カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(2)(H28/7/8OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/2.htmlをご覧ください。
2017年1月31日火曜日
2017年1月30日月曜日
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(1)(H28/7/7 OA)
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(1)(H28/7/7 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_7.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_7.htmlをご覧ください。
2017年1月29日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
2016年はシェークスピア没後400年。(1564年生まれ、1616年亡くなる)
ゲーテ、プーシキン、トルストイ、ハイネ、の遺伝子など文学から育まれたクラシック音楽を皆さんと御一緒する機会を作りたいと思いました。
19世紀前半ドイツ、オーストリア、ウイーンとベルリンで活躍した作曲家にオットー・ニコライと言う人がいますが、ウイーンフィルを作った人です。
「ウィンザーの陽気な女房たち」、シェークスピアの喜劇。
後にヴェルディーは「ファルスタッフ」というオペラを書いたが、シェークスピアの同名喜劇を原作とする「ウィンザーの陽気な女房たち」 オットー・ニコライ オペラにしたが、素晴らしい序曲があるんです。
カルロス・クライバーの十八番、1992年ウインフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートの録音。
*ニコライ作曲 歌劇 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲 ウインフィルハーモニー管弦楽団
シェークスピアはバッハよりも前の時代。(日本では安土桃山時代)
「ロミオとジュリエット」 フランスの作曲家 グノーのオペラ、ロミオとジュリエットからワルツ。
*「ロミオとジュリエット」から「ああ!私は夢に生きたい」 ソプラノ歌手 ディアナ・ダムラウ
*「ロミオとジュリエット」 モスクワ放送交響楽団 セルゲイ・プロコフィエフの作品
ウエスト・サイド物語 レナード・バーンスタイン
ロミオとジュリエットを20世紀前半のニューヨークの人種の対立として描いた。
1957年に発表のミュージカル、その後映画として世界に広がる。
*“Tonight”「トゥナイト」 映画「ウエスト・サイド物語」からホセ・カレーラスの歌
映画「ロミオとジュリエット」 ニーノ・ロータ
*映画「ロミオとジュリエット」からヘンリーマンシーニオーケストラの演奏。
*ヴェルディー 歌劇「ファルスタッフ」からフィナーレ ベルリンハーモニー管弦楽団
2016年はシェークスピア没後400年。(1564年生まれ、1616年亡くなる)
ゲーテ、プーシキン、トルストイ、ハイネ、の遺伝子など文学から育まれたクラシック音楽を皆さんと御一緒する機会を作りたいと思いました。
19世紀前半ドイツ、オーストリア、ウイーンとベルリンで活躍した作曲家にオットー・ニコライと言う人がいますが、ウイーンフィルを作った人です。
「ウィンザーの陽気な女房たち」、シェークスピアの喜劇。
後にヴェルディーは「ファルスタッフ」というオペラを書いたが、シェークスピアの同名喜劇を原作とする「ウィンザーの陽気な女房たち」 オットー・ニコライ オペラにしたが、素晴らしい序曲があるんです。
カルロス・クライバーの十八番、1992年ウインフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートの録音。
*ニコライ作曲 歌劇 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲 ウインフィルハーモニー管弦楽団
シェークスピアはバッハよりも前の時代。(日本では安土桃山時代)
「ロミオとジュリエット」 フランスの作曲家 グノーのオペラ、ロミオとジュリエットからワルツ。
*「ロミオとジュリエット」から「ああ!私は夢に生きたい」 ソプラノ歌手 ディアナ・ダムラウ
*「ロミオとジュリエット」 モスクワ放送交響楽団 セルゲイ・プロコフィエフの作品
ウエスト・サイド物語 レナード・バーンスタイン
ロミオとジュリエットを20世紀前半のニューヨークの人種の対立として描いた。
1957年に発表のミュージカル、その後映画として世界に広がる。
*“Tonight”「トゥナイト」 映画「ウエスト・サイド物語」からホセ・カレーラスの歌
映画「ロミオとジュリエット」 ニーノ・ロータ
*映画「ロミオとジュリエット」からヘンリーマンシーニオーケストラの演奏。
*ヴェルディー 歌劇「ファルスタッフ」からフィナーレ ベルリンハーモニー管弦楽団
2017年1月28日土曜日
寺内タケシ(ギタリスト) ・ギターは弾かなきゃ音が出ない
寺内タケシ(ギタリスト) ・ギターは弾かなきゃ音が出ないやりたいことをやろう!
