2021年2月28日日曜日

園田隆一郎(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】

園田隆一郎(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】 

44歳、東京芸術大学指揮科卒業、大学院修了、在学中にイタリア、シエナのキジアーナ音楽院にてジャンルイジ・ジェルメッティ氏に師事、2007年に藤原歌劇団『ラ・ボエーム』の指揮で日本デビュー、その年の夏にイタリア、ペーザロのロッシーニオペラフェスティバル「ランスへの旅」の指揮に抜擢され、話題となりました。  以後国内外のオーケストラやオペラで活躍をつづけ、現在は藤沢市民オペラ芸術監督も務めています。  

小さい時には音楽は嫌いではなかったですが、あんまり覚えていないです。  ピアノは6歳から10歳ぐらいでやめて、吹奏楽を始めてトランペットを始めて楽しくて、中学でトロンボーンを始めて以降のめり込みました。   上級生が指揮をしているのを見てかっこいいなあと思って、高校2年生の時にやらせてもらいました。    受験勉強では音楽方面をやってみたいと思って、歌、ピアノなど歌曲を勉強するようにと先生から言われてやりました。   東京芸術大学に入った時にはオペラをという気持ちはなかったです。    

大学4年生の時に、大学院の先輩が演出をして、ロッシーニの『チェネレントラ』というシンデレラのオペラがあるんですが、これを絶対やりたいという事で、声を掛けられてみんなで手作りでやらせてもらいました。  それからロッシーニにはまってしまいました。

*『チェネレントラ』 第一幕フィナーレのアンサンブルの一部

イタリア、シエナのキジアーナ音楽院の夏期講習の案内が張られていて、指揮科はロッシーニをやるという事で書類を書いて出したら、行くことになりました。   全世界から40人ぐらい来ていました。  オーディションがあって10人ぐらい残りました。  3週間ぐらいしっかりとやりました。  ジャンルイジ・ジェルメッティ先生のもとで勉強しました。   その後2002年より文化庁在外派遣研修員としてローマに留学しました。

ジャンルイジ・ジェルメッティ先生はローマ歌劇場の音楽監督のポストにいました。   色々有意義な時間でした。   ロッシーニの権威アルベルト・ゼッダ先生とも親しくさせていただきました。   ゼッダ先生とは全然面識がなかったんですが、自分の履歴書と演奏したDVDをつたないイタリア語で書いてゼッダ先生宛に送りました。    秘書から返事が来て会いたいという事でした。    会うことが出来てじっくり話をすることが出来感激しました。   1年後に秘書から電話があり2007年のフェスティバルの「ランスへの旅」、あなたに指揮してもらいますという事でした。  先生のアシスタントとして同行してロッシーニの音楽の神髄を学ぶ機会をいただきました。

*オペラ「泥棒かささぎ」 第二幕フィナーレの冒頭

ヒロインが自分と同じ階級の恋人や愛人がいるにもかかわらず、権力者から横恋慕され悲劇が始まる。   権力者に囚われたヒロインが冤罪に陥れられ、それを嘆くヒロインを描く法廷の場や牢獄の場を書き入れる。  絶体絶命のピンチに陥ったヒロインが、最後は二つの階級を超越した立場の領主や国王などの絶対的な権力者によって救われハッピーエンドとなる。

ロッシーニはシンプルですが、それを生かすも殺すも演奏者、指揮者とか次第で、楽譜通りに正確に演奏したらそれで面白いものになるかというとそうではないと思う。   スペースが与えられているというか、演奏者のイマジネーションとか、テンポを速くしてもいいとか音を足したりすることも許されていて、曲の魅力を倍増することが出来る。   指揮者もそこにどれだけの自分らしさ、情熱を加えることで作品を生かすと言う事はゼッダ先生を見ているとすごく思いました。  

