桃月庵白酒(落語家) ・新たな挑戦、落語に深みを!
ちょっと毒のあるユーモアあふれるまくらと、江戸と現代を結ぶセンスある古典落語として知られていて、独演会等の切符は手に入りにくい人気の落語家です。
鹿児島県出身、48歳、平成4年早稲田大学を中退して五街道雲助師匠に入門、前座、五街道はたごになり入門の年に高座に上がりました。
平成7年に二つ目 喜助に改名、平成17年真打ちに昇進し、三代目桃月庵白酒を襲名しました。
2011年には花形演芸大賞と、彩の国落語大賞を受賞しています。
来年で入門25年になる桃月庵白酒さんに伺いました。
桃月庵白酒、先代から100年以上たってから襲名しました。
探した候補の中に桃月庵白酒という名前が有りました。(師匠も五街道という名前)
つい、「しろざけ」さんといわれてしまいます。
落語は表情を見て頂く芸なんで顔が小さいのは、ちょっと不利ではあるのですが、肥っているのでフォルムで得はしていると思います。
入門すると明るく大きな声を出せとしかいわれないんです。
前座の時はうるさかったと思います。
或る程度のところに行ってもマイクなしで出来ますので楽ですね。
落語研究会にいましたが、師匠から落研くせえなあと言う風に言われてしまいます、先ずそれを抜けなければなあと言われ、明るく大きな声を出せとしかいわれませんでした。
それから後、細かく言ってくれるようになりました。(2年ぐらいたってから)
落語ブームは半分当たっていると思いますが、半分は外れていると思ってまして、観客動員はブームといわれるほど入っていない。
若い女性は前から入っていましたが、最近は若い男性が増えました。
ベストは地声で聞いていただきたいと思っているので、ぎりぎり300名ですね。
無精の小話。
「どうだい、これだけ無精な連中が集まったんだから、これから無精の会をやらないかい」
「いいよ、めんどくせい」
ネタは200は越していると思います。(1度だけの高座の話を含めて)
持ちネタと言えば100~120位です。
入門前は廓話が好きだったが、噺家になってからはどうでもいい内容の話が好きですね。(何のテーマもない)
「芝浜」はやらないと言ってたんですが、去年やったりしています。
ネタ選びが一番重要だと思います。(その日のお客さんに合ったもの)
拍手でなんとなくどの程度寄せに通っているかが、判ります。
いくつか用意しておいて客の様子などを見て絞ってゆきます。
鹿児島県南大隅町の出身です。
子供時代は野球が好きだったので、野球をして遊んだりしていました。
部活動は一生懸命やっていました。
鹿児島県立鶴丸高校に進むが、落語は興味はなかった。
野球と音楽が当時は好きでした。
学校が決めた行ってはいけない映画に行って、特に「アニマルハウス」がコメディーで、大学が舞台で、それを見て大学に行きたいと思いました。
早稲田大学に入学、東京にあこがれていたので、楽しくてしょうがなくて最高でした。
学校にいっていなかったです。
サークルには5つ入っていましたが、その頃景気が良かったので貧乏人は相手にされず、落語研究会だけが残りました。
サークルではいい客になれ、いい観賞者側になれと言われました。
短い話をして受けると、人前で反応が有るといいなあという感覚が出てきましたが、職業にしようという考えはなかったです。
大学3年から就職活動が始まるが、スーツも持っていなくて、就職はしなければいけないとは思っていたが、単位が足りなくて卒業出来ないこともわかって、どうしようと改めて考えました。
サークルでは私を含めて3人が決まっていなくて、一人は決まって、残りの一人が噺家になろうかなと言い出して(柳家甚語楼)、そのまま月日が経ってしまいました。
弟子になるなら、ずーっと頭を下げてもいい様な人、その師匠がうちの師匠でした。
迷いもあり、入門しようかどうしようか、何日か家の周りをぐるぐる廻ったりしました。
一週間後最初、ドアホン越しに断られて、それが却って火が付きました。
その後会える事が出来て指定された日から1週間が経って、その後入門が許されました。
平成4年に入門、前座がいなくて直ぐ前座になり、入門して2週間後に楽屋入りしました。
「五街道はたご」が3年、二つ目になり「五街道喜助」、10年経って真打ちになりました(37、8歳)
