2024年4月2日火曜日

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)   ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)   ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと 

古居みずえさんは島根県出身、1948年生まれ。 会社勤務からフォトジャーナリストの道に進みました。 中でもパレスチナでは30年以上取材を続け、2005年には写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞。 映画ではドキュメンタリー映画『ガーダ パレスチナの詩』で第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(公共奉仕部門)を受賞。 2011年には映画『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』を制作しました。 古居さんは昨年10月半ばから年末まで、ガザで取材した二つの映画を市民に無料で貸し出しました。 日本各地から自主上映会を開きたいとの動きが広がり、上映会は100か所以上となりました。  古居さんにガザで取材して感じた事、平和への思いなどを伺います。 

会社に勤務してましたが、30代後半に病気になり、膠原病という風に診断されました。  4か月入院して、投薬により奇跡的に回復しました。 嬉しくてなんでも表現したいと思いました。 写真教室に1年間通いました。(祖父が写真屋をやっていました。) 東京のNGOの主宰でパレスチナ子供写真展があり興味を持ちました。 その1年後にパレスチナに行きました。(1988年)  最初は毎年行っていましたが、飛び飛びの時もあります。  最初は子供たちを撮りたいと思いましたが、女性たちがかいがいしく働いているのがあり、女性を撮ってみたくなりました。  写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞しました。 

人々を撮りたいと段々思って行きました。 途中からビデオを始めました。 パレスチナに人々は表現力が豊かです。  最初のころは追いかけて行きたい人が居ました。 彼女は結婚して出産をして、そのたびごとに現地に行って追いかけたいと思いました。 半生を描くことによって気持ちが入っていきました。 私が女性だったために、いろいろと家のなかにも入れたし話もしてくれました。 彼女らがどういう生活をしてどういう事を思っているか伝えないといけないのではないかと思うようになって、日本で発信してゆく事になりました。 

パレスチナは紛争とかがなければ、神聖なところだし、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれいいところがあったり、綺麗なところがあったり、エルサレムの旧市街に入ると、不思議な趣があり中世と近代が入り混じっている、そういったところです。 ガザ地区はちょっと違って人間臭い感じがします。 情が深い人たちで、人との付き合いが厚い感じがします。 

ストリートチルドレンが居ません。 紛争地なので両親が居ない子が沢山います。 親戚、兄弟とかが面倒をみるんです。  大家族で少なくとも30人はいます。 映画の中の女の子も学校で1,2番を争う優秀な子でした。 両親が居ないと、一緒に住んでいる人たちの思いで、学校ではなく結婚という事を決められる。 ガザ地区でドキュメンタリー映画を2本製作しました。 ・・・以後緊急地震速報の為放送を中断。









 








 

 









2024年4月1日月曜日

石橋凌(シンガー・俳優)        ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

 石橋凌(シンガー・俳優)      ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

石橋さんは1956年福岡県久留米市の出身です。 高校時代からバンド活動を始めて、高校卒業後は至るあ料理の店でアルバイトをしながらプロを目指します。 1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストにオーディションにボーカリストに選ばれ、1978年「野良犬」でデビュー、人気ロックバンドになります。  1985年俳優の故松田優作さんと出会い映画に出演、その後音楽活動と俳優業で活躍します。 1990年尊敬する松田優作さんの病死をきっかけに音楽活動を封印し、俳優に専念、アメリカを拠点に活動します。 1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」で演技が認められて、アメリカ映画協会の会員になります。 帰国後は音楽活動も再開します。 NHKでは1988年の大河ドラマ「武田信玄」では織田信長役、2020年の「麒麟が来る」では武田信玄役で出演します。 今年デビュー45年を迎えました。

私の場合は8割がた悪党か危ない役です。  今年でデビュー45年。 ちゃんと本質に沿った物つくりを手を抜かずにやってきたという自負はあります。 5人兄弟の末っ子で育ちました。 上4人の男の兄弟が好きな音楽のジャンルはバラバラでしたのでいろいろ聞いていまいた。   テレビのない時代で国内外の映画は良く観ていました。  私としては音楽と映画が学校と言う感じでした。今はそれを表現する方なので幸せです。   欧米から入ってきた文化なので、真似するだけではなくてちゃんと自分で反芻、消化して、それをまたオリジナルまで消化させるという事をやらないと、日本人は猿真似だと揶揄されると思う。 本物に近づきたいと言う思いでやってきました。 

