2023年5月15日月曜日

大竹まこと(タレント)         ・〔師匠を語る〕 上岡龍太郎

 大竹まこと(タレント)          ・〔師匠を語る〕 上岡龍太郎

コメディアン、俳優ラジオ パーソナリティとして、NKHの「チコちゃんに叱られる」では容赦なく突っ込む好敵手として、独特の存在感を示してます。  大竹まことさんが師と仰ぐのは2000年に芸能界を引退した上岡龍太郎さんです。

上岡龍太郎さんを師匠と思っているのは、私が勝手に思っているだけです。      「火垂るの墓」というものを上岡さんが30~40分舞台の上で朗読して、それが物凄かったんです。    自分で最初の10行を読んだら涙が出てしまって、読めないような本なんです。  感情移入して高ぶってやられても、聞いている方は意外と入ってこないことが多いと思いますが、あの人は元々クールな方だけど、距離の取り方が ・・・?というところに入り込むような朗読になっていて、また、関西でもお世話になることがあって、私が勝手に師匠と思っているだけです。 

上岡龍太郎さんは1942年京都生まれ、18歳で漫才師の横山ノックさんと出会い、「漫画トリオ」結成、横山パンチの芸名でデビューしました。    1968年に横山ノックさんが参議院選挙に出馬したのをきっかけに、「漫画トリオ」は活動を休止します。   個人での仕事を開始した上岡龍太郎さんは、テレビ司会者としてブレーク、大阪だけではなく東京のテレビ局でも多くの冠番組を抱え、全国区の人気者になります。  活躍はテレビ、ラジオだけではなく、立川流の立川右太衛門を名乗り講談や落語を披露したほか、上岡龍太郎劇団を旗揚げ、上岡龍太郎独演会では「火垂るの墓」「「宮本武蔵」「忠臣蔵」などの小説を舞台で語りました。  49歳でランニングを始めフルマラソンだけではなく、100kmのウルトラマラソンも完走、2000年芸能界を引退した後は、プロゴルファーになると宣言して、アメリカにゴルフ留学もしています。  

上岡さんが司会をしている関西の番組に呼ばれて、「どう思いますか」とか、関西では司会者が振らないんです。   最後の最後に多くの人が共感する方に合わせた話をして番組は終わりました。  後で上岡さんがきて、「君は卑怯だ」と言っていなくなりました。   関西のルールを知りませんでした。  呼ばれないと思っていたら、1~2か月して又その番組からその話が来ました。   2回目はしゃべってやろうと決めて、行ったら関西の重鎮の人たちがきていましたが、ことあるごとにしゃべりました。  後になって上岡さんが来て「しゃべり過ぎだ」と言われてしまいました。   その後関西の番組には呼ばれるようになりました。 その後上岡さんとは公私にわたり勉強させてもらいました。     

「しゃべり過ぎだ」と言われた時には、目が笑っていました。  イッセー尾形はお笑いスター誕生の同期ですが、こいつはちょっとあるやつだという人の後に俺がやるわけです。 どうしたらいいかわからないまま、参加しました。 そのうちヒール?という冠が私についた様です。    上岡さんは辛辣な人なんです。  自分と同じような危なっかしい男がいるぞという事を思ってくれたのかなあと思います。   よく使って頂いたことは確かですね。   上岡さんからは「芸人は物事の核心を掴め」と言われました。  「芯を掴んだら中心に行かないで、その周りをぶんぶん飛んでいればいいんだ」と言われました。   芯を掴む努力、芯は何なのかを見極めるようとはしました。   どういう風にひっくり返せば面白くなるのか、という事も考えました。  

大坂から東京に来る芸人は沢山いますが、東京から大阪に行く芸人はそんなにいないんです。  16年ぐらいは関西でやりました。   スマートさをかなんぐり捨てたかもしれません。   上岡さんはスポーツは大嫌いでした。   何故かマラソンを始めて、番組でもホノルルに行くんだと言っていました。   クイズに負けるとホノルルを走らなければいけないというルールがあったようです。   僕も連れていかれる羽目になりました。僕は42,195kmを歩きました。   ゴルフもなぜなのか判りません。  歳を取っても意見は変わるものだと思いました。  変わらないよりも変わる方が凄いですよね。  僕はゴルフはこの歳まで続けられるようになりました。 

