから摘出手術をしました。  今年の7月にもベッドから落ちて鎖骨を骨折してしまいました。   今もコルセットをしています。 仕事をしながら直すという事が当たり前になっています。 声の方は40周年あたりからお酒も控えるようになりました。  ここ4,5年は週に一回耳鼻科に行ってメンテナンスしています。 喉を乾燥させないようにしています。 私は鼻から喉の下までタオルをして寝ています。  

「はじめの一歩日々生き切る」 ブログのタイトル。 日々一秒もおろそかにしない生き方、を自分に課しています。  80歳になったら、姉と一緒にカーネギーホールをやりましょうと言っています。  カーネギーホールではすでに2回歌っています。 目標設定することにより、身体のメンテナンスも気お付けますし、自分の生きる力にもなります。   墓のこと、遺言とか、母が私の為に作ってくれた安田音楽事務所という会社を母が旅立つ時に、譲り受けました。  そのあたりを考え始めています。 

〔わたし終いの極意〕とは、「夢にチャレンジし続ける。」、です。