2024年4月30日火曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延 

幸田延は明治3年(1870年)生まれ。 日本で初めてクラシック音楽を学ぶために海外留学を果たし、ピアノ、ヴァオリン、声楽、作曲をも身に付け、帰国後は多くの音楽家を育てました。 いわば日本のクラシック音楽の世界の草分けと言うべき存在です。 お話は音楽評論家の萩谷由喜子さんです。 萩谷さんは日本におけるクラシック音楽の歴史、特に女性の音楽史を研究しています。 2023年延の伝記として「幸田延」を出版しました。

幸田延は明治時代の音楽のスーパースターになりました。  若い時に今の芸大(文部省音楽取調掛)の音楽教授にもなりました。

幸田延は明治3年(1870年)東京生まれ。 幸田家は江戸城の表坊主(お茶坊主)と言う役をしていました。  お茶の接待もありますが、登城してきた大名たちに対して、将軍、老中に面会するときに、しきたり、作法を教えます。(大名たちへのマネーの先生)  明治維新で大蔵省の下っ端の役人になる。 先が見えない中いい教育をさせようと、兄弟姉妹(6人兄弟)にいい教育をさせました。 兄が3人で4番目が延です。 長男は実業家、次男は海軍の偉い軍人、3男が幸田露伴。 まず長唄を習う。 1876年(明治9年)に東京女子師範学校附属小学校(現:お茶の水女子大学付属小学校)に延を入学させる。 

明治政府が招聘したアメリカ合衆国の音楽研究者、ルーサー・ホワイティング・メーソン1880年(明治13年)に来日し、文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校、現:東京芸術大学)に雇用された。 延が通っている東京女子師範学校附属小学校にも来てくれた。   延の才能を見出したメーソンは延にスクエアーピアノを習わせる。 卒業後研究課程(今でいう大学院)に進むとともに助手の先生となる。(14歳)  給料ももらえたので、文学志望の兄露伴に小遣いをあたえていて、二人は仲が良かった。  文部省音楽取調掛は東京音楽学校に格上げされて、優秀なものをヨーロッパに派遣して本場の音楽を学んできて、成果を学校に広めていくという事で延が選ばれた。(音楽留学生第一号) 

ボストンで1年間勉強してメーソンとも会っている。 その後ヨーロッパに行く。 留学先に入学するためには実技はしかり、語学(ドイツ語)もやらなければいけなくて大変だった。 合格して、ピアノ、ヴァオリン、学理、声楽、作曲などいろいろ学ぶ。 一番大変だったのは音楽史だったようです。 ウイーンで5年学んで、いろいろ習ったものが、卒業する時には全部「1」のランクの成績を取りました。 

日本に帰国する事になり(25歳)、直ぐに教授として迎えられた。 翌年帰朝音楽会が行われた。 メンデルのヴァイオリン協奏曲を独奏、ブラームスの歌曲をドイツ語で2曲歌う、弦楽四重奏のリーダーとして第一ヴァイオリンを担当してハイドンの弦楽四重奏曲を演奏、ゲストで来ていたクラリネット奏者の方のピアノ伴奏を引き受ける、バッハのフーガを弦楽合奏用に編曲して生徒たちに弾かせています。  一回の音楽会で一人で全てやっているわけです。 作曲はウイーン時代にヴァイオリンソナタを2曲作曲しました。 日本人が書いた初めてのソナタです。 

*ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第二番ニ短調 作曲:幸田延

生徒には瀧廉太郎三浦環などがいた。 森鴎外とも親交があった。 当時の新聞が最初音楽学校批判が出始めて、段々延に対する個人攻撃となってゆく。(実力があり過ぎる事に対する妬みなど) 延を東京音楽学校から引きずり下ろす何かに力が働いた様です。 依願休職をして、直ぐにヨーロッパに私費で旅立ちました。 目的は三つあって①ヨーロッパの第一線の音楽家たちの演奏会を沢山聞いて、啓示を得たい。 ②自分の音楽力をアップしたい。 ③最新の音楽教育現場の様子を視察する。 

帰国後、音楽界に復帰は無理だと自覚していたので、一般の家庭への音楽の普及という事を始める。 ピアノの稽古場を始める。 露伴が「審声会」と言う名をつけてくれる。

4手のための連弾小曲  作曲:幸田延  (教育用)

