2017年12月31日日曜日

原口泉(歴史学者)           ・郷土の英雄に魅せられて

原口泉(歴史学者・大河ドラマ「西郷どん」時代考証)・郷土の英雄に魅せられて
来年は1868年の明治維新から数えて150年の節目の年になります。
これを記念して西郷隆盛の生涯を描いた大河ドラマ「西郷どん」を1月7日から放送します。
林真理子さんの原作をドラマ化したもので時代考証は地元の歴史学者原口さんが担当します。
原口さんは東京大学で日本の近代史を学んだ後、永らく鹿児島大学教授として近代日本史の講座を担当しました。
その幅広い知識から「篤姫」や「翔ぶが如く」などの大河ドラマの時代考証を手掛けて来ました。
原口さんに言わせますと、西郷隆盛の国民的な人気は庶民性や大衆性にあるが、その原点は西郷の人格にたどり着くと言っています。
幕末期の鹿児島では西郷のほかにも魅力的な人物がたくさんいると言います。

林さんが鹿児島空港で「西郷どん」と言うタイトルの本が目について、それでこれにしようと言うことで原作のタイトルがそうなったと言います。
大河の時代考証は3つ目か4つ目ですが、こんなに盛り上がっているのは初めてです。
1月7日には鹿児島市内だけではなくてパブリックビューイングがあります。
オンエアー前から盛り上がってます。
西郷隆盛役が鈴木亮平さん、大久保利通役が瑛太(えいた)さん、二大俳優の共演です。
田辺聖子さんが1994年 20年以上前に西郷隆盛を書きたいと言うことで取材した時のお供した時がありました。
女性として西郷隆盛を描こうとしたが、御主人を亡くされてから幻の女性に依る西郷隆盛伝になりましたが、女性として西郷隆盛を描いてみたいと林さんが取り組みました。
西郷隆盛と3人の妻、京都でお世話をしたおとらさんらとのきめ細やかな交流を描くのは男性ではないでしょう。

篤姫の世話役をした西郷が恋心を抱いていたと言うことが、原作ではそうなっている。
林さんには心の中までは判らないでしょうと言われてしまいました。
(そういったフィクションの部分もある)
心の内は作家、脚本家にお任せする。
大きな筋は皆で合意する。
「篤姫」では家定はうつけのふりをしていると言うことで、嫁いでから篤姫はそれに気づくと言うことになった。
心の内に立ちいる居ることはドラマですよね、、人間の喜怒哀楽、羨望、嫉妬、憎悪、尊敬、憧れそういったもろもろの感情がドラマの人物に投影されている。
徳川慶喜と島津久光との2人の政治的対立、駆け引きと言う政治の世界、久光と西郷との対立、奄美大島の3年間の逆境、試練の時に女性の力によって人間性を取り戻してゆく、そういったことが心を打たれます。
愛加奈といと夫人が話をする場面が原作にはあるが、指摘したがそれは変えられませんでした。(事実としてはそれはないが)
ドラマでは菊次郎をめぐっての会話がある。
「西郷どん紀行」では史実に従って伝えたいと思っています。


1963年にケネディーが暗殺されて、ドラマで桜田門外の変で井伊 直弼が暗殺されて、歴史を身近に感ずるショッキングな体験がありました。
1964年にはアメリカに留学。
先の大戦とは鹿児島では西南戦争でした。
父も先の大戦とは西南戦争でした。
留学先はネブラスカ州でさきの戦争は南北戦争なんです。
対立はいまでも引きずっている訳です。
明治維新を成し遂げた最大の功労者は西郷隆盛ですし、私が通った甲南中学は近隣三地域の48名の偉人たちの名前が書かれた石碑のある学校でした。
近所は川村純義という海軍大将の家で、明治天皇の信任が厚くて昭和天皇がお生まれになった時に、3年間川村家で育ったんです。
父も薩摩藩の研究をやっていましたし、そういった処で育ったので、明治維新、廃藩置県、武士が一日で特権を自らかなぐり捨てた社会変革で、200万人いた武士が一挙に特権を失った明治維新、廃藩置県は凄い革命だと思いました。
自分の研究の主題に据えたのは、逆にアメリカの体験が有ったのかもしれません。
内村鑑三さんが西郷隆盛を世界に紹介しましたが、西郷さんの人格を評価したのは「ラストサムライ」というハリウッドの映画でしたね。

桂久武は親友として子供のころから育った。
沖永良部島に西郷が流されたときに家族の面倒をみたのは桂久武です。
愛加奈、菊次郎、お菊の面倒を見ています。
禁門の変、薩長同盟でも桂久武がアシストしている。
慶応3年討幕に藩論を纏めたのは桂久武、桂久武は薩摩藩の家老ですから。
藩主が3000人を率いて11月に京都に昇ると言うことはいままでに無かったことです。
その兵力が鳥羽伏見で旧幕府、合津、桑名に圧勝するわけです。
西南戦争では共に闘って城山で西郷と命運を共にする訳です。
桂久武は討幕戦争は新しい時代を作るので武士の時代を終わらせるので刀を鍬に持ち替えて開墾することを家来に命じている。

