大谷康子(バイオリニスト) ・生まれ変わってもバイオリニストに
今年デビュー44年を迎えました。
3歳でヴァイオリンを始めた大谷さん、東京芸術大学に進学後、プロとしての活動を始め国内外の多くのコンサートに臨んできました。
又東京シティー管弦楽団の首席コンサートマスターを経て、東京交響楽団のソロコンサートマスターに就任、在任期間は34年になりました。
3年前からはソリストとしての活動に専念、併せて音楽大学の教授や、TV番組の司会など多彩な活動を繰り広げています。
ヴァイオリンにかける情熱はどこから生まれているのか、そこにかける生き方とは、伺います。
このヴァイオリンは今から311年前1708年に作られた、ピエトロ・グァルネリと言うものです。
グァルネリと言うのはストラディバリウスとは双壁です。
このヴァイオリンの特徴は高い方の音は凄く艶やかな感じです。
低い方の音は豊かな非常に太い音です。
バイオリンが大好きで、ヴァイオリンさえあれば幸せと言う事と人に会うのが大好きです。
仙台で生まれましたが、お隣に東北大学の先生がいて、チェロをやっていて、母と一緒に発表会に連れて行ってもらいました。
その時のことは覚えていないですが、ヴァイオリンに反応してしまってあれを習いたいと言ってきかなかったと母が言っていました。(2歳8か月の事)
3歳で名古屋に引っ越して西崎信二先生に巡り合う事が出来ました。
西崎先生に出会えなかったら今の自分は無かったと思います。
創意工夫して子供にも判るように、とにかく熱心に教えて下さいました。
先生からは「努力に勝る天才なし」と小さいころから頭にたたみこまれました。
繰り返し繰り返し飽きないで根気よく続けることで、そのうちに出来て来ます。
そうすると嬉しいです、その時に本当に先生が褒めて下さったので、今では教える立場なので苦手な子でも進むように繰り返してできたら褒めるようにしています。
私は朝起きると先ずは直ぐにヴァイオリンに取り組むようにしていました。
ボーっとした状態でやると、そうすると実力が判るわけです。
東京芸術大学付属音楽高校を受験しようと思って、東京に行きました。
全国からライバルとしての多くの同じ年ごろの人が集まってきているわけです。
友達の演奏を聞くと言うのがとても勉強なりました。
先生の家に朝ついても4,5時頃になりました。
高校2年生の時に全国コンクールに出て1位になることができました。
周りはいい演奏だったと言いますが、弾いてはいるが、自分らしい表現ができていないような気がしました。
コンクールの前に「風と共にさりぬ」という映画を見に行ったんです。
観ている間に途中から自分がスカーレット・オハラになってしまって、その後ご飯もなかなか通らず辛くてそれが1カ月続きました。
やっとコンクールのことに頭が行くようになって、演奏したら優勝出来てみなさんから表現力の大きい演奏だったと言われました。
後になってそれは「風と共に去りぬ」で疑似恋愛をして、なりきって辛い思いをしたりしたから、その感情が演奏に影響したものと思いました。
表現に変わった瞬間だったと後で思いました。
テクニックだけでは音楽にならないと言う事が判るわけです。
東京芸術大学に進むことになりました。
友達、先輩の方々との交流もあり音楽の世界が広がりました。
プロとしての演奏会の仕事も頂きました。
2年生の時には学校の授業に支障がない程度に10~20回位行っていました。
音楽鑑賞教室の団体の中でコンサートマスターもやりましたがコンチェルトもやって、生徒が目を輝かせて聞いてくれて、嬉しかったです。
学校の先生方が子供たちに静かに聞きなさいとか、拍手の練習もしていて、それは判るが、抑えると子供たちは萎えてしまうので、感じる心も抑えちゃう事にもなると思って、自然にしておいてくれた方がいいと思いました。
その時にはまだ若くて言えなかったが、今はそうしています。
大町陽一郎先生の力添えもあってヨーロッパのあちこちに連れて行ってもらいました。
音楽は世界の共通語だと思います。
ヨーロッパでも認められて音楽で世界中の人達と仲良くなりたいと思いました。
東京シティーフィルで首席コンサートマスター持させていただいてその後東京交響楽団のソロコンサートマスターもさせてもらって、併せると34年間もコンサートマスターをさせていただきました。
コンサートマスターはリードをする時もあるが、素晴らしい指揮者の時にはあまり仕事はしません。(ほとんどが素晴らしい指揮者ですが)
指揮者に目がいかないでコンサートマスターばかり見ていて、コンサートマスターの身振りが大きいと怪しい指揮者だと思って頂いたても・・・。
音でキャッチボールをしているので、様子を見ながらやっています。
終盤に舞台から降りて客が見えないようなルートで1階の客席の一番後ろまで走ってアンコールで扉を開けてそこで弾いたりします。
舞台から遠いいと、聞こえずらい、見えにくい、近くだと微妙な音、指の動きまでも見えるので感動してもらうと音楽が好きになってくれると思うので、40年近くやっています。
本当にヴァイオリンに出会ってよかったと思います。
今が本当に音楽人生の青春だと思っています。
表現することが楽しくて楽しくてしょうがありません。
2019年5月3日金曜日
2019年5月2日木曜日
吉井澄雄(舞台照明家) ・照明家(あかりや)人生を語る
吉井澄雄(舞台照明家) ・照明家(あかりや)人生を語る
東京都出身86歳、劇団四季の創設時のメンバーの一人でもあります。
60年以上に渡り国内外1500の間、演劇、オペラ、コンサート、舞踊作品の照明デザインをして来ました。
舞台上で時間や季節を自在に操り、人間の感情をも表す光と影の魔術師です。
1997年に紫綬褒章、2003年に勲四等旭日小綬章を受章されています。
日本を代表する多くの演出家、俳優、舞台美術家、建築家の人達と仕事をしてきた吉井さんの軌跡は、そのまま戦後日本の演劇劇場史と通じています。
吉井さんにそのあかりや人生について伺います。
劇団四季の創設時の10人のメンバーの最期の一人になってしまった。
いまは老人ホームに入っています。
オペラに行ったり、会合に行ったりほとんど毎日外へ出ています。
旧制中学の時に演劇部に足を踏み込みました。
当時は学校では女性が居なかったので、隣りの女学校に借りに行って演劇をこなし、女形はやらずに済みました。
公演は普通は学内でやりましたが、早稲田の大隈講堂でもやりました。
或る時に劇で頭が真っ白になり、セリフがどこに行ったかわからないし、お客の顔は見えないし、僕は役者の才能はないと思いました。
劇団「方舟」というグループを作って、日本語を綺麗に話すと言うために和田精さん、(日本音響効果の草分け)のお宅に勉強に行こうと言う事で和田精さんの家に行きました。
その時には照明の仕事をやっていましたが、上手くいかなくてきちっと勉強したいと言ったらそれは遠山静雄さん(日本の照明のパイオニア)だと言う事でを紹介して貰いました。
そのグループ全員が照明の勉強の為に行きました。
遠山宅では「舞台照明」というテキストを基に、光学、物理学、電気工学、色彩心理学、劇場史などを学びました。最初は大勢いた仲間が一人減り、二人減り、最後まで残ったのは、僕だけでした。
当時主導権を持っていたのは大道具の係でした。
照明をコントロールする部屋が客席の後ろに来たのが1963年以降です。
操作はレバーが沢山並んでいて、あっちへ行ったりこっちて行ったりしてレバーを操作して、全体を動かす時にはモーターを使って一気に動かすと言う事をやっていました。
仕事の場としては日比谷公会堂が一番多かったです。
そこで思い出に残っているのがパリから7人ぐらいのダンサーが来た時の事が記憶にあります。
僕は照明器具の処に命綱を付けてまたがって、フォローしていました。
赤いバラの花を用意してカーテンコールの日に天井裏から落としたら、彼女は気が付いて上を向いて手を挙げてくれて、それが一生の思い出になりました。
僕の家は西武新宿線の中井駅近くにあったので、帰宅時、高田馬場駅で終電車を待つホームに並んでいると、いつも長身の青年が声をかけてくるんです。それが、同じ沿線の上井草に住んでいた浅利慶太さんでした。
数年してから劇団四季と言う劇団を作るから一緒にやらないかと声がかかりました。
浅利さんはアヌイ、ジロドゥなどのフランス演劇を教わっていたんです。
1953(昭和28)年の7月14日パリ祭の日、創立メンバー10人が集まって劇団四季を旗揚げしました。
ジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」で旗揚げ公演しました。
全員がただでやっていたので生活には困っていました。
餓えて生きていけないと思って、一時期、開局直後のテレビ局で働いていました。
映像感覚の勉強になりましたし、最新の調光装置はトランジスタの一種で、最新の照明の技術資料に触れることができました。
舞台に半導体を中心にした新しい照明設備が出来ればいいとずーっと思い描いていました。
料理番組などの照明をやっていると自分はなにをやっているんだろうとの思いはありました。
