2022年5月4日水曜日

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀

小野和子(民話採訪者)         ・民話に魅かれて半世紀 

宮城県を中心に50年以上民話を探し求め尋ね歩いてきました。   取りためた録音テープは1000本以上になると言います。   何代にもわたり語り継がれてきた民話は人の息き使いと共に生きた言葉で伝えられてきました。   民話の持つ魅力、生活や暮らしに関わる民話の大切さについて伺います。  

民話採集者と言うのは抵抗感があり、民話採訪者としています。   民話を聞くために歩き始めたのは35歳の時でした。  5人ぐらいの人が集まってきて、それで民話の会と言う名前を名乗りました。    1975年、「宮城民話の会」を立ち上げました。  民話と言う言葉は比較的新しいです。   昭和20年代から30年代にかけて木下順二さんが新潟の昔話をもとにして「夕鶴」を書いて、山本安英さんと言う女優が全国を公演して歩きました。  その時に木下さんは民話劇と言う言葉を使いました。  それが民話と言う言葉が市民権を持った始まりではないかと思います。 そういった話は古くて江戸時代には絵草紙に成ったりしました。  いつ頃からかはわかりません。  

宮城県内を100か所以上回って、同一か所に2,3回多いところでは10回以上も行っています。   最初の頃は電車、バスと歩きで、段々バスの運行がなくなってきて、52歳で運転免許証を取りました。  私は岐阜県生まれですが、結婚して宮城県に移りました。   「文字」などと言う面白い地名があり歩き回りました。 「もじ」ではなく「もんじ」だと言われました。   話はよく覚えていないけど歌ならわかると言ってよく歌われていたという「数え歌」など歌ってもらいました。   話を聞けない時も沢山ありましたが、人々に触れることの嬉しさを肌で感じてきて、それが支えになって今日までやってきたんだと思います。   

昭和9年生まれで、小学校1年生の時に第二次世界大戦がはじまり、小学校5年生の時に戦争が終わりました。  当時、アメリカとか、フランスとかの童話を読むと非国民と言われました。  先生がそう言った本を集めて燃やしたこともありました。  戦争が終わっていろんなものを読みました。  中学でも児童文学を読みました。   大学では卒業論文では小川未明という日本の誇るべき童話作家で美しい童話をたくさん書きましたので、小川未明について書きました。   仙台に民話を語る人がいて紹介されて、聞きに行きました。地元の言葉で良く判らないこともあり、「犬の恩返し」と言う話を原稿に書いて送ってくれました。  犬の話はよく出て来ます。  桃太郎の話では桃が流れてきますが、白い小箱が流れてきたという話です。  箱に対する思想は実は非常に古いんです。  民話は単なる子供だましのおとぎ話という側面もとっても大切ですが、遠い先祖の伝えてきた話であるとも言えます。  

「みやぎ民話の学校」と言うところでは、東日本大震災の時の震災、大津波を語り継ぐために「声なきものの声を聴き、形なきものの形を刻む」と言うテーマで、お話の会をやっています。  私たちは昔話を聞いてきて出来るだけ文字にして広く世のなかの人に知って貰おうと努力してきましたが、文字で読むのではなくて耳で聞いて欲しいわけなんです。   民話を語ってくれるおじいさんやおばあさんが私の周りにはたくさんいるので、多くの人に聞いて欲しいと思って「みやぎ民話の学校」を開きました。  震災の年の2011年の夏にも民話の学校を開く予定でいましたが、語りの方がみんな津波に会って被害に遭って、体験を語っていただくことにしようという事になり、全国に呼び掛けました。   200人ぐらいが集まり、6人に語っていただきました。   貴重な歴史を残しているんだと思います。  本当は口から口に伝わって行くところに意味があるんですね。  文字にすると死んでしまうところもあるものですから、文字を言葉に置き換えて言ってくださるからが増えるといいなと思っています。  語り継がれた話には本当に深い意味などが得々と流れていると思いますので、そういうところに光をあてていきたいなあと思いますし、伝承してゆく何かを作っていけたらいいなと思っています。 


