2017年4月29日土曜日

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)・母を語る(H16/11/16 OA)

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)・母を語る(H16/11/16 OA)
渡辺さんは昭和2年北海道旭川市で生まれました。
昭和11年小学校3年生の時に2・26事件に遭遇、当時教育総監だった父親が自宅の居間で43発の銃弾を受けて命を落とすのを目撃します。
その後母に厳しく育てられ、18歳で洗礼を受けます。
聖心女子大学を経て、上智大学大学院を卒業後、30歳で岡山ノートルダム修道会に入り
アメリカボストンカレッジ大学院に派遣されます。
帰国後、36歳で岡山ノートルダム聖心女子大学の学長となり、長年教壇に立ち学生の指導や支えになってこられました。
2012年に発売された著書、「おかれた場所で咲きなさい」は200万部を超えるベストセラーになりました。
2016年12月89歳で亡くなられました。

家は浄土真宗でした。
父、渡辺錠太郎(教育総監)は2・26事件で亡くなりました。
父が中将で旭川の第一師団の師団長を命ぜられて旭川にいたときに生まれました。
姉は22歳年上で、そのあと兄が生まれ、3年して下の兄が生まれ、3年たって4人目として生まれました。
生まれた時は姉は結婚していて、同じ昭和2年に孫と娘と両方を設けたわけです。
母は恥ずかしがって産みたくなかったと後で聞きました。
男が児を産むのはおかしいが女が児を産んで何がおかしいと言って、父が母を説得して産んでもらって、私は父が好きでした。
父が53歳、母が44歳でした。
北海道では2歳まで暮らしました。

台湾の軍司令官になって台湾に行って、1年して東京に戻った時には陸軍大将になって、荻窪に家を建てて4歳から30歳まで過ごしています。
成蹊小学校はユニークな学校でした。
男女共学で同じ1人の先生のもとで30人仲良く一緒に6年間過ごしました。
9歳で2・26事件に遭遇しました。
その日のことは鮮明に覚えていますが、心に傷を受けたと言うことは思っていません。
雪がたくさん降っていました。。
朝6時前に門の前にトラックが止まって、怒号が聞こえて、父母と一緒に寝て居て、父は
すぐに私を起こして母のところに行きましたが、母は気丈な人で兵士たちを阻止していて、私のことなど構ってくれないので父の所に戻ってきましたが、弾が飛び交っていましたが、かいくぐって父の所に行きましたが、父は射撃の名手だったのでピストルを構えていたが、私を見てとっても困った顔を見せました。

座卓の後ろに隠れるように目で合図をしてくれました。。
ふすまを細めに開けて、軽機関銃を据えて父の足を狙って打ち始めました。
父が動けなるのを見澄まして、成年将校、兵卒5,6人入ってきて父にとどめを刺して去ってゆく一部始終を見守りました。
父の言葉で産んでもらった娘に最後を看取られて、死んでいったのかなあと、今なぜ自分がこの世に産んでもらったのか、そのためだったのかと思う時があります。
血の海の中で事切れて居ました。
「お父様」と呼んだんですけれど答えてはくれませんでした。
母が入ってきて、外に出て居なさいと言われて、私はそこにはおりませんでした。
検死の後に、父にちょっと触ったのですが、とっても冷たくてその冷たい感触が今でも思い出されます。

居合わせて父の最期をみとったと言うことに対して、母は何にもコメントはなかったです。
母は涙一滴も涙を流しませんでした、気丈過ぎるぐらいで、それで今の私があると思いますが。
子供達(9歳、12歳、15歳)3人がいましたが、これからはお父様と二人分厳しくしつけますと宣言して、お父様の名前を恥ずかしめることのないようにと、厳しく申し渡されました。
雙葉高等女学校、ミッションスクールに通うことになる。
しつけは母とは違った意味で厳しくて、大変反発を覚えて、キリスト教には背を向けて卒業しました。
中学校1~2年生の時に2回ほど補導されたことがあります。
2年生の夏に母親が校長様に暑中見舞いを書きなさいといわれて書いたのですが、自筆で「和子さん暑中見舞いありがとう、早く学校に戻っていらしゃい」と返信が来て、それが私の改心のきっかけになりまして、こんなに悪い子でも校長先生が大事にして下さると、少し改心しました。
3年生の時に第二次世界大戦がはじまり、宗教行事も少なくなりましたが。
3年生からは級長をして、卒業の時は答辞も読みました。
母は1番になりなさい、100点を取りなさいと常に言っていました。