親はいつか諦めて帰ってくるのではないかと思っていた様で、真打ちになって諦めた様です。
今 弟子が二人います。(桃月庵はまぐり、桃月庵ひしもち)
弟子を育てると言う事ではなく、一緒に育ってゆく、勉強になりました。
良く師匠は私を首にしなかったのかなと思います、前座の時には何もできなかったし。
師匠は恩人の何物でもないです。
2016年12月31日土曜日
2016年12月30日金曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ (H16/4/8放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ (H16/4/8放送)
三笠宮殿下米寿記念論集 700ページ以上の論集が秋になると刊行されます。
誕生の前年1914年が第一次世界大戦が勃発、昭和天皇と14歳 秩父宮様13歳、高松宮様と10歳違う。
昭和天皇が摂政になったのが、大正10年頃、私は小学校にいく前で、摂政を置かれたということは健康がすぐれないと言う事ですから、記憶に残っているころは、摂政を置かれた時代なので大正天皇についていろいろ申し上げる資格はないです。
貞明皇后については当時としては一般の家庭とは違っていたので、親子で有りながら親子でない様な面が有りましたが、立派な方だったと思います。
皇后になると言うことは大変なことだったと思います、生まれる前のことなので噂に過ぎないが一時期精神的にも悩まれて、チブスにかかって静養されて、その間に精神的に持ち直したと言う事もあった様です。
今後もそういう問題は起こると思います。
小林:女帝問題が巷で出ていますが、、昭和21年11月3日の新憲法公布記念日の日付けで、三笠宮と書いた手書きの文書が残っていて、新憲法と皇室典範改正法案要綱案を枢密院に提出されたと、これは宮様が本当にお書きになったものですか?
当時、皇族は枢密院議員の資格が有り、会議に出ていましたが、発言したことを記録に残したと言う事です。
小林:女帝の問題も再検討されてしかるべきと発言になったが、枢密院でも黙殺されたと、こういう経過でしょうか?
昔は古い女官の方がお姑さんの様な役割をしたので貞明皇后も非常に悩んだと思うのですが、今はマスコミがいろいろ騒ぎすぎますね。
将来そういう立場になる人も怖気付くだろうし、日本の場合配偶者、女帝自体も大変だし、一般の人が配偶者になることは大変で、戦後華族制度が無くなって華族制度を無くすことは、今になって考えてみると天皇制の外掘りを埋められた様で、女帝になっても配偶者になる方がいないのではないかと思います。
理屈では女帝有ってしかるべきですが、現実問題問としては、はたしてどうなるのか。
小林:小さい頃は童謡の宮様といわれたそうですが?
「月夜の空を雁飛びて、宮君御殿でそれ見てる、宮君が御所から急ぎて帰る時、町に電灯つきにけるかな」 こういう童謡が歌われていたのか?
日光に夏は避暑に行く事になっていて、七夕の時期、たまたまその時期大正デモクラシーで皇室の内部状況を一般に見せる必要があると言う事で、大阪毎日の小野 賢一郎の一行が、活動写真を撮ると言う事で小野さんがたまたま短冊を発見してスクープして、本居長世さんという有名な作曲家に依り作られて、全国ツアーもやってました。
(本居長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。)
小さいころは、陸軍少将とか、御歌どころの東さん、橘さんとかお年よりの方が周りにおりました。
浪曲のレコードはいっぱいあって、洋楽のレコードはなくて家内も結婚した時に驚いていましたが。
夏休みの宿題で、関ヶ原の役を取り上げましたが、実際に歴史に関心を持ったのは陸軍大学の学生の時で、戦術(理論)、戦史は生きた人間を扱うので、戦術では出てこない物事が出てきて、人情の奥まで研究、人間的にも深い様なものを感じて、教官のもとでの実戦でも上手くいかないと言う事も実感して、戦史が大事だと感じました。
昭和天皇も歴史が好きだったが、どうしても歴史をやると政治的になるので、天皇は政治的になるといけないと言う事で歴史の研究はよくないと言われた様で生物のほうに行った様です。
