2022年2月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】老子

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】老子

老子は孔子、孟子などと並ぶ中国古代の思想家で、その著作は日本でも昔から広く読まれて来ました。  今日は老子の絶望名言をお聞きいただきます。 

「世の中の人は何をするか知っているのに、私だけが真っ暗だ。  世の中の人は何をするのか判っているのに、私だけは悶々としている。   ふらふらと海を漂う様で風のように行き先も知れない。   みんなは何かを成しているのに、私だけは一人引き籠もっている。」       老子第20章   翻訳:前川淳

寺田寅彦はエッセーで、爺ぐさいばかりか偽善者らしいもったいぶった顔をしていてどうも親しみを感じないので、通読することがない、と言っている。 敷居が高い。  折り紙の創作者の前川淳さんが老子の一節を訳しています。   前川さんが老子について、世紀の賢人などではなく情けない感じの、それゆえにくめない老人だと言っています。  

「部屋から出てかなくても世の中のことは判り、窓から外を見なくても天の理法は見て取れる。  遠くに行けばゆくほど道のことは益々判らなくなる。  そういうわけで聖人はどこにもいかないで判り、何も見ないで明らかである。   なにもしないで成し遂げる」 老子第47章  翻訳:蜂屋邦夫  以後の翻訳はすべて蜂屋邦夫

引きこっもりっぽい言葉。 最近中国では「寝そべり族」という言葉があるが老子的です。価値観は一つじゃないほうがいいと思います。  いろんな価値観が老子にあるという事は良いことだと思います。   

老子は紀元前6~4世紀の人と言われている。 

「私には3つの宝があり、 しっかりと保持している。  第一は慈悲、第二は倹約、第三は世の中の人々の先頭には立たない、という事である。」    老子第67章 

「何事にも進んで果敢に行動するものは殺される。  何事にもぐずぐず尻込みするものは生かされる。」    老子第73章

一般的な考えとは全く逆です。

「爪先で立ってるものはずっと立っていられず、大股で歩くものは遠くには行けない。」 老子第24章

背伸びをせず、ゆっくり歩いて、先頭に立とうしない。  

老子の伝説では晩年に砂漠に去って行ったことになっている。  関所の役人が老子に教えを乞うたところ、老子が書き残したのが「老子」という本だと言われている。  この伝説はいろんな作家の心をとらえて、いくつも作品が生まれている。  役人が敗者だったから老子は心を許した。  

「同じ靴でも私の靴は砂漠を歩く靴、彼のは朝廷に登る靴なのです。」 魯迅の短編小説に中から

「黄塵の渦巻く中をのろのろと砂漠に向かって、消えてゆく老子の姿を私は愛した。  人生から足を洗う事のすがすがしさがあった。」  原田清輝 

ドイツのブレヒト、中国の魯迅、日本の原田清輝らの老子に関する作品がある。

「仁君が才能あるものを尊重しなければ人民は争わないようになる。  仁君がめずらしい財宝を尊重しなければ人民は盗みをしないようになる。  仁君が大きな欲望を持たなければ、人民は乱れなくなる。」    老子第3章

才能ある人を評価する価値観を疑う人はほとんどいないと思います。  老子はそれを否定しているので面白い。  才能を競い合うようになると、より才能が磨かれるといことになるが、老子はそもそも才能を磨く必要がないと言っている。   

「知恵の鋭さを弱め知恵によっておこるわずらわしさを解きほぐし、知恵の光を和らあげ世の中の人々に同化する。」   老子第4章と第56章と、2回も出て来ます。  核兵器なども各国が才能を競いあわなければ、起きない。  老子は学問は否定していない。

