風吹ジュン(女優) ・いま故郷を想う
1952年富山県富山市生まれ、高岡市から京都にうつり、その後東京でモデルとしてスカウトされ、TVドラマで女優でビュー、TV、映画、舞台、CM等に幅広く活躍しています。
又来年4月からスタートする連続TV小説「半分、青い」では出演のほか、ナレーションを担当するなど活躍の場を広げています。
学校からの帰りが楽しみで、友達の家に寄ってから良く帰りました。
色々な職人の町なので仕事を見ているだけで楽しかったです。
はいはいして隣の家に行ったりしていたと言われました。
両親の離婚で兄が全部アルバムを川にすててしまって、私は手元に写真はなかったんです。
60歳のときに同窓会に呼んでもらったときに、写真を添えて頂きました。
縦割り教室(年上のお兄さん、お姉さんが遊んでくれる)で塗り絵、着せ替え人形などをしましたが皆手作りでした。
社会科の先生が戦争の話ばっかりしていました。(平和教育に繋がっているのではないかと思います)
小学校の時は、みんなとはちょっと外れていて、のんびりしていて積極的ではなかった。
中学は志貴野中学、高陵中学、3年からは京都に行きました。
自分のクラスに落ち着いていませんでした。
授業の終わりに毎日10問位のペーパーテストをやる時期があり、〇、線ひいて「失礼します」と出てゆきましたが、付いたあだ名が「ゼロ戦」でした」。
学校の帰りは高岡の大仏に潜って、地獄絵がありキャーといいながら楽しかったです。
54歳のときに柴田理恵さんと富山でのドラマに出て、「帰ろうよ」と言って下さって、富山に戻って来ました。
生まれたところの八尾に50年ぶりに行きました。
真っ暗な中におわら風の盆の先頭にいきなり立たされて、稽古をしていないのに立たされて踊りました。(50年前の話)
両親の離婚もあり、反抗する相手がないので反抗期のない時期を過ごしました。
京都に移ってからは一人で頑張らなくてはいけないと思いました。
富山の海の色、川の色が夢の中に蘇りました。
父の写真も頂いて、3人で立山に昇っている写真の事を思い出して、立山にいってみたいと思っていました。
少人数の同級生で立山に登りました。
心の山を登ったと言うか、人生での目標でもあったので、登れたことがうれしかったです。
立山に登る人は中高年の人が多いですね。
海外にも旅行によくいきまして、チベットのラサへいって、水牛に乗れることもできました。
Wi-Fiが繋がるので海外、スペインでも友達と車で旅をしたりしています。
2月に長女が長女を産んで、長男が去年産んで、孫が2人出来て、可愛いです。
母親としては子を守らなければと言うことで、口うるさくなってきます。
女性ホルモンの問題でそうなって行くようです。
私は自分の子供で鍛えられたと思います、たくましくもなります。
孫はただ可愛いです。
丈夫でいるためには疲れない身体にしてます。
疲れないための休み方、ちゃんと寝る、ちゃんと食べる。
肉などタンパク質をちゃんと取って下さい。
酵素も大事で酵素は生のものが多いので、キュウリに味噌を載せるだけでもいいですね。
人に色々出会いますが、虫が好かない人がときどきいます、苦手のタイプもいます。
「有難う」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」の4つがあります。
人間は争ってここまで繋がってきています。
戦争もありますが、何処かで人を恨んだり、人に傷付けられたり、痛い思いをされたりして、そのDNAがあり、それがあるから好きになれない人が出てきてもしょうがないと言う話で、心のなかで4つの事を唱えなさいと、そうすると口角が緩む様な笑顔に気持ちが成るのではないですか。
自分をおさえるためにも、4つの言葉を心の中でとなえることで、笑顔になれると思います。
2017年9月30日土曜日
2017年9月29日金曜日
張本勲(元プロ野球選手) ・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命(H29/8/15 OA)
張本勲(元プロ野球選手)・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命
(H29/8/15 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_15.htmlをご覧ください。
(H29/8/15 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_15.htmlをご覧ください。
2017年9月28日木曜日
菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】(H29/8/19 OA)
菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭(H29/8/19 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.htmlをご覧ください
真珠湾、たったひとりの慰霊祭(H29/8/19 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.htmlをご覧ください
2017年9月27日水曜日
飯守泰次郎(指揮者・オペラ芸術監督) ・オペラこそ私の人生
飯守泰次郎(指揮者・新国立劇場オペラ芸術監督)・オペラこそ私の人生
東京の渋谷に日本初のオペラハウス、新国立劇場がオープンしてから、来月10月でちょうど20年になります。
ヨーロッパのオペラハウスはその街の顔とも言うべきもので、日本でもその建設が期待されていました。
現在この劇場のオペラ芸術監督として活躍しているのが、指揮者の飯守さんです。
