2020年12月31日木曜日

村上祥子(料理研究家・管理栄養士)   ・78歳 ちゃんと食べて、好きなことをする

村上祥子(料理研究家・管理栄養士)   ・78歳 ちゃんと食べて、好きなことをする 

78歳、福岡女子大学家政学科を卒業後、27歳の時に自宅で料理教室を始める。  数々の料理コンテストで入賞し、料理研究家として知られるようになりました。  ご主人は6年前になくなられて、3人の子供たちは独立して、村上さんは現在一人暮らしです。  福岡で自宅に備えたキッチンスタジオを拠点に活動しています。  40代で大病を乗り越えた経験から、毎日ちゃんと食べる事が何より大切と実感し、一日三食をきちんと食べ、実現したい夢に向かてパワフルな日々を送っています。

料理研究家として50年。  人を繋いでいく道具としては料理はいいなあと思います。

メインスタジオを東京にもちながら、日本全国の講演会 料理教室 福岡のスタジオなどをかけめぐる。   福岡に住まいを移しました。   主人を6年前になくして前を向こうという気持ちになるまで3年かかりました。   

料理の本は500冊ぐらい出しています。  最新の本は「78歳の一人暮らし ちゃんと食べる好きなことをする」です。   自分の好きなことで後の人生をかけていただけたらいいなあと思って、私の事を語らせていただきました。  自分の好きなことをするためには、身辺整理をしないと時間が生み出せません。  私は65歳の時に色々整理をしました。   運動が全くできないのでトランポリンで100回跳びます。  

1942年生まれ、子供の頃はなかなか勝気な子で、母親思いの子だったようです。  5歳の私が食材の買い物などをしました。   7歳に時には七輪で火をおこして揚げ物らしきものをやっていたようです。   生活が持ち直してきて、お手伝いさんが来るようになって、料理はお手伝いさんから教えてもらいました。   見よう見まねで生活の術をやっていきました。

福岡女子大学家政学科に入って、アメリカに行きたいと思って英語の勉強をしたりして、奨学金を貰ってゆく算段をしたのですが、父親に見つかって頓挫しました。  アメリカのコンピューター会社に就職を決めましたが、夫になる人から止められて結婚したほうがいいのではないか、と言われて就職は辞めることになりました。  夫が会社に行っている間に家庭教師、ピアノの先生とかやりました。  

夫の友人がアメリカから帰ってきて、その奥さんがアメリカ人で日本の料理を教えてもらいたいという事で、それが料理の先生の始まりですね。  その人から口コミで広がってアメリカ人の奥さん10名ぐらいを対象に教えるようになりました。   料理は以前から好きでした。    そのうち料理英語が読めるようになり、少しずつ進んでいきました。  

大分に転勤になり、料理コンテストがあり、優勝して褒美としてアメリカに行くことができました。

30代の後半に顎の骨の慢性骨髄炎と診断されました。  18本歯を取って骨髄を掻把して4年かかりました。   今は全く大丈夫です。

母校福岡女子大学で、1985年頃は糖尿病の予防、改善が花の時代で、カロリーを抑えるためにご飯の量を控えたりというような指導をしていましたが、カロリーを抑えるのなら電子レンジという方法があるのではないかと思って、電子レンジは油を使わないので、チャーハンでもほんのちょっとの油で済むので、学生さんに教えることになり、電子レンジ使いが上手くなっていきました。(43歳の頃)  以後学会の論文を作るようになりました。  学生さんたちはすぐに習得していきました。

1996年東京に出向いてきました。   マグカップでの料理が一人暮らしの方には特に好評です。   100gが600wで2分という原理があり、中に入れたものの重ささえわかれば、電子レンジが煮炊きをやってくれます。

地域の方にお昼だけ出す村上食堂をやってみたいと思っていて、今伝わらなくなっている大衆栄養食、お惣菜、こんにゃくの炒り煮だったり、お昼だけ提供すると言う事をやっていこうと準備をしています。  大人のためのいろんな国のお菓子のレシピーの本を作りたいと思っています。





2020年12月30日水曜日

鈴木秀子(聖心会シスター)       ・聖なるあきらめを心の処方箋に

 鈴木秀子(聖心会シスター)       ・聖なるあきらめを心の処方箋に

聖心女子大学で長く教壇に立ち、死が近づいた人の看取りに力を入れている鈴木さんは、数多くの著作を通して、どう生きて行くのか、生きるための処方箋を多くの人に示してきました。   新型コロナウイルスの感染拡大に世の中が落ち着きを失った今年は、特に諦めることの大切さを言っておられます。   否定的に取られがちな諦めという言葉ですが、鈴木さんは上手に諦めることで、亡くなるその日まで自分自身と喧嘩せず、上機嫌に暮らすことが出来ると話します。

