2021年4月7日水曜日

大八木京子(駒澤大学陸上競技部調理員) ・走り抜く"勝負めし"を作り続けて

 大八木京子(駒澤大学陸上競技部調理員) ・走り抜く"勝負めし"を作り続けて

チームを率いる大八木弘明監督の妻で、夫がコーチに就任した1995年から寮で暮らす選手の食事をつくっています。   激しい練習の疲れで食が細くなりがちな選手に必要な栄養を考えながら、おいしく食べてもらう工夫を26年間し続けてきました。   レースの前には一人一人の希望に沿った勝負飯も作るそうです。   低迷していた母校のチームを強くし、日本を代表する選手も輩出してきた名将と言われる監督と、二人三脚で選手を支え続ける大八木さんにどのような食事を作り、どんな気持ちで戦う選手を送り出しているのか、伺いました。

箱根駅伝97回目の今年は駒澤大学が13年ぶり、7度目の総合優勝を果たしました。  劇的な勝ち方だったのでとても感動しました。  3分差だとちょっと追いつけない差だと思っていましたが、最後まで何が起こるかわからないと思ってみていました。   前日の晩、当日の朝の食事は基本的にはあまり変わりませんが、20Km以上走るのでエネルギーを身体に補給するという意味で、少し糖質を増やす感じです。 胃もたれをするので油物は避けます。

当日は選手のリクエストを聞いて、選手に合わせて作りますが、うどん、お餅、おにぎりであったりします。  走る時間によって時間はバラバラで4時間前ぐらいに食べています。  朝は寮から出かけていきます。  部員は50人前後です。  選手にお守りと手紙を渡します。  内容はそれぞれです。  4年生は一人なのでほかの4年生の分まで走ってという事で粘りのあるレースをするように伝えました。  10区の選手には9人のメンバーと走れなかった選手の思いをたすきに込めて走ってくださいというように伝えました。 走れなかったキャプテンにも同様に渡しました。   今年はエントリーされた4年生は5名いました。

家庭で食べて居た食事を心がけて作っています。  おかずは3,4品で汁の物、フツール、御飯といった感じです。   いろんな食材を使います。  皆さんが思ってるほど食べないです。  ご飯を山盛りで食べる子は余りませんし、お替わりはしません。  一食45合ぐらい炊きます。   

スポーツ推薦で入学してくる選手がほとんどです。  入ってきたときには栄養講習をします。 貧血になる選手がいたりするので鉄分を考えています。  

主人は駒澤大学を卒業して実業団に入ってその後コーチをして、母校の箱根駅伝の成績が良くなくなってきて、チームを立て直して欲しいとの話があり、就任しました。   自分も貧血で苦しんだ時期もあったので、選手の食事はちゃんと誰かが作らないといけないという事で作るようになりました。   当時は子供が1歳半ぐらいでした。   新築の家も埼玉に買ってしまっていましたが、母校が箱根駅伝に出られなくなってしまうというような危惧もあり、こちらを選びました。  昭和42年からずーっと出場していましたが、それも危なくなってきている様な状況でした。  規則正しく生活する環境ではありませんでしたので、環境作り、練習、食事、意識の変化を進めていきました。  

コンロ、皿など食事に関するものも整っていませんでした。  現在の藤田敦史ヘッドコーチが、入学してチームに入ってきたころはなかなか走れなくて、調べたら貧血でした。   食事を改善してゆきました。   チームも2年目の時に復路で優勝できてチームに自信が付きました。  段々チームに勢いがついてきて、4連覇を果たすことになりました。

食事を作ることによって選手の様子がよく判るようになります。  練習量とかに合わせて食事内容、メニューを考えます。   2007年に専門学校に2年間通って栄養士免許を取りました。  卒業して凄く活躍している選手が一緒にグラウンドで練習したり、一緒に食事をしたりすると刺激にもなるし、励みにもなると思います。

監督である夫は家でも頑固おやじといった感じです。  選手によっていろいろ声の掛け方は考えているようです。   メンバー決めなどで色々悩んでいるようですが、傍観しています。  チームに、選手に対しての情熱がどんな人よりもあるんじゃないかと思います。私はチームの一員という感じがあるので、監督を、チームを動きやすいように支えてゆくという感じです。   










