橋本淳(作詞家) ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂(聞き手)
グループサウンズのほかにポップスも書いています。
その代表曲が「ブル-ライトヨコハマ」。
日本語のベースを作っているような感じがします。
「足音だけが付いてくるのよ。」と言う様な言葉はいいと思います。毒気がない。
後味がいい感じ。
歌手の持っている体質もあるかもしれませんね。(石田あゆみ)
作詞家は歌の世界では影の存在というか、主役はメロディーラインだと思います。
昭和期の後期はメロディーラインで、ダンスが身体で表現する音楽の一つの形になってきているので、そういうものに負けない、メロディー、歌詞がまだ出ていないと思う。
秋元さんは素晴らしくてAKB、乃木坂など、どんどん言葉の世界に歌謡曲をひっぱっていって凄いと思います。
誰からも抑制の無い、そういうところから出てくるものが、次のページを開くためには、そういう力が必要だと思います。
日本語であっても世界に通じるとか、そういうことが出来た時に新しいものが来ると思います。
かつては西条八十、北原白秋とかいたが、 歌手主体となって来る。
私がラッキーな時代に生きたと思うのは、専属制度の中でフリーだったのでこの歌詞はおかしいとか、面白くないと言う様な事を言う人が誰もいない。
今はそれでみんな潰してしまうのではないか、万人がわかるものなどこの世にないと思うんです。
父が与田凖一、作品は読んだことがない。
うちの父親はこどもは大嫌いでした、食事など一緒にしたことが一度もない、記憶にない。
生まれたのは北原白秋の家で生まれたそうです。
北原白秋の家で生活していた。
16歳で免許を取って、壇さんとは子供のころから行ったり来たりしていて、壇さんが亡くなる時に能古島に漁師小屋みたいなものを買って一人でいたが、壇さんとは一時期車で運転手をしてずーっと旅をしたりしたようです。
壇さんは人間としてバランスがいいし、物事の捉え方が素晴らしい。
壇さんから君に足りないのは観察力だと言われました。
人を否定しない先生で、全て肯定して観察眼の中から真実を見つけろと言う様な、そういうことを壇一雄さんから教えられました。
新聞の3面はいつも見ていようと思いました。
客観的な描写が実は気持ちをとっても深く表現してしまう。
想い出を刺激するような歌をいつも作りたいと思っていました。
梅崎春生さんとの付き合いも有りました。(新聞小説からの関係から)
梅崎さんは肝硬変になられて、強いウイスキーをがぶがぶ飲んで亡くなって行く、身の震える様なものを観て来ました。
「桜島」と言う小説で飛行機で自害出来ずにウイスキーで自害する、何とも言えない悲劇、特攻隊と言う悲劇、運命をどうくくるか、壮烈な心の中が有ったと思います。
僕が大学生のころだと思います。
川端康成さんとは父親が交流があって、夏に鎌倉に何年か泳ぎがてら行っていました。
平尾昌晃さんも亡くなりましたが、ぼくと歌を作るなんて思っていなかったともいますが。
平尾さんは僕のようなタイプの作詞家とはやったことはなかったと思う。
「カナダからの手紙」は平尾さんとは初めてうまくいったと思います。
一時期、一日10曲、同時に書いていました。
40歳ぐらいの時に突然売れなくなった。
売れるという予感みたいなものは有ったが、売れそうだと思っても売れないことがあり、気が付いてみたら自分が要らなくなって来たんだと思って、止めようと思いました。
それから41,2歳位で止めました。
20年位で2000曲ぐらいやりました。
時代時代のヒット曲が要るのに、秋元さんのAKB、乃木坂など、そういうものだけではさみしいと思うので若い人が出てきてやってくれればいいなあと思います。
なかにしれいさんは凄いなあと思います。
演歌っぽいしゃけ、にしんがどうしたと言っていても、根は女なんだもの、根底の目が僕に無いもので、本当に力のある女性像というのが僕には想像できない世界、女性を描かせたらあんなすごい人はいない、凄いと思う。
好きな作詞家は岩谷時子さんです、大好きです。
先駆者です、本当にすごいと思いました。
今78歳で、水泳が好きで週に3日ぐらい泳ぎますが、プールから上がって鏡の前に来ると、何だか歳を取った爺さんがいるなあと思うと、自分なんです。
自分の気持ちは泳いでる気持ちなのに、身体は死人のようになっているギャップが自分の中で解決できない。
精神的な世界が歳を取るとどんどん遠くなってしまって、精神的な世界を活発にしようと思う時は肉体が付いていかない。
肉体が衰えてくると、精神世界がどんどん遠くなっていってしまう。
本の中とか、そういうところから刺激を受け無くなって来て、精神力がおとろえてきて、あまり気持ちに影響がなくなってしまう。
だから童話だとかを読んでみようかと思っている。
奥行きのないものと思っているものの中に、以外にそういうものがあると思ったりします。
今の日本の言葉の使い方、言葉は時代とともに生きているからドンドン変わって行く。
それはいつも絶対正しいと思います。
歴史、思想が判っている方がいれば乱れ切っているもの、なんでも歳とともに濾過されていってしまう。
歌詞でもそうだと思うが、日常化したものを日常的に表現して行くから、そういうふうに薄くなるのではないんでしょうか。