上岡さんは劇団の旗揚げ、1992年からは独演会を開きました。  暗記力はとってもたけている方でした。  朗読の技術はどこで覚えたのか知りません。  台本を頂いて真似をしたかったが出来ませんでした。   語りの方です、上岡語り。  引退の話を聞いたのは絶頂期でした。  芸人は自分のことをなかなか決められないものですが。  上岡流の美学を持っていたのかも知れません。   いつかは戻ってくると思っていましたが。  

好奇心はたくさん持っていて、フィンランドに行った時に夜7,8時にゴルフに行こうと言って10時ごろまで(日本と違ってまだ明るい)二人でゴルフをやっていました。    しゃべっていないと死んじゃうような人でした。  しゃべることがなくなるとフィンランドの読めない看板を読み出すんです。  

上岡龍太郎さんへの手紙

「・・・私は今も師匠から受け継いだもの、かけてくださった言葉を頼りに、この業界の端っこを、泥水や土くれにまみれながら生きております。 ・・・ 何十年も前の師匠の言葉「大竹、芸人はどうすればよいか知っとるか。」私は不思議な顔で聞いていました。 「芸人はなあ、物事の核心を掴むことだ。 物事の芯を掴んだら、後は蠅みたいにぶんぶんその周りを飛んでいればいいんじゃ。」・・・それは確信に変わり今日まで守って来ました。・・・幾度となく谷に落ちかけました。・・・誰かが師匠の様に手を差し延べてくれたのでしょう。・・・今年74歳になります。  今、今  ここにおります。・・・   師匠お会いしたいです。(涙ぐんで語る。)」















    









 









 














2023年5月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)          ・〔クラシックの遺伝子〕

*映画「思い出の夏」の中からコンチェルティーノ  1971年のアメリカ映画、音楽はフランスの作曲家ミシェル・ルグラン

今日は今を時めくトップアーティストが奏でる映画やミュージカルの音楽。

2020年に亡くなったイタリアの映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネ    

*1988年の「ニュー・シネマ・パラダイス」のテーマ  ピアノ:アレクサンドル・タロー   サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏

音楽がさらに映画を魅力的にしてゆく。  

*1986年のイギリスの映画「ミッション」 から「ガブリエルのオーボエ」     18世紀スペイン植民地下の南米パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師ガブリエルたちの生き方、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く。                       チェロ:ゴーティエ・カプソン    ブルターニュ国立管弦楽団の演奏         ジャングルの崖の上でガブリエル神父が手作りのオーボエを吹いて、先住民と心を通わせて行く。   トップアーティストたちが演奏している。

*1929年のMGM映画のためにアメリカの作曲家ナシオハーブブラウンが作曲「雨に唄えば」  チェロ:ゴーティエ・カプソン  ブルターニュ国立管弦楽団の演奏    雨の中で本曲を歌い踊るジーン・ケリーのパフォーマンスは映画史に残る名場面

*2016年の映画「ラ・ラ・ランド」  ミアとトセバスチャンのテーマ        俳優志望とピアニストの恋愛を描いた映画   ピアノ:アレクサンドル・タロー

フランスのトップヴァイオリニスト ルノー・カピュソン  チェロのゴーティエ・カプソンのお兄さんです。  

*1974年 映画「バルスーズ」から 「ロール」  音楽:ステファン・グラッペリ  犯罪に明け暮れる青年たちの無軌道な性を荒唐無稽なタッチで描いた、インモラルな青春映画  

ヴァイオリン: ルノー・カピュソン   ピアノ:ギヨーム・ベロン

*1964年作曲 「LOVE」(ナット・キング・コールの最後の大ヒット作品ともなった)  チェロ:ゴーティエ・カプソン  フランスのトランペット奏者ルルシエンヌルノダンヴァリ ブルターニュ国立管弦楽団の演奏