2021年4月6日火曜日

小森輝彦(東京音楽大学付属高等学校校長)・校長先生は宮廷歌手

 小森輝彦(東京音楽大学付属高等学校校長)・校長先生は宮廷歌手

東京都出身。東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業。1990年(平成2年)東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、1992年(平成4年)同大学院音楽研究科オペラ専攻修了、1995年(平成7年)文化庁在外芸術家派遣研究員として2年間ドイツベルリン芸術大学に学びます。   1998年(平成10年)プラハ国立歌劇場における『椿姫』のジェルモン役でヨーロッパデビュー。        2000年(平成12年)8月からドイツ、テューリンゲン州のアルテンブルクゲーラ市立歌劇場の専属第一バリトン歌手として契約、12年間の間、劇場の看板歌手として活動し、日本人として初めてドイツから宮廷歌手としての称号を贈られました。   2012年に帰国後は二期会に所属し、「マクベス」、「金閣寺」最近では「サムソンとデリラ」に出演、今までに演じた役は70を越えています。  舞台での活躍と共に若い演奏家の育成にも意欲的に取り組み、大学での指導も行ってきました。   その経験をさらに若い世代へ伝えてほしいと、去年東京音楽大学付属高等学校の校長に就任しました。

うちの高校は2020年度にキャンパスを引っ越ししました。  校長も変わり、コロナも来たという事で激動の一年でした。  いろいろ工夫せざるを得ない状況でした。   オンライン授業なども行いました。   通常ですとと500人ぐらいのところをバーチャル空間で出会うというような事を取り入れて、3000人が来てくれました。   地理的制約がなくなりました。   声を出すことを生業にしている時に、教育のことを考えると、声をいかに解放するかという事が僕のライフワークでもあるわけで、舞台でチャレンジするし、向き合あって声を解放し、すると思春期の心の柔らかい子たちがやると素晴らしいことが起こるんです。   コロナで一度足を止めて考えなくてはいけなかったという事に意義があったと思います。  ピンチはチャンスだったと思います。  なにかに対応するときに直感的に判断するという事は演奏とつなげるようにしています。

*「小さくてもおっとりさせるものがあります」 フーゴ・ヴォルフ 作曲  イタリア歌曲集 オペラとして上演、1曲は短くて46曲からなるもの。 その中の一曲です。

元々音楽はやっていなくて、高校はサッカーをやっていて、トレーニングで大声を出していた時に、たまたま聞いた音楽部の人に誘われたのがきっかけです。   岡村 喬生さんの著書を母からプレゼントされて、それを読んで大学受験もしていないのに、ドイツに行って専属歌手になると心に決めていて、留学してドイツで歌えたことは僕にとってうれしいことでした。  1995年(平成7年)文化庁在外芸術家派遣研究員として2年間ドイツベルリン芸術大学に学びました。   仕事のオーディションを受けて受かるのに4年かかりました。(日本に帰るための準備までしていた。)   

ゲーラ市立歌劇場で日本人として初めてドイツから宮廷歌手としての称号を贈られました。   ゲーラ市立歌劇場には12年いました。   結局ドイツには17年いました。    常任指揮者から「音楽的に常に正しかった」と言われて、音楽的にどれが正しいという事はないのですが、音楽的に凄く信頼してくれていました。  バリトン冥利に尽きる役を沢山歌わせていただきました。

*「どんな歌を君に歌ってあげればいいだろう」 フーゴ・ヴォルフ 作曲  先に紹介したイタリア歌曲集の中の一曲

レッスンをすることは無くて、2006年に日本に帰った時にレッスンをする機会があり、歌唱発音を真剣に考えることになり、教えることにつながっていきました。  2012年に日本に帰ってきて大学の専任になりました。  ドイツ語、イタリア語、日本語での歌唱発音を教えています。   ドイツ歌唱発音の継承という事を考えました。 「どの時代にも武者は壁を作り、賢者は橋を架ける」という言葉を聞いて、自分もいろんなところに橋を架けたいなと思いました。   

*「祝福あれこの世界の創造主よ」 フーゴ・ヴォルフ 作曲  先に紹介したイタリア歌曲集の中の一曲  

本能的に声が出るという状態に近づける、それは心を解放することだし、声を解放することで心も解放されるのではないかなあと思っています。  きちんとしなければいけないのが日本の社会で、きちんとすることも大事ですが、その前に自分の心が、本能が何をやりたいと思っているのかを知る、そのためにはポジティブに失敗するという事、大人が寛容してあげるべきだと思います。  失敗を恐れないメンタリティーを作るという事ですかね。  この仕事は天職じゃないかと思っていて、本当に楽しいです。