中学1年生の時に父が亡くなりました。 母が女手一つで育て上げました。  5人の子を並べて「私は変わります。 貴方たちは自分が出来ることはやりなさい。」と宣言をしました。 看護師をしていました。  苦しい中レコード、プレーヤー、ギターなどを買ってくれました。 父親は良く「芸は身を助ける。」と言っていました。  音楽が好きなら音楽をやりなさいと言ってくれていたのかもしれません。 長男はフォーク系、次男はベンチャーズ、三男は黒人音楽、4男はビートルズ、ローリングストーンズなどに傾倒していました。 高校では音楽研究同好会に入りました。  高校2年の時バンドで、サンハウスの前座のチャンスを貰って、20分ほどやりました。そのころにはプロになりたいと思いました。  17~19歳までイタリアンレストランで働いていました。 ソロの話もあったが、バンドでデビューしたかった。

1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストのオーディションを受けたのが、一つ目の分かれ道でした。  最初、歌詞に政治的、社会的なことは一言も入れるなと言われてしまいました。(自分の意には添わない。)  ラブソングを歌うように指示された。 しかしその時代は世界のどこかで紛争、戦争が起こっていた。 母親からは父が早く亡くなったのは戦争のせいだといつも聞かされていた。 自分の歌うテーマの一つは戦争でした。  自分の意見とか考えを交換できる音楽がロックミュージックだたのではないかと思います。 それが出来ないことが不自然で違和感がありました。  1970年代初期から、日本には本物のロッカーがいたと思います。 欧米に負けないテクニックの良さ、スピリットも持っていた。 しかしビジネスのマーケットに成立しなかったような気がする。 建前の音楽が主流になった。  

自分の中ではロックミュージシャンとかロックシンガーと言うのは辞めよう思いました。 理由は日本にはロックミュージックは根付かなかったという事が一つある。  何で一枚のアルバムにラブソング、家族の歌、世の中で起きている事、戦争の歌までが共存できないんだという、45年やって来て今でも感じます。 

武道館まで行きましたが、茶の間に入っていけないという壁にぶつかり、27歳の時には限界を感じました。  その時に松田優作さんに出会いました。 直感で自分が相談できる人はこの人だと思いました。  「土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、翌年も土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、という事を手を抜かずに大事にやってゆくしかないんだよ、俺たち表現者は」と言われました。 「それを見ている人が近づいてきたら、はじければいいじゃないか。」と言われました。 自分が信じていることを続けて行けばいいんじゃないかと思えました。 

半年後に松田優作さんから電話があり、「ア・ホーマンス.」と言う台本を渡されました。  殴られるのを覚悟で「バンドを茶の間に売る為の宣伝のためでいいですか?」と言ったら、3,4秒間が空いて「それでいいよ。」と言ってもらえました。 映画の現場に入って、自分の持ち続けた感性は違っていなかったんだという事は跳ね返ってきました。 今後のことを聞かれて、「音楽に関してはもう一回音楽を続けて行ける様な気がしました。」と言ったら、「俳優は?」と聞かれて、「もし自分にやれるようなものがあればやるかもしれません。」と言いました。 

松田優作さんが亡くなったことで大きな決断をしました。 松田優作さんからはいろんなことを学びました。 「合作映画で日本人の役を日本人が出来ないんだ。」、という事をいつも言っていました  ①SAG(Screen Actors Guild)という俳優組合に入れていない。  ②言葉の壁がある。 ③偏見、差別と闘ってゆくしかない。 このことをいつも松田優作さんは言っていました。 病気が発覚して、自分の中でもいろいろ反芻して、音楽を一旦封印して、ちゃんと俳優に向き合おうとしました。(34歳)

1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」ほか3本の合作映画に出演して、SAGに入れました。  アメリカで5年仕事をしました。 アメリカでは演技に関しては監督は何も言いませんでした。(表現が自由に出来る。)  映画ではその役柄の男で現場に来なさい、カメラの前に立ちなさいという事だったんです。 チャンスがあれば海外で歌ってみたいという事は今の夢です。




 