関東大震災、戦争など体験したのち、1946年姪や親族、2人の弟子に看取られながら心臓病で死去、76歳没。  お経の代わりにバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番の前奏曲が好きなので、これを弾いて欲しいと弟子たちに言い残したそうです。













2024年4月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

平安時代の中期の女性で「枕草子」として有名です。 NHK大河ドラマ「光の君へ」の登場人物の一人でもあります。

「春はあけぼの ようよう広くなりゆく山際 すこしあかりて 紫立ちたる雲の 細くたなびきたる」   清少納言

「枕草子」は世界最古のエッセー文学とも言われています。 鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並んで日本の3大随筆の一つとも言われています。 清少納言はいつ生まれて何時亡くなったのかははっきりしていない。 一説では1025年に亡くなったという事で、来年が没後1000年になります。 清少納言は一条天皇の后の藤原定子に仕えていた女房(宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のこと)です。 

当時は自分の周りに気の利いた女性、女房たちを集めてサロン文化を形成していた。 清少納言は定子のサロンで大活躍をしていた。 枕草子で清少納言をイメージしているが、実際はそうとは限らない。 枕草子を書いた時期は定子が没落していて、かなりつらい状況だったようです。 山本淳子先生の書いた「枕草子のたくらみ」には定子や清少納言が実際にはどういう状況だったのかという事が書かれていて衝撃的でした。 

当時、藤原氏が政治の実権を握っていた。 トップに立っていたのが藤原道隆で自分の娘の定子を一条天皇の后にします。 その子供が次の天皇になれば自分は天皇の祖父になれる。一条天皇と定子はとても仲が良かった。 定子のサロンに参加したのが清少納言だった。 1年半後に藤原道隆が43歳で亡くなってしまう。  藤原道隆の息子と藤原道長(藤原道隆の弟)とのし烈な権力争いが始まります。 定子の兄や弟が負けて地方に流罪となる。 藤原道長が勝利する。  定子は出家してしまう。 家も火事で焼けてしまう。 母親の貴子も亡くなってしまう。 清少納言は道長の側に内通したと疑われた。 清少納言は仕方なく実家の戻って籠もってしまう。 「枕草子」はどうもこの時期に書き始められたようだ。清少納言はきらきら輝いた時期のことを描いた。 明るい言葉の裏に隠された絶望を読み解く。

「宮に初めて参りたるところ ものの恥かしきことも数知らず 涙も落ちるべければ 夜夜まゐりて 三尺の御几帳(みきちょう)の後に侍ふに、絵など取り出で見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。 「これは、とあり、かかり。それかかれか」などののたまわす。」     清少納言

これは清少納言が始めて定子のところに出仕した時の一節。  定子に初めてお仕えしたころ、恥かしい事ばかりで涙がでそうなので、定子のところには夜に行って三尺の御几帳(みきちょう)(部屋の間仕切りの為目隠しに使うもので布を垂らしてあってその後ろに隠れることができる。)の後ろに隠れて、定子が絵などを見せてくれる。 私は手を出すことも出来なくて、どうしたらいいかわからない。 定子は色々説明してくれる、と言う様な内容。 

清少納言の自慢話は自分自身を褒めているわけではなくて、は実は定子をほめている。 最初の出仕のころは定子が17歳ぐらい、清少納言は28歳ぐらいと言われている。 定子は漢文にもたけていて教養があった。 漢文の知識も隠さなくてもいい自由なサロンだった。 

「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思うに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙陸奥など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる」      清少納言

紙について清少納言が他の女房達の前で話しているところ。 世の中に腹が立って生きていることが厭になって、どこかに行ってしまいたくなるような時でも、ただ真っ白で綺麗な紙が手に入ったら、すっかり気分が良くなって、もっと生きていていいかなと言う風にも思える、と言うような内容。

当時はいい紙が貴重だった。 実家にこもっていたころに定子から沢山の紙が送られてくる。 

「ねぶたしと思ひて臥したるに 蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」   清少納言

眠くて横になったのにせっかく眠くて横になったのに、蚊がやって来て「ぶーん」と羽音をさせて顔の当たりを飛び回る。 小さな体の癖にちゃんと羽風まで感じられるのはひどく憎らしい、と言う内容。