飯守さんは昭和15年旧満州生まれで今年77歳、幼いころから芸術に親しみ、桐朋学園大学では伝説の指揮者斎藤秀雄に師事しました。
その後海外の指揮者コンクールに優勝したことから指揮者の道に進むようになります。
大作曲家ワーグナーの生地バイロイト音楽祭では音楽助手を10年務め、ワーグナー指揮者としての名を高めました。
新国立劇場は2014年に第6代の芸術監督に就任し、10月からのシーズンは任期4年目の締めくくりの年を迎えることになりました。
オペラ芸術監督として4年目の任期の最後の年にもなりますし、『ニーベルングの指環』の4部作の締めくくりでもある訳です。
5時間以上かかる巨大な作品に取り組むのは無謀だろうと言う人もいますが、老人パワーで乗り切るほかないですね。
「神々の黄昏」で始まります。
10演目用意します、ワーグナーの神々の黄昏、ベートーベンの『フィデリオ』、細川俊夫さんの「松風」の3本は新製作です。
細川俊夫さんの松風は能の「松風」がベースになっています。
バレエが多く登場します。
オペラ芸術監督は2014年に就任しました。
オペラは人間の生きざまそのものです。
舞台や客席の熱狂なしには素晴らしい公演は成立しませんので、どうしたら舞台と客席の温度を上げるか考えています。
演出は作品の普遍的な内容と一致し、音楽と一体化してお客さんに感動をもたらすことが重要だと考えています。
最近はヨーロッパでは余りに斬新で音楽とかい離してしまっている芸術がもてはやされる。
オペラはもっと生な、単純なもので、喜怒哀楽が出てくる。
私は作品の本質に沿った演出を選ぶように心がけて来ました。
バレエにの芸術監督が大原永子さん、演劇の芸術監督が宮田 慶子さん、オペラが私が担当します。
部門が違ってもバレエ、演劇の公演にも足を運びますし、2人もオペラに来ていただいています。
昭和15年旧満州生まれ、父は裁判官。
父がクラシック好きで、静かにピアノを弾いていました。(独学)
それが凄く印象に残っていました。
母がたの祖母が日本舞踊の林流の家元で、子供の時から国立劇場の華やかな楽屋にいっていました。
3歳からピアノやバイオリンを習い始めて、ピアノはこうやまいくのしん?先生、暗譜を直ぐにして楽譜なしで弾けましたが先生は楽譜から目を離さないで弾けと言われて、そのお陰で楽譜を読む力が付いたと言うことが後で気が付きました。
高校入学をどうしようと考えたが、競争は避けられないなら音楽の道にと思って、桐朋学園ピアノ科に入学しました。
斎藤秀雄先生の指導させてもらう。
一番叩きこまれたのは、音楽は意志である、技術である、指揮者はどう演奏したいか確固たる意志を持ち、それをオーケストラの楽員にはっきり技術的に伝える、技術とは具体性、具体性が伴わなければ良い演奏が出来たとおもっても出来て居ないと言うことが先生の信条でした。
具体的な指示を出すように徹底的にしごかれました。(あんな厳しい先生は今はいないです)
藤原歌劇団でピアニストをやったきっかけで、藤原 義江さんに認められまして、オペラの指揮者としてデビューしました。
労音の公演で椿姫を51回演奏出来て、全国を回って指揮者として大事なのはオペラであると言うことにはっきり気がつきました。
最初はヨーロッパにはいかずにニューヨークに留学しました。
1966年ミトロプーロス国際指揮者コンクールに出て4位に入賞しました。
評価されてバイロイト国際音楽祭のマスタークラスに誘われてドイツに行くことになります。
バイロイト国際音楽祭はワーグナーが作ったもので、一族に受け継がれて1960年代は孫のビーラント・ワーグナーが演出などをやりました。
バイロイトで得たものは無限です。
アシスタントとして歌が出来、ピアノが弾けて、棒が振れてと言うことが完全にできなければいけない。
アシスタントの仕事を20年間しました。(ワーグナー漬け)
ワーグナーの魅力とともに毒ともいえる魅力です。
ワーグナーは作曲あであるだけでなく、台本を自分で書いていて、そういう作曲家はいません。
音響で、自分専用の劇場まで建ててしまった。
ワーグナーに心酔する人達と反ワーグナー派が常に存在していましたが、今でもそうです。
*『ワルキューレの騎行』 舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の2作目に当たる。
10月1日からはじまるが、世界的なヘルデンテノール、ステファン・グールドが『指環』4作品すべてに出演する。
『フィデリオ』 ベートーベンの唯一のオペラ。 これも指揮します。(来年5月)
ワーグナーの曾孫 カタリーナ・ワーグナー(39歳)に今回の『フィデリオ』をお願いしました。
新鮮な舞台演出を期待しています。
オペラは芸術であれ、犯罪であれ、愛の問題であれ、自分ではできないようなことがステージでは芸術の名のもとになんでも実行できる、これが醍醐味だと思います。
2014年にドイツの宝ともいえるハリー・クプファーが演出をしてくれて、宗教的な難解な作品が日本の聴衆に熱狂的な反応で受け入れられたと言うことに励まされました。
もっともっと日常にオペラを浸透させてゆくように、更に力を尽くそうと心に誓いました。
東京の渋谷に日本初のオペラハウス、新国立劇場がオープンしてから、来月10月でちょうど20年になります。
ヨーロッパのオペラハウスはその街の顔とも言うべきもので、日本でもその建設が期待されていました。
現在この劇場のオペラ芸術監督として活躍しているのが、指揮者の飯守さんです。
飯守さんは昭和15年旧満州生まれで今年77歳、幼いころから芸術に親しみ、桐朋学園大学では伝説の指揮者斎藤秀雄に師事しました。
その後海外の指揮者コンクールに優勝したことから指揮者の道に進むようになります。
