2018年5月31日木曜日

伊藤比呂美(詩人)            ・ワカモノに告ぐ

伊藤比呂美(詩人)            ・ワカモノに告ぐ
東京都出身、62歳、今年春から早稲田大学文学部の任期付き教授となり、20年ぶりにアメリカから帰国、住まいの熊本と東京を往復する生活が始まりました。
青山学院大学在学中から詩を発表し、性や身体をテーマにした過激な表現で注目を集め、第16回現代詩手帖賞を受賞し、女性詩人ブームをリードしました。
育児エッセーのジャンルを開拓、「良いおっぱい悪いおっぱい」はベストセラーになって、今も読み継がれています。
その後日米を往復する遠距離介護や自分自身の更年期を描いた作品を多数発表、「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」で萩原朔太郎賞、紫式部文学賞を受賞しました。
アメリカに渡るきっかけになった28歳年上の再婚相手を2年前に見送って3人の娘さんは独立、犬1匹だけを連れて帰国した伊藤さんに伺いました。

父がいた時は1カ月に一遍は帰ってきていましたが。
早稲田大学文学部の任期付き教授となり、教えることと書くことの違いもあり、面白いです。
連れ合いがアーティストで28歳年上でハロルド・コーエンと言いますが、彼が自分のアート中心でそれを見て自分も直したが、でもハッと気が付いたら私もそうでしたので、こういう生活は人には薦められませんね。
決していい夫婦ではなかった、喧嘩ばっかりしていて、でも一番ショックだったのはもう一人で喋る相手がいなくて、彼は何だったんだろうと思いました。
淋しさ、宇宙空間に一人残されたらこんな感じだろうなと思いました。
夫は88歳直前で亡くなりました。
父の介護と犬の介護もして、亡くなって、暫くしてからまた犬を飼いました。
連れ合いが最後の数カ月リハリビホームに入ったが犬を連れて行きました。
夫が亡くなって犬だけになってしまいました。

二人の子供が10歳位の時にアメリカに行きましたが、三人目の一番下の子を育ててみたら
しつけが違うんです。
文化として食卓では箸の持ち方とかあるが、むこうで一番大切なのは人の前を横切って手を伸ばさないとか、バターを取ってくださいとか受け応えして言って貰う。
英語に苦労したのは、文化の張り巡らされた根っこの低いところから文化が違っていて、そこから出てきた英語なんだなと子供を育てて判りました。
ハロルドからは、仕事が一番で家庭は隅っこにと言うことを学んだことはよかったです。
一人の男が強くて大きくて社会的にも立派な仕事をしていた人がどんどん弱くなっていって、手の中で死ぬようにして死ぬんです。
2年位の間だったが、そこまで看取ったのが何よりの経験でした。
ハロルドが死んで暫くしてからもっと介護したいと思いました。

親とか連れ合いが亡くなって自由になった感じがします。
更年期が50代からあるが、更年期が楽しかった。
介護したりしてみんな同じように大変で、立場が同じ様で更年期はそういうものがいっぱいあって楽しかった
60代は寂しい時期だと思いました。
色んな人が亡くなっていき、介護とか自分を支えるものが亡くなって来ると、後は御迎えを待つばかりというような感じだったが、でも何て自由なんだと思いました。
連れ合いが亡くなり家庭が消滅して、自由です。
石牟礼道子さんが亡くなって寂しいです。
『苦海浄土 わが水俣病』は本当に良かったですね。

『ウマし』 新しく刊行、食べることを書いている。
連れ合いが死んで2年になるが、オファーがあり早稲田大学文学部の任期付き教授として仕事をすることになり沈みかけていた舟が助かりました。
娘は鹿乃子が34歳、サラが32歳、トメが22歳になりました。
大学では詩と小説とクリエイティブライティングが2時間であと文学とジェンダーだが、ほとんどやっていなくて人生相談になっています。(正規の授業以外等)
アメリカの女子大学は凄く意識が高くフェニミズムで面白い教育でした。
日本の若い人は喋れなくなっているのかなと思ったら、そうでもなく結構はっきり意見を言ってくれて嬉しい誤算でした。
ジェンダー論に使われる教材として私の詩があったわけなので、ジェンダー論は何も知らないです。
私のクラスで学べるものがあるとしたら、何言っても良いということかな。
多様性という、色んな人がいて良いんだ、なんでもありなんだと言うことを教えたい気がします。

