2022年8月10日水曜日

梶本恵美(脚本家)           ・【戦争・平和インタビュー】 「平和への祈り」を書き続ける

 梶本恵美(脚本家)    ・【戦争・平和インタビュー】  「平和への祈り」を書き続ける

京都市出身の65歳、1991年NHKの土曜ドラマ「春むかし」で脚本家としてデビューし、テレビドラマを中心に活躍しています。   昨年放送されたNHKの土曜ドラマ「ひきこもり先生」を手掛けて、生きる事と少年から向き合ったこの作品が第38回ATP賞の奨励賞を受賞しました。   さらに1995年からは舞台にも活躍の場を広げて、アンネ・フランクなど戦争や平和を題材にした作品を数多く執筆しています。   

初めて戦争について脚本を書いたのは1995年のテレビドラマ「風たちの遺言」という作品です。   主な舞台は戦中の東京の浅草の食堂「すみれ屋」で主人公は「すみれ屋」に下宿している平石という男です。  彼は戦争末期に海の特攻「回天」の部隊に配属され命を落とします。  「回天」は操縦席の人間ごと敵艦に体当たりする海軍の特攻兵器で「人間魚雷」とも言われていました。   「回天」の基地は今の山口県大津島にありました。  

終戦記念番組をやる時に特攻隊のことをやりたかったので、知覧を調べている時に、書籍の中から「回天」を知りました。   海のなかを暗い中、目標とする敵艦を攻撃することは凄いことだと思いました。  空からの特攻とは違って、何も見えないところ行くというのは、どんな思いだったのだろうかと思いました。   特攻の数日前には家に帰れるけれども作戦のことは絶対に公言出来ないし、家族の元にももう帰れないなかで、母親の着物で座布団を作って欲しいと言って、その座布団で「回天」に乗って死んでゆく。  そういった資料から感じ取って、胸が詰まるようなものがいろいろ残っています。    神田の古本屋街を歩き回って、良いものが一杯見つかりました。  国会図書館に行っても調べました。   まず知りたいという思いがあり苦労とは思いませんでした。 

同じ1995年に広島の原爆に関する朗読劇の脚本を書くことになる。  「ヒロシマ、時の音」というタイトルで台本を書きました。  佐々木貞子さんは原爆の像のモデルで折り鶴の話で知られていますが、2歳で爆心地からおよそ1.6kmの自宅で被爆、小学6年生で白血病の診断を受け、12歳で亡くなりました。   入院中回復を願って折り鶴を折り続けたことで世界中に知られています。  或る人が佐々木貞子さんに関する本を探してくれて、その読んだら涙が止まらなくなりました。 電話が掛かってきて、広島で10月25日(佐々木貞子さんの命日)に朗読劇をやるんですが、という事で檀ふみ(いとこ)も出演するという事で、朗読劇など何もわからなかったが引き受けました。  佐々木貞子さんに関する本を探してくれた人も2歳で被爆されました。  その人は成長して好きな人が出来たが、その母親から「ピカの子はもらえん」と言われたそうです。  

締め切りまで1か月しかなくて、取材する時間がなかなかありませんでしたが、作品を作るにあたって偶然いろいろな話の機会も得られました。    広島市の方から普通は見せてもらえないような資料(手紙など1000通以上)も見せてもらえました。   

2009年 劇の主催をしましたが、いろいろ大変でした、大赤字でもありました。  これでは毎年できないと思いましたが、その後も上演し続けています。  メッセージを送りたい、伝えたいという事は強い思いです。    本当の自分を生き生きと生きられるようになる、そうなれるようなものを伝えたいなあと思います。   ここ3年はアンネ・フランクの舞台です。   「アンネの日記」を読むと素晴らしいです。   アンネ・フランクの輝いていた時をやりたいと思いました。   アンネ・フランクの同級生だった人たちの手記を見つけて、80歳を過ぎていた13人と知り合いました。  そのうちの2人が語り合う舞台にしました。  アンネ・フランクとアンネ・フランクの密告者を一人二役にしました。   最後にアンネ・フランクが出てきて「私は貴方だったかもしれない、貴方は私だったかもしれない。」と言います。  生まれた環境によっては、アンネ・フランクも密告者になっていたかもしれない、という事を言いたかった。  密告した人はずーっと罪の意識を背負っていくが、アンネ・フランクは許したと思う。

復讐に復讐を重ねてはいつまで経っても平和にはならない、と思っています。 愛するというなかに許すという事、信じるという事が入っていると思います。  平和は愛の状態だから、許すという事は必須ですね。  

今を生きている人たちに何を伝えたいかという事が一番大事で、平和への祈りを体現することがあり、平和への祈り自体は一番のベースではあります。  願いと祈りは違います。 願いは今ここにないものを願うという事だと思います。  祈りは平和を信じるというか、平和であるという風にそれを祈ることだと思います。  意乗る=祈るだと思います。  戦争は体験していませんが、感性と直感でやっています。   そうするためには自分を空っぽにすることも大事で、そうするように心がけています。   いまの若い世代がどういいう事に直面しているか、どういう苦しみがあったり、どういう状態にあるかという事を知ることが大事だと思います。  命を大事にして生きるという事をちゃんと伝えることが出来たら、戦争する方に行かないと思う。  自分を大切にして人のことも大切にすることが出来たら平和な世の中になると思います。   生きるという事が素晴らしいという事を伝えられるような作品を作りたいです。  