1932年静岡県生まれ、聖心女子大学を経てフランス、イタリアに留学、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了され、、アメリカのスタンフォード大学で教鞭をとられました。  その後母校の聖心女子大学で教授として後進の指導に当たる傍ら、人間を9つの基本的性格に分類する性格タイプ論エニアグラムを日本に紹介、講演活動を広く行ってこられました。  多くの人々からの相談にこたえる中で、特に最近は死を迎える人の看取りに熱心に取り組んでいます。   著書はすでに150冊を超え、今年2020年は「諦めよう諦めよう 人はいつか死ぬのだから」、スピリチュアリストの江原啓之さんとの対談集「日本人の希望」などが刊行されました。

今年は講演が20も無くなりました。  静かに本を読んだり自然を眺めたりしていました。

修道院では若い時は朝から晩まで厳しい規律の元に、みんな一緒のスケジュールで過ごしていました。  今は朝早く起きて自分一人の祈りをして、朝食を食べて、仕事をしてお昼、夕方自分でする祈りがあり、夕飯後、みんなで共通の祈りがあり、自分の仕事をして寝るという生活です。

聖心女子大学は200年前にフランスの女性がフランス革命直後の状況を見たときに、社会を現実にリードしてゆくのは男性が表立っているが、社会をよくしてゆくにはいいリーダができる事、そのリーダーが出るためには優れた母が必要であり、リーダーとなった人が社会をよくしてゆくためには妻となる女性が必要であり、母と妻となる女性をしっかり教育すれば、いいリーダーが生まれ、社会がよくなってゆく、教育が大事という事でフランスを中心に聖心という学校ができて、教育を目的とする修道会が建てられました。

自分を大切にし、周りの人を大切にし、お互いに大切にしあうからよい社会を築いてゆく、そういう目的で教育するという事が始まりました。  日本最初の女子大学の一つで、初代学長はエリザベス・ブリッドです。

終戦直後に大学に入りました。  聖心大学は国際的に開かれた大学であるという事で選びました。   終戦で価値観が全部ひっくり返った時代で、尊敬していた教頭先生、担任の先生がそれまでと全部反対のことを言うわけです。   心が空洞になってしまって、それに代わるものは誰も教えてくれなかった。    大学に入ると英語で留学しているような感じで、外国の女性もたくさん入っていました。  まったく見知らぬ世界に入った感じがしました。  一番に見なれぬものはシスターの存在でした。   シスターが皿洗いをしながら、このお皿でご飯を食べた学生一人一人が本当に幸せになって、社会に貢献できる女性として成長しますように、家族もみんな幸せになるようにと祈ってるという事を聞きました。

自分のことは一切考えないで、人の幸せだけを祈り続けて人生が満たされるという事はどういう事だろうと考えていました。  同級生で大親友になった曽野綾子さんがいて、「この世の中で絶対変わらないものは何か」と聞いたら、或る時シスターが神様の話していたら、憲兵が来て神様なんて馬鹿げた話だ戦争に勝つことだけが一番大事だという話をして出て行くと、シスターが憲兵の話が無かったごとく話の続きを淡々と話し続けた。 子供心に決して変わることがないものがあるんだという事を自分たちはシスターの姿から教えられたと話を聞いたときに、「人間を越える神様の存在はたしかにあるのかもしれない」と思いました。 それが修道女へのきっかけでした。

大学では英文科でしたが、日本文学を学びました。  東大に初めて近代文学科が設立されたときでした。  作家は漱石、鴎外当たりから50年前ぐらいです。  日本の近代文学の中ではざっと30人ぐらい自殺しています。   

修練と受験が重なって大変でした。  修練の期間の時8年間は絶対の沈黙ですから、一切声を出さない、もっと大変なのは頭の沈黙なんです。   雑念を持たずに自分をコントロールしてゆくのが一番大変でした。   1年目は一切本を読んでは駄目で、頭を空っぽにして、2年目は少しずつ聖書を読みだしたりします。  

東大の大学院を受験するときには30歳を過ぎていて、大学院人文科学研究科博士課に入りました。私の教授は戦争に行き軍艦にのっていて、朝食事をした人が帰ってこない、特攻隊で死んでゆく人たちの死を毎日見て生きて帰ってきた。 日本で最初の東大の日本近代文学の教授になりました。  その後日赤病院に入院して亡くなる前の40日間ぐらい毎晩夕方から一生のことを私に話して下さいました。  生きて帰った人がいかに生きてゆくことに対して意味を見出そうとしたのか、いい勉強になりました。