大作曲家ワーグナーの生地バイロイト音楽祭では音楽助手を10年務め、ワーグナー指揮者としての名を高めました。
新国立劇場は2014年に第6代の芸術監督に就任し、10月からのシーズンは任期4年目の締めくくりの年を迎えることになりました。
オペラ芸術監督として4年目の任期の最後の年にもなりますし、『ニーベルングの指環』の4部作の締めくくりでもある訳です。
5時間以上かかる巨大な作品に取り組むのは無謀だろうと言う人もいますが、老人パワーで乗り切るほかないですね。
「神々の黄昏」で始まります。
10演目用意します、ワーグナーの神々の黄昏、ベートーベンの『フィデリオ』、細川俊夫さんの「松風」の3本は新製作です。
細川俊夫さんの松風は能の「松風」がベースになっています。
バレエが多く登場します。
オペラ芸術監督は2014年に就任しました。
オペラは人間の生きざまそのものです。
舞台や客席の熱狂なしには素晴らしい公演は成立しませんので、どうしたら舞台と客席の温度を上げるか考えています。
演出は作品の普遍的な内容と一致し、音楽と一体化してお客さんに感動をもたらすことが重要だと考えています。
最近はヨーロッパでは余りに斬新で音楽とかい離してしまっている芸術がもてはやされる。
オペラはもっと生な、単純なもので、喜怒哀楽が出てくる。
私は作品の本質に沿った演出を選ぶように心がけて来ました。
バレエにの芸術監督が大原永子さん、演劇の芸術監督が宮田 慶子さん、オペラが私が担当します。
部門が違ってもバレエ、演劇の公演にも足を運びますし、2人もオペラに来ていただいています。
昭和15年旧満州生まれ、父は裁判官。
父がクラシック好きで、静かにピアノを弾いていました。(独学)
それが凄く印象に残っていました。
母がたの祖母が日本舞踊の林流の家元で、子供の時から国立劇場の華やかな楽屋にいっていました。
3歳からピアノやバイオリンを習い始めて、ピアノはこうやまいくのしん?先生、暗譜を直ぐにして楽譜なしで弾けましたが先生は楽譜から目を離さないで弾けと言われて、そのお陰で楽譜を読む力が付いたと言うことが後で気が付きました。
高校入学をどうしようと考えたが、競争は避けられないなら音楽の道にと思って、桐朋学園ピアノ科に入学しました。
斎藤秀雄先生の指導させてもらう。
一番叩きこまれたのは、音楽は意志である、技術である、指揮者はどう演奏したいか確固たる意志を持ち、それをオーケストラの楽員にはっきり技術的に伝える、技術とは具体性、具体性が伴わなければ良い演奏が出来たとおもっても出来て居ないと言うことが先生の信条でした。
具体的な指示を出すように徹底的にしごかれました。(あんな厳しい先生は今はいないです)
藤原歌劇団でピアニストをやったきっかけで、藤原 義江さんに認められまして、オペラの指揮者としてデビューしました。
労音の公演で椿姫を51回演奏出来て、全国を回って指揮者として大事なのはオペラであると言うことにはっきり気がつきました。
最初はヨーロッパにはいかずにニューヨークに留学しました。
1966年ミトロプーロス国際指揮者コンクールに出て4位に入賞しました。
評価されてバイロイト国際音楽祭のマスタークラスに誘われてドイツに行くことになります。
バイロイト国際音楽祭はワーグナーが作ったもので、一族に受け継がれて1960年代は孫のビーラント・ワーグナーが演出などをやりました。
バイロイトで得たものは無限です。
アシスタントとして歌が出来、ピアノが弾けて、棒が振れてと言うことが完全にできなければいけない。
アシスタントの仕事を20年間しました。(ワーグナー漬け)
ワーグナーの魅力とともに毒ともいえる魅力です。
ワーグナーは作曲あであるだけでなく、台本を自分で書いていて、そういう作曲家はいません。
音響で、自分専用の劇場まで建ててしまった。
ワーグナーに心酔する人達と反ワーグナー派が常に存在していましたが、今でもそうです。
*『ワルキューレの騎行』 舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の2作目に当たる。
10月1日からはじまるが、世界的なヘルデンテノール、ステファン・グールドが『指環』4作品すべてに出演する。
『フィデリオ』 ベートーベンの唯一のオペラ。 これも指揮します。(来年5月)
ワーグナーの曾孫 カタリーナ・ワーグナー(39歳)に今回の『フィデリオ』をお願いしました。
新鮮な舞台演出を期待しています。
オペラは芸術であれ、犯罪であれ、愛の問題であれ、自分ではできないようなことがステージでは芸術の名のもとになんでも実行できる、これが醍醐味だと思います。
2014年にドイツの宝ともいえるハリー・クプファーが演出をしてくれて、宗教的な難解な作品が日本の聴衆に熱狂的な反応で受け入れられたと言うことに励まされました。
もっともっと日常にオペラを浸透させてゆくように、更に力を尽くそうと心に誓いました。
2017年9月26日火曜日
新津春子(空港ビル清掃人) ・掃除はやさしさ
新津春子(空港ビル清掃人) ・掃除はやさしさ
9月24日は清掃の日、24日から来月1日までの1週間は環境衛生週間です。
羽田空港は世界最大の航空業界格付け会社から、2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
その立役者が空港ビルを清掃する新津さん47歳です。
新津さんは中国残留孤児の二世でさまざまな苦労を乗り越えて、今や掃除のプロフェッショナルとして日々の清掃の仕事はもちろん、後進の指導、セミナーや講演の講師にと忙しい毎日を送っています。
清掃の極意とは何なのか伺いました。
一日約22万人が利用しています。
お客様最優先なので、それをみなさんそれぞれ工夫してやっています。