トランジスターを入れた調光装置を劇場に作ればコンパクトにできて、照明室を客席の後ろに持ってこれるし、女性でも操作できると思って、日本生命の大阪の本社にいって話して、それが取り入れられて日生劇場がオープンしました。
こけら落としは1963(昭和38)年でしたが、何より驚いたのが、開場1年半前頃から、次々と送られてくる演目ごとの舞台装置製作図面、模型舞台、材料見本、写真の数々です。
大変苦労しました。
自分たちの劇場やオペラについての知識や経験も、組織のあり方も、いかに貧困かということを思い知らされました。
上演されたオペラ「フィデリオ」と「フィガロの結婚」は古今未曾有の名演で、今も鮮やかに記憶されています。
照明家人生の大きな転機だったと思います。
日生劇場で一番印象に残っているのは越路吹雪さんとのリサイタルでしょうね。
僕の照明の原点は3つあって
①劇団四季 演劇の基本をそこで得た。
②ドイツオペラで音楽と光を結び付け得たこと。
③越路吹雪さんとのリサイタル 自分の照明の技法を作り上げることができた。
視覚的なもの、時間的な移り変わりを越路吹雪さんとのリサイタルの中で自分の照明の技法を作り上げることができた。
薔薇の花びらの色ごとに越路吹雪さんの衣裳に数秒ごとにあてて行ったりしました。
蜷川幸雄さんとの仕事も印象的でした。
浅利慶太さんとプッチーニの「蝶々夫人」をやったのが1975年だったと思います。
照明について私の方法について話(モノクロからカラーへそして明るく、最後の自決の時、白装束に白い布が引き抜かれて深紅になることで表現)をして、行いました。
舞台に出ている俳優さん、歌い手、踊り手、そう言う人達の演技、躍り、歌にまず寄り添う事。
演出家が思い描いている、視覚的な表現を実現すること。
演出家、作家が思い描いたであろうドラマの時間を照明が表現すること、この3つが照明の大事な役割だろうと思ってます。
東京都出身86歳、劇団四季の創設時のメンバーの一人でもあります。
60年以上に渡り国内外1500の間、演劇、オペラ、コンサート、舞踊作品の照明デザインをして来ました。
舞台上で時間や季節を自在に操り、人間の感情をも表す光と影の魔術師です。
1997年に紫綬褒章、2003年に勲四等旭日小綬章を受章されています。
日本を代表する多くの演出家、俳優、舞台美術家、建築家の人達と仕事をしてきた吉井さんの軌跡は、そのまま戦後日本の演劇劇場史と通じています。
吉井さんにそのあかりや人生について伺います。
劇団四季の創設時の10人のメンバーの最期の一人になってしまった。
いまは老人ホームに入っています。
オペラに行ったり、会合に行ったりほとんど毎日外へ出ています。
旧制中学の時に演劇部に足を踏み込みました。
当時は学校では女性が居なかったので、隣りの女学校に借りに行って演劇をこなし、女形はやらずに済みました。
公演は普通は学内でやりましたが、早稲田の大隈講堂でもやりました。
或る時に劇で頭が真っ白になり、セリフがどこに行ったかわからないし、お客の顔は見えないし、僕は役者の才能はないと思いました。
劇団「方舟」というグループを作って、日本語を綺麗に話すと言うために和田精さん、(日本音響効果の草分け)のお宅に勉強に行こうと言う事で和田精さんの家に行きました。
その時には照明の仕事をやっていましたが、上手くいかなくてきちっと勉強したいと言ったらそれは遠山静雄さん(日本の照明のパイオニア)だと言う事でを紹介して貰いました。
そのグループ全員が照明の勉強の為に行きました。
遠山宅では「舞台照明」というテキストを基に、光学、物理学、電気工学、色彩心理学、劇場史などを学びました。最初は大勢いた仲間が一人減り、二人減り、最後まで残ったのは、僕だけでした。
当時主導権を持っていたのは大道具の係でした。
照明をコントロールする部屋が客席の後ろに来たのが1963年以降です。
操作はレバーが沢山並んでいて、あっちへ行ったりこっちて行ったりしてレバーを操作して、全体を動かす時にはモーターを使って一気に動かすと言う事をやっていました。
仕事の場としては日比谷公会堂が一番多かったです。
そこで思い出に残っているのがパリから7人ぐらいのダンサーが来た時の事が記憶にあります。
僕は照明器具の処に命綱を付けてまたがって、フォローしていました。
赤いバラの花を用意してカーテンコールの日に天井裏から落としたら、彼女は気が付いて上を向いて手を挙げてくれて、それが一生の思い出になりました。
僕の家は西武新宿線の中井駅近くにあったので、帰宅時、高田馬場駅で終電車を待つホームに並んでいると、いつも長身の青年が声をかけてくるんです。それが、同じ沿線の上井草に住んでいた浅利慶太さんでした。
数年してから劇団四季と言う劇団を作るから一緒にやらないかと声がかかりました。
浅利さんはアヌイ、ジロドゥなどのフランス演劇を教わっていたんです。
1953(昭和28)年の7月14日パリ祭の日、創立メンバー10人が集まって劇団四季を旗揚げしました。
ジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」で旗揚げ公演しました。
全員がただでやっていたので生活には困っていました。
餓えて生きていけないと思って、一時期、開局直後のテレビ局で働いていました。
映像感覚の勉強になりましたし、最新の調光装置はトランジスタの一種で、最新の照明の技術資料に触れることができました。
舞台に半導体を中心にした新しい照明設備が出来ればいいとずーっと思い描いていました。
料理番組などの照明をやっていると自分はなにをやっているんだろうとの思いはありました。
トランジスターを入れた調光装置を劇場に作ればコンパクトにできて、照明室を客席の後ろに持ってこれるし、女性でも操作できると思って、日本生命の大阪の本社にいって話して、それが取り入れられて日生劇場がオープンしました。
こけら落としは1963(昭和38)年でしたが、何より驚いたのが、開場1年半前頃から、次々と送られてくる演目ごとの舞台装置製作図面、模型舞台、材料見本、写真の数々です。
大変苦労しました。
自分たちの劇場やオペラについての知識や経験も、組織のあり方も、いかに貧困かということを思い知らされました。
上演されたオペラ「フィデリオ」と「フィガロの結婚」は古今未曾有の名演で、今も鮮やかに記憶されています。
照明家人生の大きな転機だったと思います。
日生劇場で一番印象に残っているのは越路吹雪さんとのリサイタルでしょうね。
僕の照明の原点は3つあって
①劇団四季 演劇の基本をそこで得た。
②ドイツオペラで音楽と光を結び付け得たこと。
③越路吹雪さんとのリサイタル 自分の照明の技法を作り上げることができた。
視覚的なもの、時間的な移り変わりを越路吹雪さんとのリサイタルの中で自分の照明の技法を作り上げることができた。
薔薇の花びらの色ごとに越路吹雪さんの衣裳に数秒ごとにあてて行ったりしました。
蜷川幸雄さんとの仕事も印象的でした。
浅利慶太さんとプッチーニの「蝶々夫人」をやったのが1975年だったと思います。
照明について私の方法について話(モノクロからカラーへそして明るく、最後の自決の時、白装束に白い布が引き抜かれて深紅になることで表現)をして、行いました。
舞台に出ている俳優さん、歌い手、踊り手、そう言う人達の演技、躍り、歌にまず寄り添う事。
演出家が思い描いている、視覚的な表現を実現すること。
演出家、作家が思い描いたであろうドラマの時間を照明が表現すること、この3つが照明の大事な役割だろうと思ってます。
2019年5月1日水曜日
池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」後半
池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」後半
進行:村上里和
(内容を上手く伝えられていない所がいろいろあると思います)
池澤:石川さんとは動いた範囲、観たもの、観る姿勢などよく似ていると思いました。
石川:10代のころから池澤さんの著作に親しんで来ましたし、自分の考え方、世界への向き合い方が元々共感するものがあり、池澤さんから色んな事を学んだ部分があるので必然的に有るんじゃないかと思います。
池澤:写真家と冒険家とのくくりを貴方の中でどう重なってどう離れているのかお聞きしたい。
石川:冒険、探険が好きですが、冒険家になれないとつくづく思います。
本当の冒険家は肉を切らせて骨を切るではないですが、ずばずば切られて行ってそのまま突っ込んで行ってタッチといってできる人が冒険家になれると思う。
僕は切られると痛いので引き返してしまう。
冒険家になれないタイプだと思います。
池澤:七大陸最高峰登頂と言う事もあるし、南極点の旅にしても、いくつかの目的を立てて肉体的な力、知恵、トレーニングで達成するという事を重ねてそれはやっぱり冒険家ではないかと思いますが、それは脇に置いといて、写真はいい写真を撮ることが目的であるとそれが生きる姿勢と言うことですか。?