ヴェルディも好きな作曲家ですが、難しいと思っていましたが、挑戦していきたいと思って初期の作品のオペラ「ナブッコ」を取り上げて、今回選びました。

*オペラ「ナブッコ」  








2021年2月27日土曜日

水谷豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

 水谷豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

受験に失敗し、挫折の中で決行した家出の詳細、戻って俳優として歩き始めても結婚しても気持ちが定まらないなか、俳優として仕事をしてゆくと腹を決めたある出来事、そして60歳を過ぎて満を持して取り組んだ映画監督への強い思いなど、まさに人生手帳の一ぺージ一ページにつづられたその時どきの思いを伺いました。  

岸田森さんを尊敬しています。  僕のことを気にいってくれました。   「一番高尚の芝居とは何か、それはその人そのものに見えることなんだよ。   それが一番高尚なんだ。 どんな役をやってもその人そのものに見える。」と言われたことが、一番の言葉として残っています。  目指すのはいつもそれです。  岸田森さんが若くして亡くなり、それで全く仕事をする気がなくなってしまって、2年近く仕事をしなくなってしまいました。(33歳ごろ)   NHKの深町さんから一緒にやりませんかと声がかかって、「ドラマ人間模様」というドラマに出演することになりました。   いろいろいい作品に出合いましたが、それにはまずいい人に出会ったなあという思いがありラッキーだったと思います。   

アングラで俳優をやっていた時代の蜷川さんとの出会いもあり、「相棒」で小劇場を借りたときに、30年ぶりに会って、涙を浮かべて抱き合いました。   やるたびに観に行かせてもらっています。   

自分でもどこからこんなエネルギーが出てくるんだろうと思います。  思いを持つことは誰でもできると思うんですが、持ち続けることはできない、持ち続けることが出来たらそれも才能だと思います。  小さいころからなにかに向かうと夢中になっている自分はいつもいたと思います。    

2019年公開の監督2作目『轢き逃げ 最高の最悪な日』では脚本も手がけました。   人には興味があり、人って何だろうと永遠のテーマだと思います。  それが表現できる時が面白くて、コメディーでもいいし、シリアスに描いてもいい、見る側として好きですね。   映画では加害者の心理、人を描くというところに興味が行っているんだと思います。   監督は全てに責任を持たなければいけないと思います。  そのためにはいい人と出会いたいという思いがあります。 方向性をまず監督が示さないといけない。 役者と監督では・・・・うーんやはり監督ですかね。

性格的には終わってしまったことは、何の苦労もないタイプであり、いい思い出になってしまう。挫折と言われると、10代の時にアメリカに行けなくなった、大学を落ちたさあどうしたらいいかという時が今思うと一番だったと思います。  18歳で大学を落ちて2か月間家出をしました。まずは公園とかに野宿しました。   夕方飛び出して、夜中じゅう歩いて、高尾の山も越えて、車がきて乗せてくれて、おじさんの釣りに付き合って、その後泊めてくれて翌日2000円をくれて、ボーリングをやって残りが400円になって、パチンコをやったら出るわ出るわで3日間やりました。  洗面道具を買って銭湯に行って、新聞をたくさん買って敷いて諏訪神社で野宿して、3日間で1万8000円ぐらいあり、そこから2か月帰ってこなかったです。  その人に出会わなかったら全く違った人生を歩む事になっていたでしょう。  人との出会いですね。

娘(趣里)には芝居の世界には来ないようにと言っていましたが、イギリスに留学して、午前中勉強で午後バレエをやっていましたが、足を骨折したりアキレス腱を切ったりして、続けることが無理という事で早めに帰ってきて、大学に行き始めました。   自分も舞台の世界に行きたいという事で、結局認めることになりました。   僕と蘭さんとも全く違っていて見ていて楽しいです。     演技のことは聞いてきたら話しますが、めったに僕からそのことは話さないです。     

いろんな意味で豊かにしてくれる人たちと出会ってきたことが出来て良かったです。

今とちょっと先のことしか考えていないです。  60代の内にもう一本撮りたいと思っていますが余り時間がないですね。  50代でバランスが取れてきたような気がして、60代になって残り少ないが、70歳代になったら何に向かおうとする自分がいるのか、楽しみです。











2021年2月26日金曜日

繁延あづさ(写真家)          ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】"命"のもっと奥へ

