2022年9月1日木曜日

田宮俊作(会社社長)          ・プラモデル わが人生

田宮俊作(会社社長)          ・プラモデル わが人生 

プラモデルを戦後日本に広め、世界に日本のプラモデルの名を高めた人がいます。  田宮俊作さん87歳です。   今もタミヤの会長、社長として先頭に立って活躍しています。   田宮さんにプラモデルと共に歩んできたこれまでを伺いました。

コロナ禍の中でプラモデルの人気が高まってきています。  昔の製品の注文が結構あります。  日本だけでなく海外からが凄いんです。    最初にアメリカからプラモデルが入ってきた時には、余りにも簡単に出来ちゃうのでジェラシーを感じました。    こんなものはプラモデルではない、模型じゃないと思いました。    木工模型をやっていましたが、高校2年の時に木工機械が全部焼けてしまって再生できなくて、製材の機械を立ち上げてきたころにプラモデルが流入してきてしまいました。   人集めと何とかお金の都合をつけて金型を起こすことに苦労しました。    試行錯誤して戦車の金型を金型屋さんと苦労して作りました。  それが運よくヒットしました。   

早稲田大学に行きました。 兄弟7人でしたが、家を継がなければいけないと思いました。大学の卒業式の3日前にすぐ帰れと言われて、東海道線で何時間もかけて帰って来ました。 母親が後1週間持たないという事でした。  翌朝母親と20分ぐらい話をしましたが、それが僕の母親と話をした最後でした。   火事を起こしてしまって、社員もいるし、何とか盛り返さなければと思いました。   カスタマーサービスを担当して回りから喜ばれました。(木工の時からやっていました。)    カスタマーサービスという考え方は自分で考えました。   今でもカスタマーサービスは休みなしです。   土、日は8時から5時まで、ウイークデーは8時から8時までです。   壊れた部品の交換部品のをお客様に発送するときには手紙付きで発送します。  小学生だろうと大人だろうとお客様に関係ないです。   こちら側に設計のまずさがあったかもしれないし、それをお客さんとやり取りしています。  そういう手紙のやり取りでうちの社員になった人が2人います。    うちのプラモデルで楽しんでもらいたい。  それはありがたい話です。  

外国のお客さん、代理店も、タミヤだけが大きくなってはいけない、共存共栄、あなた方もタミヤと一緒に成長してください、そういう方法でやっています。   東南アジアも立派なお客さんになってきています。  今、台湾、韓国、バンコックとも仲がいいです。  東南アジアの代理店をやっている社長の親父さんの代から付き合ってますから。      僕がカスタマーサービスを始めたのは23歳で会社に入ってからです。   そういうことをやらなければお客さんに申し訳ないと思いました。   多少お金がかかってもいい印象を持ってもらえると思います。   買ってもらってうちの製品に不備があったとか、材料にもろさがあったとか、そういう事を心配します。   子供も多いですし、そういった時にはサービスします。   メーカーとしての当たり前な親切心です。   こういう事ばっかりやっていると儲からないとおもいましたが、それで信用が付きましたし、お客さにも喜ばれました。   

1965年にホンダのF1が優勝を果たしました。   1967年にドイツに行って、ニュルンベルク国際玩具見本市に出展しないと名が知られないと思って、1968年に小さいスペースを貰って出展しました。   F1だなあと思いました。  タイヤがよかったです。   ヨーロッパで日本のプラモデルを認めてもらうために勝負に出たのがホンダのF1でした。 本田宗一郎さんの考え方は違っていましたね。   羽田の倉庫に行って、図面はないですが巻き尺で寸法を測りました。  写真は時間の限り撮りまくります。  要所要所の寸法を測ります。   当時1/12というF1はなかったです。  あの大きさがよかったです。当時インチスケールのもので1/12としました。   夜中の12時に父親に物凄い反響だったと電話をしました。   会社をプラモデルで経営できるようにしなければならない、それをやらなければ無理だったんですね。 

ミニ4駆の発想は、4輪駆動という言葉がはやり始めて、4駆の雑誌が出て来ました。   4駆の時代が来るのかなあと思て、作ってみました。   これがヒットするまでに7年かかりました。   コースでレースをやるようになってからヒットしました。   最初はモーターがついて500円で買いやすかったですね。(40年前)    今、ミニ4駆のお客さんの8割は大人です。    プラモデルは或る意味F1です。  誰もが競争できる、一番身近なレーシングカーです。    

一番の原動力は、会社を立て直さなければいけないという事と、僕は模型が子供の時から好きでした。  最初アメリカに行った当時、メードインジャパンは不良品の代名詞でした。 相手にされなかった。  世界で品質で一番に成ろうと思いました。  今は品質では一番になっています。  実物は立派なストーリーがあり、そのストーリーが面白い。  前書きを読んで模型を作ってくださいと、それが面白んです、模型は前書きが重要なんです。