*「戦場のメリークリスマス」 大島渚監督した映画作品  音楽:坂本龍一(2023/3/28に亡くなる。)  フランスのピアニストのアレクサンドル・タローが2022年に録音したアルバムにも坂本龍一さんの映画音楽が2曲収録されていました。 「戦場のメリークリスマス」と「ハイヒール」  「戦場のメリークリスマス」から「ミスターローレンス」 作曲:坂本龍一  ピアノ:アレクサンドル・タロー 









































       

2023年5月13日土曜日

鳴沢真也(天文学者・理学博士)     ・地球外知的生命を探す

鳴沢真也(天文学者・理学博士)     ・地球外知的生命を探す 

鳴沢さんは兵庫県立大学西はりま天文台の天文科学専門員として1995年から28年間天体観測を行い、今春からは兵庫県立大学の専任講師を務めています。   特にSETI(地球外知的生命体探査)の研究分野の第一人者、宇宙人に一番近い日本人の異名を持っています。    世界の著名な研究者と連携して、広大な宇宙の中から地球のような環境があり、知的生命の存在の可能性のある星を捜すとともに、彼らが電波やレーザー光線を出していると想定してそれをキャッチしようという研究です。  鳴沢さんは国内最初の研究を行こない全国同時観測、更には世界合同観測のリーダーも務めました。  どのようにして知的生命を捜しているのか、そこにはどんな意味があるのか、天文学者で理学博士の鳴沢さんに伺いました。

一言で言えば地球外知的生命体はいます。   人類が見る範囲は決まっていますが、観測可能な範囲だけで、1の後に0が23個付く数があります。  世界中の海岸の砂粒よりも多いんです。  そうなればどこかにいるという事は当然だと思います。  太陽系で考えると私たち地球人だけです。  天の川銀河に星が1の後に0が11個付く(1000億個)あります。 そのうちの1つが太陽です。   それに惑星が回っています。 大事なものは水です。  液体の水がないと生命は考えにくい。   太陽からちょうど良い距離がたまたま地球でした。  火星も実は 昔は暖かくて海もありました。  下等なバクテリアみたいなものは誕生していたかもしれない。  痕跡をNASAが見つけようとしています。  

SETI(地球外知的生命体探査)は知的生命体を捜そうとしています。  向こうも電波などを出しているかもしれないのでキャッチしようとしています。  ラジオなどは電離層があって反射してしまって駄目ですが、FMラジオは突き抜けていきます。  テレビの電波も突き抜けます。  この研究は1960年からアメリカで本格的に始まりました。  レーザー光線をキャッチしましょうというやり方もあります。  レーザー光線の方が10万倍ぐらいの情報量を詰め込むことができます。   レーザー光線を望遠鏡でキャッチしましょうという事を私はやっていました。  西はりま天文台の鏡の大きさは直径が2mあります。   

2005年より日本で初めてのOSETI(光学的地球外知的生命体探査)を行う。  レーザーは一色しか出せない。 天然の星はどの色も放出します。 そこにレーザーが含まれていたら、例えば緑がその分多く輝く。  人為的に出しているのではないかと判断します。   2009年には全国同時SETIキャンペーン観測「さざんか計画」のプロジェクトリーダーを務めました。  検証するためには自分だけの発見だけではなくて、よその天文台でも間違いなくレーザーが来たことを検証しなければいけない。  その予行演習をしようという事でした。                                                2010年にはオズマ計画50周年記念「ドロシー計画」のプロジェクト・マネージャーとして、世界15カ国、18施設の研究機関による共同SETI観測を実現した。   世界での予行演習をしようという事でした。  最初のSETIが始まってからちょうど50周年でもありました。   発見はなかったがネットワークの構築は出来ました。  

まずは恒星からの適当な距離の惑星の発見から始まります。  現在確実なものはないですが、解明されていないが非常に怪しい電波はあります。  1977年アメリカのオハイオ大学でキャッチした不思議な電波がありました。  いまだに正体不明です。 W0W!シグナルと呼ばれています。    

シグナルを見つけた場合には4大原則があります。  ①徹底検証  ②検証中は公表の禁止  ③判ったら隠ぺいの禁止  ④勝手な返信の禁止(国際的な合意を経てからどうするか決める)  1960年代旧ソ連が近世に向けて電波を送りました。  1970年代になってアメリカ人が太陽系以外のところに電波を送っています。  