関東大震災の時には日光にいて、庭に飛び出しました。
栗橋の鉄橋も壊れたし、電話線も切れました。
たまたま両陛下が来ていて、警戒のために近衛兵が来ていて、伝書鳩を持っていて伝書鳩でかろうじて東京と連絡が取れました。
関東大震災を歴史的に見直します時に忘れてはならないものが有ると思います。
死者が関東地方で約10万人、行方不明者が約4万人、東京だけで死者が6万人を越えて、その内の5万数千人は火事で焼け死んだといわれます。
地震と火事に依るパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたと言う事で有ります。
9月1日の夕方には不貞戦人が襲ってきて井戸へ毒を入れた、放火強盗、暴行を欲しいままにしていると言う様なうわさが飛び交い、社会主義者も加わってるという流言が飛び交って、その結果殺害された朝鮮人は政府発表では200人あまりと言われたが、実際はその10倍以上に及んだのではないかと推定されます。
現在の日本と隣国の民族間の感情問題にも関係してくるので、歴史的に見直すということが必要ではないかと考えています。
昭和7年陸軍士官学校の予科に入学。
明治43年に公布された皇族身位令、親王、王は満18歳に達したら、陸軍又は海軍の武官に任ず、という事で軍人への道に向かう。
秩父宮が海軍、高松宮が陸軍を希望したらしいが、当時陸軍と海軍が勢力争いをしていて陸軍が強くて、最初の皇族は陸軍でなくてはいけないと言う事で押し切ったらしくて、秩父宮が陸軍、高松宮が海軍と言う事になり希望とは反対の方に行ってしまった。
高松宮は船にとても弱いので大変苦労したと思います。
私は小学校のころから乗馬をしていたので陸軍に行く事になりました。
昭和18年支那派遣軍参謀という事で1年間中国に行っていました。
南京に1年間いて、南京を経つ前に将校たちに話をすることになり、南京に行く前に日本の政府で対華新方針が出されて、従来の日本軍のやり方が悪いことが多かった、当時の北支方面軍司令官岡村大将は4悪といわれ、民衆にたいする軍規が良くなかった。
それが反日思想を誇張させる、日本軍のやり方を改めなくてはいけないと言う事で日本政府が新しい方針を出しました。
その直後に赴任した訳で、大変幸せでありました。
各方面に行って、新しい方針を伝えて、中国人にたいする軍規を厳守しなくてはいけないと言う事を申し上げたわけですが、エピソードですが第一線の指揮官が従来は敵に攻めてゆくと家を焼いていた、後ろから見ているとどこまで進んでいたか判ったが、自分の部下が判らないという様な話をしていました。
日本軍が、蒋介石軍が制作した「勝利行進曲」という映画を獲得してそれをみて、重慶政府の宣伝映画でしたが、実際良く見ると実際の事を映画にしているのではないかと思いました、東京に戻る機会の時に昭和天皇にお見せしました。
軍規が良くはなったが手遅れで、数年前に新方針を出していれば、もうすこし効果があったとは思いますが。
小林:昭和46年秋 昭和天皇がヨーロパ御訪問の際に、外国人記者団に自分は立憲君主を念願として来たけれども2回だけ、非常に切迫した緊急事情のため直接的な行動を取った、その一つが2・21事件、もう一つが終戦の時であった、とお話しになったと言う事ですが。
昭和天皇は立憲君主を念願にしていらしった様ですが、2つの件についてどうでしたか?
明治維新以来、陸軍がフランス、海軍がイギリスの制度を取り入れて、フランスがプロシャに負けて陸軍がフランスの制度からプロシャ(ドイツ)の制度に切り替わってドイツ的な教育になって、第二次世界大戦のときにも災いをなしたのではないかと思いますが。
憲法もプロシャの憲法が草案になって伊藤博文も随分手を入れた様ですが、ドイツ的な専制君主と言っていいかどうか判りませんが。
西園寺侯爵が元老として天皇にアドバイスすると言う様になってから、イギリスの君臨すれども統治せずと言う様なイギリス式の君主の在り方をアドバイスしたのではないかと思います。
基本的にはドイツ的な憲法を実際的にはイギリス的に実行するというジレンマが有ったのではないかと思いますが。
小林:日露戦争についてはどう思われますか?