石川:旅と写真は分かちがたく結びついていると思っています。
高校生の時にインドに行ってからずーっと写真を撮ってきました。
登頂を証明するのは写真なんです。
カメラができる前は登頂した後にあそこにここに何が見えていてと言う事が登頂した証しでしたので、カメラが出来てからは撮るのが必然になりました。
ラインホルト・メスナーという偉大な登山家でも小さなカメラを持って行って写真を撮ってきました。
人がなかなか行けないような場所に行くのに、フィルムの中判カメラを持って行くのは僕以外には世界中を見渡しても居ません。
無理して持って行くので他の人が撮れない写真に必然的になります。
引き伸ばしても綺麗です。
デジカメは何枚でも取れますが、フィルムなので一本のフィルムで10枚しか撮れません。
2,3か月の旅では何十本も持っていかなければいけないので不自由ですが、それゆえ撮れる写真があるわけです。
池澤:今の探検家は天気などの情報も入るし、装備もよくなって今の冒険家、探検家はパロディーでしかないという皮肉なことを言う人がいるが、或る程度あたっていますよね。
石川:冒険家は成立しにくいことになっています。
知り合いに角幡 唯介さんがいますが、「空白の五マイル」と言ってこの川の5マイルの範囲だけは誰も言っていないから行くと言うようなニッチな世界になっていたり、全然見方を変えて見慣れた山だけれども装備を一切持たない、裸に近い状態で里山、裏山に入って行って、体験としては未知の体験ができる、そういったように冒険を突き詰めて行くしかなくなっているので、昔ながらの冒険は無くなってきていると思います。
8000mを越える山はどんなに科学技術が進歩してもきつくて、面白いです。
高い山から戻ってくると、身体の中身が生れ直しているような、細胞から変わって行くような感覚があり、それが面白くて僕はやっていると言うところがあります。
呼吸するのも、深く早く呼吸するとか、生きることの一挙一動に関して意識的になるので、明日行動するためにこれを食べ、明日行動するために寝るし、そういう生きることに対してアップデートされる感じがあって、2ヵ月半して帰ってくると自分の中が入れ替わったよう感じがして僕はそれが好きなんです。
村上:海外に旅に行って自分が日本人であると言う事を強く意識する時は?
池澤:うっかりすると日本人の代表になってしまう、そこには僕しかいないから。
昔アフリカに行ったとき、トヨタ、ニッサンだろういい国だねと言うから、そうでもないと言っていいかどうか、それなりの息苦しさを話しても彼等は判ってくれないだろうし、やっぱり行った先で見たりしたものについては、日本語で書いて日本に送りかえしてみんなに読んでもらうので、その限りでは何処まで行っても日本人であるし、それを辞めるつもりは全くない。
石川:ぼくが考えていることを話したいと思っているので、日本人はなんとかで、と言うようなことについては違和感がありあまり言えない。
国境を越える時には日本のパスポートを持っているので少しは意識します。
中東、アフガニスタンを廻った時には日本のパスポートを持っていることが色んな場所に行けるんだと思い羨ましがられました。
池澤:アメリカとメキシコもそうですが色んな形で境界線があり、国ごとに様々な問題があることを見るべきだし、意識すべきだし、考えるべきだと思います。
イラクの場合は戦争になってほとんどいけなくなってしまった。
スーダンも内戦がありいまは一番入れない。
ウガンダはイディ・アミン・ダダという非常に悪い大統領がいて、外国人が行ったはずが消えてしまい、あそこには行くなと言うことだったが、今はよくなっています。
ルワンダも大変な虐殺があったけれど、大人しくなって融和している。
僕の場合、政治も絡めた自分の中の世界地図はあります、行った処など特に気にしています。
石川:旅の効用は色んな人、風景が思い浮かんで人ごとのように思わない。
世界の見方が少しづつ変わっていきます。
池澤:どんな形でもいいから出てみなさいと言いたいです。
素人はちょっといい写真があると交換したりしているが、力量のある、行動力のある写真家の撮った写真は値打ちがある、写真でも力を入れてやってきているので専門家を尊敬しなさいといいたいです。
*「よみ人知らずの歌」 寺尾紗穂
石川:世界に一人で立っている事って大切なことだと思っています。
池澤:孤独と言うのはさびしいのではなくて一人で充足、満ち足りているんですよ。
石川:孤独を恐れてはいけない、孤独を恐れずに旅をして欲しいですね。
池澤:最初からより寄りかかってちゃいけない。
石川:5月からチベットに行ってカイラス山と言う昇ってはいけない神聖な山があって、周りが巡礼路になっていてそこに行ってみたいと思っています。
夏にK2に2回目ですが、行きたいたいと思っています。
危険な山ですが、頂上にはいけなったので、悔しいと言う思いがありどうしても行きたい気持ちがあります。
気合を入れ過ぎるといけないので、いつもの感じで行ける所まで行こうと思っています。
自分を変化させるために為に力を抜いてかないといけない、そういう気持ちで山に向かっています。
池澤:自然は人に対して無関心で、おまけをしてくれないし、応援もしてくれない、条件が悪くなってもそれは意地悪ではない、ただそこにあるだけ。
高い山は大変だと思います。
石川:日本の山は修験道から始まって、ピークに立つことはさほど意味が無くて、自分が生れ変わる様な感覚を得たりするのが修験道の在り方で合って、期せずして僕もそういう感覚を得られるようになったので、自分をゼロに戻すような感覚が好きで山に行っていると思います。
下山している時につぎの旅先の事を思い浮かんだりします。
池澤:羨ましい、いいなあと思います。
石川:一冊の良質な読書は旅をすることとほとんど同義だと思っていて、池澤さんほど世界と言う事自体を旅している人はいないのではないかと思います。
僕にとっては巨人のような人です。
池澤:一冊一冊がやはり旅ですね。
本当の旅に出る時には本、小説を持って行きません。
石川:新しい何かに向かって一歩踏み出すことはすべて旅の様なものじゃないかと思います。
池澤:自分の力量を知った上でそれよりも少し超えるぐらいの旅を設計して実行するぐらいの積極性は有ってもいいんじゃないかと思います。
体力が落ちて来たんですが、何かうろうろすると思っています。
石川:10代後半から旅をしてきて、自分の経験を分かち合うような試みに力を入れようと思います。
本からインスピレーションを受けて色んな旅に出かけましたが、自分の経験を分かち合うようにしていきたいと思います。
世界を知るにあたって旅をすることは有効だと思っています。
村上:世界を知ることがなぜ必要なのか?
池澤:それが生きることだから。
生きることの基本の構図は自分が立っていて目の前に世界があって、この二つが対峙している。
だからその世界に向かって働きかける一つが旅ですね。
石川:面白いです、単純に。
アンテナを張って色んな事を知って行くことは楽しいことだし、自分自身そうありたいと思っています。
進行:村上里和
(内容を上手く伝えられていない所がいろいろあると思います)
池澤:石川さんとは動いた範囲、観たもの、観る姿勢などよく似ていると思いました。
石川:10代のころから池澤さんの著作に親しんで来ましたし、自分の考え方、世界への向き合い方が元々共感するものがあり、池澤さんから色んな事を学んだ部分があるので必然的に有るんじゃないかと思います。
池澤:写真家と冒険家とのくくりを貴方の中でどう重なってどう離れているのかお聞きしたい。
石川:冒険、探険が好きですが、冒険家になれないとつくづく思います。
本当の冒険家は肉を切らせて骨を切るではないですが、ずばずば切られて行ってそのまま突っ込んで行ってタッチといってできる人が冒険家になれると思う。
僕は切られると痛いので引き返してしまう。
冒険家になれないタイプだと思います。
池澤:七大陸最高峰登頂と言う事もあるし、南極点の旅にしても、いくつかの目的を立てて肉体的な力、知恵、トレーニングで達成するという事を重ねてそれはやっぱり冒険家ではないかと思いますが、それは脇に置いといて、写真はいい写真を撮ることが目的であるとそれが生きる姿勢と言うことですか。?
石川:旅と写真は分かちがたく結びついていると思っています。
高校生の時にインドに行ってからずーっと写真を撮ってきました。
登頂を証明するのは写真なんです。
カメラができる前は登頂した後にあそこにここに何が見えていてと言う事が登頂した証しでしたので、カメラが出来てからは撮るのが必然になりました。
ラインホルト・メスナーという偉大な登山家でも小さなカメラを持って行って写真を撮ってきました。
人がなかなか行けないような場所に行くのに、フィルムの中判カメラを持って行くのは僕以外には世界中を見渡しても居ません。
無理して持って行くので他の人が撮れない写真に必然的になります。
引き伸ばしても綺麗です。
デジカメは何枚でも取れますが、フィルムなので一本のフィルムで10枚しか撮れません。
2,3か月の旅では何十本も持っていかなければいけないので不自由ですが、それゆえ撮れる写真があるわけです。
池澤:今の探検家は天気などの情報も入るし、装備もよくなって今の冒険家、探検家はパロディーでしかないという皮肉なことを言う人がいるが、或る程度あたっていますよね。
石川:冒険家は成立しにくいことになっています。
知り合いに角幡 唯介さんがいますが、「空白の五マイル」と言ってこの川の5マイルの範囲だけは誰も言っていないから行くと言うようなニッチな世界になっていたり、全然見方を変えて見慣れた山だけれども装備を一切持たない、裸に近い状態で里山、裏山に入って行って、体験としては未知の体験ができる、そういったように冒険を突き詰めて行くしかなくなっているので、昔ながらの冒険は無くなってきていると思います。
8000mを越える山はどんなに科学技術が進歩してもきつくて、面白いです。
高い山から戻ってくると、身体の中身が生れ直しているような、細胞から変わって行くような感覚があり、それが面白くて僕はやっていると言うところがあります。
呼吸するのも、深く早く呼吸するとか、生きることの一挙一動に関して意識的になるので、明日行動するためにこれを食べ、明日行動するために寝るし、そういう生きることに対してアップデートされる感じがあって、2ヵ月半して帰ってくると自分の中が入れ替わったよう感じがして僕はそれが好きなんです。
村上:海外に旅に行って自分が日本人であると言う事を強く意識する時は?
