2022年7月7日木曜日

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて 

東京にかつて「東洋のハリウッド」と呼ばれた映画の町があるのをご存じでしょうか?   東京都のほぼ中央、多摩地区の東部にある調布です。   色々な映画会社が立ち並んだ全盛期には真夜中まで撮影の照明が煌煌と灯り町は映画関係者であふれたと言います。   宮嶋眞雄さん(79歳)は撮影所の近くで育ち、映画の町調布をよく知る生き字引的存在です。  

昭和25年に「羅生門」を作ってベネチュア国際映画祭に昭和26年に出品したら、誰も予想しなかった金獅子賞を取りました。   日本映画何て大したことはないという評価だったが、一転して凄い映画を作ってるという事になりました。  当時大映の社長がアメリカ、ヨーロッパに行って大変な人気でした。   アメリカからも人が一杯訪ねてきます。  昭和26年に「源氏物語」がカンヌ映画祭で撮影賞、「地獄門」が昭和28年にカンヌ映画祭のグランプリ、昭和28年に「雨月物語」で銀獅子賞、「七人の侍」が昭和29年にベネチュア国際映画祭で銀獅子賞「山椒大夫」が銀獅子賞。  

昭和20年代後半から30年代前半は映画の黄金期と言われています。   昭和33年の観客動員数は11億2700万人。 当時の人口が9200万人なので1人が1年間に12回映画を観たことになる。    昔のフィルムは現像所があちこちにあるわけではなくて、自分たちの敷地の中に現像所を置くわけです。   いい映画を作るという事は「一筋(台本)二抜け(現像)三役者四はなくて五に監督」と言われていた。  現像が悪いのは水質が悪い。   日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督が言った言葉です。  綺麗な水が調布では湧き出ていました。  風光明媚な景色が調布にはありました。  時代劇のロケにはもってこいの場所でした。  東京からの駅も近かった。   京都の東活映画がタイアイアップして映画を作りたいという事で、東活映画のカメラマンだった本多嘉一郎さん(後の調布市長)が調査のため派遣されました。(昭和7年)  水もよくて景色もいいのですぐにOKとなりました。  

僕は昭和18年生まれで、生まれた時には日活はなく大映村に変っていました。  村扱いになっていました。   スターは住まなかったが、中堅以下は村に住んでいました。  女優では浦辺さん、三條美紀さん等は住んでいました。  俳優では宇佐美淳、根上淳さん、等がいました。   大映村はおよそ7000坪あり150世帯ぐらいが住んでいて500人ぐらいいました。    試写会などこっそり観に行ったり楽しかったです。  昭和46年にはなくなってしまって寂しいです。  「旧日活大映村の会」が出来たのは60年ぐらい経ってからです。  会を作った時には40名ぐらいいました。  

6年間かけて本をだしました。  「旧日活大映村」と言うタイトルです。   児童公園のところに「映画発祥の碑」というものがあります。  俳優の手形が調布駅の東口と日活撮影所の食堂のなかにあります。 小林旭、石原裕二郎、赤木圭一郎、吉永小百合とかあります。  見学者の案内をして親しんでもらっています。  

僕は大学では映画研究会に入りました。 大学4年の時に助監督を勤めました。  久松静児監督とは時々一緒に仕事をしました。  杉江敏男監督(若大将シリーズなど)、谷口千吉監督(八千草薫さんの夫)ともご一緒しました。   調布の映画に関わった場所などの看板をいろいろ立てて欲しい。

2022年7月6日水曜日

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

1944年(昭和19年)名古屋市生まれ、1967年外務省入省、1996年から1999年までウクライナ大使を務めました。   ウクライナでの経験をもとに2002年「物語ウクライナの歴史」を出版、紀元前の遊牧民族スキタイの登場から9世紀から13世紀キエフルーシ公国、17世紀のコサックの共同体、ロシア革命時のつかの間の独立を経て、1991年にソ連からの独立に至るまでウクライナと言う豊かな土地をめぐる民族の興亡が描かれています。   今年2月ロシアのウクライナ侵攻で再び注目を集め、ベストセラーとなりました。