寺内さんは昭和14年生まれ、5歳でギターを始め、1962年自身のバンドブルージーンズを結成されました。
運命、津軽じょんがら節などのヒット曲も多数お持ちです。
今年ブルージーンズは結成55周年を迎えます。
日本にとどまらず世界中のファンからエレキの神様といわれる寺内さん、今も2時間以上のステージをこなす現役です。
茨城大使や、茨城県政策アドバイザーを努めるなど、ふるさと茨城への熱い愛情を持ちです。
78歳になりました。
1939年土浦市生まれ、5歳でギターを始めて、電話のコイルを使ってエレキギターを発明、大学在学中からプロ活動を始めて1962年ブルージーンズを結成、今年結成55周年。
年間150ぐらいこなしています。
3月に県民ホールで3000人ぐらいの会場で行います。
2時間ぐらいのステージで疲れますが、疲れたのを気どられない様にしている。
一日に2升~2升5合とか大学1年の頃飲みましたが、これでは卒業もできないし、もっとエレキギターに情熱を注ぐのには駄目かと思い、すっぱりと18,9歳で辞めました。(?)
煙草も辞めました。
母が小唄の家元をしていました。
三味線の音色よりも6本のギターの方がかっこいいと思って、ギターを独学でやりました。
母のところには弟子が100~200人ときていました。
三味線を見ながら三味線を手本にギターに応用しました。
母からは座り方、お辞儀の仕方などを厳しく言われました。
戦争中に3台の電話を壊して自分のギターにつけてしまう、おやじが怒りましたが、やるなら最後までやれといわれました。
目の前が電信電話の公社があり、毎日コイルをくれと交渉にいきました。
メンテナンスでの麻袋にコイルが入っているのをくれました、1000個ぐらいです。
コイルを弦につけて行きました。
アンプがなくて、空襲警報のスピーカーが16本屋上にあり、夜に1本ずつつないで夜中に鳴らしたんですが、空襲警報と間違えてしまって、みんな防空壕に逃げて行きました。
高校ではマンドリンクラブをつくろうとしました。
みんなを集めて120~130人ぐらいになりました。
場所がなくて予科練の練兵所があり校庭から、父が建築会社をやっていたので、そこを買い取って、メンテナンスして余っている教室があり、練習をして、マンドリンのコンテストがあり日本で一位になりました。
勉強に関しては父から校長の家に預けられましたが、一番ビリでだめでした。
マンドリンの楽器も100人分ぐらい発注して、持てきてもらったんですが、楽器屋も父が建てた家なのでつけとければいいやと思ったので、多分代金は父が払ったと思います。
関東学院大学の電子工学部に入りました。
一生懸命やっているであろうということで、父が一軒家を建ててくれてばあやをつけてくれましたが、期末試験で最悪で1週間後に我が家に帰ってみたが更地で家がなかった。
立て札が立っていて勘当と書いてありました。
潮時だと思って、プロで食っていくと決めました。
昭和40年ベンチャーズが2度目の来日。
メンバーの子供が亡くなり帰ることになり、代演しますよと言って、メンバーの一人として何回か一緒にやりました。
エレキがブームになりTV、ラジオがエレキ一色でした。
楽器屋は作っても作っても品切れでした。
しかしエレキをやっているのは不良だというような風潮が出てきました。
学生がエレキギターのバンドができないということがあり、ハイスクールコンサートを始めました。
土浦の第三高等学校(母校)から始めました。
昔も今も高校生は10年、20年変わらない。
学校で教えるだけが能じゃない。
バンドができなければ一人で弾いていて、そのうちに増えてくる、僕の場合にはそれが100人以上になりました。
日本全国が終わり、いろんな国に行きましたが、日本人が当時行ったことはないソ連、ソチ、モスクワ、レニングラードに行きました。(会場は大きくて20万人ぐらい)
津軽じょんがら節、ロシアの民謡などをやりましたが、音楽に国境がないということが判りました。
言葉はできないのがいいと思った、身振り手振りでなんでも通じてしまう。
ブルージーンズが55周年になります。
日立の社長と話をして世界一のケーブルができました。
2001年ごろに大腸がんをしました。
心臓の手術もしました。
弾いていた曲を思い浮かべていると、心技体みたいなものが一体になった時、痛みは消えますね。
茨城県は魅力度は最下位ですが、そんなことに関係なく、一番いいところだからこの県は騒がない、こんないいところはない。
「ギターは弾かなきゃ音が出ないやりたいことをやろう!」 ハイスクールコンサートで毎回高校生に言っている。
今オファーが来て調整しているのが3年後です、ですから病気もできない、だから幸せです。
夢中になってこれで行こうと言った時の気分の良さを是非皆さん味わってください、いい人生を歩んでください。
参照
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳) ・生涯現役サウンドの秘密(1)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/73.html
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳) ・生涯現役サウンドの秘密(2)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/732.html
寺内さんは昭和14年生まれ、5歳でギターを始め、1962年自身のバンドブルージーンズを結成されました。
運命、津軽じょんがら節などのヒット曲も多数お持ちです。
今年ブルージーンズは結成55周年を迎えます。
日本にとどまらず世界中のファンからエレキの神様といわれる寺内さん、今も2時間以上のステージをこなす現役です。
茨城大使や、茨城県政策アドバイザーを努めるなど、ふるさと茨城への熱い愛情を持ちです。
78歳になりました。
1939年土浦市生まれ、5歳でギターを始めて、電話のコイルを使ってエレキギターを発明、大学在学中からプロ活動を始めて1962年ブルージーンズを結成、今年結成55周年。
年間150ぐらいこなしています。
3月に県民ホールで3000人ぐらいの会場で行います。
2時間ぐらいのステージで疲れますが、疲れたのを気どられない様にしている。
一日に2升~2升5合とか大学1年の頃飲みましたが、これでは卒業もできないし、もっとエレキギターに情熱を注ぐのには駄目かと思い、すっぱりと18,9歳で辞めました。(?)
