2022年6月1日水曜日

宮城幸子(琉球舞踊立方)        ・芸の心を次世代に

 宮城幸子(琉球舞踊立方)        ・芸の心を次世代に

宮城さんは人間国宝として88歳になった今も舞台に立ち続け、沖縄本土復帰50周年の記念レセプションでも舞踊を披露しました。  先月東京の国立劇場で行われた「沖縄芸能フェスティバル2022」の際に話を伺いました。

人間国宝という事で吃驚し戸惑いました。   振り返ってみると師匠の故真境名佳子先生のお陰で今があると思います。   女性で初めての人間国宝という事ですが、先達が継いできた技を家元、先生たちが一生懸命やってくださったのが、私たちの世代に伝えられて、その技が又次の世代に伝えられてゆくという事が私の使命だと思っています。  踊りだけではなくて立ち居振る舞いも大切だと言われてきました。

1933年山原出身で、当時あちこちで村芝居が催されて、見に行っていました。  中学の卒業式に「松竹梅」をみんなで踊るようになって、5名の中に選ばれ、それがきっかけで踊りを踊るようになりました。   戦後那覇から山原に避難してきた人の中に踊りをやっている方が居まして、踊りが好きならば山原ではなく那覇に来た方がいいと言われて、那覇にきまして真境名佳子先生を紹介され、それがきっかけで現在に至っています。   

18歳で入門して、真境名佳子先生は厳しい先生でした。   歩みと姿勢は大事で、身体で体得しなさいと言われて、鏡とにらめっこしてぐるぐる歩みをさせられました。  歩みに始まって歩みに終わると言う事はよく聞かされました。   あと姿勢と歌詞の内容が判らないといけない。   厳しくてやめたいという事もありましたが、結局先生のもとで頑張ろうと思いました。   21歳で初舞台(昭和29年)、「浜千鳥」を踊る事になり、緊張しました。  沖縄戦で小道具、かんざしもない時代で、家元のものを借りて踊りました。 「綛掛(かしかき)」を踊るようになって、その小道具を作るようになって、糸を巻くのも飛行機の中で巻いて、東京で「綛掛(かしかき)」を踊ったら凄くよかったと言われました。   白地や黄地の紅型を片袖抜きにし綛と綛掛の糸巻きの小道具を持ちながら恋する乙女を描いています。  歌詞の内容と三線の音色、など厳しく言われました。

30歳の頃にグランプリをいただきました。   突然歌詞をいう様に言われたり、予期しない審査があり、厳しい審査でした。   父は戦争で満洲にいって、その後満洲にいるというような噂がありましたが、家元の妹が熊本にいて、東京公演の帰りに熊本に行った時に偶然父に会う事が出来ました。  父は大工でしたが、器用なので靴を作るようになっていました。  大工ではなく、靴を作っているという事で父ではないと思っていましたが、実は父でした。 戦後10年経った頃の出来事でした。    

「身体で体得しなさいよ」と言う先生の言葉は忘れられないですね。    これを次世代に残すためには、これからの若い人たちに伝えて、いいものを残してゆくように頑張りたいと思います。  先生のように厳しくないと残らないと思います。  礼に厳しく、歩みに始まり歩みに終わるという事と、姿勢作りですね。   歌詞の意味も理解しないといけないですね。   

沖縄の文化、琉球舞踊、そのほかにもいろいろあると思いますが、永遠に残り多くの人から喜んでもらえるという事を願っています。   世界のどこへ持って行っても通用するという印象を持ちましたので、沖縄の歌三線の音色に合わせて踊る、これで人を感動させる、これは大事ではないかと思います。  


2022年5月31日火曜日

津田直士(音楽家)           ・【わが心の人】 小林亜星

津田直士(音楽家)           ・【わが心の人】  小林亜星 

小林さんは1932年(昭和7年)東京の生まれ。  作曲家として、俳優としても活躍しました。  2021年5月30日亡くなりました。(88歳)    

