2022年10月8日土曜日

大釜正希(性の多様性への理解と 支援を広める活動)・【人ありて、街は生き】 LGBTQ 大人に知ってほしいことがある

大釜正希(教育現場で性の多様性への理解と支援を広める活動をしている)・【人ありて、街は生き】 LGBTQ 大人に知ってほしいことがある 

大阪市は2017年LGBTQなど性的マイノリティーを対象とした大阪市パートナーシップ宣誓証明制度を始めました。   初日に証明書の交付を受けた3組の中に大釜正希さんがいました。  大釜さんは大阪府内の団体職員ですが、本来の仕事とは別に学校や地域の会合に出向いて LGBTQ への理解を深める活動をしています。  原点は自身のこれまでの体験にあったと言います。   教育現場でしかも小学校などでの早い段階での啓発が大切だという大釜さんに伺った2019年のインタビューを聞きいただきます。

宣誓書はA4サイズの紙です。 「私たち宍戸洋平と大釜正希は大阪市パートナーシップ宣誓の証明に関する要綱に規定するパートナーシップ関係にあり、互いを人生のパートナーとすることを宣誓します。」2018年7月9日  となっています。  裏面には市が認めた内容が書かれている。  行政が認めたことになります。  10月に祝福と誓いの式も友達を招いて教会で行いました。   

祖父の代までは静岡で曹洞宗のお寺でした。  3歳の時に幼稚園の先生から女の子とばかり遊んでいないでもっと男の子と遊びなさいと言われ、ちょっと気付きました。   幼稚園の頃の体験は色々インパクトがあり、男の子の小便のトイレに行くのが厭で個室を使っていたら、先生に個室のトイレに入っていたら閉じ込められたりしました。   親からは特に男の子らしくするようにとかは言われていませんでした。   小学校では先生からオカマっぽくするんじゃないと言われました。   そうすると子供たちが真似をしていう様になりそれが厭でした。   思春期になると恋愛感情が出てきて、相手が女性の場合もあれば男性の場合もありました。  自分はいったい何者なんだろうと揺れ動いていました。 大学になるとゲイとかレズビアン、トランスジェンダーとして生きている人とかいろんな人と出会って行きましたが、なんかしっくりしませんでした。    或る男性と付き合っていて、家に来る機会があり、親は友人だと思っていたんだと思いますが、私が体調を崩して熱を出してしまって、看病しながら一緒に寝てしまったのを親に見られてしまいました。  付き合っているという事を親に話をしました。  父親は理解してくれましたが、母親は友達としてしか受け入れられないような反応でした。   二人でパートナーシップの式に臨み、両親も参加してくれました。  母親は絶対しゃべらないと言っていましたが、一番しゃべっていました。

大阪高槻市の小学校の教室、教員を対象にしたLGBTの研修会に大釜さんは講師として招かれていました。  子供たちのどんなサインを見落としてはいけないのか、丁寧に解説していきます。

性的指向と性自認いついて、性自認は自分のことをどんな性別なのか認識しているか、自覚しているかを表す言葉です。   性的指向は同性を好きになるという人もいます、男性、女性ともに好きになるというのもあります。  全性愛という、男性女性のくくりを越えたものもあります。   これだけではなくいろいろあります。  LGBTの子供の7割は暴力やいじめにあっているというデータがあります。(2013年の調査)    いじめは身体的なもの、叩かれたり蹴られたりという事があります。   言葉による暴力、仲間外れ、無視というようなこともあります。   31~41%の子供が自殺を考えたという2013年の調査結果があります。   自分の性に違和感を感じる子供たちの6割は誰かに打ち開ける経験があるという数字も出ています。   打ち開ける相手は同級生が6~7割、親とか教師へは1割程度と言われています。    メディアとか私たちが日ごろからどういったメッセージを子供に伝えているか、どんなかかわりをしているかが大事で、子供への影響があります。  LGBTの子供がいるという事を前提に考えていかないといけないと思います。   

学校ではトイレのことは大きいですね。  作文だと男なら僕、女なら私という風に書かなければいけない指定があると作文が書けない子がいる。  第二次性徴期、喉仏、髭などに対応する。  下を向いて話したり、髭を抜いてしまったりすることがある。  胸のふくらみが目立たないように猫背に成ったりする子もいます。  制服の問題もあるが、選択できるようにとか、ちょっとずつ変わって来てはいます。   話を聞いてくれる、LGBTを笑いの対象にしない、多様性を理解する先生だったら相談しやすいと思います。    

打ち明ける側としては、その前も後もただそのまま変わらないでいてもらえるのが一番良いなあと思います。   対等に話を聞くという事は大事だと思います。  打ち明けられた先生が一人で抱えるのではなく、先生も周りの機関などともかかわりを持って繋がっていくという事も大事にしてほしいと思います。   

LGBTの当事者であると言いう事が判って、親が受け入れてくれなかったら、その日から生活の場所を失うかもしれないので、親の理解はとても大事だと思います。   ありのままに生きてゆくのか、今までの社会の固定観念を押し付けて生きてゆくのがいいのか、どっちが幸せなのかというのを考えてもらったら、答えは出るのではないかなあと思います。 