煙草も辞めました。
母が小唄の家元をしていました。
三味線の音色よりも6本のギターの方がかっこいいと思って、ギターを独学でやりました。
母のところには弟子が100~200人ときていました。
三味線を見ながら三味線を手本にギターに応用しました。
母からは座り方、お辞儀の仕方などを厳しく言われました。
戦争中に3台の電話を壊して自分のギターにつけてしまう、おやじが怒りましたが、やるなら最後までやれといわれました。
目の前が電信電話の公社があり、毎日コイルをくれと交渉にいきました。
メンテナンスでの麻袋にコイルが入っているのをくれました、1000個ぐらいです。
コイルを弦につけて行きました。
アンプがなくて、空襲警報のスピーカーが16本屋上にあり、夜に1本ずつつないで夜中に鳴らしたんですが、空襲警報と間違えてしまって、みんな防空壕に逃げて行きました。
高校ではマンドリンクラブをつくろうとしました。
みんなを集めて120~130人ぐらいになりました。
場所がなくて予科練の練兵所があり校庭から、父が建築会社をやっていたので、そこを買い取って、メンテナンスして余っている教室があり、練習をして、マンドリンのコンテストがあり日本で一位になりました。
勉強に関しては父から校長の家に預けられましたが、一番ビリでだめでした。
マンドリンの楽器も100人分ぐらい発注して、持てきてもらったんですが、楽器屋も父が建てた家なのでつけとければいいやと思ったので、多分代金は父が払ったと思います。
関東学院大学の電子工学部に入りました。
一生懸命やっているであろうということで、父が一軒家を建ててくれてばあやをつけてくれましたが、期末試験で最悪で1週間後に我が家に帰ってみたが更地で家がなかった。
立て札が立っていて勘当と書いてありました。
潮時だと思って、プロで食っていくと決めました。
昭和40年ベンチャーズが2度目の来日。
メンバーの子供が亡くなり帰ることになり、代演しますよと言って、メンバーの一人として何回か一緒にやりました。
エレキがブームになりTV、ラジオがエレキ一色でした。
楽器屋は作っても作っても品切れでした。
しかしエレキをやっているのは不良だというような風潮が出てきました。
学生がエレキギターのバンドができないということがあり、ハイスクールコンサートを始めました。
土浦の第三高等学校(母校)から始めました。
昔も今も高校生は10年、20年変わらない。
学校で教えるだけが能じゃない。
バンドができなければ一人で弾いていて、そのうちに増えてくる、僕の場合にはそれが100人以上になりました。
日本全国が終わり、いろんな国に行きましたが、日本人が当時行ったことはないソ連、ソチ、モスクワ、レニングラードに行きました。(会場は大きくて20万人ぐらい)
津軽じょんがら節、ロシアの民謡などをやりましたが、音楽に国境がないということが判りました。
言葉はできないのがいいと思った、身振り手振りでなんでも通じてしまう。
ブルージーンズが55周年になります。
日立の社長と話をして世界一のケーブルができました。
2001年ごろに大腸がんをしました。
心臓の手術もしました。
弾いていた曲を思い浮かべていると、心技体みたいなものが一体になった時、痛みは消えますね。
茨城県は魅力度は最下位ですが、そんなことに関係なく、一番いいところだからこの県は騒がない、こんないいところはない。
「ギターは弾かなきゃ音が出ないやりたいことをやろう!」 ハイスクールコンサートで毎回高校生に言っている。
今オファーが来て調整しているのが3年後です、ですから病気もできない、だから幸せです。
夢中になってこれで行こうと言った時の気分の良さを是非皆さん味わってください、いい人生を歩んでください。
参照
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳) ・生涯現役サウンドの秘密(1)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/73.html
*寺内 タケシ(ギターリスト 73歳) ・生涯現役サウンドの秘密(2)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/06/732.html
2017年1月27日金曜日
江草啓介(ジャズピアニスト) ・コンビニ・ミュージシャン
江草啓介(ジャズピアニスト) ・コンビニ・ミュージシャン
本業はジャズピアニストですが、この50年スタジオミュージシャンを長く務めてきました。
伴奏を頼んだ歌手は、江草さんの演奏は人柄の良さが美しい音色にあらわれているので歌いやすいといいます。