勝った勝ったと言う話が多いわけですが、戦史の講義を聞いた時に武力的には決して日本軍はロシア軍に対して強力では無かったと言う事を聞きまして驚いた訳ですが、最初の戦は鴨緑江のあたりで起きて、ロシア軍を撃退したということになっていて、ロシア軍を追い詰めて奉天の線まで行ったという事になっていますが、後から調べるとロシア軍が奉天の線まで下がったのは、ロシア軍の司令官が軍隊にたいして、日本軍の前進をすこしずつはばみながら奉天の線まで退却をするようにとの命令を出していたそうで、日本軍は撃退しながら奉天の線まで行って武力的に勝ったのではない。
日本では封建時代からお城があってこれを最後の一兵まで守ると言う武士道精神という様な気持ちが、日露戦争まで体に流れていたのではないかと、武力で敵を撃滅したということは少ないが、城を、街を死守すると言う事では力を発揮したと言う事を戦史で習いました。
最後はアメリカなどの仲裁で平和条約になったわけですが、ロシアが調印したのは政治的な国内問題でもってロシアは戦を止めたんだと、日本は勝った勝ったと提灯行列をしましたが、それ以来日本は強い、神風が吹くと言う様なことが一般の国民だけでなくて軍隊まで浸透していって、第二次世界大戦の時も神風が吹くと言う様な気分がみなぎっていたのではないかと思う。
日清、日露の戦争で日本は強いんだという様な誤った先入観で第二次世界大戦まで入ったんじゃないかと思います。
海軍は第一年度は勝つと、二年度は五分五分、三年目は判らないと言う風に判断していたが陸軍も科学的な判断を下していれば違ったかもしれないが、歴史の研究が十分でなかった結果ではないかと思います。歴史の研究は大事と思います。
玉音放送は市ヶ谷で聞きました。
日本の飛行機はなくなって、航空に関係していれば負け戦はわかっていたので来るべきものが来たという感じです。
特攻には反対でしたが、特攻で敵の上陸に対して囮の敵鑑を撃沈したとしても飛行機は無くなり、敵鑑が上陸すればそれに対する手はないので、上の方では判っていたので来るべきものが来たという感じです。
ソ連の崩壊、湾岸戦争、イラク戦争等、もう少し指導者が歴史を考えてほしいですね。
今の中近東のいろいろなごたごたも第一次世界大戦の時に、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入って来て、いろいろなことが有って、その時の軍隊の境が今の新しい民族国家の国の境になっている所もあり、国の境が直線になっているところもあり、問題があると思います。
軍隊の引きあげ方、後始末もしっかりしないで引き挙げていった場所もあり、尾を引いて色んな紛争をになっている。
欧米諸国が第一次世界大戦以来のやってきたことをもう一遍反省し直して、中近東の民族の歴史、部族の歴史を研究し直すことが、今後の歴史を変えてゆくのではないかと思います。
三笠宮殿下米寿記念論集 700ページ以上の論集が秋になると刊行されます。
誕生の前年1914年が第一次世界大戦が勃発、昭和天皇と14歳 秩父宮様13歳、高松宮様と10歳違う。
昭和天皇が摂政になったのが、大正10年頃、私は小学校にいく前で、摂政を置かれたということは健康がすぐれないと言う事ですから、記憶に残っているころは、摂政を置かれた時代なので大正天皇についていろいろ申し上げる資格はないです。
貞明皇后については当時としては一般の家庭とは違っていたので、親子で有りながら親子でない様な面が有りましたが、立派な方だったと思います。
皇后になると言うことは大変なことだったと思います、生まれる前のことなので噂に過ぎないが一時期精神的にも悩まれて、チブスにかかって静養されて、その間に精神的に持ち直したと言う事もあった様です。
今後もそういう問題は起こると思います。
小林:女帝問題が巷で出ていますが、、昭和21年11月3日の新憲法公布記念日の日付けで、三笠宮と書いた手書きの文書が残っていて、新憲法と皇室典範改正法案要綱案を枢密院に提出されたと、これは宮様が本当にお書きになったものですか?
当時、皇族は枢密院議員の資格が有り、会議に出ていましたが、発言したことを記録に残したと言う事です。
小林:女帝の問題も再検討されてしかるべきと発言になったが、枢密院でも黙殺されたと、こういう経過でしょうか?
