2018年8月31日金曜日

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~前編~

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~前編~
来年天皇陛下が退位され、平成が終わります。
残すところ8か月、今日と明日の二日間、その平成という時代を振り返ります。
対談するのは京都精華大学専任講師の政治学者白井聡さん、ノンフィクション作家で評論家の保阪正康さんです。
白井さんがこの春出版した「国体論 菊と星条旗」は、明治維新から現在に至るまでの日本の政治状況を国体という概念から、読み解き注目を集めました。
昭和14年生まれの保坂さんに対して、昭和52年生まれの白井さん、世代の異なる二人が平成はどんな時代だったのか、そしてポスト平成時代はどんな日本になるかを語りあいます。

白井:来年天皇陛下が退位され、平成が終わりますが、30年ぐらいがいったいどんな時代だったのかを語るにいい機会だと思います。
明治維新から150年の節目になり、近代の日本の歴史が何だったのか考えるいい機会ではないかと思います。
保阪:明治150年を分析する方法が色々あると思うが、軍事が中心の77年と、非軍事の73年が有ると思うが、アメリカを軸とした150年が有ると思う。
「起承転結」と見ると 明治が「起」で、大正が「承」で、昭和が「転」(クライマックス)で、平成が「結」と思うが。
白井:明治から150年ということで、途中で折り返し点が有ると思っていて、それが1945年8月15日であるわけですが、挫折が有ったわけで再出発の時点でもあった訳です。
戦前の77年間に関しては明快なイメージが有る、封建社会だった日本を急速に近代国家を建設してやっていった時代が明治としてあって、大正時代は大正デモクラシーといわれ自由主義化、民主主義化が幾分進んだ。
しかし、民主主義的な国家となると思いきや、昭和のファシズム時代を迎えてしまう。
戦後はどうなんだろうと思うと、1868年から1945年までで77年間、1945年から2018年までで73年となるが、戦後の時代を上手く区分を持ってこられるのか。
戦後はのっぺりした連続性で取られてしまいがちである。

保阪:日本人のある種の歴史観、現実と向き合う姿勢のあいまいさを全部含んでいる。
戦後という言葉自体が一つの元号と化すような形で使われている所に、明治大正昭和平成と私達はいうけれども、その戦後という意味づけして使う元号の骨格、国体というのが白井さんが言うところのアメリカだと思う。
白井さんの本を読んだ時に、戦後というのを元号として考えるとよくわかる本だと思いました。
白井:元号とは国内的にしか意味がない訳で、国内では戦後がずーっと続いているような感じがするが、世界の秩序はどうかと言うと冷戦構造が始まるぞいうところだった。
1990年前後に冷戦構造が崩壊してEUが出来、中国の国力が強くなってきてアジアの秩序も大きく変わろうとしている。
日本だけは戦後という時空を生きている。

保阪:冷戦が終わると言うのは戦争が終わったということで、戦争の概念が我々が言うのと冷戦というのと、我々が考えている戦争の概念は近代日本の概念で世界的に通用するものではないということも判りました。
のんびり続いているところに、緊張感の無さの連続性のもっている背景になにがあるかという所を突きつめてゆくと、答えがいいか悪いかは別にしてアメリカなんだよね。
その着眼点は凄く大事だと思います。
1945年戦争が終わって1952年4月28日まで、占領国の中心の国家でアメリカンデモクラシーというのが日本の国の一つの軸になっていた。
アメリカの占領下の中に組み込まれることによって安全、日常生活の保障があって、それは歴然たる事実です。
我々が学生の時に日米安保条約の時など、アメリカ帝国主義とかを実態を何一つ知らないでアメリカ帝国主義を論じている。
昭和21年から昭和27年まで札幌で過ごしたが、食べ物も無くノートも無い時に助けてくれたのアメリカなんですね。
父がアメリカ兵から道を尋ねられ教えてあげたら、僕たち子供にチョコレートを一杯くれたが、父はそれを取り上げて川に投げ捨てました。(鮮烈だった)
GHQが列車からチョコレートなどを投げてくれたり、長靴を送ってくれたり、給食はある、アメリカの恩義が一方であり、複雑なアメリカ観になっている。
頭ではアメリカ帝国主義と言いながら、実際はアメリカに対してかなりシンパシーを持っている。
アメリカは日本にとってどういう国と言われたら判らなかった。

白井:アイデンティティーをどうしたらいいのか躓き、それが今でも尾を引いているのではないか?
保阪:突きつめて行くと親アメリカなんですね。
白井:日本が元気だった頃、バブル経済の頃、日本の経済成長は永久に続くのではないかと感じがした時代を子供の頃の記憶として覚えています。
平成になり万年不況の時代となりおかしいと思ったが、段々見えてきたものがある。
とどのつまりは属国であるということは、ほとんどの日本人は意識していなくなったと思う。
所が冷戦構造が崩壊し、日本がアメリカに従属している姿勢は変わらない。
露骨な形で従属が見えてきた。(政治的な事)
沖縄においては残酷な形態をとってあらわれ、沖縄の人は爆発する。
経済レベルで見ると多国籍資本の横暴が、益々露骨に強くなって行く事態が進行したわけで、日本がどう対応対応してきたのかというと、グローバリゼーションに騙され続けてきたというか、本質を何にも考えないままに社会の内実をすかすかに荒廃させてしまったのが平成時代だと思う。
グローバリゼーションはアメリカ発のものであって、戦後日本の対米従属はただごとならぬ事だと思う。
政治力、軍事力の面で従属している。
魂の次元、価値観に入りこんでいるような、極めて異様な姿になっているというのが、最近強く感じるようになりました。

保阪:3つのキーワードで語る発想を直ぐします。昭和天皇、戦争、国民。
昭和天皇が神格化した天皇と人間天皇。
国民が臣民と市民
戦争が軍事と非軍事
これを組み合わせると昭和が語れる。
平成は天皇と政治と災害だと思う。
天皇は昭和天皇の戦争の精算を行うものと、象徴天皇。
政治は人と制度、55年体制の崩壊(平成5年頃)、平成の政治はそこから始まる。
小選挙区制が政治を日本の社会の根本を変えてきているのではないか、平成の政治に対しては可成り問題だと思う。
災害は天災と人災が有る。
阪神大震災、東日本大震災、熊本地震などが有る。
一方で東京電力の原発の問題もあった。
災害というものの影響が平成時代はまだ十分に現れてなくて、これから出てくるだろうと言う感じを持っています。
関東大震災の時には二つ兆候があって一つは虚無感が社会全体に広がってゆく、大正末期から昭和の初めにかけて都市文化の退廃化、昭和に入っての自殺ブーム、虚無感の延長だと思う。
平成の災害もそういうことが有るのではないか。
原発は人災である。(天災に摺りかえるような分離が出て来る所に何か誤魔化しが有るのではないかと思う。)

