2019年11月26日火曜日

早川基(JAXA プロジェクトマネージャ)・人生は水星探査とともに 

早川基(JAXAべピコロンボプロジェクトマネージャ)・人生は水星探査とともに
今日本とヨーロッパの2機の探査機が太陽に最も近い惑星 水星に向かっています。
水星は太陽に近く大変厳しい灼熱環境にあり、また太陽の強大な重力の影響を受けるので探査機を送ることが非常に難しい惑星です。
太陽系惑星の探査は数多く行われていますが、水星の探査は過去2回しか行われていませんでした。
この探査計画はべピコロンボプロジェクトといい、水星を多角的的総合的に観測しようと日本のJAXA宇宙航空研究開発機構と、ヨーロッパのISA欧州宇宙機関が共同で進めていて、日本側のリーダーがプロジェクトマネージャーの早川基さん(63歳)です。
早川さんは20年以上プロジェクトにかかわってきました。

紆余曲折がありましたが、昨年の10月20日に上がって順調に進んでいます。
出て行って12月ぐらいに一度地球の軌道よりも内側に入って、そのあと又来年の4月に地球に戻ってきて、フライバイをして速度をおそくして金星に向かいます。
(フライバイ:惑星間飛行を行う宇宙機が,目標の惑星に衝突したり,その惑星の衛星になったりすることなく,接近してその近傍を通過する飛行のこと。また惑星の近傍を通過するとき,その惑星の重力や運動量 (その惑星の公転運動量など) を利用し,宇宙機の速度や方向を変えることができ,その後は特定の方向に向って飛行を続行する。燃料を消費せずに軌道変更と加速ができるこのような飛行方式)
来年の10月に金星で同様に速度を遅くしてというのを繰り返して、最後は水星に向かいます。
フライバイは地球で一回、金星で二回、水星で六回行います。
水星は太陽の一番近い所を回っています。
見える時間が少ないので地上からの観測ではなかなかよくわからない。
大気が凄く厚い層で大気が揺らいでいるので望遠鏡では綺麗な像が撮れない。
人工衛星を持ってゆくしかないがそれがまた大変です。

水星は半径が2400kmです。
公転が楕円に近く、太陽との距離が5割ぐらい違い、公転の周期が88日ぐらいで、自転が57日ちょっとで3対2になっていて、不思議な現象があります。
一日が2年に相当します。
大気がなくて昼間は太陽に照らされて熱くなり、夜になると冷えてしまって(マイナス170度ぐらい)昼と夜の差が600度ぐらいあります。
火星は昔磁場があったが今はない。
金星も磁場がありません。
惑星が磁場を持つためには中心が流体になっていてそれが対流、動いていないといけない。
水星は中まで固まっているが、水星自身が固有の磁場を持っていないと変だというデータが出てきて、惑星そのものに興味を持っている人には、周回衛星を打ち上げたいという思いがありました。
べピ・コロンボ(ジュゼッペ(ベピ)・コロンボ)はイタリアの数学者、天体物理学者の名前です。(ベピはジュゼッペの愛称)
水星の自転と公転が2対3に同期をしているという事を数学的に示した方です。

欧州では1990年代に計画をしていて、日本では1997年に計画が始まりました。
1999年にISAのほうから一緒にやりませんかと声がかかりました。
日本では宇宙開発委員会に提出して認められました。
計画開始から打ちあがるまでは一番長いプロジェクトだと思います。
アメリカはメッセンジャーで一番乗りを目指しました。
実際のものを作り出すと想像以上にハードルが高くて、技術開発がいろんな面でトラブって、遅れていきました。
メッセンジャーが行って疑問をすべて解いてしまうのではないかと思いましたが、難問を一杯残してくれました。
①磁場の中心が惑星の中心にはなくて北にずれていてずれ方が非常に大きくて、どうしてそんなにずれているのかわからない。
②表面の鉱物組成を観測したがボラタイルという蒸発しやすい物質が多かった。
普通に考えたら蒸発してしまっているものと考えられるが、今の位置で水星が最初にできたとしたら、そういうものが残っていられるだろうかという疑問があります。
火星の位置で水星ができて、大きな惑星の摂動で今に位置に動いてきたのではないか、という説も出てきています。