2024年3月31日日曜日

向笠千恵子               ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

 向笠千恵子       ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

向笠さんには2011年から「ラジオ深夜便」に出演頂き、日本各地に根付いた郷土料理やその背景にある歴史、また各地の朝ご飯など興味深いお話をお聞きしてきました。 今年度をもって向笠さんは番組を卒業されます。 改めて向笠さんが歩むフードジャーナリストの道のお話を伺いました。

向笠さんには2017年「ご飯の知恵袋」のコーナーが始まってから7年間お話を伺ってきました。  その前に大人の旅ガイド「おいしい旅」に6年間生出演。 「ラジオ深夜便」とも長くお付き合いいただきました。 

国土が狭い日本と言われがちですが、実際各地を訪ね歩いてきますと、海、山があり、峠一つ越えるだけで食習慣がガラリ変わっていたりして、日本は広くて様々な食文化があります。   それを眼で舌で実際それを確かめ皆様にお伝えしたいという事が、私の背中を押してきたと思います。 歴史的背景まで考察したりすると、興味深い事ばかりです。   様々な食材、野菜、お魚、果物、納豆などの素晴らしい加工品、巧みに食宅に取り入れている郷土料理、など、お伝えしたいとやって来ました。 

東京の下町で、父は食いしん坊で、母も新しい料理にチャレンジするのに熱心でした。  学生時代進路に迷いました。  好きなことを考えたら食と旅する事、歴史も好きでした。 そこで料理の編集の仕事の道に入りました。   大学時代は図書館情報学科を勉強していました。  食材を切り口にしたテーマを担当するようになって、漁港、漁船に乗せていただいたりして、現場の大変さ、空気を目の当たりにしました。 30歳の時に独立して、仕事も継続しているうちにフリーランスの編集者として仕事の幅が広がって、コーディネーター、プロデューサーをしているうちに小さな会社を興して、食品メーカーさんの仕事などもさせてもらうようになりました。  取材するほど知らないことに次ぎ次ぎ出会って、もっと知りたい、もっと食べたいということにつながったと思います。  

無農薬梅作り60年一筋とか、いろいろ出会うたびに食品と生産者の方には感動してきました。 「百聞は一見にしかず」で直接会って、体験しないと判らないです。 伝える言葉が自分の課題になって来ます。  フードジャーナリストというものを名刺に印刷しました。 藩政時代、例えば津軽藩、南部藩での味と言うのは、はっきり違うし現代まで繋がっている。 秋田県とか、他の県でも同様です。 藩のお殿様が培ってきた気質、国替えもあり、そこの食習慣、野菜の種などを持って行って、新しい食文化が生まれたりしています。  それぞれの食材に素晴らしいドラマを秘めていて、わくわくする思いがあります。      

「朝ごはん」 或る時にふっと気付いて、能登半島の珠洲に親子で営む小さな宿があって、そこの朝ご飯が素晴らしいという情報を得てお訪ねしました。 豆腐も前夜から手作りでやって、豆腐を作り上げる。 干物、漬物なども手をかけて作り上げる。 漬物、みそ汁など素晴らしかったです。  日本各地にはそれぞれの風土に育まれた素晴らしい魚、野菜などで作られている朝食があるんだということを気付かせてくれました。 日本の朝ご飯の取材を始めました。  食の職人的な生産者さんを探るテーマに段々移行していきました。

鯖街道に代表されるような食の伝播について関心を持って、「食の街道を行く」と言うテーマに広がって行きました。 「食の街道を行く」の本は世界的にも評価されて、料理本のアカデミー賞とも言われるグルマン世界料理本大賞グランプリを受賞。(2011年)   「塩の道」の中でも、もっとも有名なところを本に書きました。  東京の食、江戸の食も別の視点から関心を持って、自分の下町のことももっと知っておかなければいけないと思いました。 今も江戸前の味、東京の伝統的な食べ物とか、そういったものもテーマにしていますし、大好きです。  紅葉した葉を添えるとか、日本人が育んできた食卓演出法などトータルで和食は構成されている。  流通なども含めて多面的に伝えることで、味だけではなく食の醍醐味をお伝えできたらいいなあと思っています。 