田宮さんはプラモデルには絶対しないものが1つだけあります、それは日本に原爆を投下した飛行機B29です。  原爆で犠牲になった人とのことを考えると、余りにも悲惨で作る事は出来ませんと言います。 アメリカに行くと必ず「ミスター田宮はどうしてB29を作らないのか」と聞かれるそうですが、その答えは「私がどうしてB29をプラモデルにしないのか、アメリカ人のあなた方が考えなさいよ。」だそうです。

  

 



2022年8月31日水曜日

前田美波里(女優)           ・まだまだ現役バリバリです!

前田美波里(女優)           ・まだまだ現役バリバリです! 

子供のころは活発で学校が始まる前に男の子らといろんな遊びをしていました。   放課後は海の方に行って遊んでいました。   小学校4年生でクラシックバレエを習い始めて、学校へ行くより楽しかったです。   森下洋子さんに憧れていました。    黒くなると仕事に差し支えるので、最近は海ではなくプールで泳いでいます。   コロナではジムがクローズになり行けなくなったのでウオーキングを始めました。   水泳を本格的に始めて4種類、一番好きなのがバタフライ、平泳ぎ、クロール、背泳ぎです。  

ブロードウェイミュージカルの『ピピン』 危険が伴う役なので中尾ミエさんと私で一つの役を行います。 

初舞台は15歳でした。  コマーシャルで名前が知れて声がかかりました。  東宝現代劇8期生で高校へ行きながら勉強の最中でした。  芸術座で発表会があり、舞台へ行くように菊田一夫先生たちから言われました。   東宝が手がけたミュージカルの2つ目の作品『ノー・ストリング』で初舞台を踏みました。   「王様と私」という映画を観た時に、なんて素敵なんだろうと思ってミュージカルの面白さを知り、ミュージカルにはすんなり入っていけました。  

当時ミュージカルは定着していなくて、映画からは声はかかりますが、映画はやる気があるわけではなかったし、学校は余り休めませんでした。   資生堂のカレンダーのオーディションに応募して、作っていただいたポスターが有名になりました。   化粧品メーカーの150記念で似たようなコマーシャルをするということで、当時のように水着で出るわけにもいかないので、スカートが風に舞って素敵なコマーシャルを撮っていただきました。 あのままだねと言ってくださったのはとても嬉しかったです。   8月8日で74歳を迎えました。   

『ピピン』ではピピン王子の祖母・バーサの役です。  おばあちゃんが自分自身がこうやって生きてきたんだと諭すんですが、ミュージカルなので歌い、しゃべり、パフォーマンスがアクロバット的なもので、昔は空中ブランコの大スターという事なので、空中ブランコに乗ってパフォーマンスをします。    高さ3mで命綱はありません。   肉体を動かして人に表現することが何よも楽しみだと思っているので。   主演の森崎ウィンさんはねずみのごとく身体が動き、ぴったりの役です。  

父がアメリカ人で、若いころはいろいろ切ない思いをしました。  名前はコマーシャルで有名になってしまいましたが、女優としてはまだほんのひよっこで、いい役が付いてもそれを表現できなかったので、いろいろあったことはまあちょど良かったのかもしれません。 自分で努力して自分の名前に恥ずかしくない芸が出来るようになってから、活躍できるようになってから、幸せと思えれば本当にありがたいことだと思います。   父親の血が半分入っていて芸能界は住みずらい世界で早くこの世界を辞めて、父親が再婚して亡くなってもいるし、温かい家庭に早く入りたくて、マイク真木さんも早くに母親を亡くしていて、20歳で結婚してしまいました。  離婚も早かったですが。  でも今の奥さんとも凄く仲良しで、真木家でイベントがあると何故かお邪魔しています。  

ミュージカルが定着するまでには何年もかかって、29歳の時に劇団四季さんが変わった作品をやるのでどうでしょうかとお誘いがあり、コーラスライン』のオーディションを受けるように言われて、受けに行ったら終わっていましたが、スタッフさんが上手く入れてくれました。   そこからはミュージカルをやらせていただけるようなことになりましたが、それまでは日本に定着しないので苦労しました。  ミュージカルが定着したのは、劇団四季さんが「キャッツ」をしてからだと思います。  

年齢なんて意識しないことですね。   肉体的には歳をとって来るんでしょうが、まだあんまり衰えを感じていません。

『ピピン』は 「東急シアターオーブ」で昨日から始まり9月19にまで行います。    生きるという事はどういう事なんだろう、人生をどうやって自分で切り開いてゆくのかという事に、本当にぴったりの作品なんですね。  お子さんからおじいさんおばあさんまで楽しんでいただける作品だと思います。