90何点とってもこれで家に入ったら母に叱られる、家出をしようと思ったことがあります。
母は愛知県の田舎の家の12人兄弟の長女で高等小学校しか行っていませんでした。
父が相当母に対して教育をしたようで、自分でも相当勉強したようです。
母は口答えを一切許さなかったです。
キリスト教、クリスチャンになりましが母は大反対でした。
母に反抗する、学問のない母を或る程度軽蔑するような気持があったと思うんです。
洗礼を受けていいか聞いたときに、母は頭から反対されましたが、反対されるほど受けてやろと思いました。
戦争のさなかにも関わらずクリスチャンになるのは何事だと、受けてはいけないと言われましたが、四谷から雙葉まで歩いていき、一日がかりでしたが、一晩泊って翌朝洗礼を受けて家に帰って来ました。

母は非常に腹を立てて3日間口をきいてくれませんでした。
疎開をしなくてはいけなくなって和解しなければいけなくなって山梨県に疎開しました。
山梨県でカトリックの幼稚園に勤めるようになり、そのうち戦争が終わって東京に戻ってきました。
聖心女子高等専門学校の国文にはいって卒業ましたが、足りないと言うことで、経済的にも困っていて、これからは英語が必要だと言われて、先を見る目があり賢い人だったと思います。
英文科に入り直そうと、1948年新制大学の一期生として入り、1951年に卒業しました。
母の言ったことに感謝しています。
母は人はみんな自分が一番かわいいんだから人様を当てにしてはいけない、自分で自分の出来ることは自分でしないといけない、学問もできることは出来るとこまで身に付けて、お金で何も残してあげることはできないので、学問を身につける事、そして甘えると言うことを一切させてくれませんでした。

父から9年間は可愛がってもらいましたが、母に甘えたと言うことはありませんでした。
父は私を膝の上に載せて論語を判る言葉で教えてくれました。
母のお陰で修道院に行っても辛いと思ったことはありませんでした。
30歳近くまで母といたので、母を残して修道院にはいることはちょっと後ろ髪を引かれる思いはありました。
私はお父様のようなかたと結婚するという気持ちがあったんですが、生まれた時には陸軍中将でみんなから尊敬されて居る人しか知らないので、自分とあまり違わない人とのお付き合いもありましたが、何か物足りないものがあって、それが修道院に入った一つのきっかけになったと思います。
決して裏切ることのない、尊敬することがいつもできる、その方を男友達の中に見出すことが出来なかった。
神の配偶者となると言うことに理性的に思い立ったと思います。

何故修道院にはいらなければいけないのかと母から言われました。
結婚するだけが女の幸せではないからねと、或る時に言ってくれました。
修道院で6年すると一人前の修道者になります。
37歳で東京に戻って私が学長になったと言うことを非常に喜んで、父の後を継いだ(父は教育総監だったので)と言ってくれました。
私が父のような人と結婚するという気持ちを持っていたと言うことは母は知っていたと思います、それは無理だと言われました。
わたしが知っている父と母が知っている父とは違います。
理想化している部分があるとは思いますが。
わたしは父に非常にかわいがられて、9年間に一生涯分の愛情をうけた様に思うほど可愛がられたと言うことがあり、愛情不足と言う気持ちはなくて育ったことと、父の努力する姿、本をよく読んでいる姿を見て育っています。

母からは厳しくしつけられましたが、質素なことを教えてもらい、贅沢はしてはいけない、お金を使う時はいくら使ってもいいけど、無駄なお金を使ってはいけないと言うことを教えてもらいました。
修道院から家に戻ってきたときに、母から「あなたはこれで良かったわね」と言ってくれました。
それがわたしの母への親孝行かと思っています。
父の仕事の後を引き継いでさせていただくと言う気持ちは持っていました。

































































2017年4月28日金曜日

池田理代子(劇画家・声楽家)   ・強く美しく、振り返ることなく(2)

池田理代子(劇画家・声楽家)   ・強く美しく、振り返ることなく(2)
代表作「ベルサイユのばら」製作の舞台裏や、40代半ばでの声楽家への挑戦などを伺います。

「ベルサイユのばら」は24歳で作った漫画が、今もこうして生きていると言う感じ。
マリー・アントワネットの生涯を書きたくて始めましたが、創作上の人物を何人か作りましたが、オスカルと言う存在が、特に当時働いている女性に与えたインパクトは大きかったと思います。
オスカルは女性でありながら、男の子のように育てられて軍人になって、マリー・アントワネット付きの武官となって、活躍する。
革命がおきたときに市民の側に寝返る。
この人物がいなかったらみなさんの心を引き付けることはできなかったかも知れません。
マリー・アントワネットを書きたいと思ったのは高校2年生のときで、雑誌で漫画連載されるようになって、そろそろ長編を書いてみませんかと言われて、2年間ぐらい準備期間があってその時にオスカル、アンドレイ、ジュローデルと言ったような、史実にはない人物を考えました。