繁延あづさ(写真家)     ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】"命"のもっと奥へ 

1977年、昭和52年兵庫県姫路市生まれ、18歳で上京し桑沢デザイン研究所を卒業後、写真家への道を歩み始めます。   27歳で結婚3人の子供を育てながら仕事を続ける中で、出産の現場をライフワークとして撮影し、様々な家族の物語を見つめてきました。  繁延さんの新たなライフワークが狩猟の現場です。   狩猟を撮影する中で写真家として、母として感じたこと、その奥に見えてきたものとは何か、伺いました。

東京から長崎に移住して、10年になります。   山の上まで家が並んでいるのが凄くおかしく感じました。  中3、中1、の男の子と7歳の女の子がいます。   一番上の子が生まれたときに、子供を抱っこしてスーパーに行くか、児童館に行くか、公園に行くかそれだけの生活になった時には3km圏内での生活になりました。   自分の世界ががらりと変わってしまいました。   子供を産んだことから自分の目に違って映ってくるものが出てきて、半径3kmの中にあるもので、そういったものをもうちょっと見てみたいと思って、出産撮影を始めることにしました。   出産って感動的なものと思っていましたが、全然違って凄く疲れて、凄いうなり声をあげて、イメージが違っていました。   痛いのが最後まで行くと死んでしまうような、怖い感じがありました。   初めての出産する人に立ち会う時には、うらやましいと思っている自分があります。

「うまれるものがたり」を出版。  家族、おじいちゃん、おばあちゃんだとかが心配で緊張感だったり不安だったりしている顔が、そののちには抑えきれないような喜びの表情に変わってゆく感じが、感動します。   写真、文章が「生きていると感じるとき」というタイトルで中学生の道徳の教科書にも掲載されています。   命とは判らないが興味があります。

長崎に引っ越こした時に、細い道を通って帰るのですが、よけ合って帰るわけですが、或る猟師さんに出会って、おじさんがイノシシやシカの肉を持ってきてくれるようになりました。  それが生き物だったんだなあと思って、肉のその前を見たいという事を知りたくなりました。   頼んで見に行きました。   生き物が人間に殺されて肉になってゆくところですかね。   目の前で起こる展開が予測していなかったものばっかりで、イノシシの暴れる音、いななく声など圧倒されました。   槍みたいなもので心臓を一刺しで殺しましたが、物凄い音が響き渡っていたのに、イノシシの声も消えてバタンと倒れたのがすごく印象的でした。  魂が抜けるような感じでした。  

「山と獣と肉と皮」を昨年出版しました。  自分の中にも残したいという思いがあり、写真だけでなくて言葉にもしておきたかった。  猟奇的とか思われるのも心配で慎重に文章を選びました。   何度も山に行っていると、人の世界が違って見えてきたりして、自分の感覚が変化していっているので、その感覚を残したかった。   その現場を見たあと「絶対おいしく食べてやる」と強く思うようになりました。   イノシシが山で死んでゆくときには「これは若いオスだ」と言われたときに、息子のことを思い浮かべでしまって、可哀想、悲しくて、いろいろ想像してしまって、「絶対に美味しくする」と関係しているのかもしれません。   命というものの端っこにやっとたどり着いたというか、山に行くと判ることの一部かと思います。   腐乱死体を見たことがありますが、腐臭が立ち込めていて、見てはいけないような感じで怖い風景でしたが、おぞましい感じがして、頭の中に残っていて、骨だけのものも見たりしていて、ゴミがないんだなという風に、風景が段々違って思えてきて、人間の世界との違いみたいなものも見えてきてハッとさせられました。

イノシシの腹を開いて内臓を取り除いて、アバラ骨見える状態で干している状態の表紙の写真は結構反対が多くて、帯で下半分が隠れるような形になりました。   帯に俵万智さんの短歌を載せてあります。  「イノシシの命輝くししむらの死体となりて肉となるまで」私の表したかった部分になると思います。

夫も私も無職で長崎に移住したようなものだったので、状況的にはピンチでした。    移住する理由は特になかったんですが、地方に移住したいという事があり、大震災があったり、真ん中の子がアトピーで住んでいる処では光化学スモックが多く発令されて、そういったことがいろいろ関係したと思います。   