AKBとかが同じものが団体になって歌っていると言うのが今の表層の形だと思うが、良い悪いは無いと思います、時が移れば消えていくし、次のものが出てくる。
時代が変わればきっと違うと思う。
2017年11月27日月曜日
2017年11月26日日曜日
山中毅(元五輪競泳メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
山中毅(元五輪競泳メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。
昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。
メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)
400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。
当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)
ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。
子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。
水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。
昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。
メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)
400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。
当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)
ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。
子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。
水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)
2017年11月25日土曜日
中畑清(プロ野球解説者) ・トークショー
中畑清(プロ野球解説者) ・トークショー
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。
矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。
山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。
僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。
現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。
長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。
2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。
矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。
山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。
僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。
現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。
長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。
2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」
2017年11月24日金曜日
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長) ・憎む心を捨て、祈る心の再生を(H29/7/4 OA)
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長)・憎む心を捨て、祈る心の再生を(H29/7/4 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post.htmlをご覧ください。
2017年11月23日木曜日
カール・ベンクス(建築デザイナー) ・古民家で集落再生
カール・ベンクス(建築デザイナー) ・古民家で集落再生
美しい棚田で有名な新潟県十日町市、市内竹所地区には、外壁がピンク、イエロー等の民家が並んでいます。これ等の家は近くに住む カール・ベンクスさんが改築や移築したものです。
ベンクスさんはドイツ、ベルリン生まれで、75歳。