自分自身がまず自分の中で自分のことをちゃんと受け止めてあげる事、自分を救えるのは自分でしかいないので、まず自分が受け止めることが大事だと思ています。   当事者は悪いわけでもなんでもないので、もっと自信をもって勇気を持ったり出来る人は、そうして言ってもいいのかなあと思います。  

2019年の電通の調べによるとLGBTの比率は8.9%、2016年LGBT総合研究所の調べでは8%、2019年の大阪市の調べで3%、調査によってばらつきがあります。   いじめに合うピークは小学校5年生から中学校2年生にあるというデータもあります。  追い詰められて自殺を考えたことがある子が4割近くに達するというデータは心にとめておきたいと思います。


2022年10月7日金曜日

山崎真(キリスト教伝道文化センター 元・館長)・平和の願いを引き継いで30年

山崎真(キリスト教伝道文化センター 元・館長)・平和の願いを引き継いで30年 

1937年(昭和12年)生まれ、85歳。   30年前からアメリカ人写真家の作品展を開いています。  写真は終戦直後の日本を撮影したものですが、その中の一つが長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」です。   この写真は5年前ローマ教皇が、これが戦争がもたらすものと世界に紹介しました。  山崎さんが30年前から写真展を開いてきた経緯は何か、原爆直後の長崎を写したアメリカ人写真家の思いはどのようなものだったのか、山崎さんに伺いました。

「焼き場に立つ少年」はローマ教皇がこれが戦争がもたらすものと世界に紹介した有名な写真です。   亡くなった幼い弟をおんぶして荼毘の順番を待つ半ズボン姿の少年の写真、直立不動で裸足で哀しい気持ちを必死にこらえている。  高校生の英語の教科書にも掲載されている。  アメリカ人カメラマンのジョー・オダネルさんが撮影したとされる写真です。  アメリカ海兵隊の従軍カメラマンで日本の空襲の記録、その後の日本を記録するという事で長崎、広島など各地の写真を撮影した。   

盛岡にキリスト教伝道文化センターがあり、アメリカの教会を訪ねるツアーをやっていました。   1992年1月にアメリカ、テネシー州のナッシュビルを訪問して教会にお世話になり、そこにジョー・オダネルさんがいまして、写真を見せてくれました。   吃驚して、日本で写真展をしたいことを話しまして、写真を持ってくることが出来ました。 

私たちを連れて行った宣教師は昭和23年に日本に来てボランティアで日本の復興を3年間するという事でしたが、そのまま日本に残って宣教師として働いていた方たちです。    ラーマズさんご夫妻、特に奥様のマルタ先生は最初の勤務地が広島の広島女学院の家政科の先生でした。  ラーマズさんと結婚して20年ぐらいして盛岡のキリスト教センターに来ました。    マルタさんはアメリカの教会の人たちに原爆がどれほど恐ろしいものかという事を知らせたいと、私と話し合って折り鶴を折って、佐々木禎子さんの物語を英文にしたものと併せてアメリカの各地の教会に送っていました。   ナッシュビルを訪問してジョー・オダネルさんに会う事になったわけです。   ジョー・オダネルさんが撮影したのは23歳の時でした。  

「焼き場に立つ少年」を撮影した ジョー・オダネルさんは、その時背筋が寒くなるような光景だったといいます。  ボロボロの服、裸足で背中に幼い男の子が括り付けられ、眠っているように見えた。 係員が背中の幼児を燃えさかる火の上に乗せる。  火は勢いよく燃えあがり少年の顔を赤く染めた。  少年は背筋を伸ばして気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。   涙が出ないほど悲しみに打ちひしがれた顔、私は彼の肩を抱いてやりたかった。   彼は急に回れ右をすると背筋をピッと張り、歩み去った。  一度も後ろを振り向かないままで。   

写真はジョー・オダネルさんの屋根裏のトランクに40年以上保管されたままだったそうです。   それらはジョー・オダネルさんの任務以外の写真でした。  自分用のカメラを買って長崎、広島など約300枚の写真を撮ったようです。   ジョー・オダネルさんが日本に来たのは9月2,3日なので原爆の生々しい様子が残っていた。   原爆がこんなに酷い恐ろしい、間違ったものであるかを、長崎の惨状を観て知って考えが変わって行ったようです。   写真は9月から翌年3月までの間で撮り続けました。   アメリカに戻って情報局のホワイトハウス付きのカメラマンとして働き、20年ぐらいすると体調の異変に気付きました。  背中にケロイドが出てくる、腕もやけどのようになる。  病院に行っても何が原因か判らないと診断されたそうです。  その後入院して20数回手術をしたそうです。残留放射能の影響だと言う事は後で判ったそうです。    

体調が少し良くなった頃、ケンタッキー州の或る修道院に美術品の展示を観に行ったら、キリストが十字架に張り付けになっている彫刻があり、そこに原爆で亡くなった子供たちの写真が体中に貼ってあった。  それを観たジョー・オダネルさんは自分の写した写真を出してみようと思ったそうです。   その彫刻も買い取って自分の家に飾ったそうです。   写真展をしたがアメリカではあまりよく思われなかった。   家族からも反対を受け、子供たちも出ていき、奥さんとも離婚して、でも信念を曲げないで、原爆は間違った方法であったという事を言い続けました。  そういう状態の時に私らが行きました。  日本で写真展をやらせてほしいと頼んだら、彼は即座にOKをしてくれました。  