コンビニエンス、ストアーは何でも揃っている、しかし車、家具、洋服等はないように、私のピアノも大きなホールでコンチェルトをやるとか、ジャズのマニアックなものをやるとかはなくて、ジャズ、シャンソン、タンゴ、ラテン、歌謡曲、歌の伴奏を一応無難にこなせるということで自らコンビニミュージシャンと呼んでいます。
ジャズをめざしていましたが。
中学2年生までは野球少年でした。(川上、千葉、青田などが好きでした)
健康診断で胸に影があるので過激な運動をしないようにと言われてしまいました。
ある時、兄から古いアコーディオンをもらって見よう見まねで弾いていました。(譜面が読めるようになる)
高校受験の時も音楽はトップだったそうで、音楽部に入るように言われました。
高校時代ピアノに触れることができていい楽器だなあと思い習い始めました。
登校する前に音楽室で弾いたり、放課後最後まで弾かせて貰ったりしました。
歌謡曲など、譜面さえあればなんでも弾けました。
ジャズも見よう見まねで弾きました。
中村八大さんが大好きで、ジャズピアニストになりたいと思いました。(昭和27,8年ぐらいから)
ジャズは学校でしかできませんでしたが、歌謡曲を含めて悪い音楽だと言われたりしました。
大学受験をしたが、浪人して、知り合いが松山のクラブでピアニストを探しているということで、毎日ピアノが弾けるということで喜んで行きました。
昼間はレコードを聴いて、ジャズのコピーをしたりして夜は演奏していました。
2年半やっていて、高松の民放の系列会社でトリオを結成してはとの話があり、結成することになりました。
藤家虹二 クラリネットの演奏者(日本の三大奏者)がピアノ奏者を探しているので行かないかといわれて、紹介されて東京に行くことになりました。(藤家虹二クインテット)
労音の全国ツアーとかがあり、そのコンサート、クラブ出演、NHK等にも出ました。
バンドを解散して渡辺貞夫さんがリーダーでバンドを組まして貰いました。(渡辺さんがバークリーに行く前)
渡辺さんからは「音楽というのはうまいのがいいんじゃないよ、いいのがいいんだよ」と言われて、歳をとってくるとその意味がだんだんわかるようになりました。
僕とやる時は最低2時間は練習してから来るようにと言われました。
バークリーから渡辺さんが戻って来てから家に教わりに行きました。
山本直純先生から呼んでいただいたときに、毎週レギュラーでやってほしいといわれて、それからフリーのミュージシャンの道を選びました。(28,9歳の時)
スタジオミュージシャンとして仕事をしましたが、非常に忙しかったです。
美空ひばりさんの「悲しい酒」とか、数万曲はやっていると思います。
西田 敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」あれは私が弾いています。
森山良子さんのリサイタルがあり、ピアノは前田 憲男さんで、サブのシンセサイザーをやらないかといわれてやりました。
そばで聞いてこれは物凄く勉強になりました。
前奏でも毎日違うが、歌いやすいように最後はコードを決めて、その間は自由なんです、素敵でした。
そのコンサートを地方でやるようになって前田先生は忙しいので先生からピアノをやらないかと言われました、それから30年になります。
その間、アレンジがいろいろありましたが、なんとかこなしていきました。
間違ったりしたことも数々ありましたが、その都度謝りました。
スタジオミュージシャンですからなんでも弾けないといけない。
継続は力なりと思います。
さとう宗幸さん、雪村いづみさん、島田祐子さん、菅原洋一さん、尾崎紀世彦さんなどともやってきました。
どういう気持ちで歌いたいのか、歌手の気持ちになって考えます。
時にはクラシックもあり、難しい曲は一生懸命勉強して演奏しました。
一番勉強になるのは下手なピアニストを聞くのは勉強になります、こんなふうに弾きたくないというピアニストはいっぱいいます。
美空ひばりさんは大体1回でOKで、その場で演奏を聴いて歌を歌いますので、一番緊張しました。
一般的には録音してカラオケなのが普通ですが、ひばりさんは同録でやります。
ほかの歌手はいませんでした。
ジャズはいまだにやっています、オファーがあればどこへも行きます。
N響のポップスコンサートにリズムセクションで入ることもあります。
佐藤 しのぶさんのオーケストラの指揮を前田先生から頼まれて、横浜のみなと未来ホールでオーケストラの指揮をしたこともあります。
作曲もしました、カラオケに10曲は入っています。
おしゃれな歌謡曲を作りたいと思っています。
主役になるとなにかと大変なので、いつもナンバー2でやりたいと思っていて、ナンバー2が好きですね。