教えるのは向いていない様な気もします。
アメリカにいた時に同時代のものをほとんど読めなくなって古典、お経とかにはまっていったと思います。
いまは熊本に起こった紳風連の乱について書いています。
明治9年に起こった元武士の反乱で150人蜂起して、80人ぐらいが切腹している。
地元のものなので、ここ1,2年歴史文学館に行って読み解いてきました。
歴史文学は苦手な分野ですがやっていきたい。

「今日」(伊藤比呂美訳)
(子育てに頑張っているママに贈る詩がとても共感できると話題になっている。)
「今日、わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつは
だんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだとおもう

人に見られたら
なんていわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか
今日一日、何をしてたの? とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした。
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだって

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ」













2018年5月30日水曜日

堺屋太一(作家)            ・【対談】平成三十年(2)

堺屋太一(作家)         ・【対談】平成三十年(2)
又吉直樹(お笑いタレント・小説家) 
小説「花火」をヒントに、平成の若者が何を感じてきたのか、ポスト平成の日本について語り合います。
(*内容を上手く纏めることが難しく、うまく伝わらないかもしれません。)

堺屋:小説「火花」売れない芸人の話を読んで感激しました。
売れない芸人がいかにのたうち回る様な苦しみをして、大成はしないけれども生きていく姿が実に良く描かれていました。
又吉:小説を書くことになってテーマも自分で決めて良いということだったので、人と人との関係性みたいなところを描いていって、その後何か見えてくるのかなあと思ったのが一番最初に思い付いた部分で、芸人の先輩後輩の関係性を書いてみようと思いました。

「火花」は主人公である後輩の徳永、先輩が神谷。
*漫才師として弟子入りする場面が語られる。
又吉:お笑い芸人として19歳からやってきて辞めて行った後輩があるが、辞めて行ったことに恥ずかしがることはないと思いますが。
辞めた後輩が来た時に、恥ずかしがることはないといったが、何故恥ずかしがる必要が無いと言う事を、具体的に恥ずかしがることが無いという事を話せなかった。
判らないまま書き始めました。
堺屋:成功しなかった芸人の話はこれほど感動的なものだとは思わなかった。
成功した芸人の話は感動的だとは思ったが、成功しなかった芸人の話をこんなに奥深い人間観察で描かれたものは面白かったですね。
昭和は高度経済成長があったが平成になると大きな事が無い、どういうように平成を小説化すると言うと非常に難しい時代です。
小説の最後の神谷さんには芸人魂みたいなものを感じました。
大きな夢が実現しなくなった世の中に、自分にも可能性がある夢を実現しようとすると、TVに出ること、そのためには運動選手、芸能人になるか。
それに向かって実現することは大変ですが、TVに出て人気者になりたいという人がワーッと増えてきているのは平成末期の特徴だと思います。

又吉:ブラジル、アルゼンチンではプロサッカー選手になるのに貧困から脱出するためにハングリー精神でやってきたが、かつて芸人もそういう役割があったのではないかと思います。
堺屋:芸人を目指すことは非凡な人生でないと、平凡に生きていたのでは芸人にはなれない。
予想外の人生を出来るだけ、それを或る選択枝として子供達が選べるようなジャンルにしたいと思います。
小、中学校から、君は大学を出て大企業に勤めて、役所に勤めて定年まで行って、というような教育が多い。
平凡な人生を求められる、それを実現しているのが今の日本だと思います。
又吉:僕がそういうことを判ったうえで、勇気を出して芸人になったかというとそうではなくて、僕は多分最初からその枠組みからこぼれおちていて守るものが無かったから、チャレンジし易かった部分があると思います。
大学を出た後、大企業に就職できるというような条件があったらどうだったんでしょうね。
僕は将来何もないからチャレンジできた部分もあると思います。
堺屋:自分で起業した人、10人ほど組織して「だるま会」を作って、(1989年)数十億円位の売り上げだった。
皆さんに「一部上場会社になりましょうね」と言ったら8人とも一部上場会社になって今は日本の稼ぎ頭になっている。
そういう人を見ていると七転びハ起きで、昭和の時代はあったが、今は非常に少ないですね。
起業を起こす人は非常に限られてきている。
起業を起こす起業率は日本は世界で一番低い、というのは安全志向になってきている。