ジョー・オダネルさんは2007年8月9日長崎原爆の日に亡くなりました。(15年前)   めぐりあわせの不思議さを思いました。    アメリカに行った1992年10月に盛岡で第一回の写真展を開きました。  30年間写真展を開いてきて300回に近い回数となります。  ジョー・オダネルさんは写真展に何回か来てくれましたが、かつて子供たちに笑顔がなかったのが、笑顔があることに凄く嬉しかったと言っていました。   戦後50年経ってジョー・オダネルさんの写真を集めて写真集を作って話題になりました。    アメリカではどこに頼んでも写真集を出版するという事はなかったが、亡くなる少し前になってナッシュビルの大学の出版部が写真集を出してくれることになりまして、私もジョー・オダネルさんの奥さんから送られたものを一冊持っています。

ジョー・オダネルさんが残した言葉、「これほど残酷な人災があるだろうか。   これは人類に対する重罪だ。   もはや沈黙してはいられない。  過去は自分なりに正当化することはできる。  だが未来は平和でなければならない。  平和なくして未来はあり得ないのだから、過去は変えられないが、未来は変えることができる。」

アメリカの人がアメリカに向かっていう事は勇気のあることだと思います。   ジョー・オダネルさんの遺志を継いで写真展をやって行こうと思ったわけです。   私は85歳になり、写真展も長くは続けられないので、他の平和活動の方で若い人もいますので、実行委員会を結成してもらって続けてもらおうかなと思っています。  

2022年10月6日木曜日

クミコ(シャンソン歌手)         ・愛と平和を歌って40年、ウクライナに思いをはせて…

 クミコ(シャンソン歌手)    ・愛と平和を歌って40年、ウクライナに思いをはせて…

1954年茨城県生まれ、大学在学中に演劇から歌の世界に飛び込み、当時新人の登竜門だったヤマハのポピュラーコンテスト、世界歌謡祭にも出場しましたがデビューは叶いませんでした。 その後1982年伝説のシャンソン喫茶と言われた「銀パリ」のオーディションに合格、そこからプロ歌手としての活動が始まって、その後作詞家の松本隆さんをはじめとして多くの音楽家や歌手が注目する歌手として作品の提供を受けてきました。   2011年3月11日東日本大震災が起きた時は西巻のコンサートのリハーサル中で、身一つで避難しました。  節目節目で人の心を揺さぶる歌を歌って来たクミコさんの40年、お話を伺いました。

伝説のシャンソン喫茶と言われた「銀パリ」から40年というのは言われるまで気が付かなかったです。  「銀パリ」に地下に降りるにしたがって生の音楽が聞こえてくるなんて、素晴らしい体験をして、シャンソンはこういうところで歌われている場所なんだと知ったのは、20代そこそこでした。  そこで歌い始めて40年とは振り返ってみるとビックリな事ですね。 

自由になりたい、そのためにはもっと変な人に会いたいと思って、早稲田なら絶対いると思って、演劇ならもっと変な人がいると思って、舞台に立ちたいという思いもあり、早稲田大学に入学しましたが、演劇がアングラ時代に入っていて、こんなのありというような時代で、「木霊」という不条理演劇の中で歌うシーンがあり、それがとてつもなく気持ちよくて、歌ってなんて素晴らしいんだろうと思って歌に変ってしまいました。   

1978年、24歳の時第16回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場。  就職何て考えて居なくて、友達に誘われてバンドに入って、世界歌謡祭の最後まで行けましたが、入賞できずそれで終わってしまって、人生浪人が始まってしまったと思いました。   「銀パリ」ではオリジナル曲とサントワマミを歌って、入ったらシャンソン歌手になってしまったという感じです。  初めての舞台では物凄く緊張しました。  一日6回歌って1080円で、人生ちょろくないと思いました。   

2002年の「わが麗しき恋物語」 新しいシャンソンの形を模索しようという事で、その中に一曲でした。   人生の無常を感じるような斬新な歌詞で、それが皆さんに届いたのが嬉しかったです。   2010年には広島の原爆で亡くなった佐々木禎子さんをモデルにした「祈り」という曲で、甥御さんが作ったものを渡されました。  彼も被爆2世で被爆したことに対して不安をもって生きていました。   アメリカにも渡って歌っていろいろな方と会うことができました。   歌が私を成長させてくれているんだといつも思います。  

戦後65年という事でNHKの紅白歌合戦にも出場しました。  私は歌い手としては仕事と家庭は別にしたいタイプなので、家族を客席にというようなことはあり得ないことでした。 2016年ウクライナのキーウにあるチェルノブイリ博物館でも「祈り」を歌う事になりました。   たまたまチェルノブイリ事故後30年ということで、ロケに行きましょうと言う事で、そこでも歌えるという事を聞きましたので、光栄だなと思いましたし、実際どういうものだったのかという事を検証したい、その地に立ちたいと思いました。   コーディネータ―兼通訳の人、ビタリさんという男性の方が歌が好きで日本の演歌を歌っちゃうんです。(ユーチューブで聞いて覚えて)  戻ってきてからもスタッフがフェースブックでやり取りして仲良くしていました。   仲良くなったことが逆に辛い思いをすることになってしまいました。