(20年前に出版したものがべストセラーに) 突然ロシアがウクライナに対して軍事侵攻した。  これまでなかったようなあからさまな方法で誰にでもわかる軍事侵略だったので、皆さん衝撃を受けられたと思います。   ウクライナと言う国はどういう国だろうと関心を持ったのではないでしょうか。   ウクライナは1991年まではソ連の一部でした。  赴任した後いろいろ勉強してみると、これは凄い国だなあと実感しました。  当時人口は5000万人以上、ロシアを除くとヨーロッパでは一番面積が大きい、産業面でも旧ソ連の中心地もであった、穀倉地帯である。  大国となる条件を備えていると改めてびっくりしました。  ウクライナはロシアと非常に近い国ではあるが、自分たちはロシアとは違うんだという意識が非常に強くある。   ウクライナに対する日本の情報がロシアを通じてのものが非常に多かった。   モスクワには日本の新聞、テレビ、ラジオの支局があって、ウクライナにはなくて、ウクライナで何か起こった時、モスクワを通じて日本に来る。  ロシアバイアスがかかっているという風に思って、ウクライナから生の情報が行くようにしないといけない。   以上のような3つのことで書こうという気になりました。

ウクライナの歴史を見てみると本当に今回のようなことが多いですね。  ウクライナの地形、位置が関係しているように思います。   平原の草原地帯で馬でいくらでも行ける。川も冬は凍ってしまうので馬で渡れる。  東から西から蹂躙される、と言うようなことだったと思います。   

知識がないところから本を書き始めたので大変でした。  モントリオールの総領事をしていた時にウクライナへの行く指示がありました。  カナダはウクライナの移民が非常に多いので、本屋に行くとウクライナに関する本がかなりありますので、それらを買って持っていきました。   フランス語を専攻していたので、スラブ地域に行くとは夢にも思っていませんでした。   赴任してロシア語をやるのか、ウクライナ語をやるのかと言うのは迷いましたが、結局ウクライナ語をやる事にしました。    支配が長かったのでロシア語が本来の言葉でウクライナ語は田舎の言葉だと言われてきました。    ウクライナ語でスピーチをすると喜んでくれました。    共産主義体制から自由主義体制に変ったという事で非常に多く混乱が起きました。  経済状態は非常に悪かった。   資金繰りを如何にやるかという事がウクライナ政府の最大の課題でした。   IMFからいくら融通してもらえるかと言うのが生きるための最大の問題でした。    日本はIMFの二番目の拠出国だったので盛んに頼み込んできました。   一緒に東京に取り次ぐという事が私の最大の問題でした。  

当時、ウクライナは西洋に一番近いところだったので、1/3の核兵器があったと言われています。   ウクライナが独立すると、ウクライナが1/3持つことになってしまうわけです。   出来たばかりの国に対して不安を感じたアメリカは核兵器の放棄をもとめました。   今後の経済援助などを考えるとウクライナ政府は手放すという事になりました。    核兵器に携わっていた科学者、技術者は職を失ってしまうため、よその国に行って核兵器を作る仕事に関係するかもしれない。   そういった人たちが平和的な仕事に携わってやって行けるように、と言う事が必要でした。  援助するというスキームに加わりました。

記憶に残る一人と言われると、ユシチェンコ大統領です。   私がいた時には中央銀行の総裁をしていました。   私をよく呼んでこういったことを日本に伝えて欲しいと言ってきました。  戦後の急速な日本の発展に興味を持って、是非いろんなことを教えて欲しいという事でした。   いろんな資料を渡したり、話をして親しくなりました。  その後大統領に立候補するが、毒を盛られて顔にぶつぶつが出来て真っ赤になってしまった。   私が外務省を辞めた後に、選挙監視団の団長にという事を頼まれて、キエフに行きました。 その時にユシチェンコさんにお会いして激励しました。   無事大統領に当選して、顔のぶつぶつもなくなり、元のハンサムな顔に戻られました。 

キエフは歴史のある非常に綺麗な街です。   10,11世紀ごろに出来た大聖堂、修道院があります。  クリミヤ半島にヤルタと言う街がりますが(ヤルタ会談があったところ)、帝政ロシアの皇帝の夏の離宮があります。  黒海に面した丘の上に建っていて、宮殿自体も美しいし、眺めも素晴らしいです。   そこでルーズベルトとチャーチルとスターリンが会談して、日本についての秘密条約を作ったという部屋まであります。  景色の面でも歴史の面でも非常に興味深いところです。  