2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
みんなの力がないと難しいです。
清掃する人は在籍で700人です。
19社の責任者がいて、常に無線とか電話でやり取りしています。
おじいさんが軍人で中国で戦争していて、引き揚げたときに父が中国に残されて残留孤児になり、母は中国の人です。
中国 瀋陽で生まれまして、17年間そこで住みました。
日本人と判った時にはいじめられました。
今思えば耐えてきたことが今日あると思います。
17歳で日本に来ました、飛行機見るのも乗るのもはじめてでした。
見るもの聞くものすべてが新鮮で衝撃でした。
ホテル住まいで直ぐにお金が無くなり、一日三食パンの耳を食べたこともありました。
学校には1年後から行きましたが、言葉が通じないところと、クラスの人たちが輪を作っていて輪の中に入れなかった。
いない間に椅子に画鋲を置かれたときもありましたが、中国と一緒だと思いました。
解決できないことなので、しょうがないと思いました。
学校へ行く前、後、休みの日、夏休み、冬休み、365日毎日アルバイトをしていました。
トイレ、床掃除の仕事、ウエートレスの仕事でした。
社長が雇ってくれて感謝しました。
きつい、汚い、危険(3K)仕事といわれるが、そんなことを云っていられる場合では無かったです、生きてゆくのに必死でした。
この会社は23年目になります。
鈴木常務が亡くなって5年になります。
鈴木さんはアピールが下手、喋るのも苦手な人ですが、清掃の事になると口が止まらない人で、清掃の事をなんでもおしえてくれました。
聞くと色んな資料を一杯くれます。
手書きで、人の付き合いがとんでもないほど広い人で、清掃の神様と言われていました。
ビルクリーニング技能士の免許を持って5年の経験がある人のコンテストがあり、1人20平米でワックス塗りする作業で、予選大会では1位を狙っていましたが2位でした。
鈴木常務に問いかけたら、あなたには相手に対する優しさがないでしょうと言われて、そういうことは考えていませんでした。(技能には自信があった)
どう優しさを出すのか分からなかった。
机、椅子はだれが作ったのか、作った人間があなたの事を見たときにどうみているのかと言われて、物でもそこまで考えることが必要なんだと判りました。
(当時はなかなか考えられませんでした)
いまやっていることはすべて鈴木さんが言ったことを守っているだけです。
先々を考えること、皆が気付く前にやっていけばハッピーです。
自分も楽しくなります。
その後全国大会があり、そこでは1位に成りました。
常務がやっていたことを引き継いで、今は部長がやっています。
日本一のハウスクリーニング会社を作りたいです。
親会社の社長に話したら良い事じゃないですか、やってください、との一言でした。
今の私は必要とされていて、来たときとは違うんだと思いました。
メーカーさんが洗剤と清掃道具を毎年新しいものを出してきますので、いいか悪いかテストしないといけないので、その時代に合ったものを使わないとだめだと思います。
清掃道具は自分で作ってしまうものもあります。
皆が意見を出し合って作っています。
臭いは隅っこ、空気の流れにくいところなどから出て来ますので、健康には良くないので健康の為に清掃します。
家では主人がよくやってくれていて、洗濯も99%、食事も主人がやっています。
中国、台湾にも今年行って、講演をやったりしているので、主人がやる様に成ってくれました。
家庭などでは1時間ときめて掃除をする、一番汚れがひどいところだけを拭いて掃除をし、その時にそばにタオルがないとだめです。
平均でみて、汚れが一番ひどい所を掃除する。
若い人に教えるのに、教えることをマニュアル化しないのが大事で、その人が得意なところを先に教える、嫌いなものはなかなか覚えられないので。
自分が体験したこと、苦労したことを伝えたいと思っています、そうすれば越えて行くと思います。
プロは毎日の積み重ね、人との出会い、こつこつやり続けること、それが結果的にプロに繋がると思いますが、プロになったからと言ってずーっとプロではなくて、プロになった時がスタートだと思います。
空港が自分の我が家だと思っています、そうするとどこでも普通にできちゃいます。
やる仕事は尽きることはない、それは楽しいこと、やりがいのある仕事です。
9月24日は清掃の日、24日から来月1日までの1週間は環境衛生週間です。
羽田空港は世界最大の航空業界格付け会社から、2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
その立役者が空港ビルを清掃する新津さん47歳です。
新津さんは中国残留孤児の二世でさまざまな苦労を乗り越えて、今や掃除のプロフェッショナルとして日々の清掃の仕事はもちろん、後進の指導、セミナーや講演の講師にと忙しい毎日を送っています。
清掃の極意とは何なのか伺いました。
一日約22万人が利用しています。
お客様最優先なので、それをみなさんそれぞれ工夫してやっています。
2013年、14年、16年、17年と4回も世界で最も清潔な空港に選ばれました。
みんなの力がないと難しいです。
清掃する人は在籍で700人です。
19社の責任者がいて、常に無線とか電話でやり取りしています。
おじいさんが軍人で中国で戦争していて、引き揚げたときに父が中国に残されて残留孤児になり、母は中国の人です。
中国 瀋陽で生まれまして、17年間そこで住みました。
日本人と判った時にはいじめられました。
今思えば耐えてきたことが今日あると思います。
17歳で日本に来ました、飛行機見るのも乗るのもはじめてでした。
見るもの聞くものすべてが新鮮で衝撃でした。