2022年8月9日火曜日

佐藤和孝(戦争ジャーナリスト)      ・【戦争・平和インタビュー】 戦地から平和を問う

 佐藤和孝(戦争ジャーナリスト)    ・【戦争・平和インタビュー】  戦地から平和を問う

24歳の時、ソ連によるアフガニスタン侵攻を現地で取材したことをきっかけに、ジャーナリストといて活動を始めました。  以来、40年以上に渡ってイラク戦争、シリア内戦など20か国以上の紛争地に取材し続けて来ました。  戦場でジャーナリストが命を落とすことがあるなか、2012年シリアでは銃撃戦に巻き込まれ、公私ともにパートナーだったジャーナリストの山本美香さんを亡くしました。   それでもなお佐藤さんはウクライナをはじめ様々な地域で活動を続けています。   66歳の佐藤さんが戦場へ向かう意義、そして伝えたい事とは、話を伺いました。

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、2月に侵攻が始まって直ぐ3月現地へ向かう。    今までは内戦が多かったが、これは大変な事になったと思いました。   第三次世界大戦の可能性があると考えました。   2016年にもウクライナに取材に行きました。  ロシアの兵士も家族はいるでしょうが、ウクライナに対して虐殺したりして、人間としてやってはいけないことだとわかっていても、戦争というものはそういうことを強いられるわけです。  戦争というのは恐ろしいものです。  戦争は人を狂わせるんです。  戦争を指導する人は罪深いと思います。  人間を破壊するし、すべてを破壊する。  

今回はロシアの正規軍が人を攻撃したわけです。  キーウを攻撃してウクライナの東部だけではなくなったんです。  国対国の戦いに変化してしまった。   民間人、民間施設を狙って攻撃して、今までの戦争とは相当様子が違うなと思いました。    取材すると民間アパートが攻撃され、朝4時半に寝ているところを攻撃されたと言っていました。  自分は怪我はしなかったが、アパートの人の何人かは怪我をしたと言っていました。    冷凍食品工場を攻撃して、食料を行き渡らないようにする。   そういったことをすることでウクライナの人たちの戦意を削ごうとしている。    ロシア軍が殲滅作戦をやっていることは間違いない。 

キーウ、ブチャで虐殺が行われたが、ウクライナの警察はロシアがやったというわけです。 その段階ではロシア軍がやったという事は僕自身は判らない。    死亡解剖したり、衛星写真とか様々な方法で検証していって、一部ロシア軍が関与したという事は出てきていますが、つまり何が言いたいかというと、我々が伝えられるのは事実なんです。  そこに憶測とか自分の感情とかは入れないようにしています。   ウクライナで起きていることを知ることによって、世界に目を開いて自分たちが何が出来るのか、何をすべきなのか、そういうことを考えてもらえる材料を提示している。   

強権主義、独裁政権対自由主義、民主主義という風に完全に別れたと思います。      もし、ロシアが東部、南部を取りましたという事になって、世界から何のお咎めがなければ、世界はどういう世の中になると思いますか。  弱肉強食の世界が来るわけじゃないですか。 両方とも引けない状態で、 プーチンが引いたら当然政権は潰れるわけです。   ゼレンスキーが国境の領土をどうぞと言ったら、彼の政権を含めて自由主義社会というものが崩れてゆくわけです。   

一番痛めつけられるのは、何の罪もない一般の人たちです。  今回のウクライナでは多くの民間人が殺されているわけです。  そういったことを伝えることで何か変わってくれればいいなと思ています。   人類は戦いの歴史の中にある。  第二次世界大戦の後は地域の局地戦はたくさんありましたが、今回のように国対国の戦争は、世界秩序を変えたわけです。  

24歳からこういう仕事を始めて40数年経ちましたが、その間アフガニスタンの戦争も終わらないし、世界から戦争、暴力は消えないし、ジャーナリストとして伝えても何の意味もないじゃないかと思うかもしれないが、そんなことはないと思っています。   我々ができる事は伝え続ける事なんですね。  その情報からみなさんがいろいろ考えてくれればありがたいです。   伝え続けなければどんなことでも起こります。  例えばプーチンが核を使っても誰もわからないです。(衛星から見れば判るかもしれないが)    我々は起きている事実を伝える事です。   そしてある種の抑止力であってほしいと思います。    権力者、独裁者は世界に知られることを恐れるわけです。  我々の目は重要なことだと思います。  

最初、知りたい見たいという好奇心で写真とペンで始めましたが、自分の仕事の意味が時間と共に判って来ました。   クライアントに対する責任というよりは、取材をしてもらった人たちへの責任ですね。  長いことやってることによって考えが若いころと変わっていきました。    現場に行き続けることは、一言で言うと情熱ですね。  兎に角自分が知りたいという事です。  手あたり次第いろいろな人から聞きいて伝えます。  原動力は怒りですね、なんでこの人達はこんなことされなければならないのか。   寄り添うとかそういう事で人の話を聞いているわけではないです。  真摯に向かい合っているだけです。   