オスカルは7月14日にフランスに兵隊を率いて市民の側に寝返った隊長と言うことでそれがまず先にあり、文章を遡って作っていきました。
私も若かったので職業軍人がどういうふうに考えて居たのかは判らないので、女性として決めました。
女、子供には歴史物はタブーだと言われました。
当時読んでくれた小学生が、フランス革命のことが知りたくて、革命の本を買いましたとか言われて、漫画を読むと害毒だとか、本を読まなくなるなんて、そんな事はないでしょうと言いたかった。
自分で書いていておもしろかったので絶対当たると思いました。
まさか大人の人たちが読むとは思わなかった。

討論会に引っ張り出されても、男性が、女性が社会に出るのは是か非かを論じて居た時代なんです。
なんで男性の許可を得なければいけないの、と思っていました。
フランス革命当時は、「どんな天才でも女に生れればいないも同じ」という言葉を残しています、そういう時代でした。
私は家を建てたときに、全く知らない男性から電話がかかってきて、「女のくせに家なんかたてやがった」、と言われました。
二言目には女のくせにと言う言葉がありました。
オスカル、在るべき上司像のように思います。
オスカルにはアンドレイがいたことは、私もアンドレイが欲しいという手紙が来て圧倒的に多かったですね、理想のパートナーです。

経験してないことも書けるから作家だと思います。
毎週エピソードをきめてゆくのは苦しみます。(週刊誌への連載)
毎週締め切りの2,3日前は徹夜続きでした。
今書いているのは、ロザリーのその後のような形ですが、構想はあるのですが何時書きあがるか分かりません。(昔のやり方ではできません。)
漫画はそこで読んで捨ててしまって終わりというものだったので、世代を超えて読み続けられるものを作品として残したいと思ってました。
小さいころからの読書体験、映画を見た感動、色んなことが全て一つの作品になって熟成されてゆくものだと思う。
小学生の時に親が平家物語を読んでくれて、他に源平盛衰記、太平記など日本の歴史から入っています。
高校生になって、マリー・アントワネットの本に触れて西洋史に目覚めました。

フランスには行ったことはなくて日本で資料を調べたり、井上幸治先生(フランス近代史を研究)を紹介してもらって、いろいろ伺いました。
「ベルサイユのばら」が終わってから初めてフランスに行くことが出来て、その後の作品を書くときは出来るだけ現地に足を運び調査をして書くようにしました。
子供のころから勉強することは好きでした。
相撲が大好きで自分が一番やりたいのは横綱審議委員です。
子供の頃初代若乃花にファンレターを出しました。
オスカルの宣伝の懸賞幕が土俵に上がったので感無量でした。
(オスカルが女性で初めて土俵に上がったと言われました)

オペラのバリトンのパートナーとはオペラの稽古場で出会いました、25歳下です。
出会ったのは60歳になった時で、何があるか判らないよと他の女性にも言いたいです。
最後に神様が良い人を与えてくれたんだなあと思います。
現役で働いていれば出会いはあるかもしれないと思います。
閉じこもってものを書く仕事だったので、一つだけ気をつけてきたのは、歯です。
出来るだけ長く全部自分の歯でいようと思いました。
歌は一本歯が差し歯になっただけで、発声が変わります。
40代で声楽に挑戦しました。
音大に行って勉強をしたいと思っていて、中学時代に挑戦をしましたが才能がないと思ってあきらめたりしましたが、ずーっと音楽と一緒に生きてきたという感じはあります。
40歳過ぎてやり残した夢があれば片づけて置かないといけないと思いました。
5年間悩んで2年間勉強して入りました。