建築デザイナーとして仕事を続けていたベンクスさんは、日本の原風景の中で暮らしたいと、十日町に古民家を購入、自ら改修して移住しました。
ベンクスさんが改築や移築を手掛けた古民家は8軒になります。
それまで地区では過疎化が進み廃村の危機に直面していました。
しかしベンクスさんが関わる古民家が増えるにつれ、古民家や古民家を元に作られた、シェアーハウスに住む人が増えてきました。
若者やや子供が増えた竹所は奇跡の村とも呼ばれ見学者が絶えません。
古民家を蘇らせたベンクスさんの取り組みとはどういうものなのか、伺いました。
自宅も古民家を改修したものです。
約130年、140年前に建てたものです。
新潟は雪国なので頑丈に出来ています。
床暖房とか時代に合わせて作れば住みやすいです。
初めてみた時にはこの家は茅葺で、倒れそうでいた。
こちらに来た時は50歳ぐらいでしたが、この家は100%守りたかった。
ベルリン、パリ、東京といった大きい町にしか住んでいませんでした。
父は日本の大ファンでした、亡くなりましたが日本の文化を残してゆきました。
浮世絵、印籠、脇差、とか、日本の住まいについての本が結構ありました。
日本の暮らし、建築などが細かく書いてありました。
そういったものに触れて私の人生は変わったんじゃないですかね。
ドイツではデザイインを勉強しました。
1961年に東から西に逃げて来て、西ベルリンの会社に入って、インテリアの仕事をしました。
勉強のためにパリに行き空手をやりながら2年半なんでも屋さんで色々やりました。
日本に対しては子供の頃から興味がありましたが、日本は遠くてなかなかいけませんでした。
空手をやって日本の先生と親しくなりました。
1964年の東京オリンピックで柔道をやっていて、合宿でフランスに集まりました。
その時日本大学から空手部が何人か来て、空手を学びました。
1966年に船だと安いので、日本の神戸に着きました。(5週間の船旅)
日本大学で、水道橋に空手の道場があり、そこに通いました。
船上で知り合ったドイツの柔道を習う人がいて、アルバイトの仕事を紹介してもらいました。
日大で午前中は空手の練習、午後はドイツ語を教えることなどをやっていました。
ドイツ商工会の人と知り合いになり、1970年の大阪万博のドイツ館を手伝ってくれるようにとの依頼があり、日本の大工さんと職人などと知り合いになりました。
日本の建物、旅館とか残っていてそれを見たら素晴らしい雰囲気で、ヨーロパで紹介したいと思いました。
1977年、妻と知り合いになり、彼女は東京があまり好きではなくて、ヨーロッパに帰ろうと言う話になりました。
日本の建築と内装などをドイツで紹介しようと思いました。
最初は小さな規模で、ドイツのレンガの建物の中でやりました。
日本人の方で奥さんがドイツ人で 故郷の雰囲気が欲しくて建物の1部屋の内装をしようと言う話だったが、材料もないしドイツ人にはできないので、日本のお客さんと打ち合わせをして、日本人の職人を呼べばいいじゃないかと言うことで、知りあいになった職人さんに話をして2人来ました。
3週間で出来ると言うことで、それで最初始まりました。
出来合いは凄く良かった。
先ず大きな倉庫を借りて、材料がないので石灯籠、庭石とかも持ってきました。
竹もそうです。
ドイツでは内装は40件ぐらいやりました。
建物は4件ぐらいやりました。
最初は仕事はたくさんあると思っていましたが、日本人はあまり興味を持たなかった。
ライン川の隣のおおきな土地を手に入れて、小さな家を作ってお寺もたてました。
新聞で飛騨高山の建物の紹介記事があり、お客さんが興味を持って、偶然に新潟県の竹所に来る機会があり、一緒に十日町に来ました。
倒れそうな家があり、これはドイツには持っていけないと思いました。
でも中に入ってみると頑丈そうでした。
簡単に直せると思っていました。
周りは田んぼがあり、山があり気にいっていました。
ここは過疎化が進んでいました。
でもここでいいと思いました。
茅葺はやめた方がいいとか言われましたが、家を直していきました。
来るたびに好きになって来ました。
1993年秋に解体して翌年基礎から作りなおし始めました。
2年をかけて作りなおし、住めるようになりました。
東京とは違って、妻も気にいってくれました。
村には以前は38,9軒あったんですが、私が来た時には9軒しかなかった。
家を壊す話がありもったいないと思いました。
これを綺麗にして新しくして、住む人を誰か探そうと思いましたが直ぐ電話が来たりしました。
自然が好きな人でこの家を買ってもらいました。
若い人たちが増えて来て、地元の人はびっくりしました。
今は13軒あります。(地元の人たち5軒と新しい人たちが8軒)
修理して住めるようになった古民家がどんどん増えてきて、限界集落と言われていたところが、人口が増えて16人になりました。
インターネットがあるし、村にも10年前から光ファイバーが入っています。
インターネットで新しい仕事が出来るようになりました。
仕事が認められて政府からふるさと大賞を貰いました。
凄くうれしいです。
竹所は私の故郷になりました。
最近20年持てばいいと言うような、日本の建物は使い捨てみたいな感じですが、古民家は家族の財産だと思います。
田舎ではまだ残っているので次の時代の子供のために保存すべきです。