2012年ともにシリアで取材中、銃撃戦になって巻き込まれて亡くなったジャーナリストの山本美香さん、公私を共にしたパートナーを戦場で亡くしました。    今迄取材してきた自分が、逆になって答えないわけにはいかない、全力で全て答えようと思いました。   その時が一番厳しかったです。   一緒に仕事をし始めて、戦争の現場なので何があるかわからない、もしお互いに何かあった時はどんなに厳しくても、お互いに伝えるという事を約束しました。  まさか僕がそういう風になるとは思いませんでした。  ウクライナの侵攻が始まって100日ぐらいですが、世界のジャーナリストが亡くなったのは30数名で、これは異常な数です。   でも我々はひるんじゃあいけない。    ジャーナリストの目がなければやりたい 放題じゃないですか。  虐殺を伝えなければまた起きます。

戦争の愚かさ、残酷さ、狂気を伝えていきたい。  多くの人が殺されている事実。   民間人をターゲットにすることは許されることではない。  今のロシア、プーチンはそれを躊躇なくやっています。   平和であるという事は、三度の食事が出来て、仕事が出来て、家族の笑顔が見れて、安心して眠れるという事だと思います。    戦争からどうして人間は学習できないのか、それは人間が不完全だからだと思います。  ジャーナリストとして伝え続ける事しかないです。


2022年8月8日月曜日

斎藤弘美(NPO法人 日本サハリン協会会長・元フリーアナウンサー)    ・【戦争・平和インタビュー】 サハリン残留日本人に思いを寄せて

斎藤弘美(NPO法人 日本サハリン協会会長・元フリーアナウンサー)    ・【戦争・平和インタビュー】 サハリン残留日本人に思いを寄せて 

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まって間もなく半年です。  この間ロシアが北方領土問題を含む平和条約交渉を中断する意向を表明するなど、日本とロシアの関係にも大きな影響が生じています。   北海道に広がるかつての樺太と呼ばれた台地、現在のロシア極東サハリンには戦後の混乱の中で様々な理由で帰国

せずに残った日本人、今も暮らしています。   こうしたサハリン残留日本人の日本への帰国を支援してきたのがNPO法人日本サハリン協会の会長で元フリーアナウンサーの斎藤弘美さん(65歳)です。  日露関係が冷え込む今も一人でも多くの人を帰国させるための模索を続けています。   戦後生まれでかつてサハリンとは関わりがなかった齊藤さんが、今も残留日本人の問題と向き合い続けるのはなぜでしょうか。  

サハリンの歴史と言った時に、サハリンと樺太が同じ場所だと知らない人が多いんです。  第二次世界大戦前の40年間だけ日本のものだったので、日本人が沢山住むようになりました。  森林開発、石炭の開発を進めますが、とても質のいい石炭が出て来ました。   パルプを生産する森林が沢山あるのでパルプを生産する。   水産業も盛んになる。  終戦直前の人口が40万人ぐらいでした。    

太平洋戦争末期は南の方が戦場になっていたので、守りは南の方に集中していました。    普通に住んでいたところにソ連軍が攻めてきたので大混乱でした。   南へ逃げてゆくが機銃掃射などでたくさんの人が亡くなりました。  8月15日の終戦の日の後も続いていて、緊急避難する船が沈没させられたりして、逃げる事もできなくなって樺太に残されてしまった人たちがたくさんいました。   日本人が何人残っているのか判らない。  調査もしたことがない。   親を亡くして自分が日本人であることも知らないで成長した人もいますし、日本人であることを明らかに出来なかった人達もいます。   現在は70人ぐらいいるんじゃないかと思います。(曖昧)    何でそうなったのかをちゃんと考えた方がいいと思います。   戦争の時に起こった出来事が、今又同じように世界のいろいろなところで起こっているわけで、過去ではない。

NPO法人日本サハリン協会ではまず一時帰国をやりましょうと活動しています。  永住できるという選択肢にもなりました。  お手伝いを1992年からするようになりました。 まず日本人であるという証明をしなければならず、たくさんの書類が必要となる。   協会として手伝ってあげてその人たちの負担を減らす。  資金的にも募金したりして援助する。   一時帰国する人が3700人ぐらい呼んでいますが、実数はその半分ぐらいです。  協会が関与した人たちだけなので、個人的にはたくさんの方々が一時帰国しています。  永住帰国も現在137世帯(309人)になります。   

社員のアナウンサーでしたがフリーのアナウンサーになって、ある番組のアシスタントをしていて、樺太残留韓国人の帰還運動がありました。   その後平和を考えるためのピースボートに関する企画があり、私は社会主義のソ連に行ってみたかったんです。   行った先の或る集会で日本人の人が隣に来て、日本人に会ってみないかと言われて行ったら4,5人の日本人のおばさん(50代後半)がいて、日本的な食事をごちそうしてくれました。   日本人に会いたかった、日本語を話したかったという事でした。   サイドボードには日本人の墓参団が食べて捨てていったお菓子の袋、煙草の箱、マッチの箱などで日本語が書いてあるものでした。  日本語を見ると懐かしいし、胸がきゅんとする、日本語を見ているだけで気持ちが落ち着くと言っていました。  ゴミではなく宝物になっていた。