私にとってシャンソンは社会とつながる、歌がツールの一つで、社会性の有る歌が好きでした。  その中でも「愛しかないとき」を初めて自分の言葉で歌いたいと思った、世界と自分の関わりについてみたいな愛ってどんな意味があるのかとか、そういう歌を歌い始めたのが40年前で、初心にかえって録音し直そうということは決まっていましたが、まさかその時にウクライナ侵攻が始まるとは、夢にも思いませんでした。  これはちょっとまいりました。   理不尽に虐げられて行く立場の人たちに向けられた歌で、戦いもそうですが、そんな中で愛とはどういうものかを突き詰めてゆく歌ではあると思います。   自分で日本語に訳詞しました。   レコーディングの日程は全部決まっていましたが、本当にこんなことがるのかと思ってがっがりしてしまって、皮膚感覚でぞっとしてしまってそこからは困ったなと思いました。   私がビタリさんにエールを送るつもりで「愛しかないとき」をアカペラで送ったら、返りの歌が私の「祈り」の歌でした。  歌ってくれているんだと思いました。  歌で遠い距離が繋がって又一緒に生きて行こうという気持ちになりますね。    

レコーディングをした時には、以前「愛しかないとき」を歌っていた時には、愛は凄い、愛は不滅と、心の有り場所立ち位置ははっきりしていましたが、初めて足元がぐらつくという感覚で歌った思いがありました。    愛は凄い、愛は不滅って本当なのというように、気持ちが弱くなって、弱くなってもいいやという思いで歌いました。  

*「愛しかないとき」  歌:クミコ

これからの人生を考えた時に、凄くリスペクトする方とご一緒したいという思いがあり、菅原洋一さんだなと思いました。 音楽として歌として最高峰の形を示してくれているなと思うんです。  菅原さんの凄いところは89歳にして色っぽいところなんです。   色っぽく歳を重ねる男の方はなかなか難しいなか、優雅な香りをまといつつ色っぽい香りをまといつつ、本人は淡々と歌われる。  「今日でお別れ」を選んだ理由は、以前デュエットする機会があり、感情が盛り上がって抱きしめたくなっちゃいました。  、デュエットするんだったら「今日でお別れ」にしたかったので、快く受けていだきました。  切なくて途中で泣きが入っているような声になっちゃって、感極まりました。  

*「今日でお別れ」  歌:クミコ、菅原洋一

12月4日に六本木のコンサートで菅原さんとデュエットします。            私がほかの歌い手さんとちょっと違うのは、死生観みたいな歌が結構多くなってしまっていて、本当は歌って希望とか光を求める中で、自分はなおかつ死生観みたいな歌を歌ってきたという複雑な思いがします。  傷ついた方が涙されることが多かったのでその涙が浄化作用に役に立ったならいいかなと思います。  生きる事と死ぬことが同次元で歌っていける歌があれば やって行きたいと思っています。     

2022年10月5日水曜日

和田秀樹(高齢者専門の精神科医)    ・80歳の壁は乗り越えられるか?

 和田秀樹(高齢者専門の精神科医)    ・80歳の壁は乗り越えられるか?

和田さんが書いた「80歳の壁」や、「70代で死ぬ人」、「80代でも元気な人」、「70歳が老化の分かれ道」など多くの本が大ヒットして話題になっています。   30年以上高齢者医療の現場で多くの患者を診てきた和田さんがよりよい晩年を送るのにはどうしたらよいかなどを書いています。  人生100年時代と言われていますけれども、80歳が一つの節目、80歳の壁を乗り越えるのには、60代、70代をどう過ごしてゆくかが大きな課題の様です。   受験アドバイザーや映画監督の肩書を持っている高齢者専門の精神科医、和田秀樹さんに伺います。

若いころから受験勉強法を書いたり、心理学の本を書いたりいろいろしてきましたが、まとめて売れたのは初めての経験です。  今の日本の平均寿命は男性が約81歳、女性が約87歳ですが、健康寿命が大事です。   健康寿命は男性は72,3歳、女性は75,6歳です。  男性で9年女性で12年ぐらいなんかしらの不調、障害を抱えながら生きてゆく年齢です。    70代だったらせいぜい5~10%、80代になると3割ぐらいになってしまう。  90代になると6割ぐらいになってしまう。   元気なお年寄りになる方法がいくつかあると信じています。  

高齢の人が仕事を続ける能力というのが、それを維持するという事が大事です。   認知症の人を見ていてご家族の方はこれもできなくなった、5分前のことを忘れるとか言いますが、話を聞いていると話は通じているし、料理、買い物が出来ているとか、出来ていることが結構あるわけです。   できなくなったことを嘆くより、今出来ていることを減らさないことが大事だと言っています。  100歳でも床屋さんをやっている人は床屋さんを続けていることに意味があると思うんです。   

高齢者は記憶が落ちるとか知能が落ちることを心配しますが、先に落ちるのは意欲なんですね。   意欲を司る前頭葉が50代ぐらいから縮み始めます。  そのころから意欲がちょっとづつ落ちてくる。   認知症の人は意欲が落ちていることが多いので、デーサービスに週に3,4回行って頭や身体を使わせることで進行が遅れるんです。   意欲のある人は歩き続けるから70,80代でも歩き続ける。  60代では歩かなくても歩けなくなることはない。  70,80代の人が病気で1か月寝て居たり、コロナ禍で家に閉じこもっていたりすると如実に歩けなくなるんです。   70代は頭や身体を使い続けるかどうかで、どのぐらい若さ、元気さが保てるかどうかで違ってきます。  