「なにもなさないという事を成し、なにも事がないという事を事とし、なにも味がないという事を味とする。」     老子第63章  

「なにも味がないという事を味とする。」というのは個人的には響きます。  病気をして絶食療法をしたことがあります。  点滴のみで水も飲まない。  そうすると口の中では何も味がしない。  舌の感度は鈍ってゆくが、唾液などで味を味わおうとすると舌が敏感になって行く。  療法後ヨーグルトを飲んだら口の中で味の爆発が起き、凄い衝撃でした。   そうすると薄味の方がおいしいんです。 薄味にするといろんな素材の細かなことまで判るんです。   ほかにも言えて、病気になると葉っぱがそよいただけで、感動したりするわけです。  萩原朔太郎も病気をした時の経験を書いています。  老子を知ったと言っています。  元気になってしまうと又いつの間にか敏感さ失ってしまう事にもなる。   老子の言葉は含みのある言葉だと思います。  

「自分たちの食べ物を上手いとし、自分たちの衣服をいいものとし、自分たちの住まいに安んじ、自分たちの習俗を楽しいとする、隣国が見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が聞こえてきても住民は老いて死ぬまでお互いに行き来することがない。」 老子第80章

隣の家、国がいいなあというのは妬み、競争心、侵略にまでつながるわけです。  この言葉は老子の理想とする国の在り方、生き方である。  老子が読まれる時代になってきているのかもしれません。  

苦しい時には人生の道を間違えたのかなあと思うかもしれないが、「苦しい道こそ正しい」 苦しい時には励まされる言葉です。

 

2022年2月27日日曜日

川口成彦(ピアニスト・古楽器奏者)    ・【夜明けのオペラ】ショパンの愛したオペラ

川口成彦(ピアニスト・古楽器奏者)    ・【夜明けのオペラ】ショパンの愛したオペラ 

32歳、東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、同大学院古楽科およびアムステルダム音楽院古楽科修士課程を修了、2018年第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位となりました。  このコンクールの模様はNHKのBSでも紹介され話題となりました。  川口さんはフェレンツエ音楽祭などヨーロッパの音楽祭に数多く出演、第46回日本ショパン協会賞受賞、2021年には 第31回日本製鉄音楽賞 フレッシュアーティスト賞を受賞しています。

ショパンはオペラが大好きで、ショパンの夜想曲だとか、彼はオペラは作らなかったけれど、ピアノでオペラアリアを作曲されているぐらいです。  バラードもドラマチックでオペラのような要素も凄くあると思います。  彼のピアノの演奏法自体が、ピアノで歌唱的な表現を目標にしていたと言われています。   彼自体、音楽というのが言語表現だと言っています。  音に言葉が内在しているという風に捉えています。 ピアノは音が減衰してしまうので、ピアノで人間が歌っているように表現するというのは結構難しい。  でもショパンはそれを目指していた。  なのでショパンは10代のころからたくさんのオペラを観にいっていた。   

*「願い」 ショパンの歌曲  ワルシャワにいた10代の頃の作品  

ショパンは若いころから大切な人を亡くしている。  妹のエミリアは彼が17歳の時に亡くしている。  大親友だったヤン・ビャウォブウォツキ Jan Bialoblocki(1805-1827)も彼が18歳の時に亡くしている。 

*「ポロネーズ第15番 変ロ短調 KK. IVa-5」 通称『別れのポロネーズ ショパンが16歳の時の作品   妹のエミリアが結核で療養に一家で鉱泉行くときに書いた作品。 出発に先立ってこの曲を友人コルベルクに送った。 

ショパンはロッシーニの大ファン。  1830年に祖国ポーランドを離れてウイーンでの活躍を目指すがうまくいかず、パリに行きロッシーニと出会う。  

モーツアルトはショパンが幼少期から大切な音楽家だったようで影響を受けている。

*歌劇 ドン・ジョヴァンニ』から「お手をどうぞ」モーツアルト 作曲による変奏曲 ピアノ独奏

1933年にショパンとベッリーニはパリで会っているが、その2年後にベッリーニは亡くなってしまう。  

ショパンはピアノ音楽の作曲家なんだと割り切ってというか、ピアノを愛しすぎて、ピアノ音楽しか書かなかった。  オペラが大好きだったショパンのピアノ曲にはオペラ的な場面が沢山あります。   