池澤:うっかりすると日本人の代表になってしまう、そこには僕しかいないから。
昔アフリカに行ったとき、トヨタ、ニッサンだろういい国だねと言うから、そうでもないと言っていいかどうか、それなりの息苦しさを話しても彼等は判ってくれないだろうし、やっぱり行った先で見たりしたものについては、日本語で書いて日本に送りかえしてみんなに読んでもらうので、その限りでは何処まで行っても日本人であるし、それを辞めるつもりは全くない。
石川:ぼくが考えていることを話したいと思っているので、日本人はなんとかで、と言うようなことについては違和感がありあまり言えない。
国境を越える時には日本のパスポートを持っているので少しは意識します。
中東、アフガニスタンを廻った時には日本のパスポートを持っていることが色んな場所に行けるんだと思い羨ましがられました。
池澤:アメリカとメキシコもそうですが色んな形で境界線があり、国ごとに様々な問題があることを見るべきだし、意識すべきだし、考えるべきだと思います。
イラクの場合は戦争になってほとんどいけなくなってしまった。
スーダンも内戦がありいまは一番入れない。
ウガンダはイディ・アミン・ダダという非常に悪い大統領がいて、外国人が行ったはずが消えてしまい、あそこには行くなと言うことだったが、今はよくなっています。
ルワンダも大変な虐殺があったけれど、大人しくなって融和している。
僕の場合、政治も絡めた自分の中の世界地図はあります、行った処など特に気にしています。
石川:旅の効用は色んな人、風景が思い浮かんで人ごとのように思わない。
世界の見方が少しづつ変わっていきます。
池澤:どんな形でもいいから出てみなさいと言いたいです。
素人はちょっといい写真があると交換したりしているが、力量のある、行動力のある写真家の撮った写真は値打ちがある、写真でも力を入れてやってきているので専門家を尊敬しなさいといいたいです。
*「よみ人知らずの歌」 寺尾紗穂
石川:世界に一人で立っている事って大切なことだと思っています。
池澤:孤独と言うのはさびしいのではなくて一人で充足、満ち足りているんですよ。
石川:孤独を恐れてはいけない、孤独を恐れずに旅をして欲しいですね。
池澤:最初からより寄りかかってちゃいけない。
石川:5月からチベットに行ってカイラス山と言う昇ってはいけない神聖な山があって、周りが巡礼路になっていてそこに行ってみたいと思っています。
夏にK2に2回目ですが、行きたいたいと思っています。
危険な山ですが、頂上にはいけなったので、悔しいと言う思いがありどうしても行きたい気持ちがあります。
気合を入れ過ぎるといけないので、いつもの感じで行ける所まで行こうと思っています。
自分を変化させるために為に力を抜いてかないといけない、そういう気持ちで山に向かっています。
池澤:自然は人に対して無関心で、おまけをしてくれないし、応援もしてくれない、条件が悪くなってもそれは意地悪ではない、ただそこにあるだけ。
高い山は大変だと思います。
石川:日本の山は修験道から始まって、ピークに立つことはさほど意味が無くて、自分が生れ変わる様な感覚を得たりするのが修験道の在り方で合って、期せずして僕もそういう感覚を得られるようになったので、自分をゼロに戻すような感覚が好きで山に行っていると思います。
下山している時につぎの旅先の事を思い浮かんだりします。
池澤:羨ましい、いいなあと思います。
石川:一冊の良質な読書は旅をすることとほとんど同義だと思っていて、池澤さんほど世界と言う事自体を旅している人はいないのではないかと思います。
僕にとっては巨人のような人です。
池澤:一冊一冊がやはり旅ですね。
本当の旅に出る時には本、小説を持って行きません。
石川:新しい何かに向かって一歩踏み出すことはすべて旅の様なものじゃないかと思います。
池澤:自分の力量を知った上でそれよりも少し超えるぐらいの旅を設計して実行するぐらいの積極性は有ってもいいんじゃないかと思います。
体力が落ちて来たんですが、何かうろうろすると思っています。
石川:10代後半から旅をしてきて、自分の経験を分かち合うような試みに力を入れようと思います。
本からインスピレーションを受けて色んな旅に出かけましたが、自分の経験を分かち合うようにしていきたいと思います。
世界を知るにあたって旅をすることは有効だと思っています。
村上:世界を知ることがなぜ必要なのか?
池澤:それが生きることだから。
生きることの基本の構図は自分が立っていて目の前に世界があって、この二つが対峙している。
だからその世界に向かって働きかける一つが旅ですね。
石川:面白いです、単純に。
アンテナを張って色んな事を知って行くことは楽しいことだし、自分自身そうありたいと思っています。
池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」前半
池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」前半
池澤さんは1945年北海道生まれ、73歳、ギリシャ、沖縄、フランスと住まいを移し現在は札幌に在住です。
1988年「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞以来、数々の文学賞を受賞、人と文明、人と自然をテーマに書き続けています。
最新のエッセー「科学するこころ」では日常の科学を文学的まなざしで、綴っています。
池澤さんは2007年から池澤夏樹 個人編集の世界文学全集全30巻、日本文学全集全30巻を刊行されてきました。
源氏物語の下巻が間もなく完成し完結となります。
写真家の石川直樹さんは1977年東京都生まれ、41歳。 23歳の時に北極から南極まで人力で踏破するプロジェクトに参加、翌年には世界7大陸の最高峰の登頂を当時最年少で達成します。
人類学、民俗学などに関心をもって辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら写真集、ノンフィクションの作品を発表しています。
今年3月には20年の歩みをまとめた写真集「この星の光の地図を写す」を出版したばかりです。
石川:17歳で旅を始めて後ろを振り返らずに突っ走ってきたので、20年振り返るのは大きな仕事で,今まで気付かないことに気付いたりとか、垂直方向、水平方向に色々旅をしてきたなあと改めて実感する機会になりました。
村上:池澤さんの「南の島のティオ」大好きで、石川さんの写真を見るとティオの世界がここにあると言うのを肌で感じました。
池澤:ミクロネシアが舞台で何遍も行きました。
石川さんの祖父、石川淳さんは尊敬する作家で一度だけ食事の会で御一緒した事があります。
旅は知らない土地を見る。そこの土地の人に会う、言葉を聞く、食べ物を食べている、それが一番手ごたえのある楽しい事で、生涯を旅に振った道楽ものです。
20歳案では旅には出なかったです。
20代の後半から或るきっかけでミクロネシアに行ってそこから始まりました。
もっぱら南の貧しい国に行きました。
日本と言う国とは相性が悪いと思っていて、居心地が悪くて、友達も少ないし、くすぶっていました。
この手があると、出て行けばいいんだと思いました。
その国の事を見て日本と比べる、どっちがいいとは思わない。
それを伝えると言うのがスタイルでした。
石川:旅人としては仙人みたいな人ですね、住んでみてじっくり見つめることはなかなかできることではないと思います。
池澤:発表するためにメモを取ると言う事はあまりしませんでした。
人の名前は覚えない、顔を覚えない、月日は覚えないが、エピソードは覚えているんです。
石川:知らない所へ行ってみたくて高校の時に学校には内緒でインドに行きました。
インドではぼられたり騙されたりしたのでネパールに落ちつこうと思って行き、またインドに戻ってくると言うのが1か月間の旅でした。(一人旅)
それ以来旅をしながら写真を撮って文章を書いてきました。
アラスカのマッキンリーに20歳の時に初めて登って、高山病にかかって眠いし足が前に出ないような状態で、何とかはいつくばるように頂上に立って、旅は水平方向に旅をすることだと思っていたのが、垂直方向に、宇宙に段々近づいて行くような旅ができるんだと思えたことが20歳の登山でした。
池澤:沖縄の海洋博で伝統航海術(星と波だけで判断)で来た舟があり、それを実現させて感心して、マウ・ピアイルックの技術に感銘を受けその航法を段々教えられた若者(ナイノア・トンプソン)がハワイからタヒチまで行き来するようになり、大きなプロジェクトが発足してしそれから広まりました。
石川:マウ・ピアイルックさんに弟子入りして一緒に航海した体験があって、水が無くなってしまって、ブルーシートに雨水を溜めて飲んだり大変な航海でした。
帰り方が無くてたまたまアメリカの船に出っ食わしてグワム経由で日本に帰ることができました。
色々むちゃくちゃな旅をしてその後ハワイに行って海の事を調べて行くうちに人類の移動のルートにすごく興味を持ち始めました。
その先に島があるかどうかわからないのに、島から島に人類が移動して行ったことに僕にとってはすごく不思議でした。
冒険心で島に行って戻ってきたと言う冒険心に惹かれてポリネシアの旅をしました。
池澤:不思議なのはハワイまで5000km在りその間に島はない、一つの社会がまるまる移住できた。
社会を作るのには女性も連れていかなければいけないし、社会が移動したわけで不思議です。
太っていなければ島から島には渡れなかった。
石川:「この星の光の地図を写す」写真によって自分が旅してきたところを編んでみようと思いました。
池澤:「美しい列島」の地図 南北をひっくり返してみる。
石川:反対にしることに依って色んな見方が見えてくると思います。
村上:旅をすることで大事にしていることとは?