白井:平成がどういう時に始まったのかというと、1989年に代替わりが起きているが、ここが大きな転換点だったと思います。
東西対立の構造が終わった。
アメリカにとって日本はアジアで一番大事なパートナーであるということで、庇護しないといけないということで日本は凄く受益をしてきた。
基礎構造が崩れてしまった。
91年にはバブル経済が崩壊してゆく、右肩上がりの構造が崩れる。
日本人のナショナルアイデンティティーの核心は経済成長だと思う。(経済大国化)
90年当たりは曲がり角として凄く大きいと思う。
たまたまそういう時に昭和天皇が亡くなる。
失われた10年失われた20年ということになり、平成時代は丸ごと失われた時代だったという結論にならざるを得ない。
平成時代には虚無観みたいなものが漂っている。
戦後の日本のアメリカの属国性という事、それがソ連が崩壊して属国であることの合理性がなくなったにもかかわらず、むしろ益々属国になっているということが、社会全般を腐敗させている、虚無的にさせていることが有るのではないか。

保阪:こういったことの議論が世代を越えて広がってもいいと思う。
我々の時代は反米という意識を政治化していて、デモをしたりして反米の意志表示をしたが、我々の魂の価値観、精神構造の中に入りこんでこのことに気付くと言うことは、単に反米などというよりも遥かに越える深刻な問題が有ると思う。
我々古い世代がそれを言うと政治化する。
白井:或る意味アメリカナイゼーションして行くそれが正義なんだと言うふうに、覚悟を決めたのならアメリカンデモクラシーを真剣に追求して、全面的、社会的変革に行くかというとそうではない。
アメリカナイズされているようで、実は上手いことやり過ごしている、という奇妙なことをやっている。
こういうあり方は戦前の天皇制の延長線上にあるんだ、ということに仮説を立てるにいたった。
国体論、戦前の天皇中心の体制、敗戦で国体は日本の民主主義の限界を隠すものだった。
ファシズムの温床であるということで解体されたということになっているが、国体の存在感は無くなったが、僕が提示している仮説は国体は二度にわたって形成され、一回安定してそして崩壊にはいってしまう、ということを二度くり返しているという仮説を立ててる訳です。
明治の天皇中心の国作りで一等国へと躍進をする、大正で安定して、その後破滅へと向かってしまう。
戦後もアメリカを頂点に置いていると考えれば、アメリカの子分になることによって見事に復興して経済大国にまでなる。
ジャパン イズ NO1ということでアメリカ何するものぞ、ということで安定期になる。
平成時代に入って或る意味国体の崩壊期に入っていく、というビジョンを出しているが、歴史的存在としての自己を自覚してほしい、私たちはいったい今どこに立っているんだろうか、何を見ているんだろうかということです。

保阪:僕は78歳で講師として大学生と接して、昭和50年代生まれ、平成の人達と近現代史を語ってきたが、社会の中で歴史はどうやって咀嚼され、人はその歴史をどういうふうによすがとして、自己を確立してゆくのかという話で、生きた学問をする。
学生に昭和9年と思って天皇機関説に類する憲法の話をすると学生にいう訳ですが、
そういう授業は案外おもしろがります。
白井:どうしたら忘れずにいられるかというと、或る種何度も何度も思いだす作業が必要で、今起きている現実を過去に起こったことと二重写しにして重ね合わせて見て行くというある種の思考習慣が必要。
アメリカが細かいことを日本に指図してきているのかというと判らないが、アメリカの意志を日本で上手く演出できる人たちが、日本の中で上手い事実権を握っていると思う。。










































2018年8月30日木曜日

平野悠(ライブハウス経営)       ・ライブハウスは文化のるつぼ

平野悠(ライブハウス経営)                 ・ライブハウスは文化のるつぼ
74歳、ライブハウスのオーナーとして50年近く経営に携わってきました。
ライブハウスは音楽の生演奏を聴かせるお店ですが、いまではトーク専門のライブハウスも盛況です。
平野さんの活動はいまや全国2000軒以上といわれる全国のライブハウスの先駆けとなりその定着に大きな影響を与えました。
平野さんに波乱にとんだライブハウス人生を振り返っていただき、ライブハウスの醍醐味や社会に対する役割などをお聞きします。

東京、大阪に9つのライブハウスに携わっています、音楽系が4つ、トーク専門のライブハウスが5つです。
1995年7月にトークライブハウスを始めて作りました。
初めは僕の遊び場でした。
隠れ家的な店を作って自分の気になる人、呼んでみたい人、話してみたい人を呼んで話をお客さんにも聞いてもらいという発想でやりました。
最初数人程度で駄目だと思って、トーク内容を変えてマスコミに無視された人達を呼ぼうということで、佐川 一政(人肉を食った人)、奥崎謙三(20数年間刑務所に入って無茶苦茶ちゃな事をした人)を呼び始めたらお客さんがどんどん来るようになった。
トークハウスが成立し始めた。
質問タイムが最後にある。
新宿のヤクザを呼んだこともあり、質問が沢山出るとちゃんと答えていました。

23年経ち私のところだけでも5軒あり、東京でもかなりある。
最初は無視されたのが段々増えてきて、映画館、図書館、本屋などでもトークを始めた。
社会から抹殺された人から聞こうと言うことで、世界で初めてのことだった。
物議をかもしたのは奥崎謙三が出所の日に、うちでイベントをやると言うことだった。
『靖国 YASUKUNI』というドキュメンタリー映画が有り、ほとんどの映画館が右翼に襲われると言うことでやれなくてうちでやりました。
全国の右翼の親分衆に声を掛けて、映画を見ないのに反対はないだろうと思って、タダで見せるからと言って、上映会をやってその後討論会をやりました。
警察は必ず見に来ていました。(スリリングな情報の発生基地)
面白いので多くの客が集まってきました。
「噂の真相」に有料広告を出して色んな人がひっ掛かって来て色んな人が来るようになりました。(今はインターネットがあり便利になりました。)
誰でも受けて、楽しかったと言えるようなイベントをやるのが中心になってきました。
サブカルチャーであるとは思っています。
トークはマイクとプロジェクターさえあれば出来てしまう、安上がりです。
1000人のお客さんだとミュージシャンとお客さんと通じるところまではいかない様な気がするが、小さいライブハウスだと息吹が感じられて、一緒にものを作っているという感覚になれると思っています。