*「ノルマ」から「清らかな女神」のピアノ変奏曲  ベッリーニ:作曲

2022年2月26日土曜日

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】 

震災時に福島県立博物館館長を務めていた赤坂さんは復興構想会議委員として、震災や原発問題に積極的に発言してきました。  1953年東京生まれ、1992年東北芸術工科大学助教授。1999年4月に東北文化研究センターを設立してセンター長就任、柳田國男とは違った視点で「東北学」を提唱しました。 何故「東北学」を立ち上げたのか、大震災を経て改めて東北をどのような観点から見つめているのか、ご自身の人生とどのように重なっているのか、など伺いました。

3月11日は何度も体験してきていますが、10年目の時には取材をしたかったのですが、コロナで出来ませんでした。  無力感に苛まれるというのが毎年の3月の迎え方ですかね。   諦めたらすべてが終わるという事を、肝に銘じているというか、そういうふうに感じて考えている人が沢山いるのではないかと思っています。    水産業の若者が「みんなの海」と言ったんですね。   「みんなの海」としてこの海に向かい合わなければ、前に行くことができない、だからこの若い世代は横の連携、仲がいいんです。    震災の年の5月に僕は南三陸町の新渡戸という漁村を訪ねています。   湾に囲まれた小さな漁村で津波に完全にやれてしまっています。  高台にすぐに非難してほとんどの人は助かっているんですが、鹿踊り(ししおどり)、民俗芸能が江戸時代から伝えられてきた村なんです。  鹿踊り(ししおどり)のリーダーの男性から話を伺った時に、避難所に彼はいたんですが、鹿踊り(ししおどり)の太鼓とか衣装の民俗芸能に関わるものを流されてしまったので捜したんですね。  見つけて5月の連休の時衣装を洗い清めたり、足りないものはよそから送ってもらたりして、鹿踊り(ししおどり)を避難所で踊ったらしいです。  そうしたら女性たちが初めて涙を流したという事を聞きました。  民俗芸能って何だろうと考えました。  単なる娯楽でもないし、単なる芸能でもないんですね。   民俗芸能によって励まされたり、癒されたり、支えられてきたという歴史があるんですね。   鹿踊り(ししおどり)というのは鹿の供養なんですが、人間達の供養とか鎮魂という事がテーマなんですね。  たくさんの死を抱えながら生き延びる事を繰り返してきたのが、東北の人たちかなあと考えました。   

父親が福島の白河郡の出身で炭焼きをしていた、という事が僕におおきな影を落としていたと思います。  事業に失敗して東京に出て来ましたが、静かな親たちでした。   本はよく読みました。 高校時代は図書館で、大学生になってからはバイトをして、物書きとなってからは印税とか入りましたが、ほとんど本に化けちゃいました。  ちょっとした図書館ぐらいは自宅にあります。  本を読むときには線を引きます。  古本屋に柳田國男全集がありそれを買いました。 当時4万5000円でした。  書棚において眺めたり読んだりしているうちに、柳田國男論を書いたり、民俗学の世界に足を踏み入れて行くきっかけになりました。   父親の人生を理解したい判りたいという思いはあったと思います。  

38歳の時に「柳田國男の発生」という連載を始めました。  編集者から柳田國男に関わる旅をして下さいという条件を言われました。  その最初が遠野でした。  違和感を感じました。  常人は稲作中心なんです。 しかし旅をしてみると村中で炭焼きをやって居たり、木こり、狩猟をやってる風景が当たり前にみられるんです。  それから20年ひたすら東北を歩いていました。  稲を作る日本辺境ではなく、もう一つの文化圏がある中の一つとして東北を浮かび上がらせてみたかった。  それが「東北学」だったと思います。    山菜、キノコを取ったり、狩猟、川で鮭を取るとか、実は縄文時代の東北の暮らしなんですね。  縄文人の暮らしの伝統、知恵、技が今でも東北には生きているんじゃないかと思ったんです。  300人ぐらいの人生を描きました。 