80歳になるために動ける限り動くという事、安易な引退はしない、後食生活が大事です。 肉を食べる、タンパク質をちゃんと摂る。   タンパク質は筋肉、肌、血管、髪の毛などの材料でもあるわけです。    欧米で長寿だったり心筋梗塞の少ない国はフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルがあります。   赤ワインを飲んでいるから赤ワインがいいんだという話になってそれも一理あるが、むしろ韓国や日本の方が少ない。   肉や魚が出る国がいいんです。  魚にはDHAとか良い脂肪が入っている。  肉はコレストロールとか悪い脂肪みたいに思われているが、コレステロールは免疫細胞の材料だったり、男性ホルモンの材料だったりします。   コレステロールの多い人の方がセロトニンという神経物質を脳に運ぶ働きがあるので、鬱になりにくいとかあるので、肉と魚の両方を摂ることが大事です。   同時にワインも赤と白を肉と魚に合わせて交互に飲んでいます。   陽の光もセロトニンという神経伝達物質を増やします。   セロトニンが少なくなってくると不安感、いらいらしたりします。 多いと幸せな気分になる。    セロトニンが本格的に減って来ると鬱病になる。  鬱病になると見た目に10歳ぐらい老け込ませるだけでなく、歩かなくなったり頭を使わなくなったりするので一気に老化が進んでしまう。  

人付き合いは有るに越したことはない。    定年後友達がいるかいないかで、その後の老化に大きな影響を与える。   気を遣うストレスは免疫機能にも悪いし、鬱の原因にもなる。  気楽にいられる友達と一緒にいた方がいいです。  後、趣味があった方がいいです。  後人生20年とすると、毎日実験だと思っているといいと思います。   毎日毎日いろんなことが試せるから、本にない知識がいろいろ得られると思います。   毎日実験だと思ったら退屈しないと思います。  

私がみている限り、お年寄りの方で細めの人よりも太めの人の方が長生きしているし元気だし、というのが多いです。   医者が言っていることと本当の高齢者の実態は違うと思うようになりました。   37,8歳で常勤の仕事を辞めて、或る種フリーターみたいになりましたが、認知症、要介護状態になってからのお年寄りを沢山見ていると、若いころ地位が高かった人でも、晩年惨めな思いをしている方がかなりたくさんいます。  肩書で生きて行くよりも私歴で生きていけるようになりたいなあと思います。    あくせく出世を目指すよりも、自分として何が出来るかを考える。  

私が勤めていた病院が日本で最初の医者付の公的な養老院で、老人医学の研究センターにしようという事で始まりました。   ホームで取ったデータに面白いデータがいっぱいあって、血糖値は高い人も低い人も生存曲線は変わらない。   血圧は130ぐらいと150ぐらいでは変わらないが、180を超えると生存率が低い。   

診ている患者の70代の半分ぐらいが認知症で、後は歳を取ってから鬱になってしまった方とかが多いんですが、認知症は80代位以降の病気なんだろうなという事、今の70代は十分に若い、80代になって来ると年寄りっぽくなってくる。  

小学校2年生で父親の転勤で大阪から東京に移りました。(小学校は6回転校)  灘中、灘高から東大医学部に入学。   小学校時代は言葉の件でいじめにあいました。    母親からお前は変わり者だからサラリーマンは無理だろうから、資格を取らないと食っていけないと言われました。   医師の資格を取ろうと東大の医学部に入りました。    何かを始める時にやり方を勉強してからやらないと、何にもできないという事は感じています。 

高校2年生の時に藤田敏八監督の「赤い鳥逃げた?」という映画を観て、「29歳ですることがなければ爺だ。」という映画でした。  私も17歳ですることがないので爺だと思たんです。  自分の想いを一つに作品にできる映画は素敵なものなんだと思いました。   高校3年生で年間320本ぐらい観ていました。(5本立てぐらいなので 50~60回行く)  映画を観に行くために効率的な勉強をしようと考えてやったので、結果的にはそれがよかったです。 当時山口百恵さんが東大生のアイドルで、東京大学アイドルプロデュース研究会を作ったらマスコミ、週刊誌が取り上げてくれて、武田久美子さんという当時まだ13歳の子が優勝しました。  僕らも売り出そうとしましたが、近藤真彦さんの主演映画に引き抜かれてしまって夢は断たれてしまいました。   その時のお金が残ったのとアルバイトで100~150万円たまって映画を作ろうとして半年で半分ぐらいしか作れなかった。  段取りの悪さを指摘されて、現場について勉強することになり、映画製作の段取りを覚えました。   人生観として、やり方も知らないでものを始めてはいけないという事を学びました。 

2007年公開映画「受験のシンデレラ」を作成。(47歳)  第5回モナコ国際映画祭最優秀作品賞、最優秀男優賞、最優秀女優賞、最優秀脚本賞の4部門を受賞。   その後も介護の映画、ワインの映画、レイプ被害者の目から見た世界の映画とかを作ったりしました。   