見た目には月とよく似ていますが、水星と月の鉱物組成は全然違っています。
水星を知ろうと思ったら水星に行くしかないわけです。
MPO水星探査機は水星の表面御組成、地形などを調べて水星がどういう風にできて進化してきたのかを目的にしています。
MIO(JAXA)は水星が持っている固有地場によって太陽からのプラズマの相互作用をするのでそれによっておこる物理現象を調べます。
水星を調べることで地球のこともより分かってくる。
私は1996年の立上げ時期からプロジェクトに入っています。
初代のプロジェクトマネージャーは京都大学に転出してお前やれという事になりました。
マネージメントはしたことがなかったのでやりたくなかったが、引き受けることになりました。
太陽電池の開発には凄く苦労しました、5年ぐらいかかってしまいました。

子どもの頃は星を見るのが好きで神話とか伝説が好きでした。
望遠鏡は20cmの反射望遠鏡を中学の時に購入し土星を見て感動しました。
中学、高校はスポーツをやっていました。
理系に興味を持っていて、文化系に行こうとは全く思っていませんでした。
大学では1年の秋には地球物理の方に進みました。
プロジェクトするうえでは基本的には人の話を聞くというのを大事にしています。
いろんなかかわってくれる人たちが、自分のやりたいことをできるようにしています。
若い人たちに一番言っているのは自分の体が第一だと、絶対無理はするなと言っています。

健康維持に私は歩くことをやっています。(往復7km)
3歳ぐらいから15km歩くことをやっていたので歩くことは苦にならないです。
水星を調べることで太陽系がどうやってできてきたのか、宇宙の惑星系がどうできてきたかという事につながってきて、我々はどこからきてどこへ行くのかという、天文も似たようなところになりますが、そういうところの一部という風に思っていただけるといいなあと思いあす。
2026年ぐらいからいろんなデータが出ると思いますので判っていなかったことが判って来るように期待しています。
分離後15mの細いアンテナ4本、マストと呼ばれるもので5m2本を素早く伸展しなければいけなくて、流せる情報量が非常に少ない状態でやらなければいけなくて、一番危険な作業でいかに安全にするかという事を必死になってやっています。








2019年11月25日月曜日

11/26,27,28は休みます。

11/26,27,28は小旅行のために休みます。
後日,投稿する予定ですが、ちょっと時間が掛かるかもしれません。
秋田

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症
不眠症についての絶望名言
「夜は生きているのが最もつらい時間で午前4時は私の秘密をすべて知っているの。」
ポピー・Z・ブライト(Poppy Z. Brite )

不眠症に対して6人を紹介。
難病になり13年間闘病している時には眠れない夜が多かったです。
ラジオ深夜便をイヤホーンで聞いていました。
ポピー・Z・ブライトはアメリカの作家です。
夜暗くしていると打ち明けてしまう事があるかもしれないし、自分自身で思いめぐらすこともあると思います。
午前4時台までは眠れないという様な人もいます、4時ごろは夜と朝の境目なのかもしれない。
夜は生きることについて考えてしまう事が多いと思います。
夜眠れない人は人生の半分は実は闇の中にあるという事をいやおうなしに感じるわけです。

「今日はひどい不眠の夜でした。 何度も寝返りを打ちながらやっと最後の2時間になって無理やり眠りに入りましたが、夢はとても夢とは言えず、眠りはなおさら眠りとは言えないありさまでした。」 フランツ・カフカ
不眠症の3つの特徴をよく表している。
①なかなか寝付けない。
②眠りが浅い。
③睡眠時間が少ない。
ぐっすり眠りたいという人は多いですね。
人間も昔はぐっすり眠るという事は危険だったと思います。
ぐっすり眠れる環境が整ってきたのは人類の歴史の中では割と最近のことだと思います。
理想の睡眠を求めすぎているところがあるのかもしれない。