温暖化などで海から取れるものが劇的に変わってきています。 食文化を担ってきた農村、山村、漁村部の女性たちの高齢化によって、姿が消されつつあり、食の職人たちも代替わりしたり、後継者に恵まれなかったところは消滅したりして、20年ぐらい前から今は正念場に直面しているところです。 どうしたら食の明るい未来が展望できるようになるか、励んでいる方々の姿を伝えるとか、応援する仕事が出来ればいいなあと思います。 

取材したことを如何に表現するかという事をもっと努力しなければと思っています。 楽しみながら表現していきたいと思っています。 「一期一会」では無いですが「一食一会」と言う思いでやっています。 

























2024年3月30日土曜日

戸田菜穂(俳優)             ・「素敵な大人の女性を目指して」

 戸田菜穂(俳優)             ・「素敵な大人の女性を目指して」

中途からになります。

「NHK俳句」の司会を3年やらせてもらいました。 嬉しかったです。 小学校の頃にたまに書いたりしていました。 国語の授業参観の時に私が一番に選ばれました。 詩とか俳句を書いていました。 大人になってから「東京俳句クラブ」に入りました。 現在もはいっています。 月に一回あって4句を詠みます。 5 7 5で言葉のセンスを問われる。 一番に選ばれると短冊がもらえて、その短冊も家に一杯あって宝物になっています。 

3月で50歳になるんですが、一つのいい区切りで、もう一回新しい自分が生きれるというような感じで、楽しみにしています。 向上心の塊みたいだったので、まだまだと思っていました。 最近は一個づつを大切に向き合って、演じて行きたいなと思っています。 ゆっくり味わいながら実生活も楽しみながら、子育ても楽しみながら余裕をもっていけたらいいなあと思います。 20代はわき目を振らずにやる時がありますが、それはそれでいいと思いますが、周りの評価と自分自身の評価が同じぐらいになってゆくとちょっと楽になるという感じはあります。 

生まれが広島で、広島は大好きです。 「お帰り」と言われて嬉しいです。 







2024年3月29日金曜日

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編 

山本學さんは昭和12年生まれ。(87歳) 1958年のデビュー以来存在感のある演技で活躍しています。 山本學さんがライフワークとおっしゃる朗読を再構成してお送りします。

「軍師官兵衛」で演じた快川和尚の言葉  織田信長は明智光秀に交渉に当たらせるが、快川和尚は断固拒否、焼き打ちという事になる。 ドラマでは心頭滅却すれば火もまた涼し」という場面はなかったです。 もしやらされたらこうだという感じでやってみます。

心頭滅却すれば火もまた涼し

吉田忠左衛門の辞世の歌  吉田忠左衛門は禄高200石で、忠臣蔵の中で侍とはどういうものかと命がけで主張して死んでゆく。 統領を補佐する役。 出陣の前に詠う。

「君がため 思いぞ積もる白雪を 散らすは今朝のみねの松風」  君=浅野内匠頭  

平家物語の冒頭の部分。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。 たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

人間死ぬときはみんな同じで、「風の前の塵に同じ。」という、どんなに偉そうにしていても、でも皆生きてきたんだよと言う、なんか不思議な世界です。

高杉晋作  小唄  「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」  高杉晋作が唄ったとされる都々逸(どどいつ)の歌詞。


高村光太郎の詩を三篇読む。

記憶せよ、十二月八日

「この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。」 


終戦の時の詩

「一億の号泣」

「綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて

天上はるかに流れ来る

玉音の低きとゞろきに五体をうめる

五体わななきてとゞめあへず

玉音ひゞき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのずから強からんとす

真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」

 

昭和22年の詩

暗愚小伝に中の「山林」の一部

「私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。」

高村光太郎は空襲で、智恵子と暮らした家も失い、岩手県の花巻で小さい家で独り暮らしを始める。  自分を見つめ終戦。

「一億の号泣」僕も聞いて泣きました。 
高村光太郎はそれまで体験したことがないような不自由な暮らしを強いられる。 土に親しむ喜びみたいなものも言っている。                            「山林」では非難する人は非難してくださいと言い切っている。 