最初にジャズ喫茶をやりました。
職が無くアルバイトをしていたが、100枚近くのジャズのレコードをもっていて、これでジャズスナックをやろうと思いました。
お客さんがレコードを持ってきて話に花が咲くようになった。
店のPRは当時は大変だった。(一人ひとりに店のポリシーを説明した。)
ジャズ喫茶を始めたのが1971年で、その後生演奏ができる店を作りました。
ロックって面白いと思って、ハッピーエンドというバンドを生演奏を聴くには僕が作るしかないと思って店を作りました。
70年代前半は新しいミュージシャンが沢山出て来ました。
店は騒音で苦情が沢山来ました。
ロックが市民権を得てどんどん増えて行きました。
76年に新宿に300人入れる店を作って、ニューミュジックがはやります。
山下達郎、ハッピーエンド、坂本龍一だったり、そういう連中の時代が終わるのが80年代になります。
当時は無名だったアーティストがいたわけです。
自分たちが自由に演奏することができたとミュージシャンから有難がれました。
自由に練習もしてもいいよということでサザンオールスターズ等もやっていました。

大手プロダクション、レコード会社が参入してきて、その後ロックの僕の立ち位置が無くなったなと思って、ロックの興味が無くなりました。
僕は2軒作りましたが、世の中2000軒もできました。
新宿ロフトはロックの聖地だと言われていました。
新宿ロフトの立ち退き問題があって日本に帰ってきました。
音楽はもういい、世界に出たいと思いました。(7年間の放浪の旅)
自分の勝手な店を作ろうと思って、それがトークライブハウスでした。
音楽、トークのライブハウスに共通するものは空間だと思います。
ライブハウス経営のだいご味はいろんな人達と知りあえることだと思います。
出演してくれる人は熱意さえあれば来てくれます、後はお客さんを集めるだけですから。
サブカルチャーは陽に当たることは少ないと思います。
店を作ってから45年になりますが、今の若者は何でもあるが、本当に幸せなのか、僕等の若い時代は何にもなかったけれども夢だけはあった。
吃驚したのは学生と話したことがあるが、音楽に感動した事は無いと言うんですよ。
ライブハウスはコミュニケーション、一つの世界を共有することだと思います。
10から20人程度の小さな空間でライブをやって、そこで表現してゆくことが基本だと思ったらライブはつぶれないと思います。





















2018年8月29日水曜日

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと
69歳、線描画にパステルを乗せた優しい色あいのイラストが特徴で、この番組のマスコットフクロウのゆめぞう君の作者でもあります。
この春からは月刊誌ラジオ深夜便にエッセー「しじまのおもちゃ箱」を連載、少年時代の思い出を軽やかなタッチでつづっています。
エムさんは大学時代からイラストレーターとして活躍していましたが、38歳で視力を失いました。
全盲になっても表現者として生きて行きたいと作家に転向、絵本やエッセー集を数多く出版しました。
そして1990年それまでの経験や色の記憶を生かして、イラストレーターとして再スタートしました。
エムさんの作品に込める思い、創作活動の工夫や支えになっているのは何なのかなどを伺います。

番組の放送開始15周年を記念して、2005年にエムさんがデザインしたゆめぞう君。
ラジオ深夜便が好きで、夜型人間だった、一番好きな生き物がふくろうで、ゆめぞう君を考えました。
絵の描き方
強い筆圧で線を描くと紙の上にへこんだ線が描ける。
輪郭線を頼りにパステルで色を塗っていきます。(アシスタントが手伝ってくれる)
粉をこすりつける。(パステルはチョークのようなもの)
ゴシゴシ塗れば粉が付着する。
その粉をティッシュペーパーで丁寧に擦ってひろげてやる。
別の色を横に塗ってやって、ティッシュペーパーで擦ると色と色がうまくなじんでくる。
赤、青、黄を混ぜると濁色になるが、二つの色だと清色の清らかな雰囲気の絵になる。
混合を計算しながら採色していきます。
目が見えていたころにさんざん描いてきた絵なので、計算しながら勘でやります。

目が見えているころは細かい絵を描いていました。(メカニカルな絵が好きだった)
最初に失明してからは絵を描くつもりはなかったが、絵を描いて見ないかと言ってくれて、それが現在の奥さんです。
失明後に知り合ったんですが、私は人工透析もしていて、彼女はその時の看護師でした。
絵を書いていたんだから描けるはずだと言ったんです。
彼女の前で猫の絵を描いたらバカ受けでした。
絵の前には文字を見えないながらに書いていましたが、最初紙に10円玉を置いて、10円玉を起点に横書きで文字を刻みつけるように書いていきます。
10円玉を下にずらすと一行下の文字を書くことになります。
原稿用紙150枚の長編童話を書いてそれが新人賞になりました。
猫の絵を描いた後、スケッチブックを買ってきて一晩でそのスケッチブックを埋めてしまいました。
翌日彼女に見せたら描いた絵をみんな判ってくれて面白かった。
噂を聞いて新聞社の方などが僕の絵を使うようになりました。

一番難しいのはアクリル系絵具、油絵と一緒でかなりのテクニックが必要。
透明水彩は目が見えないとコントロールはできない。(水を使うので)
コントロールできるのはパステルで色をぼかすのは、ティシュペーパーで行えば水彩と同じように再現できるのではないかと思ってやってきました。
必要な色を手渡してもらって場所にもって行ってもらえば、線がへこんでいるので判ります。
絵を見た妻からの感動とかの感触で、どのようなものかは大体感じることができます。
今150色のパステルセットを使っていますが、それぞれの色にそれぞれの感動があり僕の中に刻み込まれていて、頭の中で再現できるわけです。
絶対色感があります。
出来栄えは彼女が喜んでくれればいいわけ、僕が確かめなくてもいい訳です。
色々な人にサポートを受けながら外を歩いたりするので、失明後の人生は他者にゆだねて生きてきています。