2022年5月3日火曜日

信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

 信友直子(映画監督)          ・認知症の母と支えた父の物語

4年前に、認知症の母と介護にあたる父の日常を描いた映画「ぼけますから、宜しくお願いします」を制作、自主上映が全国に広がりおよそ20万人が鑑賞し、自ら執筆した本も多くの人に読まれました。   その後母は脳梗塞も発症、2020年夏に亡くなりました。  信友さんは老夫婦の介護の日常や90歳を越えて様々な家事を始めた父の奮闘ぶりなど、新たな発見を映像にまとめて、続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」を制作、3月末から順時公開され,合わせて書籍の続編も出版されました。  認知症の介護体験から感じたこと、映画や書籍から伝えたいことなど伺いました。

15年前に乳がんを発症、宣告されたのは45歳の時でした。  仕事が面白くて夜あまり寝る暇もなくやってましたが、身体が悲鳴を上げたという感じです。    癌は死を連想するのでショックで一気に落ち込みました。    カメラでいろんなものを撮るのが趣味でもあり仕事でもありました。   両親も撮っていましたが、撮っているのが普通の状態だったので癌になった時に凄く怖いが、いつもやっていることをやっていれば、その怖さから逃げられるんじゃないかとも思いました。   好奇心が強いので自分が癌になってしまって精神的にも肉体的にもどうなってしまうのか、そういう興味もありました。   その闘病記がテレビで放映されました。

両親は広島県呉市に住んでいますが、毎日のように母とは電話をしていましたが、こんな事があったという事が前に話をしたのと一緒でした。   ちょっとおかしいと思いました。(10年ぐらい前)   病院に検査に行きましたが、事前に認知症に関する知識を本から得ていて、テストでは30点満点中29点を取って、その時にはアルツハイマーだとは言われませんでした。   1年半経って、2回目は知識を得ようとする気力もなく、今日は何月何日だろうと私に聞いてきました。  そこまで進行しているんだと思いました。    相性が合えば進行を遅らせられる薬をいただきました。   父は93歳になっていて耳が遠くて、私が東京を引き払って面倒を見る様かなと思って話したら、父が面倒を見るから東京で仕事をやりなさいと言っていました。   介護サービスについては父が頑として反対しました。   2000年ぐらいから両親の映像を趣味の一環で撮っていました。  母が認知症になったのは2012,3年ぐらいからでした。    呉の地域包括支援センターの方に映像を見てもらったら、心配だから両親に合わせて欲しいと言われて、ちょっとづつ介護の窓口が広がってって行きました。  

フジテレビの番組で放送したら凄く反響があって、映画化しようという話もありどんどん進んでいきました。    母はいろんな自分の葛藤を私に話してくれたので、家族はそれに対してどうやって寄り沿ってあげればいいのか、考えて欲しいと思って、皆さんに映像をお見せしたいと思いました。   タイトルは「ぼけますから、宜しくお願いします」   2017年正月に母が「今年はぼけますから、宜しくお願いします」といったんです。    暴言を吐いたり、暴力をふるう時もありましたが、普段通りの時もあって、振り回されると振り回され損だと思って、学習して行きました。  カメラを持っていたという事は凄く役に立ちました。   引いた眼で見られる。  父はこれも運命だと達観しているような感じでした。   母が何か出来なくなったり、物忘れをするようになると「これは病気じゃけんしょうがない、わしがするけんそれでええじゃろう」といってやっていました。   母の気分が楽になるような声掛けが出来ていたのは凄いなと思いました。  

一作目は20万人以上が観ました。  両親がごく普通の親だったので、自身の両親とか、自身に重ね合わせてみることが出来たのがよかったんじゃないかと思います。   4年経って続編の「ぼけますから、宜しくお願いします、お帰りお母さん」が出来ました。   母が脳梗塞で倒れてからは、母を撮っていると自分でも辛かった。   察してか父がどんどん明るくなって、父を撮っていることで私も気持ちが楽になり、父のことを大切に編集していこうと思いました。  母が脳梗塞で倒れて一度だけ家に帰るシーンがありますが、私も泣きながら撮りましたし、一番印象に残っているシーンです。  父は何とか家に母を連れて帰ったやりたいという思いで凄く頑張りました。  それまでは淡々としていたようですが、母が弱ってからは愛の深さに感動してしまいました。   母が認知症にならなければ、父は家事、介護を身を粉にしてやったりするいい夫なんだという事に私は気が付かなかったと思います。   ラブラブでスキンシップをするのも母の認知症のなせる業ではないかと思ったりします。   