西郷が薩摩に帰って来て農本主義の思想を唱えるが、それを教えた上司がいて、迫田太次右衛門利濟と言う人です。
郡奉行に迫田がいて、迫田は痛烈な藩政批判をして、自分で職を去るが下士の西郷に歌を残している。
「虫よ虫よ 五ふし草の根を断つな たたば己も共に枯れなむ」
農民に対しては慈愛を持って農政しないといけない、と上司として身を持って教えた。
奄美に行ったときに、究極の目標、四民平等に辿り着いたのではないかと思う。
そのためには農民に対して慈愛の眼を持って接する「敬天愛人」の思想にたどり着いたのだと思う。
明治維新の革命は西郷隆盛の「敬天愛人」の思想に裏打ちされていると思う。
西郷さん、大久保さんが倒れてから農業を犠牲にして工業を偏重して資本主義化を図った、産業革命にもいち早く成功した。
農業と工業を一緒になって発展する自然な姿というものがおざなりになって、私たちが取り戻さなければいけない時代になっていると思う。
これからは農本主義に基盤を据えて安心、信頼、すぐれた日本の物を世界に提供する、食のジャポニズムという時代が到来していると思う。














2017年12月30日土曜日

高橋睦郎(詩人)            ・母を語る(H21/2/17 OA)

高橋睦郎(詩人)            ・母を語る(H21/2/17 OA)
昭和12年福岡県生まれ、福岡教育大学を卒業後上京、広告会社に勤務、コピーライターなどの仕事に関わります。
中学時代から雑誌、詩や短歌、俳句などの投稿を始め注目されるようになります。
読売文学賞や高見順賞などを受賞、これまでにオペラ、新作のギリシャ悲劇などの台本作りも手掛けられました。
平成29年には蛇笏賞、11月には文化功労者に選出されました。

湘南に住んで23年になります。
育ったのが門司で海辺に帰ってきたと言うような感じです。
24歳の時に東京に来ました。
兄弟は3人ですが、僕が生まれて105日目に父が急性肺炎で亡くなって、その次の日に姉が亡くなっています。
次の姉は健在です。
父が亡くなったので父の妹の処に子供がいないので姉をやってほしいと言うことになりましたが、母がそれに耐えきれずに、僕と姉に毒(睡眠薬)を飲ませて、自分も飲んで、家に釘を打ちつけ死のうとしていた。
その時にたまたまじいさんばあさんが訪ねて来て、くぎ抜きでこじ開けて瀕死の親子を医者を連れて来て、蘇らせたわけです。
僕が生まれて200日ぐらいの時でした。
母は苦労ばっかりしてきた人で父と暮らした6年間が一番幸せの時だったようです。
ですから喪失感が凄かったみたいです。
思い出としての形見が二人の子供だけだったので、その半分が奪われることが耐えられなかったんでしょうね。
父が亡くなった後はいつまでも骨壷をお墓に入れないで父の身体の形にお骨を畳に並べてじーっとみていた人ですから。
回復したら伯母の処に姉を連れて行ってしまいました。

母は僕を育てるために色々なところに、旅館の仲居などをして働きに行きました。
そのうちにずーっと年上の世話をしてくれる人(愛人)が出来て中国に行っています。
母から預かった育てるお金の何分の一かで、じいさんばあさんは僕を他人に家に預ける訳です。
小さい時には他人の家を転々として、ままっ子扱いされたりしていました。
姉も僕のことを自分の兄弟とは思っていませんから、僕はつまはじきされていました。
小学校に入るちょっと前に母が帰ってきました。
親戚の人に連れていかれて、下関に行きました。(海を初めてみました。)
母が縁側に支那服を着て、ヒスイの指環をして煙草を吸っていて、よその人という感じがしました。(最後までそんな思いは抜けなかった。)
母と部屋を借りて住みましたが、母の世話をした人(妻子のある人)が訪ねて来る時の為の家でもあったわけです。
僕はその人をお父さんと言うように言われていた。(父ではないと言うことを知っていた。)

母は僕に対して厳しかった。
言葉使いも敬語を厳しく母に教えられ、中国での日本人の標準語と地元の子供達の喋る言葉を使い分けていた。
学校の試験で15点取ってきたら、鍋敷きで叩かれ釘が頭に刺さる位血が噴き出して、それから80点以下を取ってきたことはない。
一方、近所の子に虐められると、その子供を追っかけて行って、親がいる前でも鳥小屋に入って行って糞だらけになる子を引きずり出す人でした。
男の人ともそのうち別れて二人だけになり、生きていけないから死のうと言うんです。
一人で死んでください、でも僕は生き残りますと言ったら、その言葉に引かれて母も生きてきたと後に言ったようです。