夢を実現するための条件がそろう時は人生に一度あるかないかだと思っていて、その時に踏み出せないとしたら、その人にとってそんなに大した夢ではないと思う。
45歳の時がみんな条件がそろった時だったと思います。
音大出て食べていけるかどうかわからなかった。
この夢を実現しないと、死ぬときに後悔するなあと思いました。
先陣を切って行くことは叩かれることも多いし、抵抗も多いし、大変だと思いますが、でも自分の人生ですし。
どうやって自分の人生を閉じて行くのかなあと言うふうに考えが行っています。
今晩寝たら明日はもうこの世に居ないかもしれないと毎晩思います、だからこそ充実させなければいけない、今日で人生が終わってもいいという気持ちで生きなければいけないと思っています。
私たちの世代になると、人生って意外と短かったなあとか、本当に一度きりなんだなあとか、感じて居ると思うので、出来ることはなるたけやった方がいいと思います。
日本ではクラシック音楽、声楽、オペラなどは食べて行くのは大変で、すそ野を広げ様として頑張って舞台を作っているので、そういったところにも足を運んで貰いたい。
若い人たちの舞台は集客が大変で、支援に私は老後の預金をそういったものに全部つぎ込んでしまったので、みなさんにもすこし目を向けていただきたいと思います。


















































2017年4月27日木曜日

池田理代子(劇画家・声楽家)    ・強く美しく、振り返ることなく(1)

池田理代子(劇画家・声楽家)  ・強く美しく、振り返ることなく(1)
漫画家デビューから50年の節目を迎えた池田さん、代表作「ベルサイユのばら」を宝塚歌劇団での上演やアニメーション放送などさまざまに展開され、ヨーロッパやアジアなど海外の国々を含め高い評価を受けて居ます。
その後もロシア革命前後のヨーロッパを舞台にした「オルフェウスの窓」、フランス皇帝ナポレオン「栄光のナポレオン-エロイカ」、ロシアの女帝エカチェリーナ2世など華麗な歴史ロマンを次々に発表してきました。
漫画家デビューした学生時代、漫画を取り巻く環境の変化などを第一回は伺います。

50周年、過去の作品は恥ずかしくてなるべく見たくない感じで、目を落として歩いていました。
人生って短いなあと言うのが実感です。
やりたいことがあっても年齢とか、身体の衰えとか、待ってくれないのでやれるうちにやっておかないといけないと言うのが実感です、このことを若い人に伝えたい。
やりたいことをやらなかったら悔いが残ると思います。
長い間自分の中でやりたいと思っていたことを、やれるチャンスが巡って来る時はあるんです。
音楽は子供のころからの夢でした。
37歳で旧西ドイツにホームステーして語学学校に留学したんですが、ずーっといつかやりたいと思っていたことで、いまではないかなあと言う時があります、それを逃さないと言うことが大事だと思います。
子供が出来なくて、不妊治療をしていましたが出来なくて、辛い日々を過ごしましたが、或る時諦めて子供のいない人生を選んだ時から人生はころっと変わるんです。

小さい時から将来ものを作る人、物を書く人、表現したいと言うことがあって、いろいろ思いましたが、たまたま19歳のときに漫画家になることになったと言うめぐりあわせです。
小説家になりたかったので書いて文学賞に応募したりしたが、選に漏れてしまいました。
物ごころつく頃から道路に絵を書いたりしていました。
母は専業主婦だったが、戦争中に青春時代を過ごしたので、キャリアーウーマンになりたかったと言っていました。
これからの女性は男の人に頼るようではだめで、自分で生きていきなさいと、もの心ついた頃から母に言われました。
結婚すると言うことは、一人が夫も妻も二人分稼げてこそ結婚の資格があると思うんです、何時相手が病気になるかもしれない、亡くなるかもしれないので、お互いが相手の分も稼げてこそ結婚の資格があると思います。

父は典型的な昭和の男だったので、女に学問はいらないと言われました。
大学に行くなら国立大学、学費は1年間だけ、浪人は許さないと言われました。
教育大学(筑波大学)に入ることが出来て、哲学だったんですが、哲学体系などを勉強するんではなくて、自分が何かを作りたかった、ちょっと違うと思いました。
純学問をやりたかった。
哲学の原書を読むためにギリシャ語、ドイツ語、中国語もやりました。
ドイツ語を喋りたいと思って、ドイツへの留学に繋がって行く訳です。
物を作る人になりたかったと言うことが諦められなくて、学生運動が激しかった時代で、親のすねをかじりながら社会、大人を批判するのはいけないと思ってしまって、置手紙をして自立しますと言って家をでました。
私たちの世代は国家権力に抵抗しても空しいんだなあと言う敗北感を抱えて社会に出たと思います、自分自身もそうだと思いました。