こちらが裸になって話を聞きましたので、あまり苦労はしませんでした。   脳梗塞で倒れたことがある15歳の時の父親から教わったという炭焼きの話を聞いた時には最高でした。   ろれつが回らないとか関係なく、言葉って心できいているんだと思います。   耳を傾けるなかで、ああっ生きるっていいなあとか、生きるってそれだけで凄いことだなあと感じる瞬間はたくさんありました。   それって岡本太郎さんが感じ取っていた東北なんですよ。   岡本太郎さんが書いている本の中で「生活と生命」という言葉を使うんです。  僕が聞き書きで感じ取っているものと重なっていました。   太陽の塔の中には地球の生命の歴史をらせん状に辿るような作品です。  

大震災の後1年半はひたすら東北を歩いていました。   何が起こったのかを目に焼き付けておきたかった、聞こえてくる声に耳を傾けていました。   ふっと気が付くと至る所に花が添えられているんです。  震災で亡くなった人たちへの供養の花です。  死者を悼む、死者を鎮魂する文化が至るところであります。  新渡戸という漁村の高台に鹿踊りの供養塔があり、「生きとし生けるものすべての命のためにこの踊りを奉納する」と刻まれています。  

福島県立博物館館長を17年間してきて、後半は震災でミュージアムと災害をテーマにいやおうなしに考えざるを得なかった。  その後ライフミュージアムプロジェクトをずーっとやっているようで、災害をどういう風に記憶を引き受け、記録すると言った現場で何をする事が出来るのか、という事がテーマになってきた。  最後は奥会津で仕事をしたいと思っています。  奥会津ミュージアムを作ろうと思っています。  

2022年2月25日金曜日

荒井朋子(千葉工業大学惑星探査研究センター)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】夢をかなえるまで、あきらめない

 荒井朋子(千葉工業大学惑星探査研究センター主席研究員)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】夢をかなえるまで、あきらめない

近年、地球の生命の種は塵として宇宙から地球に運ばれた、という可能性が考えられています。   この仮説を実証するため、毎年双子座流星群としてたくさんの塵を地球に運んでくる小惑星に探査機を送り、塵と塵の故郷を調べる探査計画の実現が2年後に迫っています。   荒木さんはこの計画においてサイエンスチームのリーダーを務めています。   一児のの母でもあり、現在50歳になる荒井さん、幼いころからの夢を実現するためにどのように仕事と子育てを両立させてきたのでしょうか。

我々が進めている深宇宙探査技術実証機DESTINY⁺ (Demonstration and Experiment of Space Technology for INterplanetary voYage with Phaethon fLyby and dUst Science)というミッションは、「」です。  個体微粒子と呼んだりします。   その塵が太古の地球の生命の元になったかもしれないという仮説を実証するためにいろいろ観測をします。  1mmから10mmの塵ですと流星という形で大気圏に飛び込んできた時に光って見えます。  それより小さな塵は流星のように燃え尽きないでしずしずと地球に落ちてきます。   それを調べて観ると炭素とか、有機物が含まれていることが判って来ました。  塵には1mmの1/10、1/100とかあるのでその中に入っているのは微々たるものですが、全体量としては毎年凄い量が降ってきます。 1年に4万トン以上降って来ています。   地球が誕生して約36億年とすると毎年有機物を含んだ塵が4万トン降ってくるわけです。  最初の種が地球の内部にあったのか、地球の外からなのか二大仮説があります。  宇宙空間に行って直接塵を調べてそれを明らかにしようとする目的です。   塵がどんな天体から来たのかはわからないです。    ふたご座流星群はたくさんの塵が地球に降ってきます。  今回はファエトン(フェートンとも呼ばれる)という天体が太陽の周りをまわっていて塵を吹いています。  ファエトンの軌道には塵の帯があります。  その塵の帯を地球が横切るんです。  それが流星群なんです。  