2021年4月5日月曜日

吉澤嘉代子(シンガーソングライター)  ・【ほむほむのふむふむ】

吉澤嘉代子(シンガーソングライター)  ・【ほむほむのふむふむ】 

本がその後一冊出ています。 「短歌遠足帖」 東直子・穂村弘共著 [ゲスト]岡井隆さん・朝吹真理子さん・藤田貴大さん・萩尾望都さん・川島明さん。   豪華ゲストと一緒に東京都近郊のいろいろな場所を吟行して、同じように見たものをテーマに歌会をします。  

吉澤さんとは世代が違っていて親子ほどの年齢差です。  1990年埼玉県生まれ、16歳から作詞作曲を始めて、2010年、ヤマハ主催のコンテストでグランプリと、オーディエンス賞を受賞。   インディーズ デビューを経て2014年メジャーデビュー、最新作の「赤星青星」を含めて、5枚のアルバムを発表しています。

中学生の頃に穂村さんを見つけて、言葉の素敵さを感じて、このほど穂村さんと一緒に作詞をしていただきました。  「ルシファー」  作詞:穂村弘、吉澤嘉代子 

ルシファー:明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者という意味をもつ悪魔堕天使の名。

吉澤嘉代子さんが選んだ短歌

「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙が揺れ」    岡崎裕美子              この歌を16歳ころ読んで、よく判らなかったが、朝帰りの感覚が刷り込まれたというか、大人になって朝帰りをテーマに「残っている」という曲を書きました。  

「愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人」    俵万智        「ゼリーの恋人」という曲を書いている時にこの歌を思い出しました。   誰とも共有できなかった感覚みたいな。  

「ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり」      大森静       ダナイードはギリシャ神話に登場する王様の50人の娘たちをダナイードといっていて、娘たちが結婚させてあげるという事で、夜に夫たちを短剣で殺すという話があるというのを見て、不穏な感じをダナイードという壮大な物語のワードを入れることによって、凄く膨らむというか面白いと思いました。

「液晶に指すべらせてふるさとに雨を降らせる気象予報士」          木下 龍也     ユーモアと哀愁みたいなものを感じました。  特殊能力を持ってるかのように読めますね。  

「顔で壊した蜘蛛の巣を食べながら光る渚へ降りて行く朝」       穂村弘       映画のワンシーンのような美しい光が浮かんできます。  野性味を感じます。        蜘蛛の巣をペッペッと汚い感じから、海に降りて行くギャップというんでしょうか。

子供のころから本が好きでした。   友達に見まもられながら駅で歌っていたりしました。(19,20歳ごろ)   

*「鬼」   作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子 歌:吉澤嘉代子              嫉妬という感情は重要なモチーフになると思って、嫉妬を可愛く仕上げられないかなと思って努力しました。   




2021年4月4日日曜日

よこざわけい子(声優)         ・【時代を創った声】

 よこざわけい子(声優)         ・【時代を創った声】

NHKの「おかあさんといっしょ」の人形劇「にこにこぷん」のぴっころ役を担当してきました。   他に『ドラえもん』の妹ドラミちゃん、映画「天空の城ラピュタ」のシータ役など数多くのアニメ、吹き替えを担当してきました。   現在はご自身のプロダクション、養成所で後進の育成を中心に活動しています。

コロナ禍でリモートで養成所の授業をやっています。  新潟の出身で、小学3年生の時に両親が新潟方言で苦労した経験から、娘には標準語を話してほしいという思いで、児童劇団に入れることになりました。   NHK新潟の児童劇団に入りましたが、入って1年でなくなってしまいました。  運よくラジオドラマに出ていて、その番組が大学まで続きました。  大学受験の時にどうしようか考えて、声優になろうかなと思って東京に出てきて、大学に入りました。    放送学科に入って、アナウンサーの勉強はできるが声優の勉強ができなかったので、養成所に入りました。   当時は映像の役者を育てる養成所だったので一から演技の勉強をしました。  1974年から1年間放送されたNHK大阪の制作ドラマ「花ぐるま」で島田陽子さんの妹役を担当しました。   2年生の終わりに大学を辞めました。   

声優としてはアグネス・ラムのコマーシャルのアグネス・ラムの声の吹き替えを担当することになり、それがきっかけでした。   映像とは違って、声だといろんな役が出来るので、凄く楽しかったです。  最初は映画の吹き替えでした。  アニメーションは難しかったです。     アニメーションの最初は1975年「タイムボカン」の淳子役を代わりにやることになりました。  1976年「ポールのミラクル大作戦」のヒロインのニーナ役を担当しました。  同時に「ドカベン」もレギュラーで、その後いろいろなアニメに出て、1979年から『ドラえもん』の妹ドラミちゃんに出るようになりました。  あの役は難しかったです。 綺麗な声を出さなくてはいけないし、優秀なロボットなので可愛げが無いので、可愛らしさを強調していろいろ考えて演技をしました。