「肉はなにからできてるの」と娘から言われてハッとして、大人になっているほうの自分の気持ちに気づかなかったりするんだろうなあと思います。  

主人がコロナで失業してしまって、振出しに戻っているので、これからどうやって生きていこうかなというところにいる感じです。















 

2021年2月25日木曜日

清川あさみ(アーティスト)       ・【私のアート交遊録】コンプレックスは個性だ

 清川あさみ(アーティスト)       ・【私のアート交遊録】コンプレックスは個性だ

清川さんは写真に刺繡を施すという独自の作品や、NHKの朝の連続TV小説「べっぴんさん」のオープニング映像、インスタレーション(絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術)、広告、CDジャケットと幅広いジャンルで活躍するアーティストです。   詩人の谷川俊太郎さんとの共作絵本は児童書の世界大会の日本代表に選ばれています。  2020年故郷南淡路島のPRアンバサダーとして、生まれ育った淡路島の土地と人のすばらしさを伝えるために様々なプロジェクトをたちあげています。  その一つが「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」です。   ダイナミックなパフォーマンスで知られる淡路島の伝統的な人形浄瑠璃に自ら手を加えて新しい表現を目指しています。  人形浄瑠璃を初め表現にかける思いを伺いました。

伝統芸能で、人形座の人々に初めて会ったのが2019年の時、公演会に呼ばれて、初めて人形浄瑠璃に出会って、興味があって調べることになりました。   淡路島の人形浄瑠璃は文楽の人形より少し大きくて特徴があります。   大胆な動きで泣いたり笑ったり人間に近い感じがします。

いとうせいこうさんと楽屋が隣同士で 『南あわじ市地域魅力プロデューサー』に就任し、「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」をやることを話したら、僕も興味あるという事から始まって、脚本を書いて欲しいという事でお話作りからはじまりました。  3月20日に初演を迎えることになっています。

淡路島は海と山と川が一気に見れる場所で自然豊かな場所です。   自然の中で情報が無い場所にいたのでよかったと思います。  自分で生み出すしかない状況だったので、アーティストになったのかもしれません。   建物の基礎になる部分が好きでそういったものを描いたり、牛とか豚とかも描いていました。   絵は成績が良かったです。  自分ってなんだろうと小さい子供のころから考えていました。   地味な感じの洋服を着て、図書館にずーっと一人ゆっくりと閉じこもって、自分の時間を楽しむのが好きでした。   阪神淡路大震災の経験もあったし、周りがどういおうと自分に見合ったものを付けていこうと決心をして、高校の入学式に黄色いリュックサックを背負っていったんです。   周りからは吃驚されましたが、最初に表現できたのが黄色いリュックサックで、どんどん加速していきました。  

ファッションって何といった感じでしたが、一番最初に好きになったブランドがコム・デ・ギャルソンで、ヴィヴィアン・ウエストウッドというブランド、この二つのブランドに出会って自分の精神と初めてバランスが取れて、お金をためて買い求めました。   それでも自分って何だろうと悶々としていました。   好きなものを着ているとそれに同調する新しい友達が増えて行きまして応援してくれました。   東京に上京してその日原宿を歩いていたら、声を掛けられスカウトされました。   メディアの人たちによくしてもらってはいましたが、表に出る仕事は向いていないと思ってはいました。  物づくりのほうに向かっていきました。  「美女採集」展でメディアに取り上げられました。

谷川俊太郎さんとの共作絵本『かみさまはいる いない?』 出版。  個性と個性がぶつかって化学反応みたいに、世の中に新しいものを生み出す力がコラボレーションにはあります。    子供が生まれて、進化の速さに驚かされます。  一緒に物つくりもして、絵本を出しました。 自分に正直にワクワクできるかどうか、作る意味とか理由があるかどうかという事はいつも基準になっていて、その理由がないと作らないようにしていました。

「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」は500年の歴史があるものが伝わり切れてないとか、伝わっていないとか、これから伝えていかなければいけないという事で、新しい風を吹かしながら伝えていかなければいけないと思っています。  