稚内からサハリンの南までが43kmで、そんなに近いのに行ったり来たりができなかった。残留していた人たちがこんなに日本を思っていたとは、想像もしていなかったことにとてもショックでした。   知らなかったことにとても申し訳ないと思いました。   残った人は長女が多く、母親、兄弟を食べさせるために韓国、ロシアの人と結婚して養なってもらっていた。  引き上げ船が来た時には母親、兄弟は帰っていけたが、結婚して子供もできて長女が残っていることが多かった。   私も長女だったので、私がこのかたがただったかもしれないと思いました。     

仕事が切れた時にボランティアできましたと言ったら、もうこの会は辞めるるんだと会長が言いました。   会を辞めないで欲しいという声が多くありました。  当時私は56歳で「あんたがやりなさい」と言われて、天から降ってきたことなのかなと思って引き受けました。   会長に就任して丁度10年になります。   ロシアのウクライナへの軍事侵攻は影響を与えています。  コロナで2020年、2021年の一時帰国は出来なかった。   今年は戦争のせいで全く来られなくなってしまった。  ロシアから日本に来る飛行機がすべてないからです。  兄弟とかが亡くなっても葬式にも来られなくなったし、墓参りにも来られない。  今後いつまでで続くのか。  

今年3月、かつてサハリン在住の日本人でウクライナで暮らしていた男性が北海道に避難してきた。 78歳の降旗英捷さん、日本サハリン協会の支援で北海道に来る。  彼は1歳半ぐらいで終戦になり、サハリンでソ連の人として生活してゆきます。  サハリンで就職して派遣されてサンクトペテルブルクの大学に行って、奥さんと知り合って奥さんがウクライナ人でウクライナに住むことになります。  戦争になり、ポーランドに逃げる事になる。  ポーランドの大使館と連絡を取り、募金活動をしてこちらでチケットを購入しました。   いろいろな問題をクリアして日本への帰国となりました。  降旗さんの日本への考え方と私たちの考え方では齟齬があることも気づきました。(単純な美談的なものではない。)  みんながみんな日本に来ることが幸せなことなのではないかもしれない。  自由に行ったり来たりするのが出来るのが、大事なことかもしれません。 

今一時帰国が止まってしまっているので、いろいろな方法を考えたりしています。    在留日本人の方々を無視してはいけない、無視すべきではないという事に対しては、出会った人の責任、そのことに気づいた人の責任、それを受け止める責任があると思います。  




   

2022年8月7日日曜日

島田敏(声優)             ・【時代を創った声】

島田敏(声優)             ・【時代を創った声】 

アニメ「ちびまる子ちゃん」のおじいちゃん、さくら友蔵役、映画「スター・ウォーズ」シリーズのルーク・スカイウォーカー役など の吹き替えなどやってきました。  「ちびまる子ちゃん」のおじいちゃん、さくら友蔵役は前任の青野武さんから引き継いで12年。   青野さんが病気になってオーディションが行われ合格しました。   それまで年配の役は多くななかったです。  コロナ禍で収録形態が大きく変わってしまいました。   今は2,3人ずつに分かれての収録になっています。   外国映画のスタッフさんに何が大変ですかと聞いたら、ガヤ(メインの出演者の周囲で声を出すなどして場を盛り上げる役割の人を指す語。)だというんです。  みんながいればガヤ取り出来たんですが、それが出来なくて仕事が増えてしまってとんでもないですと言っていました。   2,3人の場合にはどのぐらいの熱量で行けばいいのかわからないんです。   キャスティングも知らない方だとどう来るのか判らないので、そこがとても悩みます。   

新潟県生まれですが、やんちゃな子供時代を送っていたと思います。  小学校3年生ごろに、「柔道一直線」と言う番組があり、柔道に憧れて妹を含めて段どりなどやっていましたが、妹の肩を脱臼させてしまって、親から大目玉を貰いました。   中学3年間は吹奏楽部に所属していました。  高校2年の夏の時に中学校時代の友人がいる札幌に一人で遊びに行って、帰りに青函連絡船に乗って百万ドルの夜景を見ながら自問しました。   ふと思い浮かんだのが演じる事、芝居をしてみたいなと思いました。   アマチュア劇団に入って、週に2回の稽古と年に2回の公演に参加しました。   奨学金を貰っていたので大学時代は真面目に過ごしていました。   劇団テアトル・エコーが一期生を募集しているというので、新潟の劇団の友人と一緒に受けたら、友人は落ちて、私が受かっちゃいました。   3年で劇団養成所生になって4年で研究生になり、その時にこの道で行こうかと思いました。     両親からは何を考えているんだと言われて、時間はかかりましたが何とか認めてもらいました。   

劇団テアトル・エコーでは大道具、小道具の製作、稽古では代役をやったりプロンプ(居やテレビなどで台詞 (せりふ) を忘れた俳優に陰からそっと台詞を教えること。)などをやっていました。   先輩たちの演技に対する心構え、真摯に向き合う姿に憧れました。    外国映画の吹き替えに興味はないかと言われて、ありませんと言ったんですが、明日「バルジ大作戦」と言う戦争映画があるが、行く様に強くマネージャーさんから言われて、行く事になりました。  若い出演者が来ないという事で営業監督が急遽「君が替わりをやれ」と言われて、本当にびっくりしました。  ほかの人たちは前日にリハーサルが終わっているんです。  先輩が「背中を突っつくから、突いたらしゃべれ」と言われて、冷や汗の流れる中で何とかアテレコが終わりました。  悪夢のような一日でした。 