津田さんは1961年生まれ。(60歳)  大学卒業後、CBS・ソニーに入社、 ディレクターとしてX JAPAN(当時は)の才能を見出す。   僕はクラシック音楽が好きで、YOSHIKIもクラシック音楽の素養があり、作曲に小さなころから興味があって、名曲だけを選んで聞くのが好きなところがあって、名曲にはどこか共通するところがあって作家のピュア性みたいなものが影響していることが判って、YOSHIKIにも名曲を生む才能があることが判ってしまったんです。  そこからエネルギーがどんどん増していたという事があります。   作曲家としても工藤静香さんに楽曲を提供したりしてきました。  中学2年の時に急にピアノが弾きたくなりました。   翌年には自分で作曲して文化祭で弾き語りをしたりしていました。 それから止まらなくなりました。  家にはバッハとヴェートーベン、チャイコフスキーのアルバムがあり聞いていました。  小学校4年の時に音楽の授業でバッハの音楽が流れた時に、心の変化があり、心臓から涙が出ているという、それが衝撃でした。  音楽とは関係ない早稲田大学に入って、2年の時に突然仕事を頼まれて、プロの道に入って行きました。  今は作曲家、プロデューサー、音楽ユニットI.o.Youとして活動。

幼稚園の頃衝撃を受けたのが「キングコング」の主題歌でした。(小林亜星 作曲)   「ひみつのアッコちゃん」で衝撃を受けました。   好きなメロディーと言うと亜星さんのものでした。  10年ぐらい前から亜星さんの凄さを伝えたくなってしまいました。  インタビューが実現しました。(2019年)  時間が2時間程度と言われていて、インタビューが始まりました。   繊細で温かいし、偉ぶらない人でした。  話が弾んで気が付いたら4時間以上になっていました。   その後軽く飲みながら話そうかとお誘いいただきました。  トータルで9時間近く伺いました。   

亜星さんは第二次世界大戦のころに少年時代を迎えているので疎開していて、ハーモニカを持って行って疎開先でよく吹いていたという事でした。   慶応大学の医学部に進むが、音楽活動では進駐軍の人たちに向けて演奏していました。  原点がジャズですね。   ジャズを中心にアメリカの音楽1000曲ぐらいを何時でも弾けたという事でした。     曲のクライマックスは高い音が常識ですが、亜星さんの場合は一つの音に意識していたと言っていました。   例えば「北の宿から」高く上がっていく一か所。   自分でも一点に修正するようなこともあります。    心の先生みたいな存在です。   

ストイックな方です。  生まれてくるメロディーを生むことができる作曲家の人たちは物凄くピュアなところがある。    亜星さんはピュアなところがメロディーに現れていて、次にこのリズムでここにゆくというのが全部素直なんですね。   だから純粋でまじりっ気が全くない。   長調で素直なメロディーなのに必ず心がキュンと、切なくなるところが何故かあって、音楽家のプロでも謎なんですね。    メロディーに心を託すことができる人なんだと思います。    CMソングを作る時にはその社長さんに会うという事ですが、どういうCM、どういう音楽がいいのか判るという事でした。   その姿勢が僕に響きました。   歌謡曲は少なく、CMとかアニメーションの音楽が多い。    亜星さんの人間性を含めて、名曲を生む芸術家そのものだと思いますが、世の中は「寺内貫太郎」の頑固おじさんと言うほうが強くて、全く僕の印象とは違います。   

音楽だけでなく芸術って、時間が経ってから本当に評価されることが多いので、亜星さんはこれから再認識されて再評価されるのではないかと思っています。   

作曲って、生まれる時は本当にその前にあるんです。  生まれない時には生まれないんです。   だから無理に生もうと思ってもしょうがないんです。  いつ生まれるか判らない。  音楽ユニットI.o.You」 井上水晶さんと共に活動。  井上水晶さんは詩を書き、作曲、歌も歌い、ピアノも弾きます。   Webを大事にしたいと思って、Webを中心にしながら、ライブをやったりしています。  

*「あなたの情熱を守りたい」  I.o.You


2022年5月30日月曜日

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 後編

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 後編 

俳優、楽器を使う、指揮もする、作家としての仕事もする。  2008年「篤姫」2014年の「軍師勘兵衛」 2020年「麒麟がくる」で役をこなす。  鬼俳犯科帳に出演しましたが、何故鬼平犯科帳はしっとりした感じになるのかなと思ったら、スタッフが余計な口を一切きかないんです。  役者の気持ちが削がれないんです。   長火鉢、煙草盆が置いてあるが、芝居のシーンでは使わないが、全部使える様になっている。   これは凄いことだと思いました。   鬼平がただ歩いて来る場面があるが、数分前に霧を吹くんです。  道とか柳の木に霧が振りかけられ、画面に映った時のしっとり感が違うんです。  演出を含めてお芝居は勉強になります。   