池澤:特にこういうポリシーでと言うようなことはあまりないです。
行く先々が何か教えてくれるんじゃないかと思います。
石川:アボリジニの壁画(オーストラリア北部の辺境地域の先住民族アボリジニの岩壁画
1万5000年前から50年前のものまで幅広い年代に及ぶ絵画)などは印象的でした。
池澤:神話と結び付いている文化です。
石川:旅ではその都度偶然が起こるので偶然を受け入れています。
色んな出会いであっちに行ったりこっちに行ったりするわけで、それが生き方だと思っています。
池澤:ターニングポイントになった旅はギリシャで3年近く暮らして、日本には帰りたくなかった。
いろいろ事情があって帰ると決めて、宿をたったんで残ったのはケニアから日本に帰る切符と少しのお金とバックだけでした。
ナイル川を遡上しようと思いました。
舟の屋根に上って寝るのですが、素晴らしい星空でした、あれは至福のときでした。
石川:言葉になる前の叫びみたいなものを写真に撮りたいと思っていますが、言葉にしてしまうとこぼれ落ちてしまうと言うようなもどかしさがある。
池澤さんは写真とかメモに取っていますか?
池澤:写真も撮っています。
一連の写真を見て文章化してゆくことはよくします。
南極に行った時にはいっぱい写真を撮り、それは新聞連載でしたが執筆の時に使いました。
僕にとっては最終的には言葉です。
石川:自分が反応したら全部撮ると言うようにやっています。
エベレストを撮ると言うようなことではなくて、自分と山とのかかわりを撮る様なイメージです。
池澤さんは1945年北海道生まれ、73歳、ギリシャ、沖縄、フランスと住まいを移し現在は札幌に在住です。
1988年「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞以来、数々の文学賞を受賞、人と文明、人と自然をテーマに書き続けています。
最新のエッセー「科学するこころ」では日常の科学を文学的まなざしで、綴っています。
池澤さんは2007年から池澤夏樹 個人編集の世界文学全集全30巻、日本文学全集全30巻を刊行されてきました。
源氏物語の下巻が間もなく完成し完結となります。
写真家の石川直樹さんは1977年東京都生まれ、41歳。 23歳の時に北極から南極まで人力で踏破するプロジェクトに参加、翌年には世界7大陸の最高峰の登頂を当時最年少で達成します。
人類学、民俗学などに関心をもって辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら写真集、ノンフィクションの作品を発表しています。
今年3月には20年の歩みをまとめた写真集「この星の光の地図を写す」を出版したばかりです。
石川:17歳で旅を始めて後ろを振り返らずに突っ走ってきたので、20年振り返るのは大きな仕事で,今まで気付かないことに気付いたりとか、垂直方向、水平方向に色々旅をしてきたなあと改めて実感する機会になりました。
村上:池澤さんの「南の島のティオ」大好きで、石川さんの写真を見るとティオの世界がここにあると言うのを肌で感じました。
池澤:ミクロネシアが舞台で何遍も行きました。
石川さんの祖父、石川淳さんは尊敬する作家で一度だけ食事の会で御一緒した事があります。
旅は知らない土地を見る。そこの土地の人に会う、言葉を聞く、食べ物を食べている、それが一番手ごたえのある楽しい事で、生涯を旅に振った道楽ものです。
20歳案では旅には出なかったです。
20代の後半から或るきっかけでミクロネシアに行ってそこから始まりました。
もっぱら南の貧しい国に行きました。
日本と言う国とは相性が悪いと思っていて、居心地が悪くて、友達も少ないし、くすぶっていました。
この手があると、出て行けばいいんだと思いました。
その国の事を見て日本と比べる、どっちがいいとは思わない。
それを伝えると言うのがスタイルでした。
石川:旅人としては仙人みたいな人ですね、住んでみてじっくり見つめることはなかなかできることではないと思います。
池澤:発表するためにメモを取ると言う事はあまりしませんでした。
人の名前は覚えない、顔を覚えない、月日は覚えないが、エピソードは覚えているんです。
石川:知らない所へ行ってみたくて高校の時に学校には内緒でインドに行きました。
インドではぼられたり騙されたりしたのでネパールに落ちつこうと思って行き、またインドに戻ってくると言うのが1か月間の旅でした。(一人旅)
それ以来旅をしながら写真を撮って文章を書いてきました。
アラスカのマッキンリーに20歳の時に初めて登って、高山病にかかって眠いし足が前に出ないような状態で、何とかはいつくばるように頂上に立って、旅は水平方向に旅をすることだと思っていたのが、垂直方向に、宇宙に段々近づいて行くような旅ができるんだと思えたことが20歳の登山でした。
池澤:沖縄の海洋博で伝統航海術(星と波だけで判断)で来た舟があり、それを実現させて感心して、マウ・ピアイルックの技術に感銘を受けその航法を段々教えられた若者(ナイノア・トンプソン)がハワイからタヒチまで行き来するようになり、大きなプロジェクトが発足してしそれから広まりました。
石川:マウ・ピアイルックさんに弟子入りして一緒に航海した体験があって、水が無くなってしまって、ブルーシートに雨水を溜めて飲んだり大変な航海でした。
帰り方が無くてたまたまアメリカの船に出っ食わしてグワム経由で日本に帰ることができました。
色々むちゃくちゃな旅をしてその後ハワイに行って海の事を調べて行くうちに人類の移動のルートにすごく興味を持ち始めました。
その先に島があるかどうかわからないのに、島から島に人類が移動して行ったことに僕にとってはすごく不思議でした。
冒険心で島に行って戻ってきたと言う冒険心に惹かれてポリネシアの旅をしました。
池澤:不思議なのはハワイまで5000km在りその間に島はない、一つの社会がまるまる移住できた。
社会を作るのには女性も連れていかなければいけないし、社会が移動したわけで不思議です。
太っていなければ島から島には渡れなかった。
石川:「この星の光の地図を写す」写真によって自分が旅してきたところを編んでみようと思いました。
池澤:「美しい列島」の地図 南北をひっくり返してみる。
石川:反対にしることに依って色んな見方が見えてくると思います。
村上:旅をすることで大事にしていることとは?
池澤:特にこういうポリシーでと言うようなことはあまりないです。
行く先々が何か教えてくれるんじゃないかと思います。
石川:アボリジニの壁画(オーストラリア北部の辺境地域の先住民族アボリジニの岩壁画
1万5000年前から50年前のものまで幅広い年代に及ぶ絵画)などは印象的でした。
池澤:神話と結び付いている文化です。
石川:旅ではその都度偶然が起こるので偶然を受け入れています。
色んな出会いであっちに行ったりこっちに行ったりするわけで、それが生き方だと思っています。
池澤:ターニングポイントになった旅はギリシャで3年近く暮らして、日本には帰りたくなかった。
いろいろ事情があって帰ると決めて、宿をたったんで残ったのはケニアから日本に帰る切符と少しのお金とバックだけでした。
ナイル川を遡上しようと思いました。
舟の屋根に上って寝るのですが、素晴らしい星空でした、あれは至福のときでした。
石川:言葉になる前の叫びみたいなものを写真に撮りたいと思っていますが、言葉にしてしまうとこぼれ落ちてしまうと言うようなもどかしさがある。
池澤さんは写真とかメモに取っていますか?