ふたご座流星群の母親天体のフェイトンは楕円軌道をしています。  地球は円軌道なので、探査機を飛ばしてもその天体とすれ違ったとしても物凄く速いスピードですれ違ってしまうので、一瞬しか観測することができない。  すれ違う時に沢山データが取れるようにして、行ってやろうという事になりました。  飛び込んできた塵をその場で分析できるようなダスト分析装置を持って行って、組成分析、大きさ、塵が飛んでくる方向、スピードを測ることでファエトンに着陸しなくても情報を得られるように工夫しました。  新幹線の数百倍の速さですれ違うので、若干離れていないとカメラの視野に入ってこないので500kmまで近づいて行って秒速36kmで通り過ぎてゆくファエトンをカメラで捉えながら塵の測定を行います。   そしてつぎの天体に行きます。   

父親の影響で3,4歳ごろには天体に興味を持ちました。   地球以外にも生き物がいるんだという事で育ってきました。 でも違うんだといことを小学校で学んだところから、それはなんでだろうと思い始めここまで来ました。    宇宙飛行士が取ってきた石を分析してみて地球以外の星がどんなもので、なんで地球とは違うのかを調べるのに、いろんなことが判るので石って面白いと思いました。   そういった仕事に関わりたいと思ったのは大学院に入ってからです。   最初に月についての研究をやらせてもらいました。    月からの石を触れて、調べるとそれが何時できて、どういう風に出来たかが判ってしまう、これにははまりました。  月探査のミッションに配属されるのかなと思ったら、国際宇宙ステーションの開発プロジェクトでした。  5年経って移動できました。  月の周りをまわって観測するときの観測装置の開発などの仕事をしていました。  

結婚は移動する前で子供も授かりました。  産休後、育児休暇はほとんどとらずに、新しい部署に復帰しましたが、体調など思わしくなくなってきて、辞めることにしました。  ダメもとで応募したら国立極地研究所で採用してもらいました。(特別研究員-RPD制度で2年間のみ)  その後棟東京大学総合研究博物館 特任研究員として3か月いました。  その後千葉工業大学惑星探査研究センターに移りました。   塵に興味を持ち始めたのは流星でした。   流星の塵は微妙な大きさを持っていて、隕石と同じような情報が取れれば面白いと思いました。  

子供は小学校の頃からロボットをやりたいと言っていました。  内閣府男女共同参画局の去年のデータでは6割以上の女性が出産を機に離職する。   女性を意識せざるを得なかったのが出産でした。  辞めた後もやりたいことがはっきりわかっていたら、何かきっかけを掴む事が出来ることもありますので、発信してゆくことは大事だと思います。    受援力は大事だと思います。  あきらめる前に立ち止まって声をあげてみることは良いことだと思います。  いい意味で周りの人を巻き込みながら、やりたいことを続けて行ければいいと思います。  探査機関係の進捗は設計が終了して、制作を始めていいかどうかの審査の段階です。  今後制作を開始して打ち上げる状態まで持ってゆきます。 


2022年2月24日木曜日

植本一子(写真家)           ・【私のアート交遊録】レンズの向こうに見る家族

 植本一子(写真家)         ・【私のアート交遊録】レンズの向こうに見る家族

1984年広島県生まれ、2003年にキヤノン写真新世紀荒木経惟氏より優秀賞を受賞、写真家としてのキャリアをスタートさせ幅ひろく活躍しています。    2013年からは下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げ一般家庭の記念撮影をライフワークとしています。  写真家としてキャリアをスタートさせた後、亡くなった夫や二人の娘との生活を「かなわない」「家族最後の日」「降伏の記録」の三部作を通して、家族の在り方を問うてきました。   一方で植本さんはフェルメールの現存する35作品すべてを収める旅に出ています。  作品を正確に切り取るという従来の写真集とは違って、アートがどのような空間の中で受け入れられているかを写し出しています。   町の写真館として普通の家族の記念写真を撮りつつ家族の在り方や、人生の生き方を見つめる写真家植本さんに伺いました。