「私は小学3,4年のころから不眠症にかかって、夜の二時になっても三時になっても眠れないで夜寝床の中で泣いた。・・・さまざまな眠る方法を聞いたがあまり効き目がなかったようである。
私は苦労性でいろいろなことをほじくり返して気にするものだから尚のこと眠れなかったのであろう。」 太宰治 思い出 晩年から引用

「安らかな深い眠りに恵まれる夜は年のうちに幾日もなく、不眠症や睡眠不足も40年の習わしではむしろそれが常とありまして、まともに寝入りそうな夜はかえってなにか不安を感じます。 川端康成 時雨(49歳の時の作品)
9歳の頃から不眠症という事です。

「たちまちのうちにまた不眠の夜のラッパが鳴り響くのです。」 フランツ・カフカ

「どうにもならぬことを考えていて夜が深まる。 どうにもならぬことを考えていて夜が深まる。」 住宅顕信(すみたくけんしん)
これは自由律俳句です。
夜眠れなくなるのはいろいろ思い悩んでという事が一番多いのではないか。

「人一日一夜をふるにだに。人一日一夜をふるにだに。八億四千の思いあり。」
能の求 塚(もとめづか)(観阿弥の作)より
八億四千の思いがあったらとても眠れない。

「ふと夜中に自分ではどうしようもないものについての不安で、目を開けている。」
山田太一
AにするかBにするか、選択するどうにかなる事でも悩むし、どうしようもないものについても悩む。

住宅顕信は22歳で病気になって妻とも離婚して、生まれたばかりの子どもを病室で育てながら闘病していたが、そういう中で俳句を作り始める。
281の句を残して25歳で亡くなる。
「若さとはこんな寂しい春なのか」 住宅顕信

「あなたは夜眠る、私は眠れない。 あなたの寝姿を見ていると悩ましい。
あなたの閉じた口、寝そべった大きな身体、変な形。
でも見ていると泣けてくる。 それからだしぬけにあなたは笑い出す。
眠っているのにゲラゲラ笑う。 その時あなたはどこにいるの。
本当にどこへ出かけたの。 もしかしたらほかの女と遠い遠いほかの国でその女と私のことを嗤っているの。」  ジャック・プレヴェール 「眠れないとき」
シャンソンの『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』もこの人の作品です。

「ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす」 笹井 宏之 
短歌 「あなた」
眠らないで大切な人を見守る、という事です。
「風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける」 笹井 宏之 短歌
15歳から難病で寝たきりで、26歳で亡くなっている。
そんな境遇の中で透明感のある軽やかなイメージの短歌が書けるということはすごいと思います。

「夜になるとさけは川を出て街にやってくる。 フォスターレートとか、A&Wとかスマイリーレストランといった場所には近寄らないように注意はするが、でもライトアベニューの集合住宅のあたりまでにやってくるので、時々夜明け前なんかには彼らがドアノブを回したりケーブルTVの線にドスンとぶつかったりするのが聞こえる。
僕らは眠らずに連中を待ち受け、裏の窓を開けっぱなしにして、水の跳ね音が聞こえると呼んでみたりするのだが、やがてつまらない朝がやってくるのだ。」
 レイモンド・カーヴァー
「夜になるとさけは川を出て街にやってくる。」と夜に空想を楽しむ、これも豊かな生き方だと思います。
「やがてつまらない朝がやってくるのだ。」
空想は無駄なものではないと思います。

カフカは夜には二つあると言っている。
「僕の夜は二つあります。 目覚めている夜と眠れない夜です。」 フランツ・カフカ

*取り上げた文章、短歌などの文字が違っているかもしれません。























加藤澤男(元筑波大学教授 体操)     ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(初回2018/10/14)