その後、アニメーションのレギュラーの番組を頂いて、「宇宙魔神ダイケンゴー」と言います。(1978年)   主役の弟のユーガー役でした。   劇団の納谷悟朗さんは大先輩で演出家でもあります。    スタジオにたまたま二人きりとなり、無言の状態が続いて耐えられなくなり、「納谷さん」と言ってしまって、「今日はいい天気ですね」と言ったら、「無理やり話題を作らなくていいから」と言われてしまいました。   夕方から始まる番組があり終わると飲みに行っていました。  その時に納谷さんが「僕はスタジオでは何も言わない。  どういうことか判るか」と言うんで、「いいえ」といったら、「僕がスタジオ内でダメだししたら、次から僕を頼って来ると思う、自分で役つくりをしてよかったら次の仕事が来る、駄目なら潰れてゆく、それだけのことだ 。  だから心して仕事に向き合いなさい。」と言ってくださいました。  「判りました。」と言って席に戻ったら、「島田、台本を持ってこい」と言って「このセリフがどういう気持ちで言った。」と聞くんです。  説明していると、「あーしまった。」と思いました。スタジオで見ていて下さり、飲み屋で駄目だしを下さり、まさに納谷悟朗さんによる個人授業だったんです。 

悪役、敵役は魅力のある役どころだと思います。  相手がいかにイライラするか、腹が立ってくるか、そういったことで楽しむことが面白いところだと思います。  、映画「スター・ウォーズ」は壮大なストーリーが織りなす映画なので、興奮したのを覚えています。  1977年から9作品。  若きルーク・スカイウォーカーから歳を重ねたルーク・スカイウォーカーまでを演じさせていただいて、とても光栄に感じています。   

アニメ作品と吹き替え作品は全然別のものと思っています。  アニメ作品は与えられた役に想像力を膨らまして命を吹き込みます。  相手のセリフを聞きながらドラマが構築されてゆく。  替え作品は外国の役者さんに出来るだけ近づけた形で演技をしていきます。  吹き替えの方が同時にいろんなことを体感しながら進んでゆく現場になります。 

「ちびまる子ちゃん」のおじいちゃん、さくら友蔵役を引き受ける事になり、最初の収録日の時にスタジオに向かう足取りが重いんですね。  スタジオに入った瞬間拍手で迎えていただいて、「おじいちゃんの席はここです」と言われたときには涙が出そうになりました。    ちびまる子ちゃんが大好きなおじいちゃんと言うイメージで演じています。    微妙な感情の表現、声で真逆の感情表現というのが難しいところであります。 

表現者は自分力を磨くことだと思います。   その人ならではの実体験がその人の魅力になって行くんだと思います。   この業界は次の3つが必要だと思っています。    ①才能、②努力、③運。  若い人はこの3つを掴み取ってもらいたい。    運もアンテナを磨いていくと、何かが通った時にふっとキャッチできると思います。  

2022年8月6日土曜日

浦川豪(兵庫県立大学減災復興政策研究科教授)・デジタル地図で地域の防災情報を継いでいこう             

浦川豪(兵庫県立大学減災復興政策研究科教授)・デジタル地図で地域の防災情報を継いでいこう   

1938年(昭和13年)7月、神戸と阪神間に亡くなった方、行方不明になった方695人と言う被害を出した阪神大水害がありました。    地元では阪神淡路大震災と並んで記憶されている災害です。   この阪神大水害で六甲山では総降水量が616mmを記録してもろい花崗岩の地盤が崩れ、六甲山の南側の市街地を土石流が襲いました。   この阪神大水害から80年経った2018年に記憶や教訓を後世に伝える為のホームページ「阪神大水害デジタルアーカイブ」が完成しました。   国土交通省六甲砂防事務所や自治体、新聞社などが呼びかけて、阪神大水害80年行事実行委員会を結成し、市民の手元にあった写真や手記などを集めて、当時の被害を21世紀の私たちが追体験できるようになりました。  プロジェクトのメンバーの一人で デジタル仕掛けの地理情報システムをこの「阪神大水害デジタルアーカイブ」に組み込んだのが兵庫県立大学減災復興政策研究科教授浦川豪さんです。   災害を忘れないために場所と対話することが大切だという浦川さんにお話を聞きました。

阪神大水害80年行事実行委員会が設立されて委員長が神戸大学の奥村?先生で、私に「阪神大水害デジタルアーカイブ」をどうやって作ってゆくかという事から始まりました。  「阪神大水害デジタルアーカイブ」を開くと、写真資料、動画、体験談などがデザインされて並んでいます。   80年前の事象なので、その時の記録はあまり残ってはいなくて、体験をした人に聞いて、当時の記録を収集し、アーカイブしてゆくというところから始まっています。  一番心配だったのはアナログであろうがデジタルであろうが、多く集まるのだろうか、という事でした。    私はデジタル化された地図を扱う技術を得意としていましたので、多く取り入れています。    総計で667で、写真が276、手記が92、その他です。   お借りして読み込んでお返しするという事を行いました。   