ホテル住まいで直ぐにお金が無くなり、一日三食パンの耳を食べたこともありました。
学校には1年後から行きましたが、言葉が通じないところと、クラスの人たちが輪を作っていて輪の中に入れなかった。
いない間に椅子に画鋲を置かれたときもありましたが、中国と一緒だと思いました。
解決できないことなので、しょうがないと思いました。
学校へ行く前、後、休みの日、夏休み、冬休み、365日毎日アルバイトをしていました。
トイレ、床掃除の仕事、ウエートレスの仕事でした。
社長が雇ってくれて感謝しました。
きつい、汚い、危険(3K)仕事といわれるが、そんなことを云っていられる場合では無かったです、生きてゆくのに必死でした。
この会社は23年目になります。
鈴木常務が亡くなって5年になります。
鈴木さんはアピールが下手、喋るのも苦手な人ですが、清掃の事になると口が止まらない人で、清掃の事をなんでもおしえてくれました。
聞くと色んな資料を一杯くれます。
手書きで、人の付き合いがとんでもないほど広い人で、清掃の神様と言われていました。
ビルクリーニング技能士の免許を持って5年の経験がある人のコンテストがあり、1人20平米でワックス塗りする作業で、予選大会では1位を狙っていましたが2位でした。
鈴木常務に問いかけたら、あなたには相手に対する優しさがないでしょうと言われて、そういうことは考えていませんでした。(技能には自信があった)
どう優しさを出すのか分からなかった。
机、椅子はだれが作ったのか、作った人間があなたの事を見たときにどうみているのかと言われて、物でもそこまで考えることが必要なんだと判りました。
(当時はなかなか考えられませんでした)
いまやっていることはすべて鈴木さんが言ったことを守っているだけです。
先々を考えること、皆が気付く前にやっていけばハッピーです。
自分も楽しくなります。
その後全国大会があり、そこでは1位に成りました。
常務がやっていたことを引き継いで、今は部長がやっています。
日本一のハウスクリーニング会社を作りたいです。
親会社の社長に話したら良い事じゃないですか、やってください、との一言でした。
今の私は必要とされていて、来たときとは違うんだと思いました。
メーカーさんが洗剤と清掃道具を毎年新しいものを出してきますので、いいか悪いかテストしないといけないので、その時代に合ったものを使わないとだめだと思います。
清掃道具は自分で作ってしまうものもあります。
皆が意見を出し合って作っています。
臭いは隅っこ、空気の流れにくいところなどから出て来ますので、健康には良くないので健康の為に清掃します。
家では主人がよくやってくれていて、洗濯も99%、食事も主人がやっています。
中国、台湾にも今年行って、講演をやったりしているので、主人がやる様に成ってくれました。
家庭などでは1時間ときめて掃除をする、一番汚れがひどいところだけを拭いて掃除をし、その時にそばにタオルがないとだめです。
平均でみて、汚れが一番ひどい所を掃除する。
若い人に教えるのに、教えることをマニュアル化しないのが大事で、その人が得意なところを先に教える、嫌いなものはなかなか覚えられないので。
自分が体験したこと、苦労したことを伝えたいと思っています、そうすれば越えて行くと思います。
プロは毎日の積み重ね、人との出会い、こつこつやり続けること、それが結果的にプロに繋がると思いますが、プロになったからと言ってずーっとプロではなくて、プロになった時がスタートだと思います。
空港が自分の我が家だと思っています、そうするとどこでも普通にできちゃいます。
やる仕事は尽きることはない、それは楽しいこと、やりがいのある仕事です。
2017年9月25日月曜日
橋本淳(作詞家) ・【謎解き うたことば】
橋本淳(作詞家) ・【謎解き うたことば】
*「ブルーシャトー」の作詞家 1967年
すぎやまこういち(椙山 浩一)先生がアメリカのヒット曲を番組で見て、ビートルズが出てきたと言うことで
椙山先生が痛く感動して、「ヒットパレード」ではアメリカのポップスをやめて、ロックをやると言うことで、井上忠夫さんと呼ばれて曲を作れと言うことだったが、作れないと言ったが、作らざるを得なくなって、世の中に出るまで2年ぐらいかかりました。
大学3年生の時に就職試験を受けることになり、シェル石油、日本航空を受けることになり、2次試験の時間にいってしまったり、メガネはダメだからとか言われて、そんなことまでして入りたくなかった。
困っていたら、友人の関係で椙山先生の御自宅に伺いましたら、譜面を渡されてこれに歌詞を付けてくるように言われて、できないと言ったが、何とか作って届けておきました。
そうしたら電話がかかってきて、採用ということだった。
最初は運転手、椙山先生のもとにいて(「大人の漫画」、「ヒットパレード」などを手がけていた)段々この世界にはいってしまいました。
歌を作ることを目的にしていなかったので、何とか逃げたいと思っていた。
小説などを書きたかったが、父親(与田凖一)から才能がないと言われてしまった。
ずるずると椙山先生のところにくっついてゆくことになった。
椙山先生からキングレコードで社員を募集しているから受けてみるように言われた。
自分の曲がレコーディングされないのはなぜかと調べてこいと言うことだった。
光文社の上にキングレコードがあったが、面接みたいになって、採用されることになる。
専属制と言う時代なのでフリーの人(椙山先生)のレコーディングはできないと言われた。
遅刻をしたり、椙山先生に呼ばれて早退したりして、一曲ぐらい仕事を取ってこいと言われて、童謡、民芸を出しているセクションは専属制ではなくて、ジェームス・ボンドの映画が大ヒットした時で「ボンド小歌」を作ることになり、作詞を担当した。