2022年8月30日火曜日

田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】 田辺聖子

 田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】  田辺聖子

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の生まれ。   1964年(昭和39年)芥川賞を受賞。  91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。   日記を紹介しながら田辺聖子さんの戦中戦後の日々を辿ります。   

田辺聖子は3人兄弟の長女で2歳下に私の父(聡 あきら)、3歳下に妹(俶子 としこ)です。     BSプレミアムで再放送されている朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」田辺聖子の半生を描いたもの。

91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。    期間限定で叔母の家を記念館として皆さんに公開しようという事でプロジェクトを組んで下さり、私たちもそれに向けて家の片付けを始めました。  押し入れの中から一冊のノートが出て来ました。    17歳から19歳までの青春時代の日記(終戦を挟む)という事になります。    家が大阪の大空襲に遭って失って、着の身着のままで生活しなくてはいけなくなった。   雑誌への掲載と本にしていただくことになりました。   

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の写真館の長女として生まれました。  本が大好きでした。  昭和19年4月に現在の大阪樟蔭女子大学に入学、戦時下の体験をして、昭和22年卒業、会社員の仕事をしつつ、執筆活動も行う。   36歳の時に芥川賞を受賞。  平成20年に文化勲章をを受章、2019年6月6日亡くなる。(91歳)  

大学に入っても勉強はままならず、寮に入って勤労動員されて旋盤を回していたという事でした。   航空機製作所で飛行機の部品を制作していた。   週末には帰宅していました。   友達とは楽しく会話をしていたようです。   空襲で家が焼けてしまったのは昭和20年6月1日の大阪大空襲の時でした。    6月2日の日記には大変なことがあったらしいという事で電車も動かないような状況の中、友達と共に帰宅する。          「まだ延々と燃え盛っている。 真っ赤な火だ。  喉が痛く目が沁みる。  第百生命は全滅だ。 ・・・」   叔母はちょっと足が悪く7,8kmを家を心配しながら歩いた様子が描かれている。    「・・・お母さんが見るも痛ましい姿でやって来た。  眉は黒く眼には涙の痕がある。  ・・・お母さんは私を見つけてみるみる眼を潤ませた。  聖ちゃん、家が焼けてしもうた。  ・・・私は不覚にも涙がこぼれた。 あんたの本なあ沢山あったのが出すことが出来なかった。 ・・・涙がポトポト水槽の上に零れ落ちた。 ・・・あの美しい古い家、それが2,3時間のうちに夢のように灰になって消えてしまうという事があり得るであろうか。 ・・・(すべてのものを)嘗め尽くして、それは余りにもあっけない。」

父は家には早く帰ったので、戸棚の中に入っていた貴重品だった食料油、洋酒、食料品などは持ち出さずに、日本刀を一つ持って出てきたという事で、戦後ですが、食料やらあったら本当によかったのにという事だったが、やっぱり日本男児だとからかわれたりしたと叔母から聞かされました。  

昭和21年12月31日の日記の内容。   「気立ての優しい女の子に成ろうと思ったのに、それもなれず弟や妹に当たり散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでいるばかり。   いったいこれで、無教養さで小説家なんて難しいものに成れるかしら、と心配でならない。  ・・・ 今、少し小説を書きかけているけれど、どうも思う様に筆が進まない。  ・・・私はもうこの道しか進むべき道はない。  来年も又幸福な精神生活が送れますように。  私は20歳になる。・・・さらば19の幸多かり日年よ。」

日記にはいっぱい赤線が引いてあったりして、「私の大阪八景」「欲しがりません、勝つまでは」自伝的小説の「しんこ細工の猿や雉」のなかで全く同じ文章が出てきたり、日記の出来事がそのまま描かれていたりしています。   

8月15日の日記にはどのように書かれているのか気になって最初に見ましたが、ここだけ黒々とした墨のような文字で他とは全然違う記述の仕方をしていて非常に驚きました。  文語調で、叔母にとっては特別な一日だったという事が伝わって来ました。  叔母からは戦争の話を聞く機会は残念ですがありませんでした。  

私が大学院時代に週に一回叔母の秘書役的なことをやっていました。   感情をあらわにするようなタイプではないんですが、一度だけ怒ったことがあります。   法事の時に、お酒の入った遠い親戚のおじさんが「聖ちゃんこれからはもっと立派なものを書かんとあかん」と説教をしたことがあって、その時叔母が珍しく怒って「私は大説家ではなくて小説家ですから」ときっぱり言い返したんです。   叔母は軍国少女だったんですが、敗戦でひっくり返ってしまう体験をして、大きなこと、立派な事のもろさ、それに比べて人の心の移ろい、愛が生まれたりとか、色褪せていったりすることの方が本当はずっと確かで切実なものなんじゃないかと叔母は感じていたんじゃないかと思います。