コロナ禍で実家に戻って父と一緒に過ごしていました。  病院で母に会ったら、娘が帰ってきたのなら父も安心だろうと思って、あの時期に母は旅立ったのかなあと思いました。 6月1日に危篤だと言われて父と一緒に行って、「おっかあ わしが来たで」と言ったら元気になって、毎日面会が出来て、私は楽しい想い出話をしたら眼に涙が溜まったりしました。  父は「また あのハンバーグ食べに行こうや」と言ったんです。  ファミレスで高校生のようなデートをしていたんです。  宝物のような2週間を過ごして、それまで30分間の面会でしたが、6月13日にはずーっといてもいいですと言われて、「わしは挨拶はせんよ」と言っていた父が、夜に「おっかあ 今までありがとね わしゃあ あんたが女房でほんとによかったわ いい人生じゃった  ほんまに幸せな人生をありがとね」と言ったんです。  「向こうで又仲良く暮らそうや」と言ったら又母の目に涙が溜まって、凄い瞬間に立ち会ったと思いました。  

介護の先輩から頂いた言葉があって「介護は親が命懸けでしてくれる最後の子育てなんですよ」と言われました。   母は命がけで生きて老いて弱って旅立ってゆくという事を全部見せてくれて、又あの世で会おうという別れ方をして、感謝と言う言葉が一番合うなと思います。  

2022年5月2日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり 

小島さんは1956年愛知県生まれ、早稲田大学在学中にコスモス短歌会に入会します。  2006年、『憂春』で第40回迢空賞受賞 2015年、『泥と青葉』で第26回斎藤茂吉短歌文学賞受賞 2017年、『馬上』で第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞 紫綬褒章受章。  去年刊行された最新歌集「雪麻呂」は高い評価を受け、詩人の大岡信さんをたたえる大岡信賞の第3回の受賞者にも選ばれています。

春から初夏の好きな歌を選んでもらいました。  春も初春、中春、晩春があり夏に行く途中のニュアンス、初夏、薄暑とか繊細な季節感は日本の文芸とは切り離せないものです。   

春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも」 柿本人麻呂歌集 万葉集巻10の作品

柿本人麻呂歌集は必ずしも人麻呂の歌ではない、人麻呂の歌ではあるかもしれないが、基本的には作者が判らない。  この歌も作者は判らない。

「春がやって来るとしだれ柳に新芽がついてしなって重くなって、それほどに妹は私の心に乗ってしまった。  重い存在になってしまった。」  

「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」    大伴家持       空に上がってゆくひばりの光を浴びている明るいものを見て、自分は地上にいて物思いをして、心が沈んでいるという、これはコントラストですかね。  天のひばりの明と地上の暗ではっきり分かれている。 

*「早くって言おうとひらく口に花とびこんできて言葉は泡」  くどうれいん     花は桜かなと思います。  早くと彼女は言おうとしたが、開いた口に花びらが飛び込んできて言葉は泡、という情景です。  恋の歌だと思います。  早く何なのか想像するところがいいと思います。   リズムが素晴らしいと思います。  

 まりもちて遊婦こともを毬も多ぬことも見ほるゝ山さくらはな」     北原白秋   まりをもって無心に遊んでいる子供を、子供を見惚れているまりもたない子供がいて、おそらくジェラシ-とかコンプレックスが育つ直前ぐらいで、ただ見惚れている、ここを歌っているのがいいなあと思います。   これからどういう風に二人の人生ドラマがあるのか、と思ったりします。

ほととぎす 空声して 卯の花の 垣根も白く月ぞ出でぬる」  玉葉和歌集 永福門院  初夏と言っていいと思いますが、ほととぎすが中空に声が聞こえてきて、白い卯の花が垣根に咲いていて、夕方の早い時間に月が出てきた。  ほととぎすが来ると夏がやって来るなあと言うような感じです。   ほととぎすを耳で聞き、花が目に見えて、遠くに月が見えて感覚が何重にも重なって来るような歌ですね。

*「春疾風て高速道路入口の門番に美しき娘あれ」       塚本邦雄         春疾風と高速道路の速さが結びついていると思いますが、そこには居ない娘を出してくるというところに塚本さんの新しさを感じます。    自然物でないもので自然を歌うという世界ですね。  

「旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に」    若山牧水       青春の5年ぐらい、年上の人と苦しい恋をして非常に傷ついて絶望に打ちひしがれて、その後出会った人が奥さんになった太田喜志子さんと言う方で、結婚して信州の海のないところなので、海に行こうと約束していたらしい。   いざ行こうとしたらお金がなくて、じゃあ一人で行ってくるよと。  

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ」  永井陽子          不思議な歌です。  哀れ花びら流れ、で始まる三好達治の詩がありますが、その本歌取りじゃないかと思いますが、東洋の春と言うのも不思議じゃないですか。 西洋からガリレオが望遠鏡で花びらを眺めている、どうしたらこんな歌が出来るんだろうと思います。

*「東山動物園のかばが好き青葉の頃の若い福子が」      坪内 稔典           福子はかばの名前。  重吉の奥さんが福子で、二代目重吉が凄く有名で福子は三代目で凄くたくさんの子供が生まれて、子供たちはいろんな動物園に貰われて行って、次に又生まれてゆく。  

リスナーの作品 

*「笑顔しか思い出せないもういない貰ったシール使えずにいる」   ゆうかりん 

*「雷が落ちぬようにと電気を消してコラだけで見るトムとジェリー」 伊藤弘道 

*「春風にグーでパンチをするように窓から手を出し蜘蛛を放った」 大西瞳

*印は漢字、かな、氏名など間違ってる可能性があります。


2022年5月1日日曜日

宮川彬良(作曲家・舞台音楽家)     ・今こそ音楽を楽しもう!

 宮川彬良(作曲家・舞台音楽家)     ・今こそ音楽を楽しもう!

還暦記念という事で初のエッセーを出しました。  「アキラさんは音楽を楽しむ天才」、これまでの音楽活動を振り返っています。   作曲家を目指したきっかけは、作曲家の父の家に生まれてしまったという事以外に理由は無いですね。   父は宮川泰宇宙戦艦ヤマト』『恋のバカンス』などで知られている。  小学校1、2年生で作曲家になりたいと作文に書いています。    当時はまだ父の凄さを理解していませんでした。   小学校3,4年生の時に「ゲバゲバ90分」と言う番組が始まって、放送の翌日に学校に行く時の行列で、みんなが放送の最初と最後にかかる音楽を、1,2回で覚えて歌っているんです。  それにはびっくりしました。  あの曲で父の凄さを知りました。    

作曲家になるのは無理だとか、諦めるだとか、広い意味ではなかったです。   メロディーに対するコンプレックスは凄くありました。   20歳代に宝塚歌劇の仕事をして、LPレコードが出来て家で父と一緒に聞いた時に、「本当にお前が書いたのか」と言うんです。 「サウンド、編曲は素晴らしいが、なんだこのメロディーは。」と言われてしまいました。    答えが出るまで何年、何十年とかかりました。   蜷川幸雄さんと出会って、蜷川演劇の芝居の音楽を作った時に、初めて開眼したものがありました。   その時からメロディーが書けるようになりました。(35歳ごろ)   その戯曲は寺山修司の原作で「身毒丸」でした。  母親が歌ってくれた子守歌のメロディーを思い出して、メロディーを思い出せばいいんだと、自分の中にもあるんだと思えたら、メロディーが書けるようになっちゃいました。   書いたものを蜷川さんのところに持っていったら「いいよ」と褒められました。  

それから5年後に神野美伽さんの歌を作るチャンスに恵まれました。   「手紙」と言う曲を作りましたが、同じアプローチで作りました。   父親から「お前もようやくこの境地に入ったね。」と言われ嬉しかったです。    43歳ごろにヒットして世間に知られるようになって、NHKの芸能部の人が父に聞かせたそうで、そうしたら「なんだこのふざけた曲は」って言ったそうです。   それが「マツケンサンバ2」で鉱脈を当てる前の曲でした。   NHKの芸能部の人が作曲者名を言ったら、父は二の句が継げないで苦笑していたそうです。  「マツケンサンバ2」の歌詞がFAXで送られてきた時に、歌詞を見てすぐに頭のなかで出来上がって歌えてしまいました。  ピアノで確認しながら楽譜を書いてしまいました。   