皆さんが覚えてくれるような曲を1曲作りたいと思います。
本業はジャズピアニストですが、この50年スタジオミュージシャンを長く務めてきました。
伴奏を頼んだ歌手は、江草さんの演奏は人柄の良さが美しい音色にあらわれているので歌いやすいといいます。
コンビニエンス、ストアーは何でも揃っている、しかし車、家具、洋服等はないように、私のピアノも大きなホールでコンチェルトをやるとか、ジャズのマニアックなものをやるとかはなくて、ジャズ、シャンソン、タンゴ、ラテン、歌謡曲、歌の伴奏を一応無難にこなせるということで自らコンビニミュージシャンと呼んでいます。
ジャズをめざしていましたが。
中学2年生までは野球少年でした。(川上、千葉、青田などが好きでした)
健康診断で胸に影があるので過激な運動をしないようにと言われてしまいました。
ある時、兄から古いアコーディオンをもらって見よう見まねで弾いていました。(譜面が読めるようになる)
高校受験の時も音楽はトップだったそうで、音楽部に入るように言われました。
高校時代ピアノに触れることができていい楽器だなあと思い習い始めました。
登校する前に音楽室で弾いたり、放課後最後まで弾かせて貰ったりしました。
歌謡曲など、譜面さえあればなんでも弾けました。
ジャズも見よう見まねで弾きました。
中村八大さんが大好きで、ジャズピアニストになりたいと思いました。(昭和27,8年ぐらいから)
ジャズは学校でしかできませんでしたが、歌謡曲を含めて悪い音楽だと言われたりしました。
大学受験をしたが、浪人して、知り合いが松山のクラブでピアニストを探しているということで、毎日ピアノが弾けるということで喜んで行きました。
昼間はレコードを聴いて、ジャズのコピーをしたりして夜は演奏していました。
2年半やっていて、高松の民放の系列会社でトリオを結成してはとの話があり、結成することになりました。
藤家虹二 クラリネットの演奏者(日本の三大奏者)がピアノ奏者を探しているので行かないかといわれて、紹介されて東京に行くことになりました。(藤家虹二クインテット)
労音の全国ツアーとかがあり、そのコンサート、クラブ出演、NHK等にも出ました。
バンドを解散して渡辺貞夫さんがリーダーでバンドを組まして貰いました。(渡辺さんがバークリーに行く前)
渡辺さんからは「音楽というのはうまいのがいいんじゃないよ、いいのがいいんだよ」と言われて、歳をとってくるとその意味がだんだんわかるようになりました。
僕とやる時は最低2時間は練習してから来るようにと言われました。
バークリーから渡辺さんが戻って来てから家に教わりに行きました。
山本直純先生から呼んでいただいたときに、毎週レギュラーでやってほしいといわれて、それからフリーのミュージシャンの道を選びました。(28,9歳の時)
スタジオミュージシャンとして仕事をしましたが、非常に忙しかったです。
美空ひばりさんの「悲しい酒」とか、数万曲はやっていると思います。
西田 敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」あれは私が弾いています。
森山良子さんのリサイタルがあり、ピアノは前田 憲男さんで、サブのシンセサイザーをやらないかといわれてやりました。
そばで聞いてこれは物凄く勉強になりました。
前奏でも毎日違うが、歌いやすいように最後はコードを決めて、その間は自由なんです、素敵でした。
そのコンサートを地方でやるようになって前田先生は忙しいので先生からピアノをやらないかと言われました、それから30年になります。
その間、アレンジがいろいろありましたが、なんとかこなしていきました。
間違ったりしたことも数々ありましたが、その都度謝りました。
スタジオミュージシャンですからなんでも弾けないといけない。
継続は力なりと思います。
さとう宗幸さん、雪村いづみさん、島田祐子さん、菅原洋一さん、尾崎紀世彦さんなどともやってきました。
どういう気持ちで歌いたいのか、歌手の気持ちになって考えます。
時にはクラシックもあり、難しい曲は一生懸命勉強して演奏しました。
一番勉強になるのは下手なピアニストを聞くのは勉強になります、こんなふうに弾きたくないというピアニストはいっぱいいます。
美空ひばりさんは大体1回でOKで、その場で演奏を聴いて歌を歌いますので、一番緊張しました。
一般的には録音してカラオケなのが普通ですが、ひばりさんは同録でやります。
ほかの歌手はいませんでした。
ジャズはいまだにやっています、オファーがあればどこへも行きます。
N響のポップスコンサートにリズムセクションで入ることもあります。
佐藤 しのぶさんのオーケストラの指揮を前田先生から頼まれて、横浜のみなと未来ホールでオーケストラの指揮をしたこともあります。