読者の反応がいろいろありました。  








2022年8月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 茨木のり子

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  茨木のり子 

戦争中から戦争直後の女性の青春を描いた代表作「わたしが一番きれいだったとき」など、没後16年経った今も人々の心をとらえ続けています。  どんな時も個として生きることを貫き、何もにも寄りかからず強く美しく生きた茨木のり子の言葉をお伝えします。

「もはや出来合いの思想には倚りかかりたくない。  もはや出来合いの宗教にはりかかりたくない。  もはや出来合いの学問にはりかかりたくない。  もはやいかなる権威にもりかかりたくはない。  長く生きて心底学んだのはそれぐらい。 自分の耳目、自分の二本足のみで立っていてなに不都合なことやある。  りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ。」       茨木のり子

  茨木のり子は昭和を丸々生きた詩人です。  生まれたのが大正15年、亡くなったのが平成18年。    

「後年歴史年表をしげしげ見るようになってから、私が生まれた昭和元年から12年ぐらいまでが日本にとってどんなに激動の時代であったかが判り、慄然となる。」      昭和16年からは太平洋戦争になる。  戦争と青春が重なっている。            上述の「りかからず」の詩が茨木のり子の中でも、もっとも有名な詩だと思います。  73歳の時にこの詩集を出しているが、詩集としては当時大ベストセラーになった。(24万部) 
 茨木のり子の強さは反抗の強さ。  圧倒してくるものに対しての反抗です。   

「自分を強い人間と思ったことは一度もない。   むしろ弱い駄目な奴という思いが何時もありまして、兎に角和自身は強くはない、弱い人間です。」
「一般には人間も学歴や社会的地位で価値が決まるようですが、私のランク表に寄れば役立たずの駄目人間とされている人がすこぶる高みの椅子に座っていたりします。」     絶望を踏まえたうえで弱い者の側から声を上げている。  その声が凛としている。    

「大人になってもどぎまぎしてもいいんだな。  ぎこちない挨拶、醜く赤くなる失語症、滑らかでない仕草、子供の悪態にさえ傷つてしまう頼りない生ガキのような感受性、あらゆる仕事すべてのいい仕事の核には震える弱いアンテナが隠されている、きっと。」 茨木のり子  (「鎮魂歌」のなかの「酌む」という詩の一節)
山田太一さんの「左手の人差し指」という童話を読みましたので、例えとして判り易いと思うので紹介します。
左手の人差し指をカッターで怪我をした子、普段はあまり使わない指だが、怪我をして気が付く。  学校に行っても心配する人、ドジだとかいろいろな反応がある。   キャッチボールが出来ないので教室に戻ると心臓の弱い女の子がいて、それにも初めて気が付く。  指を怪我しただけでも気づかなかったことにたくさん気付く。  つまりどこかに弱さがあると普通なら気かないようなところに気く、考えないようなことを考える。 これが「震える弱いアンテナ」という事かなあと思います。   

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね」      茨木のり子(
見えない配達夫」の詩集のなかの「わたしが一番きれいだったとき」の詩の全文)


 茨木のり子は15歳で戦争がはじまり終戦が19歳。  軍国主義教育を学校で受けて軍国少女だった。  敗戦なって世の中の価値観がいっぺんに変わる。   

ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて    気難しくなってきたのを友人のせいにはするな  しなやかさを失ったのはどちらなのか  苛立つのを近親のせいにするな   なにもかも下手だったのはわたくし  初心消えかかるのを暮らしのせいにはするな   そもそもが ひよわな志にすぎなかった        駄目なことの一切を時代のせいにはするな  わずかに光る尊厳の放棄  自分の感受性ぐらい自分で守れ   ばかものよ」    茨木のり子 (詩集「自分の感受性ぐらい」) 

ばかものよ」は茨木のり子自分自身に向かって𠮟っている。   

派手目のものを着ていると、国防婦人会に叱られたものです。  私は軍国少女ではありましたが、美しいものを求めることはそんなに悪なの、とどこかで思っていた。 個人の感性こそ軸になるのだという思いが強まって行ったように思います。  