憎きものとして蚊だけではなくていろいろ書かれている。 そのほかに美しきものとか、すさまじきものとかいろんなものがあって、楽しいですね。

「三条の宮におわします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉など参らせなどす。若き人々、御厘殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉ら給ふ」  清少納言

「枕草子」に描かれる定子の最後の姿です。 5月5日の節句 この年の12月16日に24歳の若さで亡くなる。 ここでは菖蒲とかくす玉が出てくるが、皇后だからこそ送られるものだそうです。  最後まで后らしく輝いていたことだけを清少納言は書いている。 定子の死を直接は書かない。 

一条天皇は出家した定子を回りの反対を押し切って呼び戻し、皇女の次の皇子が生まれる。 次の天皇になってしまう恐れがあるので、道長は自分の娘の彰子を一条天皇の后にする。(后が二人という異例の事態) その年の暮れに二人目の皇女の出産直後に亡くなる。 その後彰子が皇子を出産して、後一条天皇になる。   清少納言は没落してゆく定子のそばにずっといたわけです。 道長にとって敵対している定子を賛美している「枕草子」がどうして許されたのか、不思議なところです。 定子が亡くなると道長は怨霊におびえるようになった。 「枕草子」は道長や貴族を責め立てたりはしなかった。 定子の生き生きとした姿を描いているだけです。 

「ただ過ぎに過ぐるもの 帆をかけたる舟。 人の齢(よわい) 春、夏、秋、冬」 清少納言

ただ過ぎてゆくものは帆を掛けた船であり、年齢であり、春、夏、秋、冬という四季の移り変わりである、と言う内容。

没落していった無常観みたいなものが込められている。   定子が亡くなった後の清少納言のことはよくわかっていないようです。  清少納言が去ってから5年後に彰子の元に来たのが紫式部です。 紫式部は清少納言のことを辛辣に書いている。(得意がっている、利口ぶっていると。) 

源氏物語は「哀れ」の本、枕草子は「おかし」の本と言われるが、「哀れ」を記載する部分も後半にある。

「日は入日(いりひ)」 入り果てぬる山の端(は)に 光なほとまりて赤う見ゆるに、薄(うす)黄(き)ばみたる雲の、たなびきわたる、いとあはれなり。」  清少納言

(全体に聞き取りにくく疲れた。)




 
















2024年4月28日日曜日

木下牧子(作曲家)           ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ

木下牧子(作曲家)       ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ 

木下牧子さんは東京出身。 東京芸術大学作曲家を卒業、同大学院修了、20代は管弦楽を多く作曲し、日本音楽コンクール管弦楽作曲部門や日本交響楽振興財団作曲賞に入選、30代は合唱曲を中心に作曲し、親しみやすいアカペラから管弦楽伴奏の大作「邪宗門秘曲」や「たいようオルガン」など幅広い作品を発表してきました。 2003年にはオペラ「不思議の国のアリス」を手掛け、初演で三菱UFJ信託音楽賞奨励賞を受賞しました。 NHK学校音楽コンクール課題曲や歌曲集、管弦楽曲、ピアノ曲など多岐に渡った作品で活躍しています。 来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。 久々にオペラ作品に取り組む木下さんにお話を伺います。 

まだ半分に行っていませんが、4時半から5時に起きて、コツコツ書き続けています。 5歳からピアノを始めました。  東京都立芸術高等学校に行く頃はピアニストになりたいと思っていました。 新しい楽曲を弾くのは好きでした。  高校ではピアノ科が多くて、みんな上手くて、ピアノだけでは自分の存在をはっきりアピールするにはそれだけでは足りないと思いました。(高校1年)  東京芸術大学作曲家に進んでよかったと思います。 文化祭でもオーケストラの作品を書いていました。  管弦楽曲が好きでした。 同大学院修了後に深いスランプに陥りました、  そのころたまたま合唱曲の委嘱を頂き、自信を回復することが出来ました。 最初に「箱舟」と言う合唱曲を書いて、会場が湧き、それが救いになりました。 