退職したいと言ったら、させてくれなくて、講談社の重役の処にいって家族で頭を下げました。
椙山先生は自分の曲をレコードにしたいと思っていて、森山加代子さんのB面だったらいいと言う話もあった。
大阪のライブハウスに観に行ったりして沢田研二さんが印象に残っていたりしていた。
「ヒットパレード」に「ザ・タイガース」を出そうと言うことになって、渡辺プロが決めたと思うんです。(「僕のマリー」と言う歌でデビューする)
その頃、僕はブルーコメッツ、ビレッジシンガーズとかいくつかやっていて、最初何が何だか判らないような状況でやっていました。
専属の時代だから、なんか判らないうちに出すと、売れてしまうような状況でした。
判らないというのは、歌を作るという行為が判らない、日本に歌謡曲があることを知らなかった。
クラシックが好きで、現代音楽とは縁遠く、歌詞が付く歌が日本にあるのかと思っていた。
「青い瞳」という言葉が新聞に載っていて、それで「青い瞳」と言うタイトルを付けて作詞しました。
「ブルーシャトー」 ピカソが青の時代とかあり、判らないから練習の時代は全部青の時代にしようと思った
「青い瞳」、「青い渚」、「ブルーシャトー」と成って行くんです。
弟が大学には行かずに、ロシア、スウエーデンにいってしまって、母親から見てきてくれと言われて、ストックホルムにいって、朝方に着いたが湖が物凄く綺麗だった。
弟とドライブした時に、これはシャトーだねと言うことになり、「ブルーシャトー」と言うタイトルを付けました。
椙山先生の所に居て、無職で結婚してしまい、妻のピアノでの収入しかなかった。
「青い瞳」が売れて、著作権協会から5万円ぐらい印税が送られてきた。
それでお金になるのだと思って、次に50万円になり、「青い渚」とか3回目で500万円になり、「ザ・タイガーズ」がやるようになってから初めて意識して歌を作る事を考えるようになりました。
どうしたら売れるかと言うことを考えるようになりました。
タイガースにガウンを着せたらどうだろうかとか、キャラクターを作っていきました。
「君だけに愛を」沢田さんが指さすと女性が失神してしまい、生まれて初めてこの光景を見て、いつかこれを意図的にやってやろうと思いました。
意図的にやっていくと、2順目、3順目になると、作曲する方が音楽的に難しくなってきて出来ない。
グループサウンズが終焉を迎えるのは、ギターを持っていれば立っているやつでもいいからバンドにしてしまえというような、悪貨は良貨を駆逐するではないが、その様な方針を決めてやったり、スタジオミュージシャンを使ってやるように成ると、メンバーの不満が出てきたりして、想定しない素人がやりだしてしまって、そこが崩壊に繋がってしまった。
次のステップはグループサウンズの音楽を黛ジュン、奥村チヨ、いしだあゆみとかが、音楽を8ビートにして変えていって上手く繋がって、女性のポップスの時代に変わって行く。
*「ブルーシャトー」の作詞家 1967年
すぎやまこういち(椙山 浩一)先生がアメリカのヒット曲を番組で見て、ビートルズが出てきたと言うことで
椙山先生が痛く感動して、「ヒットパレード」ではアメリカのポップスをやめて、ロックをやると言うことで、井上忠夫さんと呼ばれて曲を作れと言うことだったが、作れないと言ったが、作らざるを得なくなって、世の中に出るまで2年ぐらいかかりました。
大学3年生の時に就職試験を受けることになり、シェル石油、日本航空を受けることになり、2次試験の時間にいってしまったり、メガネはダメだからとか言われて、そんなことまでして入りたくなかった。
困っていたら、友人の関係で椙山先生の御自宅に伺いましたら、譜面を渡されてこれに歌詞を付けてくるように言われて、できないと言ったが、何とか作って届けておきました。
そうしたら電話がかかってきて、採用ということだった。
最初は運転手、椙山先生のもとにいて(「大人の漫画」、「ヒットパレード」などを手がけていた)段々この世界にはいってしまいました。
歌を作ることを目的にしていなかったので、何とか逃げたいと思っていた。
小説などを書きたかったが、父親(与田凖一)から才能がないと言われてしまった。
ずるずると椙山先生のところにくっついてゆくことになった。
椙山先生からキングレコードで社員を募集しているから受けてみるように言われた。
自分の曲がレコーディングされないのはなぜかと調べてこいと言うことだった。
光文社の上にキングレコードがあったが、面接みたいになって、採用されることになる。
専属制と言う時代なのでフリーの人(椙山先生)のレコーディングはできないと言われた。
遅刻をしたり、椙山先生に呼ばれて早退したりして、一曲ぐらい仕事を取ってこいと言われて、童謡、民芸を出しているセクションは専属制ではなくて、ジェームス・ボンドの映画が大ヒットした時で「ボンド小歌」を作ることになり、作詞を担当した。
退職したいと言ったら、させてくれなくて、講談社の重役の処にいって家族で頭を下げました。
椙山先生は自分の曲をレコードにしたいと思っていて、森山加代子さんのB面だったらいいと言う話もあった。
大阪のライブハウスに観に行ったりして沢田研二さんが印象に残っていたりしていた。
「ヒットパレード」に「ザ・タイガース」を出そうと言うことになって、渡辺プロが決めたと思うんです。(「僕のマリー」と言う歌でデビューする)
その頃、僕はブルーコメッツ、ビレッジシンガーズとかいくつかやっていて、最初何が何だか判らないような状況でやっていました。
専属の時代だから、なんか判らないうちに出すと、売れてしまうような状況でした。
判らないというのは、歌を作るという行為が判らない、日本に歌謡曲があることを知らなかった。
クラシックが好きで、現代音楽とは縁遠く、歌詞が付く歌が日本にあるのかと思っていた。