作曲もしました、カラオケに10曲は入っています。
おしゃれな歌謡曲を作りたいと思っています。
主役になるとなにかと大変なので、いつもナンバー2でやりたいと思っていて、ナンバー2が好きですね。
皆さんが覚えてくれるような曲を1曲作りたいと思います。
2017年1月26日木曜日
大越 治(国立天文台広報普及員) ・日食ハンター世界をゆく
大越 治(国立天文台広報普及員) ・日食ハンター世界をゆく
64歳、日食は太陽と地球の間に入った月によって太陽が隠されて太陽が欠けて見えたり、まったく見え無くなる天文現象です。
太陽全体が隠れる「皆既」、月が太陽全体を隠しきれず、月の外側に太陽がはみ出して太陽が細いリング状に見える「金環」、太陽が一部隠される「部分」の三種類が有名です。
他に月の移動とともに日食が見える場所も移りますが、日食が見える地域のうち初めの方と終わりの方の地域では金環、それ以外の場所では皆既として見える「ハイブリッド日食」という日食もあります。
大越さんはこの日食にひかれて中学校の教師をしながら、世界各地に行き部分日食を除く日食を45回も観測をしています。
これまでに観測を訪れた国は、オーストラリア、パナマ、マダガスカル、アイスランド、キリバス等があり世界を股にかけて観測しています。
教員を退職した後は国立天文台で、天文についての相談や問い合わせに電話で答える天文台広報普及員をされている大越さんの日食に魅せられた人生について伺いますた。
行った国は同じ国で観測したことは数えるほどしかないので40カ国近くの国だと思います。
一人では行きません、荷物がたくさんあるので、一人では動きにくくて最低でも2人です。
妻も大学の天文の同じサークルだったので最初から日食に付き合ってくれています。
日食はその回その回で特徴があるので、これが一番というのは難しいです。
パプアニューギニアに新婚旅行で行きました。(そこでも日食を見ました)
1973年、大学の1年生の時に天文部の部室に行ったときに先輩たちがアフリカに皆既日食があるので、そこに出かけるという話をしていました。
先輩が戻ってきて日食の報告会があり、写真、8mmフィルムで上映したりして、見ているとおもしろいのかなあと感じました。
1年先輩が来年オーストラリアで日食があるので一緒にいかなかということで、1974年に西オーストラリアに出かけました。
日食が見られて、コロナプロミネンスが写真とか8mmで見たものと全く違っていて、もっといきいきして透明感があり美しかった。
その時から夢中になりました。
写真で見た日食と実際に自分で見たものがこれほど違うものかと思いました。
秋田で4歳の時に、父が家の外に連れ出してくれて、火星の大接近で、あそこに見えるのが火星だよと言ってくれてそれが天文に関する一番古い記憶です。(1956年 昭和31年)
多分次に大接近を見えるのは2050年です。
転勤で新潟に移って、アメリカでエコー1号という人工衛星を打ち上げて、直径が30mもある風船衛星で、父に教えてもらって見て、ますます星に興味を持つようになりました。
小学校5年生の時に東京に転勤になり、東京は全然星が見えなくて、中学1年の時に望遠鏡を買って、太陽黒点の観測がいいと本に書いてあって、太陽黒点を鉛筆でスケッチをとることを始めました。
それから17,8年は続けました。
それが日食につながっていると思います。
天文学者になりたいという夢はありましたが、高校では物理、数学が苦手で、天文学者は物理、数学に精通していなければいけないと書いてあって自分はだめかと思ってあきらめてしまいました。
大学は東京理科大の応用物理に進んで、物理の勉強をして、就職はどうするかという時に、いろいろ考えて学校の先生を選びました。
中学校の理科の教員になって、全般についての知識がないといけないので、生物、化学もやらなければいけなくて、勉強もしました。
忙しくて時間をつくるということは難しかった。
周りの先生からの協力を得ないと天文のことはできませんでした。
校長先生、教頭先生には本当にお世話になりました。
子供たちには理科の時間を利用したりして、必ず報告するようにしていました。
大人でも自分が好きなことをひとつ持っていると人生面白いよ、ということを伝えたいと思って話をしてきました。(自分の生き様)
アマチュアとして星が好きだということで今でも活動を続けている子はいます。
1977年日食情報センターを立ち上げる。
ボランティアで日食に関する情報を必要としているアマチュアに発信するのが役目です。
1977年ハワイの海でみられる日食があって、飛行機をチャーターしなくてはいけなくて、人を集めようとしたが集めることができなくて、情報発信の必要性を感じて、作ったのが日食情報センターです。