4歳の時にアポロ11号が月に着陸してその影響です。  実際に星を見始めたのは小学校高学年ぐらいからです。   ウエスト彗星が来まして、浅間山の天空のところを通過しました。  それが凄く印象的でした。  中学の時に「コスモス」という本を読んで、将来は天文学者になろうと思いました。  中学で不登校も経験して、その後望遠鏡があるという記事を読んで福島大学に行きました。   いい先生に出会う事が出来ました。  2年程度高校の先生を経て西はりま天文台へ行きました。 

宇宙を1/1000億にした時に、この大阪のスタジオに太陽があったとすると、一番近い恒星は東京のスタジオあたりになります。  4光年の距離になります。   地球外知的生命を探すということは人類がやるテーマだと思っています。  私たち地球を、人類を見つめ直すきっかけになると思います。 

 







  


















 

2023年5月12日金曜日

石津ちひろ(絵本作家・詩人)      ・〔人生のみちしるべ〕 ことばの魔術で人生を楽しく

 石津ちひろ(絵本作家・詩人)   ・〔人生のみちしるべ〕  ことばの魔術で人生を楽しく

昭和28年愛媛県生まれ早稲田大学文学部仏文科卒業、3年間のフランス滞在を経て帰国後、独自の言葉の世界で翻訳、絵本、詩の本を手掛けてきて来ました。  軽やかで楽しい言葉を生み出し言葉の魔術師と言われる人気作家です。  絵本「なぞなぞの旅」でボリョーニャ児童図書展絵本賞、『あしたうちにねこがくるの』で日本絵本賞、初めての詩集『あしたのあたしはあたらしいあたし』で三越左千夫少年詩賞を受賞。   2019年には石津さんの言葉の全体が評価されて、やなせたかし文化賞を受賞しました。  石津ちひろさんの言葉の世界はどのようにはぐくまれて来たのか、楽しく軽やかな言葉に込める思いについて伺います。

早起きでラジオ深夜便の最後のコーナーを行くことが多くて、アイディアをそこから思いつくこともあります。  落語などを聞いたりして、寝る時もラジオを聞きながら寝ます。   ラジオから一日中言葉に触れているという感じです。  最初に出した本が1989年の「まさかさかさま動物回文集」という絵は長 新太さんです。  回文は上から読んでも下から読んでも同じ言葉です。  この絵本は60個以上の回文で出来ています。  編集者の方には感謝しています。  回文は130個ぐらい作りました。  

「ぞうくんぱんくうぞ」、「きりんねていてねんりき」、「ちんぱんじいからかいじんぱんち」など、意味があるようなないような。  回文、なぞなぞ、早口言葉など、ストーリーだけではなくて、言葉そのもので楽しく軽やかに表現しするという、プラスの楽しさが沢山入っています。   2022年12月に出版した「ねことワルツを」という絵本があります。    絵はピアニストのフジ子・ヘミングさんです。   12年かかってやっと完成した本です。   週2回以上コンサートをしている方で、世界中を飛び回っているので、なかなか描く暇がない。  コロナ過では描けるかもしれないという事で絵が次々にできてきました。  絵とマッチングしないように感じたので、ほとんど書き直しました。 15編の詩が入っています。   

「ねことワルツを」の絵は少女がお父さんと一緒に踊っているシーンで、横にはレコードプレーヤーがあって、猫たちもいるというものです。 お父さんとは離れて暮らすことになって最後に踊る、本当にこういうシーンがあったらしいです。 それを絵に描いたものです。 

愛媛県で生まれて、高校まで地元で暮らしました。  本が自分の砦みたいなところはありました。  言葉の影響は父親かも知れません。  なんか言っては、周りを笑わせようとしていました。   子守歌も作ってくれたりしました。  中学2年生の時に一ケ月間入院していました。(腎臓)  叔母が新川和江さんの「世界の詩のアンソロジー」(タイトルは定かでない)を貰って、その詩集に浸っていました。  そういう時期が持てたことは良かったと思います。   中学3年生の時に学校新聞に俳句と短歌のコーナーがあって、両方掲載されました。  俳句では「息のつぶわが掌で水となる」 「水となり」と作ったが先生が「水となる」に直してくれました。  「水となり」では水がこぼれてゆく感じですが、「水となる」では水がちゃんと掌に収まっている感じで、一文字で印象が変わることが心に染みました。  