母は少女時代から凄く映画が好きで、映画館の仕事があると言う話があったが子供がいると無理と言っているのを聞いて、僕がいなければ楽しく映画が見られると思って、小学校の4年の時に家出をしました。
ばあさんのところしかなくてそこにいたら、母がたずねて来て、その後母ともしばらく話が出来なくなった。
そのうち学校に行ったら英雄のように扱われました。
母は担ぎ屋になって一緒に付いて行ったりしました。
物凄く涙もろい人でした、人によくしてやることが大好きで、亡くなった後で随分借金がありましたが、人の代わりにお金を借りてやったりしていて、母のボランティアの為に僕は見も知らぬ人の借金を払っていました。
母は面白い人でした。

小さい頃のことですが、霊を呼び出す定型の言葉があったり、降りてくる定型の言葉があり、それを聞いていてそれを覚えてしまい、この世の言葉以外に言葉がある、目の前の人以外の遠くからと通信できる言葉があると言うことを知ったのが、詩歌体験だったと思います。
4つ位の時だったと思います。
友達と遊ぶよりも一人で遊ぶことが多かったので、何にも要らず遊べるのが言葉でした。
本を読み、書くことになって行きました。
母はどこかに行くと本を買ってきてくれました。
父の蔵書がありましたが米とかいもとかに変わりましたが、改造社の日本文学全集の中に少年文学集と言う本がありました。
「こがね丸」巖谷 小波、小川未明、白秋、最後に鈴木三重吉の「古事記物語」がある。
その本が僕にとっての文学の繋がりでした。
「こがね丸」は文語体、「番茶会談」が幸田露伴、「小公女」を若松賤子さんの訳、わたしの初めての文学の本でした。

その後古文に出会っても全く物怖じしなかった。
判らなくても子供にはとにかく本を与えたらいいと思う。
中学では働いて借金に使って、修学旅行には高校ではいきませんが、母も苦しんでいるのでそのことを恨んだことは一度もないです。
(中学の時の修学旅行はお金を出してくれた人がいましたのでなんとかいけました)
反抗期は無かったです、母も働き詰めだったし、そんな間もなかったが、たまに喧嘩もしますが私に対しやることはちゃんとやって一言も言わなかった。
そうすると堪える訳で、母の会社に行って謝ると、うちの子は謝りに来る子だと他で自慢していたようですが。

小学校4年ぐらいから書いたりしていましたが、習慣的に書くようになったのが中学校1年生からです。
詩をノートに書いて先生に渡して評価してもらっているうちに習慣になりました。
「ピン止め」
金色に光るピン止め。 セメントに埋もれたピン止め。 指先ではじいて見たとて絶対に取れぬピン止め。  いったい誰が落としたのでしょう。 キラキラと光るピン止め」
一番古い記憶の残っている詩です。
福岡学芸大学に進む。
中学卒業後就職する予定だったが全部落ちてしまった、高校卒業後も全部落ちたが、ある受験先の支店長から聞いた話では、成績は本当に良かったが母子家庭だから入れられないと言われてしまいました。(それだったら何故試験を受けさせるのかと思いましたが)
大学に進み教師になるつもりだったが、結核になってしまって、しかたがないから東京に出て来ました。
コピーライターになるが向いていなくて編集の方に回されました。
私の稼ぎで母を養ってゆくようになりました、母が亡くなったのは17年前でしたが、「私がお前を育てたよりも何倍もお前に生かしてもらっている」と言っていました。

「12の遠景」と言う本を出しましたが、母のことを洗いざらい愛人のこととか書きましたが、母がそれで寝込んでしまい、訴えようと姉に言ったそうです。
倍の仕送りを送って、最後には5倍ぐらい仕送りをしました、なにも訴えられませんでした。
山本健吉賞を貰ったことがあるが、会場に母と姉が来て、「うちはどなたかが発明した文字を原稿用紙にうずめているだけなので大したことはございません」と言ったようです。
父は読書家で母は話がおかしい人でした、昔話とかとんち話とかを物凄く頭の中にしまいこんでる人でした。
だから私は学校のお話会のスターでした。
表立った教育ママ的なことは全然ない人でした。
母も本はよく読んでいました。

70歳になった時に母にあてて書いた詩
「お母さん、僕70歳になりました。 16年前78歳で亡くなったあなたは今も78歳。
僕とたったの8歳違い。 お母さんと言うよりも姉さんと呼ぶ方がしっくり来ます。
来年は7歳、再来年は6歳、 8年後にはおないどし、9年には僕の方が年上に、その後はあんたはどんどん若く、姉さんでなく妹、そのうちに娘になってしまう。
年齢ってつくづく奇妙ですね。」