ウクライナ研究会というのがあり、世界ウクライナ学会日本支部と言うのがありまして、そこに所属しています。  大使もしていたという事でそこの顧問みたいこともしています。 ロシアのウクライナ軍事侵攻に当たってウクライナ研究会として、非難声明を出して、林外務大臣のところに行って非難声明を渡して、ウクライナへの支持を訴えました。   

日本、ウクラウナ国交樹立30周年でいろいろな行事が行われるはずでしたが、中止になりました。   キエフの大学が日本についての連続講義をやりたいという事で、第一回目に私の講義をしてほしいということで2月下旬に予定していましたができなくなり、再度やってほしいとの依頼があり、録画撮りという事で行いました。

キエフルーシ公国は統一した国がなかったころに、スウェーデンあたりから人が来た人たちが来て国を建てた。  9,10世紀ごろで、キエフを中心に大きくなっていって、強力な国になって行きました。   ロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の先祖になった。   ウクライナは、キエフルーシ公国がキエフが中心にあったのだからキエフを引き継いでいる我々が本来の後継者だと言っているわけです。    ロシアでは、モスクワ公国が力をつけてきてある時点でルーシ(ロシア)が名乗って、キエフルーシの後を継いだのだから自分たちが本家筋だと言っている。   これは決着のつかない話だと思います。  キエフルーシ公国の言葉は一つだったが、段々別れていって、ウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語になって行った。   1940年蒙古がキエフルーシ公国に侵攻して滅びる。  今のウクライナの土地は、その後リトアニア、ポーランド、 その後リトアニア、ポーランドは合体して連邦のようになり、長い間支配される。   一方モスクワ公国がのしてくるという事でした。   最終的にはモスクワがロシアに変って、ロシアが段々ウクライナの土地を取って行ってロシアの国に含めてウクライナは霞んでいってしまった。  

ウクライナの草原地帯は遊牧民が行ったり来たりして、いろんな人が略奪をするという事をしていた。  ウクライナで人を略奪してクリミヤ半島からオスマン、トルコ帝国とかに奴隷として売り出すという事をやっていた。   段々無人地帯化していった。   無人地帯化すると、リトアニア、ポーランドで支配に耐えられないと言っていた人がどんどん移り住んできた。   そこでコサックと言うものが出来てくる。   主君を持たない共同体と言うところで、武力がかなりあり、非常にユニークなコミュニティーが出来てくる。   リトアニア、ポーランドが退いた後は、ほとんどのところをロシア帝国が取って行った。  ウクライナの人はコサック精神をずーっと受け継いでいたし、自分たちはロシア人とは違うんだという事で、独立したいという動きが段々強まって行って、ロシア帝国がロシア革命で潰れた時に、独立を果たした。   独立は長く続かなくて、後のソ連に征服されてソ連の一部になってしまう。

1922年に出来た憲法には 、ソ連を構成する共和国では自由に分離する権利を持っている、と書いてある。   しかしスターリンの元では中央集権で独立なんて考えられないことで、100%一地方という事でした。   1991年ソ連が崩壊、独立できた。      戦後日本人抑留者4000人ぐらいがシベリアからウクライナに送られていた。   ドンバス地方に収容されて道路工事などの強制労働に従事させられていた。   

本の最後に、ウクライナの将来性と重要性について、ウクライナが独立して安定しすることが、ヨーロッパと世界の安定にとり重要である、中、東欧の諸国にとってはまさに死活の問題であると書いてあります。   まさかこんな形で表れてくるとは思ってもいませんでした。  ウクライナは大きな国で力もあるわけで、それがロシア側に入るのか、西洋側に入るのかで、双方の力関係がかなり変わって来る。   

外国に赴任すると早くその国のことを勉強しないといけない。  歴史を勉強することは迂遠な様で一番いい方法だと思います。  外務省に入ってフランス語を専攻したので、まずフランス、次にエジプト(ナセル大統領時代)、一旦東京に戻る。 その後2,3年単位でいろんな国に行きました。     外交官の資質と言ってもいろいろあると思いますが、国のために働くと言う事は当然やることですが、同時に国際的なことに対しても働くという、両方が要求されると思います。 



 