大学で仏文科を出て、フランス語をもっと勉強したいと思ってフランスに行きました。   行って価値観の違いを経験し、世界が広がりました。   その経験があるから動じなくなりました。   「まさかさかさま動物回文集」を出して、「なぞなぞの旅」1998年、『あしたうちにねこがくるの』で日本絵本賞を受賞。  詩は自分で書いてみたいという気持ちはありませんでした。   編集者の方から今度詩集を出しませんかと言われて、書き始めました。  『あしたのあたしはあたらしいあたし』を出版し、三越左千夫少年詩賞を受賞する事になりました。   2007年に「ラヴソング」2014年に「ほんとうのじぶん」を出版。  

「シリウス」が高校の教科書に載りました。                           *「誰もいない原っぱで風に吹かれていると 心も体も風の中に消えていって 私はいつしか何ものでもなくなる。   するとあなたへの思いのたけだけが まるで冬の夜空で輝くようなシリウスの様に際立って来る」

「言葉を大切にすることは、人生を大切にすること。」     あるクラスではいじめなどがあったが、『あしたのあたしはあたらしいあたし』の詩を掲示して、毎日朗読をしているうちに、いじめとかなくなり、良いクラスになったという事をその先生から伺ったことがあります。    言葉を大切にすることは、自分のことも友達のことも大切にすることになるんですね、と言っていただきました。           

詩「あした」

*「明日の私は新しい私  私らしい私  私の明日は新しい明日 私らしい明日」     言葉にはもしかしたら計り知れない力があるのかもしれない。  「言霊」

東日本大震災の後にいきましたが、言葉遊びを純粋に楽しんでくれました。  詩の言葉を真っすぐ受け止めてくれました。   「あした」の言葉が身体に浸み込んでいったんだと思います。

去年出した「ねこのこね」という詩の絵本を93歳になる母が読んでくれて、その後、外には出なかったが、手押し車を押して外に出歩くようになり、食事も行ってくれるようになりました。  声を出して読むことは、人の心を解き放つ力があるのかもしれないです。   私は言葉の種まきをしていると思いますが、芽を出し花を咲かせるのは皆さん次第です、と願っています。 

*印は漢字、ひらがな等が違っている可能性があります。

















 
















2023年5月11日木曜日

今中慎二(プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】 わが投手人生、悔いはあれども後悔なし

今中慎二(プロ野球解説者)・【スポーツ明日への伝言】  わが投手人生、悔いはあれども後悔なし(初回:2022/9/21)  〔明日へのことば〕 芸能生活60年を超えて 俳優 藤竜也は 何故か聞き逃し放送されませんでした。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/09/blog-post_21.html をご覧ください。

2023年5月10日水曜日

マリ・クリスティーヌ(異文化コミュニケーター)・ボランティア人生からSDGsを考える

 マリ・クリスティーヌ(異文化コュニケーター)・ボランティア人生からSDGsを考える

マリ・クリスティーヌさんは1954年東京生まれで、お父さんはイタリア系米国人、お母さんは日本人で4歳まで日本で育ちました。  その後はドイツアメリカイランタイを初めとする世界各国で生活した後、1975年に日本帰国、タレントとして活躍しました。      現在は「アジアの女性と子供ネットワーク」などを通してボランティア活動を展開するほか、SDGs(持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals))やジェンダーの観点から様々な課題に取り組んでいます。  