時たま血圧が200を超えると思っていて、友達が心臓専門のクリニックを開業したので、心臓ドックを受けて、冠動脈は大丈夫でしたが、心臓の筋肉が分厚くなってしまっていました。(心肥大)   筋肉が内側に広がると心室が狭くなる。  このまま放っておくと心不全になると言われました。    血圧を下げる薬を飲んで170ぐらいに下げています。 正常の値まで下げてしまうと、自分の状態としては低血圧になってしまう。       3年前に喉が渇くので。血糖値を測ってもらったら660ありました。  インスリンを使うとやめられなくなってしまうのでこれは避けて、薬を飲んでも下がらなくて、スクワットをやったら血糖値が下がり歩くようになりましたが、300ぐらいはあります。   170の血圧をほうっておいたら、或る時飛行機から降りる時にピューピュー喘息みたいな音がして病院にいったら心不全だと言われました。   一寸歩くと息が切れるようになるんだろうなとがっかりしていましたが、利尿剤を飲んで尿は近く成りますが、信号を渡るのにダッシュできるので大丈夫かなと思っています。   

今出来ていることを毎日毎日普通に続けていただきたいと思います。   その意欲を保つためにはいろんなことを試してみることが大事ではないかと思います。  人生の目的のピークは後ろに持って行った方がいいのかなという気がします。  私は糖尿病ですが、眼底は今のところ正常だし、腎機能も正常なので、数値よりもそこがどうなるのかの方がよっぽど大事だと思います。   


2022年10月4日火曜日

中村梅玉(歌舞伎俳優)         ・いつまでも二枚目の心意気で

 中村梅玉(歌舞伎俳優)               ・いつまでも二枚目の心意気で

 重要無形文化財(人間国宝)の知らせを頂いた時には有難いことだと思いました。  歌舞伎という素晴らしい伝統、文化だという事を改めて思っています。   その担い手であることに誇りに思っています。  素晴らしい歌舞伎という芸術を後の世までも残さなければいけないという、使命感を感じています。  六代目中村歌右衛門(人間国宝)は父ではあるんですが、師匠であり、神みたいな人ですから、父の境地にたどり着いたなんて夢にも思いません。  

六代目中村歌右衛門の妻が私の実の叔母だったので、親戚関係にはありましたが、養子に決まったのは初舞台の前年でした。  昭和31年の正月に『蜘蛛の拍子舞』の福才で初舞台を踏みました。(9歳)  舞台に立つ事は面白かったです。   松本 白鸚さん、市川 猿翁さん、去年亡くなった中村吉右衛門さんも3人とも女形の腰元で出ていました。  白鷗さんにおぶさって花道を入った覚えがあります。  まずは日本舞踊、三味線、長唄、鳴り物のお稽古には必ず通わなければいけません。  歌舞伎役者としての一つの修行です。  早退したり部活もできず日常の稽古は厭でした。   声変わりで苦しかったことは余り無いですね。   若い衆も先輩がやっていたので我々にはいい役が回ってこないのは当たり前のことでした。 

東横ホールで若い人だけの歌舞伎がそのころ始まって、良い役を与えていただきました。  お正月の舞台で弟と二人で「夫婦道成寺」をやらしてもらって、しばらくぶりの主役を頂きました。   一人前になるスタートラインだった気がします。  父がつきっきりでいろいろ教えてくれました。    昭和42年八代目中村福助を襲名、責任を感じる舞台でした。   父からは「これからが本当の修行だよ」という事は言われました。  その時は絵本太功記』十段目の武智十次郎と『妹背山婦女庭訓・吉野川』の久我之助を演じました。  これで方向性が決まって、父が私は立ち役のほうに向いていると見込んだと思います。   福助時代は25年続きました。 

三代目梅玉が早く亡くなってしまって梅玉という名前が途絶えてしまっていて、それを継がしたらどうかと思ってくれたんだと思います。   襲名した当時は三代目さんをよく知っている方が多かったので、大反対をした人がいたという事は後で伺いました。  私は使命感が勝りました。 これも30年になります。    三代目梅玉は女形だったので、梅玉の四代目として自分なりの道を進まなければいけないという事を自覚して、四代目梅玉を作り上げるのが目的でしたので、一人前になれたなと思う時点で梅玉という名の使命を果たせたのかなと思います。   

人間国宝に指名されて、後輩に歌舞伎という素晴らしい舞台芸術を伝えてゆくという使命があるので、いろいろと口出しをしていってもいいのかなあと思っています。   先輩たちの素晴らしい芸を私を通じて教えるという事が大切だと思います。    父の言葉としては、「大きな舞台に立って様になるような品と格を大事にしなさい」という事ですね。  器用貧乏のような役者にはなるなという事ですね。   ではどうすればいいかと言う事は言ってくれなかったですね。   父は「道成寺」を1000回以上踊った時に、しみじみと我々に言ったのは、「1000回踊ってもまだこの程度なんだよ」と言っていたのを今でも覚えています。  芸の深さは怖いぐらいの話ですね。 満足したらそこでおしまいなんですね。  でも或る意味これが苦労ではないんですね。  自分としては楽しくて考えられる余裕が出来て。今日はこういう風にやってみようというゆとりが出来て、それが楽しくてしょうがないですね。  