*辞めて行く徳永に対して先輩の神谷が伝えるシーン、言葉。
又吉:書いてゆく中で神谷がどういう考え方をしているのかということは僕の考えがあると思うが、辞めて行った後輩が別の仕事をしている事に対する後ろめたさがあるという
発言に対して、直ぐに何も言ってあげられなかったことに対して掘り下げて行った時に、僕と神谷という人物の考えは近いと思います。
堺屋:一つの職業を目指して途中で挫折して辞めて行った人、そういう人の積み上げの上に頂点が立っている。
これが世間ではなかなか見えないけれど貴重なものだと思います。
又吉:大きな夢を持てない、ということに対して内に秘めている人はあると思うが、言って行った方が周りに協力者が出てくるので、自分もチャレンジしやすくなる。
言うと周りから言われたりしやすい時代でもあり、なので内に秘めている人もいると思います。
夢はそれぞれあると思います。
ピースというコンビで二人で活動しているが、合い方が昨年拠点をアメリカに移したが、色々言われていました。
合い方のチャレンジ自体は凄く面白いと思う。
世の中をなめ過ぎているのではないかという様な声もあったりします。
本人が背負うリスクなので、恐怖はあると思うが、僕は応援したい。
今は芸人を目指しているのは減ってきていると思います。
自分で動画を撮って作品化する職業などが出てきて、平成の芸人のあり方とは違う新しい段階に突入し始めていて、小中学生に聞くと自分で動画を撮ってというようなことに興味を持って夢を感じている人がかなり増えています。

堺屋:多種多様な夢を持つ人が世の中に増えてほしい。
チャレンジをするということ自体が社会の多様性を作って、意外性を生み出すだろうと思います。
日本は意外性がほとんどない、多様性がなくなってきている。
この30年間、日本で行ったことは良くない、(一方でいえば平等で生きられるということだが)便利だが、面白くない社会になったと思う。
多少不便でも面白い社会になった方がいいと思う。
又吉:型にはまりやすい社会にはなってると思う。
僕がアパートを借りる時にアルバイトをして対応しますという芸人を目指そうとしている人に対して、良くないという社会の人はそれなりにまっとうなことを言っていると思うが、そこに閉じ込められてしまいやすいというか、夜に働く人に対しては迷惑だとか、だとすると夜間の店は成り立たなくなるので、そういったっことを伝えたら、考えを改めてはくれました。
でもそういった考え方は社会全体にあるので難しい。

堺屋:多様性のある世の中を作らないといけないと思っていて、国会でそういったことを論議してもらいたいと思っているが、日本の国を今後をどうするか、国会で議論してほしい。
小説「平成三十年」には新しい政治家 織田信介が登場して政府や社会の仕組みを根本的に替えていこうと言うことを提案している。
この織田信介に一番似ているのがトランプさんです。
トランプさんは既存の政党に乗らずに自分で支持者を集めて、織田信介が日本に登場したらちょうどトランプさんになるんですね。
組織されていない、恵まれない人に訴えて支持を集める政治家、既存の官僚と違うやり方をされるとメディアから批判されるが、それでもやり抜く強力な政治家が出てきたらいいなあと思っています。
又吉:どうなんですかね、刺激的な政策を持ち出す。
堺屋:危険は物凄くある、もしかしたら大失敗するかもしれない。
そういう刺激が一回あった方が平成30年眠れるような日本を打ち破れるかもしれない。
貧しい人の味方になれるような人はだれかということは非常に難しい。
小説の中でも既存の政党では出来ないことをやろうとしている。

又吉:日本人の終身雇用型の働き方とか、大人とはこういうことだというなんとなく持っているイメージにとらわれないようにそれぞれが考える。
刺激的な人が現れた時に手放しで乗るのではなく、それぞれが咀嚼して、それぞれが自分の頭で考える、人任せにしない時代になって行くと、自分が幸せになると言うことを含めて、もうちょっと安全な環境があるなかでも、自分が考えると言うことになっていけば面白くなるのではないかと思う。
堺屋:役人の引いたレールをエスカレーターのごとく動く社会は危険だと思う。
その社会をやったのが昭和10年代、戦争に向かったのは官僚と軍人が全部レールを引いてそこに日本人を乗せた。
選べる社会にしないといけないと思います。
芸能界で成功する人は一握りで、遥かにリスキーな生活だと思うが、日本にこれだけいると言うことが多様性であり、意外性だと思うので、そういう人を絶やしてはいけないと思う。
又吉:難しいのはそれが駄目だった時に絶望しない、終わりではないということが社会全体に広がったらいいですね。
堺屋:失敗、一つの目標を諦めた時に救済の方法として生活保護、福祉を充実しないといけない、底辺に安全ネットを引くことは必要だと思う。
又吉:上の世代の正義が日本全体の正義になっていて、僕らなりに大変だと言うことを言っても届きにくいし、甘えているのではないかといってつぶされることが多い中で、みんなやっている人もいてもうちょっとそれぞれ世代ごとに隔絶があってはいけないと思っています。
根本には愛みたいなものを持っていてもらいたいと思います。
堺屋:もっともっと又吉さんの職業の様な方が色々チャレンジしてほしいと思います。