池澤:写真も撮っています。
一連の写真を見て文章化してゆくことはよくします。
南極に行った時にはいっぱい写真を撮り、それは新聞連載でしたが執筆の時に使いました。
僕にとっては最終的には言葉です。
石川:自分が反応したら全部撮ると言うようにやっています。
エベレストを撮ると言うようなことではなくて、自分と山とのかかわりを撮る様なイメージです。
2019年4月30日火曜日
増島みどり(スポーツライター) ・「スポーツと"平成"」~後半~
増島みどり(スポーツライター) ・「スポーツと"平成"」~後半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
増島:「海を渡る・・・」と言うのは古い表現になってしまいました。
野茂投手のころはそういった感覚だったかもしれないが、今はそういった感覚はないです。
山本:今では学生のころからシーズンを選んで海外で暮らす事が当たり前になってきています。(スキーとか雪を求めて)
工藤:チームが何処の国にあろうが、同じ様なチーム、クラブの哲学を持って運営していくんだと言う事が、特にサッカーなどは多いのでは。
山本:使える者を使う、何処の出身だとかは関係が無い。
増島:若い人が向こうで存在を築いてしまっていて、日本に帰ってきてどうしようかなと言う形になってきている。
工藤:日本的な上下関係の在り方、人間関係、スポーツの位置づけのようなもの、そこが日常のレベルから、変わってくる流れになってきているのではないか。
山本:日本のスポーツは、あらかじめ決められた社会の仕組みがあり、そこに自分がピースとして入って行く格好になるが、海外では一人ひとりが自分の権利と能力を出す、それが受け入れられないなら別の処に行くと言う発想です。
或る意味実力勝負です。
最近のプロ野球でもそういう発想になってきている。
増島:指導ライセンスの存在、これは大きいと思います。
ライセンスも物凄く色々な段階があるようになりました。
山本:法人化をしてきてスポーツ各競技団体のガバナンスが問われるようになってきている。
情報も容易に行き来するようになった。
野球でセンターカメラでバッターの表情まで捕えられるようにカメラの性能も向上して、スター化が可能になる。
冬のスポーツは顔を覆っていて、カ-リングとフィギュアというスポーツはそうではないので,人気が上がってくる。
回線、昔は数がすくなくて、政治関係に関するものに主が行ってしまっていた。
回線が多くなるとスポーツなどで海外のゲームなども出されるようになってきている。
増島:ツールとスポーツの関係を抜きにしては考えれないと思います。
工藤:ネットの存在、情報の処理、スポーツの楽しみ方がかわってきたと思います。
山本:データの収集には随分時間がかかったが、今はなにもしないでぽっと出てきてしまう。
VTRは昔は大事なシーンを扱ったが今はプレーとプレーの間がリプレイされて、技術解説の時間が非常に増える。
同時に終わったプレイしか再生されないので過去に重心を置いた話になりがちです、スポーツの本来の醍醐味は未来へ向かう、放送そのものも変わってきていると思います。
TV、ネット、移動体通信の変化、スポーツを観る人の感覚が変わってきている。
増島:細分化、専門的になっている、その中心に居るのがファンの方ですね。
工藤:スポーツをビジネスとして成立するようになってきた。
平成の終わりごろにはネットのほうが巨大なお金を投資するようになってきたが、Jリーグが先駆的に動いてきた。
山本:スポーツを沢山の人が消費したがる、品質のいいものを欲しがるようになる、品質のいい選手、チーム同士の試合を観たいと思う。
サッカーで18もあると商品価値の低い試合などもあり、それが結果的にうまく統合されて大きな金とくっついてゆく、そういう流れにきているような気がします。
山本:ネットで見ている人間の方が多いと思います。
増島:若い人たちはネットで見ることが何ともないですね。
工藤:スポーツとお金の関係は或る種一線を引きながら存在していってスポーツの価値を高めるようなものがあったと思いますが、スポーツのよさを如何に守って行くのか、危惧するところもありますが。
山本:ドイツのカール・ディームと言う人がいますが、スポーツの価値はいったいなんなのかということですが、スポーツをやっている時に凄く楽しくて、結果に対して物凄く自分が打たれる、この二つがあるんだとこれを自分がしたいがためスポーツをやるんだと、それをお金の為にやるんだったら本来のスポーツの狙いと違うと言う事でアマチュアにこだわる訳です。
お金を貰ってスポーツをやる人達はそういうものを人に届ける、楽しかった事、勝った時の喜びを人に届けたいんだと、そのためには自分を常にそういう状況に置いておかないといけないので、そのためにはお金がいるんだという理窟だと思います。
プロとアマチュアとの境い目がすこしづつずれたり入り混じったのが平成だったと思います。
増島:スポーツの魅力は徹底したリアリティーだと思いますが。
AIがスポーツを変えると言った時にスポーツの何処を変えるのかと言うふうに考えるときはあります。
山本:ビッグデータを瞬時に計算しながらつぎの行動を予測するかとか、それを防ぐための策を授けるとかそういったことを要求していると思う。
勝負の判定にも当たり前のように要求してくる。
厳密性を要求する時代になってきている。
増島:ツールなど大変革がありました。
観る部分でも変わった時代だったと思います。
山本:平成の時代で話題になたのは不祥事の問題です、暴力的な指導、コンプライアンス、こういったことを令和の時代には過去のことにできるかどうか。
法令を整備するだけではだめだと思います。
社会の価値観がどういうふうにここの処に結実するのか、これが無いと令和の時代もやれやれと言う訳にはいかないと思います、
増島:組織の整理は必要だと思います。
インテグリティー(integrity 高潔、透明性、公正さ)、特にスポーツには求められると思います。
山本:この子は世界大会でも国内大会でも大したことはなかったが、物凄く幸せなスポーツ人生を今でも送っているよという子供をどんどん育てる指導者にもっともっと光を当てる時代が来なければいけないと思います。
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
増島:「海を渡る・・・」と言うのは古い表現になってしまいました。
野茂投手のころはそういった感覚だったかもしれないが、今はそういった感覚はないです。
山本:今では学生のころからシーズンを選んで海外で暮らす事が当たり前になってきています。(スキーとか雪を求めて)
工藤:チームが何処の国にあろうが、同じ様なチーム、クラブの哲学を持って運営していくんだと言う事が、特にサッカーなどは多いのでは。
山本:使える者を使う、何処の出身だとかは関係が無い。
増島:若い人が向こうで存在を築いてしまっていて、日本に帰ってきてどうしようかなと言う形になってきている。
工藤:日本的な上下関係の在り方、人間関係、スポーツの位置づけのようなもの、そこが日常のレベルから、変わってくる流れになってきているのではないか。
山本:日本のスポーツは、あらかじめ決められた社会の仕組みがあり、そこに自分がピースとして入って行く格好になるが、海外では一人ひとりが自分の権利と能力を出す、それが受け入れられないなら別の処に行くと言う発想です。
或る意味実力勝負です。
最近のプロ野球でもそういう発想になってきている。
増島:指導ライセンスの存在、これは大きいと思います。
ライセンスも物凄く色々な段階があるようになりました。
山本:法人化をしてきてスポーツ各競技団体のガバナンスが問われるようになってきている。
情報も容易に行き来するようになった。
野球でセンターカメラでバッターの表情まで捕えられるようにカメラの性能も向上して、スター化が可能になる。
冬のスポーツは顔を覆っていて、カ-リングとフィギュアというスポーツはそうではないので,人気が上がってくる。
回線、昔は数がすくなくて、政治関係に関するものに主が行ってしまっていた。
回線が多くなるとスポーツなどで海外のゲームなども出されるようになってきている。
増島:ツールとスポーツの関係を抜きにしては考えれないと思います。
工藤:ネットの存在、情報の処理、スポーツの楽しみ方がかわってきたと思います。
山本:データの収集には随分時間がかかったが、今はなにもしないでぽっと出てきてしまう。
VTRは昔は大事なシーンを扱ったが今はプレーとプレーの間がリプレイされて、技術解説の時間が非常に増える。
同時に終わったプレイしか再生されないので過去に重心を置いた話になりがちです、スポーツの本来の醍醐味は未来へ向かう、放送そのものも変わってきていると思います。
TV、ネット、移動体通信の変化、スポーツを観る人の感覚が変わってきている。
増島:細分化、専門的になっている、その中心に居るのがファンの方ですね。
工藤:スポーツをビジネスとして成立するようになってきた。
平成の終わりごろにはネットのほうが巨大なお金を投資するようになってきたが、Jリーグが先駆的に動いてきた。
山本:スポーツを沢山の人が消費したがる、品質のいいものを欲しがるようになる、品質のいい選手、チーム同士の試合を観たいと思う。
サッカーで18もあると商品価値の低い試合などもあり、それが結果的にうまく統合されて大きな金とくっついてゆく、そういう流れにきているような気がします。
山本:ネットで見ている人間の方が多いと思います。
増島:若い人たちはネットで見ることが何ともないですね。
工藤:スポーツとお金の関係は或る種一線を引きながら存在していってスポーツの価値を高めるようなものがあったと思いますが、スポーツのよさを如何に守って行くのか、危惧するところもありますが。
山本:ドイツのカール・ディームと言う人がいますが、スポーツの価値はいったいなんなのかということですが、スポーツをやっている時に凄く楽しくて、結果に対して物凄く自分が打たれる、この二つがあるんだとこれを自分がしたいがためスポーツをやるんだと、それをお金の為にやるんだったら本来のスポーツの狙いと違うと言う事でアマチュアにこだわる訳です。
お金を貰ってスポーツをやる人達はそういうものを人に届ける、楽しかった事、勝った時の喜びを人に届けたいんだと、そのためには自分を常にそういう状況に置いておかないといけないので、そのためにはお金がいるんだという理窟だと思います。
プロとアマチュアとの境い目がすこしづつずれたり入り混じったのが平成だったと思います。
増島:スポーツの魅力は徹底したリアリティーだと思いますが。
AIがスポーツを変えると言った時にスポーツの何処を変えるのかと言うふうに考えるときはあります。