「母が亡くなった後、母が僕を抱いている写真を机の前に飾っていますが、60数年前の若い寡婦が幼い男の子を抱いた写真、毎日見ているうち奇妙なことが起こりました。僕の記憶の中の晩年のあなたが日に日にぼやけ薄れついには消え、写真の若いあなたがあなたになった。 今ではもう老いたあなたの像を再生することはほとんどできない。 
一体僕はなにをしたんでしょう。 僕の完遂の結果あなたは写真の中に入って若い寡婦になりおうせた。 僕も写真の中の男の子になりおうせた。 と言いたいところだがではこの写真の前にいて写真の中のあなたと僕を見ている老人はだれでしょう。
今僕がしなければならないのは写真の前の奇妙な老人を殺すこと。
見事殺しおおせた暁にはその時こそ言えますね。 僕1歳になりました、もう2歳にも3歳にも勿論70歳にもなりません。 安心してずーと25歳の若い母親でいてくださいね。 僕の大好きなたった一人のお母さん。」
息子にとっては母親は何時までも母親だし、こっちは息子ですね。

母はこの子を育てなければと言う思いで愛人という立場がありましたが、そういうことがあったために或る距離がいつもあり、母の胸で泣いたと言うようなことはなく、その寸前で止まって、結果的には距離があったと言うこと良かったと言う気がします。
母は正直な人でした、全く嘘が付けない人でした。
それはなによりも僕にとって宝と言うか、そういう人だったと思っています。







































2017年12月28日木曜日

望月明義(日本白鳥の会会長)         ・スワンのなみだ

望月明義(日本白鳥の会会長)         ・スワンのなみだ
長野県安曇野市住まい、74歳、傷付いた動物の医療をする動物の病院を開設しています。
近くの川や湖には多くの白鳥が渡ってきます。
その中には人が捨てた釣り道具などに含まれた鉛を飲みこんで死亡するケースも後を立ちません。
望月さんは苦しむ多くの鳥たちのために新しい施術法を工夫して命を救って来ました。
環境汚染で苦しむ動物たちは身を持って人間に警告を発しているとの望月さんのお話を伺いました。

犀川の河原に行ってみると150羽程度、去年は600数十羽、多い時には2000羽を越えていたこともあるが、1がつに向けて増えて来ます。
ここの白鳥は東北から新潟経由なので、新潟に落ち穂が十分にあると、こちらは増えてこない。
シベリアで子供を産んでやってくるわけです。
11月頃から来て3月いっぱいで帰って行来ます。
世界中で6種類あり、日本に来るのはオオハクチョウ、コハクチョウで7万羽が来ます。
コハクチョウが3万5000位です。
くちばしが黄色と黒の模様で見分けるポイントがあります。
トランペッターと言う大きな鳥が時たま迷ってきたりします。
クロエリ白鳥:アルゼンチンにしかいない。
黒白鳥もいます。

平成2年から動物病院をやっています。
その前は長野県の職員で動物と携わってきました。
犀川が流れていて、昭和45年に白鳥の餌付けをして飛来地になっていた。
ダム湖で幼鳥が十字ブロックにあたって、私のところにかつぎ込まれてよくなってきました。
白鳥の病気が直せると言うことになってしまって、長野県の白鳥が全部来るようになりました。
他の動物も来るようになりました。
昭和48年に白鳥の会が出来ています。
白鳥は白く、大きい、美しい、家族のきずなが強い、夫婦は離れないので興味を持っている。
場所をちゃんと覚えて、太陽、地球の磁気、など色々言われているが不思議です。
3000km飛んでくると言われている。
日本には南は鳥取県辺りまで飛んできています。

最近鳥に無線機を取り付けて、人工衛星で追跡してフライウエイ、繁殖地までのコースがよく判るようになってきました。
コハクチョウはシベリアの北の方からやって来る、オオハクチョウはそのちょっと手前です。
オオハクチョウは北海道から東北地方に越冬して、コハクチョウは鳥取あたりまで来ます。
ロシアの極東で繁殖するときにも一つのつがいで1平方kmのテリトリーを築きます。
こちらのように集団でいるわけではないです。
羽の上と羽の下では空気の流れが違っていて、羽の後に渦が生じて上昇気流を作るので、次の白鳥はその位置に行くと楽に飛べる。
それが次々になりV字型の群れをつくって飛び、先頭は交代すると言われている。
白鳥は90羽ほど治療しています。
最初は鉛中毒が白鳥の主体を占めていました。
それが段々下火になってきた、法律、モラルの問題、釣りおもりを鉛から鉄に変えるなどの対策で効果が出てきたが、無くなった訳ではない。
鉛中毒は体力がなくなるので群れから離れる、胃腸が壊死するので焼ける感じがして水を多く飲み、青い下痢便をして歩けなくなり必ず死にます。