小さいころから絵を描くことは好きでした。
寄席に連れて行ってもらったことがあり、それをわら半紙に描いたら祖母が喜んでくれました。(3歳)
小学校に入って初めて書いた絵が、先生が学校の玄関に貼ってくれたりしました。
高校生の時にやなせたかし先生が書いた漫画入門の本に、漫画は絵で描くポエムだと書いてありましたが、それを見て僕も漫画家になれるのかなと思いました。
イラストレータの道に進みました。
その後、目が段々かすんできて眼科に行ったらアレルギーから来ていると言われたが、もっと悪くなり別の医者に行ったら内臓から来ていると言われ、内科に行ったら腎臓がめちゃくちゃに悪いと言われ、大きな病院にいったら糖尿病だと言われ、眼を見た眼科医からはもうすぐ失明しますと言われました。(34歳)
人生が暗転しました。
子供のころからアレルギーだと言われたが、実は2型(遺伝性)の若年性糖尿病でした。
かすんでいたのがとうとう失明してしまいました。(失明は死の恐怖に勝りました。)

人工透析を失明と共に始めたら不均衡症候群となり、普段聞こえていなかった声が聞こえてくるんです。
僕の人生これから面白のかもと思えました、不思議な転換ですが。
或る晩、一晩中泣いていて神よもしこの世界にいるんだとしたらその答えをくれと訴え続けていた時に、明け方の瞬間に金色の光がはじけました。
天はあまねく全てを愛しているという答えをくれて、その瞬間僕は気が楽になりました。
神が与えてくれた人生だったら、どんなひどい人生でも最後まで見てみようと、その時思えました。
透析導入後の退院から直ぐに僕は文章を書き始めました。
自分の中の世界は目が見えようが見えまいが変わらない。
この春から月刊誌ラジオ深夜便のエッセーも連載を始める。

第一回に書かれたエッセーから一部抜粋。
「しじまのおもちゃ箱」
「気が付けば僕らは仲良し3人組だった。・・・一年坊主で当時珍獣扱いだったデブの僕には、頭でっかちの山下君と美少年だった山口君という大の仲良しがいた。・・・
山下君は和菓子店の息子・・・山口君は画科の息子・・・。
美少年は薄命なのか山口君は若くしてがんで亡くなり、山下君は一昨年骨髄腫で虹の橋を渡った。
僕が書かない限り僕たち3人組の無垢な思い出は、永久にこの地上から消え去ってしまう。・・・3人組時代のかけがえのない時間の流れをピンナップしていきたいと思う。」
子供の頃のできごとはいい事悪い事克明に覚えています。
昭和30年よりも前の時代、焼け野原で遊んでいた貴重な思い出です。
原風景を思い起こしながら書いていきたいと思います。
言葉を書くと風景がバーっと出て来てそれが繋がってきて思いだされます。
1990年にイラストレーターとしても再開。

眼がみえなくなったぼくが、再び絵筆を持つということは全く考えていませんでした。
1998年にニューヨークで僕の展示会が有り、偶然にジョン・レノンの絵を子供のアパレルにアレンジしようとしていた全米最大のメディアの或る副社長が訪れて、ジョンの次はお前だと言ってくれて2000年からジョン・レノンの絵のシリーズと僕の絵のシリーズが全米でならんで展開されるんです。
そういう奇跡が起きるんです。
色んな活動のチャンスをあたえてくれたことに、全力で努力をするということがこれからの僕の夢だと思っています。
どんなことがあってもなんとかなると思っていて、僕は楽観主義です。
ヘレン・ケラーが言っています、「楽観主義が未来を拓く」
諦めたら何とかなる、失明した時に上手く諦められたと思う。
見えなくなったことに対して諦めたら、そこから新しい未来が拓けて来る。
泣いて暮らそうと笑って暮らそうと、どちらも自分の作る一日です。


















































2018年8月28日火曜日

國中 均(宇宙科学研究所所長)      ・日本型宇宙探査 

國中 均(宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長) ・日本型宇宙探査 
日本の小惑星探査機はやぶさ2号は目的地であるリュウグウに到達していよいよ探査を始める。
小惑星は地球から3億km以上離れたはるか遠くにあります。
探査機が地球と小惑星との間を往復できるのは、イオンエンジンという新しいエンジンが積まれているからです。
このイオンエンジンを手にしたことで日本の宇宙探査が大きく変わろうとしています。
イオンエンジンの開発者、今年4月宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長に就任した國中 均(58歳)に日本型宇宙探査と題して伺いました。

小惑星探査機はやぶさ2号が6月27日にリュウグウに到着できました。
打ち上げたのは2014年12月、3年半かけて到達しました。
この部分は読める部分です。(出来て当然と思っている)
ここからは本当に判らない、難しいミッションに挑戦します。
小惑星の形は着くまでは全然情報が無くて判らなかった。
丸ければ自転軸がどういうふうに回転しているのか判りにくい。(課題)
最悪自転軸が横倒しになっている状態を想定して計画を立てていましたが、幸いに自転軸が垂直に立っていて凄く私たちにとって有難いことでした。
つまり北極、南極が見えるし、赤道はいつも回っているので小惑星を1日見れば全部判ることになります。
はやぶさ1号のイオンエンジンの改良型が搭載されている。

イオンエンジンの特徴はジェット噴射の速度が速いということを最大の特徴としています。
H2ロケット等は燃焼を使う方式で噴射速度は秒速3kmの速さです。
イオンエンジンのはそれより10倍速い秒速30kmです。
速いほど使う燃料の総量が減るという特性がありますから、燃料は1/10で済みます。
世界の宇宙研究開発者はジェット噴射をどうやったら速くできるかという事を研究してきました。
アメリカ方式のイオンエンジンのは家庭にある蛍光灯を思い浮かべていただいて、あの中で起こっていることとほとんど同じです。
両端に電極が有り電圧をかけて中に入っている電子を加速して、中に入っている薄いガスにぶつけて電離をする。
プラズマができてイオンが出来る。
イオンは発光する(紫外線)、紫外線がガラス管に塗ってある蛍光塗料にぶつかって、可視光線に変わって照明器具として用をなす。
古くなると両端が黒くなって点かなくなってしまうが、アメリカ方式のイオンエンジンにも発生する。