山本:ビッグデータを瞬時に計算しながらつぎの行動を予測するかとか、それを防ぐための策を授けるとかそういったことを要求していると思う。
勝負の判定にも当たり前のように要求してくる。
厳密性を要求する時代になってきている。
増島:ツールなど大変革がありました。
観る部分でも変わった時代だったと思います。
山本:平成の時代で話題になたのは不祥事の問題です、暴力的な指導、コンプライアンス、こういったことを令和の時代には過去のことにできるかどうか。
法令を整備するだけではだめだと思います。
社会の価値観がどういうふうにここの処に結実するのか、これが無いと令和の時代もやれやれと言う訳にはいかないと思います、
増島:組織の整理は必要だと思います。
インテグリティー(integrity 高潔、透明性、公正さ)、特にスポーツには求められると思います。
山本:この子は世界大会でも国内大会でも大したことはなかったが、物凄く幸せなスポーツ人生を今でも送っているよという子供をどんどん育てる指導者にもっともっと光を当てる時代が来なければいけないと思います。
増島みどり(スポーツライター) ・「スポーツと"平成"」~前半~山本浩
増島みどり(スポーツライター) ・「スポーツと"平成"」~前半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
プロ野球では日本選手の大リーグ挑戦や史上初のストライキ、サッカーではJリーグの発足や2002年フィファワールドカップ日本開催、相撲ではモンゴル人を初めとする外国人の活躍、平成10年には長野で冬季オリンピックが開催されるなど平成の30年間では様々な出来事がありました。
増島:1993年にJリーグが立ちあがる。
それにより地域のスポーツであるという点、スポーツビジネスと言う言葉も定着した。
1998年に日本が初めてワールドカップに出場する。
6大会連続で出場している。
山本:スポーツには運動、体育が入っていたが、平成になって競技スポーツ、生涯スポーツ、やがて障害者スポーツとある意味でスポーツの広がりが非常に大きくなった。
工藤:昭和2年(1927年)がラジオのスポーツ中継、甲子園の実況が最初の放送です。
昭和の時代にスポーツの放送が始まって、野球と相撲が主役であり続けた。
平成元年が1989年で此の時に衛星放送が始まっています。
海外のスポーツの情報がわーっと入ってきました。
Jリーグはインパクトを感じました。
増島:今は天然芝で子供たちがやっている時代になりました。
山本:昭和の芝は入るべからずだった。
NHKが野球以外の放送を総合TVで夜のゴールデンタイムでやるなんていう時代が来るなんて誰も思っていなかった。
そこにサッカーの放送が来るなんて思ってもいなかった。
増島:ドーハの悲劇は全員が望んでいたものが、辛い形で思い知らされた年でもありました。
山本:1992年の春にアマチュアリーグが終わって、いよいよプロだと言う事で色々やりました。
息をつく暇なくサッカーが開催されました。
工藤:日本のスポーツは決着をつけるということでトーナメント制で、リーグ戦に基づいたスポーツ文化はあまり無かったと思います。
山本:一生懸命やって休むということを考えないでやるような、それが潔いと言うような感覚があり、疲労困憊の中でドーハに向かって行って勝ち目はなかった、と後から考えるとそう思うんですが。
増島:1993年は忘れられない年でした。
あの教訓は忘れてはいけないと思う。
工藤:地域とスポーツとのつながり、Jリーグがおおきな役割を果たしたし、インパクトを与えたと思います。
増島:当初三位一体と言う事を掲げて、地域、自治体、クラブ 3つが動くようにして行くことを浸透させていきました。
山本:指導者のライセンス制度が一番充実しているのはサッカーだと思います。
経営的な面で言うとJリーグは全クラブの放送権に対してコントロールする、商品関係もコントロールする、それはプロ野球とは違うところです。
当初クラブは10でしたが、どんどん増えて行きました。
増島:1998年に初めてワールドカップに出場して世界の舞台を経験して、その年にJクラブが潰れてしまいました。
サッカーの発展を考えた時に常に明暗がありそれを乗り越えてきた。
工藤:プロ野球を平成の時代を思い出してみると、平成になる前に南海がダイエーになり
阪急が無くなりオリックスになり、親会社の経営不振により別の新しいモデルが出来て来る。
広島、日本ハム、ソフトバンク、楽天などの様に地方のチームはお客さんを集めて地域と密着しながら新しいプロ野球の形を作って行く、これはJリーグのヒントが無ければ浮かばれなかったのかもしれない。
増島:お母さんが見られるように託児所が用意してあるとか、女子トイレも沢山出来てきて居るようになった。
工藤:プロ、アマも歩み寄ってきて障壁が無くなりつつはあるが、統一した組織でいろんなことを考えて行こうと言うことにはなってはいない。
暴力、根性主義の問題から抜け出すためにも平成と言う期間が必要だったのかもしれない。
昭和の積み残した課題から抜け出しつつある時代かなと感じます。
山本:昔は新聞にはスポーツ紙面は2ページだったが、今の新聞には4ページ、あるいは6ページとなってきている。
TVでもスポーツが多く取り上げられるようになったと思います。
昔はメインキャスターはスポーツの話はしなかったが、今はメインキャスターがスポーツの話をしてそれにスポーツコーナーの人が入ってくると言うような格好になっています。
工藤:オリンピックは最大の関心事だと思いますが、
増島:女子の種目の台頭だと思います。
1984年に女子のマラソンがスタートしています。
1992年の時には山下さんがメダルを取って、女子マラソンが一気に注目されました。
女子の競技が沢山増えて行きました。
山本:平成の時代のオリンピックはサポート体制が非常に充実して行く、色んな情報を取り込みながら積極的に前に出て行った。
オリンピックのメダルが社会に与える影響が非常に大きくなって行ってしまったことが要因に有ります。
メダルを取った選手がその後も色んなところに出て行って、これは昭和の時代には無かった。
メダルを取ることで社会がポジティブになると言う事を色んなところでしていった時代だと思います。
そこに企業が入ったりして、支援をする人が入ってその価値をもっと大事にしたい、或る意味プロ化ですよね、それが始まる。
実業団では半日仕事をしたり、あるいはほとんどしないで練習に時間を費やすと言う事が徐々に出てきて、サッカーから一般のスポーツにも広がっていったと思います。
増島:取材をしていて平成に入ってから世界を身近に感じないといけないと言う思いがありました。
海外に拠点を置いたりして、海外の試合でどうやって試合で力を発揮して行くかと言う事が平成に入って大きなテーマになりました。
昭和にはありませんでした。
山本:国立スポーツ科学センター、ナショナルトレーニングセンター、アンチドーピングの問題など攻める方守る方同時に始まった時代でもありました。
増島:マイナーな競技も拠点ができたことで合宿ができるようになり、バトミントンとか卓球、レスリングなど大きな支えになったと思います。
工藤:ジュニアの発掘にもなっていると思います。
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
プロ野球では日本選手の大リーグ挑戦や史上初のストライキ、サッカーではJリーグの発足や2002年フィファワールドカップ日本開催、相撲ではモンゴル人を初めとする外国人の活躍、平成10年には長野で冬季オリンピックが開催されるなど平成の30年間では様々な出来事がありました。
増島:1993年にJリーグが立ちあがる。
それにより地域のスポーツであるという点、スポーツビジネスと言う言葉も定着した。
1998年に日本が初めてワールドカップに出場する。
6大会連続で出場している。
山本:スポーツには運動、体育が入っていたが、平成になって競技スポーツ、生涯スポーツ、やがて障害者スポーツとある意味でスポーツの広がりが非常に大きくなった。
工藤:昭和2年(1927年)がラジオのスポーツ中継、甲子園の実況が最初の放送です。
昭和の時代にスポーツの放送が始まって、野球と相撲が主役であり続けた。
平成元年が1989年で此の時に衛星放送が始まっています。
海外のスポーツの情報がわーっと入ってきました。
Jリーグはインパクトを感じました。
増島:今は天然芝で子供たちがやっている時代になりました。
山本:昭和の芝は入るべからずだった。
NHKが野球以外の放送を総合TVで夜のゴールデンタイムでやるなんていう時代が来るなんて誰も思っていなかった。
そこにサッカーの放送が来るなんて思ってもいなかった。
増島:ドーハの悲劇は全員が望んでいたものが、辛い形で思い知らされた年でもありました。
山本:1992年の春にアマチュアリーグが終わって、いよいよプロだと言う事で色々やりました。
息をつく暇なくサッカーが開催されました。
工藤:日本のスポーツは決着をつけるということでトーナメント制で、リーグ戦に基づいたスポーツ文化はあまり無かったと思います。
山本:一生懸命やって休むということを考えないでやるような、それが潔いと言うような感覚があり、疲労困憊の中でドーハに向かって行って勝ち目はなかった、と後から考えるとそう思うんですが。
増島:1993年は忘れられない年でした。
あの教訓は忘れてはいけないと思う。
工藤:地域とスポーツとのつながり、Jリーグがおおきな役割を果たしたし、インパクトを与えたと思います。
増島:当初三位一体と言う事を掲げて、地域、自治体、クラブ 3つが動くようにして行くことを浸透させていきました。
山本:指導者のライセンス制度が一番充実しているのはサッカーだと思います。
経営的な面で言うとJリーグは全クラブの放送権に対してコントロールする、商品関係もコントロールする、それはプロ野球とは違うところです。
当初クラブは10でしたが、どんどん増えて行きました。
増島:1998年に初めてワールドカップに出場して世界の舞台を経験して、その年にJクラブが潰れてしまいました。
サッカーの発展を考えた時に常に明暗がありそれを乗り越えてきた。
工藤:プロ野球を平成の時代を思い出してみると、平成になる前に南海がダイエーになり
阪急が無くなりオリックスになり、親会社の経営不振により別の新しいモデルが出来て来る。
広島、日本ハム、ソフトバンク、楽天などの様に地方のチームはお客さんを集めて地域と密着しながら新しいプロ野球の形を作って行く、これはJリーグのヒントが無ければ浮かばれなかったのかもしれない。