一番大事なのは骨組みを残すと言うこと、壁、屋根は傷むので変えなければならない。
時代に合わせて断熱材、床暖房、キッチンなどは10年ごととか20年ごとに替えればばいい。
壊さないで保存すれば後で何とかなる。
「古い家の無い街は思い出がない人と同じ。」 東山魁夷(ひがしやまかいい)の言った言葉ですが、凄くいい言葉です。
美しい棚田で有名な新潟県十日町市、市内竹所地区には、外壁がピンク、イエロー等の民家が並んでいます。これ等の家は近くに住む カール・ベンクスさんが改築や移築したものです。
ベンクスさんはドイツ、ベルリン生まれで、75歳。
建築デザイナーとして仕事を続けていたベンクスさんは、日本の原風景の中で暮らしたいと、十日町に古民家を購入、自ら改修して移住しました。
ベンクスさんが改築や移築を手掛けた古民家は8軒になります。
それまで地区では過疎化が進み廃村の危機に直面していました。
しかしベンクスさんが関わる古民家が増えるにつれ、古民家や古民家を元に作られた、シェアーハウスに住む人が増えてきました。
若者やや子供が増えた竹所は奇跡の村とも呼ばれ見学者が絶えません。
古民家を蘇らせたベンクスさんの取り組みとはどういうものなのか、伺いました。
自宅も古民家を改修したものです。
約130年、140年前に建てたものです。
新潟は雪国なので頑丈に出来ています。
床暖房とか時代に合わせて作れば住みやすいです。
初めてみた時にはこの家は茅葺で、倒れそうでいた。
こちらに来た時は50歳ぐらいでしたが、この家は100%守りたかった。
ベルリン、パリ、東京といった大きい町にしか住んでいませんでした。
父は日本の大ファンでした、亡くなりましたが日本の文化を残してゆきました。
浮世絵、印籠、脇差、とか、日本の住まいについての本が結構ありました。
日本の暮らし、建築などが細かく書いてありました。
そういったものに触れて私の人生は変わったんじゃないですかね。
ドイツではデザイインを勉強しました。
1961年に東から西に逃げて来て、西ベルリンの会社に入って、インテリアの仕事をしました。
勉強のためにパリに行き空手をやりながら2年半なんでも屋さんで色々やりました。
日本に対しては子供の頃から興味がありましたが、日本は遠くてなかなかいけませんでした。
空手をやって日本の先生と親しくなりました。
1964年の東京オリンピックで柔道をやっていて、合宿でフランスに集まりました。
その時日本大学から空手部が何人か来て、空手を学びました。
1966年に船だと安いので、日本の神戸に着きました。(5週間の船旅)
日本大学で、水道橋に空手の道場があり、そこに通いました。
船上で知り合ったドイツの柔道を習う人がいて、アルバイトの仕事を紹介してもらいました。
日大で午前中は空手の練習、午後はドイツ語を教えることなどをやっていました。
ドイツ商工会の人と知り合いになり、1970年の大阪万博のドイツ館を手伝ってくれるようにとの依頼があり、日本の大工さんと職人などと知り合いになりました。
日本の建物、旅館とか残っていてそれを見たら素晴らしい雰囲気で、ヨーロパで紹介したいと思いました。
1977年、妻と知り合いになり、彼女は東京があまり好きではなくて、ヨーロッパに帰ろうと言う話になりました。
日本の建築と内装などをドイツで紹介しようと思いました。
最初は小さな規模で、ドイツのレンガの建物の中でやりました。
日本人の方で奥さんがドイツ人で 故郷の雰囲気が欲しくて建物の1部屋の内装をしようと言う話だったが、材料もないしドイツ人にはできないので、日本のお客さんと打ち合わせをして、日本人の職人を呼べばいいじゃないかと言うことで、知りあいになった職人さんに話をして2人来ました。
3週間で出来ると言うことで、それで最初始まりました。
出来合いは凄く良かった。
先ず大きな倉庫を借りて、材料がないので石灯籠、庭石とかも持ってきました。
竹もそうです。
ドイツでは内装は40件ぐらいやりました。
建物は4件ぐらいやりました。
最初は仕事はたくさんあると思っていましたが、日本人はあまり興味を持たなかった。
ライン川の隣のおおきな土地を手に入れて、小さな家を作ってお寺もたてました。
新聞で飛騨高山の建物の紹介記事があり、お客さんが興味を持って、偶然に新潟県の竹所に来る機会があり、一緒に十日町に来ました。
倒れそうな家があり、これはドイツには持っていけないと思いました。
でも中に入ってみると頑丈そうでした。
簡単に直せると思っていました。
周りは田んぼがあり、山があり気にいっていました。
ここは過疎化が進んでいました。
でもここでいいと思いました。
茅葺はやめた方がいいとか言われましたが、家を直していきました。
来るたびに好きになって来ました。
1993年秋に解体して翌年基礎から作りなおし始めました。
2年をかけて作りなおし、住めるようになりました。
東京とは違って、妻も気にいってくれました。
村には以前は38,9軒あったんですが、私が来た時には9軒しかなかった。
家を壊す話がありもったいないと思いました。
これを綺麗にして新しくして、住む人を誰か探そうと思いましたが直ぐ電話が来たりしました。
自然が好きな人でこの家を買ってもらいました。
若い人たちが増えて来て、地元の人はびっくりしました。