秦 茂先生、山口 正博先生を中心に8名でスタートしました。
年間100~200人が受け取ってくれて、どんどん増えていきました。
天気はどうしようもないことなので、過去の統計を調べたりしてなるべく晴れるところを選ぶというようなことをしたり、どのような準備ができるのかということを進めてきました。
日食が起きる場所は必ずしも交通がいいところではないので、安全に確実につけるのかなど、事前準備をすることが大変ですが楽しみでもあります。
ガボン アフリカの国 ハイブリッド日食がみられるが、どこで見られるのか確実ではなかった。
ハイブリッド日食のみられる範囲は非常に狭くて、ガボンの時には500mの幅の中に入らないと見られないと予想されていた。
ガボンの場合にはGPSのある時代ではなくて、地元の地図も正確ではなく皆既日食になる時間が1.7秒ぐらいの予想で、出かけました。
1984年アメリカのバージニアで金環日食に出かけたのが金環日食の最初でした。
金環になっている時間が8秒ぐらいでした。
行ったら天気が悪くなってしまって、30秒間だけ雲がかかって、雲がどいた時にはリングが見ることができず悔しくてガボンの日食につながるわけです。
ガボンの場合も天気が良くなくて、その前後10数秒間雲がどいてくれて見ることができて、印象深かったです。
観測報告書をできるだけ作るようにしています。
次に行く人の参考になるようにするため、細大漏らさず記録するようにしています。
当初と道具の様相が一変してしまって、今までできなかったことができるようになり、皆既日食のときに見られるコロナ、目で見るととっても綺麗だが写真に撮ると細かいところが皆潰れてしまって駄目だが、いまはコンピューターを使っていろいろな露出条件の写真を合成することができて目に近いコロナを画像処理が作れるようになりました。
日食情報センターでの活動目標は日食に興味を持つ人を増やすということだったが、日食値段という言葉があるぐらい高騰するのは困ったと少し思っています。
2月26日に南米で日食が見られます。
8月にもあります。
なるべく両方に行きたいと思っています。
2035年、日本で皆既日食が見られますので、見たいと思っています。(80歳は超えてしまうが)
64歳、日食は太陽と地球の間に入った月によって太陽が隠されて太陽が欠けて見えたり、まったく見え無くなる天文現象です。
太陽全体が隠れる「皆既」、月が太陽全体を隠しきれず、月の外側に太陽がはみ出して太陽が細いリング状に見える「金環」、太陽が一部隠される「部分」の三種類が有名です。
他に月の移動とともに日食が見える場所も移りますが、日食が見える地域のうち初めの方と終わりの方の地域では金環、それ以外の場所では皆既として見える「ハイブリッド日食」という日食もあります。
大越さんはこの日食にひかれて中学校の教師をしながら、世界各地に行き部分日食を除く日食を45回も観測をしています。
これまでに観測を訪れた国は、オーストラリア、パナマ、マダガスカル、アイスランド、キリバス等があり世界を股にかけて観測しています。
教員を退職した後は国立天文台で、天文についての相談や問い合わせに電話で答える天文台広報普及員をされている大越さんの日食に魅せられた人生について伺いますた。
行った国は同じ国で観測したことは数えるほどしかないので40カ国近くの国だと思います。
一人では行きません、荷物がたくさんあるので、一人では動きにくくて最低でも2人です。
妻も大学の天文の同じサークルだったので最初から日食に付き合ってくれています。
日食はその回その回で特徴があるので、これが一番というのは難しいです。
パプアニューギニアに新婚旅行で行きました。(そこでも日食を見ました)
1973年、大学の1年生の時に天文部の部室に行ったときに先輩たちがアフリカに皆既日食があるので、そこに出かけるという話をしていました。
先輩が戻ってきて日食の報告会があり、写真、8mmフィルムで上映したりして、見ているとおもしろいのかなあと感じました。
1年先輩が来年オーストラリアで日食があるので一緒にいかなかということで、1974年に西オーストラリアに出かけました。
日食が見られて、コロナプロミネンスが写真とか8mmで見たものと全く違っていて、もっといきいきして透明感があり美しかった。
その時から夢中になりました。
写真で見た日食と実際に自分で見たものがこれほど違うものかと思いました。
秋田で4歳の時に、父が家の外に連れ出してくれて、火星の大接近で、あそこに見えるのが火星だよと言ってくれてそれが天文に関する一番古い記憶です。(1956年 昭和31年)