5人の方々の被災の映像ストーリーがまずあります。  それに対する、資料、写真、手記などが展開していきます。   当時13歳の女性の体験では最初自宅の道の周りにちょろちょろと水が流れていたが、そのうち川のようになった。  妹は小学校の3階の講堂に避難して助かった。  姉の友人は松の木に登って助かった。   実際に体験した実感があります。  全体像の被害としては後半にありますが、それぞれの身を置いている場所がどういう場所で、災害が起きた時にどういう影響を受けるのか、想像してもらう事が大事です。 そうするとどういった優先順位で対応するか想像ができます。   

その土地土地のエピソードがクリックするだけで見に行けるようになっています。    地図にはNOがふって有りクリックするとその場所の災害の写真が見られる。      場所が特定できない写真は従来載せる  そして長年使えるようにしました。 

横浜国立大学在学中に、1995年の阪神淡路大震災があり、それがきっかけで防災の道に進みました。  恩師からは「土地の医者に成れ」と言われました。   都市の弱点を分析して見つけて、こういう対策をした方がいいと、それを一過性ではなく継続的に続くようにする。   分析、発見のためにGIS(Geographic Information System  地理情報システムと言う技術をマスターするように言われました。   

高校生がスマホで以前作った地図情報に従って危険個所をスマホで写真に撮って、GISに送り、自動的に蓄積されます。   毎年行う事で情報が更新されます。   ハザードマップでは、住民一人一人の周辺の事柄なので、住民一人一人の周辺のスケールを変えてあげて周辺の情報と調べた情報とで、各個人オリジナルのハザードマップをテンプレートで作りました。  それをもとに避難経路を透明なシートに手書きで書き加えるわけです。  そうすると個人のハザードマップが出来るわけです。    

「尼小田フェス」を年に1回やっています。  ボランティア、小田高、以外の高校などがいています。  最後に「Bloom Works 」のユニットがポップス調ですが、防災の思いが詰まった歌を歌います。  住んでいる土地の脆弱性、どう開発されたのかとか土地の歴史など自分の住んでいる土地を知ってゆくことは大事です。  

 

 

2022年8月5日金曜日

戸高一成(海軍史研究家)        ・戦艦「大和」が語るもの

戸高一成(海軍史研究家)        ・戦艦「大和」が語るもの 

1948年(昭和23年)生まれ、74歳。   広島県呉市にある呉市海事歴史科学館(通称「大和ミュージアム」の館長を2005年のオープン以来勤めています。   2019年には『[証言録]海軍反省会』全11巻で菊池寛賞

戦艦大和の1/10の模型、全長が26m。  船の展示模型としては世界一大きいと思います。 戦艦大和は極秘の船なので、終戦の時にほぼすべての資料を焼いたんです。    きちんとした復元が本当に難しくて、残された資料を全部集めても足りないので、規格品の部分も多いのでほかの軍艦の資料も集めて、徹底的に調べて図面をおこして建造しました。   

国民が大和の存在を知ったのは、基本的には戦後です。   幻の戦艦という事で思いいれが多くて、興味を掻き立てる船だったようです。   46cm砲を持っている戦艦は大和と武蔵だけなんです。   弾丸の直径が46cmで重さが1トン半ぐらいあります。    弾丸を4万m飛ばすという事で軍艦に積んだ大砲としては世界一です。   最新技術が導入されて調理も電気化されていて、生活環境は非常に良かったようです。    造船的に言うとバルバス・バウ と言って艦首が丸く突出していている設計で、これが大型船の主流になりますが、大和の特徴でもあります。 

次の戦艦はかくあるべしという事で、後の大和型のプランを立てたのが松田千秋さんという方です。   昭和18年に戦艦大和の艦長としてトラック島に着任しています。   その時の気持ちはどうでしたかと聞いたことがあるんですが、「それなねえ君、気持ちよかったよ。」と言っていました。  順次4人の艦長が担当しました。   戦艦の基本計画をまず立てて、奥田誠二さんをメインにしてスタッフの中に若い松本喜太郎さんが加わります。    松本さんとは20年近く話を聞く機会がありあました。   最初20種類ぐらいのいろいろな考えが出され、試行錯誤しながら最終的な形にもっていった。   軍艦を実際に設計する牧野茂さんとも仲良くさせていただきました。   ああすれば、こうすればよかったのではないかと、大和に対する不十分だったことを亡くなるまで反省しながら暮らした人でした。   

乗り組みの方にも話を聞きました。  沖縄を渡航するときに第二艦隊の長官は伊藤整一中将で、副官として務めた人が生き残っていて、その人に最後の大和の戦いの様子は直接随分聞きました。  伊藤中将は大和が沈むことがはっきりして、この作戦は中止するという事で、生存者を救助して残りの船に引き上げろと命令した後、大和の船底に近い自分の部屋に戻って内側から鍵を掛ける音を聞いてから、その人は自分は脱出したと言ってました。  

資料調査会に勤めていた時の私の上司は 山本五十六長官の参謀だったので、 山本五十六長官と一緒に大和で勤務していたので、日頃の大和の生活もよく聞きました。   戦時中とは思えないような食事とか優雅な生活の話を聞きました。   