これからの目標はまだ見ていない、自分が一番ワクワクする物作り続けていきたいし、いろんなジャンルも飛び越えて行けてらいいなあと思っています。

私のお勧めはレディオヘッドで高校校時代から上京して壁にぶつかった時にもずーっと聞いてきました。

健康であること、心と身体さえ元気であれば、夢が無くてもいいかなと、心と体が元気であれば強く生きていけるかなと思います。  







2021年2月24日水曜日

八木波奈子(元ガーデニング雑誌編集長) ・【心に花を咲かせて】ガーデニングブームを起こして25年

 八木波奈子(元ガーデニング雑誌編集長) ・【心に花を咲かせて】ガーデニングブームを起こして25年

八木さんは元々花やガーデニングに詳しいというわけではなかったといいます。   なぜガーデニング誌を創刊されたのでしょうか、そして25年でその雑誌は幕を閉じましたが、それはなぜなんでしょうか。  ガーデニングブームを牽引し、人気雑誌を作ってこられた八木さんにガーデニング誌に込めた思いや、読者の反応で気付いたこと、ガーデニングで伝えたかった事はなんだったのか、25年を振り返っていただくとともに今後について伺いました。 

ガーデニング誌を創刊したのは1992年、インテリアの雑誌をリニューアルさせたもの。  ガーデニングという言葉も知られていませんでした。   どうしても自分で新領域の雑誌を創刊したいとこだわっていました。  何をやったらいいか3年ぐらい探して、イギリスにたどり着いて、ガーデニング雑誌を創刊しようというきっかけがありました。   オープンガーデンのシステムがあり、入場料をチャリティーマネーとして集めて大きく社会貢献してるという話でした。   ガーデンが組織化されていることに吃驚しました。   ガーデニングが趣味ではなくて社会性を持っているという事に凄くピンと来て、新しい雑誌のテーマはガーデンとガーデニングにしようと思いました。

1997年にはガーデニングが流行語大賞になりました。

1992年の5月にアメリカで世界的な読者をもつ雑誌がガーデニング特集をやっていました。   アメリカでもガーデニングがブームになっていました。  創刊した年でもあり、これは行けるかもしれないと思いました。  インテリアの雑誌に取り込みましたが、80%は怒りましたね。   引き返せなかったが、段々ガーデンの素晴らしいお宅が出てきて、すこしづつ増えていきました。   モネの庭を特集してモネを表紙にしました。  モネが自分で作り上げた庭で、大変な感動と驚きでした。

私もガーデンデザイナーになりたいという人が続々と出てきました。   

退屈しない日々の種を沢山雑誌の中にはらんでいるのがいいかなというのが、私の雑誌作りの基本があります。  ガーデニングには変化があり発見があります。 自己表現の場としてガーデンというところを使って、自分を投影させる人が意外と多いという感じです。

イギリスの憧れの庭を雑誌に取り入れていきました。  周りの人が言う花咲く野原というテーマが頭から離れなかった。    

時代によってこれはすごかったというのがあり、素晴らしい庭園として世界中に知られたものとして、シシングハースト・カースル・ガーデン(イギリスケント州にある庭園)は白い花だけで一区画纏めています。  庭を作った人に興味を持ちました。  雑誌が全国区で知られるようになったきっかけはチャールズ皇太子の庭についての特集、連載をやりました。   無農薬有機栽培についても取り上げて欲しいという事もありました。   

トロントミュージックガーデンができてトロントという街がどんどん変わっていきました。   市民の皆さんの生活の中に沁み込んでいって、市民の人もボランティアで庭を維持、手入れをしていて、凄いなと思いました。

生きていく上での人間の本質的な処に深く関わって行く庭に段々気付いてこれは凄いなと思いました。  

1997年にはガーデニングが流行語大賞になりましたが、一過性のものではなくひっそりと静かに深く大きく育てていきたいと思っていたので、ここで注目しないで欲しいという気持ちはありました。   オープンガーデンの関心が高まって組織が出来上がっていきました。