多分次に大接近を見えるのは2050年です。
転勤で新潟に移って、アメリカでエコー1号という人工衛星を打ち上げて、直径が30mもある風船衛星で、父に教えてもらって見て、ますます星に興味を持つようになりました。
小学校5年生の時に東京に転勤になり、東京は全然星が見えなくて、中学1年の時に望遠鏡を買って、太陽黒点の観測がいいと本に書いてあって、太陽黒点を鉛筆でスケッチをとることを始めました。
それから17,8年は続けました。
それが日食につながっていると思います。
天文学者になりたいという夢はありましたが、高校では物理、数学が苦手で、天文学者は物理、数学に精通していなければいけないと書いてあって自分はだめかと思ってあきらめてしまいました。
大学は東京理科大の応用物理に進んで、物理の勉強をして、就職はどうするかという時に、いろいろ考えて学校の先生を選びました。
中学校の理科の教員になって、全般についての知識がないといけないので、生物、化学もやらなければいけなくて、勉強もしました。
忙しくて時間をつくるということは難しかった。
周りの先生からの協力を得ないと天文のことはできませんでした。
校長先生、教頭先生には本当にお世話になりました。
子供たちには理科の時間を利用したりして、必ず報告するようにしていました。
大人でも自分が好きなことをひとつ持っていると人生面白いよ、ということを伝えたいと思って話をしてきました。(自分の生き様)
アマチュアとして星が好きだということで今でも活動を続けている子はいます。
1977年日食情報センターを立ち上げる。
ボランティアで日食に関する情報を必要としているアマチュアに発信するのが役目です。
1977年ハワイの海でみられる日食があって、飛行機をチャーターしなくてはいけなくて、人を集めようとしたが集めることができなくて、情報発信の必要性を感じて、作ったのが日食情報センターです。
秦 茂先生、山口 正博先生を中心に8名でスタートしました。
年間100~200人が受け取ってくれて、どんどん増えていきました。
天気はどうしようもないことなので、過去の統計を調べたりしてなるべく晴れるところを選ぶというようなことをしたり、どのような準備ができるのかということを進めてきました。
日食が起きる場所は必ずしも交通がいいところではないので、安全に確実につけるのかなど、事前準備をすることが大変ですが楽しみでもあります。
ガボン アフリカの国 ハイブリッド日食がみられるが、どこで見られるのか確実ではなかった。
ハイブリッド日食のみられる範囲は非常に狭くて、ガボンの時には500mの幅の中に入らないと見られないと予想されていた。
ガボンの場合にはGPSのある時代ではなくて、地元の地図も正確ではなく皆既日食になる時間が1.7秒ぐらいの予想で、出かけました。
1984年アメリカのバージニアで金環日食に出かけたのが金環日食の最初でした。
金環になっている時間が8秒ぐらいでした。
行ったら天気が悪くなってしまって、30秒間だけ雲がかかって、雲がどいた時にはリングが見ることができず悔しくてガボンの日食につながるわけです。
ガボンの場合も天気が良くなくて、その前後10数秒間雲がどいてくれて見ることができて、印象深かったです。
観測報告書をできるだけ作るようにしています。
次に行く人の参考になるようにするため、細大漏らさず記録するようにしています。
当初と道具の様相が一変してしまって、今までできなかったことができるようになり、皆既日食のときに見られるコロナ、目で見るととっても綺麗だが写真に撮ると細かいところが皆潰れてしまって駄目だが、いまはコンピューターを使っていろいろな露出条件の写真を合成することができて目に近いコロナを画像処理が作れるようになりました。
日食情報センターでの活動目標は日食に興味を持つ人を増やすということだったが、日食値段という言葉があるぐらい高騰するのは困ったと少し思っています。
2月26日に南米で日食が見られます。
8月にもあります。
なるべく両方に行きたいと思っています。
2035年、日本で皆既日食が見られますので、見たいと思っています。(80歳は超えてしまうが)
2017年1月25日水曜日
小酒部さやか(マタハラNet 前代表) ・働きながら育てられる社会を目指して(H28/12/6 OA)
小酒部さやか(マタハラNet 前代表) ・働きながら育てられる社会を目指して(H28/12/6 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/et.htmlをご覧ください。
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