2022年7月5日火曜日

松岡希代子(美術館館長)         ・世界の絵本を原画で楽しんで

 松岡希代子(美術館館長)         ・世界の絵本を原画で楽しんで

1961年東京生まれ、女子美術大学、千葉大学大学院を卒業後、板橋区立美術館の学芸員となり、去年の春から館長兼学芸員となりました。   イタリア北部のボローニヤでは出版業が盛んで、1964年から児童書のブックフェアが開催され1967年から国際イラストレーター展が始まり、絵本の原画を展示するようになりました。  この展覧会はまだ出版が決まっていない原画でも 応募できるコンクールで この春は92か国過去最多の4000件近い応募がありました。   ボローニヤ国際絵本原画展が最初に日本に紹介されたのは1976年西宮市大谷記念美術館で、その後板橋区立美術館が中心となって日本各地で巡回展が行われています。  原画展は今年も6月25日から板橋区立美術館で開催されています。   絵本原画展の面白さ、原画の魅力などを語ってもらいます。

高校1年の夏休み明けのころ学芸員になりたいなあと思いました。  幼いころから絵を描いたり工作することが大好きでした。  女子美術大学付属高校に進みましたが、周りの人が上手で自分の絵は魅力的じゃあないという事に気が付いて、学芸員と言う仕事を教えてもらいました。  学芸員の資格がとれるコースを大学で専攻するという事で選びました。   女子美術大学の後、千葉大学大学院へ行き、卒業後板橋区立美術館の学芸員となりました。  学芸員は空きがないと募集がありません。   

母が旅行が好きで、高校時代に海外旅行に連れて行って貰いました。  最初がローマで感動しました。  キリスト教美術に興味を持って、そういったものを勉強したいという気持ちになりました。  大学では美術史を学び、ヨーロッパの美術館を沢山見てやろうと思って予備知識を蓄えて、大学3年の時に2か月間独り旅をしました。  ボローニヤは私の第二の故郷です。    森泉文美さんという有能なコーディネーターとボローニヤで出会って一緒に仕事が出来て助かっています。   30年の付き合いです。  

絵本の原画展は世界的にも珍しかったです。   ボロ―ニヤチルドレンズブックフェアという子供の本専門の見本市がありますが、1964年にスタートしています。  ビジネスの場ですが、壁面が寂しいので絵でも飾ったらいいんじゃないの、と言うところから始まったそうです。  絵本の原画を飾ることから始まり、コンクールが行われるようになりました。 作家と編集者を結び付ける役割が出来大きくなっていきました。      

西宮市大谷記念美術館が絵本の原画展を日本で初めて行いました。(1976年)  好評で絵本の原画展に注目し始めました。   2年後にボロ―ニヤの原画展をに西宮でやるようになりました。  1977年にはいわさきちひろ絵本美術館が開館。  絵本文化が広まった時期でした。  西宮市大谷記念美術館がボローニヤ原画展を始めたのが1978年で、板橋区立美術館がオープンしたのが1979年で1981年からボローニヤ原画展を開催しました。  1989年に西宮市大谷記念美術館がリニューアルすることになり、2年間閉館することになり、板橋区立美術館が幹事館になることを依頼されました。   私が担当することになり1989年にボロ―ニヤに出張しました。  

絵本原画を5点一組にしてボローニヤに送ると、出版、未出版関係なく無料で審査します。 審査員が変り5人で国籍が違う事という様になります。   審査員のチームを作るのが大変です。  

観る人が様々な絵の中から読み取ってお話を感じる絵という事だけで魅力的で、原画で見ると技法とか、作家の手の跡を感じ取れることができる事も魅力的です。  ボローニア原画展は絵本作家になりたい人が集まってくる場なので、背中を押されるような場になっていると思います。  「くっついた」と言う絵本を出版した三浦太郎さんはまずボローニヤ原画展で入選して、そこから絵本作家になっています。  

コロナではイタリアは大変厳しい状況でした。  2020年1月にイタリアに行ってきました。  イタリアではその後急激に悪化して、ボローニや原画展も中止になってしまいました。  翌年も中止になってしまいました。   それを日本に持ち込んで開催できました。  イタリアのボローニヤ原画展はオンライン方式で行う事になりました。  今年はオンライン審査2回目で、一次審査を通ったものを審査員がボローニヤに集まって審査することが出来ました。 

 ワークショップ、講演会とかアクティブなことを併せてやっています。  世界100か国、3万冊、70言語の絵本が板橋区中央図書館に置いてあります。 ボローニヤで行われるブックフェアで集まった本の中から毎年寄贈してもらっています。  1階は全部子供の本で半分がボローニヤからの絵本です。   





    