幼いころわたしは勇気りんりんの子供だった

大人になったらこわいものなしになる筈だった

気づいたら

やたらに こわいものだらけになっていて

まったく

こんな筈じゃなかったな

よくものが見えるようになったから

というのは うぬぼれ

人を愛するなんてことも何時のまにやら

覚えてしまって

憶病風はどうやら そのあたりからも

吹いてくるらしい

通らなければならないトンネルならば

さまざまな恐れを十分に味わい尽くして

いつか ほんとうの

勇気凛凛になれるかしら

子供のときとは まるで違った」    茨木のり子(詩「通らなければ」)


母親を11歳の時に亡くしている。  父親はスイスに留学した医学博士で、病院の副院長を務める。  無医村に行ってお金を払えない人たちも診た。  茨木のり子が36歳の時に亡くなる。  翌年に『鎮魂歌』を出す。  

物心ついてからどれほど怖れてきただろう

 死別の日を
 歳月はあなたとの別れの準備のために
 おおかた費やされてきたように思われる
 いい男だったわ お父さん」    
茨木のり子(詩「花の名」の一節)
父親が亡くなることをずーっと恐れていた。  当時は結婚していて夫は医師で妻が書く詩に対して応援してくれる人だった。  愛する人が増える程怖さも気づく。  

「波の音」の一節

「・・・子供のと少しも違わぬ気性が居て しみだけがずっと深くなって・・・ 」

「みずうみ」の一節

「・・・人間は誰でも心の底にしいんと静かな湖を持つべきなのだ ・・・人間の魅力とはたぶんその湖のあたりから発する霧だ・・・」

「人に伝えようとすればあまりに平凡過ぎて、決して伝わってはいかないだろう  その人の気圧のなかでしか生きられぬ言葉もある」    茨木のり子(「いいたくない言葉」の詩の一節)

48歳の時に病気で夫も亡くす。  79歳で亡くなるまで30年間続く。  夫を亡くした悲しみから立ち直るために韓国語を習う。  夫いに関する詩は自分が生きている間は出さないと決めていた。     茨木のり子は或る人にはこういっています。  「出版されたら私のイメージも随分変わるだろうけれども、それは別にいいの。 どう読んでもらってもいい。  ただこれについてはどなたの批評も受けたくないのでね。」

「歳月」という詩集のなかの「古歌」の一節

「わたしの貧しく小さな詩篇もいつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか」 茨木のり子







2022年8月28日日曜日

岩田達宗(オペラ演出家)        ・【夜明けのオペラ】

 岩田達宗(オペラ演出家)        ・【夜明けのオペラ】

兵庫県出身、東京外国語大学卒業後、演劇やオペラの舞台製作に関わり、1991年オペラ演出家の栗山昌良氏の演出助手となり、1996年に演出家デビュー、1998年から2年間イギリス、ドイツに留学、2011年にブリテン作曲、「ねじの回転」で文化庁芸術祭大賞を受賞、独創的で卓抜した舞台作りで新国立劇場、日生劇場を始め、日本各地のオペラ公演を手掛けています。   現在大阪音楽大学客員教授、又2020年からはリモート講義岩田達宗道場を開催しています。

オペラはどうしても準備に時間がかかるものですから、複数の舞台を並行して準備することはないんですが、感染症でたくさんの舞台が延期になって、延期になったものがたまたま先月、先々月重なってしまって、掛け持ちで稽古場をめぐる事をやってしまったら、こんな(擦れた)声になってしまいました。   お客様を迎えられることがこんなにいいものかとこの2年間ぐらいで痛いほど判りました。   

父がお寺の住職で、お経の一種で声明(仏典に節をつけた仏教音楽という音楽の一種があります。   父親がテノールで声明を歌う人でした。  父に習って声明をやっていました。小学校1年から6年生までピアノは習っていましたが、怖くて厳しい人で嫌で嫌で、学校では音楽はとらなかったです。  父親が戸籍を区役所に出す時に、達宗の「宗」の宇冠をどけて出したんです。  この子はもっと自由に生きて欲しいという事で「達示」に変えました。   オペラ演出家になる時に「達宗」に戻しましたが、「たつむね」ではなく「たつじ」と読むようにお願いしました。   中学、高校は映画にはまって、学校をさぼって映画を観ていました。  安藤元雄さんというフランス文学者、詩人の先生がいて、大学の先生に成ろうと思っていました。  先生が2年生の時に辞めてしまって途方に暮れて諦めました。  映画と大学のラグビー部に入ってラグビーをやっていました。   オペラの大道具を運んだりするアルバイトをずーっとやっていました。   映画音楽が好きだったので、シンフォニー、ミュージカルが好きになって、高校時代にはレコードをひたすら聞いていました。  