今は13軒あります。(地元の人たち5軒と新しい人たちが8軒)
修理して住めるようになった古民家がどんどん増えてきて、限界集落と言われていたところが、人口が増えて16人になりました。
インターネットがあるし、村にも10年前から光ファイバーが入っています。
インターネットで新しい仕事が出来るようになりました。
仕事が認められて政府からふるさと大賞を貰いました。
凄くうれしいです。
竹所は私の故郷になりました。
最近20年持てばいいと言うような、日本の建物は使い捨てみたいな感じですが、古民家は家族の財産だと思います。
田舎ではまだ残っているので次の時代の子供のために保存すべきです。
一番大事なのは骨組みを残すと言うこと、壁、屋根は傷むので変えなければならない。
時代に合わせて断熱材、床暖房、キッチンなどは10年ごととか20年ごとに替えればばいい。
壊さないで保存すれば後で何とかなる。
「古い家の無い街は思い出がない人と同じ。」 東山魁夷(ひがしやまかいい)の言った言葉ですが、凄くいい言葉です。
2017年11月22日水曜日
岩井喜代仁(茨城ダルク代表) ・薬物依存からの回復25年
岩井喜代仁(茨城ダルク代表)薬物依存からの回復25年
昭和22年京都府生まれ 70歳、家が貧しく中学卒業後すぐに働きますが、不良行為で仕事を無くします。
18歳で暴力団に入り、その後覚せい剤に手を出したのがきっかけで、薬物依存になって仕舞います。
頭の中は覚せい剤のことばっかりになり、妻や子を捨てて家族や友人との交わりを断ち、警察にも逮捕されます。
幻覚症状などに苦しみ抜いた末、助けを求めたのが薬物依存症の回復施設、ダルクを創設した近藤恒夫さんでした。
45歳の時、近藤さんの支援で岩井さんはやり直しの人生に踏み出したのです。
岩井さんは現在薬物依存症の人達の回復サポートをして、中学生や高校生に自分の体験を語り薬物依存症の注意を呼び掛けています。
人の助けや善意のお陰でここまで来られたと言う岩井さんはカトリック信者となり、祈りと黙想で一日を振り返り、薬物依存に戻らないようにと毎日自らを戒めているそうです。
薬物依存は回復可能と言う強い信念を持って、活動を続ける岩井さんに伺いました。
今の施設のあるところは売人さん(覚せい剤を売っている人)が住んでいたところで、ダルクの事を知った持ち主が誰も家を借りてくれないということで、近藤さんと会って、そこに連れて行かれたのが始まりで僕にも因縁の有った所です。
ダルクは薬物依存回復センターの略です。
23歳の時に組のかしらをしていて、博打打ちでしたが、博打だけでは飯が食えないので、覚せい剤を売るということで、薬を扱いだした時に、当時フェリー会社で近藤恒夫さんが乗っていましたが、薬をよこせと言うことで、お客さんになってはじまりました。
自分も薬を使うようになって止められなくなっていきました。
自分は意志と根性はだれにも負けないから、1回だけなら止められると思っていたが、やめられないところに陥って27歳まで使って、どうにもならなくなりました。
組の掟を破ったので、(薬は売るが使わない)自分の指を落として、それでもやめられずに2カ月後に2本目の指を落して、33歳のときに破門となり組をでました。
薬を売りながら日本中を駆け巡りますが、昭和60年に薬10gの保持で逮捕されて東京拘置所に60日間入れられ、留置所のなかでは真剣に止めようと思いました。
執行猶予で出て、歌舞伎町の若い衆の処に行って薬を要求しました。
拘置所を出てから3時間半後のことでした。
家に帰って、働こうと思ったが働けない、山に入って行って薬を使い始めて、仕事をしたら止められると思って、コンビニに行き雑誌をみました。
最初に目についたのが、不良時代の仲間のことが書いてあって、薬物依存症は病気で辞められない、治らないが使わないでいることが出来ると書いてありました。
近藤恒夫さんの文面でした。(23年ぶりの再会でした。)
近藤恒夫さんは東京ダルクを立ち上げていました。
日暮里で再会しました。
仕事をしたいので保証人になってほしいと言って、調理場を紹介してほしいと言いました。
食事をしようと天ぷら屋に来ましたが、混んでいて食事に有りつけるまで2時間がかかりこの2時間が自分の運命を変えました。
近藤さんはその2時間で色んな事を聞いてくれて、最後に子供を捨てて無いんだと、それなら薬を止められるかもしれない、お前の努力次第だ、俺の仕事を手伝えと言われました。
連れて行かれたのが今の施設でした。
しかしここは俺が薬を下ろしていたところで持ち主は逮捕されていて、持ち主がいないので近藤さんは月1万円で借りていると言うことだった。
東京ダルクに来る人達の入れ墨を入れている人、不良っぽい奴を預かれと言われました。
一緒に生活することによって、給料をやると言われて始めて25年になります。
以後一切薬物は手を出していません。
薬物依存、ギャンブル依存、アルコール依存、食べ吐き(痩せたい為に吐き続ける)依存等色々あるが世界保健機構では病気として認めているが、日本では遅れている。(25年のずれがある)
大麻、覚せい剤、危険ドラックは使ってみるまで自分がどうなるか分からないし、治療法がないから危険ドラックなんだと、日本にある薬物は全部危険ドラックと若い人たちに言っています。