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
(初回2018/10/14)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/10/blog-post_14.htmlを御覧ください。

2019年11月23日土曜日

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】
為末さんは1978年広島市生まれ、41歳。
オリンピックは2000年にシドニー、アテネ、北京と出場し、世界陸上選手権では2001年、エドモントン大会、2005年ヘルシンキ大会2大会で銅メダルを獲得しました。
2012年現役を引退、以後はスポーツとテクノロジーに関するプロジェクトを行う企業の代表やスポーツを通じた国際交流など幅広く活動しています。
為末さんは現役時代から何をどのタイミングで食べるか、など食とスポーツの関係に関心を持ち実践してきました。
一方スポーツ選手の中でも読書家と知られる為末さんには多くの著書がありますが、このほど絵本を出版されました。
トップアスリート為末さんの食に対する考察とご自身の舌の記憶、出版したばかりの絵本について伺います。

絵本「生き抜くチカラ」 僕は言葉で絵は松岡さんが担当しました。
絵本のコンセプトは大人も判る本当のこと、本気のことを子どもにも伝わるようにという事でやっています。
僕にも5歳の子がいて、生きていく中でこれは知ったり考えた方がいいのではないかという事を伝える方法はないかなと思ったのですが、絵本という形で作れないかと思ったのがきっかけです。
言葉の中には「せっかくここまでやったんだからには要注意」、このまま行っても上手くいかないんじゃないかと思う時でも「せっかくここまでやったんだから」と変わられないでいることもあると思う。
これから続けるにしても今までやってきたから続けるのではなくて、今日が新しい一日で、今までやってきたことが全部なかったにしても、昨日やったことを今日もやりたいのか、という事を毎日自分に質問するのが、大事なんだと思うようになったことがきっかけになりました。

100mではスランプもあり世界ではとても差があり無理だと思って、400mハードルならば行けるのではないかと思いました。
難しい競技だと思ってしっかり技術を磨けば行けるのでは、と直感的に思いました。
オリンピックに初めて出たのが22歳で、この道を行ってよかったんだと思うようになりました。
自分がこれを続けるという事は、選べなかったもう一つの人生があるんだという事を頭の中で考えてみることも必要だと思います。

「人からの評価に自分が乗っ取られては駄目だ。」
18,9までは陸上競技を好きでやっていると思たのですが、オリンピックに出たのが22歳、初めてメダルを取ったのが23歳ですが、応援する人の数が急に増えました。
みんなの期待に応えなければと思うようになり、自分がやりたいのか、人の期待に応えたいのかというのが混じってきてしまいました。
勝たなければいけないという思いが強くなり、自分の心が苦しくなる時期があり、父親からシンプルに「やりたいようにやれ」と言われ、心が楽になったという事があります。
深刻に考えるか楽観的に考えるか、見方を転換してくれるようなことも大事です。
父親は食道がんで余命半年といわれていて、最後の頃は「やりたいようにやれ」としかいいませんでした。
会社を辞めてプロになったのも、それが一つのきっかけでした。
本が好きで、自分の人生にとってもとても大きかったです。
本が多かった家で父親が読み聞かせをしてくれて、小学校の頃には本が好きになっていました。
自分の子どもにも一日5冊ぐらい読み聞かせをしています。
子どもも言葉が好きになると思っています。

一番記憶の残っている食べ物は、2001年に世界陸上選手権エドモントン大会があり、予選、準決勝を抜けて全体の2,3番目で通過しました。
急にメダル候補になり、寿司を食べたかったが朝原さんから生ものは明日どうなるかわからないからという事で渋々うどんを食べました。
そしてメダルを取ることができました。
その風景を覚えています。
食べ物はバランスよく自分の頭でいろいろ選択する必要があると思います。
食べるべきというのは試合の前は炭水化物を少し多めに食べます、だからうどんは正解でした。
揚げ物、生ものは避けたりします。
自分の国の炭水化物をみんな食べたがります、パン、パスタ、お米、麺類など。
日本の選手は餅、お米が多いです。
心にとっていいもの、身体にとっていいものを混ざったちょうどいいものを食べます。