ジーザス・クライスト・スーパースター』から「I Don’t Know How to Iove Him」

どうやって人間が生の声で生きた言葉を伝えるか、悩んでいる人たちに心惹かれていきました。   舞台監督助手を10年間やりましたが、いろいろトラブルを起こしてしまい、舞台監督助手をやっていたら問題をおこすので、演出家にしてしまおうという事になりました。1991年オペラ演出家の栗山昌良先生の演出助手となりました。 

1998年から2年間イギリス、ドイツに留学しました。     イギリスではロンドンで朝、昼、晩劇場に通いました。   ドイツでは兎に角行ける劇場を全部回って観ました。(50か所ぐらい)   得たものはたくさんありますが、日本の舞台のスタッフは相当優秀だなという事かもしれません。  日本の合唱団も素晴らしいという思いもありました。   

尊敬している演出家の人が出演者とスタッフに、「皆さんを幸せにします。 皆さんが幸せな気持ちで舞台にのらなくて、どうしてお客さんが幸せな気持ちになれるでしょう」というんです。  感動しました。  僕もそういう気持ちで舞台に出演する歌い手の方たちに赤いバラを渡して対応しています。(イギリスで知ったことです。)

「フィガロの結婚」の手紙の二重唱  歌だから手紙のようにはたくさん書けない。  「言葉の数は少ないけれどきっと判ってもらえるよね」と言いう事を歌っている。    オペラだとお芝居の言葉の1/5ぐらいしか言葉が使えない。  言葉が少ないがきっと判ってもらえる、というのがオペラそのものなんだというわけです。

*「フィガロの結婚」の「手紙の二重唱」

「ショパン」というタイトルでショパンの生涯を描いているオペラ、ショパンの曲150曲で2時間のオペラを構成している。  ショパンはオペラが好きだった。  

*「別れの曲」 作曲:ショパン

2022年8月27日土曜日

白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

 白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和7年神奈川県生まれ。  大学卒業後、キネマ旬報社に入社、36歳で編集長に抜擢されました。  視点や企画で高い評価を得ました。  その後もフリーの映画評論家としてテレビの映画解説や地域の映画祭への尽力など映画への深さを発信し続けていて、90歳の現在も週刊誌や月刊誌に映画評論を書き続けています。   終戦後白井さんの映画評論家としての人生はどのようにスタートしたのでしょうか、敬愛する小津安二郎監督のおよそ2時間の映画に込められた日本人の感性や死生観など日本映画の神髄について、また確かな映画評で知られる白井さんの映画は評論はどのようにして生まれるのか、などお話を伺いました。

昨年から今年5月ぐらいまで、誤嚥性肺炎をおこしてしまって一週間入院して、大腸検査をしたら大きなポリープが写っていて、取る事になって病院に行ってPCR検査をしたら陽性で、病院の入退院を繰り返しました。  その後いくつかは仕事をしています。

映画は産業革命以後に興った新しい芸術なんです。  監督を中心に多い時は100人以上集まって人間が集団でカメラ、録音機材、照明機材とか機械を使って作る文化で、産業革命以後の文化なんです。  黒沢さんはどうやってあんな面白いものが出来るんだろうと思って、よく観察したら判りました。   「7人の侍」はアメリカの西部劇と同じような迫力を持った日本の時代劇を作りたいと、黒沢さんの考えから出来たもので、「7人の侍」のあらゆるシーンは3台のカメラで撮っているんです。  最初はやぐらの上からアップなどのシーンを撮り、午後になると穴を掘って穴の下から見上げたシーンを撮って、黒沢映画は同じシーンを6本のフィルムがあり、編集室で選択している。    どこから撮られてもリアルな演技をしなければいけない。 

母親が娘時代に映画をよく見ていて、土曜日になるとよそ行きの服を着せられて新宿に行って買い物して、食事して映画を見るという事を月に1回ぐらいやっていました。   大学に入って映画を観ていてもこのシーンは幼いころ観ているという事が頻繁にありました。  どれも大人の映画でした。   戦争時代には、家は茅葺の屋根で火が点いたりすると小作人の人が来て火を消してくれました。   終戦の日はラジオを聞いても良く判らなかった。  おじさんが「日本は戦争に負けた。」ということを一言いって、その晩から電気の灯がともり、ラジオから歌が聞こえてきたりして、世の中大きく変わたっと思いました。 軍国少年でした。  厚木に住んでいて、マッカーサーが厚木に降りてきて、東京に進駐して小田急線で一緒に乗ったりして、兵隊さんからコーラを飲ましてもらいました。     学校で全校生徒が映画館に行ってアメリカのカラー映画を観に行きました。  綺麗さにびっくりしました。   高校に行くときに結核にかかって2年半休学しました。     病院には朝早くいってその後アメリカ映画を観ていました。 これで映画に目覚めました。   アメリカの楽しい生き方を知って、映画を観て映画評論家に成ろうと思いました。    その後イギリスとか外国映画が入ってきて観まくりました。  