2018年5月29日火曜日

堺屋太一(作家)            ・【対談】平成三十年(1)

堺屋太一(作家)         ・【対談】平成三十年(1)
又吉直樹(お笑いタレント・小説家) 
堺屋さんは20年前に「平成三十年」という小説で日本の社会の未来を予測し、その後小渕内閣で閣僚の一員として国作りに関わりました。
現在37歳の又吉さんは人生の大半を平成の時代に過ごしてきました。
平成27年にはお笑い芸人の若者たちの姿を描いた小説「花火」で芥川賞を受賞しています。
平成とはどんな時代だったのか、ポスト平成時代の日本に何を期待するのか、堺屋さんが書いた「平成三十年」を読み解きながら二人にとっての平成を語りあいます。

又吉さんは大阪府寝屋川市生まれ、37歳、作家。父親が沖縄出身。
平成27年に「花火」で芥川賞。
堺屋さんは大阪市生まれ、82歳、通産省時代は大阪万博を発案。
堺屋:沖縄が本土に復帰した時沖縄海洋博の準備をする。
当時首相だった佐藤栄作さんに沖縄はどうなったら成功なのかと聞いたら、人口を減らすなと言いました。
沖縄の人口をどうやったら減らさないか、観光業よりないと、ハワイのような街にしたいと思って、万博のような博覧会ということで沖縄海洋博を開きました。
未来予測小説を多数発表、戦後のベビーブーム世代を団塊の世代と名付けたのが堺屋さん。
「団塊の世代」がベストセラーになる。

「平成三十年」は平成9年から10年にかけて新聞に連載していた小説。
主人公は団塊ジュニア世代で43歳、キャリア官僚の木下和夫。
木下がベンチャー企業出身の大臣による改革に巻き込まれてゆく。
平成30年の社会を取りまく背景として少子高齢化、社会保障費、医療費の増大、財政赤字など閉塞感にある日本が予想されていた。
朝日新聞から頼まれた時に、平成になって5,6年の頃だったので、平成の終わりごろを予測しようと思いました。
自分が生きられる限界が平成30年ごろだと思って、好奇心と一緒に長生きしたいと思いました。
平成9,10年はバブルがはじけて冷戦構造が終わって、大変に時代が変わる、激動が続くのではないかという時代でした。
激動ではなく静かな時代になるだろうと言うのが私の予測でした。
小説の第1章は[何もしなかった日本]という章の名前になっているが、今見ると何もしなかった日本というよりもっと何もしなかった日本というのが現実です。

小説の冒頭では朝の木下の家庭の消費税の話、8%から10%、12%となり20%を検討しているということを夫婦で会話している状況から始まる。
年収は4000万円というものの収入の4割は税金と社会保険に天引きされる。
20年前に比べて消費者物価はおよそ3倍になっている。
21世紀当初木下の手取り年収800万円、月給40万円強にしか当たらない。
そのうえ消費税12%、燃料税、酒たばこ税、自動車税などお金を使うたびにかかる税金がある。
何とかやっていけるのも公務員宿舎の家賃が安いからやっていけるようなもの。
民間人が聞けば贅沢な感じだ。・・・・・。

堺屋:インフレ傾向だと思ったが、現実にはデフレになって行って物価が上がらない、石油が値下がりするということで逆になったが。
この小説では消費税も20%ぐらいにあがることになっているが、だから何もしなかった日本よりももっと何もしなかった日本ではないかという気がします。
小説のなかでの予測で、鳴り物入りで取り入れられた小選挙区制が、清潔な政治も円滑な政権交代も起こさないことへの幻滅、貧富の格差増大、過疎と集中が進むことへの憤り、ソフト分野の進歩は欧米に立ち遅れ、大量生産ではアジアの成長地域に追いつかれたといういらだちも大きい。
まさに今の時代。
住居地域の高齢化、森林の荒廃、農村の過疎、観光業は割高、地域サービス型商店街は空洞化、高齢者生活支援、どれも上手くいっていない。
これも予測があってしまった。
一番当たったの少子高齢化。
厚生労働省は団塊の世代の波が何度もやって来ると言っていたが、団塊の世代の子は増えたが、孫は増えていない。
日本の現在の人手不足、成長しない、低欲社会をつくっている。
産児制限が行き過ぎたこともあるが、結婚そのものに男が結婚したくなくなったんですよ、これが一番日本の欠点だと思います。