使ったらどうなるかと言うことを話して、みんなで考えてほしいと言います。
①薬を使えば病気になる。
②使ったら自分の身体でどんな責任をもたなければいけないのか。
③薬物から自分の身体を守るのにはどうしたらいいか。
④使い続けたらどこに相談に行ったらいいのか。
⑤人間として使い続けたら自分から何が無くなるのか。
これを伝えるとちゃんと感想文を書いてきます。
最初体験だけ話をしていたが、感動すると言う事を書いてきて薬物防止にならない、怖いと言うことがなくて、5つのテーマで話すとそれぞれ色々と感想文を書くようになりました。
1993年に茨城ダルクに来たが、或る日栃木県の行政から講演依頼が来て、近藤さんと一緒に行って話をしたが、校長先生が家の学校に来てほしいと言うことで、何校かいきました。
県庁と話をして社会福祉法人を作りたいと言って準備を始めているうちに、反対運動が起こりました。
自助グループがあり1953年にアメリカで出来たグループで、地域の中に自助グループのミーティング場を作る、その時に薬物と言うと会場を貸してくれないので、カトリックの教会を借りろということで(神父は理解しているので)、近藤さんがダルクを作るきっかけになったロイ神父が私の友人ウイリアム・ドネガン神父が下館にいると言って、会場を貸して下さいと言ったのがはじまりでした。
ローマから総長が来て、色んな事がある中で僕が洗礼を受けるきっかけになりました。
僕はドネガン神父と聖書の勉強をする訳です。
神様はあなたを作って来て今あなたは私の前に会わせてくれた、今生まれ変わりませんか、洗礼を受ければあなたは生まれ変われる、と言われてやくざの私としては都合のいい話と思いましたが、やってみようと初めて洗礼を受けて変わっていきました。
NAグループのプログラムは聖書に近くて入りやすい、それが生まれたのは1930年代 、のんべえと神父さんが始まりで良く出来ていて、全世界で依存症の回復に行われている。
ダルクは辞めさせる所ではなくて、使わない生き方を仲間とともに学び取る、それがダルク。
自立、ダルク、刑務所、これが唯一薬を使ってきた人たちが選べる道です。
ダルクに来るには深く親が関わってくることが必要。
自分のモラルの棚卸表を作る、今まで生きて来た事を書きだす、プログラムには未来はなく過去、今どうかだけです。
山登りのそう快感、達成感、・・・薬を使わないで山に登って楽しかったという思い、薬を使うのは14歳ぐらいからで子供の頃の遊びを知らない。
最終的にたどり着いたのは褒められたことがないということ、達成感がない、山登りすることによって達成感と握り飯のうまさを感じ始めたときに顔の色が変わる、天然温泉に浸かることによってイライラ感が消えてゆく、ミーティングで喋ると楽しかったという言葉が出てくるようになる。
人間は自然の中で回復して行く。
節分に鬼役を頼まれるが、太鼓を叩くのに園長さんがダルクの子達に叩かせませんかと言うことになり、家族がたいこを買ってくれるようになり、回復への凄い力になりました。
壇上に出て褒められる、拍手が貰える、こんなことはそれまでには無かった。
大切なのは達成感と薬ではない気持ちの良さ、それをいっぱい詰め込むために依って変われる。
ダルクを出てからのサポートはそのグループのミーティング場に行くことによってサポートになる。
日本にNA(自助)グループは300か所ぐらいあり、1500人集まる。
ハワイでは10万人集まる。
日本はようやく治療と言うことに向かいはじめた。
最後に残るのは薬物を使ったための後遺症、統合失調症という精神病、身体の異変に依っての病気を持っている人、こういった社会に戻れない人たちをどうするか。
NPO法人茨城依存症回復支援協会(通称IARSA)と言う障害者の施設を作ってもらったが、薬物で駄目になって生きられない合併症をもった人達の施設を茨木に初めて作りました。
刑務所に行くのを防ぐし、親がどうにも面倒できない子もそこで生活が出来る。
社会にもどれない子達と最終的に一緒に生活することが最終の仕事ではないかと思っている。
親はどこに相談したらいいか、警察には相談にはいけない、海外では薬物の相談窓口がある。
ばらばらになった家族が最後には家族構成が再びできる、これが最終目的です。
30分間、神様との出会い、今日何が有った、どんなふうに生きてきたか、目の前の事をきちっと評価する、その積み重ねが10年薬を使わないで生きてきたという証、それ以外に何もない。
今はダルクは47か所あり、関連施設を入れると77か所ぐらいあります。
今はダルクは47か所あり、関連施設を入れると77か所ぐらいあります。
2017年11月21日火曜日
五街道雲助(噺家) ・らくご街道半世紀
五街道雲助(噺家) ・らくご街道半世紀
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章しています。
昭和23年墨田区本所生まれ、通好のみの本格化として親しまれている噺家です。
明治大学に入学してそこで落語にはまり大学を中退、古今亭 志ん生の長男の金原亭馬生に入門しています。
弟子3人、桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉、いずれも実力、人気のある落語家3人の弟子を抱えています。