今回第三部、源氏物語の夕顔の巻、舞踊ですがそれに出て、もう一つ「盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)」主役の相手役をやります。  源氏物語の夕顔の巻では光源氏役なのでちゃんと貴公子ぶりが見せられるかそこが勝負なので緊張もしています。 「盲長屋梅加賀鳶」は主役道玄を遣り込める相手方なので、後輩が相手なので遣り込めてやろうと思っています。 


2022年10月3日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 枡野浩一

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 枡野浩一 

枡野浩一さんは1968年東京都生まれ、大学中退後広告会社のコピーライターやフリーの雑誌ライターを経て1997年短歌絵本「てのりくじら」「ドレミふぁんくしょんドロップ」で歌人デビューしました。  簡単な現代語だけで読者が感嘆、感心して褒めるような表現を目指す、感嘆、短歌を提唱されて、又短歌をちりばめた小説「ショートソング」はおよそ10万部のヒットとなり、短歌ブームを牽引しているおひとりです。  短歌以外にも絵本、童話、詩、評論を手掛け多方面で活躍されているところは穂村さんと一緒です。  

「毎日のように手紙を送るけれどあなた以外の人からである」枡野浩一全短歌集   今日重版が決まりました。  名久井直子さんというデザイナーの装丁になっています。  帯は小沢健二さんの文章になっています。

穂村:今は短歌ブームになっているが、現代語の短歌は物凄くはやっています。  

枡野:以前は現代語で作っているだけでこんなのは短歌じゃないというような方が多かったりしました。

穂村:こんなのは〇〇じゃないというような決まり文句のようなものがあって、〇〇に入りやすいジャンルとあまり入らないジャンルがあって、短歌は案外言われがちなジャンルかなと思います。   

「あの夜も今夜もダンスフロアーに華やかな影踏み踏み笑う」

枡野さんが選んだ短歌

「幸せは前借でありその猫を看取ってやっと返済できる」   仁尾智         枡野:仁尾さんは猫の短歌ばかり書いている方ですが、この短歌は何か説得しよう見たいなベクトルの、本来短歌では嫌われそうな短歌だと思いますが、自分に言い聞かせてるような短歌で、猫を飼ったことのある人、看取ったことのある人には、物凄く救いになるというか、救いになるような短歌はスローガンみたいだと言われて嫌われたりするが、私はそういった短歌も好きなのであえて選びました。

穂村:突然猫が出てくるが、最後まで読むと、その猫が与えてくれる喜びが幸せなんだという事がわかるんですね。

*「あとは床にハイハイしてる赤ちゃんがいれば最悪だと思うほう」  伊舎堂仁    枡野:実際には赤ちゃんはいないが、前半を読んでいるだけで目に浮かんでしまう。   部屋に赤ちゃんがいればもっと最悪だという、ひねくれ具合そういったことを歌にしてしまう、そこに心打たれました。

穂村:誰も書きたがらない場所が短歌にはあると思います。

「コンビニを並べて行けばそれぞれにあかるい歌が聞こえる町だ」   吉田恭大    枡野:コンビニは煌煌としているがあまりいいイメージの明るさではないが、コンビニを並べて行けばそれぞれに明るい歌が聞こえる町だと、街という捉え方をすることで急に素敵な瞬間があるように思えて、取り上げました。

穂村さんが選んだ短歌

*「母の日にパパが作ったタコ焼きはたまにタコ二個たまにタコなし」  松田和子?(妹 10歳の時の作品)                                 穂村:早口言葉みたいですが、お父さんのタコ焼き技術がそんなに高くないのがよくわかります。  リズミカルに書かれている。 

*(おまえゆで卵に似ている)「ゆでたまごゆでたまごってあのゆでたまごおまえゆでたまごに似ている」  松田理子?(姉 13歳の時の作品)  

枡野さんが選んだ短歌

*「いつか目が覚める気がする晴れた日の渋谷誰ともぶつからなくて」   岡本真央? 枡野:ぶつからないという事を夢ではないかと、これは目が覚めてしまう気がするという凄い不安な感じで表現していて、凄く惹かれました。

穂村:昔一週間一度も信号に引っかからないという、短歌をみたことがあって、もしかして死んでいるんじゃないかというような感覚に、ちょっと似ていますね。

「洗濯機に絡まっているこれはシャツこれはふられた夏に着ていた」    山階基     枡野:時間の順番、読むたびにそうだと思ってしまいます。

「いいことはなんもないけど桃色の花を眺めてだましだましだ」    工藤吉生      枡野:ずっと日常に張り付いてきて、花を眺めてだましだましだ生きてきた感じにピンとくるんです。  桃色の花という具体的ではないのがいいです。  「だましだましだ」というのが面白い。

「どこにでも行ける気がした真夜中のサービスエリアで空気を吸えば」    木下侑介  枡野:自分でもそうなのかと、浸らせてくれる短歌です。

穂村:真夜中のサービスエリアという限定されてところの空気というのは特別製の空気なんでしょうね。   

穂村さんが選んだ短歌  

*「げらげらと笑い転げる真夜中も東京タワーは涼しく燃えて」    佐々木美智子?  穂村:ちょっとレトロな感じがしますね。   「涼しく燃えて」が都会の青春を感じる表現ですね。  