2018年に出版された『フェルメール』、そのフェルメール展が今年行われるはずだったが延期されました。  修復後の窓辺で手紙を読む女 私が唯一観ていないのがそれで、修復中でした。   撮影するために世界7か国を回りました。  感想を日記のように書きました。   2回に分けて最初は1週間ヨーロッパ、2回目は2週間かけてヨーロッパとアメリカにきました。   本を出そうという企画の時には夫はがんで入院していました。  行く計画の日の2か月前に夫が亡くなりましたが、行くことに決めました。   気分が変わることが出来ました。  フェルメールはうまく光を取り込み、「光の魔術師」と言われる。   私も写真を撮る時、光を撮るのが上手と言われて、「杉並の光の魔術師」とギャグで自分で言っていた時期がありました。  

一番最初に回った美術館がオランダの王立博物館で、真珠の耳飾りの少女』がおいてあって、最初から主役級で何気なく全部撮った後に、移動の電車のなかでポストカードのようなグッズを見ていたら、アッ本当に耳飾りがあるという事にその時に気づいて、自分は何を見ていたんだろうと吃驚しました。   観るとは何なんだろうと思いました。   フィルムで勉強しなさいと言うような時期に始めたので、今回もフィルムで撮りました。 ある時期からデジタルも取り入れ、仕事はデジタル、自分の作品はフィルムと分けました。  フェルメールは仕事であるが、失敗できないという事があり、自分の作品という思いでやってみようと思いました。  プレッシャーはありましたがやってよかったです。   観る状況は日本とは全然違って人も少ないし、自然光で見られるような感じでした。  

下北沢で写真館を開いていて、「天然スタジオ」という写真館です。  天然光を使って皆さんの写真を撮っています。    フェルメールは向かって左側から光が入りますが、たまたま同様になっています。   6畳の狭い部屋で朝は9時、10時で、冬は13時、夏は14時ぐらいまでの日中しか動きません。  それなりに人数によって型は決まってきます。デジタルなので500,600枚は撮りその中から選びます。   8,9年やっていますが、籍は入れてないカップル、シングルのお母さんなどもいて、家族写真というのはやめようと思っています。   ほぐれた笑顔の写真を上手く撮れたときは楽しいです。  

小さいころから集団行動が苦手で、進路を考えた時に絵が好きだったので絵の道に行こうかとは思いましたが、写真の手軽さに飛びついて、中学3年生からはずーっとやってきました。  高校では写真を撮ったり遊ぶのが面白くて、1年生の時には440人中下から3番目になってしまいました。   そのころ撮った写真をまとめたものが高校卒業後すぐに「写真新世紀」という新人賞を荒木経惟氏より受賞しました。  

執筆活動もしていて、「かなわない」「家族最後の日」「降伏の記録」などを出版しています。   上の娘が生まれた時に写真記録だけでは間に合わないと思って、育児ブログを始めてそこからです。   写真にはない細かな表現が出来ます。  コロナで世の中が混乱して、そういったタイミングこそ日記が凄く残す媒体としてぴったりだと思いつきました。自分の日記を自費出版しようと思いました。    福富太郎さんのコレクション展覧会があって甲斐庄 楠音(かいのしょう ただおと)の「横櫛」という絵で撮影が不可でした。  その絵がめちゃクシャ怖くて、妖艶というか人を寄せ付けない異様な気が漂っていました。  私のお勧めの一点は甲斐庄 楠音の絵をお勧めします。

2022年2月23日水曜日

網野妙子(フラワーデザイナー)     ・【心に花を咲かせて】人を幸せにするフラワーデザインを目指して

網野妙子(フラワーデザイナー) ・【心に花を咲かせて】人を幸せにするフラワーデザインを目指して 

網野さんはドイツ流フラワーデザインを日本に広めた方で、その後プリザーブドフラワーを広め、さらに今は植物由来の造花作りに夢中だそうです。   それは花で世界中を幸せにしたいという思いからという事なんですけれど、どういう事なんでしょうか。