死を前にした人は誤魔化すなんてしませんから。  真剣に深い心を見せてくれるから、死ぬ前の時間は実に尊いという事を教えていただきました。

エニアグラムはスタンフォード大学にいるときに知りました。  

物事には必ずいい面と悪い面がるけれど、つらい苦しい面を乗り越えることによって大きな恵みを貰うと思います。   コロナ禍なんて言わないで、大変な状況ではあるけれども、みんな人間は繋がっていて、お互いに助け合わなければ生きていけないという事を一番強く感じて、コロナの人たちのために祈ることが、どんなに大切かという事を身をもって感じています。

私たちが毎日する祈りがあります。  「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り   いつくしみ深い神よ、新型コロナウイルス感染拡大によって、いまは大きな困難の中にある世界を顧みて下さい。 病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の収束に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病気に寄り添う人の健康が守られますように、亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように、不安と混乱に直面しているすべての人に支援の手が差し伸べられますように、希望の源である神よ、私たち感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることが出来るようお導き下さい。」

江原啓之さんと対談しました。  いま日本も世界も大きく変わろうとしているときに、日本人同士がお互いに助け合い、いいところを発揮しあって、なにか協力し合った時に日本から又世界に貢献できるいいもの生まれるのではないかと思います。  対談集「日本人の希望」が刊行されました。

命は自分がどうしても、どんなに長生きしても作り出すことはできない、平等に生かされている人が、生きている人がすべて。  一人一人が神様から命を与えられ、神様に愛される尊い存在である、それが人間の一人一人の尊さだと思うんです。   生かされている一人一人がいかに大切な存在か改めて考え直して、深い絆でお互いに結ばれあうことがどういうことか考え直すことが一つだと思います。   他の人との結びつきと、他の人によって助けられ生かされているという感謝、他の人との結びつきの絆。   人間を越える大いなる存在、そういうものによって守られている、人間を越える大いなる存在との絆。

自分が満足することが幸せだと思いがちだが、現実には自分の中には暗いものがあり、出来ないこともいっぱいある、そう言うものが自分の現実。

現実を見極めてそれを受け入れて、あきらめる事と出来る事を見極めながら、自分をよく伸ばす形でしてゆくことが必要だと思います。  見極めて諦めながら行くという事が生きることだと思います。  いずれ人間は死ぬんです。  毎日諦める訓練です。

フランスに行ったときに院長さんが、「人間にとって一番大切なことは機嫌よく居るという事だ」といわれました。  機嫌がいいというのは自分の心を穏やかにして、静けさを保ちながら明るく、他の人ともいい環境を築くように、自分の心を使う事だと話されました。 つぎにそれが伝わって行くものです、と言われました。 人生ってちっちゃいことの積み重ねです。

よこしまな嫌な心が湧いてきても、周りにぶつけるのではなく、静まるのを待って、自分と喧嘩しないで前進していきましょう、という事です。  


2020年12月29日火曜日

栗野宏文(セレクトショップ顧問)    ・されど洋服屋

 栗野宏文(セレクトショップ顧問)    ・されど洋服屋

東京世田谷育ちの67歳、大学卒業後、ファッションの小売りの世界に入り、販売員からバイヤー、店舗のプロデュース、売り場の演出など何でもこなしてきました。  またパリコレなど海外のコレクションや名店をめぐり、著名なデザイナーやバイヤーたちと交流を重ね洋服の目利きとして海外でも知られています。  今年の8月にはコロナ禍でのファッションの役割を考えた、初めての著書「モード後の世界」を出版しました。     今も店頭に立ち接客もされるという栗野さんに伺いました。

セレクトショップは和製英語で日本しか通じないのですが、30年ぐらいこの言葉を使い続けてけています。  最近は海外でも通用するようになりました。  海外ではコンセプトストアとか言われています。   洋服屋の品揃え店です。

クリエーティブディレクションとは物に関する方向性を研究して示唆してガイダンスします。

コロナ禍で店を開けられないという事になり、インターネットで販売することは始めていたのでサポートになりました。  しかし、人と会っていろいろ話をする中でお客様の求めているものを薦めるのが基本的な仕事なので、人に会えないという事は大きな障害です。

どのような状況下でも、人が洋服を選んで言葉化してメッセージを発信しなければいけない、というのは今回「モード後の世界」を出版した理由の一つでもあります。

服は人間にとって暑さ寒さを防ぐものではなく、自分の気持ちを高揚させるものだったり、自分に自信を付けさせてくれるものであったり、そういうことをコロナ禍で多くの方が感じたようです。