又吉:結婚するタイミングが遅れていっているのは経済力の部分もあると思っています。
堺屋:貧しくても子供は出来る。(終戦後の団塊の世代)
   少子化は理屈と結果が逆になっている。
   どうしたら子供が増えるかを内閣も真剣に考えないといけない。
又吉:僕らの生活水準が下がっている中で、ドラマに出てくるような大人にいつになったら大人になれるのかと言う、僕らは何処で大人になるんだろうと言う、そこにとらわれ過ぎていて、平成の親世代のあり方というのと、それとは全然違うタイプの家族の作って行き方がもう少し何パターンかあればと思っていて、一つしかない様な気がする。
自由にスタイルにこだわらず、成功例を僕ら世代で何個か示すことが出来れば、新しい形の家族の作り方が出来ていけるのかなと思います。
堺屋:官僚主導の、結婚して子供を託児所に預けて働き、家をローンで組んで建て、中高年になったら子供とは別れ、老夫婦で寂しく暮らす、そういった流れの生活パターンをこなすことによって、福祉、税金でも有利にできているので、世の中がワンパターンの人生になってきている。
楽しい社会は多様化、いろんなパターンで生きられる人生でないとたのしくない、多様化が必要です。
もう一つは意外性が必要、多様化と意外性を排除してしまう。
安全で安心で正確な国はないがどうも楽しくないという、これを楽しい社会にしなければいけない。
又吉:官僚主導のパターンみたいなものに入れなかった人達は、なんか劣っているんだと思い過ぎているから、違う価値基準で楽しく生きれるんだと切り変えることができたらどんどん多様化していくのだと思いますが。

連載が終了後に小渕内閣の経済企画庁長官になる。
堺屋:その頃はバブルがはじけて倒産会社の処理がたいへんでした。
又吉:サッカーに当時明け暮れていたが、ニュースは暗かった印象があり、99年になった時に本屋の棚に前向きで行こうとかという本がいっぱいあり、今前向きなのではないと思いました。
堺屋:先ずは経済を回さなければいけないと、高度成長ではなくてもう一度家庭生活が楽しい日本にしたいと思いました。
でも駄目でした。
隣近所との付き合いと言うことも無くなってきていて、会社から帰ったら寝るだけといった状況でした。
先ずは経済危機を乗り越えて、その次に楽しい日本を作ろうと、万国博覧会は楽しかったと思います。
イベントをどんどんやる世の中が出来たらいいと思います。
音楽でも演劇でももっともっと人々が集まれるような世の中が出来たらいいと思います。
私自身がやったのは大阪万博と沖縄では海洋博をやって、沖縄を観光地にして人口も増えて成功だったと思います。

又吉:予想した問題点を阻止できなかった点とは?
堺屋:一番は小渕総理の急死です。
小渕さんとの間でこうやろうと話し合ってやってきたことができなくなった。
森内閣では全閣僚はそのままで森さんだけが新たに入ってきて不慣れなところもあり、官僚がどっと入ってきて官僚主導になって、官僚主導からの脱却という小渕さんの願いが挫折してしまいました。
世論では改革を望んでいたのは1割で、望んでなかった人は1割で、8割が無関心で、その8割がどういう方向に行くかは、マスコミとか事件とか偶然的なことで動く訳です。
改革をしていこうと言うのはいつの時代でも1割程度です。
その流れを作っていくのが政治だろうと思いますが、なかなか難しいところです。
小泉さんは改革を進めて良かったと思いますが、小泉さんが終わったらもとに戻ったという感じですね。