映画の雑誌を読んでも物足りなかったが、『キネマ旬報』を読んだら面白かった。   日本映画と外国映画の両方扱っていました。   小津安二郎の「晩春」という映画を観に行きました。   日本的映画の作り方があることを知ってびっくりしました。   お茶会、京都のお寺巡りとか純日本的なことが出てくる。   ヒロインが付き合っている人と自転車で疾走するというような場面もあり、小津さんてしゃれたことをするなあと思いました。  外国の映画がそうであるように、日本には日本人独特の映画の作り方があることを、小津さんの映画によって教えられました。   

1958年にキネマ旬報社に入りました。  昭和48年編集長になりました。  読んで面白い雑誌にしなければいけないと思っていろいろなことをやりました。   出版社みたいに高い原稿料は払えないが、池波正太郎さんに原稿依頼したら、昔から映画が好きで映画は趣味だから、映画のことを書くなんて夢のようだからただで書く、と言っていました。   五木寛之さん、野坂昭如さんの対談についてもカメラマンと共に同行させてもらいました。生き生きとしたジャーナルを作りたかった。   

編集長を8年半つとめ解任となる。   突然首になってびっくりしました。  自分が作ってきた人脈があり、それが断ち切られてしまうのが何とも残念でした。   ロッキード事件での記録をもっと日本政府に公開すべきだと、ニューヨークタイムスに意見広告を文化人と共にやったのが首になるきっかけですね。   でもあのままやっていたら50歳ぐらいで過労死で死んでいたかもしれないです。   テレビ東京が日本映画専門の評論をやる事になり、条件を3つ出して、①今までの人はニコニコ笑いながら傑作ですと言うようにやっていたが、私は笑いません、②放映時間に合わせて短縮してますと言わせてほしい、③本当は大きいがブラウン管に合わせてトリミングしてあります、という事でした。  曲折がありましたが、全部やらせてもらいました。  どんどん視聴率が上がってきました。  テレビ東京視聴率ベスト3に入りました。   

評論は、ストーリーはほんの一部で、映画全体の感覚の流れを自分の感性を通じて、論理化して自分だけが書けることをやってきました。  批評を書くことを第一に考えて感性を磨き、それ以外は出来るだけ少なくした生活パターンでやって来ました。   小津安二郎の「東京物語」、ベストテンを選ぶと必ず上位に入って来る、小津さんの映画は芭蕉の俳句のような気がする、5 7 5という小津さんが持っている格調みたいなものの中に、あらゆることを日常的に閉じ込めてゆく、天地悠久なるものを閉じ込めることができる。   日本文化全体のシンボルのような作品になっているなあと思います。    日本人の死がどのようにして永遠化されるのか、見事に映画の中に捉えていると思います。   

90年のうち、60年を映画専門にやってきて自分としては精一杯やったと思います。  原動力となるものは好きな気持ちですね。   

2022年8月26日金曜日

さくまゆみこ(NGO代表・翻訳家)   ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 本という窓をあけて世界を見よう

 さくまゆみこ(NGO代表・翻訳家)   ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】  本という窓をあけて世界を見よう

1947年東京都生まれ。  小さいころから本が好きで、大学卒業後一度は出版社に勤務しましたが、退社してイギリスに留学、児童文学を学びました。   帰国後は編集、翻訳をしながら大学で学生の指導に当たりました。  これまでに手掛けた絵本、児童書は250冊以上、今回 「ENEOS児童文化賞」を受賞するきっかけとなった、『エンザロ村のかまど (たくさんのふしぎ傑作集) 』はアフリカでかまどの作り方を教えることで、女性や子供の自立を促した日本人女性の活動を描いた作品です。   児童書に寄せる思いを伺いました。

ずーっと東京暮らしでしたが、娘の出産で手伝いに来て、コロナの関係もあってすべてがオンラインになってきたので、2年半ぐらい長野に住んでいます。 

『エンザロ村のかまど 』という本が出ていますが、 この本が出来るきっかけになったのが岸田袈裟さんというケニアに住んでいる方です。   岸田さんがたまたま日本に来た時に話を聞いたことがあって面白いと思って、その時には編集者だったので岸田さんに本を書いてもらいたいと思いました。   ケニアに来て、私がどんなところでどんなことをやっているのか見ないと駄目でしょうと、岸田さんから言われました。  それでケニアに出かけてエンザロ村という山深い村に行きました。  子供がお産後未満児?が沢山死んでしまうという事があって、原因は綺麗な飲み水が手に入らないという事で、沸かして飲めばいいという事でかまどを考案したんです。  何度も話をしているうちにあなたが自分で書きなさいと言う事になり、自分で書くという事になりました。  