できたイオンも今度は逆側に加速されてゆく。
電子はマイナスの電気を持っていてイオンはプラスの電気をもっているので、イオンはものすごい速度で電極に突進します。
ぶつかると電極が溶けて行き、溶けた粉末がガラス管に付くので両端が黒くなる。
電極が削れてきて結果として最後には点かなくなる。
ほぼ同じことがアメリカ方式のイオンにも起きて寿命を縮める要因にもなる。
私達はアメリカよりも20年遅れて研究開発をしたので、アメリカよりも優れたエンジンを実現しようと言うことで、マイクロ波という電波を使う方式のイオンエンジンを考えました。
電子レンジと同じ様な原理です。
皿は温まらないが食材だけが温まる。(選択的加熱)
電子だけ選んで温めてイオンは温めない。
温まった電子がガスにぶつかって電離がおきて冷たいイオンが出来る、こういうことを狙った。
冷たいイオンであればイオンエンジンを壊さないで済む。
長寿命で長く運転できるシステムが実現するかもしれないということでした。
太陽電池で出来る電力に見合う推力が出来る。
数グラムの推力をだすことができる。
はやぶさは500から600kgですが、それを2~3gの力で押し続ける。

この開発は他に例が無かったので苦しかった事ばっかりでした。
一番苦しかったのは中和機、これは加速したイオンが安定に速度を維持して飛んでいくように後から電子を混ぜるために、電子を発生させる装置ですが大変難しかった。
解決策を見出す為に2~3年かかりました。
初代のはやぶさは中和機が思う様に動かなくて苦労させられました。
地球帰還が危ぶまれたが、イオンエンジンのクロス運転でエンジンを復活させて地球に戻すことができました。
同時期にアメリカがディープスペース1という探査機を打ち上げたが、アメリカの方が技術の蓄積が格段に高い。
日本では打ち上げを決めてから探査機を作り上げるまでに7年かかりました。
アメリカでは3年で作りあげてエンジンは一式しか搭載しませんでした。(自信が有った)
日本では一機の推力が少ないので3機必要で、予備を1機搭載しました。(日本は劣る)
普通イオンエンジンと中和機は一対だが他のエンジンとの組み合わせも考えた。(奥の手)
いろいろプレッシャーで一時食堂に行って食べられなくなってしまったこともありました。

1960年愛知県生まれ。
子供のころは新しい電気製品などに興味を持って分解したりしていました。
飛行機も大好きでした。
天文観測も好きでした。
小学生高学年には望遠鏡を買ってもらって天体観察しました。
写真を撮って現像などもしました。
高校では天文クラブが有り、太陽観測部で黒点の数の観測などしていました。
幼稚園の時に研究者へというようなイメージは持っていました。
京都大学航空工学科から東大の大学院に行きました。
ロケットの研究をしたかったが、研究になるような課題は残っていないと言われました。
電気推進ロケットがあるが,まだこれは研究もされていないということでした。
栗木恭一先生の所でやっているので見学させてもらいました。
当時はミューロケットを取り扱っていたが、早晩限界が来る、日本ではもっと大きなロケットという訳にはいかないので、そのためにはロケットを大きくするのではなくて人工衛星に乗せる推進装置を高性能化する手立てしかない、ということで日本独自の研究開発が必要になると言うことで、電気推進を研究開発して将来に適応できる電気推進をラインアップするべきだと言うことになりました。

500kgのサイズに見合う電気推進をラインアップするということが栗木先生の未来設定でした。
1KWで動く電気推進ロケットでした。
私が担当したのがイオンエンジンでした。
予算は潤沢ではありませんでした。
研究室では工作機械が有り自分で図面を書いて、技官さんに工作機械を教えてもらって、自分で作ったりしてきました。(サイクルの早い研究が必要だと思います)
人と違う事を挑戦する。
みんなが簡単に思い付くことをやったんだとすると、きっと誰かが気が付いているはずだと思います。
マイクロ波は当時通信に使うもので、電波を発生させる装置は効率が悪く10から30%程度。
効率が良くなると電波でプラズマを作ろうという考え方は理にかなっている。
10月にはベピ・コロンボというヨーロッパとの共同ミッションで水星に探査機を打ち上げます。

火星には二つの月が回っていますが、そこにたどり着いてサンプルを採取する計画MMX
があり、小惑星をフライバイする計画とか、彗星からサンプル取ってくる計画とか、木星のガニメデという衛星を調べる計画とかを温めています。
10年後には水星から木星まで日本の探査機を送り込むことができる。
金星探査機「あかつき」が今金星の周りをまわっています。
太陽系に探査機を沢山打ち上げてデータを総合して太陽系の生い立ちを調べることができると思います。
地球の水や大気は木星の向こう側から運ばれてきて、岩石の地球が出来上がった後に気体や水があとから送られてきたという仮説が有ります。
水や大気を送りこんできた主体は小惑星、彗星、コスミックダストが太陽系の物質移動になっていて、後から水や大気が地球に持ち込まれて、アミノ酸などの有機物も一緒に入っていて、地球で合成されて私たちのような生物になったという仮説があるが、こういった証拠を調べて探査機を使って証明していきたいと私は考えています。

















































2018年8月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者}           ・【絶望名言】宮沢賢治

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】宮沢賢治
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」

宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、注文の多い料理店』とか沢山の童話でよく知られています。
『雨ニモマケズ』という詩も有名です。

フランツ・カフカの名言集を本で出した時に、読んだ方からカフカは宮沢賢治とよく似ていますねという反響をかなりの方から頂きました。
読んでみたら似てるんですね。
父との確執、妹を凄く好きという所も似ているし、二人とも菜食主義ということです。
二人とも生涯独身で子供もいなかった。
二人とも生前は可成り無名に近くて、サラリーマンをしていた。
二人とも若くして結核で亡くなった。
亡くなる前に自分の原稿を処分してほしいと遺言した事も同じ。
死後に頑張ってくれた人がいて、今ではとっても有名、ということも同じです。

清六という弟がいたが、宮沢賢治に関する本を書いているが、「正面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど悲しいものをうちに持っていたと思うのである」、と言っている。
イーハトーブは地名で宮沢賢治の理想の世界で、イーハトーブに対して宮沢賢治はこう説明している、「そこではあらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し、大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花盃の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている。」と言っている。
理想郷なのに罪や悲しみが有る、だけどそこでは罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている訳です。
これが宮沢賢治の作品の特徴なんではないでしょうか。