1953年親の仕事の関係でニューヨークで生まれました。  居たのは1年だけでした。父は外務省に勤めていました。  母の影響で、いい素材で仕立ての服を母がしていたのでいろいろ教わりました。  中学生ぐらいから自分で服を買うようになりました。   ビートルズみたいな洋服を着たいなあというのがスタートポイントでした。   ヒッピー的なものを真似していました。   イギリスのロックの音楽を沢山聴きました。    デヴィット・ボウイとの出会いがあり、歌詞が文学的で哲学的で辞書を引き引き聞いて英語の成績は良かったです。   英語もしゃべれるようになりました。 日本のロックバンドの黎明期でもあり沢山コンサートに行きました。  大学に入ってレコード屋さんにアルバイトをしてそこへの就職の話もありましたが、音楽は一番好きだったけれど、2,3番目に好きだった洋服の道に進むことにしました。  

ファッションと音楽は若いころからずーっと今でも同居していますね。  

1977年に会社に入って、日本では一番大きい小売りの会社で本店が上野にあり、そこに配属されました。  半年後靴、雑貨の仕入れも任されて1年半で疲れて、辞めてしまいました。   その間に一番優しい上司と一番怖い上司について、それぞれ凄く勉強になりました。

時間というものを無駄にするな(1~4階までの階段は駆け上がれとか)、大きい声を出せ、商談は手短に、とかお客様に対する言葉使いなど厳しく教わりました。

その後1978~89年までセレクトショップのはしりみたいなところに11年間勤め接客の仕方を磨きました。   お客さんに喜んでいただけるような、立場を置き換えることが大事だと思います。  

1989年に会社を立ち上げ99年に上場しました。  日本でもソフトスーツが流行したが、世界基準からするとだらしなく見えるので、イタリア、イギリスなどのやり方で日本に紹介して、それを日本製にすることによって、日本のサラリーマンのスーツスタイルが変わったと思います。

パリコレなどもここ3年間はサステナビリティ(持続可能性)をテーマの一つにしています。  リサイクルとかオーガニックとか、そういう考え方の人が多くいます。  若いデザイナーたちが社会性、特に持続可能性に対してファッションは何ができるだろうという事をテーマにしています。

ファストファッションは作られる過程で問題があまりにも多くて、土に埋めても永遠に土に還らない、海洋汚染してしまう、そういう素材が多かったりします。  後ろ指を指されないような状態にしないとネガティブな意見が出てしまうのはやむを得ないかなと思います。

飽きたら捨てればいいという事、なぜそんなに安いのかというとたくさん作らないと安くならない。  それは明らかに供給過剰で、世の中に供給されている洋服の半分は捨てられているという説もあります。  売れなくて余った商品にも税金がかかり、寄付しても税金がかかる。   原因の一つは価格の過当競争をしてしまっているという事があります。 

愛着が湧くようなものを提供するのが、サステナビリティ(持続可能性)の最も重要な主題だと思っています。

日本の縫製技術、生地屋さん、販売技術、は世界レベル、特に縫製技術、生地屋さんはトップです。  ここ5年ぐらい、欧米のトップデザイナーたちもわざわざ日本で作ったりしています。  日本の生地を使うデザイナーは非常に多くて、日本のデニムは世界一です。 打ち込み生地も世界のトップレベルです。

西洋の服は階級から成り立っています。   日本だと誰が何を着ててもかまわないというのは日本のファッションの独自の在り方です。  性的誘惑、ヨーロッパの上流階級の舞踏会などでは肩や胸をたくさん出したものを着ていて、ヨーロッパの洋服では性的誘惑というものがどこかでその服の本質を支えていて、もてなければいけない服、男性も女性も一緒です。  日本ではそんなに気にしなくてもいい。

7年前ケニアに行って、彼女たちのビーズ細工をバッグのなかに取り入れることをスタートしました。   手織りの生地を織ってもらって日本にもってきて洋服に仕立てたりして店頭に出しています。  アフリカとのデザイナーの交歓のファッションショーをやりました。  西洋では知られていなかったような染色技術、手織りの技術、色に対するセンスなどがあり、欧米中心の文化はピークアウトして、次の波が来ている中にアジア、アフリカがあると手ごたえを感じます。





2020年12月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・【絶望名言】チャイコフスキー

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】チャイコフスキー 

「これは運命です。 幸福へ到達しようとする我々の熱望を妨げるあの宿命的な力です。  それはダモクレスの剣のようにいつも頭上にぶら下がっていて私たちの魂を絶えず苦しめています。  それは避ける事の出来ない制止しがたいものです。   妥協して無駄に嘆くしかありません。」              チャイコフスキー 

白鳥の湖、眠れる森の美女、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第6番の「悲愴」など名曲を沢山残した有名な作曲家。