又吉:昭和から平成になった時は8歳でしたが、よく覚えています。
子供心に何故か昭和が終わるのは嫌だと言うふうに思っていました。
平成になってそこからは自分がこれから大人になっていくという意識はあったが、小学校の先生にこのなかで大学にいけるのは半数だと言われて、大人になって調べてみたらやはり半数だった。
自分はどういう大人になって行くのか、何ができるのかとかは考えていました。
芸人になりたいと思ったのは小学校3,4年生位の時でした。
家は貧しくて月に一回位外食に行って、焼き肉屋に行っても兄弟で一番下だったが、父親だけが一杯食べていて、僕が最初にお茶漬け頼んだりして気を使ったりしていました。
高校卒業後吉本の養成所に入って、上京します。
アルバイトをしたりもしましたが、ネタを作る時間に当てたかったので、時間を有効に使うようにしていました。
堺屋:芸人になりたいと言うことは大変だと思いますが、どこから出てくるんですか?
又吉:考えることが好きとか、自分の作ったものを発表したいと言う欲求と、楽しんでもらった時に凄くうれしいということです。







2018年5月27日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
グリーグ作曲『ペール・ギュント』組曲から「朝」
フルートの調べ、グリーグがどんな朝をイメージしたかということは謎。
劇の中ではアフリカのモロッコで迎えら朝ということになっているが、作曲家は北欧のノルウエーなので、北欧の海辺などの朝を想像して良いのではないか。
ウイーンフィル


ハイドン 作曲 交響曲 第6番 ニ長調『朝』 第4楽章 Finale,Allegro
ハイドンは交響曲を104番迄作っているので、早い時期の交響曲。
第1楽章は日の出を彷彿とさせるゆっくり堂々とした序奏に始まる。

シューベルト作曲 「美しき水車小屋の娘」のなかの 第8曲「朝の挨拶」
切ない青年の気持が繊細に歌われている感じ。

*シューベルト作曲 「美しき水車小屋の娘」のなかの 第2曲「どこへ?」
青年が旅を始めたばかりのころ。

ラフマニノフ 編曲 第2曲「どこへ?」 ピアノ演奏
キラキラ感と川の流れのうねりが感じられる。

リヒャルト・シュトラウス 「あした」
新婚の妻パウリーネのために書かれたと伝えられる「4つの歌曲」作品27の締めくくりに位置する。簡素ながら、非常に繊細な美しさを持った作品。

ヨハン・シュトラウス 「朝の新聞」
オッフェンバックは日頃から世話になっている新聞への感謝をこめて、ウィーンのジャーナリスト協会の「コンコルディア」が主催する舞踏会に、『夕刊』というワルツを作曲して提供した。
シュトラウス2世にもワルツの提供を依頼するとともに、タイトルを『朝の新聞(朝刊)』としたいと提案し、シュトラウス2世はそれを受け入れ作曲した。


2018年5月26日土曜日

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私
秋川さんは15歳でモデルとしてデビュー、現在も女優、タレント、ビーズ作家
の顔を持っています。
母の介護のことをつづった本を出版して話題になりました。
秋川さんの母親は82歳で認知症になり、7年間の介護の末に2016年89歳で亡くなりました。
介護中に自らも介護施設で働いて様々な事を学んだといいます。

現在65歳。
「60歳、だからなんなの」を出版。
1968年化粧品会社のサマーキャンペーンとしてモデルとして活躍、雑誌のトップモデルとしても活躍、役者、舞台でも活躍。
ビーズの刺繍の教室をやってもいますがBS放送で仕事をしたり、舞台、ラジオの仕事、NHKの介護の番組、講演もやらせてもらっています。
母が店をつぶしてしまって働きなさいと言われて、校則の厳しい学校だったのでアルバイトなどできなくて、学校を変更して、ひょんなことからモデル事務所の面接に行った時に或る人に出会って、その人は繊維メーカーの広告を一手に引きうけてた方で、繊維メーカーの専属になって、同じスタッフの人が化粧品メーカーの宣伝もしていて、あっという間にTVコマーシャルなどに出るようになりました。
人生って一瞬で変わるんだと言うことを高校生の時に経験してしまいました。
それから自分のイメージについてゆくのが大変だった。
金銭的な問題も解決しました。

40歳代で、娘の花嫁衣装は自分で作ると勝手に決めて、ビーズ刺繍の教室を始める先生と出会って、ウエディングビーズ刺繍は綺麗だと言われて、習おうと思いました。
何年かして大腿骨骨折という大けがをしてしまい、キャシー中嶋さんがお見舞いに来て教室を開きなさいと言われて、全国15か所ぐらいのカルチャースクールで教えていました。
生徒が300人ぐらいいましたが、辞めて行く理由がほとんど介護でした。
今は細々とやっています。
2014年7月に「母の日記」を出版、「60歳、だからなんなの」を去年出版。
「母の日記」は親子の確執のあるなかでの介護で覚悟して書いたが意外と批判は少なかった。
あけすけに書いてよかったと思います。(親の介護はそうそう綺麗事では行かない)
2016年6月に89歳で亡くなりました。
ほっとした思いはあります。