「青い瞳」という言葉が新聞に載っていて、それで「青い瞳」と言うタイトルを付けて作詞しました。
「ブルーシャトー」 ピカソが青の時代とかあり、判らないから練習の時代は全部青の時代にしようと思った
「青い瞳」、「青い渚」、「ブルーシャトー」と成って行くんです。
弟が大学には行かずに、ロシア、スウエーデンにいってしまって、母親から見てきてくれと言われて、ストックホルムにいって、朝方に着いたが湖が物凄く綺麗だった。
弟とドライブした時に、これはシャトーだねと言うことになり、「ブルーシャトー」と言うタイトルを付けました。
椙山先生の所に居て、無職で結婚してしまい、妻のピアノでの収入しかなかった。
「青い瞳」が売れて、著作権協会から5万円ぐらい印税が送られてきた。
それでお金になるのだと思って、次に50万円になり、「青い渚」とか3回目で500万円になり、「ザ・タイガーズ」がやるようになってから初めて意識して歌を作る事を考えるようになりました。
どうしたら売れるかと言うことを考えるようになりました。
タイガースにガウンを着せたらどうだろうかとか、キャラクターを作っていきました。
「君だけに愛を」沢田さんが指さすと女性が失神してしまい、生まれて初めてこの光景を見て、いつかこれを意図的にやってやろうと思いました。
意図的にやっていくと、2順目、3順目になると、作曲する方が音楽的に難しくなってきて出来ない。
グループサウンズが終焉を迎えるのは、ギターを持っていれば立っているやつでもいいからバンドにしてしまえというような、悪貨は良貨を駆逐するではないが、その様な方針を決めてやったり、スタジオミュージシャンを使ってやるように成ると、メンバーの不満が出てきたりして、想定しない素人がやりだしてしまって、そこが崩壊に繋がってしまった。
次のステップはグループサウンズの音楽を黛ジュン、奥村チヨ、いしだあゆみとかが、音楽を8ビートにして変えていって上手く繋がって、女性のポップスの時代に変わって行く。
2017年9月24日日曜日
小野喬(元五輪体操金メダリスト) ・鬼に金棒 小野に鉄棒【特選 スポーツ名場面の裏側で】
小野喬(元五輪体操金ネダリスト)・鬼に金棒 小野に鉄棒【特選 スポーツ名場面の裏側で】
86歳、秋田県出身、旧制能代中学校から東京教育大学、慶応義塾大学を卒業し、社会人の東洋レーヨンでも体操選手として活躍、全日本選手権では7回優勝しました。
オリンピックではヘルシンキ、メルボルン、ローマ、東京の4つの大会に出場し、いずれもメダルを獲得しました。
金5個を含め、計13個のメダルは日本の歴代最多獲得数です。
特に鉄棒はメルボルン、ローマと2連覇を飾り、鬼に金棒 小野に鉄棒と言われました。
4度目の東京オリンピックでは日本選手団の主将で、開会式では選手宣誓を務めました。
東京オリンピックの翌年から妻の清子さんと二人三脚で東京都大田区に作ったスポーツクラブの歴史は50年を越えます。
現在も日本のスポーツの普及に活躍を続ける小野さんにうかがいました。
1952年昭和27年、戦後日本が初めて出場した大会、ヘルシンキオリンピック。
東京教育大学3年生で最年少で出場。
団体、規定で日本は5位、自由でも5位、種目別跳馬で竹本正男さんが銀メダル、私が3位、(上迫忠夫さんと同点で3位に成ったが、私は後で3位と知った)
当時プロペラ機で何回も着陸してスウェーデンに2日かかりました。
1956年昭和31年、メルボルン大会。
開催の2カ月程前、全日本選手権大会が行われて、男女6名が決まる。
この時は床に2位になった以外は全部トップだった。
団体規定、ソ連に0.10差の2位、個人総合ではソ連のムラトフ選手を0,05を上回るトップ、種目別鉄棒9.75で1位、平行棒、あん馬でも1位。
最終日の自由演技、団体は規定で日本2位(ソ連1位 0.10差) 自由演技ソ連団体1位、日本は2位。
個人総合、規定でトップだったがチュカリン選手に逆転されて2位。
種目別 鉄棒は規定でトップ(9.85) チトフ選手が9.70でこの瞬間、日本体操で初めての金メダルが決まる。
ヘルシンキの時に全員8mmの撮影機を手にして研究しました。
メルボルン大会の活躍は世界の体操界の話題にもなりました。
鉄棒では世界でだれもやっていなかった技を入れて着地でしっかりと止って、優勝できました。
メルボルンでは鉄棒で金、銀メダル、団体、個人総合、種目別あん馬、銅メダルを平行棒で取って5個のメダルを取る。
1960年昭和35年のローマオリンピック
(メルボルンでは種目別鉄棒で金、団体で2位、個人総合2位。)
29歳で参加。
団体、規定で好成績で1.05ソ連をリード、個人総合でもトップ(日本の選手が4~8位までを占める)
結果、ソ連に2.40の大差で日本団体初優勝、金メダルを取る。
あん馬で皮が滑るのでC難度をやるか悩んで、Bにしたが、着地でミスをしてしまった。
吊り輪でも着地をB難度に切り替えたが動いてしまって、0.05差で2位になってしまった。
種目別鉄棒では金メダルを取る。(背面車輪からフルターン、ひねり飛び越しなどを入れて優勝することが出来た)
昭和39年東京オリンピック
33歳、東洋レーヨンの所属。
(3回のオリンピックで金4、銀4、銅4をすでに獲得していた。)
日本選手団の主将を担当することになり、選手宣誓をすることになる。
宣誓文の暗記と練習を毎日のようにやりました。
右肩を故障していたので試合の時まで鍼治療をしました。
団体2連勝の成果を得ることが出来て本当に嬉しかったです。
ローマ以降段々落ちてきてしまったが、チーム6人のうちの6番目に選ばれました。
選手宣誓するときに、鳩を飛ばすことになっていて、その合図として「小野」と言った後に間をおいて「喬」と言ってほしいと言われて、こっちからもお願いがあり、宣誓台の所にメモを置いてほしいと言ったが駄目と言われてしまいました。