「くるみ割り人形」はクリスマスイブの話なんですね。  年末には「くるみ割人形」がよく演奏されます。  海外では年末の定番です。

お金の苦労もあるし、作曲の仕事もなかなか認められなかった。  結婚も大失敗して自殺未遂に近いことまでやってしまっていて、他にもいろんなことがあります。  

チャイコフスキー は1840年生まれ、ロダン、モネとかと同じ年。 日本では幕末の時代。

「これは運命です。 幸福へ到達しようとする我々の熱望を妨げるあの宿命的な力です。  それはダモクレスの剣のようにいつも頭上にぶら下がっていて私たちの魂を絶えず苦しめています。  それは避ける事の出来ない制止しがたいものです。   妥協して無駄に嘆くしかありません。」 

上記の言葉は交響曲第4番の第一楽章の冒頭部について説明している言葉です。     この運命のファンファーレは怖いですね。 

ダモクレスの剣:僭主は贅を尽くした饗宴にダモクレスを招待し、自身がいつも座っている玉座に腰掛けてみるよう勧めた。   それを受けてダモクレスが玉座に座ってみたところ、ふと見上げた頭上に己を狙っているかのように吊るされている1本ののあることに気付く。  剣は天井から今にも切れそうな頼りなく細いで吊るされているばかりであった。   僭主ディオニュシオス2世は、ダモクレスが羨む僭主という立場がいかに命の危険を伴うものであるかをこのような譬えで示し、ダモクレスもまたこれを理解するのであった。   幸福そうに見える暮らしの中でもいつ突然危険が迫ってくるのか知れない。

「あらゆる人生が厳しい現実とつかぬ間の幸福の夢との絶え間のない交代なのです。  船着き場はありません。   海がお前を飲み込みその深みへと連れ去らない間はこの海をさまよっていなさい。」    チャイコフスキー

「おおくの人々との間に乗り越えがたい溝を作っていることは本当だ。  それが僕の性格の疎外感、他人への恐怖感、臆病、並外れた内気、猜疑心、一言で言って僕がますます人嫌いになって行く数知れない特徴を与えている。」 (弟への手紙の一節)チャイコフスキー

疎外感、他人への恐怖感、臆病、並外れた内気、猜疑心、これは多くの人が持っているんじゃないですかね。  チャイコフスキーはガラスの子供といわれるぐらいナイーブな人でした。  

ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲なども酷評されていました。  「白鳥の湖」も初演は不評で失敗に終わります。  「白鳥の湖」が有名になるのはチャイコフスキーが亡くなってからです。   最後の交響曲第六番「悲愴」ですが、これも初演は不評で失敗に終わります。 今ではどの曲も凄く人気がありますが、当時としては新し過ぎたと思います。

「自分には本質的に何の罪もないのに、自分が哀れみを受け許されていると思うことが僕にとってつらくないと思うかい。  それに僕を愛している人々が僕のことを恥ずかしく思う事があるなんてやり切れないとは思わないかい。  そしてこのようなことがすでに100回もあったし、これからも100回もあるだろう。   要するに僕は結婚とか女性との明白な関係によっていろいろな軽蔑的な奴らの口を封じたい。   彼らの考えを僕は少しも恐れないけれども、それは僕に近い人々に苦しみを与えるだろう。」 (弟への手紙の一節)チャイコフスキー

実はチャイコフスキーは同性愛でした。  「自分には本質的に何の罪がない」という事はそういう意味です。  世の中には偏見がある。  「僕は結婚とか女性との明白な関係によっていろいろな軽蔑的な奴らの口を封じたい。」という風に思ってしまう。 それで女性と結婚するが、たちまち破綻して逃げ出してしまう。 自殺未遂に近いような事をしてしまう。

「まるで悪夢の様でした。  妻とは2週間生活を共にしましたが、私にとって毎日毎日が言葉では言い尽くせないほどの苦しみでした。  やがて慣れるだろうと考えていたことが全く無理だと知りました。  絶望のあまり死ぬ事も考えました。」

「人々の同情を私はこの世で何よりも大切に思っている。」(手紙の一節)チャイコフスキー

そのころのバレエ音楽は踊りの伴奏に過ぎなかった。  バレエ音楽もオペラみたいに芸術性の高いものになりうるのではないかと思って、3時間に及ぶ壮大な「白鳥の湖」を作曲した。

初演では1/3もカットした。 3大バレエと言うと「白鳥の湖」。「目群れる森の美女」、「くるみ割り人形」ですが、すべてチャイコフスキーの作曲です。 チャイコフスキーはその3つしか書いていない。 辛くない人が辛い人に対して、同情するという事も無ければならない大切な事だと思います。  偽善もあるかもしれないが、偽善でもいいと思っています。 砂漠で喉が渇いているときに偽善だろうが水をくれることはありがたい。 