父を越えたいという思いがありましたが、悔しがるのもいいかなと思います。      僕は流行するというような前提条件は、若い時から捨ててしまっているので、スランプと感じることはなかったです。   命のことを掘り下げて考えてゆくと間違いはないですね。  この台本に音楽をつけてくださいと言われると、これは命の物語だと読めるかどうか、そういう風に咀嚼して、取り組めることが出来るかどうか、そうすると常にフレッシュでいられる。   そうするとスランプにはなりようがない。  命の物差しに関わってゆくと、自分の言いたいことがはっきりしてきて、そうなると人の評価は関係ない。  そういう取り組み方をしています。  

*「明日の朝 神様がいらっしゃるよ」  作曲:宮川彬良

2022年4月30日土曜日

平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

 平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

父と故郷倉敷を書いた自伝的エッセー集「父のビスコ」が、今年2月第73回読売文学賞を受賞しました。  自分をはぐぐんできた祖父母や両親、故郷倉敷のからは戦中戦後を生き抜いてきた市井の人々の姿が浮かび上がってきます。  家族や故郷への思いを昭和、平成、令和にまたがる3世代のエピソードを交えながら伺いました。

ここ数年大事な友人とか仕事仲間が相次いで亡くなる事が多くて、自分の生きてきた足取り、家族のことを含めて書かなくてはいけない時期に自分が来たんだなあという事をとても感じるようになりました。  父が戦争の時にどういう暮らしをしていたのか、どういう思いだったのか、言いたくなかったこともいろいろあったと思います。   3年半ぐらい連載してきて、連載途中で父が亡くなってしまいました。  

父は昭和3年生まれで、少年時代は戦争と直結しています。  叔父が満洲にいて下関から満洲に行ったという話をしてくれました。  大学を卒業して神戸に住んでいて、機銃掃射にあい2度死にかけたと言っていました。  自分がここにいる事の不思議さを感じました。   母方の祖父は僧侶でしたが、戦争に行って帰ってきてポケットからコンペイトウを子供たちに出したそうです。 一個だけ赤い色があり子供たちは取り合いになり、喧嘩になったそうですが母が一喝したそうです。   母が言うにはお父さんのお土産はコンペイトウと虱だと言っていました。  どんぐり飯を食べていたようです。  父の体験談でもあるし、日本がどういう風に生き延びてきたのか、細かいことは大事だと思いました。  今書かないといけないと思いました。 

岡山ではばら寿司という言い方とちらし寿司という風にも言いますが、いろんな食材(魚介類、野菜、かんぴょうなど)を前日から仕込んで、彩りよく散らしていきます。  家族総出で作ります。    岡山の日生の牡蠣は有名です。  ちょっと甘めの酢の物(じゃこ、キュウリなど)は良く作っています。  倉敷川は身近な場であり、風景です。   昭和の時代の倉敷川には牡蠣料理が食べられる牡蠣船がありました。   倉敷民芸館は父が大好きでした。 大原美術館は大原孫三郎大原総一郎(長男)ら大原家が創設した美術館です。民芸運動と倉敷民芸館は重なって行きました。 倉敷民芸館が生まれたのが昭和23年で日本で2番目に生まれました。  柳宗悦らが民芸の質を高めて行こうという運動でもあって、倉敷民芸館館長の外村(とのむら)吉之介さんが土地の染色家、陶芸家などを束ねて活動しました。  倉敷民芸館では講座も開いて父は良く通っていました。 私も3,4歳の頃ですがよく連れていかれました。

倉敷には有名な老舗旅館がありますが、江戸時代は砂糖問屋だったそうで、畠山繁子さんと言って料理屋をやっていましたが、大原総一郎さんから貴重な家屋でもあるので宿か料理屋をやってもらえまいかと話があり、一念発起で旅館へと引き継いたそうです。  有名人、財界人も来て大変だったようで、献立も全部書き残しています。  倉敷の迎賓館といった役割だったと思います。   畠山繁子さんは立派な本(風土記のような)を書き残しています。

敬子?さんと言う「とんかつ屋」で人気の高いお店があります。   どうしてこんなに人を引き付けるのか考えてきましたが、仕事に対する姿勢だと思いますが、このとんかつはあのお客さんにとか、お客さんの顔が判っていて、揚げているとんかつなんですね。    民芸は自分の培ってきた技術、知恵、磨いてきたものを、工芸の形にどう生かすかと言う事だと思いますが、敬子?さんの作るとんかつもそういものなんじゃないかなあと思います。 