二羽の鉛中毒の白鳥が平成5年に運ばれてきました。(レントゲンで鉛の玉が写っていた)
北海道の情報を手に入れて、鉛解毒剤を朝晩注射しましたが死んでしまいました。
その頃は不忍池でカモに矢が刺さっていたとか山形県でも同様なことがありました。
白鳥はくちばしで水草などを食べて食道を通って腺胃があり、PH2.5ぐらいの強烈な胃酸を出して次に筋胃(砂肝)に来ます。
白鳥は無理に筋胃(砂肝)の中に小石を飲み込み、胃酸にまみれた食べ物を凄い力で揉んで消化して小腸などがありうんちになってでる訳です。
川の底に釣りおもりなどがあると、恰好な小石と思って飲みこんで、撹拌すると鉛は酸に融け込み吸収されて肝臓、胃、じん臓、神経がやられたりして鉛中毒になり亡くなってしまう。
鉛解毒剤では上手くいかなかった。
鉛そのものを取り出せばいいと思ったが、砂肝の筋肉が厚くて手術出来ないと言うことが常識だった。
マガモのメスが鉛中毒で近所の人が持ってきて、腺胃と筋胃の中間辺りを切って鉛を取り出すことに成功しました。
3日後には元気になり、米をパクパク食べましたが、4日目には亡くなってしまいました。
解剖したら、手術したところが不適当で(癒着しにくいところだった)、急に硬い米粒を食べさせてしまった事がよくなかった。

胃の下を切るといいと言うことをマガモから知りました。
亜成鳥(幼鳥の次)はまだ頭が黒いが、それが運び込まれて、手術をすることになり、レントゲン下で取り出しました。
3日目には元気になり物を食べるようになり、12日後には放鳥することになり、日本とロシアを行ったり来たりするように「環」と言う名を付けて、最初はうまく飛べなかったが1カ月後には飛ぶことが出来て帰って行きました。
諏訪湖にも同様なことが起きており、当方に4羽来ました。
もう体温が冷たくなっていて処置したが亡くなってしまいました。
次に1週間後また幼鳥がきましたが、体温が38℃ある。(正常の場合は40℃位ある)
手術をして、鉛を取り出して12日後には元気になり諏訪湖に返しました。
「マアちゃん」と言う名を付けました。
その時には家族が迎えに来ました。
母親は何処へ行っていたんだと言うばかりに離れてしまったが、父親がその後1週間一緒にいて面倒を見てその1週間後位には母親も機嫌を取り直して一緒になりました。

野生動物救護獣医師協会が有り、鉛中毒に関係した人が集まり、現状、今後に対するシンポジュウムがあり、状況と手術の方法を発表しました。
法律の規制、モラルの問題、子供たちへの教育などを話して帰ってきました。
11月に観に行ったら足輪を付けた白鳥がいると言うことで子供から連絡を受けました。
まさしく「マアちゃん」で嬉しくてカメラを向けました。
「ミサちゃん」夫婦も来て、その夫婦に子供を連れて来てくれました。
餌付けの問題もあります、鳥インフルエンザが有った以降餌付けは控えるようになっています。
環境キャパシティーに応じてくることが自然のことだと思います。
鉛汚染についてはいけないことなので、人間にも他の生物にも影響することなので法律、モラルにうったえて行動にうつさないといけないと思う。










2017年12月27日水曜日

ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(2)

ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(2)
大町 正人さんが2011年に亡くなって、そのあとに吉田 秀行さんが継いでいます。
*2010年深夜便の歌「そして葉桜の時」 作詩 山本恵三子 作曲 西脇 久夫
ボニージャックスのファンには結構好評でした。
仲良しであるとか仲良しでないと言う感覚はないです、学生時代から当たり前に自分の周りにいる奴ら、と言う感じです。
吉田:声がかかるまではソロでやっていました。
彼の一番いいところは、コーラスの中で邪魔をしないです。
大町の代わりに彼が入って来て変わったという印象がないです、音色が変わっていない。
亡くなった時に3人でやろうかとの話もありましたが、3人では男性コーラスはやりにくいです。
彼に教えることになるから練習量は増えました。