「人の親切というものはなあ、もっと大事なものなんだ。  そういう親切のお陰で俺は生きてこられたんだ。 他人の親切が無けりゃ一日だって生きちゃこれなかったんだ。  全部他人の親切さ。  哀れみは受けたくねえ、余りものなんかニコニコしたくねえなんて、意気がっているお前は幸せだよ。  おれはロジャーさんの親切がとてもうれしいよ。  多少俺の自尊心が傷ついたって、ロジャーさんの気持ちを傷つけるわけにはいかないんだ、俺は。」 (日本の「記念樹」のドラマ 児童容疑施設の子がゴルフ場のキャディーをするようになってロジャーさんからたくさんの食べ物貴重品などをいただく、回りからは非難されるが、それに対して言った言葉)

僕(頭木)は難病で長く闘病生活をしていて、人の親切が無ければ生きてこれなかった。 同情がなければ生きていけない人もいます。  あまり同情を悪く言わないで欲しいと思います。 同情する方も、同情って良くないのかなあとあまり思い過ぎないで欲しいと思います。 他人をかわいそうだと思う事は気高い心だと思います。

「誰も私以上にはあなたのすべての不幸な出来事を、ともに悲しみ分かち合っているものはいないことを永遠に覚えていてください。」   (フォン・メック夫人への手紙の一節)チャイコフスキー

36歳の時にフォン・メック夫人がパトロンになってくれる。   鉄道王と言われた大富豪の未亡人でチャイコフスキーの音楽が大好きだった。   手紙を書いて作曲を依頼している。  愛とか幸せを失った人の感情を曲にしてくれという要求だった。

「どうか私に曲を書いてください。 どうにもならない諦めといった感情を表すものを、愛とか、幸せとか、自尊心とか、人間にとって最も大切なものをすべて失った人の感情を表すものを、と言うのもこのような感情は貴方にもよくお判りいただけると思うからです。」

メック夫人は生きる悲しみをよく知っている人だったんですかね。 絶望を知る者同士が二人を結び付けている。  二人の関係は14年間続くが手紙のやり取りだけ(残っているだけで1103通ある。)でついに一度も会わなかった。  チャイコフスキーは女性と付き合う事は出来なかったが女性の心の友を持つことが出来た。  突然お金の援助できなくなったので手紙のやり取りも出来なくなるという内容の手紙だった。   「くるみ割り人形」はフォン・メック夫人との決裂の後に作曲された。 それにしては明るい曲で、こういう曲を作ることで悲しみを忘れようとしたのかもしれない。

泣くしかどうしようもない時ってあると思います。 泣くしかどうしようもない時に一緒に泣いてくれる人が居るかどうか、という事はとてつもなく大きい事です。 天と地との差があると思います。 心から一緒に泣いてくれる人はなかなか見つかるものではない。   チャイコフスキーの音楽は一緒に泣いてくれる音楽だと思います。  交響曲第6番「悲愴」について、「私と手を取り合って泣こうではないか」と言ってくれています。

「私は弱い人間だが、弱いからこそ人の世の苦しみや悲しみを真剣に受け止め、それを芸術に昇華することが出来る。  その芸術によって人々を慰めることが出来る。  同じ悩みを抱えるものがいることを知れば、人は自分の運命にも耐える事ができるだろう。    この交響曲は私の魂の最も正直な告白だ。  私の心の底からの叫びだ。  これに応えてくれる人々は私と手を取り合って泣こうではないか。」     チャイコフスキー








2020年12月27日日曜日

藤木大地(カウンターテナー)        ・【夜明けのオペラ】道なきところに道をつくりたい

 藤木大地(カウンターテナー)      ・【夜明けのオペラ】道なきところに道をつくりたい

1980年生まれ、東京藝術大学音楽学部声楽科テノール専攻卒業後,新国立劇場オペラ研修所第5期生修了、イタリアとウイーンに留学。  2011年、それまでのテノールからカウンターテナーに声種を転向する。  2012年、第81回日本音楽コンクール声楽部門にて優勝。   2017年、東洋人カウンターテナーとして初めてウィーン国立歌劇場デビューを果たしました。   今年の秋には新国立劇場でブリテンの「夏の夜の夢」、バッハ・コレギウム・ジャパンのヘンデル作曲「リナルド」と二つのオペラで主役を務めました。

「第9」が毎年ありましたが、今年は一回もないので今年は寂しい年末です。  演奏会が無いので練習もしないので、使っていないので声帯は健康になりました。  7月にはリサイタルを行うことができました。