増島:お母さんが見られるように託児所が用意してあるとか、女子トイレも沢山出来てきて居るようになった。
工藤:プロ、アマも歩み寄ってきて障壁が無くなりつつはあるが、統一した組織でいろんなことを考えて行こうと言うことにはなってはいない。
暴力、根性主義の問題から抜け出すためにも平成と言う期間が必要だったのかもしれない。
昭和の積み残した課題から抜け出しつつある時代かなと感じます。
山本:昔は新聞にはスポーツ紙面は2ページだったが、今の新聞には4ページ、あるいは6ページとなってきている。
TVでもスポーツが多く取り上げられるようになったと思います。
昔はメインキャスターはスポーツの話はしなかったが、今はメインキャスターがスポーツの話をしてそれにスポーツコーナーの人が入ってくると言うような格好になっています。
工藤:オリンピックは最大の関心事だと思いますが、
増島:女子の種目の台頭だと思います。
1984年に女子のマラソンがスタートしています。
1992年の時には山下さんがメダルを取って、女子マラソンが一気に注目されました。
女子の競技が沢山増えて行きました。
山本:平成の時代のオリンピックはサポート体制が非常に充実して行く、色んな情報を取り込みながら積極的に前に出て行った。
オリンピックのメダルが社会に与える影響が非常に大きくなって行ってしまったことが要因に有ります。
メダルを取った選手がその後も色んなところに出て行って、これは昭和の時代には無かった。
メダルを取ることで社会がポジティブになると言う事を色んなところでしていった時代だと思います。
そこに企業が入ったりして、支援をする人が入ってその価値をもっと大事にしたい、或る意味プロ化ですよね、それが始まる。
実業団では半日仕事をしたり、あるいはほとんどしないで練習に時間を費やすと言う事が徐々に出てきて、サッカーから一般のスポーツにも広がっていったと思います。
増島:取材をしていて平成に入ってから世界を身近に感じないといけないと言う思いがありました。
海外に拠点を置いたりして、海外の試合でどうやって試合で力を発揮して行くかと言う事が平成に入って大きなテーマになりました。
昭和にはありませんでした。
山本:国立スポーツ科学センター、ナショナルトレーニングセンター、アンチドーピングの問題など攻める方守る方同時に始まった時代でもありました。
増島:マイナーな競技も拠点ができたことで合宿ができるようになり、バトミントンとか卓球、レスリングなど大きな支えになったと思います。
工藤:ジュニアの発掘にもなっていると思います。
2019年4月29日月曜日
鈴木健二(元NHKアナウンサー) ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~
鈴木健二(元NHKアナウンサー) ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~
母の実家が新橋3丁目にあり鰻屋さんでした。
昔NHKではは出演者にはお弁当が出て、実家の鰻弁当を取っていて出前の手伝いもさせられていました。
たまたま東京に戻ってきたら、中学の友人と出会って、NHKの試験を受けにきたと言う事だった。
願書を貰って、NHKに来たが、どの職種を受けるのかと言われた。
競争率は高いが受ける人数が少ないと言う事でアナウンサーの部門を受けることにした。
原稿を読んでくれと言う事でそれを読んで、夕方に発表があり受かっていました。
次に写真を観て喋ってほしいと言う事で、それも又合格になりました。
次に東京大学で筆記にかんする試験があり、そこで又合格しました。
面接試験があり、以前に出前をした事があるといった話などして、次に人の名前が並べてあったが、一人も知りませんと言ったら、当時有名なアナウンサーの名前だったらしいです。
駄目だと思ったら、採用通知が来ました。
5月1日に熊本放送局に行くように言われました。
広島駅に着いた時にホームに降りて駅員から原爆が落ちた方向を聞いて、膝まづいて両手をついてその方向に頭を下げました。
戦争を体験し、あの凄惨な破壊行為に出会ったものでなければ判らない感覚です。
私は数え歳でいうことによって、戦争で亡くなっても故郷に戻れない人、戦没者追悼式であの塔の中にいる人と共通体験を持っているわけです。
80歳代は如何にして後90歳まで、100歳まで生きるか、男の年齢は75歳~80歳までは男の天下の険で、みんなここで死んでしまう。
中学、高校、大学のクラスの仲間ほとんど亡くなってしまって友達がみんな居なくなりました。
90歳代に入ったころに、あーっ、後10年足らず生きればいいと思ったら急に気が楽になりました。
昭和の番組では死、お葬式、お墓を扱う事はタブーでした。
今は平気でやっています、ここが違います。
最期に別れるのは自分です、だから生きている間に十分に生き甲斐を持って生きていかないといけないが、なかなかそうはいか無い。
*映画「南太平洋」から「魅惑の宵」
明窓上机で原稿を書いたことは一回も無い、5分とかちょっとの時間を利用して原稿を書いてきました。
原稿の98%は新幹線の中、飛行機の中、車の中、出張に行った先の夜、それが原稿を書く自分の時間です。
400字詰原稿用紙1枚を6分で書きます、続け字を編集者はよく読んでくれます。
「気配りのすすめ」 色々所作を言われてしまい、あんな本は出さなければよかったと思ったりします。
体で覚えようと時計は持っていません。
スマホ、パソコンも持っていなくて、年賀はがきも全部手書きです。
「家族と言うものは、目を見合わせてお互い常にいたわりあっていけるのが家族です、それが一番出来るのが食事で特に夕食の時間かもしれないのですが、今日本の家族の目は全部TVの方を向いています。
どうか食事の時間だけはTVを消して下さい。
私は放送局に勤めていますから、この原稿が活字になって出た時に、私は首になっているかもしれませんので有るったけの勇気を持ってこの原稿を書きます。
そうでないと日本の家族は会話を失って滅亡してしまうかもしれません。
組織と言うものは常に内側から崩れて行くものです。」
と書いて帰ってきたら、投書が机の上にガバッと有りました。
NHKからは一言のお咎めが無かったです。
現役時代からラジオ、TVは全然見ていません。
昭和58年 紅白の視聴率を上げたいので手伝だって欲しいと言う事で、私の出る秒数はたかが知れているので、その年に革命の紅白にしようとしました、次の年は都はるみさんが引退すると言う事で最期は必ず泣くと思って、ここに感動を持ってこようと思って、歌い終わって1分時間が余ったらもう一曲お願いがしますと言おうと思ったら52秒余りました。
アンコールと言おうと思ったら終了の音楽が出てしまった。
7秒遅かった、痛恨の思いでした。
母の実家が新橋3丁目にあり鰻屋さんでした。
昔NHKではは出演者にはお弁当が出て、実家の鰻弁当を取っていて出前の手伝いもさせられていました。
たまたま東京に戻ってきたら、中学の友人と出会って、NHKの試験を受けにきたと言う事だった。
願書を貰って、NHKに来たが、どの職種を受けるのかと言われた。
競争率は高いが受ける人数が少ないと言う事でアナウンサーの部門を受けることにした。
原稿を読んでくれと言う事でそれを読んで、夕方に発表があり受かっていました。
次に写真を観て喋ってほしいと言う事で、それも又合格になりました。
次に東京大学で筆記にかんする試験があり、そこで又合格しました。
面接試験があり、以前に出前をした事があるといった話などして、次に人の名前が並べてあったが、一人も知りませんと言ったら、当時有名なアナウンサーの名前だったらしいです。
駄目だと思ったら、採用通知が来ました。
5月1日に熊本放送局に行くように言われました。
広島駅に着いた時にホームに降りて駅員から原爆が落ちた方向を聞いて、膝まづいて両手をついてその方向に頭を下げました。
戦争を体験し、あの凄惨な破壊行為に出会ったものでなければ判らない感覚です。
私は数え歳でいうことによって、戦争で亡くなっても故郷に戻れない人、戦没者追悼式であの塔の中にいる人と共通体験を持っているわけです。
80歳代は如何にして後90歳まで、100歳まで生きるか、男の年齢は75歳~80歳までは男の天下の険で、みんなここで死んでしまう。
中学、高校、大学のクラスの仲間ほとんど亡くなってしまって友達がみんな居なくなりました。
90歳代に入ったころに、あーっ、後10年足らず生きればいいと思ったら急に気が楽になりました。
昭和の番組では死、お葬式、お墓を扱う事はタブーでした。
今は平気でやっています、ここが違います。
最期に別れるのは自分です、だから生きている間に十分に生き甲斐を持って生きていかないといけないが、なかなかそうはいか無い。
*映画「南太平洋」から「魅惑の宵」
明窓上机で原稿を書いたことは一回も無い、5分とかちょっとの時間を利用して原稿を書いてきました。
原稿の98%は新幹線の中、飛行機の中、車の中、出張に行った先の夜、それが原稿を書く自分の時間です。
400字詰原稿用紙1枚を6分で書きます、続け字を編集者はよく読んでくれます。
「気配りのすすめ」 色々所作を言われてしまい、あんな本は出さなければよかったと思ったりします。
体で覚えようと時計は持っていません。
スマホ、パソコンも持っていなくて、年賀はがきも全部手書きです。
「家族と言うものは、目を見合わせてお互い常にいたわりあっていけるのが家族です、それが一番出来るのが食事で特に夕食の時間かもしれないのですが、今日本の家族の目は全部TVの方を向いています。
どうか食事の時間だけはTVを消して下さい。
私は放送局に勤めていますから、この原稿が活字になって出た時に、私は首になっているかもしれませんので有るったけの勇気を持ってこの原稿を書きます。
そうでないと日本の家族は会話を失って滅亡してしまうかもしれません。
組織と言うものは常に内側から崩れて行くものです。」
と書いて帰ってきたら、投書が机の上にガバッと有りました。
NHKからは一言のお咎めが無かったです。
現役時代からラジオ、TVは全然見ていません。
昭和58年 紅白の視聴率を上げたいので手伝だって欲しいと言う事で、私の出る秒数はたかが知れているので、その年に革命の紅白にしようとしました、次の年は都はるみさんが引退すると言う事で最期は必ず泣くと思って、ここに感動を持ってこようと思って、歌い終わって1分時間が余ったらもう一曲お願いがしますと言おうと思ったら52秒余りました。
アンコールと言おうと思ったら終了の音楽が出てしまった。
7秒遅かった、痛恨の思いでした。
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