「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
は童話の中の作品の中の言葉ですが、宮沢賢治自身にもこのような気持ちが有ったのではないでしょうか。
自分は人のように上手く生きられず、立派でもなく美しくも無く、仕事もうまくいかず、ちゃんと笑えていなかったんじゃないか。
誰の心にもこいう気持ちは多少なりともあると思います。

「お前たちはなにをしているか。 やめてしまえ。  エイ、解散を命ずる。
こうして事務所は廃止になりました。 僕は半分獅子に同感です。」
(寓話「猫の事務所」の最後のシーン)
「猫の事務所」のあらすじ
猫の事務所には大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫は夜竈の中に入って寝る癖があるから釜猫という) がいる。
竈はいつも薄汚れているので釜猫は煤で汚れている。
優秀だったのと事務長が黒猫だったので黒く汚れている釜猫に寛大だったので、本来なれない第四書記になっている。
かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。
或る日かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三匹の書記の讒言により、黒猫もそれを信じてしまう。
病み上がりでかま猫がやってくると、黒猫の事務長含め全員がかま猫を無視してしまう。
かま猫は仕事を取上げられて呆然と座って泣き出してしまう。
そこでさっきのラストがやって来る。
外から獅子が見ていて辞めてしまえ、という事になる。
最後に語り手が急に顔を出す。(宮沢賢治自身)
僕は半分獅子に同感です。」と云うんです。

いまあるパワハラ、差別、いじめとかそういうものそのまま。
なんで半分しか賛成していないのか、色んな説がある。
解散ではパワハラとかの根本的な解決策にはならない。
かま猫も職を失ってしまうので、半分なのではないかという説がある。
「猫の事務所」には下書きがあって、「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。
3匹の猫も可愛そう、事務長も、獅子もかわいそうと言っている。
虐めの加害者だけではなくて加害者も黙認した人もそれをしかりつけた人も全員がかわいそうというんです。
だれの心の中にも加害者側の気持ち、傍観者の気持ち等がある、どこか全部弱さだし、良いことではない、人間はそういう弱さを持っている、だから可愛そう。
やってしまう方もやられてしまう方もみんな人間は哀れで、可愛そうなもんだなあと思います。
罪のないものだけが石を投げろと言ったら、誰も投げられない、それが悲しいということではないですかね、だから半分なんでしょうね。

自分がいじめる側に立ってしまったことから、成長してからそういうことをしないようにしようと繋がった面がある、反省する気持が自分を止める気持ちに、それが後あと大人になってあった。
*「G線上のアリア」
「永訣の朝」を書く時にこの曲を聞きながら書いたんじゃないかとも言われている。
演奏時間に合わせて「永訣の朝」は書かれているという説もあります。

「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
うすあかくいっさう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
(どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変わって  改訂版)
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

37歳で宮沢賢治亡くなっているが、残したした作品の分量は大変なもの。

「カンパネルラ 又僕たち二人きりになったね。 何処までもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。
ウン 僕だってそうだ。 カンパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。
けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。 ジョバンニが言いました。
僕わからない。カンパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」の一節)
ジョバンニが持っている切符はどこまでへもいける特別な切符。
何を探すのかというとほんとうの幸い。
ほんとうの幸い、宮沢賢治の作品の全ての根底にあるテーマかもしれません。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」
その前にサソリの話が出て来る。
サソリは色んな虫を食べて生きているが、或る日自分がイタチに食べられそうになって、井戸に逃げて溺れそうになりながら、以下のようなことを言う。
「ああ、あたしは今まで幾つもの命を取ったかわからない。
そしてその私が今度はイタチに取られようとした時はあんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。」

サソリ食べられた側の気持ちが判ってしまう。
むなしく命をすてるのではなく、誰かのために生きたいと思うと、サソリの身体は真っ赤な美しい火になって燃え始める。
気が付くと夜空にいて、闇を照らして星になれた。
自己犠牲の素晴らしさを物語っている。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」と言っている。
本当の幸いはこれだ、という様になった時にジョバンニは
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」 とジョバンニが言って
「僕わからない。」 カンパネルラがぼんやり言いました。
この展開は凄い。
本当の幸い、自己犠牲の素晴らしさを物語っていながら、本当にそうなのかなという迷いが出て来る。
「僕わからない。」というカンパネルラは実は自己犠牲をしてる、なのに「僕わからない。」と言っている。
本当の幸いは一体何なのか、いくら追い求めて見てもやっぱり本当は何だろうと問わずにはいられない、そうしてみると「やっぱり僕判らない」って答えるしかない、ここが宮沢賢治の凄いところではないかと思います。
「新たなるよき道を得しということは、ただ新たなる悩みの道を得しと言うのみ」
新しくいい道を知ったと、真実の道、本当の幸いの道だと知ると、新たなる悩みの道を知ったということなんだと、これがいいんだと思ってもでも本当にそうなのかなと思う。
何処までも迷い続ける。

河野:歳を取って来ると、朝起きて手が動き水も飲めると言う事に幸せを感じる。
頭木:若い時には大きな幸せを考えるが、病後はハードルがずっと下がって来る。
朝起きて何処も痛くなかったりすると大変な幸せを感じるわけです。

「僅かばかりの才能とか、器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分の身体に付いたものでもあるかと思い、自分の仕事をいやしみ同輩をあざけり、今に何処からか自分をいわゆる
社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想にのみ生活をしてかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが虚しく過ぎてようやく自分の築いていた蜃気楼の消えるのを観ては、ただもう人を怒り世間をいきどおり、したがって親友を失い幽門、病を得ると言った順序です。」
(1933年9月11日に元の教え子に書いた手紙の一節 亡くなる10日前の最後の手紙)

文語詩
「いたつきてゆめみなやみし」
病気になってしまい夢はみんな終わった。
私(頭木弘樹)が20代、30代病気で過ごして、そこから社会に出るのがきつく、こういう人生でこれだけで、この歳で何も起きないなあと思うと泣けたりしました。

元の教え子に書いた手紙の続き
「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとか言うようなことは、できないものから見れば神の技にも等しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際とあまり遠いものです。」 (亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
賢治は病気になって日常が奇跡だという様な事をしみじみ感じる訳です。
そんなのは当然と思っているのは間違いで、実は大変貴重な人生、日々を送っていたという事に思いいたる。