混声合唱曲集「夢みたものは」  作曲:木下牧子

オーケストラと混声合唱のブレンドが最高の音色ではないかと思っています。 ソロにも興味を持って作りましたが、ソロ、アンサンブル、オーケストラが一体化したのがオペラなので、高橋英郎先生からオペラを書きませんかと言われました。 それが「不思議の国のアリス」です。(二幕2時間弱) 「大人から子供まで楽しめる日本語オペラ」という事をしつこく言われました。 2年後に改訂版を出しました。 46回ぐらいやっています。

来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。(二幕) 前半と後半では話が違います。 安部清明と源博雅という二人の男性が主役。 

歌曲集「三好達治の詩による2つの歌」 作曲:木下牧子

「陰陽師」は20年前ぐらいにブームになった時にオペラ化したいという思いがあって温めていました。 オペラを書いて欲しいという事で題材も台本もお任せしますという事でした。 126人オーディションに来て頂きました。 これから日本のオペラが発展してゆくんだなと希望を持ちました。   来年1月31日、2月1日、2日にやります。 生きることのすばらしさ、優しさを訴えたいと思います。

ピアノ連弾曲集「迷宮のピアノ」から 「ローラ・ビーチ」 作曲:木下牧子













2024年4月27日土曜日

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕 

小林稔侍さんは1941年和歌山県生まれ。 東映の第10期ニューフェースを経て、アクション映画や任侠映画に数多く出演し、その後深作欣二監督らに見いだされて頭角を現しました。 1986年にはNHKの連続テレビ小説「はね駒」で主人公の父親役を好演、2000年には「ぽっぽや」で日本アカデミー賞最優秀助演賞を受賞しました。 近年は山田洋二監督作品の常連として知られています。 小林稔侍さんの自在で味わい深い役柄はどのようにして生まれるのでしょうか、大切にしてきたのは何なんでしょうか。  放送ではほとんど語ってこなかったとおっしゃる素顔についてお話を伺いました。 

僕たちはラジオで育っているので切り離せません。 僕は夜型です。 小学校から寝不足しています。 コロナで感染しないように引きこもっていました。 3,4回しか京都、大阪などには出ませんでした。 諸先輩などいろいろ見てきて、人には感謝、そのことはつくづく思いました。 昭和36年に東京に出てきて東映に俳優の卵として入りました。 保証人が必要で、父親の親友で東大を金時計で卒業した人が居るという事で、上京した挨拶もそこそこに出た言葉が「出世しようと思ったら可愛がれらなければ駄目だぞ。」と言われました。 胡麻すらなければいけないのかと思いました。 芸能界にいて判って来たことは、コツコツうつむいてやっていると、必ず監督さん、プロデューサーの方、諸先輩でも声を掛けてくれるんです。 その人に対して狭い料簡の解釈をしてしまって、申し訳ないと思いました。 

切られ役かと一般の人は思うかもしれないが、切られ役が良くないと、主役が良く見えないんですよね。  撃たれて車から落ちる場面があるんですが、下がコンクリートで時速10kmで落ちてくわけですが、迫力がないので時速20kmでやって欲しいと言ったんです。 プロデューサーの方が来て 「君にそういうことをさせて済まなかった。」というんです。(一応ニューフェースで入ったので)  それからその方がずっと面倒を見てくれるようになりました。 可愛がられる事とはそういう事だと気が付きました。 

雪駄を履いて、田んぼとか砂利道を走るシーンがあるんですが、普通なら田んぼで雪駄が外れてしまうんですが、針金で足に縛り付けて走ったんです。 一緒に逃げるメンバーとは離れてしまって、その場面をみんなと一緒には撮れないんです。 チーフが怒って来るんですが僕はそういった事には平易なんです。 深作欣二監督が気に入ってくれました。 そういったことでコツコツやって来ました。 目の前のことを気持ちよく一生懸命にやるしかないんです。 

10歳違いの兄がいて、勉強も出来るし孝行息子でした。 僕は川に行って釣りをしたり一人で行動するタイプでした。 父も母も愛情いっぱいに育ててくれました。 小児喘息も酷かったです。 終戦直後で1本が2万4000円ぐらいの薬です。 苦労して購入して、そのお陰で助かったようなものです。 身体が弱かったので小学校で1年、高校で1年休学して、2年遅れて卒業しているんです。 