第一次世界大戦後、軍縮会議で主力艦のそれぞれの国が持つ勢力を比率で決めて、アメリカ、イギリスなどに比べて6割ぐらいに設定されます。   例えアメリカが来ても全部がいっぺんに来ないので、それに負けないもので貧しい財政のなかで日本を守ろうという事で、考えられたのが「大和」なんですね。    「大和」ができた昭和15,6年ごろは飛行機は発展途上でした。  最後の決戦勢力は海軍だと当時は思われて居ました。    「大和」、「武蔵」などは最後の決戦勢力だと思っていて、細かい作戦には使いませんでした。    小さい船がどんどん沈んでいって王様だけが残るような海軍になってしまうわけです。   使う機会を失って、最後に使えないと判りながら「大和」を出して沈めてしまうということになるんです。   レイテ沖海戦で46砲が火を吐くが一発も当たらないですね。   残念な結果ではあります。   敵の弾が届かないところから撃って沈めれば安全で必ず勝てるという考えがありますが、これは間違いで、遠くからでは弾は当たらない。  効果が発揮できない大砲になってしまった。  

戦況報告で航空特攻の話が沢山出て、天皇から水上艦隊はどうなっているかを問われて、忖度して過剰に反応して、残っている主力艦隊を特攻にしないといけないのでは、と言う風に考えてしまうわけです。   上からの指示には反対でしたが、伊藤長官はついに説得されたが、とても沖縄まではいけないだろうと思っていたようです。     お昼にアメリカの攻撃圏に入る。(本来なら危ない時ならば夜に運航)   同じ沈むなら正々堂々戦って沈むところを見せつけようという気持ちがあったのではないかと思います。    アメリカは戦艦部隊よりも航空部隊という事で総攻撃が始まるわけです。  世界一の戦艦だったのにその能力を充分にふるう機会がなく、悲劇的な最期を迎えたという事で、日本人にとって深い同情心を掻き立てる、世界一だという誇りを掻き立てる、いろんな意味で戦後の日本人に大きな影響を与えたと思います。   アメリカにも作れなかった巨大戦艦を日本は作ったんだと、その力があればまた復活できるんだという、戦後復興の大きなてこになったと思います。 

幼稚園のころから飛行機、船が好きで、海軍、技術に興味を持って雑誌を読んだり、模型を作ったりしていました。  小、中学以降、神保町の古本屋で海軍の雑誌、本、海軍の軍人の伝記とか買って読んでいました。   ものを作るのも好きで、美大に行って美術家のような仕事が出来ればいいかなと思って多摩美術大学の彫刻科に入りました。   「大和」を作る事と彫刻でものを作るという事は根源的なところの気持ちではほぼ一緒です。   「大和」の1/10の模型を作ったのは楽しい仕事でした。   友人とデザイン会社を経営していましたが、辞めてしばらくしてから史料調査会があり、海軍の本を見せてもらっていました。     資料調査会の創立者が富岡定俊さんと言う終戦の時に海軍の作戦部長でした。   そこの司書になりました。   上司が土居さんと言って山本五十六の参謀をやっていた人ですが、なんで日本はこんな無謀な戦争をしてしまったのか、なぜこんな悲惨な結末になったのか、自分たちが生きているうちにきちんと残していかないと、命がけの体験、教訓が生かされなければもったいないという事で、会合をするんで手伝ってほしいと言われました。   海軍の中佐、大佐で現場のトップの方々が20人ぐらい参加していました。   自分たちの体験を話して討論するという事をしていました。    20年ぐらい経ってからNHKさんがNHKスペシャルを撮っていただき、録音したものを文字おこしをして10年以上かけて完成させました。 『[証言録]海軍反省会』全11巻

1999年に昭和館図書情報部長、その後、「大和ミュージアム館長」へ就任。         資料調査会にいた頃(平成5年)厚生省が戦時中の日本の国民が体験した労苦を残す資料館を作る事が決まって、平成11年にオープンして、平成15年の暮れに呉市の市長が見えて昭和館が落ち着いただろうから是非館長をお願いしたいという事で、呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)に就任しました。  どんなに素晴らしい技術でも人間の使い方が誤れば、人間を不幸にもする。戦争と平和と人の命の大切さと技術は、混然一体の歴史を持っているわけです。   「大和」を伝える事は日本人の努力と失敗の歴史の両方を見る事が出来るから素晴らしい。   戦争の実体験者がいなくなってきて、戦争を知らない私たちが次の世代に伝えるという事ははなはだ難しい問題に突き当たってしまう。    「大和ミュージアム」では観る人が自分で判断できる情報を提供をしたい。  戦争は二度とあってはいけない。



2022年8月4日木曜日

山村美智(女優)            ・ハグとダンス

山村美智(女優)            ・ ハグとダンス

1956年三重県生まれ、テレビ界を席巻したバラエティー番組「オレたちひょうきん族」の初代ひょうきんアナウンサーとして女子アナブームの先駆けともなりました。  5年間勤めて退社、その後は女優としてドラマ、映画に出演、二人芝居を上演するなど活躍の場を広げました。   2019年夏、御主人に食道がんが見つかり、2020年12月亡くなるまで10回以上入退院を繰り返す事になります。    闘病生活を支えた毎日の約束が「7秒間のハグ」、ご主人との思い出を綴った著書のタイトルにもなりました。  現在は女優業のほかSNSに元気で楽しいダンス動画やご自身の朗読をアップするなど多彩な活動を続ける山村さんです。 