芝居との相乗効果で落語にとってもいい効果が出て来ます。  但し、落語と芝居の同時進行は辞めた方がいいと思います。  「軍師勘兵衛」の時に明智光秀をやらせてもらいましたが、明智光秀が最後に竹で刺されて死ぬシーンがありますが、そのシーンを撮る前が落語会だったんです。  光秀のことが気になってしょうがなくて、どんなふうに落語をしゃべったのか判らなかった。   同じ日にドラマと落語はやってはいけないと思いました。  

1955年(昭和30年)生まれ、67歳。  両親が落語が好きで、寄席に連れて行ってくれて、僕が寄席に行くと泣かない子だったらしいんです。   小学校4年生の時に上野の鈴本に行って、亡くなった柳家 三亀師匠が色っぽい都都逸をやっていたらしいんです。   下ネタなので大人が変な笑い方をするんで、子供心に聞いたことのない笑い声なので、初めてこれは大人の世界なんだと認識しました。  面白いと思いました。  一人で行くのは映画館は絶対ダメでしたが、寄席は寄席のプログラムさえ持ってくれば行ってもよかったんです。  一人でも行くようになりました。   ヴァイオリンは当時ずーっとやっていました。   母は落研だったようです。  母は的確な批評をしていました。  中学1年生の時に「しろうと寄席」では5週にわたり勝ち抜き、チャンピオンの座を獲得しました。 桂文楽師匠から褒められて、落語家に成ろうと思って、3年生の時に5代目春風亭柳朝に入門しようと思って行ったら最低高校ぐらい出ていないと駄目だと言われました。  昼間は東京電機大学高等学校に通いながら夜は寄席と言うあまりないパターンでした。   昼間は野球とかが話題で夜は猥談したりの世界で変なバランスでした。  

小学校4年の時に末廣亭で落語を聞いていたら、談志師匠が「芝濱」をやっていて、聞き入って持っていたアイスクリームが溶けてなくなってしまっていて、落語ってすごいと思いました。  最初奇術が好きでしたが、タネがあるのでつまらなくなり、漫才に入れ込みましたが、落語に出会ったら、そこからですね。  最初桂文楽師匠に手紙を出しましたが断られて、春風亭柳朝師匠の面白さと、着ている着物が凄いのと、優しそうだという事で最有力候補になり弟子入りすることになりました。 (1970年に入門)    1976年に二つ目になる。  通常3年でなるが、当時は凄く弟子が詰まっていた。   1980年に25歳で真打昇進、36人抜きでした。    妬みと言うようなことはなくて、むしろなった後、どういう行動をとるのかを観察していて、そっちの目の方が怖いです。    先輩で人気番組に出て有名になって、或る時師匠と一緒に歩いていたら、その先輩と出会って、僕が挨拶したら、師匠に対しての挨拶がほんの軽いもので、師匠は「しょうがないなあ」と言っていましたが、それがすべてですね。  

師匠から言われたのは「修業しているうちに好きな先輩が出来てくると、その先輩になつくようになるがそれはいい。  その人が何かでこけた時にそこから離れるなよ。  その先輩がどうなろうがその先輩についていきなさい。」と言われました。   今でも守っていますが、それをやるともの凄く評判が悪くなりますね。   いいんです共倒れすれば、その人が好きなんだから。  

1994年(28年前)「ふるさと愉快亭 小朝が参りました」で司会を担当。  画期的でNHKで個人の名前が使われた事はないんです。  100歳の方、140人にお目にかかっています。  2003年に作った「六人の会」、落語会が停滞していて活性化しなければいけないという事と、東西があまり仲良くなかったので作ることにしました。  (笑福亭鶴瓶 、9代目林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔柳家花緑、春風亭小朝)  その下の世代も頑張ってきてよくなってきたと思います。   今年の末には皆さんがアッと驚くようなことをやらせていただきたいと思っています、画期的です。