ぴっころは私の地のままです。  藤子作品で主役をやること、「おかあさんといっしょ」のキャラクターを演じるのが夢でした。  1982年には『おかあさんといっしょ』の人形劇「にこにこぷん」のぴっころ役に抜擢され、10年の長きにわたって担当しました。  アニメ、イベントを含めると17年間になります。   ドラミちゃんを引きずっていたようで、6年経って自分そのままを演じることでようやくぴっころになれました。   大切なのは相手の台詞を聞いて、気持ちを動かして表現してゆくことだと改めて思い起こしました。 

二つの夢がかなって、ナレーションをやってみたいと思いました。  マネージャーからは反対されて、独立をしてフリーで自分で営業するようになりました。(1988年)   マイナス面はあまり考えませんでした。  デスク業務にも疲れて、他の事務所に入ろうかとも思いましたが、籤を引いたら大凶で入るのはやめて、後ろ向きな気持ちではなく前向きにいこうとプロダクション、養成所も作りました。

始めてみたら裏方になっていきました。  教えるにあたって表現について考えるようになりました。  そうすると文章も書くようになりました。  いろんな面で豊かになったのがよかったと思います。  どうせなら大きな夢をもって、そのために努力をしていけばいいのかなと思います。  アンテナを広げておいてチャンスがアンテナに引っかかって来ると思うので、ゲットするためにはゲットできるだけの力を身に付けておかなければいけないので、そのために努力をこつこつとやってほしいと思います。





  

 

   

2021年4月3日土曜日

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・〈1〉「笑いと泣きの音世界」

 サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・〈1〉「笑いと泣きの音世界」

学生時代のこぎりを楽器の弓で演奏する音色を聞いて感銘を受け、その技術を独学で身につけて国の内外で演奏活動を行ってきました。   同時に作曲家としてTV、映画、舞台などの音楽を数多く手がけ現在放送中の、連続TV小説「おちょやん」の音楽を担当しています。  サキタさんはのこぎり音楽と「おちょやん」のドラマには共通する魅力があると話します。  

*「はすの花」 のこぎり演奏

蓮の花は泥の中からできてきて、最終的には思いもよらぬような美しい花が咲くので、それにリンクして、千代は大変な目に合うがめげないで最終的に美しい花を咲かせてゆく、そのイメージがぴったりきて使いました。

ミュージカルソーと言っています。   西洋のこぎりで先に向かって細くなる、長さが70cmぐらいです。  ヴァイオリンに似た弓で弾きます。  弓は友達の楽器職人と一緒に作ったオリジナルのもので馬のしっぽでヴァイオリンと一緒です。

光が降り注いでくるような感じの音色です。  叩くと全く違った感じの音色になります。  ギター、ウクレレはずーっと弾いていました。   19歳の時に熱海の大道芸祭りに行って、都家歌六師匠が来ていて、のこぎり漫談で真打にまでなった人で、チェロの弓でこすって演奏していました。  音色がすごくてやってみたいと思ってそれがスタートになりました。   独学で習得し演奏して、アメリカで開催された「ミュージカルソーフェスティバル」で2度の優勝をしました。  私が行った時には30名ぐらいが参加しました。  世界で色々な演奏者がいます。   CDも出しました。  横山ホットブラザースと都家歌六師匠とサキタハヂメでテネシーワルツを一緒に演奏しました。  

TV、映画、舞台などの音楽を手掛けて、NHK子供向け番組「シャキーン!」、木曜時代劇「銀二貫」、映画「妖怪人間ベム」など数多く手がけてきて、連続TV小説「おちょやん」の音楽を担当。   笑いと泣きがはっきりしていて凄く心が揺さぶられる。     大阪人としては光栄の作品です。   大阪嫌いな人にもちゃんと届けたいと思っていました。 監督からは笑いと泣きがはっきりしている、外はカリカリ中はトロトロのタコ焼きのようなものをと言われました。   曲数は140~150曲になりました。  そのうちのこぎりの曲は10曲ぐらいでしょうか。  