元の教え子に書いた手紙の続き
「どうかいまのご生活を大切にお守りください。
上の空でなしにしっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
「苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」と言う人はなかなかいない、まさに自分が苦しんでいるのに。
1933年宮沢賢治が亡くなる。
























2018年8月26日日曜日

デヴィ・スカルノ(タレント)      ・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~

デヴィ・スカルノ(タレント)・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~
1940年(昭和15年)東京生まれ、旧名・根本 七保子。
大工の父と先妻の3人の子供に母、弟という家族で、戦中戦後の混乱の中、貧しい生活だったと言います。
終戦間際には福島県浪江に疎開、足の不自由な母と弟の助けとなって、戦後間もないころは闇市に買い出しに行くなど、幼いころから母と弟の為に自分が頑張らなければと思ってきたと言います。
少女時代は読書に夢中になり海外の名作のヒロインに憧れて、いつかは日本を離れ華やかな世界で暮らしたいと夢見るようになりました。
優秀な成績で中学を卒業しますが、家族を支えるために生命保険会社に就職、定時制高校に通います。
当時を振り返って人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生を切り拓いてきたと言います。
そして1959年19歳の時、来日していたインドネシアのスカルノ大統領とホテルのお茶会で逢い、運命は大きく変わってゆきます。
母と弟をしあわせにしたい、日本を離れ世界で羽ばたきたいと願っていた少女がどの様に人生を切り開いてきたのか、伺いました。

78歳になります。
母は足を45度に曲げなければならないほどの身体障害者でした。
浪江というところに疎開していて、空襲警報がなると竹やぶに入るわけですが、母が足が悪いので一番最後になる訳で、周りから見つかるからはいってくるなといわれたが、何とか入りました。
警報解除後に母が村人たちに囲まれて、竹やぶが見つかり爆弾が落とされたら、何人の人が死ぬと思うと詰め寄られ、ある人が手をかけようとしたので、母をかばうために躍り出ました。
私の剣幕に驚いてその人たちは引き下がっていきました。
この時に母と弟を守るのは私しかいないんだと思いました。(4歳)
終戦後東京に帰って来ました。(5歳)
上野の地下道には浮浪者、浮浪児で一杯でした。
私の袖を引っ張ったので振り返ったら私より更に幼い子が「何かちょうだい」といって手を出したので、もし自分が不幸だと思ったら更に自分より不幸な人を思い浮かべればいいんだと心に決めました。

電車の中は満員だったが米兵が二人乗ってくると、その二人を中心に隙間ができ、一層苦しくなったが、米兵が私を抱き上げました。
しかし、あまり驚かず金髪など触ったりしていました。
そんな姿に母は得意げだったようです。
私の家は焼けていませんでした。
夜は満天の星で、いつかは日本から飛び立ちたいと思い浮かべていました。(5,6歳)
アメリカ兵がクリスマスになるとサンタクロースの格好をして袋にキャンディーとか入れて、街に出て配るんですが、可愛かったと思われたのか、キャンディーなどを一杯もらいました。
可愛い子は得をするのかと子供心に思ったことがありました。
買い出しのおばさん達と一緒に闇屋の買い出しを毎週行ったと思います。
摘発だというと窓から米を入れた袋をおばさんたちは涙を浮かべて投げ出していました。

小学校に入学するころ、私は可愛い特殊な子だという記憶が有ったが、プライドを滅茶滅茶にする事件がありました。
母が父のマントをほぐしてスカート、セーラー服を作ってくれました。
校門に入ったらピンクの洋服に頭に大きなピンクのリボンをしていた子がいて、先生がたが一斉にその子の処に駈け寄って行きました。
先生方は公平に見なければいけないのにエコひいきが有るんだと心に傷が付きました。
理不尽、公平ではないという意識が高まりました。
小さい時から絵が上手だと思っていて、画家になると決めていました。
そのために母が色々内職をして週に1回絵を習いに行っていました。
或る時絵の先生が男性の名前を使って絵を出展していることを知って、当時は女性のものは1/20程度にしかならなくて、画家になっても母と弟を幸せにすることはできないんだと思いました。
画家は諦めようと思いました。

母と一緒に演舞場に水谷八重子さんを見に行った時に美しさに魅せられて、女優さんになりたいと思うようになりました。
当時は本を沢山読んでいて、主人公、ヒロインと自分を重ね合わせたりして、いつか自分もそういう中に身を置いてみたいと強い憧れを持ちました。
当時ペンフレンドがはやって英語での文通をして英語が良くできるようになりました。(中学生)
母が同級の母親から借金をしている事を障子越しに聞いてしまって、何の躊躇も無く就職をすることに決めました。
当時大卒は1万円、高卒が8000円、中卒は4000円でした。
千代田生命の試験を受けて、その時に英語も出て、ソロバンもできたので、受かることができ、人事秘書課に配属されました。
夜は都立三田高の夜間部に行きました。
その頃人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生をという思いを持ちました。

学校にいきながら東芸プロダクションでレッスンを受けたり、エキストラとして行ったりしていました。
父が亡くなったのをきっかけに、母と弟と生活をしたいと思いました。
或る時フィリピンの女性歌手と知り合い、誘われて夜の世界に導かれました。
ナイトクラブに出て歌を歌ったりもしました。
アメリカ人のボーイフレンドが出来て日本の随一の社交場に行き、そこは97~98%が外国人のお客さんでした。
フランク・シナトラ、ポール・アンカなども歌っていました。
高校を中退してそこで働くことになりました。
そこはテーブルチャージが1時間1000円でした。
一晩で8000円位の収入がありました。(それまでの月の全収入はアルバイトを含めても8000円程度)
18歳で小さなバーを買うことができたが、騙されて区画整理で数年後駄目になってしまいました。
お花、お茶、日舞などを勉強しました。
日舞の初舞台が5月にあり藤娘を踊らせてもらいました。
その1カ月後にスカルノ大統領とお会いすることになります。

アメリカ人の大富豪と、フィリピンで大事業していたアメリカ人がいて、二人から求婚されていました。
大統領からお招きを頂き、インドネシアに行くことにしました。
本当に国民に愛されている姿を間近に見ました。
2週間の滞在中、帰るころにプロポーズされました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式をしました。(19歳)
その後数年で大統領は失脚、70年に亡くなります。





