2022年7月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

平岡:季節の言葉を歌にいれるのは好きです。  それは自然と親しむみたいな感じではなくて集団幻覚みたいな気持ちで感じているからかも知れない。  みんなで夏という幻覚を見ているから夏があるみたいな。    

穂村:俳句では季語があるが、戦争を詠った俳句の名句には季語がない句があって、不思議だったんですが、季節を殺してしまっているものと言うか、戦争と言う集団幻覚を見ると、通常のノーマルな季節が消えてしまう。  集団幻覚説はリアルかもしれない。  

平岡:冬が好きで寒ければば寒いほど好きです。   東京の夏は暑すぎると思います。   春は苦手で秋は好きです。  春は芽吹いて来る力強いが、あの感じが結構怖くて、自分が生命体としてみたいな気持ちになります。  秋は生き物が弱ってゆく季節だから、この中だったら戦っても生き延びられるみたいな感じがします。  体質的に暑いのが苦手で、それに加えて夏の精神性は好きじゃないので、青春みたいな感じのもの。

夏の名歌を選択 

「赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる」(選、平岡)   葛原妙子

平岡:大きい花束を抱えて歩いているところだと思いますが、その姿を上から見降ろすような目線があって、花を抱いているはずの自分がふっと掻き消えるようなそういう感覚が歌われている。  炎天下がポイントかと思います。

*「蝉みたいにかなしいにおいの軟膏を首筋にぬる八月六日」(選、平岡)   東直子

平岡:8月に原爆が2回あって、終戦があり、お盆があり死者とか命とかに想いを馳せる機会が多くなる季節だと思います。  広島の原爆投下の日がはっきり書き込まれていて、そのイメージで作られている歌だと思います。   蝉も短命のイメージがあります。 本当は命は危ういものだと感じている。                         穂村:蝉は音のイメージがありが、匂いで捉えるというのは珍しい感じがして、でもなんとなくわかる。  五感のうち嗅覚と触覚で、この組み合わせの歌は珍しいと思います。

夏は来ぬ 相模の海の 南風に わが瞳燃ゆ我こころ燃ゆ」(選、穂村)    吉井勇

穂村:ベタな夏の青春みたいな感じですが、時代そのものが青春みたいな、作者の青春とダブっているというか、今の人間はここまでストレートに夏を捉えることは難しいと思います。                                       平岡:青春なんですかね、自分の確かさ見たいな力強さを感じました。            穂村:この時代の人は生命の肯定みたいなものが凄くありますね。

「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(選、穂村)  与謝野晶子

穂村:当時不遜な、下品なというようなことで、この歌はめちゃくちゃ叩かれたんですが、僕は輝いていると感じますね。   人間賛歌ですよね。                         平岡:言い方が挑発的でないというか、シャアシャアと言っているところが器の大きさを感じます。

*「学年のなくなりて後夏はただ夏と呼ぶしかない一続き」(選、平岡)  永田紅

平岡:夏休みというくくりを失った後の目線で、夏休みと言う区間がどれだけ輝いていたかと言うようなことを振り返っている。                         穂村:社会人になるとくくりと言うのがなくなり、1年ごとのくっきり感が消えてしまう。

「夏が嫌いな平岡さんは夏生まれ夏が来るたび我は思うも」(選、平岡)  花山周子

平岡:ここに出てくる平岡さんは私のことで、自分の歌を持ってきてしまいました。   読むと安心します。                                穂村:夏が好きなという風になってしまうと、全然いい歌ではない。  

雲はいまネオ夏型ひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり」(選、穂村) 宮沢賢治

穂村:ネオ夏型という気象用語、科学的な専門用語だと思いますが、この短歌に投げ込まれたとたん、物凄い輝き、眩しさを感じる歌ですね。 何故宮沢賢治はほかの作家には書けなかったようなものが書けたのかを、或る宮沢賢治研究者に聞いたたことがありますが、「賢治は文学を文学としてだけ捉えていなかったからじゃないか」と言っていました。  宗教や農業や科学などに凄く関心があった。  複数の星座のような彼の関心のなかに文学もあって、ただ文学に関心を持っているだけでは、このネオ夏型と言う言葉は出てこないという風に思いました。   