2022年5月29日日曜日

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 前編

 春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 前編

今年67歳、入門から52年の小朝さんは、今年2月長年にわたり日本の文化芸能の保存向上に寄与した人に贈られる松尾芸能賞優秀賞を受賞しました。  小朝さんは一家そろっての落語ファン、幼少のころから落語に親しんでいました。  中学卒業後1970年に春風亭柳朝師匠に入門、「横町の若様」のキャッチフレーズで人気になって、26歳の時に36人抜きで真打に昇進しました。   落語の世界に入門してから52年になる春風亭小朝さんに伺いました。

CD、DVDとかありますが、無断でユーチューブにアップされて本当に困りまして、それを聞かれるのはどうなんだろうと思いまして、違法のアップロードは辞めて欲しいと思います。 第43回の松尾芸能賞受賞。  歌舞伎俳優、能狂言、舞踊とかの人が取る賞だと思っていしています。  「笑うセールスマン」の実写版で伊東さんがやった時に、ある会のゲストで登場してあるサラリーマンがどんどん不良になって行く設定で、いっそのこと髪の毛を変えちゃいますかと言うような話になって、髪の毛を金髪に染めました、それがきっかけなのでそのドラマは私に大変大きな影響を与えました。  染めた時にロック三味線を始めたのでいいタイミングだったと思います。   2015年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、2020年、春の叙勲で紫綬褒章受章。  賞は周りの方のものだと思っています。 ひいきにしている方、支えてくれる方、がとっても喜んでくれます。  紫綬褒章の時には師匠の顔がパッと浮かびました。  授賞式の時にはコロナでやらなかったのでショックでした。  

落語の世界も頭ごなしに怒鳴るという事は段々なくなってきて、言い方がソフトになってきました。   最近は褒めるようになりました。   弟子にしてくださいと来るので最初の3年間は師匠のこと、周りの弟子たちのことを知る時期で、コミュニケーションが取れるようになって初めて自分のことを判ってもらうという事なんですが、20年ぐらい前からまず自分のことを判ってもらおうとするんです。   大事に育てられているんで怒られるとか貶される事に慣れていないんです。    そうするとこっちも変わらざるを得ないですね。  現在弟子は6人います。   入門したいと30人以上来ていまいたが、最初にお断りしたり、途中で辞めてもらったりしています。   入る時に必ずいうのは、「これからゆっくりあなたのことを見せてもらうから、将来的なことなど考えて僕の中で駄目だと思ったら辞めてもらう事になるけどいいね」、と言って、「辞めてほかの一門に行くのも構わないから」と言って、そういう約束で弟子を取ります。  

ぴっかり☆」がここで真打になり蝶花楼桃花」に改名しました。  蝶花楼は先代の師匠がつけていた名前です。  桃花という文字はかなり考えました。   けなげに一生懸命やっている姿が好きで、桃花は普段から一生懸命にやっていて、小柄な子で初日なのでちっちゃくなってかしこまっている姿を見たら、もう駄目でした。(涙を流してしまった。 新聞などにも掲載される)  それを見て桃花が号泣してしました。   いま落語協会理事をやっている三遊亭歌る多さんが入ったころは何度彼女の泣いてるところを見たか判らないぐらいでした。  落語はもとより余芸も身に付けて、女性だという事で馬鹿にされないように頑張ったんです。  初めて女性の理事になったんです。 そのおかげでまた新しい理事が出て来ました。  歌る多さんらの先輩が道を作ってくれたおかげで桃花もかなり自由に出来る様になりました。   歌る多さんのころにはまだ偏見がありましたね。

「菊池寛が落語になる日」刊行。   菊池寛さんの命日と私の誕生日が同じで、縁を感じてしまって、短編集を読んだら面白くてこれは落語になるのではないかと思って、菊池寛全集を集めて読んだら面白い。   落語にしようと思って独演会で5年ぐらい続きました。読みやすいものを選んで本に載せました。  9作入っています。   

武道館で落語をやりましたが、どうして武道館でと言われますが、漠然と思っていました。 だから違和感はなかったです。 (1997年)  まだ内容は言えませんが、今年の暮れに落語史上初のことをやる予定です。   昔は谷崎潤一郎さんが大好きでした、なんでこんな文章が書けるのかと思いました。   最近は健康、脳、心理学とかと言った本が多くなりました。   クラシック音楽が好きで聞いていますが、ピアニスト、ヴァイオリニストなどの偉大な方たちが残した言葉などは凄く参考になります、全く共通しますから。  ホロヴィッツと言うピアニストの言葉に「今の若手のピアニストに駄目な理由と言うのがある。禍 10回練習をして11回目の練習を本番でやるから駄目なんだ。」と言うのがありますが、その通りで、本番はどんなに一生懸命やってもリハーサルとは違うものがないといけない。