コロナ禍の後、去年9月にアイルランドに行きました。 スイス、アイルランド、アメリカと回りました。  アイルランドが一番楽しかったです。  小泉八雲の研究もしているので、小泉八雲は小さい頃ギリシャで生まれアイルランドで育ちました。  アイルランド民謡、アメリカのカントリーミュージックも好きです。  カントリーミュージックの原形はアイルランドから来ました。   名刺は8種類ぐらいあります。  その中の一枚が異文化コミュニケーターです。   上智大学で比較文化を学んで、異文化コミュニケーターという事を自分で考えました。   父はイタリア語で話しイタリア文化、母は日本文化、行った先々ではその国の言葉を勉強しなくてはいけなくて、大変でした。  上智にいる頃スカウトされて、レコードを出したことがあります。  海外経験があることから通訳をする機会を得ました。  

「アジアの女性と子供ネットワーク」の本部は横浜にあります。 代表をしています。  タイに行った時に学校に行けない子供たちと出会い、1996年に「WAC・アジアの女性と子供ネットワーク」を立ち上げ、学校をたてられるように寄付を頂きながらずーっとやってきました。   10か所ぐらい作って来ました。  最初、或る企業の社長さんとの対談があり、学校の資金の話をしたら援助しますという返事を頂き、当時で300万円寄付していただき、毎年10年間援助していただきました。  図書館を作りたかったのですが、関西のある方から寄付を頂きました。  退職金で校舎を建てて欲しいというような、人もいました。   いろいろな方から寄付を頂き、恵まれている団体だと思います。  

貧困な村々では子供たちが売られたりしていました。   教育の重要性を感じて校舎という事になりました。   食事の問題もあり、20~30万円で給食のための部屋が出来ました。   子供達の髪の毛が赤くて疑問に思っていたら、ヨウ素が足りないのが原因と言われました。   海苔で対応しましたが足りなくて卵でも取れるという事で鶏小屋を建てたりしました。   そういった応分に出来るプロジェクトをいろいろやってきました。2001年に「アジアの女性と子供ネットワーク」で加藤シヅエ賞受賞しました。

国際連合人間居住計画(ハビタット)親善大使も務めています。   自然災害、人的災害が起きた後に元の生活に戻るための支援をする国連機関として出来ました。  自分たちが安心して生活できる場所を提供できるように活動しています。  地域のインフラを作ることが重要です。   今やっているプロジェクトはケニヤにトイレを作る事です。    社会工学としては社会のシステムをデザイン、作る仕事で、それを勉強したくて東京工業大学大学院に入って、修士課程を修了しました。   

SDGs(持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals))のバッジのマークは17色(17の目標)あります。   「開発」ではなく「発展」の方が私はいいと思っています。   生理用品についても日本で使われているものを送っても、焼却できるような処理施設があればいいが、そうでないと川に捨てられてしまったりすることが考えられ、インフラ整備に見合った形で活動しなければいけない。 17の目標がありますが、その国が取り組まなくてはならないものがみんな違うんです。  

般財団法東京都つながり創生財団は2020年に設立しました。  理事長を務めています。  2020年に東京オリンピックが開催されることになり、2021年に開催されましたが、東京都つながり創生財団を2020年に作りましょうという事になりました。 多くのボランティアの活躍を見込んでました。  オリンピック終了後も活躍できる場所を作りましょうという事でした。    東京には世界各地からきて東京都民になっていて、英語のできない人もいるわけです。   そういった方々が自治体とのかかわりも必要で、通訳が居ないような中で、ネットワークのハブみたいな形で出来ているのが東京都つながり創生財団なんです。   もう一つの柱は共助社会、地域によっては高齢者の多い地域があり、イベントが出来ないとか細かなことだとか、細かな話だが大事なものがいろいろあって、共助社会という事で日本人を支えられるようないろいろつくっているのが東京都つながり創生財団なんです。   

地域の街つくりの決定権が男性の場合が多くあり、女性の視点からなされた街つくりにはなっていない。   私が一番楽しくやれるのは異文化コミュニケーションだと思っていて、日本語は豊かな言語であり、素晴らしい文化だと思いますので、世界の人にもっともっと知っていただきたいと思います。  「阿吽の呼吸」ってありますが、これは英語に訳せないんです。  日本の文化を判っているから理解できるコミュニケーション方法というのがありますし、そういう意味では日本は世界に対するメッセージがいろいろあるのではないかと思います。 そういったものをもっともっと発信出来て行けたらいいと思います。







 



























2023年5月9日火曜日

冨田節夫(ボランティア団体代表)    ・「循環型ボランティア」を目指して!