戦中戦後、私も飢えを教えられたことは大きかったです。 

映画監督山本薩夫(叔父) 僕は医者の役でした。 エッセーを読みます。

「白い巨塔」を映画で発表したのが1966年。

「白い巨塔」エッセー 朗読

「私の撮ってきた作品を見てみると、権力というものに対して反抗してゆくような内容を持った映画には、自分でもなんか張り切ってぶつかってゆくようなところが見える。 だがそうでない作品になるとどうも気持ちが乗らない。 大映で1966年に撮った「氷点」などもその一つだ。朝日新聞に当選した三浦綾子の原作で映画は評判がよく、興行的にもかなりヒットしたものだ。 人間の原罪と言うモチーフとして展開される話の内容に戸惑い、私自身もう一つ乗り切れないところがあった。・・・ 山崎豊子の「白い巨塔」は派閥抗争に明け暮れる医学界の内幕を暴く中で、一つの権威を突くという要素を持っており、題材としても非常に面白いものだ。 ・・・私としても撮りたい作品のひとつであった。 ただ問題は撮影である。医学界の派閥や権威が絡んでどの病院も協力してくれない。・・・だが世の中には権威に対して反感を抱いている医者も必ずいるものである。 ・・・一人は日大病院の医者で彼がセットなどの面倒を全て見てくれることになった。 ・・・映画が嘘にならないように指導してもらったわけである。・・・手術はなかなかセットで撮影するというわけにはいかない。・・・ 東京女子医大の手術室を見せてもらう事にした。・・・偶然にも主人公のモデルになった医者がそこで手術をしていた。・・・映画では彼を悪として描いており、これはまずいなと思ったが、ここの手術室だけは貸してもらわないとならない。・・・ 日曜日だけを利用して撮影することに決めた。・・・たまたま噴門癌の手術の患者がいたので、不道徳なことだとは思ったが、私は撮らせてもらう事を頼んだ。・・・そして撮影されたのがこの映画のトップシーンとなった。 白黒にした。 カラーでは刺激が強すぎて出せなかったからである。・・・ 

病院内は色々な病院を撮影してつなぎ合わせた。・・・ 白い塔についてはやっと聖路加病院の許可を得たのだが、この病院の塔には十字架がついている。・・・十字架を上手く切って「白い巨塔」とした。  この映画はモスクワの映画祭に出品され、トップシーンの手術実写が残酷だと問題になり、グランプリには取れず、銀賞になってしまった。 ・・・ 医者で小説を書く人たちがグループを作っており、そこへ呼ばれていったことがある。・・・これまで医者を扱った日本映画はすべて嘘だけれど、これだけは本物だと言って褒めてくれた。 これはどんな賞を貰うよりも嬉しかった。・・・役者たちもよくやってくれたと思う。 ・・・ 世の中には派閥や権威に反駁している人間が必ずいるという事、そういう人たちの協力が無ければ、こういう映画は出来ないという事を、この映画を通して私はつくづく学ぶことが出来た。」 

映画を作る側は色々な苦労があるという事を知りました。 監督となると全体的な苦労があるんだなと思いました。 反骨の塊の人でした。

中原中也は長男文也を僅か2歳で亡くしました。 中也の悲しみは深く精神のバランスを崩し、療養所に入ります。 退院して一月後に発表したのが「春日狂想」でした。

「春日狂想」

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない


奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。


ではみなさん、 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。

中原中也は可哀そうな人だったんです。 

「まぶしく、美(は)しく」となっていますが、いちいち説明するのも面倒なので、僕は「まぶしく、麗しく」と読んでしまっています。 僕は正確さよりもリズムを大事に思うので、詩を解説して読むというんじゃあないんですよ。








 


2024年3月28日木曜日

藤井フミヤ(ミュージシャン)       ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

 藤井フミヤ(ミュージシャン)   ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

ミュージシャンとしてだけではなく、画家としての顔を持つ藤井フミヤさん、1983年にチェッカーズのボーカリストとしてデビューし、当時の音楽シーンを席巻しました。 歌手として活躍する一方、子供のことから絵を描くことが好きだったフミヤさん、本格的な画家としての活動はデジタル技術を駆使したCG作品の製作からでした。 その後16年の長い沈黙の後再びアート活動を再開、油絵や水彩画にとどまらずシールや針金を使った作品を生み出し、海外や全国の美術館で展覧会を開くなど、クリエーターとしてのマルチな才能が注目されています。 今年に入ってからもデジタルとアナログで創造する藤井フミヤ展「フミヤアート2024年」を開催すると同時にステージでも全国で精力的に活動を続けています。 音楽とアートで時に甘美に時にファンタジックに表現の世界を広げ続ける藤井フミヤさんにお話を伺いました。