コロナ禍で大きな公演をやる時にはひと月前から体温を測ります。  正月の浅草演芸場は立見席を入れると、入れ替えがあって一日3000人と言うような時もありますが、今回は一桁というような感じで、遠くでマスクしていて笑いもなく寂しい感じでした。  コロナが起こった年は150本の仕事がなくなりました。   最近は普通になってきましたが。

  

2022年5月28日土曜日

役所広司(俳優)            ・【私の人生手帖(てちょう)】

 役所広司(俳優)            ・【私の人生手帖(てちょう)】

1956年長崎県諫早市出身、東京の千代田区役所に就職の後、仲代達矢さんの無名塾に入塾しました。   NHKの大河ドラマ「徳川家康」の信長役を演じて人気を集めたほか、「Shall we ダンス?」や「うなぎ」などの映画で国際的にも高く評価されるなど、日本を代表する役者の一人です。  あまり語られてこなかった新人時代のエピソードや、役者人生について伺いました。

夜は次の作品に対する資料を読んだり、セリフが方言であるとそれを聞いたりするので寝るのは遅くなります。   子供のころはまだテレビがなくていつもラジオを聞いていました。  テレビは最初隣に見に行っていました。  小学校高学年になるとよく映画(洋画)を見に行っていました。   家が飲料水を瓶詰して店とか映画館に配達していたので、配達に行った時など見ていたりもしました。    東京に憧れて高校を卒業したら行ってみたいと思いました。  千代田区区役所に就職し4年務めました。  土木工事課に配属されて道路工事の図面を書いたり、現場監督をやったりしていました。   友人に連れられて観劇した仲代達矢主演の舞台公演『どん底』に感銘を受けました。    田舎に帰ろうと思っていたが、その前に一寸演劇でもやろうかなと思っていたころに、新聞を見たら無名塾で募集をしている記事を見て受けました。   朗読もパントマイムも何もできなかったが一次試験に受かってしまいました。   二次試験は自分の似合う服装で来てほしいと言われたが、聞き逃して居ました。   えっと思ったが、受かってしまいました。  最終的には4人が合格しましたが、200倍でした。   

無名塾では厳しかったです。  最初の入塾式に遅刻してしまいました。  仲代さんから時間にルーズだからみんなより1,2時間前には来るように言われて、早くいかないと落ち着かない体質になってしまいました。   時間と、ちゃんと挨拶が出来る事、先輩を立てる事、それは耳にタコができる程言われました。  やる気の感じ、うまくなりたいかどうか、と言う気持ちは観ていて判るんでしょうね。    後輩に益岡 徹さんがいて、彼とは一緒に帰りに駅のホームでパントマイムをやったり、いろいろ演技のまねごとをやっていました。

1980年NHK連続テレビ小説なっちゃんの写真館』でテレビデビューしました。  22歳でした。  1983年のNHK大河ドラマ徳川家康』では織田信長役でした。  緊張してセリフが出なかったこともありました。   複数台のカメラで撮られていると、段々気持ちが自由になってきて、自由に出来るといい瞬間があるかなあと思いながらやっていると、カメラの前で自由になった気がしました。   矢張り自由さは大事だと思います。   演技も垢が溜まって来るので、俳優は長く続けていくと不利になって行きますね。    何が力になるかと言うと生まれていろいろ経験してきたことが、芝居に役に立つというか、本とか、見た映画から引っ張り出してくるとか、いろいろかき集めてゆく作業ですよね。   歴史上の人物をやる時にはスタッフが資料を用意してくれるし、それを読むわけですが、本当に存在したその男はどんな人だろうという時に、自分の中で感じたことのあるものを捜してゆく、それに頼るしかないですね。  創造力だけではなかなか上手くいかない。  

しっくりしない時など、こんなシーンを演じるに値する場所、セット、小道具、その日の時間、天候とか、そういうのが助けてくれたりするんだと思います。   不自由な中で自由を見つけるのが俳優の仕事ではないかと思います。  