「何時まで放課後だろう春の夜の水田に揺れるジャスコの灯り」   笹公人        穂村:これも今ではない、ちょっと前ですね。  

枡野:固有名詞が出てくると急に時代が刻印されますね。

枡野さんが選んだ短歌

「生きていていいと未来が言っている予定があるってそういう事だ」  岡本雄矢    枡野:この短歌は認識の短歌、自分のためのスローガンみたいな短歌だと思います。

穂村:枡野さん的な短歌ですね。  生きるための必需品的な短歌。   

*「新宿は息がしやすい真冬でもノースリーブの人が歩いて」   庄司咲?       枡野:真冬でノースリーブの人が歩いていたら寒そうと思ってしまうが、凄くホッとする短歌です。

穂村:これも生存のためにぎりぎりの必要性に支えられた歌という枡野さん好みの歌ですね。

2回に渡って枡野さんとの対談がありましたが。

穂村:どの瞬間も本当のことだけをを言おうという気配がして緊張するね。  緩い時間があまりないですね。 とても真剣でそれに胸を打たれます。

枡野:自分の短歌って説明すればするほど、ばかばかしくなる短歌にしたいと思っているんです。   人の短歌を語っていても、どんどん自分の何か、愚かになって行く感じがします。 

*印は漢字、かななどおよび名前が違っている可能性があります。 

2022年10月2日日曜日

山路和弘(俳優・声優)            ・【時代を創った声】

 山路和弘(俳優・声優)            ・【時代を創った声】

連続テレビ小説「ちむどんどん」では村の共同売店を取り仕切る前田善一役、アニメ「進撃の巨人」のケニーアッカーマン役、ジェイソン・ステームやアル・パチーノ、ウィレムデフォーといった吹き替えで知られています。   どちらかというと悪役ばっかりですね。

三重県伊賀市出身。  芭蕉の生誕の地であまり忍者の里という事は思わなかったです。   僕が8つの時に父が死んでまして、旧家だったのでちゃんとしてはいけないような感じで、どちらかというとちゃんとしていました。   中学では自分をちゃかしているような感じでした。  高校時代は暗い高校生だったように思います。  高校では部活はブラスバンドをやっていました。  部長をやっていました。  クラシックばっかり聞いていました。  姉はヴァイオリンをやっていましたが、僕には音楽を習わせてくれなくて、父が美術系だったので絵を習わされました。   高校3年生の時に遠藤周作さんの「ただいま浪人中」という小説に感化されてしまい、浪人になりたかった。  東京へ大学浪人で出て来ました。  姉が青学にいき姉と一緒に住んではいましたが、予備校にはいかずに一日中公園にいたりしました。  なんか想像の世界に没頭していたんでしょうね。  その後行方をくらましてしまって、だいぶたってから友達が見るに見かねて家族へ連絡を取りました。  

新宿の歌舞伎町のパブで働いていてそこの寮にいました。   民芸の劇団の研究生をいう男がその中にいました。   2年間のブランクがあり大学を受けたら通てしまいました。大学の入学金を貰って養成所を捜したら、青年座があってその第一期生という事で、受けたら通っちゃいました。  青年座の方に行ってしまいましたが、ばれた時には怒られました。  青年座では感情表現とかいろいろやっていて、エライところへ来てしまったと思いました。  養成所内に仲間が出来てきて、ちょっと明るくなった感じでした。   人前に出ることがこんなに恥ずかしいことだという事がしみじみ判りました。   何故か卒業公演で主役を任されました。  結局劇団に残って現在に至るわけです。   

卒業公演で一人でいるところから始まるんですが、恥ずかしいことが裏返ってしまったような世界を見たような快感がありました。   御芝居とは作るもんだとか考えて、いろいろ覚えて行ったんですが、覚え方が正しくなかったんでしょうね。   もっと掘り下げるとか、引いて自分のことを観ないと駄目だなあと思いました。  声にコンプレックスを感じていました。  自分の声が嫌いで、自分の声は聴きたくなかった。   自分の声をどんどん作って行ってしまい、或る時(歳をとってから)こういう声はやればやるほど嘘に聞こえるんだという事に気が付いて、このままの声でいいやと思ってから、少しずつ仕事をやるようになりました。   高橋 伴明さんを紹介されてピンク映画に出たりしました。     主役に近い役をやってたりして、男女の絡み以外は比較的自由に出来て、映像の世界でいろいろ相談できる現場で凄く楽しかったです。   高橋 伴明さんは度量の広い親分みたいな人でした。

34,5歳では舞台ばっかりやっていました。   芝居を観に来てくれたNHKのプロデューサーが声優の話を持ってきて、やったら受けも悪くはかなったのでそこから始まりました。  悪役ばっかりでしたが抵抗感はなかったです。   良い役をやるのを見られるのが恥ずかしいという思いはあります。  スパイダーマンのウィレム・デフォー(悪役)、アル・パチーノなど多数の俳優の吹き替えを持ち役とする。  声で状況を説明してしまう事は良くないと思います。  

今一番若い人がやらなければいけないとことは、自分の性格というか、一番芯になるもの、それを捜してゆくことなんじゃないでしょうか。  それを持っていないと、小手先になる可能性があると思います。   教えられてきたことだけだと足元をすくわれますね。   やりたいことは息遣いが判るほどの小さな小屋で、1年に一本出来る様か環境が欲しいなあと思っています。  お客さんが見えなくなる瞬間があるが、そこが我々が一番目指しているところなので、それを目指していきたいです。