「しだし」役(歩く役)が180人ぐらいいるわけで、俳優になりたくて「しだし」役をやらされているわけです。 映るか映らないか判らないけれども化粧をするわけです。   小学校低学年から映画は観ていました。  友達が国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入るという事で、そこには綺麗な女の子もはいってくるというんで、自分もそこに行こうと思って一生懸命勉強してはいることが出来ました。 高校卒業後、何かして親孝行したいと思いました。 新聞に東映のニューフェース募集の広告が出ていて、東京に行きたいと思いました。  書類選考に受かりました。 入社式に行くために早朝3時ごろに駅に行ったんですが、父親が見送りに来てくれていました。 ホームシックには1週間程度と言われていましたが、僕は1か月駄目でした。  毎日枕が涙で濡れていました。 

最初の芝居が一人づつ前に行って泣くんです。 僕だけ最高に泣いたんです。 大川社長から「君は今年高校卒業だがどうして大学はいけないのかね。」と言われて、「大学は来年でも受けられます。 最終審査に残れて夢のようです。」と言ったら、「ウン」と言ってそれっきりで出されてしまって、駄目なんだなあと思いました。 そうしたら合格しているわけです。 純粋にそう思っていたから、それが受け入れられたのかなあと思いました。   その後のことでも、欲張らず純粋に自然にやることがいい事なのかなあと思っています。  それは両親、兄、周りの方からの愛情だと思います。 僕は愛情いっぱいに育てられたんです。  兄は、大卒が1万6000円ぐらいのころ、1万8000円のテープレコーダーを買ってくれたり、カメラも買ってくれて、仕送りも1万円づつ仕送りをしてくれました。 

僕は俳優の仕事は嫌いだと思ったことはないですね。 例え厭な監督の前でも、衣装を着ている時には厭にはならないね。  僕にはターニングポイントは無くて、ずっと同じで一点張りです。 いい人たちばっかりに出会ってこられたなあと、感謝これしかないですね。  高倉さんもそうでしたが、楽しくて、お人が良くて、実にきっちりしていて。  今後についてという事ですが、今まで通りでいいです。 なすがまま、人様が拾ってくれるままだと思います。 本当に感謝しかないですね。






















 







2024年4月26日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉

柳田邦男(ノンフィクション作家)  ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉 

柳田邦男さんは災害や事故、病気や医療、障害と福祉などについても取材と執筆を半世紀以上続ける一方で、もうひとつのワイフワークとして絵本を楽しみ、翻訳を手掛け、絵本が持つ力、魅力についての語り部としても活動を続けています。 2008年には東京荒川区が柳田邦男絵本大賞を創設、絵本を読んだ感想文を柳田さんにお便りするというスタイルで行われていて、今年で16回目となりました。 柳田邦男さんのNHKハートフォーラム絵本がひらく共生社会への扉の講演をお聞きいただきます。

「ピアノはっぴょうかい」 みやこしあきこ 

「今日はモモちゃんの初めてのピアノ発表会です。・・・いつものように弾けばいいからね。  先生がにっこり笑って言いました。 ・・・大丈夫、大丈夫。 ・・・モモちゃんが足元を見たら子ネズミでした。・・・大丈夫モモちゃんの番までまだ時間があるから。・・・子ネズミについてゆくと舞台袖の奥に小さなドアがありました。 ・・・モモちゃんはドアをくぐりました。 ・・・ 」(冒頭部分)

絵本の普及活動を始めて30年近くになります。 NHKの障害福祉賞というものがありまして、その選考を30年以上やってきています。 障害や、障害者問題と絵本の発表といつもも重なり合ったんです。 絵本は幼児期の本だという風に先入観で捉えられてしまっている。 描いている絵本の世界は深いんです。 絵本は人が生きる上で大切な事、人間関係で大切な事、それが全て絵本に書かれている。 障害と障害者の理解を深めるうえで絵本はとてもいいヒントを与えてくれる。 こういう活動からお話をしてみたいと思います。