元々お花が大好きでした。  小学校の頃から庭に咲いている花を切り取っては学校に持っていきました。   小学校の頃からずーっと生け花をやって、大学を卒業してから生け花の専門学校を朝から晩までやって、教える立場になりたいと思っていました。   夫の転勤で海外に行った時に、生け花を教える機会があり、その方たちとの交流もあってアレンジって素敵だなと思いました。  ドイツです。  日本の生け花に似たところもあり、植物の植生を活かして葉っぱでも花でも根っこでもすべてを愛でるアレンジメントで衝撃的でした。    日本の生け花の配置がありますが、それを理論化して数値化して図面に起こしたもの、それがドイツスタイルのテキストだったんです。    ドイツの生け花の基本になっているのが日本の生け花で、造園もそうですが基本が盆栽なんです。  テキストには生け花、盆栽という言葉がしょっちゅう出て来ます。   生け花を教えている中で、向こうのスタイルが徐々に判って来ました。  

1991年に日本に戻ってきて、アレンジを習いたい人が多かったんです。  洋花が凄く多く入ってきた時代でした。  生け花からアレンジの方に変えました。   ドイツのテキストを日本語にしてしまいました。   日本では例えば秋の草花、木の枝を半年、1年持たせるためにつやを出して、(今でいうとプリザーブド)生け花の世界では100年続いてきました。   海外でも保存できる花として活用していました。   それに日本人も飛びついてプリザーブドフラワーと言い出しました。    海外に行ってプリザーブドになりやすい花を選んで、農園でプリザーブドを出荷できる畑に作り上げます。  それを工場でしっかり管理して日本に出荷できるタイプの花を作り上げる。  海外のデザイナーさんが使ったので日本人はいい花なんだなと思って輸入もしているし、日本でも作っていますが、プリザーブドフラワーを世界に広めたのは日本からなんです。  

2002年の国際花博(10年に一度でオランダで開催)の日本政府ブースからプリザーブドで全部飾らせていただくことが出来て、それ以後そのほかの数年に一度の世界の花博も同様に日本政府のブースはプリザーブドで参加させていただいています。  水やりをしなくていいので管理は楽です。   

タイのチェンマイで大きな国際花博が2006年にありまして、プリザーブドで日本政府のブースを担当しました。   見つけたのがウレタンの様な花でした。  香水を室内に香りを広めるために飾っておくものでした。   見に行ったら池の周りを這っているような植物でした。   水稲が実って倒れるのを支える草でした。  稲と一緒に植えていたんです。   硬いのでかつら剥きとか加工しにくいので、植生からいい場所をっ見つけ出して開発してゆきました。   2mぐらいになりますが、茎の芯は2~3cmあり15cmにカットしてかつら剥きして、大根で花を作ると同じようにシートを花に作り上げるわけです。   タイで加工して日本に持ってきます。  乾くとパリパリになって割れてしまうので、プリザーブドの技術があるのでソフトに加工して今の綺麗な花になってきています。   一種のドライフラワーです。  アーティフィシャルなデザインが出来てとっても面白いです。   タイの人の雇用にもなり10数年やってきました。  本来ゴミになるようなものを上手く利用、タイの女性の就労支援になる。  3年前には300人以上になりタイから表彰されました。  その植物の花は花茶として利用されていますが、皆さん知りません。  その植物が生えている時にはセノー、 市場にあるところではセスバニア、アロマのデイフユーザーではソーラ?(ソラセノーの略か?)とういう通称の言葉を使っているのでタイの人でも判らない。  アシナメーネ アスペーラという植物です。

植物による海外支援の一端、 カンボジアでは地雷を撤去した後にコットンを植えることを考えているが、植生が難しいのでその審査し、ほかの植物へと指摘をしに行ったりします。エチオピアへプリザーブドフラワーの支援にも行きました。(薔薇)  ベトナムでも話がありました。(コーヒー農園に薔薇)


 







2022年2月22日火曜日

南果歩(俳優)             ・自分で自分を幸せに

 南果歩(俳優)             ・自分で自分を幸せに

「乙女オバさん」というエッセーを2月に出版しました。  乙女心も自分の内側にありまして、夢見る気持ちを忘れない心と思っていて、乙女オバさんはそんなにかけ離れているものではないと思っていて、自分を表す言葉としてはかなりヒットするんです。  50代になっても折り返し点が見つからず、人生はそのまま自分の道を進むだけなのかなと気づきました。 このエッセーは私の失敗談をまとめたものと思っていいと思います。   失敗は私に何かサインを送ってくれていたものだと思います。   うまくいかなかったことは後でお薬として自分の心が持ち続けるんじゃないかと思います。   