八戸市美術館で展覧会が開かれている最中です。 モチーフが女性が多いんですが、見やすいというのがあるのかもしれない。  自分でも作ってみようという気持ちになってくれたら嬉しいです。 ミュージシャンとしてのファンは40,50代ですね。 2世代目もいます。(30代)  材料も色鉛筆、クレヨン、針金、シールとかいろいろあります。 女性を美しく描こうと思っているんで、女神みたいな気持ちで描いています。 

音楽の成績などは良くなくて、美術は100点でした。 デザインとかに行くのかなあと思っていたら、テンエージャーのころバンドをやり始めて、音楽になって行きました。   子供のころは絵を描いたりするのが好きでした。  東日本大震災の時には歌わせてもらったり、チャリティーアート展をやって、それを全部寄付しました。 接して元気を貰うような気がしました。 チェッカーズを解散して最初にやったのがアートの仕事でした。   その後3,4年はデジタルアートを作っていました。  いろんなものに興味を持って自分が何者か判らなくなりました。 一回すべてやめました。 音楽だけをやることにしました。 趣味程度に絵を描いていたら、或る人が個展でもやってみないかと言われて個展をやったら反響がありました。 グッズとかも自分でデザインしたりしていましたし、パンフレットとかなんでも自分でやっていました。  

16年のブランクの後はアナログになってしまいました。 コンピューターで描くよりも筆で描いたほうが面白いと思いました。  油絵なども本を購入して勉強しました。  チェッカーズのころは週に5本ぐらいのレギュラー番組がありましたが、今は自分たちがでられる歌番組はほぼないです。  最初は真似ですが、自分のオリジナルを描くことが大切に思っています。 アンテナは張り巡らしています。 細密画、日本画も好きです。 伊藤若冲はブレークする前から好きでした。 一番最初は宗教画が好きでした。 何で厳粛な場なのに裸なの、という疑問がありました。  背中に羽が生えていたりして、宗教画にSF感を感じました。 最初のCGの作品もデジタル宗教画を描きました。 きれいな女性の裸婦を描くようになりました。(宗教くさくはない)  女神というイメージ、それと生命は意識せざるを得ないです。 生とセックスと死と。 アートは面白い世界です。

チェッカーズのボーカルとしてスタートしてから40年になります。 紅白に出場しましたが年齢は上から三番目になってしまいました。  グループで活動していた時には援護射撃が有ったような思いがしますが、一人になると自由な気楽さはあります。  音楽の世界は愛しか描いていない。(ラブソング)  歌は団体を動かす力、一体感といったものがあります。  音楽はもう仕事ですね、ライフワークと言うか。 ファンとのの長い付き合いもあるので「辞めた。」という訳にはいかない。  音楽も、絵もここまでに仕上げるというものがないと作品は中々上がらない。 

細かい作品を長い時間かけて描く時には首を保護するためにコルセットを付けてやっています。  水も飲まずトイレもいかず、気が付いたら4,5時間集中していたという事は結構あります。 画家は長生きが多いです。 ストレスがないのかもしれない。 歌もコンサートなど発散性はあります。 陰と陽と言った感じです。 40周年記念で全国を回って行こうとしています。 習っていないので油絵は一番難しいです。歌も時代時代で作りたいものが出てきてしまいます。 お薦めの一点。 衝撃を受けたのはバチカンの中にあるミケランジェロのピエタ聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする彫刻)です。 人間技ではないと思いました。 





















2024年3月27日水曜日

イトウマサトシ(編集者)         ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信

イトウマサトシ(編集者)      ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信 

イトウさんは「おにわさん」という日本庭園の情報を発信しているサイト、ホームページなどを個人で作って、庭園の魅力や情報を発信している方です。 IT関係の仕事をされているそうですが、日本庭園をめぐるのは大好きだったと言う事です。 「おにわさん」というサイトを2016年から始めました。 まだ10年経ちませんが、現在までに2000庭園を訪ねてその情報を載せているという事です。 日本庭園のどこに惹かれて何を発信したいと思っているのでしょうか。 沢山の庭を見続けていてどんなことを感じているんでしょうか。