*「青春の一ページ」 作詩:いではく 作曲:大谷明裕
ボニージャックス60周年記念で作った曲(早稲田に稲門歌謡会)
ダークダックスもぞうさん一人になってしまって、デューク・エイセスも今月で解散と言うことになってしまってさみしいです。
我々は呼んでくれる人がいるうちは辞めることが考えていなくて、呼んでくれる人がいる限りやるつもりでいます。
ベイビーブーとの出会いがあり、一緒にやったりしています。
ベイビーブーは5人のグループで2002年にデビューしたボーカルグループです。
7年前から歌声喫茶に行って活動しています。
ユースケ(水野裕介)君がCDを持ってきて贈呈しますと言われたが、「絶対に贈呈するな、売れといったんです、貰ったら聞かないよ」と言って買いました。
5000曲の譜面があるから全部あげるからいいのをアレンジして歌ったらと云うことで、交流を始めて3年ぐらいして、一緒にやるようになりました。

*「神田川」 作詩:北條誠 作曲:南こうせつ(ボニージャックスとベイビーブー)
 ボニージャックスさんと一緒にさせていただいてから、ユニゾンが本当は一番大事なハーモニーの武器と言うことを改めて感じました。
(ユニゾン=「1つの音」の意味。2つ以上の音が同時に重なった場合をいう。)
ボニージャックスさんの精神性と言うか、綺麗な日本語、優しい日本語、響きのいい日本語を歌っていけば、5000曲にも通ずるものがあると思います。

*「じいじのシンデレラ」 作詩:じいじプロジェクト 作曲:宮川 彬良
  (ボニージャックスとベイビーブー)












2017年12月26日火曜日

ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(1)

ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(1)
ボニージャックスは昭和33年早稲田大学の男性合唱団グリーンクラブ出身の4人で結成されました。
1962年に「小さい秋見つけた」で日本レコード大賞童謡賞を受賞、童謡や叙情歌、世界の民謡などレパートリーは5000曲を越えています。
最近では 60周年記念アルバム、昭和歌暦や、若手コーラスグループ「ベイビーブー」と新グループ「ボニーさんとブー」など活動を続けています。

バスの玉田 元康(83歳)、バリトンの鹿島 武臣(83歳 1月1日で84歳))、セカンドテナー吉田 秀行(52歳)、トップテナー西脇 久夫(81歳)。

*「はるかな友に」  作詞作曲 磯部 俶 (いそべ とし)
昭和33年12月24日が初ステージ。
4人でライトミュジックやろうとしたらはまってしまってそれがきっかけになりました。
(大町 正人を含めて)
就職は決まっていたが、のど自慢みたいな番組に出てみようと言うことで出たら、審査員をやっていた笈田敏夫さんが大変褒めてくれて、先輩にダークダックス(慶応)が居て、やって見ようかということになりました。
ジャズばやりで進駐軍のキャンプ回りで鍛えられました。
磯部 俶 (いそべ とし)さんがボニージャックスと言う名前を付けてくれました、「愉快な野郎」と言うような意味合いです。
磯部 俶 (いそべ とし)さんにはみんな仲人をして貰いました。
私(吉田 秀行)は2003年に入りました。

*「あの人が居た夏」 作詞:喜多條忠 作曲:大谷明裕  新曲
ボニージャックス60周年記念で出そうとした。
早稲田に稲門歌謡会があり、プロの作詞作曲家、レコード会社の会長社長、プロダクションなど音楽関係の人たちが飲み会ばっかりやっていたが、ボニージャックス60周年記念と云うことで味のあることをしようと言う事で、会長の鈴木淳(作曲家)さんが副会長いではく(作詞家)さん、幹事長が大谷明裕(作曲家)さん、喜多條忠(作詞家)さん等が私たちのためにCDを作ってくれました。
オリジナルシングでヒット作を出さなければいけない様な立場だったらしいが、歴史唱歌、世界の花、世界の街とかを歌うLPを作ってくれました。(ヒット狙いではない)
レパートリーは5000曲以上になりました。

ロバの会(磯部 俶、中田喜直、中田一次など)が新しい童謡を作る会を主催して童謡が物凄く増えました。
*「小さい秋みつけた」 作詩:さとうはちろう 作曲:中田喜直
(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
   めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
   かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
   お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
   とかしたミルク わずかなすきから 秋の風
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(三)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
   昔の昔の 風見の鳥の  ぼやけたとさかに
   はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
   ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

紅白歌合戦に出場する。
ロシア民謡、親しみやすいメロディー。
ソ連に行ったときにはロシア民謡ではなくて日本語で日本の歌を歌ってほしいと言われた。
「ブルーシャトー」、「シクラメンの香り」、「恋のバカンス」などが受けました。
「車いすのおしゃべり」、身体障害者の施設に慰問に行っていたが、詩集を貰ったりして、そこから作曲したりして、作ってくれた施設に行って歌ってあげていたりしていました。
その後LPにすることになり、世の中に広めようと言うことで「車いすのおしゃべり」というタイトルを付けました。
詩を貰って作ってあげると言うことではなく、一緒に作ろうというスタンスです。
始めたのは1970年代でした。
社会のルールに従って製作作りをやって、作った人にはそれだけの権利があると言う、そういう作り方をしてきました。
三方一両得(著作権)子供達、歌い手、レコード会社と言うことです。
*「ちんちん千鳥」 作詞:北原白秋 作曲:近衛秀麿
ちんちん千鳥の啼く夜さは、
    啼く夜さは、
  硝子戸しめてもまだ寒い、
    まだ寒い。