東京の荒川区で大きなイベントを16年やって来ました。 絵本を読んでどういうところに感動し、気付きがあり、そして自分がどう変ったか、その体験を手紙で寄せてくださいと言う活動を始めました。 柳田邦男絵本大賞を創設。 その頼りの中からご紹介したい。

食物アレルギーを持っている小学校2年生の杉山椎良君

アイスクリーム、お菓子などが食べられない。 辛い中で一冊の本に出合いました。 「むっちゃんのしょくどうしゃ」と言う絵本です。 動物列車にむっちゃんが一緒に乗ります。食堂車で食事をしますが、むっちゃんが杉山君と同じような食物アレルギーを持っている。 杉山君は自分と同じだという事で読んでいった。 むっちゃんが「僕は食物アレルギーだから卵と牛乳が田出られないの。」と大きな声で叫ぶんです。 自分と同じだと思って読んでゆくと、アシカやペリカンは魚だけしか食べない。 ライオンは肉だけ、羊は草だけ、こういう風景になっている。 それを杉山君は手紙に書いてきてくれました。

「僕に食べられないものがあってもいいのだと思いました。 僕は僕の身体に合う食べ物を使って、お母さんや給食の人が作ってくれているので、とてもありがたい気持ちになりました。 僕はこの本を読んで、アレルギーは気を付ければご飯がもっと美味しく、これからは作ってくれた人の気持ちを考えて、残さず食べれるように頑張ろうと思う様になりました。」   感謝の気持ちをもって食べて行こうと自分を変えてゆくわけです。 

小学校5年生 村山重行?君 「見えなくてもだいじょうぶ?」と言う絵本を読んだ印象と学んだことをしっかりと書いてきました。

カーラと言いう少女が御両親と市場で買い物をしているうちに迷子になってしまう。 誰も声をかけてくれないが、泣いていると若者が声を掛けてくれた。 ハッとみると白い杖をついている。 この場面は障害のある方とない方が表現されている。 耳で迷子になっていることに気付く。(健常者は無関心)  一緒に探しに行く。 そうするといろんな場面で障害者に対する理解がどんどん深まってゆく。 

「僕は目をつぶってリンゴを触ってもリンゴだとは判るけれども、熟れているかなんて全然わかりません。 ・・・柳田先生もし夜中にトイレに行く時には灯りを点けますか。 僕はトイレに行くときには必ず点けます。 でもマチアスは灯りを点けなくても平気なんです。僕は目が見えなかったらどうなるだろうと、いろんなことをやってみました。・・・でもいろんな音がよく聞こえました。 カーラはお兄さんは耳も見えるのね、と言っていますが、まさにその通りだと思います。」     「耳で見える。」と言う言葉は素晴らしい言葉だと思います。 「この本は目の不自由な人の思いが伝わって来る本なので、是非柳田先生読んでください。」と付け加えられていました。

人種差別、障害の有る無し、寝たきりの老人とか、いろんな人に対する偏見があるが、その立場に立って考えるとまた違う見え方が出来る。 それを小学5年生の子が考え、実行しているわけです。 絵本の力は素晴らしいと思います。

「ちょっとだけ」と言う絵本。 なっちゃんという2,3歳の女の子。 赤ちゃんが出来て今迄みたいに100%面倒を見て貰えない。 喉が渇くと自分で牛乳を持ってきて、ちょっとこぼしたりしながら飲んだりする。 ・・・赤ちゃんが眠った時に一杯抱っこしてあげますね、と言うと、なっちゃんは大喜びする。 お母さんのひざ元ですやすやと眠る。

一日に一回でもいいから上の子のことをちゃんと見てあげなさいと言うような物語だと思いました。 他に色々な場面で子供から気付かされたと言うおかあさんからの手紙です。

吉田千絵?さんからの手紙

3歳の息子に読み聞かせっていたら、牛乳をついでこぼしちゃった、でもなっちゃんはちょっとつげたことで満足そうな表情になっていて、そこで3歳の息子が拍手をして「凄い」と言ったそうです。 見ているところが親と子では違うんです。 親はこぼした方を見ている。 子供はついで、つげて嬉しい、と見ている対象が違うんです。 ここはとても大事なところです。 