東日本大震災が起きたときに、私はガーデンチャリティーをやったんですが、50団体ぐらいオープンガーデンがありましたが、皆さん一斉に立ち上がりました。  日本のみなさんは納得できる目的があったときには、一致団結して立ち上がる力は凄いなと思います。 花の癒しは感動できたと思いました。   ガーデンセラピーが一つの雑誌テーマとして誕生していきました。  リハリビと庭は素晴らしいと思いましたが、まだまだ少ないです。

雑誌を閉じることになりましたが、ガーデン、ガーデニングは小さなマーケットで、なかなか収支が難しい。  25年を区切りとして終わることになりました。   これから先はどうなるかわからないので、手掛かりが無くて今年1年で何か見つけたいと思っています。



 







2021年2月23日火曜日

石坂浩二(俳優)             ・わたしがわたしでいられる理由(わけ)

 石坂浩二(俳優)             ・わたしがわたしでいられる理由(わけ)

大学在学中にVドラマでデビューし、卒業後劇団四季に入団,NHKの大河ドラマに3回も主演する一方、司会者やナレーターとしても活動して来ました。   多忙を極めた石坂さんはスランプに陥ったり、がんに侵されてドラマを降板したこともあります。   そんな石坂さんを救ったのが趣味でした。   趣味に熱中することが石坂さんの人生においてどのような意味を持っているのか、また石坂さんは今夢があります。   それは子供向け番組に再び携わることです。

家にいる趣味が多いです。   趣味というのは、こだわりがないと趣味っぽくはないと思います。   数学をいまやってみると面白くて、数学の本はよく読んでいます。  絵はずーっとやってきました。    ガンで入院したことがありましたが、絵をを描いているどころではなかったんですが、家に帰ってきてすぐにはそんな気持ちにはなれなくて、一月ぐらいしてから描いてみようと思いましたが、なかなか手が動かなくて、ちょこちょこっと毎日手を動かすようにしました。   微分積分とは何かという事を考えてゆくとなかなか面白いです。 ちゃんとやっていなかったのがもったいなかったと思います。   いろんなところに数学は絡んでいます。   

飛行機のプラモデルも日本のものよりもドイツ、イギリスのものが好きです。    彫刻、油絵も触ってみたいが触ることはできないが、プラモデルのキットを触っている時には癒されます。   プラモデルに色を塗るときには手塗りが好きです。  

趣味を共有することは、一つは定年後の方たちのために今作ったらこうですと、いろいろ発見があります。   

役者としてはこの役柄の人が好きな事は何だろうかと思ったりします。  一番わかりやすかったのは千利休ですね。  人間それほど変わらないと思っているので、どの時代の誰を演じようがそんなに変わらないと思います。   

役者だけではなくて、いろんなことをしていたから精神的にも健康でいられたことはあると思います。   好奇心が昔から強かったです。  母の遺伝ですね。         劇団四季にいたときにも自分の劇団も持っていて、その劇団の台本を書いたり、劇団四季で作った道具を何とか工夫して自分の劇団に使えないかとかいろいろやっていました。   仕事と趣味の堺があまりなくて、なんか作るのが好きでした。   演じる側としては達成感が無くて、なにかが残ってしまったりします。   

人間って、生まれた年というか、生まれた時間がその人の一生をほとんど決めているものがあると思います。   1941年に生まれて、36mmでは駄目でTVでは16mmで撮っていて、TVが盛んになってきたころに、ドラマがちゃんと撮れて、それが青春時代と重なるわけで、TVの仕事をしだすとカラー化していって、大河ドラマをやらせていいただくとか,TVと一緒に育ってきたような感じです。   そして映画を何とかしなければいかんという事で金田一耕助をやるとか、時代の流れと共に来たので、ここまでやってこれたと思います。

20代、30代にNHK教育TVの子供向け番組の脚本を書いていたりしていました。  童話みたいなものも書きました。   子供向け番組は好きでした。  作り手側が真剣でした。  子供目線でというのは駄目で、本格的なものを作るつもりでやらないと子供は見てくれないです。 子供は理解できないと思ってもそれはやっちゃう方がいいんです。  すると子供なりの理解をしますからそれでいいんです。 