2018年8月25日土曜日

大野 彩(フレスコ画家)        ・最古の画法を現代に

大野 彩(フレスコ画家)        ・最古の画法を現代に
フレスコ画家の技法のひとつ、ブオン・フレスコ (Buon Fresco)はイタリアルネッサンスのころに発展したが画法で、絵の美しさが半永久的に保たれるのが特徴です。
大野 彩さんは1967年多摩美術大学を卒業後、東京芸術大学大学院でフレスコ画を学びました。
その後イタリアに留学、ルーマニアで研修も受けました。
帰国後、美術系の大学でフレスコ画を教えながら壁画ラボを主催しています。
作品は三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画など数多くあります。

今、身寄りのない方の霊体供養のための合葬墓を作りたいと思って仕事を始めました。
募集をしたら現在夫婦で入りたいとか増えてきて、将来の合葬墓の形が出来てきていると思います。
上が古墳のような感じで、その地下がフレスコ画の制作現場になっています。
左官屋さんが壁を作っていてそこに絵を描きますが、レンガを積みたいと言うことでその準備の壁を作っています。
下絵もいくつかできています。
お寺からの要求もあり、自然のもの(花、鳥など)を中心にアサガオ状の3本の柱が立ちあがっています。
それを釈迦の三聖樹(無憂樹・印度菩提樹・沙羅の樹)に見立てて、3本の木を描きながら花を描いていこうと思っています。
2年前に始めて水対策もあり、まだ年の単位で掛かります。
フレスコは長く持って2000年とかもっと古いものもあります。

多摩美術大学では油絵を勉強していましたが、日本の風土に合わないのではないかと思っていて、芸大に壁画科があり、大きな絵が描けるということであこがれもありました。
芸大の大学院の壁画科に入りフレスコ画を描くことにしました。
砂と石灰と水を船の中で鍬で混ぜます。
コテ板にとって壁を濡らしてその壁にコテで当日分を塗り、その日の内に描いてしまう事を毎日続けるわけです。
個展を開くようにもなりました。
石灰の面白さに気が付き、どんどん深みにはまってしまいました。
1995年から96年にかけてイタリアに留学しました。
武蔵野美大でフレスコ画を教えていて、長谷川路可先生の弟子の人が教えているものと違うと言われて、本場のフレスコ画を知りたくてイタリアに留学することになりました。
私たちが知っているフレスコ画はブオン・フレスコと言ってフレスコ画の一つの種類であることが判りました。
ニコライ・サバ先生(ルーマニアから来た先生)は4つのフレスコを教えていました。

①湿式法    ブオン・フレスコ (Buon Fresco) 
乾式法    フレスコ・セッコ (Fresco Secco)
③半湿式法   メッゾ・フレスコ (Mezzo Fresco)
④掻き落とし法 ズグラッフィートまたはグラッフィート (Sgraffito/Graffito)

シルクロードの要所要所に色んなタイプがあることに気が付きました。
石灰の作り方も違う。
面白い経験をしました。(地域と時間によってタイプの違うものが沢山ある)
ブオン・フレスコ (Buon Fresco) は顔料には何もいれず水だけでといて、絵を描いて壁の化学反応によって絵の顔料を止めてもらうと言うことになります。
フレスコ・セッコ (Fresco Secco)は接着材を持ちいます。
フレスコ画は人類が絵を描き始めたころに出来たもの。
石灰岩の洞窟の中に描かれた。
人工的にはトルコの遺跡の中に雄牛の絵などがあります。(5000~6000年前)

宗教画と結び付いたのはブオン・フレスコ (Buon Fresco)の手法を確立したジョットという絵描きさんがいますが、教会に文字が読めない人にキリストの話をする為に祭壇に絵を描き
続けるわけです。
ミケランジェロも学んでヒスティーナの礼拝堂を描いています。
その日にある決まった絵を描かなくてはいけないので(時間が限られる)、大きい壁画を描く時には構想をそこに定着させなければならない。
油絵とか水彩画とは全然違います。
ある時間帯が来ると筆から顔料が壁の上に置かれる、その瞬間に入って行き、ガラス質のものが貼る感じが判るんです、それがだいご味です。

栃木県の葛生町(佐野市)が石灰石の産地で初期のころ葛生町に関するものが多い。
「栃木県石灰石工業会館のフレスコ壁画」など
新しい建物が出来るたびにフレスコ画を描かせてもらいました。
「三鷹の森ジブリ美術館の天井フレスコ画」
花、鳥、蝶、果物など沢山描かれている。
宮崎駿さんの要望がありました。
ドーム状で卵型なのでした絵を完璧に作るにはどうやったらいいか難しかった。
本作業の前には模型を作ったりもしました。
作業は猛暑の時で天井はなお暑くて大変でした。
九州のつくみ図書館
天正遣欧使節団をモチーフにという依頼がありました。
沢山資料を頂き勉強し、一つの絵をつくりました。
色んな石灰を利用して共同で作れるようにしました。
埼玉県さいたま市 健常者と傷害のある子供達と両方使えるような施設になっていて、真ん中のホールに大きな鏡があるが、鏡を怖がらないようにしたいと言うことで大きなものを前面に入れてしまって、「あなたが生まれてきたことはとてもうれしいことなんですよ」というような意味のテーマで描いて下さいと言うことで、周囲に絵を描かせてもらいました。
栃木県の葛生町の庁舎跡地にフレスコ画をという要望がありました。
色んな石灰を使わせてもらってトンネルを作りました。
未来の栃木県の葛生町を考えましょうというふうにしました。
中学生たちにフレスコ画の事を知ってもらえるように観てもらいました。

フレスコ展 最初展覧会を開いたが30人が参加、2年後には50名、その2年後には60名になりました。
仲間の交流の場として展覧会があればいいと思っています。
人と人、人と団体を繋ぐことをフレスコをきっかけにして貰えればいいと思っています。
初心者には最初薄いレンガに砂と石灰を混ぜたものを塗って筆で絵を描いてもらいます。
壁画の仕事が来た時にはみんなで一緒にやりましょうと、繋がりを作りながら壁画を作れる人達と一緒に何かが出来ていければ嬉しいと思います。
フレスコ普及協会の立ち上げが2010年12月19日で翌年3月には大震災が起こって、陸前高田の
高田松原を守る会の後に会長さんになる方がきて、避難所で話をうかがっていまでも繋がっています。
壁画の制作を去年やって、プレゼント先をその会長さんに紹介していただき小学校にプレゼントしました。