2年前ぐらいからは家族を認識することもできませんでしたし、言葉を発することもできなくなり、施設に入って施設の人には感謝です。
私なりにやることはすべてやったという自負はあります。
息子31歳、娘は30歳で特に娘には介護を手伝ってもらって感謝しています。
私の父はアメリカ軍人で私が生まれる直前にベルリンに行ってしまって、ほとんど私を育てたのは祖母で、母は店をやって好きな人が出来てしまうと、店はどうでも良くなってしまうタイプでした。
母の認知症が発覚したのは2009年ごろでした。
買い物をしても後で持ってきますと言って、払わなかったことが色々ありました。
これからどうしたらいいだろうと深刻になりました。
足腰は丈夫だったので2,3時間は歩きまわることもありました。
ケアマネージャーさんを紹介してもらう事になり、デイサービスのことなどを商店街の人達から教えてもらいました。
2年の在宅介護、3年間の有料老人ホーム、2年間の特別養護老人ホームに入ることになりました。

通帳は母に預けておいたので、見事に全部0円に近かった。
詐欺に引っ掛かっていたのか、男性に貢いできたのかなと、その時に思いました。
唖然と思いましたが、笑うしかなかった。
仕事を始めてから最も貧乏になりました。
母の日記を見付けて、大きなお金が動いている時にNとか、Mとか書いてあり、誰かに貸しているのなら取り戻そうと思ったが。
日記には、私、家族に対しての罵詈雑言が書かれていました。
常にストレスを持って、余り前向きな人ではなかったし、人生を余り楽しまなかった。
母に言わせれば戦争のせいと思ってネガティブに思っていて、常に不満を持って生きてきて、その救いを男性に求めるけど男性もお金目当てだったのかなと思います。
母の存在を認めているつもりだったが、喪失感というか、そういったものが段々と出てきて、この思いのままで在宅介護は無理だと思いました。
介護の現場ってどうなのか、いくら用意したら良いのかとか、介護する側はどんな現実なんだろうと言うのを見たいと言ったら、或る企業の社長からではうちで働いて見ますかと言われて、介護施設で働きました。

母が亡くなる前から働き始めました。
レクレーション施設の運営を手伝いをするのが仕事でしたが、人手が足りないのが現実で、介護される側もお金を払っているんだから何をやっても許されるだろう的な考えの方の人もおり、寄りそう介護一人ひとり個性に合わせた介護は理想的ですが、現実はいつも人手不足で厳しい現場でした。
腰をみんな痛めます。
ロボットにも手伝ってもらわないと大変だと思います。
ジュエリーコーディネーター3級という資格を取りました。
体力を考えると介護の資格は厳しいと思いました。
私はお金の援助はできないが、人、いろいろ人材で伝手を使ってと言うことが私に出来ればと思って、若い方を巻き込んで一緒に人生を楽しんでいかないといけないと、いろんな分野の人たちと話をしてお互い刺激をし合うので、お年寄りも勿論呼ぶし面白いです。











2018年5月25日金曜日

柚木沙弥郎(染色家)           ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)

柚木沙弥郎(染色家)     ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)
工芸とか手仕事とか、それまで興味をもたなかったが、一つのことを極める、柳先生にしても芹沢先生にしても、色んなことをやるな、何か一つの事を一生懸命やる様に言われました。
特に工芸は材料、仕事のプロセスが非常に大事な仕事なので、およそ半分以上材料、仕事の工程から生まれていると思うんです。
体でもって覚えないといけない、良い材料は僕たちの時代は自然の物、絹、木綿とか、手紬の物が段々そういうものは日本では作れなくなったがまだありました。
良い材料があれば染めなくてもいい、そのもの自身に美しさがあるから。
簡単に言うと染色なんか無くたっていいわけです。
生地を生かすことが大事。
模様を感じないほどそこに一体化すると言うこと、生地を生かすような模様を付ける。
洋服にするとかカーテンにするとかは、後半の問題、布を獲得した人がすればいいことであって、布を生かすような模様を作ることが私の仕事という考えです。
日常の色々なものを見ていると、見過ごしているようなものの中に面白さがあるものがたくさんあります。
自然の石が美しいと思っていたが、柳先生はそれに人間の手を加えた、彫刻すると言うこと、その時やっぱり美しくなる。