革命、原水爆に反対する、いじめとかの問題、社会問題に目が向いてゆくきっかけをそこで(学生運動の時代)勉強させてもらったと思います。
家出していろいろ仕事をしましたが、人と一緒に何かすることが苦手だなあと判って、家に閉じこもってする仕事、小説家、漫画を書くことしかできないと思って、漫画だと思いました。
或る出版社を紹介してもらって、200ページ以上の物を好きに書かせてもらえると言う訓練をさせてもらって、貴重な体験でした。
1冊書いて2万3000円でしたが、生活はギリギリで時々パチンコで稼ぎました。
宿代6000円、授業料は1000円で、学生食堂で3食食べて過ごしました。
自分で衣服を買うお金もなく、知り合いの母親がファッションモデルの人とかが住んでいる管理人で、色んな服をお下がりで貰って、当時としては最先端の洋服を着ることができました。

21歳のときに、雑誌デビューしました。
書きたいものを書けると言う嬉しさはありました。
当時は漫画なんかと言う位置づけだったので、ベルサイユのばらを書いて、新聞、取材を受けたり、TVに出たりして、叩かれました。
子供に害悪を与える諸悪の根源と言うふうに言われて、文学作品のように想像力を養わないと言うふうに言われました。
映画など含めて視覚的なものはだめなんですかと、反論しました。
手塚先生が大変でしょうと言われて、僕の漫画もPTAから取り上げられて、校庭のまん中にうずたかく積み上げられて火を付けられた、だから頑張んなさいと言われました。
「ベルサイユのばら」で子供向けの漫画を書いたつもりだったが大人の方、学校の先生、仕事を持った女性が支持して下さって、読みなさいとむしろおしゃって下さったのは大きかったと思います。

ヨーロッパで認められてからだと思います、日本人の価値観は外国で認められて初めて認めると言うようなところがあるんです。
アニメに対してようやく政府も動き始めました。
日本の漫画がヨーロッパに認められフランスなどは文化予算を付けて漫画文化を育てようと言う取り組みをしています。
うかうかしていると世界に追い抜かれてしまうと言うことはあります。
我々のまいた種が世界中に広がって、向こうに行くと若い人たちも私のところに寄ってきて、私のすべてはベルサイユのばらでできていますとか言ってくれて、人生に影響を与えることができたと思って嬉しいです。
音楽家のボブ・ディランがノーベル文学賞を貰ったように、漫画が近い将来ノーベル賞を貰うのではないかと思っています。







































2017年4月26日水曜日

ペギー葉山(歌手)         ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)

ペギー葉山(歌手)   ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。

高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。

ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。

「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。

2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。

65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。
























































2017年4月25日火曜日

荻原浩(作家)           ・五度目の正直 直木賞

荻原浩(作家)        ・五度目の正直 直木賞
60歳、「海の見える理髪店」で去年直木賞を受賞しました。
2006年に「あの日にドライブ」で直木賞候補に挙がり、その後 「4度目の氷河期」、「愛しの座敷わらし」、「砂の王国」と 4度の候補になり 5度目で受賞しました。
荻原さんは大学卒業後、二つの広告製作会社を経てフリーのコピーライターになり、40歳の時初めて書いた小説「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビューしました。
ユーモア小説、サラリーマン小説、ミステリー小説と幅広い分野の小説を書く作家として多くのファンがいます。

2016年の115回目の直木賞での受賞となる。
候補は或る日突然連絡があり、待っていて過去4回は残念でしたと言われて、3回目ぐらいから疎ましくなり、マイナスの事しか考えられなかった。
「海の見える理髪店」は6編の短編になっている。
だいぶ前から長編を書いて次に向かうサイクルでやっていて、さぼり過ぎかなと思っています。
ときどき短編を書きます。
その時書いている長編とは傾向の違う短編を書きます。
一つ書き終えると違うことをやりたいと思ってしまう。
あなたはこういう路線ねと言われたときに、いやそうではないかもしれないと思ってしまい、違ったものを書いてしまう。
器用貧乏かもしれません。

どの小説もお勧めです、小説家にとって自分の本は子どもみたいなもので、同じように時間をかけて書いたものなので優劣はつけられない。
小説家としてデビューして今年で20年になります。
2作目は「おろろ畑でつかまえて」(ユーモア小説)の続編で、どこかで違うものをしてみたいと思いました。
方向転換できたと思ったのが5作目で「噂」(ミステリー)というものです。

埼玉県さいたま市(旧大宮市)出身、1956年(昭和31年)生まれ。
3人兄弟のまん中です。
漫画が好きでノートに書いて友達に見せたりしていました。
昨年ある特集で漫画をやりますと言って書きまして、世の中に出したのは二つ目です。
読書は普通だったと思います。
中学生ごろからミステリー(アガサクリスティー)、シャーロックホームズシリーズ(コナンドイル)、SFなどを読んでいました。
一番読んだのは大学生になった頃です。(成城大学)
ポスターなどを書くサークルだと思って広告サークルに入って、文章を褒められて文章を書く仕事に行ってしまったと言う感じです。
41歳から小説家になりましたが、原稿料を聞いて安いのにびっくりしました。
広告時代と2ケタ違いました。