*「Life is Comedy( ライフ・イズ・コメディー)!」 連続TV小説「おちょやん」の中から。 10パターンぐらいあります。

作曲をするときには感情が入ってしまって、泣いてしまったりします。   作曲活動でのこぎり奏者というのはすごくメリットがあると思います。   

ラジオで横山ホットブラザーズは小さいころから何回となく聞いていました。   大学生のころ、蘇州夜曲とか、ナツメロ、日本の戦前戦後のジャズとかラジオからかかって来て、結構影響を受けていると思います。   聞いていただく皆さんが凄く胸に何かを感じて、泣いてくれたり笑ってくれたり、そういったことの話を聞いた時には凄くうれしいです。

*「かぐや姫~月とガラス玉」 連続TV小説「おちょやん」の中から。






  

2021年4月2日金曜日

沢口靖子(女優)            ・人間の深みを、魂まで表現したい

沢口靖子(女優)            ・人間の深みを、魂まで表現したい 

1984年に映画『刑事物語3 潮騒の詩』で女優デビュー、翌年朝の連続TV小説NHK連続テレビ小説澪つくし』のヒロインを演じ、人気と知名度を全国的に定着させました。   以降ドラマ,TV、映画で活躍されています。   

澪つくし』の頃は何もわからなくて、ただ与えられた役をこなすだけでした。  当時は通勤ラッシュにもまれてNHKのスタジオまで通っていました。   朝早くから夜遅くまで仕事していました。   関西弁でなまってしまう事でプレッシャーもありました。  印象に残っているシーンは4つ位あります。  ①かおると惣吉さんの浜辺での出会いのシーンで漁師らしく豪傑にかおるの手をつかんでとげを抜いてくれました。  ②好きな人とも結ばれてみんなから祝福されて、白無垢姿で人力車に乗って銚子から鳥羽に向かったのも印象的です。   ③新婚旅行のシーンで私は20歳の誕生日を迎えました。  スタッフや地元の人たちに祝福されました。   ④遭難して亡くなっていたと思われた惣吉さんが記憶喪失になって戻ってきて、記憶を取りもどしてあげようと、小舟に乗って一生懸命思い出話を語るシーンですね。 思い出してくれた惣吉さんに、今は再婚をして子供もいるんですという場面が切なかったです。

気を張って慣れない世界でやってきて、大阪に戻った時に友達と会って、張り詰めたものがふっと抜けてしまったのか、涙がボロボロ出てきてしまった時がありました。   打ち上げの席でジェームス三木さんから「やっと女優の卵から雛に孵ったところですよ」という言葉をいただいて、澪つくし』のお陰で素人同然だった私の名前を全国の方に知っていただける機会になったし、女優の入り口にたてた大きな転機となった作品との出会いでした。

子供時代は3つ違いの兄がいて、活発な少女時代でした。 中学、高校は軟式テニス部に所属していて毎日練習の日々でした。   憧れていた職業は保母さんとか幼稚園の先生、CA(Cabin Attendant 客室乗務員)にもあこがれていました。  友人が新聞に載っていたオーディション募集の広告を見て、推薦してくれたことがきっかけでオーディションに応募しましたが、大学進学を考えていました。  学校の先生になるか、書道のほうに向かおうかと思っていました。   

1984年、第1回「東宝シンデレラ」で3万1653人の中からグランプリに選ばれました。  東京に来てカルチャーショックを受けました。  壁は関西弁を矯正されたことでした。  18年間の自分を否定されたような気持ちにもなりました。   仕事へのやり甲斐は、作品との出会いで20代はがむしゃらにやってきて、30代になって徐々に芽生えてきたと思います。   

今はウオーキングをしたりした体調に気を付けたりします。  1999年スタートしたドラマ『科捜研の女』ですが、まさか20年続くとは思ってもみなかったです。  そんな作品に出会えたことは俳優としてとても幸せなことだと思っています。  人間も丁寧に描いているところに魅力があると思っています。   法医学研究員・榊マリコと実際の私とでは、違う点は私は几帳面で慎重派ですが、まりこは片付けが苦手で猪突猛進型で、似ている点は追及心、探求心が旺盛なところですね。   映画化の話があり、人類の未来を救うためにまりこは危険を顧みない行動に出ます、とんでもないことが起こりますが、これ以上は話せません。  公開日は9月3日です。

「小吉の女房 2」 勝海舟の父、吉との夫婦の日常起きる様々な出来事をユーモラスに描いたホームドラマ時代劇です。  着物なので立ち振る舞いも最初は気遣うことがありましたが、段々慣れていきました。  夏だったので35度ぐらいの中で撮影があり氷で体を冷やしながら撮影しました。   