*マーラー作曲 交響曲第2番ハ短調「復活」  歌:藤木大地

女性は上からソプラノ、アルトを担当して、男性はテノール、バスに別れるが、そのなかでアルト(女性の声域)を担当するんです。  

子供のころから歌は好きでしたが、プロ野球の選手になりたかった。  高校の時に数学が苦手で、音楽を勉強したいと思ったのでレッスンに行ったら褒められて、音楽の基礎からピアノとか一生懸命勉強して、東京藝術大学音楽学部声楽科テノールを専攻しました。 

新国立劇場オペラ研修所へ入りました。  そこは5人しか受かりませんでした。

声楽の留学はイタリアだと思っていて、イタリアの声を身に付けたいと思っていましたので、イタリアに留学しました。  劇場の専属歌手になりたくていろんなところに手紙を出してオーディションを受けましたが、全部落ちてしまいました。  26歳で日本に帰ってきて、歌手はあきらめ気味でした。   声楽を始めたころに初めて買ったCDがルチアーノ・パヴァロッティの二枚組のベスト盤でした。

*ラ・ボエームから「冷たい手を」  歌:ルチアーノ・パヴァロッティ

イタリア留学は1年間で、イタリアでの就職活動は実らなくて、もう一度外国で勉強したいと思ってウイーンに行きました。   音楽と文化をバックグラウンドにした経営学を学べるところを探して入学できました。  友人たちにも歌を聴いてもらっていると、いい声だといわれました。  カウンターテナーに転向して、早く結果を出そうと思って頑張りました。   自分のレッスンメモを作って、いろいろメモを取って勉強しました。

2013年、ボローニャ歌劇場でデビューしました。   東洋人カウンターテナーとして初めてウィーン国立歌劇場デビューを果たしました。   プレッシャーは人の評価が気になったりだとか、失敗したらどうしようと心配するから起こることなので、ボローニャ歌劇場以降はプレッシャーはないですね、むしろ責任ですね。(自分以外にお客さんへの責任、劇場への責任とか)

道のないところに行って、パイオニアになる人は凄くかっこいいと思っていたので、歌手を始めたころから思っていたことなので、ですから野茂さんは大好きです。

声も消耗品なので、声が出るうちにやりたいことを全部やろうと思っています。

*「アメージン・ググレイス」  イギリスの牧師ジョン・ニュートン の作詞による賛美歌 歌:藤木大地






  

2020年12月26日土曜日

宮本信子(女優・歌手)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

宮本信子(女優・歌手)         ・【私の人生手帖(てちょう)】 

朝の連続TV小説「あまちゃん」、「ひよっこ」などで確かな演技でおなじみの宮本さん、映画では夫である故伊丹十三さんの「お葬式」など、10の作品に主演、「マルサの女」では数々の映画賞を受賞している実力派です。  その宮本さんの実質的なデビューは1963年NHKのラジオドラマです。   ともちゃんと言われる実際の魚屋さんと宮本さんが街で偶然出会って一晩会話を交わし、朝別れててゆくという時間をドキュメンタリータッチで収録して高い評価を得ました。  それから57年、コロナの影響で今回は来年4月に延期されましたが、松竹映画100周年記念映画に沢田研二さんが演じる主人公の妻役で出演します。 デビュー当時の意気込みやコロナ禍での映画製作、今でも共に生きているという伊丹さんへの思いなどについて伺いました。

松竹映画100周年記念映画『キネマの神様』 延期されて残念でした。  4月にはクランクインの予定でしたが吃驚しました。  映画はそんな状況でも慰めたり励ましたり見えていない光が見えてくるような、そんなふうになっているのではないかと思っています。

NHKのドラマで伊丹とは共演しました。  「あしたの家族」で医師の長男が伊丹で私は看護婦役でした。   おしゃれな人でオープンカーで来ていました。  結婚が1969年です。 年齢は一回り違っていました。   本を10冊ぐらいバーンと置いてこれをしっかり読めば料理はできるといわれて、一生懸命やりました。  伊丹の料理は早くておいしいです。  子供は欲しいと思っていたが、世界の人口が多すぎるから産まないほうがいいと言っていましたが、二人産んでよかったと思います。   夫は子育てに夢中になってやっていました。   東京では子育てはよくないと言って、湯河原に移りよかったと思いました。   湯河原を舞台に「お葬式」が生まれました。  父が亡くなってこれは映画になると夫は言ってメモを取るように言われて、それが映画になるとは思いませんでした。

13年間で10本やらせてもらって、宝物の思いです。  伊丹映画の場合はリアリティーが欲しいという事だったので、どうやってその人物が生きてきたかという面構えを大事にしていると思います。   