35歳で広告会社を辞めてフリーになりました。
組織に向いてない人間と言うわけではなくて、組織に向いてない人間になろうと思ってたからだと思います。(組織の下にいたくなかった)
フリーになるためにまず2番目の会社に転職しました。(居心地は良かった)
フリーとなって短い手間でたくさんもらえたので、フリーの生活を謳歌して居ました。
しかし何年もやっていると不安になる。
フリーのコピーライターは年齢だけで古いと思われたりして、自分でやらずにスタッフを抱えてやる様に周りもやっていて、自分ではそうではなく何か違ったものをやってみようと思うようにりました。(39歳)
1997年「オロロ畑でつかまえて」で第10回小説すばる新人賞を受賞しました。(41歳)
出版社のあちこちからうちの社でもと言うような話ありましたが、本はそう売れるものでもないので、食べてはいけないと思ってとりあえずコピーライターでお金を稼いで、使う時間は小説の方にほとんどつぎ込む様な生活をしていました。

妻が最初の会社のデザイナーだったので、一緒に行動してくれるような人だったので、割と反対されずに済みました。
「明日の記憶」若年性アルツハイマーをテーマにしたもの。
記憶ってなんだろうと思い始めて、いろいろ調べたり、取材したりして書きました。
私の場合は取材しすぎてしまってもダメで、感情移入してしまうことがあるので、冷静にならないといけないと思っています。
言葉は正解というものがないので何年やってもこれでいいのかと、毎回思いながらやっています。
校正の度にここはと言うものが何時も出てくる。
言葉はちょっと前後を変えるだけとか助詞を変えるだけで違ってくるので、選択肢がいろいろあって、言葉の表現に関しては頑張って行かないといけないと思っている。
文章だけは自分の思う思考の組み合わせ、思考の流れのものを作りたいと思っています。
村上春樹さんは好きです。
文章力に関して、あの人の書くものを見ると、こんなことをこんなふうにするのかと、内容的にはどうかと思うものもあるが、技術的には凄いものがあります。


















































2017年4月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・太宰治【絶望名言】

頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】
「ダメな男と言うものは幸福を受け取るに当たってさえ、へたくそを極めるものである。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿でけがをするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。」  (太宰治

20歳の時、難病潰瘍性大腸炎を患い13年間に及ぶ療養生活を送りました。(頭木)
悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を絶望名言として紹介しています。
代表作は「人間失格」
太宰治は38歳(1909年生まれ)で亡くなっているが、松本清張さんと同じ歳。
太宰治を嫌いな人で代表的なものは三島由紀夫。
太宰の持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦、器械体操、規則的な生活で直されるはずだと言っている。
太宰は三島より16歳年上だが、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言っている。
それに答えて太宰は「そんな事言ったってこうしてきてるからやっぱり好きなんだ」と言っている。
それを聞いて三島は又怒るわけで、二人は両極端な人ですね。

「生きて居ること、生きて居ること、あーっそれは何というやり切れない、息も絶え絶えの大事業であろうか。
僕は僕と言う草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。
生きて行くのにどこか一つ欠けて居るんです。
足りないんです。
今まで生きてきたのもこれでも精一杯だったのです。
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えて素知らぬふりをして生きて居るのではないのか。」(「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)
思春期はどうしても多かれ少なかれ生きづらさを感じていると思う。
辛い辛いと言ってくれることは救われる。

太宰を嫌いな人はナルシスト、甘ったれだとか、駄目な自分に酔っているとか、そんなふうな言い方をして貶す。
普通は自分を隠すが、だけど本当は誰だってナルシストだし、甘ったれだし、駄目な自分に酔っているそういう部分はあると思う。
それをそのまま書く嘘の無さに若いころは感激するんじゃないですかね。
大人になるとあからさまに描かれることに耐えられなくなってくる、隠すべきものをそんな見せつけないでほしい、と三島も言っている。
私自身、若いころ太宰を読んで、そのうち太宰なんかと思い読まなくなって、又今では読むようになってきている。
太宰に戻ったのは、病気をしたことが大きかった、改めて又魅かれるようになった。
辛い環境の中で過ごしていかなければいけないと言うことの中から、太宰に救いを見出すと言うことはありました。
自分に問題があるのではないか、廻りの環境に問題があるのではないかと思った時に読むと、救われると言う気になります。
私は病気になっている自分を写真とかに残したくはなくて、当時の期間の写真は一切ありません。
当時、摂られるのを拒否していました。