出会った人が自分を育ててくれたと思っていて、自分は幸運な人だと思います。   役者としては自分は苦労知らずなところがあって、ラッキーなところでスタートしていますが、でも毎回毎回うまくいかなかったなあとか、うまく進むにはどうしたらいいかなという事は、それは毎回です。Shall we ダンス?」では長いセリフがありますが、待たされた時があり、芝居になってとても感情的になって、監督からもっと感情を押さえていきましょう、と言われた時もあります。  

最新作は司馬遼太郎さんの「峠」という原作を元にした「峠最後の侍」というタイトルです。 監督は小泉 堯史さん(長い間黒沢監督の下で助監督をしていた)で美しい映画を撮りたいと、そうしないと黒沢明さんに顔向けできないという監督です。  「峠」は司馬さんが侍とは、武士とは武士道とは何だろうと思って、それを知りたくて書き始めた作品で、主人公は長岡藩家老の河井継之助です。  新政府軍と長岡藩との戦いで約5万人に対した360人ぐらいで戦うが、無条件降伏と言う選択肢はあるが、侍としての生き方を選ぶか、長岡藩の庶民の無事を選ぶか迷うが、美しい人間として汚名を残してはいけないんじゃないかと言う思いがあって、戦争に突き進むわけです。  毅然としてプライドを持って戦った侍は今の日本人にとって勇気を与えてくれるのではないかと思います。  

2022年5月27日金曜日

高澤秀昭(元プロ野球選手・保育士)   ・【みんなの子育て深夜便☆ことばの贈りもの】首位打者から保育士に!

 高澤秀昭(元プロ野球選手・保育士)   ・【みんなの子育て深夜便☆ことばの贈りもの】首位打者から保育士に!

63歳になって保育士として第二の人生を歩み始めた元プロ野球の選手がいます。  高澤秀昭さん、且つてロッテオリオンズで首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などに輝いた名選手です。   高澤さんは還暦を過ぎてから何故保育士を目指したのか、孫のような園児たちと一緒に過ごす毎日はどんな喜びがあるのか、伺いました。

現役を引退してから30年ぐらいになると思います。   出身は北海道沙流郡門別町です。  田舎なので野球のチームはなく、一人で石を投げたり、打ったりしていました。  本格的に野球を始めたのは中学で野球部に入ってからです。  高校では苫小牧工野球部に入りました。その後地元企業から野球をやらないかと声を掛けられ、次にロッテからドラフト2位で声を掛けられました。  アマチュア時代には中央の大会には一回も出たことがなかったです。   ロッテオリオンズでは首位打者、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回 、オールスターではMVPにも選ばれました。  

故障がちで30歳を越えると一気に身体が動けなくなりました。  フェンスにぶつかって膝を骨折、デッドボールでも何度か骨折しましたし、肉離れで腰、肩などを痛めました。   13年間プレーしましたが、一軍でプレーできたのは7年ぐらいです。  34歳で引退しました。  その後コーチを17年やらせてもらいましたが、向いていないというか、強い指導力がなかったと思います。   その後、少年野球教室『マリーンズ・アカデミー』子供たちに指導などを行なっています。  保育園、幼稚園にも出張していって、ボールの扱いについて伝えることもしました。   子供の喜んでいる姿を見るのが凄くおもしろいなあと思いました。  10年間教えました。  野球の世界で40年間出来たことは感謝もしていますし、自分自身もよくやり切ったなあと思います。   

次に何をしようかなと思った時に、保育の仕事は面白いのではないかと思いました。   資格を取らないと保育園では働けないという事で、61歳で保育士の資格取得を目指して大原医療秘書福祉保育専門学校に入学しました。 周りは18~20歳ぐらいがほとんどでした。  二軍のコーチ時代は同年代を指導していたので、比較的すんなり慣れました。 2年間の中で色んな教科の座学、実習授業、ピアノの授業、行事などの実践に即した授業なども行います。   勝手が判らず随分と戸惑いました。   ピアノは全然やったこともなく、自宅近くのピアノ教室にも週一度通って、クリア出来ました。   野球をやっていたころにハーモニカは遊びで吹いていました。  無遅刻無欠席で過ごして、今年3月には卒業と同時に保育士の国家資格を取ることが出来ました。 嬉しかったです。  