子どもの頃は好き嫌いがありましたが、中学生の頃本を読んで、嫌いなものも食べるようになりました。
大学では寮に入って、1週間に一回40人分を2人で作るという事があり、料理をするという事を体験しました。
それから料理はちょくちょくやるようになり、子どものお弁当を週4日毎日作るようになりました。
おにぎり3つ、ウインナーとか卵焼きとかおかず、野菜とか作ります。
現役時代もその後も食事で体重制限をするという事はなくて、自分の舌がご飯、魚、お吸い物など低カロリーのものが好きになったという事は大きいです。
2012年に現役を引退しましたが、体重はあまり変わっていないです。
一日1万1000歩ぐらい歩いています。
食べ物は普通に食べています。
現役の時には4回食べていて、量は今の3倍ぐらいは食べていたと思います。
或る人から「あなたはあなたの食べたもので出来ている」と言われたことがあり、現役の時にはそういった目線でとらえていました。
言葉も自分の発した言葉で自分が作らているようなところもあると思います。

アジアの選手たちの支援をやっていて、ブータン、ネパール、ラオス、スリランカ、カンボジアで今ちょっとずつ増えてきています。
現地に行っての指導と、年に一回日本に招いて共同合宿という事を2月にやっています。
各国の交流ができるのではないかと思ってやっています。
いつでも選手が出入りできるような常設の選手村みたいなものがあればいいと思っています。
仲間のコミュニティーができてきています。(スポーツ外交)
2020年はやりたいことが一つあって、三段跳びの織田 幹雄さんが大会後自宅を半分解放して世界中の跳躍選手を招いてお茶を飲んだりお酒を飲んだりして開いていたらしいですが、交流が生まれてその後世界にネットワークみたいな形で残って行ったという事で、こういうことに近いことが2020年にできないかと思っています。
只試合をしに来るだけではなくて、日本が縁結びになって世界にネットワークが残ればいいなと思っています。
祖母が被爆者で普段は話さなかったが、亡くなる前に原爆の話をしたり、平和とはどういう事だろうと思った時に、世界中で交流している状態、個人的に友達がいる状態というのは、戦争をするという選択がしにくくなる抑止力が働くと思うので、スポーツを通じて世界中に友達を作っておくことで多少なりとも平和、世界の安定に貢献できればいいなあと思っています。





















2019年11月22日金曜日

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健
高倉 健さんは1931年〈昭和6年〉福岡県中間市出身です。
昭和30年ニューフェースとして映画の世界に入り、任侠映画での存在感ある演技で生きづらさを感じている男性たちの心を捉えました。
その後は「幸せの黄色いハンカチ」など人情味あふれる役で女性たちのファン層をひろげました。
海外でも高く評価されています。
平成26年11月10日亡くなられました、83歳でした。
養女の小田貴月さんは17年間高倉健さんとともに暮らして最後を看取りました。
先月高倉健さんとの日々をつづった本「高倉健その愛」を出版されました。

亡くなる2年前に「僕のことを書いてね」と或る日脈絡もなく話しました。
病気もなくまだ元気の時でした。
「判りました」と返事をしました。
自身が出演したもののインタビュー記事などが丁寧に残っていました。
まず目を通すことから始めました。
ファンの皆様が何よりも増して大切なものだったと聞かされていたので、高倉の思いをファンの皆様にお伝えする機会を頂いたと思って丁寧に目を通す事から始めました。
高倉は写真を撮られるのが苦手な人でした。
時たま撮ってくれという様な時がありました。
2014年亡くなる年の元旦ですが、戦中戦後の人なので食事を残さないというのが第一希望でしたので、食べたい分量だけ出すようにしていましたが、残したことのない人がお雑煮を残したんです。
残すことが徐々に増えたんです。
仕事が決まっていましたので念のために検査をすすめたんですが、行かないといったんです。
自分の体調が悪くなって仕事に支障をきたすことを心配して泣いて頼んだら、泣いて頼まれるんだったら行ってやると言ったんです。
4月7日に検査入院したら、そのまま入院することになりました。