  ちんちん千鳥の啼く聲は、
    啼く聲は、
  燈を消してもまだ消えぬ、
    まだ消えぬ。

  ちんちん千鳥は親無いか、
    親無いか、
  夜風に吹かれて川の上、
    川の上。

  ちんちん千鳥よお寢らぬか、
    お寢らぬか、
  夜明けの明星が早や白らむ、
    早や白らむ。














2017年12月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】ベートーヴェン

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】ベートーヴェン
「私は何度も神を呪った。
神は自らが作り出したものを、偶然のなすままにして顧り見ないのだ。
そのために最も美しい花でさえ滅びてしまうことがある。」(ベートーヴェン

手紙、手記、耳が聞こえなくなったときに筆談するときの手帳などが残っていてそれを紹介します。
子供時代は父親がアルコール依存症で、自分は働かないで、子供に働かせていた。
思春期には母親が亡くなって、さまざまな病気に悩まされ続けて、恋愛はすべてうまくいかなくて一生独身で、お金にも困ることが多くて、晩年に甥(弟の子供)にも悩まされ続ける。
一生次々苦難が襲ってくる。
「人生は美しい、しかし私の人生にはいつも苦い毒が混じっている。」(若い頃の言葉)
27歳頃からかなり難聴で、30歳でほぼ聞こえなくなる。
ずーっと隠していたが、2人の親友に手紙で打ち分ける、その一節が冒頭の物。
その続きが「私にとって最も大切な聴覚が、どうにも駄目になってきたんだ。
私はなんて悲しく生きなければならないのだろう。」

私も難聴になったことがあり、思っていたことと違う。
聞こえないから静かだと思うが、難聴って凄くうるさい。
①耳鳴りがひどい。 
②聞こえないがある種の音が非常につらく響く。
③人間は音で気配を察知するが、気配が失われる、そうすると不安が入って来る。
(不気味な気配を逆に感じてしまう。)
ベートーヴェンは①,②について書き残している。
作曲しようとしたら大変なことだと思う、良く作曲できたと思う。
他にいつも腹痛下痢に悩まされていた。
目もよくなかったし、天然痘、肺の病気、リュウマチ、黄疸、結膜炎とか色んな病気になって悩んだ。(元々身体が弱かった。)
28歳で「悟った人間になることは簡単なことではない」と言っている。
「神が与えた試練で乗り越えるべきものだとは思っていないで、偶然なったと、偶然のなすままに神はするんだ」と、文句を神様に言っている。
そうはなかなかとらえきれないものです。
偶然と思ったときに苦しみは倍増すると思います、必然を人は求めると思う。
因果関係を人は求めたがる。
現実には全くの偶然にひどいことが起きてしまったりする。
それを受け止めかねてベートーヴェンはくるしんでいて、それをあくまでベートーヴェンは偶然ととらえていて素晴らしいと思います。

*「運命」
「出来ることなら私は運命と戦って勝ちたい、だがこの世の中で自分が最もみじめな存在なのではないか、と感じてしまう事が何度もある。
諦めるしかないのだろうか。
諦めとはなんて悲しい隠れ家だろう。
しかもそれだけが、今の私に残されている隠れ家なのだ。」
1801年 30歳の時の親友あての手紙の一節。
「運命」はこの手紙の何年も後に作曲されたもの。
最初のフレーズは難聴になったころにつくられたものらしい。
最初の処はどういうものかと聞かれて、運命がドアを叩く音だと、ベートーヴェンが答えたので「運命」と言うタイトルになったと言われている。
「これらすべての不幸を超越しようと私も頑張ってはみた、しかしどうしたら私にそんなことが出来るだろうか」
「諦めしかないのか、しかし、諦めとはなんと悲しい隠れ家だろうか」と言っている。
受け入れて静かに心を落ち着けると言うこともあるかと思うが、ベートーヴェンは悲しい隠れ家と言って諦めない。(しかし苦しみ続ける。)