今は一人と犬が2匹います。   結婚した当初からハグをするル-ティーンは有ったんですが、病気になったころに何度か抗癌剤で入院した時に、「又来るね」と言ってハグをした時に夫が、「7秒間するといいみたいだから7秒間しようよ。」と言われてそれからは、抱き合って7つ数えて,ハグをするようになりました。   7秒間ハグをすると、オキシトシンと言う幸せホルモンが出るそうです。   愛情の交換みたいな「7秒間のハグ」というタイトルにしました。   亡くなって3,4カ月後から書きだしました。   書きながら涙があふれて書けない日もありましたが、書かなくてはいけないというか、小説を一つ読んだみたいな気持ちになってもらいたいなと思って、辛かったけど書きました。   

小さいころは自分を表現すること、前に出ることができない子でした。   身体も弱くて、幼稚園に出ていったら、発表会で白雪姫をやる事になっていて、キャスティングは終わっていて、急遽ウサギの役をやる事になりました。   嬉しくてお芝居みたいなものをやると自分が生きてく感じがあり、女優になりたいと思った覚えがあります。   中学、高校は演劇部に居ました。  大学卒業後は英語の教員になることが内定していたが、東京キッドブラザース」と言う劇団のチケットを購入するために並んでいたら、主催者の東豊さんが突然「貴方、女優になりませんか。」と言われました。  内定が決まっていることを忘れて、「ハイ」て言ってしまい、入る事になりました。  1年と言う約束でしたので、辞めてアナウンサー募集にフジテレビに応募しました。   自然にしゃべっているのがよかったようで採用が決まりました。   

オレたちひょうきん族初代ひょうきんアナウンサーになりました。   芝居もやったことがあるのでお笑い芸人さんの中でも耐えられるだろうという思惑もあったようです。照明の明るさにはびっくりしました。  フジテレビとしても大改革がありましたが、お茶くみとかはやらざるを得ず、いろいろ辛いこともありました。   モダン会と言う5人のグループに夫となる宅間秋史、遠藤龍之介、永山耕三、寺尾のぞみ、と私がいました。   遊びに行ったりする仲間が出来ました。   宅間はおおらかな人で私の辛いことを全部受け止めてくれました。   名も売れていたのでデートもままならず結婚してしまえば二人で大っぴらに歩けるという思いもあり、結婚しました。   芝居がやりたいという思いもあり、翌年退社しました。

2002年 主演した『私とわたしとあなたと私』が評判となりましたが、夫のニューヨーク転勤が決まり女優活動を休止しました。  日本では夫は凄く忙しかったけれど、ニューヨークでは二人の時間を楽しめました。   ニューヨークの5年間は二人の結び付きを強くしてくれました。   帰国してその後、がんが見付かりましたが、楽観的に思っていました。  夫は丈夫で私は身体が弱かったので私が先に亡くなるとは思っていました。   世の中がコロナになってしまったこともあり、私に替わって看病することもできませんでした。    最後50日付き添いが許されました。   何とか明日はよくなるいう思いでいましたが、涙がバラバラ出てきてしまいました。   意思の疎通が出来たのはほとんど前半のみでした。    まだ見ていませんが、動画で「みっちゃん 有難う。」と振り絞るように言ってくれたのは有ります。  永遠に見ないかもしれません。   夫も私も一人っ子で子供もいないのですが、人生を楽しむものが一緒になって大親友になって行きました。    

人生って、一つの土偶みたいなものを作ってゆくものだと思います。   一人で作ってゆく土偶もありますが、夫婦は一つの土偶を二人で作ってゆくんですね。  半身になってしまった感覚と言うのがあるんです。  半身になってしまっても倒れるわけにはいかないので、肉を付けて行かなくてはいけないがそれはなかなか難しいです。    私は本を書かせてもらったので、傷口に塩をごしごしした感じがあるので、思いっきり泣かせてもらったし、ぶつけることが出来て、有難かったことではあります。   悲しみが薄れるというよりは深く深く沈んでいる感じです。   自分の作品を朗読しようと思ったのは、ほかの人に読んでもらうわけにはいかないという思いと、書くこととはまた違った世界があるかもしれないと思って、体調を崩して声がかすれていましたが、スタジオに10日間通いました。   やっぱりつらかったです。      これを読んで、聞いてくれて何か感じてくれる方が一人でも多くいればいいという、使命感と言った作品という事ですね。

SNSに楽しいダンスが上がっています。   母が5月に亡くなってしまったんですが、3月の段階で、97歳で1か月入院し、無理だと言われたが、吃驚するように回復して退院して、車椅子に座っている母に犬がキスして、もう一匹はしなかったという動画がありますが、凄く見ていただいて、 210万回再生となっています。   私がダンスをするのを見て元気になると言ってくださる人が結構いて、元気になるといことであればという事で、そういった形でさせていただいています。   半分半分の気持ちがあり、どうでもいいかなと言う思いが半分あり、生きるという事は権利ではあるが、義務でもあるので、ただ息をして生きて行くのではなく、夫の口癖が「人生たのしんだなもの勝ち」と言うのがあり、楽しんでゆくのが私は仕事なので関連したものを考えながらやって行きましょう、と言うのが半分あり、こちらを広げていきたいという思いもあります。  何が一番幸せなのかと言うと、自分のことではなくて、誰かを幸せにすることが一番幸せなんですね。