五街道雲助の名前の経緯、二つ目になるときに何かいい名前がないかと思ったが、小粋な名前は好きではなかった。
師匠が俺は隠居したら五街道雲助になると言っていてそれが頭に残っていました。
五街道雲助を貰いたいと伺ったら、お前ならいいだろうと言われました。
本来「五海堂雲輔」だったが、五街道雲助になった。
なった当座は非難ごうごうだった、良い名前だなと言ってくれたのは立川談志師匠だけだった。
今の若い人は雲助の意味を知らない事はちょっとさみしい。
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章。
最初の賞の時は地味にやっていたので意外だった。
皇居に上がって天皇陛下にお会いすると聞いて、雲助が天皇陛下の前にいっていいのかと思いましたが。
立川談志師匠からは江戸の風を感じると言われました。
芝居話はやっています。
芝居はお袋が好きだったので子供のころから歌舞伎座に連れていかれたりしました。
団十郎、幸四郎、松緑3人が勧進帳を交代でやったのを小学校の頃観てたりしました。
落語もお袋が好きで鈴本等によく行きました。
三亀松(みきまつ)師匠の時は色っぽ過ぎて、子供には聞かせられないとその時はお袋には連れていって貰えなかった。
昭和23年墨田区本所生まれ、(戦後すぐは爆弾あられ屋、せんべい屋)蕎麦屋をやっていました。
子供のころは病弱だったので注射慣れしていました。
さん助師匠は当時爆笑王だった、川柳さん、談志師匠の小ゑん時代とか面白かったです。
両国中学(墨田区の学習院と言われた)にいって、12クラス有りました、そこで挫折しました。
明治大学付属高校に行きましたが、クラブ活動もやっていませんでした。
高校2年の時に進路指導があり、明治の商学部に行きたいと言って、3年の時に受験勉強を開始して商学部に入ることが出来ました。
人前で話すのが苦手で、落語研究会に入ることになりました。
文化祭では落語は花形だった。
新宿末広亭、人形町末広亭、鈴本、池袋にも毎日のように通っていました。
2年の終わりごろ、不可が10幾つありやばいと思って勉強しようと思ったら、教科書が無かった。(全部落語を聞く方に費やしてしまった。)
最初の文化祭ではお袋が聞きに来てくれて面白かったと言われて自信が付きました。
蕎麦屋、鮨屋、天ぷら屋などを父が広げてやるようになりましたが、後を継ぐことはありませんでした。
噺家になって二つ目になった時に父からもそろそろやめないのかと言われました。
噺家になろうと決めて、師匠としては小さん師匠か、馬生師匠かどちらかにしようと思いました。
小さん師匠の家を訪ねていったら、沢山弟子がいて、師匠にも合うことが出来ず断わり続けられました。
馬生師匠の所にいって、2回目に両親をつれていって入門することになりましたが、誰もいないはずの弟子が5,6人ました。(当時落語がブームで多かった。)
噺家の生活が新鮮でした。
師匠は朝の10時から日本酒でちびりちびりとやるわけです。
昼寝して1,2時になると風呂を沸かして風呂からあがって又ちびりちびりやるわけです。
雪駄を履いておかみさんが後ろから切り火をきって行ってらっしゃいと言って、「おう」と言って出かけて、なんと良い師匠なんだろうと、俺もいずれこういうことが出来るんだろうかと思ったがとんでもない、出来なかった、羨ましいと思いました。
当時年始に5.6か所回っていい気持になってしまいますが、今はないですね。
入門当時は「駒七」と云う名前で、1972年にふたつ目になり「五街道雲助」となり、1981年に真打ち昇進。
当時真打ち試験があり、山口百恵の結婚式と同じ日だった。
10数人試験を受けて7人が受かりました。
幹部が桟敷にいて、拍手もないし座椅子に坐っている人が一人いてそれが談志師匠で今までの中で最悪の客でしたね。
今は真打ち試験はなくなりました。
1982年に馬生師匠が亡くなり、残念でした。(54歳)
師匠みたいになりたいと思っていましたが、いきなりいなくなり稽古してもらえないで困ってしまいました。
落語の速記が大変多くて(古速記)、それが残っていて勉強できるので、それに頼った所があります。(調べながら勉強しました。)
44歳ぐらいで弟子を取ることになりました。
桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉。
桃月庵白酒は落とし話、隅田川馬石は人情物もできる、蜃気楼龍玉は圓朝ものが得意でやっています。
それぞれに持ち味があって面白いと思います。
入門志願者は10数人いたんですが、3人でちょうどよかったのかなと思います。
今は孫弟子もいます。
今までやってきた話の中で、こう変えれば面白いかな、と言うようなやり方で話は斬新になるなあと思っていて、そういうふうにやっていければなあと思います。
「なんでもいいんだよ、でもどうでも良いと言う訳ではないんだよ」うちの馬生師匠がよくいっていました。(役がつかめていればどうでもいい)
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章しています。
昭和23年墨田区本所生まれ、通好のみの本格化として親しまれている噺家です。
明治大学に入学してそこで落語にはまり大学を中退、古今亭 志ん生の長男の金原亭馬生に入門しています。