就職にあたって、今回人生で初めて履歴書を書きました。  初出勤はドキドキでした。  子供の笑顔を見ながら仕事ができるという事は、選んでよかったなあと思います。    現在の担当は1歳児です。   メディアで取り上げられたりしたので、保護者の方と気持ちを通じ合えるのに役立っているのかなあと思います。   

プロ野球選手は100人入って来ると100人が辞めざるを得ないので、若い選手が結構辞めてゆきます。   こういう道もあるんだなという事を参考にして貰えたらなと思います。家内が大分前に亡くなって娘と二人だけですが、これをきっかけに随分話すようになりました。  こうやって導かれたとか、こうやって生かされているという事を随分感じます。 妻を亡くして人間いつかは死ぬんだと、残り時間をやりたいことをやりたいと思っています。  自分はまだ体が元気なので世の中の何かに役に立ちたいという思いがあり保育士を目指しました。  

 

2022年5月26日木曜日

出光佐千子(出光美術館館長)      ・【私のアート交遊録】仙厓さんのゆるかわワールド

 出光佐千子(出光美術館館長)    ・【私のアート交遊録】仙厓さんのゆるかわワールド

仙厓は僧侶としての顔以外に画家としても大活躍、世に送り出した作品は可愛すぎて病みつきになるゆるかわな日本画として一目見ただけでも見るものを幸せな気分にしてくれると今でも高い人気を誇っています。  その仙厓の日本随一のコレクションを誇るのが東京の出光美術館。  出光美術館は東洋古美術を中心に国宝2件、重要文化財を57件をふくめおよそ1万件を所蔵する美術館です。   中でもおよそ1000件からなる仙厓コレクションは質量ともに日本一、今年1月には仙厓ベスト100アートボックスを纏めています。   出光美術館の出光佐千子館長は仙厓は可愛くて思わず笑ってしまう作品ですが、実はなかなか正面切って言えない辛辣なことを緩い絵に包んでいるんですと話します。  時代を越えて人々の心を癒す仙厓への絵の秘密、緩さの秘密を探ります。  

仙厓は禅のお坊さんで厳しい修業を積んだお坊さんです。  仙厓の父親は貧しい農家の生まれで、岐阜県に生まれました。  仙厓は11歳の頃清泰寺で修業を積んで出家して、義梵という僧号を得ました。  19歳の時、武蔵国久良岐郡永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗の元でさらに修業を重ねてゆきます。    白隠とは絵のスタイルが違って、最初は狩野派を学びますが、独学で自分のオリジナルが出てゆくような、凄く人間的な味わいのあるようなものが多いわけです。  

「〇、△、□」の作品  辻惟雄先生はこれは「おでん」じゃないかと言っていますが。  一説には〇が禅宗、△が真言宗、□が天台宗と言うように仏教に3つの宗派を象徴させて組み合わせたという説もありますし、仏教と儒教と神道の3つの三教一致の思想を示したという風に考えられたりして、様々な解釈があります。  よく見るとどこから描いたのか判らず、墨の濃さから見ると〇が一番濃くて、〇、△、□と言うのが□、△、〇と言う風にも見えて面白い。   博多の聖福寺に収められていたものですが、仙厓が来た時には伽藍が崩れていて、何とかしなければいけないという思いがあったようです。  現代アートのような、いろんな考え方を思い起こさせてくれる絵です。

「一円相画賛 」 左に「これくふて茶のめ」と書いてあって、右側に大福もちのような〇が描いてあって、「大福もちを食った後にお茶を飲んで」と言っている。   一つの円相を画いて真如法性等を表すことをいう。  色即是空にひっかけて、これ=是 くふ=空 とダジャレ的なものだと思います。  単なる〇は大福もちにも見える、円相をもっと深く学びなと言うような思いがあったものと思います。  毎日円を描き続けてみるのもいいかもしれません。  心が穏やかな時には綺麗な円が描けます。   

月布袋画賛 」 子供たちと戯れる布袋さんのほのぼのとした情景、子供の手は両手を上げている。 両手の先に丸いお月さんがある。 絵の横に「お月さん幾つ十三七つ」と書いてある。  当時はやった子守歌が書かれている。  月は描かれてはいなくて我々には見えないところに月がある。  布袋さんが遥か見えない月を指さしているところが重要で、禅の言葉に「指月」の教えと言うのがあり、指は経典を表していて、月は悟りとか真理を表している。 お坊さんは一生懸命経典を読んでいるけれども、それは布袋さんの指先を見ているようなものであって、月すなわち経典の奥にある真理を理解し読み解き悟りの境地に行かなければならない、と言うのが「指月」の教えです。   祖父・出光佐三がこの絵を見てほれ込んで仙厓を集めるきっかけになった作品です