絵描きさんが書いているものが実はシュールで、そうじゃないと写真と同じになってしまってつまらないわけです。  写真と絵が違うのは絵がシュールだからです。  子供の頃のものを見て、あれはシュールだったと言ってもらえれば多分万歳だと思います。

コロナで仕事が少なくなってゆとりの人生になって、ゆとりがいいんですね。  60kgぐらいあるボルゾイを飼っていて、1時間半ぐらい散歩をしたりしています。    プラモデルでも、絵でも細かいところに目がいかないと駄目で、西洋タンポポが多く咲いていますが、日本のタンポポが咲いているとか、小さいことに気が付いたりします。  気づきが好奇心を衰えさせないようにしないといけないと、繋がってきていると思います。

数学をもっと易しく興味を持たせるように、子供むけの番組が作りたいですね。








2021年2月22日月曜日

宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】

 宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】

案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

(しょう) 雅楽などで使う管楽器の1つ、17本の竹菅がありますが、実際に音が出るのは15本です。   竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させてを出します。   指は左手4本、右手は2本使って行います。 抑えただけの数の音が出ます。     ルーツは中国で彼らの祖先神が(しょう)を作ったと言われています。  殷(3300年以上前)の時代にこの楽器を表す文字が書かれています。  その時は和音の和という甲骨文字で、笙というようになったのはもっと後の時代です。   日本に渡ってきたのは奈良時代よりもちょっと前の時代です。  細かな部品があり複雑なものです。  竹菅の根元に金属がついていて、表と裏の両方に振動するので吹くのと吸うのと同じ音が出ます。(ハーモニカは違う音が出ます)

金属なので冷えると人間の暖かい息がかかると結露してしまって、中の切込みがとっても薄くて、結露すると塞がれ動かなくなってしまうので、温度によって音程が変わるので一定の温度で調律をして、それを一定の温度に保つようにしています。(火鉢コンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要)  金属製のリードを簧(した)と書きます。  

国立音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業後、雅楽を学ぶ。  1979年より国立劇場の雅楽公演に出演。1983年より笙のリサイタルを行う。  武満徹さんなど現代音楽の作品なども数多く共演している。   1998年長野オリンピック開会式では「君が代」の演奏を行った。   2017年ショーリサイタル 「甦る古譜と現代に生きる笙」の公演で第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。  2018年紫綬褒章受章

*「星の輪」 演奏:宮田まゆみ  最初のリサイタルの時に一柳 慧先生に作曲していただいたものです。  1000年来の初めての笙の独奏曲で歴史に残る曲なのではないかと思います。  

欧米ではマウスオルガンと言っています。

ピアノは子供のころからやっていて、お琴もやったり太鼓を叩いたりもしました。  古代ギリシャ、インド、中国の音楽観を教えてもらって、古代の人は宇宙のハーモニーを聞いていたという事があることを知って、私も宇宙のハーモニーを聞いてみたいと思うようになりました。  音楽美学をもっと勉強しようと思って、やっているうちに 、或る時に雲間から光が差してくる光景を見たときに、実際には音は聞こえてはこないが、音が聞こえてくる感じがしてきてドキドキしました。  雅楽の古典のレコードを聴いたら、光が差してくるような音だったので、雅楽を習いに行くようになりました。  24歳ぐらいの時でした。

*「秋庭歌一具」より第4曲 演奏:伶楽舎   武満徹さんが国立劇場からの委嘱により作曲し1973年に発表した雅楽の作品後に5曲が新たに書き加えられ、全6曲からなる『秋庭歌一具』(しゅうていがいちぐ)として1979年に発表。

古い楽譜を探ってその音を再現しようという試みをしています。  東京学芸大学の遠藤徹さんと一緒にいくつかの楽譜を再現して演奏会をしています。 鎌倉、室町時代にこういう音楽を楽しんでいたんだなという事が何となく感じられます。 リズム感が感じられます。昨年 編集をして今年はCDを出せればと思っています。

日本の音とは、難しいのですが、外国から取り入れたものを、豊かさも含めて日本で醸し出していったところが日本の音の特徴なのかなあと思います。