「この時我が子が凄いねと言って、私はハッとしました。 子供にとって自分が出来た時の喜びはとてつもなく大きいもの。 それが完ぺきではなくちょっとだけだったとしても。・・・こぼさないようにしなさいと監視し、こぼしてしまうと「だから言ったでしょう」と怒っていたかもしれません。・・・ちょっとだけ成功していて本当は喜びたいはずなのに、私は怒ってしまったことはないだろうか。 この絵本を見て反省させられました。・・・ちょっとだけの成功を見落とさずに、しっかりと褒めてあげないといけない。 そして一緒に大喜びをしないといけない、と私はそう決心しました。」

平山小雪?さんから「ちょっとだけ」と言う絵本を読んだ感想。

7歳の娘さんと赤ちゃんとの関係を伝えてくれました。 お母さんが赤ちゃんに取られてしまっていてひがんでいる。  なっちゃんが隣の友達のお母さんから声を掛けられる場面。「なっちゃんね、赤ちゃんて可愛いでしょう。」  なっちゃんはためらいがちにうなづく。 平山小雪?さんは7歳の娘さんに「なっちゃんはどうしてちょっとしかうなづかなかったのかなあ。 なっちゃんの気持ち判る。?」と聞いたそうです。 7歳の娘さんははっきりと「判る、凄く判る。 なっちゃんは本当は厭なんだよ。 凄く我慢しているんだよ。」といったそうです。 

絵本の読み聞かせは、親も学びの場なんだという事を気付いて、親子で成長し合うという事に気付く必要があると思います。 

中高年層になった時にもう一度絵本を読むと、新しい気付きや発見がある、という事を訴えています。 子供の頃のみずみずしい感性がいつの間にかなくなってしまっている。    でも取り戻せないものではない。 それは絵本です。 高齢者のグループに3冊の絵本を持って行って3グループに分けて読んで語り合ってもらいました。 想像以上に内容が濃かったと言っていました。 「おじさんのかさ」 作:佐野洋子                  大事な傘なので、雨が降っても濡らさない。  公園で雨がパラパラ降って来て、男の子が来て「おじさん、傘に入れて。」と頼んでくるが、そっぽを向く。  女の子が来て傘に入れてあげると言って、相合傘で歌を歌いながら行きます。・・・ おじさんは「雨が降ったらポンポロロンと言いながら、傘を開いて雨の中に入って行きました。・・・家に着くと奥さんが「貴方 傘が濡れているわよ。」と言いました。 

「おじさんは傘と共に心を開いたのだ。 こういうコミュニケーションの極意を語り合っていました。 このメンバーはもう一度みんなで音読したそうです。 一冊の絵本を仲立ちにして、過去を語り未来を見つめ、人は心豊かに繋がるのですね・・・。 傘を開く時、心を大きく開こうと深呼吸をして出かけました。」  今日も心を開いて前向きに生きてゆく、その一歩を踏み出そうと、そんな傘を開く気持ちと言うものを、ちゃんと一冊の絵本から読み取る。 いろんなモチベーションを絵本からくみ取って、日常生活が変ってゆくという、栄養剤、刺激剤になってゆく、そういう力を絵本は持っている。

子供は大人が考えている以上に柔軟な感性を持っていて、自分に重ね合わせて自分自身を変えて行ったり、心に成長に繋がる考え方を持ったりする。 大人の絵本を介していろんなことを学んでそれぞれの生活、人生が変わってゆく、とても素晴らしい力を絵本は持っている。





 

























2024年4月25日木曜日

小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

 小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

子供のころに見た舞台で役者が化粧によって変身する姿に感動し、舞台メイクの仕事を夢見て上京します。 保険の外交をしながら夜間の美容学校に通い、23歳の時に化粧品会社に就職、販売員として主婦を相手に腕を磨く中で、化粧は女性を内面から元気にする力があるという事を知ったと言います。 その思いが肌の奥に潜む美を追求する身体化粧の原点となります。 美容部員から女性初の取締役に就任、その後独立し美容ビジネスの経営や後進を育てる学校運営にも乗りだします。 一方で小林さんが長年取り組んできたのが、人の身体に化粧を施し、肌の奥に秘められた美を探求する身体化粧、身体に優しい化粧品で全身に絵を描き皮膚と一体化させる唯一無二のアートワークです。 私が描いた絵は元々肌が持っていた記憶ではないだろうかという小林さんに追い求める美の世界についてお話を伺いました。