「私は人に接するときでも心がどんなにつらくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で楽しい雰囲気を作ることに努力する。
そして客と別れた後、私は疲労によろめき、お金のこと、道徳の事、自殺の事を考える。」
自殺、死にたい、という表現は作品の各所に出てくる。
現実に人と会う時には楽しくしていて、書く時には赤裸々に書いていて、その差も面白いです。
明るくしていれば周りも楽なので判らない。
人間は一筋縄ではいかない、表面的なもの、奥底にあるもの、二重三重に判らない、外から見るだけではとても判らない。

*「男のくせに泣いてくれた」曲 
「夢のように はかなく  私の記憶は  広告写真みたいに 悲しく通りすぎてゆく  淋しかった 私の話を聞いて  男のくせに 泣いてくれた  君と涙が 乾くまで    肩抱きあって眠(ね)た  やさしい時の流れはつかのまに  いつか 淋しい 季節の風を ほほに 知っていた   
君と涙が 乾くまで  肩抱きあって眠(ね)た  やさしい時の流れはつかのまに    いつか 淋しい 季節の風を  ほほに 知っていた」
一緒に泣いてくれる、歌詞も太宰的な感じがする。

「命運がふっと胸に浮かんでも、トカトントン。 
火事場に駆け付けようとしてトカトントン。 
お酒を飲んでも少し飲んでみようと思ってトカトントン。
自殺を考えトカトントン。」 
トカトントン、に特に意味はない。
トカトントンと云う音が聞こえてきてむなしくなる、やる気がうせる。
カフカも同じようなことを言っている。
「いま僕がしようと思っていることを少し後には、僕はもうしようとは思わなくなっている。」 (カフカ
人間って、人生に大きなものを求めているがなかなかそういい事はない。
小さな事の積み重ねで、そう思うとついむなしくなってしまう事があると思う。
人間どこかでなにか大きなことを待ち続けて居る気持が、人生のどこかにあるのではないか。
人生に何か大きなこと期待しているからこそ、トカトントンが聞こえてきてしまうという事があるかもしれない。
病気が治るとなんでもどんなこともできるように思うが、手術をして治ると思っていたようなことはできなくて、その時の悲しさはありました。(13年間闘病生活)

「私は自分に零落を感じ敗者を意識するとき、必ずヴェルレーヌの泣きべその顔を思いだし、救われるのが常である。
生きていこうと思うのである。
あの人の弱さが却って私に生きて行こうと言う希望を与える。
気弱い内性の究極からでなければ、真に崇厳な功名は発し得ないと私は頑固に信じて居る。」   (「服装について」 エッセーの中の一節)
絶望の言葉が却って生きていこうと言う気を起させる。
共感する、太宰の文学も共感を読者に呼び起こして、共感できると人は少し救われる。
太宰と落語に共通性を感じる。
太宰はあんまり本を所蔵していなかったが、三遊亭圓朝の全集だけは持っていた。
落語には絶望に根差した笑いがあって、それは太宰も同じではないかと思います。


太宰は本当に弱い人だと思います。
弱さには弱いからこそ価値があり魅力がある、心が弱いからこそ、そこから光が発する、と言うこと。
弱いからこそいろいろな事に気付くことがある。
本当に弱いからこそ、他の人には気付かないことに気付ける。
「もっとも深い地獄にあるものたちほど、純粋に歌えるものはありません。
僕たちが天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なんです。」(カフカ)
深い地獄にある者ほどうまく純粋に歌うことが出来る。
弱いからこそ、そういういろんなことに気付いてうまく歌うことが出来る、作品を書くことができると言っている。



























































2017年4月23日日曜日

平松政次(元プロ野球投手)     ・カミソリシュートで打倒巨人

平松政次(元プロ野球投手)・カミソリシュートで打倒巨人
岡山県出身69歳、岡山東商業高校時代選抜で優勝し、社会人の日本石油では都市対抗で優勝しました。
ドラフトで2度にわたってあこがれの巨人から上位指名の約束を受けたものの実際には指名されず、2位指名された大洋に都市対抗で優勝した直後に入団し、打倒巨人を目指すようになります。
以来大洋一筋18年間、独特のシュートボールを武器に数々のタイトルを獲得し、200勝投手にもなりました。
現在もプロ野球評論家として活躍する平松さんに伺います。