一旦よくなり仕事もしましたが、悪性リンパ腫という病気で、一旦は収まるが体調次第だという事でしたが、11月に入って急に家で測った数値が今までとは全く違って急遽入院しました。
最後の最後に担当医の人が来てくださって、「高倉さんはご自分で逝けます、大丈夫です、だからそばにいてあげてください」といって・・・お別れをさせてくださいと言って・・・。(泣きながら言葉を詰まらせる。)
次に決まっていた映画のことなどを話して、映画としてみたかったなあと思いました。
担当医の先生に映画のことの話をして、担当医の先生は映画のストーリーは全部ご存じでした。

女性誌の連載がありいろいろなところに行きましたが、香港のホテルで食事をしている高倉健さんをお見掛けしました。
パーテーションを挟んでデザートを頂いていたところに高倉健さんがわざわざきてくださって、「わざわざ気を使ってくれてありがとうございました。素敵なお仕事を続けてくださいね」とスタッフとともにいたところに来て、言って去っていきました。
担当の方からスタッフ全員に名刺をくださいました。
気を使っていただきどうしたらいいんだろうと思って、いろんな思いを手紙に書いて名刺の住所に送りまして、それから文通が始まりました。
私の知る限りどんな方のお手紙にもタイムラグはありますがお返事を出していました。
当時ドラマを撮っていたその感想を書いた雑誌と自身の著書を送ってくれました。
「僕は幸せになれていない」という風なことが読みとれました。
文通が1年ぐらい続きました。
イランに取材の時にお見送りしてくださって吃驚しました。
高倉さんは以前イランへ長期ロケで行ったことがあり、状況を知っているので非常に心配だったようです。
イランでいろんなドラマがありました。
ファクシミリ、電話などで心配してくれる連絡があり、その後一緒に暮らすという事になりました。

60代の後半、こちらはまだ若かったですが、気にはなりませんでした。
人間高倉健が何を求めているのか、という事を高倉が周波数を変えながらいろんな情報を出してくれることに対して必死についていった、戸惑いをおぼえつつ本当に役に立てるか立てないのか、そこしか考えていなかったです。
公のところには一切でかけてはいませんでした。
希望としてはお化粧はしないでほしいという事だけでした。
夏に日焼け止めをぬったんですが、ジーっとみられて「おかしい」と言われました。
17年間お化粧を買ったことがなかったです。
高倉は一輪挿しが好きでした、凄く感受性が豊かでした。
魚は駄目でした。
魚介類の匂いが駄目で、肉は好きでした。
アルコールは一切飲みませんでした。

自分の主演映画は自宅では見ませんが、デビュー作「電光空手打ち」1956年の映画を一緒に家で楽しんで見ていました。
寡黙なイメージがありますが、ロケ先でのいろんなことを家ではすべて話してくれました。
「ぽっぽや」平成10年公開映画 一緒に暮らしたころの最初の映画でした。
北海道の極寒の地でのロケで大変だったようです。
どんな役にも対応できるようにしておきたいというのが高倉健だったので、家でリラックスすることと、待っている間にいかに体調をキープし続けるかという事で、ストレッチ、木刀を振る、ウオーキング、声の鍛錬などをしていました。
ハリウッド映画に出演した時には発音に関してはトレーナーの方から物凄く教えられて、メモを取って英語の早口言葉をずーっと定期的にやっていました。
貿易商になりたくて大学に入って英語だけはという思いがあったようです。