兵庫県尼崎市で生まれました。  五人姉妹の五女でした。 大勢がいる事には全く苦にならない環境でした。   泣き虫でした、泣いて自己表現していました。  小柄でやせっぽちで、虚弱体質でした。  元住んでいた家は門から玄関まで並木がありました。  裏庭にも日本庭園があり広い家に住んでいました。   小学校2年生の時に、父が倒産して2DKのお風呂のない家に一家で住みました。   母の店を長女は手伝うという事で大学を途中で辞めて大変だったと思います。     高校の時に踊りをやっていましたが、何かが足りないと思って、それは言葉でした。   桐朋学園大学短期大学部演劇科に進みました。   東京で初めて見た映画が「泥の河」(宮本輝の小説)という小栗康平監督の作品で、衝撃を受けました。 その後日本の名作を観だしました。  映画のストーリー自体、私の生い立ちと重なるところが沢山ありました。   映画「伽倻子のために」は在日朝鮮人作家、李恢成の同名小説を映画化したもので、私自身在日3世なので、伽倻子は在日の養父母に育てられた日本人の少女で、伽倻子とは合わせ鏡のような人だと思いました。 新聞記事に一般公募の記事があり、伽倻子のために』のヒロイン役のオーディションを受ける時には自分の姿形をした伽倻子しか思い浮かばないという状態でした。  この役は自分しかいないという思いでした。  2200人の中から選ばれ、主役で映画デビューしました。  演じることがこんなに辛くて、自分のふがいなさを突き付けられるものかと思いました。    

涙が出るシーンで小栗監督が激怒して出て行ってしまって、どこがそう悪いのか判りませんでした。  翌朝同じシーンがあり、監督から「涙が出た後にお前は、あっ出たと思っただろう」といったんです。  「映画というものは表面だけを写しているんじゃない、写っている役者の心根まで写るんだ」と言われました。 「涙を流すシーンで涙は流れていなくてもいい、心が泣いていればそれでスタッフはちゃんと撮るんだ、一番肝心なところを忘れていたあの演技に俺は怒ったんだ」という事を説明してくれました。  ド新人の私に、俳優として生きてゆく中で最も大事なことを、その時に小栗監督は身をもって教えてくださいました。  1986年9月には坂東玉三郎演出の『ロミオとジュリエット』のジュリエット役をオーデションでつかみ、初舞台を踏む。 

31歳で出産して自分のなかで変化しました。   仕事との両立は大変でした。  30代はシングルマザーとして過ごし、40代で2度目の結婚をしました。   その10年後に乳がんが見つかりました。   まさかという思いがありました。  摘出手術をしました。  その後2度目の離婚という事になりました。   全てが信じられないような、自分が生きてきたことすら嘘だったのかなあというような感じでした。   このままではいけないという、自分で自分を励ますような声が聞こえてくるんです。   自分の人生を顧みる時間になっていたんじゃないかと思います。    怒りを通り越した感情を味わってしまったので、涙も出ないし怒るという事もできないです。  本当のショックを受けるという事は感情を失う事なんでしょうね。   勧めがあり診断を受けました。   健康は病気になってみるとどれだけ尊いものか判るし、命というものを考える時間を、私は、出産と乳がんの2回与えられていたという事が支えになったと思います。  

今は独り身なので、時間は自分のために使えます。   20代に戻ったような感覚です。 アメリカのオーディションを受けていて2021年にPACHINKOというドラマが世界配信されます。  Nicochans(ニコチャンズ)というバンドを始めました。  私が作詞してバンドが作曲をして「乙女オバさん」を作ってしまいました。  水着の写真も撮りました。 ホリ・エージェンシーから独立して仕事を進めて行きたいと思って独立しました。