今年、星野仙一さん、伊東勤さん、平松さんが選ばれました。(野球殿堂入り)
現実になり感動しました。
最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、沢村賞1回、オールスター出場8回、201勝を挙げる。
甲子園で優勝、都市対抗でも優勝し、プロ野球でも活躍したので総合的に評価されたのだと思っています。
星野さんは監督としても活躍したのでもっと早く殿堂入りしてもよかったのではないかと思います。
岡山東商業高校では先輩の秋山さんに次いでの殿堂入りとなりました。

当時長島茂雄さんの大ファンでした。
長島さんは昭和33年に巨人に入団したので小学校5年だったと思います。
日本石油で優勝して、昭和42年8月に入団して、8月16日広島戦で第一戦、9月6日対巨人戦に初先発して、長島さんと対決する。
ネクストバッターサークルの長島さんを見て居ると地に足がつかないような状態でした。
私がマウンドに立って、サード長島さん、ファースト王さんという自分の思いとは全く違った状態の勝負となりました。
ドラフトで入れなかった悔しさと、巨人戦に勝たないと全国区になれないと言うこと、長島さんにあのピッチャーは凄かったなあと思われたいと、そういう思いがありました。
1年目は3勝、2年目は5勝でした。
社会人では直球を三振するがプロではものの見事にホームランするわけで、プロの凄さを感じました。

2年目の春先、カーブを長島さんに大ホームランを打たれる。
それがよかったように思う。
ファンのような気持で投げて居たと思って、そこから切り変わりました。
3年目、3試合連続の完封勝ち、4年目(昭和45年 23歳) 初完封、次に堀内投手との投手戦 同点で9回に満塁策を川上監督が取る。
堀内投手の代わりに国松選手を代打で送って来るが、ピンチを脱する。
練習だけしか投げたことにないスライダーを投げて、キャッチャーフライに仕留めた。
延長戦を制して2試合連続の完封となった。
オールスター戦で優秀投手賞を貰う。
巨人戦3試合連続の完封、32イニングス連続無失点の記録を作る。
杉下選手の35イニングスの記録があるが、記録は破れそうだと思っていた。
長島選手を迎えて、キャッチャーがスーと中腰になったので、なんだろうと思いながらスナップスローを頭の上に投げた(絶対打たれない様なボール)を大根切りの様にホームランを打たれてしまって、記録は達成できなかった。(まともには勝負したかったが)

その年 25勝19敗、防御率1.95(生涯最高記録) 最多賞、沢村賞、ベストナイン賞
翌年 17勝で 2年連続最多賞、 この年の巨人戦は4勝2敗 4勝全て完投勝ち。
「巨人キラー」と言われるようになる。
都市対抗の時代、或る人がシュートを教えてくれて、しかし都市対抗時代はシュートを投げた事は無かった。
プロに入って二年間は余り勝てずにいて、近藤さんからヘボピッチャーと言うようなことを言われて、めらめらと来て、シュートを思い出して投げたらそれがすごくて物凄く曲がった。
なんでこんなボールを今まで投げないんだと言われた。
それから2ケタ勝利へと向かって行った。
体も鍛えられて、ストレートも良くなった。

200勝記念パーティーで長島さんが平松のシュートボールは打てない、短く持ちたいが、巨人軍の 4番打者が短くは持てないと挨拶しました。
長島さんの攻略法として打つ瞬間に短くスーッと持つようにした様だった。
巨人の牧野さんの指示はシュートは打つなと言うことだったが、真っ直ぐに見えてしまってついシュートを打ってしまう。(シュートとストレートの見分けがつきにくい投法)
私はストレートが90%で、ストレートで三振を取るようにしていました。
毎日がストレートの練習をしていました。
時代は違いますが、チェンジアップを覚えたらもう少し勝てたかなあと思います。
ピッチャーでホームランは25本で歴代4位になっています。
与えた18年間のデッドボールは120個でいまだにセリーグ記録になっているが、王さん、長島さんには当てては居ない、日本球界の宝なので怪我をさせたくないと言う思いはありました。
金田さんの左腕に当てて凄く怒られました、左腕は宝ですからね。

そのうち肩を痛めましたが、今の様に中5日、6日おいて試合に出てていたら、肩をいためることはなかったかも知れませんが、記憶の中にとどめてもらったことは幸せだったと思い悔いはありません。
子供のころからの夢を持って、ずーっと目標を持ってやってこられたことは、人間としては大事だと思います。
若い人は夢を持って突き進んでゆくことが大事で、壁に突き当たっても壁を突き破って行ってほしいと思います。