メーキャプと言うのは本来、清潔にするとか、衛生概念と言ったものから始まるんです。  そこから礼儀みたいな、人様にいい姿を見せようとか、メーキャプに発展してゆきました。  男性用化粧品とか男性向け美容講座も開いています。  自分自身のモチベーションを上げるのにとっても必要なものですね。 ニューヨークなどに行くと、個性をきちんと表現しないと生きていけないぐらいのキャリア―ウーマンはいっぱいいました。  演劇の世界に行くには勉強になると思いました。  

日本も変わって来ました。 ビジュアルな時代で、見た目で判断されると言う事をみんな知っているわけです。 思春期に直観力が出てきて、自分を見せたい、自分がどう見られているのか模索するのが、思春期だと思います。 直観力を押さえてしまうという事が日本のあり方だった。 本能として自分を表現するという本能があるんです。 美意識を持ち続けつつ、養いつつ高等学校の勉強をする、大人になるための勉強をする、それが私の学校の方針です。 人間は社会性のある動物なので、人とのコミュニケーションの中に表情、声は凄く大事なことだと思います。

貧乏だったので手に職を身に付けたかった。 演劇の裏方になると決めました。 キャラクターを作ることがとっても面白かったです。 扮装のプロになりたいと思った。(当時はメーキャップと言う言葉はなかった。) 保険の外交員をアルバイトとしてやって、夜に美容学校に行きました。 当時は皮膚の病気が一杯あって、伝染病学、感染学を学びました。 メーキャップアーティストになるためには化粧品会社がいいと思ってコーセーと言う会社に入社することになりました。 山口県に派遣されました。 本人も気が付かないナチュラルメークをするんです。 お顔を借りてメークするうちにどんどんお客様が増えました。 2年間山口県に通いました。 手の感覚が顔の肌と接して、人との縁が深くなるとか、そういったことに繋がるわけです。 家庭内のごたごたなども話してくれて、気持ちもスッキリしたという事もあり、私にとってもいい勉強になりました。 これも手の力だと思いました。

ヒット商品を沢山作れたことは、ラッキーだったと思います。 ヒットキャンペーンも考えることが出来て、上司も許してくれて、やりたいように進めることが出来ました。 ルックスキャンペーンで大成功しました。  45歳で辞めようと思っていましたが、50歳で女性で初めて役員になって、社長からは「あんたは何でも初めてのことをやるんだから。」と言われました。 私の目標は舞台のメーキャップアーティストになるという事なので、時代も変わって演劇集団も規模が大きくなり、100人程度のメーキャップが必要になり、学校を作ることにしました。 独立することになりました。

人間の生身の身体をキャンバスにして表現する身体化粧に挑んでいきました。 ビジネスにはならないものです。 顔から身体に延長させてゆくことは綺麗なんです。 一糸まとわない身体の化粧という事でやりました。 評価されてメイクアップアーティストになって行きました。 消されてしまうので儚いです。 写真家の藤井秀樹さんとの出会いがありました。 日曜日美術館からのお話があり動画にも挑戦しました。

10代で直感的に思った夢を、常にコツコツとやってきて、いろいろ成功してきて、自分がやってきていることは、人のモチベーションを上げることだけではなくて、自分の夢を成功に導いてゆくような凄いものなんだなと思えるようになりました。 真っすぐ進んでいるうちにチャンスが向こうから来ると言った感じです。 自分を見つめる目、芯のようなものがあり(揺るぎない直感)、それを追及している時には味方してくれる、そこからそれようとした時にガーンとした事故がある、そんなふうに思って、気付かされることをずっと感じています。 

身体化粧を75歳までやって、そこから彫刻をやりました。 彫刻は昔からやりたかった。彫刻をやることによって、それがヒントとなり大ヒット商品を発明する事ができました。 彫刻に蜜蝋を塗る事から、顔にと言うクリームが大ヒット商品になりました。 

自分を大事にするという事は人を大事にする、愛する、練習です、と言う風に思っています。  フリーダ・カーロアンリー・ルソー奈良美智の描く顔の絵が好きです。









2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。