母方の祖母の作った俳句の句集を母から見せてもらいました。  祖母は私が2歳ごろに亡くなりました。   祖母が亡くなった25周年目に祖父が312句を一冊に自分が書き移して、手作りの句集です。  

*「孫の守飽きて老婆に日の長き」   孫は私です。  不思議に思いました。     これも書かなくてはいけないと思って祖母の俳句も入れました。 

父は美術と本を読むことが好きだったので、それが生きる力だったんでしょうね。    父は「知りたいことがあるから死ぬわけにはいかん。」と何度か言っているのを聞いています。   父が言っていた、本に書かれていること「ここの生活に目新しいものがない方がいい。」という事の意味ですが。ここ(介護施設)で目新しいものを求めるのではなく、静かに暮らしていきたいという気持ちをどうやったら受け入れられるか、という事考えていたんだと思います。  そのこととは裏腹ですが、ウナギのかば焼きを買ってきて自家製うな重をもって行ったら、涙が出んばかりに喜びました。  父が好きなものを食べたいという事で、先生も了承して、或るお菓子をもって行ったらボリボリ音をさせながら食べていました。   父の晩年、どういう風に亡くなったのかなと言う事を、言葉にして書いていかないと自分は駄目だなあと思ったので、言葉を通じて向き合う事が出来たので、良かったなあと思います。  市井の人たちの営みとも繋がりたかったので、考えながら書くことが出来ました。


2022年4月29日金曜日

角南有紀(声楽家)           ・"乳がんの経験"を絵本で伝える

 角南有紀(声楽家)           ・"乳がんの経験"を絵本で伝える

愛媛県出身の声楽家で東京芸術大学大学院を終了後に、イタリアのナポリ国立音楽院に留学し、イタリア各地のオペラやコンサートに出演しました。   ピアニストでイタリア人のアルベルト・ピッツオーさんと出会い、結婚。  3年前に完全帰国し、現在は二期会の声楽家、イタリア語の翻訳家としても活動、5歳の男の子の母でもあります。  角南さんは2年前に乳がんが見つかり、抗がん剤治療、手術、放射線治療を受けました。  角南さんは同じような経験をしている母親と家族の役に立ちたいと、イラストレーターの友人の助けを借りて、電子書籍、絵本「ママのおっぱい」を制作、さらに角南さんは多くの人の支援を受けて、この4月に紙の絵本の制作も実現しました。  角南さんにどう乳がんを乗り越えてきたのか、家族や絵本製作への思いなど伺いました。

小学校の頃に合唱をしていて、それがきっかけで歌が好きになりました。  本格的に始めたのは高校生になってからで、大学に入ってからは音楽の先生になりたいと思っていました。  周りでオペラを歌っているのを聞いて、私も歌いたいと思うようになりました。 人前で歌うようになって快感と言うか、気持ちがよくなって、聞く人も笑顔になったり泣いたり音楽には凄い力があるんだなと感じています。  恩師の林康子先生がイタリアと日本を拠点に活躍していて、イタリアで勉強したいと思う様になりました。   最初は厳しかったです。  イタリア人は声もいいし、アジアに対する偏見みたいなものもあるし、どう食い込んでいくか考えましたが、アジア人だからこそ歌える歌があると思ってからは楽しくなりました。   イタリア人の女の子と3人で一緒の部屋に住んでいて、1,2年で大分しゃべれるようになりました。   ナポリ国立音楽員で彼(アルベルト・ピッツオー)が演劇法の授業で伴奏助手をしていて、そこで出会いました。   

最初反対されて、結婚までに私の両親から3つの課題を出されました。  ①日本語が少しでも話せるようになる事。 ②日本でも二人で音楽活動をすること。 ③経済的に安定して食べてゆくこと。 クリアするまでの7年かかりました。   出産は日本で行いすぐにイタリアに戻りました。   小さいころは大きな声で歌っても関係なかったんですが、5歳になって「うるさいからやめてよ」、などと言われてしまいます。  ピアノの音は何も言いません。  怜音(れおん)という名前はアルベルトがつけました。  