 冨田節夫(ボランティア団体代表)    ・「循環型ボランティア」を目指して!

 冨田節夫さん(81歳)は定年退職後、もう群れたくないと一人ボランティアを目指して、おやじの社会参加を続けてきました。   6年前にこんなおじいちゃんでも身近で困っている人に役に立てることもある筈だと「ちょこっとお助け隊」を立ち上げました。    最近は様々なお助け要請が来て、それにこたえる仲間の輪も広がり、冨田さんが目指す循環型ボランティアも軌道に乗り始めてきたと言います。  どんな困りごとが来て、どんなお助けをしているのか、冨田さんが目指す循環型ボランティアとはどんなものなもか、伺います。

リタイアして社会とのつながりは持っていたいと思って、模索しながら始めました。    群れたくないという思いはありました。   ほとんど相手にされなかった時代が続きました。   2011年の東日本大震災があり、当時70歳ぐらいでしたが、4,5月にはようやく現地に入れました。   重いものを運ぶことはできずに軽作業で思ったほどお手伝いは出来ず挫折感を感じました。   年寄りが出来るボランティアを考えさせられました。     当時町田にいて、ウオーキングコースが沢山あり、ゴミが散乱していて、ウオーキングしながらゴミを拾おうと思いました。(クリーンウオーク)  一時12,3名になりました。  

武蔵野に移ることになり、知り合いもいないので一人で出来る事を捜し、老人ホームのお手伝いなどいろいろしましたが、何か物足りなさを感じました。   「ちょこっとお助け隊」をやってみようと思いました。  又ファシリテーター講座があり福祉を促進する講座で、その中で年寄りも社会資源だという事に気付きました。   2017年に「ちょこっとお助け隊」を立ち上げましたが、6か月はほとんどお呼びがかかりませんでした。      或る時公営住宅の集会場に行って、こういうことをやってますと説明したら、翌日2,3件声が掛かりました。    お年寄りが多いところでした。   

ゴミ出し、買い物、雨戸を閉める、クリニックへの付き添いなどです。  歳を取ってくると、足が不自由になるケースが多いです。   ゴミを出す日でも、玄関、ドアの外などにゴミが出ていなかったりして、心配になったりして、見守りも兼ねてるなという事に気が付きました。  もしもの場合はどうするかというルールを決めさせてもらって、「ちょこっとお助け隊」で10分100円のほうが気持の負担がなくていいと、無償の方が反って気が重くなるという事で進めることにしました。    病院の場合は2,3時間は覚悟しています。   一瞬で済ませられるようなこともあります。(テレビのリモコンの押し違いとか)   話し相手が欲しいような場合もあります。   

ガラス戸に遮光フィルムの接着依頼がありましたが、難しくてギブアップしたことがあります。  ベッドの組み立て依頼も5時間ぐらいかかって大変苦労しました。      ペットの餌やり依頼もあり、猫は嫌いだったので、近所の猫好きの人が対応してくれて助かりました。   おばあさんから電話があり、倒れてしまったので来てほしいと言われ、救急車は呼ばなくていいから、一晩そばにいて欲しいと言われてしまったことがあり、別室で様子を見ることになってしまったこともありました。  翌朝おばあさんはちゃんと起きてきました。 「ちょこっとお助け隊」を逸脱しているレベルかと思いますが。  

群れたくないと思って立ち上げましたが、仲間が増えてきて来ました。   本当の弱者はうちなどには頼めなくて、行政なり福祉なりのヘルプが必要になってくる。       頂いたものを回して、循環型ボランティアにしていければいいなあと思っています。   昨年に実績では689件でした。   約1/3はゴミ出しとなっています。       去年は年間45万円となり、12万円を若者の支援の方に回しています。   年寄りでもささやかではありますが、社会のお手伝いが出来るという事がありますが、もう少し組織的に広がらないかなあと言う思いがあります。   ここまでやってこられたのも仲間の協力ですね。