「希望よ、悲しい気持ちでお前に別れを告げよう。
いくらかは治るのでないか、そういう希望を抱いてここまで来たが、今や完全に諦めるしかない。
秋の木の葉が落ちて枯れるように私の希望も枯れた。
ここに来た時のまま私はここを去る。
美しい夏の日々が私を励まし、勇気も沸いたがそれも今は消え去った。
ああ、神よ、一日でもいいから私によろこびの日を与えてください。
本当の喜びが心に響き渡る、そういうことからなんと遠くなってしまったことでしょう。
再びそんな日が来るのでしょうか。
もう決して来ない。
そんな、それはあまりにも残酷です。」 (ハイリゲンシュタットの遺書から)
ハイリゲンシュタットに温泉治療にやって来て、遺書を書くと言う展開になる。
腸の調子も悪く、難聴の治療に来たが腸は良くなるが、耳は良くならないまま去ることになる。
自殺しかかるが、思いとどまった後に書いている。(希望に別れを告げている。)

これから10年間の間に、さまざまな名曲を次々生み出す。
「英雄」、「運命」、「田園」など生涯に作った半分ぐらいは、この時期に生み出されている。
希望を持ち続け過ぎてゆがんでしまうこともある。
あがかないで難聴のなかで曲を作って行く決意をする。
絶望はなにも取れない土地ではなくて、色んなものが収穫できる土地でもあると思う。
「辛いことを辛抱しながら考えてみると、一切の災いは何かしら良い物を伴ってきている」、とも言っています。
しかし絶望はない方がいい、「ああ、この病気が治りさえしたら、私は全世界を抱きしめるだろう」、「今の不幸の重荷の半分だけでも減らすことが出来たらどんなにいいだろう」ともベートーヴェンは言っている。

「不機嫌でうち解けない人間嫌い、私のことをそう思っている人は多い。
しかしそうではないのだ。
私がそんなふうに見える本当の理由を誰も知らない。
私は幼いころから情熱的で活発な性質だった、人との付き合いも好きなのだ。
しかしあえて人々から遠ざかり。孤独な生活をおくらなければならなくなった。
無理をして人々と交わろうとすれば、耳の聞こえない悲しみが倍増してしまう。
辛い思いをした挙句、又一人の生活に押し戻されてしまうのだ。」
服装もどんどん無頓着になって行く。
「汚れた熊」とあだ名されたり、汚い為逮捕されたこともある。
潔癖症でよく手を洗っていて、何か精神的な疾患があったのではないか言われるが、そうは思わない。
人に会わなくなって服装に無頓着になるのは当たり前だと思う。
胃腸の弱い人はよく手を洗う傾向がある。(これらは何ら矛盾はない)
孤独と身体の不調のため。
映画でスマホ操作をしている人がいるが、マナーが悪いと言われるが、視覚障害の人がスマホで音声ガイドを聞いていたりする人がいる。(何か事情があるのではないかと思うことも必要)
優しく注意すると向こうも言いやすい。

*「歓喜の歌」
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。
 羊飼いの謡う歌が聞こえてきて、みんながそれに耳を傾けているときに、私だけが全然聞こえ無かった時、それはなんという惨めさだっただろう。
自ら命を断つまで後ほんの少しの所だった。
私を引きとめたのは芸術だった。
自分が使命を感じている仕事を成し遂げないで、この世を見捨ててはいけないように思われた。」 (友人への手紙よりの引用)

「私たちはひたすら悩むために、そして歓喜するために生れついているのです。
最善なのは苦悩を突きぬけて歓喜に到るところでしょう。」と言っている。
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。」
「いちばん深い地獄にいるものほど清らかな歌を歌うことが出来る。
天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なのです」 (カフカの言葉)
暗い谷の底にいる人間ほどうえの明るさを求めて、明るさに感激するし、明るさの値打ちを一番知っているのは暗い谷底にいる人間だと思う。
ベートーヴェンは絶望の中にあったからこそ、歓喜の素晴らしさをだれよりもわかっていてそれを凄く願った。
歓喜の歌を作曲したが、まだ谷底に居て歓喜を求め続けて、そこから歌っている歌だと思います。
歓喜の値打ちが一番身にしみているから、そこから歌ってくる歌声が一番歓喜のうつくしい歌なんではないか。
ベートーヴェンの歓喜の歌もそういう曲だと思う。
めでたしのお祝いの曲ではなくて、苦悩から見た歓喜の輝きの曲、だから苦悩している人々に非常に響くのではないかと思う。

第九はベートーヴェンが生きている間は評価されなかった。
第一次世界大戦の後、年末に平和を願って第九が演奏されて、そこから年末に演奏することが始まっている。
日本の初演も第一次世界大戦の時に、日本のドイツ人捕虜収容所でドイツ人が演奏したのが日本での最初です。
大変悲惨な戦争が有ってそこから平和を求めるとか、捕虜収容所から平和を求めるとか、大変悲惨な状況から歓喜を求めるときに、演奏されて再評価は進んで行った。
彼が一番大事に思ってるのは「人間の善良な心だ」と言っている。
悲惨な中で、何とか生きる、生きると言うことだけでほかの人の励みになるのではないかと思っていたのが、ベートーヴェンの思っていた事だと思います。