日本に戻る前からしこりがあり検査では良性でしたが、或る日チクチク痛いような感じがして、日本に戻って検査をしたら悪性でした。   何よりもまず息子のことが心配で、日本に来たばかりの夫も心配でした。   夫はイタリアにいてコンサートの仕事があったので言わないつもりでしたが、何か察した様で言ってしまいました。   コロナ禍でイタリアを出る時も日本に来た時にも、待機とかいろいろあってなかなか会えませんでした。   父が医師なので判った時にすぐ連絡して、治療の環境は整えてくれました。  母は食事療法などやってくれました。   

 まず抗癌剤治療をして小さくしてから全摘の手術を受けました。  次に放射線治療を受けました。  一番つらかったのは抗癌剤治療ですね。  食欲がなくなり、味覚障害となり、髪の毛、眉毛も落ちてしまいました。   心配させるよりはキチンと判っていた方がいいと思って早い段階で子供には言いました。   4歳でしたがちゃんと理解してくれました。    乳房を取られることに対しては多少抵抗は有りましたが、治療してもらえるという事は幸せなことだと思って、不安よりは前向きな気持ちに成れました。   四国がんセンターで同じ病気の人たちなので、回りからいろいろ教えてもらえました。     両親には元気な振りを見せますが、夫には辛い時などにはつい八つ当たりをしてしまいました。   

絵本のことに関しては、辛い抗癌剤治療が終わって、これから手術をするという時に考えました。  ふと病気の親を持つこどものために何かできないだろうかと考えました。   乳癌患者の親とそのこどもたちのために活動したいと思いました。 高校の同級生の澤田乃理子さんが絵を描いてくれました。  最初は電子絵本と言う形で作られ、今年クラウドファンディングを経て、紙の絵本となりました。   子供には電子書籍は合わないので、紙の媒体で親子で読んで欲しいと思いました。   

コンサートの日程もあり、それに間に合うように治療を一生懸命行い、復帰できました。  稽古場に足を踏み入れた時には嬉しくて嬉しくて、どんなに厳しいことを言われても、なんでも嬉しかったです。   宮本亜門さんからは「楽しく歌おうね」と言われました。

「ママのおっぱい」 朗読

さいきんママがいないんだ

よくびょういんにいってるの

ようちえんには ばあばがむかえにきてくれる

おふろにはじいじとはいる たたかいごっこをするんだ

おやすみのひはいとこのしーちゃんちにあそびにいく

おとうとのゆーくんもいる

ぼくががんばってるから

ママもがんばれるんだって

だからなかない

でもねパパがきてくれるとほっとするんだ

だってないてもいいから

ぼくはながいかみのママがすきだったんだけど

ママははげちゃんになっちゃったの

それにね、ぼくのだいすきなママのおっぱい

ひとつなくなっちゃうんだって

またすぐにかってきて つけてほしいな

おっぱいだんだんはえてくるのかな

でもねママがいってた

かみのけまたのばすねって

でも おっぱいはもうもどらないんだって

どうしてなくなっちゃうの…?

ママのことがすきなのに

ママのぜんぶがだいすきなのに

 ぼく、びょういんにいって

あんまりママのこととらないでって

たのみにいこうとおもう

 そうママにいったら

ママはぼくをぎゅっとだきしめて

いったんだ

びょういんのせんせいは

せいぎのみかたなんだって

ママのびょうきをやっつけてくれるんだって

 ぼくもおおきくなったら

もっとつよくなってママをまもってみせる

おっぱいがなくなっても

ぼくはママがだいすきだから

ぼく、がんばるよママもがんばってね


クラウドファンディングを立ち上げて5日目で目標を達成して、心より感謝していて、この絵本を今後の活動に生かしていきたいと思っています。  

2022年4月28日木曜日

金子賢治(茨城県陶芸美術館館長)     ・【私のアート交遊録】 暮らしの食器もみなアート

 金子賢治(茨城県陶芸美術館館長)  ・【私のアート交遊録】  暮らしの食器もみなアート

茨城県陶芸美術館は去年「伝統もオブジェも食器もみなアート」と宣言する公募展を創設しました。  従来アートの枠外とされてきた日常食器を対象にしてきたものです。  器を客観的に評価しようというこの試みは、近年の器ブームの中大きな反響を呼びました。  伝統もオブジェも食器もみなアートと言う言葉に込めた思いや、アートとはなんなのか伺いました。