弟子3人、桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉、いずれも実力、人気のある落語家3人の弟子を抱えています。
五街道雲助の名前の経緯、二つ目になるときに何かいい名前がないかと思ったが、小粋な名前は好きではなかった。
師匠が俺は隠居したら五街道雲助になると言っていてそれが頭に残っていました。
五街道雲助を貰いたいと伺ったら、お前ならいいだろうと言われました。
本来「五海堂雲輔」だったが、五街道雲助になった。
なった当座は非難ごうごうだった、良い名前だなと言ってくれたのは立川談志師匠だけだった。
今の若い人は雲助の意味を知らない事はちょっとさみしい。
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章。
最初の賞の時は地味にやっていたので意外だった。
皇居に上がって天皇陛下にお会いすると聞いて、雲助が天皇陛下の前にいっていいのかと思いましたが。
立川談志師匠からは江戸の風を感じると言われました。
芝居話はやっています。
芝居はお袋が好きだったので子供のころから歌舞伎座に連れていかれたりしました。
団十郎、幸四郎、松緑3人が勧進帳を交代でやったのを小学校の頃観てたりしました。
落語もお袋が好きで鈴本等によく行きました。
三亀松(みきまつ)師匠の時は色っぽ過ぎて、子供には聞かせられないとその時はお袋には連れていって貰えなかった。
昭和23年墨田区本所生まれ、(戦後すぐは爆弾あられ屋、せんべい屋)蕎麦屋をやっていました。
子供のころは病弱だったので注射慣れしていました。
さん助師匠は当時爆笑王だった、川柳さん、談志師匠の小ゑん時代とか面白かったです。
両国中学(墨田区の学習院と言われた)にいって、12クラス有りました、そこで挫折しました。
明治大学付属高校に行きましたが、クラブ活動もやっていませんでした。
高校2年の時に進路指導があり、明治の商学部に行きたいと言って、3年の時に受験勉強を開始して商学部に入ることが出来ました。
人前で話すのが苦手で、落語研究会に入ることになりました。
文化祭では落語は花形だった。
新宿末広亭、人形町末広亭、鈴本、池袋にも毎日のように通っていました。
2年の終わりごろ、不可が10幾つありやばいと思って勉強しようと思ったら、教科書が無かった。(全部落語を聞く方に費やしてしまった。)
最初の文化祭ではお袋が聞きに来てくれて面白かったと言われて自信が付きました。
蕎麦屋、鮨屋、天ぷら屋などを父が広げてやるようになりましたが、後を継ぐことはありませんでした。
噺家になって二つ目になった時に父からもそろそろやめないのかと言われました。
噺家になろうと決めて、師匠としては小さん師匠か、馬生師匠かどちらかにしようと思いました。
小さん師匠の家を訪ねていったら、沢山弟子がいて、師匠にも合うことが出来ず断わり続けられました。
馬生師匠の所にいって、2回目に両親をつれていって入門することになりましたが、誰もいないはずの弟子が5,6人ました。(当時落語がブームで多かった。)
噺家の生活が新鮮でした。
師匠は朝の10時から日本酒でちびりちびりとやるわけです。
昼寝して1,2時になると風呂を沸かして風呂からあがって又ちびりちびりやるわけです。
雪駄を履いておかみさんが後ろから切り火をきって行ってらっしゃいと言って、「おう」と言って出かけて、なんと良い師匠なんだろうと、俺もいずれこういうことが出来るんだろうかと思ったがとんでもない、出来なかった、羨ましいと思いました。
当時年始に5.6か所回っていい気持になってしまいますが、今はないですね。
入門当時は「駒七」と云う名前で、1972年にふたつ目になり「五街道雲助」となり、1981年に真打ち昇進。
当時真打ち試験があり、山口百恵の結婚式と同じ日だった。
10数人試験を受けて7人が受かりました。
幹部が桟敷にいて、拍手もないし座椅子に坐っている人が一人いてそれが談志師匠で今までの中で最悪の客でしたね。
今は真打ち試験はなくなりました。
1982年に馬生師匠が亡くなり、残念でした。(54歳)
師匠みたいになりたいと思っていましたが、いきなりいなくなり稽古してもらえないで困ってしまいました。
落語の速記が大変多くて(古速記)、それが残っていて勉強できるので、それに頼った所があります。(調べながら勉強しました。)
44歳ぐらいで弟子を取ることになりました。
桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉。
桃月庵白酒は落とし話、隅田川馬石は人情物もできる、蜃気楼龍玉は圓朝ものが得意でやっています。
それぞれに持ち味があって面白いと思います。
入門志願者は10数人いたんですが、3人でちょうどよかったのかなと思います。
今は孫弟子もいます。
今までやってきた話の中で、こう変えれば面白いかな、と言うようなやり方で話は斬新になるなあと思っていて、そういうふうにやっていければなあと思います。
「なんでもいいんだよ、でもどうでも良いと言う訳ではないんだよ」うちの馬生師匠がよくいっていました。(役がつかめていればどうでもいい)
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