花もてる夏樹の上をああ」がじいんじいんと過ぎてゆくなり」(選、穂村) 香川進

穂村:時そのものが歌われる歌は珍しいと思います。  この短歌の背景には昭和20年の夏という事がある。   戦争が終わって時間が動きだし、季節がよみがえったというような歌だと思います。                                平岡:時を詠う事は難易度が高いと思いますが、上手く行っていて、生命力のある有限な時みたいなものを連想させるところを上手く使っているのかなあと思います。  昭和20年に作られた歌という事を知って、凍っていたものが解凍された瞬間みたいな印象を受けました。   

「青い舌を見せ合い笑う八月の夜コンビニの前ダイアナ忌」(選、平岡)   山崎聡子

平岡:学生時代の光景かなと思いますが、夏特有の湿度が伝わってくる感じがあって、雰囲気のある歌だなあと思います。  自分たちにとって青春の一コマであるある時間が、誰かの忌日であるという、キラキラ感と後ろ暗さ、コンビニの前とダイアナ忌の組み合わせもいいと思います。

リスナーの作品

*「こんな日はただ眠りたいカンガルーのお腹のポッケに深く沈んで」  多治見千恵子

*「私お風呂明日入るわと言う友と旅行するのが一番気楽よ」      佐々

*印は短歌の漢字ひらがな等、名前も違っている可能性があります。


  


2022年7月3日日曜日

冨永み一な(声優)           ・【時代を創った声】

冨永み一な(声優)           ・【時代を創った声】 

アニメ「サザエさん」の磯野カツオ役でお馴染みです。  5歳のころに子役として映画デビューし、海外ドラマ大草原の小さな家』の3女のキャリー役で声優デビューしました。  アニメあらいぐまラスカル』のアリス役や「アンパンマン」のロールパンナ役やドキンちゃん役など多くの役を演じています。   

最近着付けを習うようになって着物を着てきました。(ブラックジーンズ)  帯は紫の白い刺繍。  出身は広島(生まれ)  両親は福岡出身です。  3歳ぐらいには東京に移っています。   5歳の時に母に連れて行って貰って、オーディションに受かって、映画「鯉のいる村」に出演することになりました。(1971年)  原作:岩崎京子   6歳の時に劇団こまどりに入団、以後ずーっと仕事をさせてもらっています。   テレビドラマお嫁洋画のアフレコで、子役の人を当ててみたらどうだろうという事になり、本当の子供で本当の子役がと言うはしりなんですね。  NHKで生ラジオドラマを体験しました。   全部効果音を生でやっていました。   間違えられないし、間違っても前に進まなければいけないという環境でラジオドラマをNHKでやらせて頂きました。   洋画で大草原の小さな家「禁じられた遊び」「ベンジー」「サウンドオブミュージック」などの作品を中度やらせていただきました。  大草原の小さな家』では3女のキャリー役でした。  

勉強が第一という先生でした。  当時が今の自分を作ってくれたものと思って先生には感謝しています。   仕事の約束が優先するので、友達は複数にして迷惑が掛からないないようにするとか、部活も週に一回の部活にするとか、スケジュールを空けるような工夫をしました。   大学が芸術系の大学だったので、こういった仕事を目指している方が多くて、実技が多い大学だったので、丁度仕事が多くなってきてしまったので単位を取るのが難しくなってしまって、大学は中退しました。    楽しく忙しかったので20代を駆け抜けましたね。   ラジオ『アニメトピア』のパーソナリティとしてDJデビューしました。  

1989年から「サザエさん」の伊佐坂浮江さん役、同級生の早川さん等を担当、カツオ役の高橋和枝さんが体調を崩してしまい、1998年からカツオ役を引き継ぎました。   声は違ってきてもカツオの性格が変わらないようにと言う風に思いました。  カツオくんは意地悪なのではなくて、いたずら好きなんです。  でもここの線は難しいですね。  25年前で、自分でもびっくりします。   自分の頭のなかに正解な声があり、マイクの前に立ってこえを出した時に違うという思いが出てしまい、周りからは大丈夫と言われても、自分では違うように感じて、それを乗り越えるのに苦労しました。   

週に一回あんな元気な子に会えるんだなあと思って、私も元気でいますねという事と、「サザエさん」は年齢が変わらないので、離れないようにしていきたいです。   大先輩に囲まれて仕事が出来ているので、仕事への気概などを観させてきていただいたので、財産になりました。   大きく体調を崩したことはないです。    2人の子の出産をしましたが、その時には辞める覚悟でいました。  出産の二日後に行きました。  子供の敏感なところはあります。 感受性は凄いですね。  