茨城県笠間は230年伝統のある産地があり、産地振興と現代の陶芸文化に何か寄与できないかという事で、公募展を行うと笠間を知って貰えるという事と、新し陶芸文化の創設を世界に訴えられるという事です。  コロナとぶつかってしまったので実際ちょっと違ってしまいましたが。  点数は多くなかったが10か国からの応募がありました。  観賞用陶器と普段使っている食器などと一体どこが違うのかという事で、それぞれ個性的に作り出していて、現代のアートそのものではないかという事で、陶芸文化と言うものを全体をピックアップしつつ、選びながらアーカイブしてゆくのが美術館の使命で、50年、100年経った後にこんな時代にこんなものがあったのかというものを、後世の人に見ていただきたいと言うのが、私どもの意図です。  日常的に食器は今までほとんど美術館としては扱ってこなかった。  美術館では購入するのに道筋があり、半年、1年はかかってしまうので購入のタイミングが合わないことがままありますので、公募展という事でそれをアーカイブしてゆくという意図もあります。    美術、芸術は作り手が表現するもので、作家の数だけ表現するものがあるが、作り手の人たちが自分の個性的な形を作るという事が表現の最も根底的なところで、それを全部アートと言っていいと思います。  

笠間と益子は隣町で、信楽の陶工は笠間焼きを興し、笠間焼きの陶工は益子焼を興しという事で、笠間に300、益子に300、合わせると600の窯元があります。  日本の文化として時代の証言として残していかなければいけないと強く思いました。   東日本大震災でも陶器市は開催して、35万人ぐらいでしたが、数年で50万人を超えるような大陶器市に成長しました。  

縄文土器がつくられたのが1万6000年前です。  戦争があったりする中で現代まで続いているというのが大きな特徴だと思います。   海外で陶芸大国と言うとイギリスです。 産業革命以降手作りを根絶やしにしながら機械化してゆくという事がありました。  バーナード・リーチは日本に来て、戻ってから陶芸の作家として活動してゆきます。  自分たちが工房を作った時には周りには何にもなかったと言います。   日本はずーっと続いてきてヨーロッパの機械文化がぶつかってきた。   機械文化と折り合いをつけて、手作りも厳然と残るという手作り産地が形成された。   焼き物だけで考えても、京焼、備前、有田、萩、薩摩、九谷、笠間、益子などがあり、明治以降は北海道にも窯が築かれる。  漆、染色、石、の工芸、竹、木など日本列島の手作りが沢山ある。  みんな機械文化と折り合いをつけてきたと思う。  柳宗悦の息子のインダストリアルデザイナー柳宗理さんは「現代の民芸は構造デザインである。」と言っています。   機械でいいものが作れるのであればどんどん使いましょうという考えはあります。   工芸は一段低く見られるという事があり卑下するようなところもあるが、工芸は彫刻や絵画ではできないという自負もある。  自信のなさと自負が共存するような微妙なところが、現代の工芸ではないかと思います。

自分がいいと思うものはどういうものなのか改めて考えると、現在に通ずるものかどうかという事、単に工芸という事ではなくて、映画、文学、音楽など、いろんなものの総合としてものをみているので、現代に通ずる表現、現代の最先端、現代を越えてゆくようなものとか、形の意識を鍛えながらものを見てゆく、つまり現代に通じるか通じないかを判断するのが美術の一番の根底ではないかと思います。  

茨城県陶芸美術館は東日本で初めての陶芸専門の県立美術館です。   日本の陶芸の歴史が見られるようにもなっています。   茨城県立笠間陶芸大学の校長も務めています。 美大を作ろうという話がありましたが、バブル崩壊後だし駄目で、結局陶芸の学校に収斂していきました。  最初にやったのが陶芸を教える先生のヘッドハンティングでした。  最初はカリキュラムを作ったり、いろいろやってきて成果が出て来ました。  卒業して8割ぐらいの人が県内で活動しています。  笠間市では陶芸を進めてゆくうえでの資金援助もしています。   海外でも個展を開催するような作家が出てきています。      お薦めの一点という事ですが、島根県に風土記の丘というところに資料館があり、「見返りの鹿」と言う埴輪があり、奈良県、静岡県でも発見されて3点あります。   破片の復元が難しく、振り向くようにしたらうまくいって、よくこのような形に作って焼いたと思います。