趣味で日本庭園を巡っていましたが、日本庭園の情報が載っているウエブサイト、ホームページがあまり存在していませんでした。 そこでホームページを作りました。 交通情報などを含めて作りました。 写真と行き方を紹介出来ればいいと思っていました。  親しみを込めて「お庭さん」という名前にしました。 

日本庭園の魅力としては歴史、デザイン性と言ったものが好きでした。  植物、生き物、建築物とかいろいろ幅広く楽しむ事が日本庭園の魅力だなあと今は感じています。 最初は歴史的なものでしたが鳥とか花とか、毎回景色と自分が見るものが変って行っています。 どんな人が庭に手を入れてどんなところを見せたいのかと言うような事に、思いを巡らします。   

東京都では旧浜離宮恩賜庭園、東京にこんなに開放的な広い空間があるのかと感動しました。 江戸時代初期に作られた日本庭園で、将軍徳川家の別荘だった庭園です。 背景には高いビルが立ち並んでいて、東京ならではの懐の深さを感じます。 

新潟県の柏崎市にある貞観園という庭園が私は好きです。 国指定の文化財は200~300か所ありますがそのうちの一つで、柏崎市の山間部にある庭園です。 吃驚するぐらいの苔一面の庭園が広がっています。  元庄屋さんだった家のところです。 6月から11月ぐらいまで公開されています。 ぼーっとするには最適な場所だと思います。 

島根県の旧豪農屋敷に大きな枯山水庭園があります。 一面に白い砂を敷き詰めてその中に石を置いて歩ける庭園がいくつか残っています。 歩けるという事がとても面白いと思いました。 回遊式枯山水庭園です。 

日本全国には独特のデザイン性があるものがあります。 青森県独自の庭園のデザインの流派があります。 必ずその庭園に津軽富士岩木山をかたどった石を置き、それを拝むための礼拝石(平べったい大きな石)をビューポイントに置くという一貫したデザインがあります。 

京都で修業した方が各地散らばって行って、学んだことに地域の独自性を組み合わせていろんな庭園を造って行った。 どこに行きたいという場所が先にあって、どういうお寺が残っているとか、文化施設があるのか調べて行って、それを巡ると言う形です。 見つけた時の楽しみが大きいです。  島根県は面白い場所だと思っています。 松江市にはお茶の文化が強く残っています。  庭園文化が松江には残っています。  松平不昧(ふまい)公(7代・松平治郷は特に有名な藩主)は趣味であった茶道に傾倒して不昧流を創設。 お茶室が必要になるとお庭が必要、お菓子も必要となり、松江には和食の美味しい店が多いです。  歩ける枯山水庭園は冬は雪が降るので、飛び石は高くなっている。 

「おにわさん」には外国からのアクセスもあり、外国人が来るきっかけにもなっています。 6~7割は海外からのフォロワーさんになっています。 足立美術館を注目したのも海外の方です。 兼六園には年間300万人ぐらいの方が来ます。  有名ではない場所では年間1000~2000人程度になっています。 穴場が沢山あります。 個人的には海外の方から学ぶことは多いです。 海外の方には古民家の坪庭が物凄く人気があります。 私も坪庭にも興味を持つようになりました。 歴史のある坪庭を中心に紹介しています。 2016年から2000か所ぐらいになりました。 

少子高齢化が庭園に影響している点がいくつかあります。  所有者の高齢化、相続の問題で庭がつぶされてしまう。  庭師の高齢化などで管理が行き届かなくなる。  SNSをやっていると、海外の有名なロックミュージシャンの方が来日公演して、盆栽、日本庭園が好きで「おにわさん」をフォローして下さったり、映画監督、プロサッカー選手、建築家、美術家、アーティスト等がフォローしてくださっています。 若い方も見て下さっています。知られないまま時間がずっと過ぎてしまってゆくことが一番残念なことだと思うので、興味を持ってもらえることで、何か次につながって行くと思います。 

庭園の或る所(ビューポイント)で立ち止まってゆっくり回ると言う事をお勧めしたいです。  我々が思っている以上に、海外の方は日本庭園が凄いと思っています。