作品が誰かのところに届いているというのは、なんか嬉しい事です。   最近、生き方が多様性になった分、声優さんを見ていて自分にこだわって良い時代じゃないですかね。  いろんなことにチャレンジして動いてみるのがいいかなと思います。  ラジオは今一人で聞いている人が多いと思うんです。  何かしらああそうかと思ってくださることが続けばいいなあと思います。   声を出してみると自分の気持ちがちょっとわかったりするときがあるんじゃないかと思います。    






2022年7月2日土曜日

角谷勇圭(金工作家)          ・【人ありて、街は生き】 茶釜作りの伝統を引き継ぐ

角谷勇圭(金工作家)       ・【人ありて、街は生き】  茶釜作りの伝統を引き継ぐ 

1942年(昭和17年)生まれの角谷さんは鋳物の制作、とりわけ茶道で使う茶釜の制作に長年取り組み、高い技術を持っていることが評価されて、去年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。   茶釜を作るうえで大事にしていることや、今も尊敬の念を抱く、同じく人間国宝だった父への思いを聞きました。

型が土で,粘土、砂などで作っているので、馴染むように土間になっています。  鉄を溶かすところもあり窓を開けてあってもは40℃ぐらいになります。   直径30cmぐらい、高さが20cmぐらいの茶釜があります。   草花の模様などが施されています。  思ったよりも軽いですが、使い勝手がいいように薄く作ります。   鐶付(かんつき)(釜の胴の両側に付けられた、釜を持ち上げるときに釜鐶(かまかん)を通す孔を開けた耳のこと)はどういうものにしようかと苦労するところですが、この釜は水鳥、カワセミをモデルにして型に付けました。   夏用なので涼しそうに作ります。   釜のデザインは以前は釜の肌が粗くてごつごつした感じが主流でしたが、父の時代からきめ細かい肌になり、絵もシャープな感じになりました。   昔は無地が多かったです。  

弾力性のある鉄のへらで絵は作り上げます。  シャープな感じにはもってこいです。   ヘラ自体は自分で形作ります。  ヘラの種類は増えていきます。  40~50本あります。   平たいヘラは笹ヘラと言います。    細いものは線を表します。   ステンレスなので滑るから手に持つところは銅線で巻いて滑りにくくしています。   葦が斜めに下から1/3ぐらいのところから3本生えていて、釜の口のところまで来ています。  そよ風の雰囲気が出るように表現しています。   曲面なので考えながら作ります。 庭には葦等も植えて参考にしています。   木型に押し付けて滑らして細くして行く事で葦の先までの表現をしています。   

 鐶付(かんつき)は粘土に彫刻します。   70~80本ぐらい彫刻するものがあります。鐶付(かんつき)は鳥も、鷺、鶴、雁とかいろいろあり、動物も兎とか、バッタなどいろいろあります。  抜き種と言いますが、柔らかい粘土を被せて型取りして、粘土から抜くわけです。   焼いて釜型にしつらえます。   鐶付(かんつき)は苦労しますが、釜の一つのポイントになります。   車は茶釜の表面のデザインの参考になります。  古いものと新しいものとを行ったり来たりさせることによって、頭を柔らかくします。

父の仕事は小さいころから見ていました。  大きくなってくると父の手伝いに行きました。  ごく自然にこの道に入りました。  父はああしろこうしろとは厳しくは言いませんでした。   じーっと見ていると技はこちらまで伝わってきますね。  人間国宝を父に持つという事はどうしても比較されるので、非常に悩みました。   父は日展を目指していて、入選するためには昔通りのものを作っていては通りませんから、新しい昭和の時代の釜を作るために、本とか、美術館に行って勉強しました。   父は研究心が凄かったです。   新しいものを作って行こうと常に考えていました。 

去年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されましたが、責任を果たせるかどうか心配をしました。   まだとても父の力には及びません。  父は80代でも仕事をしていましたので、見習いたいとは思います。   

鉄は使えば使う程味が出て来ます。  しょっちゅう使っていると艶が出て来ます。  愛着をもって使っていただけると釜も喜びます。  松籟(しょうらい 松風のそよぐ音)と言って、音響的な効果もあります。   沸いて来る音色がいろいろ変わってきますので、響きが出て来ます。   話題になるような釜も作っていきたい、線も繊細で大胆な釜を考えています。  








2022年7月1日金曜日

木野花(俳優・演出家)         ・芝居熱、いまだ冷めず!