2002年にケニアに行って、『エンザロ村のかまど 』という本が出たのは2004年です。  御礼に主学校に英語の本を送ったんですが、到着しなかったり、郵便局止めになっていて税金を払わないと引き出せないという事があり、空いている部屋を使って子ども図書館を作りました。   最初エンザロ村に作って、もう一つ作った後に、岸田さんががんで亡くなってしまいました。  でも続けてやって行こうという事になりました。 

小さい時から本が好きで、小学校高学年で少年少女世界文学全集を購読するようになって、どんどん新しい作品を読んでいきました。   叔母がアメリカから本を送ってきてくれて、翻訳をしてみようというきっかけになりました。   「アルプスの少女ハイジ」、「マザーグース」の2冊でした。    出版社に入りましたが、子供の本を出そうという事でしたが、子供の本のことについては何も勉強してはいないし、自分に子供がいるわけではないので、大人の本の編集を希望して、子供と大人の本の編集を一時期していました。 子供の本の面白さが段々判ってきて、児童文学と言えばイギリスが本場の一つなので、イギリスに留学することになりました。   

両親と子供3人という家庭の一部屋を借りて、両親が出かけた時に子供の面倒を見て、そのかわりに部屋代、食事代がただという事でした。   日本に居ては学べないことを沢山イギリスで学ぶことが出来ました。   学校で子供一人一人の状況に合わせて指導するとか、凄いと思いました。  何もないところで子供たちがクリエーティブに遊ぶというようなこともやっていました。   

日本に戻って、翻訳で食べて行けたらいいなあと思たんですが、子供もできたし、別の出版社に就職しました。   上の子が小さい時に一時的に主婦をやりましたが、これは向かないと思いました。   交渉して時短で子供の世話との両立をしました。   出版社の経営が悪化してきて、辞めてフリーになって仕事をしていたりしていました。   清水雅子さんという方から大学が定年になるので後をやってみないかと言われて、引き受ける事になりました。  下調べなどを含めてやることがいっぱいあって大変でした。   本は面白いよというそこだけ伝えられればいいかなと段々思ってきました。  

翻訳もやってきて250冊以上出版してきました。   翻訳は最初本を探すことから始めて、いろいろ情報を集めて書いて、出版社に持ってゆきます。   気にいった出版社があったら出してもらえる、というようなことをずっとやってきました。   出すという事になると原書の出版社と契約をして、私が翻訳者として仕事に取り掛かる事になります。   

絵本は絵と言葉の出会いが面白いなと思います。  幼児、小学生とかに理解できるようになっているかとか、テンポなどを考えながら選んで行く面白さはあります。   異文化を日本の子供に伝えるという役割もあるわけで、注を付け過ぎてもいけないし、そのへんの難しさもあります。   

今でもアフリカは見る、聞くが主流というところもあるんで、エネルギーが生のまま出てくるという事があったりするので、スケールが大きいなと思うものが沢山あり面白いなあと思います。   日本は同調圧力が強いと思います。   いじめなどで、今ここに我慢できないとしても、こことは違う世界がどっかにあるんだという事を知ってゆくという事も大事かなと思います。  子供の前に多様な窓を開けておくというのは大事なことの一つだと思いますので、そういったものを訳していきたい。   

IBBY(International Board on Books for Young People=国際児童図書評議会)の仕事もしていますが、戦後のドイツで出来た組織で、創設者のイエラ・レップマンさんはユダヤ人でナチスの迫害にあって、戦時中は外国に避難していました。  ドイツは焚書をやっていたので本がなくて、子供にはパンも必要だが本も必要だと考えました。  戦争をした相手の国から本を送ってもらって、子供たちが読んでお互いを理解し合う、という事から戦争のない平和な社会が作れないだろうかという風に考えたんだと思います。   日本の優れた本を世界に紹介することも必要だと思って、「おすすめ 日本の子どもの本」を日本語版、英語版の両方で毎年出しています。  「おすすめ 世界の子どもの本」、日本で翻訳出版された世界の子供の本の中から、みんなに読んでもらいたいなあと思う本を選んで、毎年出版しています。   外国から避難してやってきたお子さんたちに、文字がなくても理解できる子供の本をプレゼントしようという事でやってて、ウクライナの子に対してはウクライナ語でプリントアウトして渡そうという試みをしています。    少年院ライブラリーというのが借りの名前でしたが、「明日の本棚」という名前にして、本との出会いが少ない子供たちに向けたブックリストを作っていて、少年院、鑑別所などへ向けて作っています。  本は一生の友達になるという事もあるので、本はいいよと言いたいです。