興が乗ると好きな曲をかけて、日本舞踊を踊ったりしました。
「風雪ながれ旅」(歌 北島三郎)は大好きでした。
曲をかけて途中から一緒に歌い始めて、そのあとは踊っていました。
コメディー的なものも本人の中にはとってもあって、それを映画にできたら面白かったのになあと思いました。
本も好きで5000冊ぐらいありました。
CDも沢山、車の中で聞くことが好きでした。
本も出版していて、独特の感性で、少年の目を持った、どんな人に対してもまっすぐに向き合ったと感じています。
生き方の姿勢にも宗教者に通じるようなものを感じます。
看取った私としては、全力で寿命を全うした人、そして初めて小田 剛一(本名)に戻ったと思いました。







2019年11月21日木曜日

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて
東京浅草橋の洋食屋の御主人で今年82歳、16歳でカメラを手にしてから洋食屋の仕込みが始まる前の早朝に都内各地にでかけ、撮りためたネガは数万枚と言います。
下町の街角や庶民の日常を切り取った写真は、図らずも戦後復興、変わりゆく東京の記録となりました。
今年は8年間にわたって新聞に連載している写真をまとめた「東京懐かし写真帖」も出版しました。
秋山さんに時にフライパンをカメラに持ち替えて70年近く撮り続けた下町の情景暮らしの変遷を伺います。

3代続いている洋食屋です。
小学校のころから映像のことが好きで中学に入って、写真を好きだとアンケートに書いたら先生からよばれて、カメラの好きな先生の写真の手伝いをすることになりました。
高校に入ったが家庭の事情で父から3か月ぐらいで学校を辞めさせられてしまいました。
辞めるにあたって写真の引き延ばし機を購入することを条件にしました。
昭和28年にはカメラブームが始まり、出前の旦那衆がカメラを持つようになりました。
見よう見まねでできるようになってDPE屋さんへもっていくものを私が引き受けることになりました。
それが月に2000円ぐらいの収入になり月賦でカメラを買うことができました。(16歳)
自転車でカメラを持って写し回るようになりました。
活気のある魚河岸にはよく通いました。
左官屋、畳屋などの作業風景なども撮りました。
自転車で片道1時間半の浦安までも行きました。(漁村風景)
あさり、シジミ売りなども撮りました。
撮る時間は5分程度の短い時間でした。

日曜日もめちゃめちゃ忙しかったので写真は撮れませんでした。
当時は写真を撮るという事は道楽のように思われて、道楽息子と言われないように近所では写真は撮りませんでした。
昭和45年ぐらいから近所でもいろいろ変わってきましたが、それが撮れなくて残念でした。
いつでも撮れると思っていたが、大八車を作る作業なども撮れなかったです。
人物がどんどん変わっていきます。
これは撮っておかないと消えて行ってしまうという様なものを撮りました
30代にカメラを向けたこれは下町の人だと思われるのは60,70代の人たちでした。
下町の人のしぐさなども撮りました。
失礼のないように気を付けて撮りました。
背景をまず決めてこういう人が来たら撮ろうと決めて撮っていました。
5年越しで撮ったものもありました。(「浅草慕情」 評価されてうれしかったです。)

白黒のフィルムでずーっと撮ってきました。
記録に残そうという思いがあるので色はいらないと思っています。
今の60,70代の人たちを見ると生活に根差した「粋」というのが無くなってしまっています。
いかに取撮りこぼしの無いように撮れるかという、長くやっているとそれが一つの訓練でもあります。
自分自身に入り口から出口論という事があり、見つけたときが入り口で、もうちょっと先には出口がありこれだと撮りきれたのが出口で、10カット2分ぐらいで入り口から出口までを処理する訳です。
街のたたずまいが違ってしまっています、木造はもうほとんどないですから。
興味を持つような対象はないですね。
街が雑多だったのが、魅力的でしたが、今はきちんとしてしまっていて、モチーフが面白くなくなってきています。
外に撮りに行くことは殆ど亡くなりましたが、今写真教室を持っていて2か月に一回ぐらい表の撮影会があるので、そういう時に外に撮りに行きます。