 木野花(俳優・演出家)         ・芝居熱、いまだ冷めず!

1948年(昭和23年)青森県生まれ、弘前大学教育学部美術学科卒業後、中学で美術の先生になります。  その後教師を辞め俳優を目指して上京、1974年女性5人で劇団「青い鳥」を結成し、当時の小劇場ブームの代表的存在になりました。   1986年に劇団を退団、その後は俳優として演出家として活動しています。    2013年には連続テレビ小説「あまちゃん」に出演しています。  

コロナ禍でしたが、渡辺えりさんと早い時期にお客さんを半分いれて二人芝居を始めました。   気をつけなければいけないことは全部やりました。   緊急事態宣言でストップをかけられたりしました。   丸々全部やれた公演はないです。    稽古が出来て良かったとか、初日を迎えられてよかったとか、或る意味芝居を新鮮に感じました。   

小、中、高校のころまで相当暗かったです。   私が5歳の時に親が離婚して、母親に育てられました。   母は働かなければいけないので、割とほったらかされました。   友達もあまりいませんでした。    中、高校のころ日本文学全集と世界文学全集を毎月3冊送られてきて、本を読んでいました。   大学に行った時には母親との暮らしが別れました。  そこで母親に対する執着みたいなものが吹っ切れました。   美術学科は自由でしたので、自分を解放できました。(友達と酒を飲んだりしていました。)    教師になりましたが、学生時代の時間感覚がすぐには直らず、朝中々起きられなくて、神経性胃炎、片頭痛、低血圧でダメージがありました。  3学期ごろに病院に行ったらストレスだと言われました。   環境を変える事が必要だと言われて、すぐやめました。   職員同士の会話とか付き合いが大変でした。   辞めようと思ったら、片頭痛が治りました。   

当時アングラが全盛で、劇団に入ろうとしましたが、劇団を回っても私が入れる劇団はないなと判りました。   養成所で勉強をしている間にそこの人たちと旗揚げすることになりました。  女性5人でした。(青森でも養成所でも男尊女卑の雰囲気がありました。)   1974年に女性5人とともに劇団青い鳥を結成し、一回目の公演でも黒字になりました。    お金も溜まって公演も長くなっていきました。    楽しいことの方が多かったですね。  誰にも遠慮することなく、誰からも嫌なことは言われずに、好きなことが言えて、作れて、そういった環境は本当に楽しいものなんだなと思いました。   「青い鳥」で12年やって、演出もやってみたいと思って、辞めて演出の道に進みました。   

女性の脚本家、演出家も増えてきました。  渡辺えりさん、如月小春さん等が当時出て来ました。    演出家としては面白かったけれど、役者としてはしばらく自信がなかったですね。 ターニングポイントになったのが劇団「新感線」の花の紅天狗』の月影花之丞と言う役でした。  目の回るような課題が出まして、こんがらかって段取りを間違えてしまったりしましたが、何とか終わることが出来ました。   しかし、これは駄目だと思いました。  芝居を辞めるかどうか考えて、48歳でしたが、声の勉強、身体を鍛えるというような役者修業を始めました。   55歳の時には花の紅天狗』の再演があり、歌も踊りも増えて、さらに難しくなって、まだまだだと思いました。  辞めるのが悔しくてもうひと頑張りしようと思いました。   新人になったつもりでもって辞める覚悟で本気でやろうと思いました。  演出をやる時には左脳をフル回転、役者をやる時には右脳をフル回転させるという感じでやっています。   

「阿修羅のごとく」という向田邦子さんの作品がありますが、向田さんは非常にアナーキーな人だと思います。  「阿修羅のごとく」を見て、ドラマの枠(お茶の間的な枠)を越えてきたものだと思いました。   4人姉妹の父親が浮気をしたことからドラマは始まるが、それぞれが問題を抱えていて、不倫をしたりとかあり、めでたく終わるというようなことはなく、非常にリアルでこういう書き方もあるんだと思いました。   戯曲を読んだらセリフが凄くよくて、ストーリーも面白くて、名作だなと思って、舞台化することはできないだろうかと思って、挑戦してみようと思いました。   キャストの皆さんにはよく引き受けてくれたなと思って感謝しています。  セリフをあまり大事にし過ぎないようにと思いました。