役と自分の信条がピッタリしたときに内面に輝いた表情になるんですが、その瞬間はしょっちゅう現れないので、その境地になるようにいつも努めたいと思っています。   原作のある作品はまず原作を読んだり、台本を何度も読み返したり、行間の気持ちを読み込んだり、専門家の人にヒントになるような事を伺ったりして、自分が気持ちよく入っていけるような役作りの時間を大事にしたいと思っています。  




2021年4月1日木曜日

國村隼(俳優)             ・腹に落として目力に ~「演じる」とは何か~

 國村隼(俳優)             ・腹に落として目力に ~「演じる」とは何か~

國村さんが最もやりがいのある仕事としてあげるのが、ラジオドラマで演じることだそうです。   どういうところにやりがいを感じるのか、又國村さんにとって演じるとはどいう事なのか、伺いました。

東日本大震災から10年になりますが、私は東京の自宅にいました。  3月6日に放送されたNHK宮城発地域ドラマ「ペペロンチーノ」で、東京から支援で被災地に来た整形外科医を演じました。 レストランを津波で流されて自暴自棄になっていた主人公の姿を、アルコール依存症であった過去の自分と重ねて、震災10年目まで酒を飲まずにいられたら打ち上げをしようと伝えるという役柄でした。   医者でありながらもう飲んだら次は亡くなるよと言う重度のアルコール依存症で、でも人のために何かできないかと考えている、一番普通の人だと思いながら、震災にかかわる何かできないかと思っていた自分の思いと、どこか重なるところを感じたので、きっちりできたんじゃないかと感じました。   

幅広い役柄をやったほうがやりがいもあると思っています。  悪役をやる時のほうが楽しいんです。   なぜこの人はこうなったんだろうと、いろんなことを話の流れ以外の事を妄想するのが楽しいんです。  僕とそのキャラクターとの対話です。   

「ペペロンチーノ」では医者になってあまり対人関係の上手い人ではなくて、どこかでお酒に逃げながら、お酒をおぼれて、自分の命まで危うくしてしまっている現状があり、そこに大震災が発生して彼はボランティアとしてそこに行く。 彼と出会っておまえはおれだ、と。 喜怒哀楽の一番強い表現は眼だと思います。   眼の中に人は感情を秘めて居る。

ラジオドラマは古いものだというイメージでとらえられていて衰退していましたが、スペシャリストみたいな方たちと一緒に仕事をして、その人たちからラジオドラマの難しさと面白さを教えていただいたので、ラジオドラマは今でも大好きです。   音だけで聞いているお客さんにいろんなビジュアルを含めた世界を想像させて想起させる面白さですね。   二人で話す距離感を表現できるんです。   細かなことまで想像することが出来る。  TVの役作りとは全く違います。  自分の柄にとらわれない全く違う人を表現できる、自由度がすごく大きいです。  的確に伝えることが難しいです。   的確にという事は難しいが、例えば肉を焼く音は肉を実際に焼いても的確には伝わらず、濡れぞうきんをアイロンになぞるそうです。   イメージさえ的確なものを持っていれば、全く関係ないものを持ってきても的確に伝えることが出来る。  

ナチュラルにやりたいと思うと、自分の日常生活を再現しようとするが、違います。   登場人物の、僕の言葉では腹というんですが、そこが無いとただ単に自分の日常をプレーしてやっているだけです。  キャラクターの腹を自分がちゃんと的確に腹にもっていたら、僕の眼は多分その人の眼になっていると思います。

*「蝶が燃えた日」 FMシアター 10年前のものの一部を放送

自分の経験則のなかで聞いている聴衆がイメージする、それを喚起するためにどうこちら側が刺激する、引っ張り出すかという作業です。  自分の気持ちをコントロールできなくなってしまう場合がたまにあるので、気を付けないといけないと思っています。  腹をイメージできるかどうかで、腹に落ちたなと感じたらそれで準備ができたという事で、あとは現場に行けばいいという事になります。

ラジオというメディア自体が非常にパーソナルな感じがします。  発信者の人の手触り,手のぬくもりが伝わってくるような情報を共有できるようなメディアになっていってくれたらいいかなと、ラジオドラマと個人が対峙している状況が基本なので、深い所へ音だけの世界に行けるんじゃないかと思います。  ステレオではなく、モノラルでラジオドラマを作る状況があれば、やりたいです。  手触り感、古い技術的な表現方法の面白さもあり、技術的に最新がベストであるという事ではないのかもしれません。