生け花と同じように手を入れていって、そういうものを作ると実物の花よりももっと美しいものになる、人間が作る造形の面白さというもの、我々にはそういうところが面白いんです。
伝統に縛られたら面白くない。
インドの刺繍なども親から伝わったものだと思いますが、それを繰り返したらあんなには続かない、自分のひらめきを入れて行くと続いてゆく。
決まりごとがありながら今自分が心惹かれるものを入れていく、だからその仕事が繋がって行くと思うんです。
こうやんなさいといわれて仕事は続くものではない。
面白さを発見することです。
そういう状態にもっていくしかない、社会全体の問題だと思う。
一杯ものがあって便利で、特に都会などはそうだが、そういうものの中でも静かでいられるか、社会全体を静かにして統一のある感じ、そういう方向に持って行く必要がある。
パリなんかそういう街ですね。
成熟したというのはそういう文化だと思う。
どんなに忙しくてもバカンス、そういうことを優先させる、前からの流れがある。
自分がやっている仕事が安心してすることができる、そういう社会が一番幸せだと思います。

欲しいもの、ものではなくて人間の本質的なものは何か、それは結局生きていること生き生きしている者には魅力があり、みんな生き生きしたい。
そこんところがだんだん薄れちゃったと思います。
誰かが「こんにちわ」と言い出せばいい。
ゴミ出しに持って行くが、高齢者がいて「お早うございます」と言っても声を出さない。
都会の生活というものはそういうもんなんですよ。

60歳代にスランプがあったが、窮屈な考えがありました。
こうでなくてはならないということが心の中に壁を持っていました。
そのことに気が付いたのは大きな展覧会があって、やりつくしたような思いがあって染色は辞めようかと思って、後は自分の真似の繰り返し。
たまたまアメリカのサンタフェに行って、サンタフェはメキシコに近くて、フォークアートミュージアム(おもちゃの美術館)があって、アレキサンダー・ジラードがハーマンミラーのテキスタイル部門デザインディレクターをしていて、世界のおもちゃの展示をしていて、メキシコの人が藁とか針金だとかそこらにあるもので作ってあって、それを見た時に生き生きしていた。
それを見ている時に染色にこだわることはないと思った。
自分の中に帰れば何をやってもいいんだと思いました。
つまり生き生きしていることはこういうことだと思いました。
印刷に元々興味があって、72歳で初めて絵本を出版。
絵本は子供の本だが子供に限らないと思う、大人が見てもいいと思う。
僕自身が面白いからやるんです。
芸術という言葉は好きではなくて、もうちょっと気楽に考えたらいいと思う。

85歳で初めてパリのギャラリーで個展を開く。
新人として挑戦。(元女子美術大学の学長ということは伏せて)
父親が第一次世界大戦の時に留学して、写真集があり3冊になったが、戦争で焼けてしまった。
父から聞いていたことは文化、アートを大事にするところだとよく聞いていたので何としてもパリに行きたいと思っていました。
ギャラリー・ヨーロッパという画廊があったが、認めてくれないと貸してはもらえない。
反響があり3年連続で開催しました。
フランス国立ギメ東洋美術館の学芸員の人が来て、92歳の時にギメ東洋美術館で私の展覧会が行われることになりました。
作品も今パリの国立の美術館に収蔵されています。(寄贈しました)
寄り道があったとしてもそれでいいと思います。
オファーがあれば僕は張り切るんです。

ネガティブな部分があるが(体力が追いつかないとか)、楽しくなくちゃつまらないはず、本当は人間というものは明るいと思う、肯定的、ただそれが見えていないだけ、現在色々苦しい事があるから見えないだけであって。
軍隊で周りに囲まれても、草一本が生えているだけでそこに楽しみを見つけるとか。
人間は区切らない、今何歳だとか区切らない。
そこをどうやって仕事、遊びととかをどうするか、これからの一つの問題だと思います。
気力、情熱、熱があれば出来ると思う、冷めてしまったら駄目ですね。
或る程度のおっちょこちょい性、母親からくぎを刺されてる調子に乗るなということを余り自分でセーブしてしまうと駄目。
チャンスがあればやる、やってみないとわからない。
作品自身と周りの環境、その両方がうまく溶け合って展示はあると思う。
くそ力みたいなものが民芸館にはある。
民芸館には出来るだけ一人で行ってほしい、自分で自分に自問自答する時と場所なんだと、自分の場を作って欲しい。