「あなたは女優なんだからね」、という事を言い続けてくれたのが一つの大きな支えになりました。  それと小唄を結婚してから始めて、子育て中でも15分でもあればお稽古をしていました。   小唄から「あげまん」の映画へとなりました。  現場では厳しかったったので、必死にやりました。   

伊丹監督は自分で俳優をしていたので、とっても俳優の気持ちがよくわかるので、よくあったような気がします。  脚本家としての伊丹十三は凄いと思いました。 組み立て方、構成、取材をしてその人をどういう風に見るかとか、洞察力、そういうことが全部ちりばめられて一つの台詞になったりしている、素晴らしい脚本家だと思います。

1997年に伊丹は亡くなりました。   舞台のほうに近づいていって、或る番組で歌って凄く楽しかったです。   ジャズのほうに広がっていきました。

『あまちゃん』の時には東北の大震災の時で、工藤勘九郎さんの素晴らしいセリフがいっぱいあったりして、いろいろ覚えています。  俳優はいいセリフを言いたいです。    そのセリフをどう表現したらいいか、考える事も好きです。  女優という仕事は面白いです。






 

2020年12月25日金曜日

宮地尚子(一橋大学大学院教授・精神科医)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】右も左も分からなくても

 宮地尚子(一橋大学大学院教授・精神科医)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】右も左も分からなくても

兵庫県生まれ、59歳 大学院ではトラウマやジェンダーなどをテーマに授業を行い、精神科医としては子育てや母親を取り巻く様々な問題に対してつづった著書もあります。   どうしたらもっと肩の力をぬいて子育てができるのか、また先が見えないコロナの時代、私たちはどのようにして生きればいのか、2歳と3歳と子供の母でもある江崎アナウンサーが聞きました。

不安であるということを共有しあうことが大事です。  体を動かすことをすると気もまぎれます。 

死にたいと思う時はどんどん視野が狭くなっていきます。  些細なことでも他人と話をすることはとても大事です。 

出来ないことのほうが人と繋がる力になるのではないかなあと思っています。  私は右と左が判らなくて、判る人が何で右と左が判るのかが判らないんです。  わからない人と話したくてホームページに書きました。   みんなの前で違う事をしたと言って笑うという事、そういうのは良くなかったんじゃないかと思いました。 

ホームページを見てメールをいただいた身近な人で、非常に個性豊かで才能豊かだったりする人も多かったりします。

人間の心に興味がありました。  人について知りたいと思ったのがこの道に入ったきっかけです。   自分のことは一番わからないのではないでしょうか。  外から自分は見えない。

弱さ、コンプレックス、劣等感、などはその人の行動は本人が気づかないところで、規定しているんだなあと思うことが多いので、その人の弱みや欠点が実は長所だったりすることもあるので、ある程度はわかって来たんですかね。

「母が生まれる」 著書  子育ては本当に大変ですが、外から見ると出来て当たり前ですよね。   適当に手を抜くことは難しいし、手を抜くと罪悪感が生まれ、どう考えてもお母さんは時間が足りない。   違和感を感じて、自分の経験も踏まえてもうちょっと肩の力を抜いていいし、手を抜いていいし、もっと別のところに力を注いで楽しんだほうがいいと思って書きました。  母も初心者だし周りもそれに気づくことが大事です。

私の場合、弱みを子供に打ち明ける、失敗談をよくします。 完璧なものよりも抜けている親とか、そのほうがホッとするし、会話も弾むので失敗談をします。   大人との間でも失敗談をするとみんな失敗してい居るよね、といった感じでお互い繋がる感覚があります。

幼稚園受験、小学校受験とか、レールを敷くとやっぱり子供はつまらない。  人間はやっちゃいけないといいことのほうが楽しい、与えられたものだとつまらなさがある。

子供が好奇心を持って自分で言ったところには何か子供が求めているものがある可能性は高いと思います。  いろんな人に出会えたほうがいい。 勉強だけに縛られるの悲しいことです。  人生っていかに楽しめる能力を身に付けるかでとても違うと思います。

自分が役に立つ経験をすると、とっても子どもに取っては自信になったり、存在感を持てる、生きてゆくための核になると思います。

学生との間でも、与え過ぎないとか、変えようとしないとか、いろいろ特性を持っているので自分で自分を育てる能力を育てたいと思います。  本人から答えなり方向性を見出してもらう事を考えています。

悪いところを直さなければというような、自分にあるネアガティブな反省会モードに気付いてそれを変えてみて、出来たところに注目して丸のところをたくさん見るとか、変えてゆくと楽になるかなあと思います。

時には子どもの前で泣くのもいいと思います、泣いた後にこういうことがあってつらくて泣いたというように、子供に説明してあげることもとっても大事だと思います。