最初は禅僧に対して描いていたが、後に一般の方に対しても描くようになったようです。 出光美術館には仙厓の作品だけでも1000点あります。

「牛若弁慶五条橋画賛」  おそらく庶民の子供のために描いたのではないかと思います。弁慶が薙刀を振るっているが、残像があり今風の漫画です。  「蝶々とまれ、なたねの花こふてくなしよ」と書かれている。   蝶々は牛若丸のことを言っていて、牛若丸は両手を広げて蝶のように舞っている。

本当に上手いのかと思う様な絵ですが、実は筆の動きとか本当に上手くて、狩野派できちっと勉強してんるんです。  何故か技巧的なものは描かない。  仙厓の絵の面白さは技巧を越えたところにあって、仙厓は外画の法と言うのを途中から言い出す。  仙厓の絵にはルールがない、自由に見てくださいという事です。   虎の絵を描いているがどう見ても猫にしか見えない。  脇に「猫か虎か」と自虐的に書いています。  

蛙が座禅を組んでいる絵がありますが、座禅を組むだけなら蛙もできるよ、という事が書いてあって、座禅を組む弟子はそれを見てドキッとするわけです。  

仙厓が生きた時代は地震、天明の大飢饉があったり災害も多かった。  寛政の改革もあり厳しい江戸中期の時代で庶民は厳しい生活をしていた。   心をほっとさせるような絵で励ますというような思いがあったと思います。   既成概念を思い切って打ち破ろうという思いがありました。   

絵は一回で心に入ってゆくし、「呵呵大笑」と言って禅の世界では重要で、笑う事によって無心になる、無邪気になることで悟りの境地に近づく事になるわけで、仙厓の場合は笑わせておいてよくよく見ると厳しいことを言っている。  「さじかげん画賛」と言って、おおきな匙が一つ描かれているだけのもの。 「生かそふと ころそふと」と書かれている。    夫婦げんかで来た人に渡したと思われるが、「相手を生かそうと殺そうとあなたのご自由にどうぞ」という事です。  家庭円満な夫婦になったのではないかと思います。

出光佐三の家は藍染め問屋で、美術が好きでたまたま月布袋画賛 」を見て恋に落ちたと言ったそうで父親に言って購入したそうです。  仙厓を軸に東洋コレクションを収集してゆくわけですが、90歳を越えて「自分の人生は美にリードされてきた」と言う言い方をします。  出光佐三は仙厓の絵から人間尊重と言う哲学を編み出してゆくわけですが、〇〇主義なんてどうでもいいじゃないか、人間が大切なんである、という事でした。   仙厓が意図したところは経典の意味ではなく、これを見た方が幸せになってほしいという願いが、一本あって、出光佐三の胸に来るものがあったんだと思います。  出光の会社の理念にもなっていますが、「人間第一」と言うのを仙厓から教えられたものだと思います。

私は美術とは関係ない大学でしたが、実家が美術館と言う事もあり、何となく小学生のころから見てきました。  楽しそうに話をしている学芸員を見て、学芸員を目指しました。  ある人から「出光佐千子さんが文人画に惹かれるのは判ります、だって仙厓から始まったじゃないですか」と言われて、アカデミックな世界ではなくて、ルールにはまらない世界に憧れて生きてきたんだと、そこで初めて気が付いて、私の原点もやっぱり仙厓にあったと思いました。  父から「一度ゼロに戻って物事を考えなさい」と言われて、一番大切な事って何だろうと思えて、非常にシンプルに物事を考えられ、すぐ次の行動がわかると言いますか、仙厓に教えられた教えだと思います。  お勧めの一点は「堪忍柳画賛」です。  堪忍柳という柳の大木の絵があり、その横に「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という仙厓自身の句があります。  会社倒産した人がこの絵を見て、今の自分は強風に吹かれている柳じゃないかと思って救われたという話も聞きました。  祖父の写真の替わりに支店にも飾られました。