宣誓台のまえを見たら小さな紙が置いてあって、これを見る訳にはいかなかったが、これで安心しました。
遠藤選手が個人総合優勝する。
種目別で吊り輪で早田、跳馬で山下、平行棒で遠藤 金メダル 鶴見(銀)、徒手で遠藤(銀)、あん馬で鶴見(銀)、鉄棒ではメダルは無となる。(私は6位となってしまった)
合計メダルを13個獲得は現在も歴代最多獲得数。
昭和6年秋田県能代の生まれ。
小学校3年生の時に体操競技を見て、次の日から皆でやり始めて、どんどんのびていったが戦争で出来なくなってしまった。
終戦が中学1年で、2年から体操を本格的に始めて、新制高校3年で高校総体で優勝して体操の道を歩んできました。
中学高校は365日やっていました。
器具類は工夫して作りで作ったりもしました。
東京教育大学に進む。
東京大田区に夫婦で池上スポーツ普及クラブを創設しました。
池上スポーツ普及クラブの教え子の、教え子が今オリンピック選手になっています。
86歳、秋田県出身、旧制能代中学校から東京教育大学、慶応義塾大学を卒業し、社会人の東洋レーヨンでも体操選手として活躍、全日本選手権では7回優勝しました。
オリンピックではヘルシンキ、メルボルン、ローマ、東京の4つの大会に出場し、いずれもメダルを獲得しました。
金5個を含め、計13個のメダルは日本の歴代最多獲得数です。
特に鉄棒はメルボルン、ローマと2連覇を飾り、鬼に金棒 小野に鉄棒と言われました。
4度目の東京オリンピックでは日本選手団の主将で、開会式では選手宣誓を務めました。
東京オリンピックの翌年から妻の清子さんと二人三脚で東京都大田区に作ったスポーツクラブの歴史は50年を越えます。
現在も日本のスポーツの普及に活躍を続ける小野さんにうかがいました。
1952年昭和27年、戦後日本が初めて出場した大会、ヘルシンキオリンピック。
東京教育大学3年生で最年少で出場。
団体、規定で日本は5位、自由でも5位、種目別跳馬で竹本正男さんが銀メダル、私が3位、(上迫忠夫さんと同点で3位に成ったが、私は後で3位と知った)
当時プロペラ機で何回も着陸してスウェーデンに2日かかりました。
1956年昭和31年、メルボルン大会。
開催の2カ月程前、全日本選手権大会が行われて、男女6名が決まる。
この時は床に2位になった以外は全部トップだった。
団体規定、ソ連に0.10差の2位、個人総合ではソ連のムラトフ選手を0,05を上回るトップ、種目別鉄棒9.75で1位、平行棒、あん馬でも1位。
最終日の自由演技、団体は規定で日本2位(ソ連1位 0.10差) 自由演技ソ連団体1位、日本は2位。
個人総合、規定でトップだったがチュカリン選手に逆転されて2位。
種目別 鉄棒は規定でトップ(9.85) チトフ選手が9.70でこの瞬間、日本体操で初めての金メダルが決まる。
ヘルシンキの時に全員8mmの撮影機を手にして研究しました。
メルボルン大会の活躍は世界の体操界の話題にもなりました。
鉄棒では世界でだれもやっていなかった技を入れて着地でしっかりと止って、優勝できました。
メルボルンでは鉄棒で金、銀メダル、団体、個人総合、種目別あん馬、銅メダルを平行棒で取って5個のメダルを取る。
1960年昭和35年のローマオリンピック
(メルボルンでは種目別鉄棒で金、団体で2位、個人総合2位。)
29歳で参加。
団体、規定で好成績で1.05ソ連をリード、個人総合でもトップ(日本の選手が4~8位までを占める)
結果、ソ連に2.40の大差で日本団体初優勝、金メダルを取る。
あん馬で皮が滑るのでC難度をやるか悩んで、Bにしたが、着地でミスをしてしまった。
吊り輪でも着地をB難度に切り替えたが動いてしまって、0.05差で2位になってしまった。
種目別鉄棒では金メダルを取る。(背面車輪からフルターン、ひねり飛び越しなどを入れて優勝することが出来た)
昭和39年東京オリンピック
33歳、東洋レーヨンの所属。
(3回のオリンピックで金4、銀4、銅4をすでに獲得していた。)
日本選手団の主将を担当することになり、選手宣誓をすることになる。
宣誓文の暗記と練習を毎日のようにやりました。
右肩を故障していたので試合の時まで鍼治療をしました。
団体2連勝の成果を得ることが出来て本当に嬉しかったです。
ローマ以降段々落ちてきてしまったが、チーム6人のうちの6番目に選ばれました。
選手宣誓するときに、鳩を飛ばすことになっていて、その合図として「小野」と言った後に間をおいて「喬」と言ってほしいと言われて、こっちからもお願いがあり、宣誓台の所にメモを置いてほしいと言ったが駄目と言われてしまいました。
宣誓台のまえを見たら小さな紙が置いてあって、これを見る訳にはいかなかったが、これで安心しました。
遠藤選手が個人総合優勝する。
種目別で吊り輪で早田、跳馬で山下、平行棒で遠藤 金メダル 鶴見(銀)、徒手で遠藤(銀)、あん馬で鶴見(銀)、鉄棒ではメダルは無となる。(私は6位となってしまった)
合計メダルを13個獲得は現在も歴代最多獲得数。
昭和6年秋田県能代の生まれ。
小学校3年生の時に体操競技を見て、次の日から皆でやり始めて、どんどんのびていったが戦争で出来なくなってしまった。
終戦が中学1年で、2年から体操を本格的に始めて、新制高校3年で高校総体で優勝して体操の道を歩んできました。
中学高校は365日やっていました。
器具類は工夫して作りで作ったりもしました。
東京教育大学に進む。
東京大田区に夫婦で池上スポーツ普及クラブを創設しました。
池上スポーツ普及クラブの教え子の、教え子が今オリンピック選手になっています。
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