昔は古い女官の方がお姑さんの様な役割をしたので貞明皇后も非常に悩んだと思うのですが、今はマスコミがいろいろ騒ぎすぎますね。
将来そういう立場になる人も怖気付くだろうし、日本の場合配偶者、女帝自体も大変だし、一般の人が配偶者になることは大変で、戦後華族制度が無くなって華族制度を無くすことは、今になって考えてみると天皇制の外掘りを埋められた様で、女帝になっても配偶者になる方がいないのではないかと思います。
理屈では女帝有ってしかるべきですが、現実問題問としては、はたしてどうなるのか。
小林:小さい頃は童謡の宮様といわれたそうですが?
「月夜の空を雁飛びて、宮君御殿でそれ見てる、宮君が御所から急ぎて帰る時、町に電灯つきにけるかな」 こういう童謡が歌われていたのか?
日光に夏は避暑に行く事になっていて、七夕の時期、たまたまその時期大正デモクラシーで皇室の内部状況を一般に見せる必要があると言う事で、大阪毎日の小野 賢一郎の一行が、活動写真を撮ると言う事で小野さんがたまたま短冊を発見してスクープして、本居長世さんという有名な作曲家に依り作られて、全国ツアーもやってました。
(本居長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。)
小さいころは、陸軍少将とか、御歌どころの東さん、橘さんとかお年よりの方が周りにおりました。
浪曲のレコードはいっぱいあって、洋楽のレコードはなくて家内も結婚した時に驚いていましたが。
夏休みの宿題で、関ヶ原の役を取り上げましたが、実際に歴史に関心を持ったのは陸軍大学の学生の時で、戦術(理論)、戦史は生きた人間を扱うので、戦術では出てこない物事が出てきて、人情の奥まで研究、人間的にも深い様なものを感じて、教官のもとでの実戦でも上手くいかないと言う事も実感して、戦史が大事だと感じました。
昭和天皇も歴史が好きだったが、どうしても歴史をやると政治的になるので、天皇は政治的になるといけないと言う事で歴史の研究はよくないと言われた様で生物のほうに行った様です。
関東大震災の時には日光にいて、庭に飛び出しました。
栗橋の鉄橋も壊れたし、電話線も切れました。
たまたま両陛下が来ていて、警戒のために近衛兵が来ていて、伝書鳩を持っていて伝書鳩でかろうじて東京と連絡が取れました。
関東大震災を歴史的に見直します時に忘れてはならないものが有ると思います。
死者が関東地方で約10万人、行方不明者が約4万人、東京だけで死者が6万人を越えて、その内の5万数千人は火事で焼け死んだといわれます。
地震と火事に依るパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたと言う事で有ります。
9月1日の夕方には不貞戦人が襲ってきて井戸へ毒を入れた、放火強盗、暴行を欲しいままにしていると言う様なうわさが飛び交い、社会主義者も加わってるという流言が飛び交って、その結果殺害された朝鮮人は政府発表では200人あまりと言われたが、実際はその10倍以上に及んだのではないかと推定されます。
現在の日本と隣国の民族間の感情問題にも関係してくるので、歴史的に見直すということが必要ではないかと考えています。
昭和7年陸軍士官学校の予科に入学。
明治43年に公布された皇族身位令、親王、王は満18歳に達したら、陸軍又は海軍の武官に任ず、という事で軍人への道に向かう。
秩父宮が海軍、高松宮が陸軍を希望したらしいが、当時陸軍と海軍が勢力争いをしていて陸軍が強くて、最初の皇族は陸軍でなくてはいけないと言う事で押し切ったらしくて、秩父宮が陸軍、高松宮が海軍と言う事になり希望とは反対の方に行ってしまった。
高松宮は船にとても弱いので大変苦労したと思います。
私は小学校のころから乗馬をしていたので陸軍に行く事になりました。
昭和18年支那派遣軍参謀という事で1年間中国に行っていました。
南京に1年間いて、南京を経つ前に将校たちに話をすることになり、南京に行く前に日本の政府で対華新方針が出されて、従来の日本軍のやり方が悪いことが多かった、当時の北支方面軍司令官岡村大将は4悪といわれ、民衆にたいする軍規が良くなかった。
それが反日思想を誇張させる、日本軍のやり方を改めなくてはいけないと言う事で日本政府が新しい方針を出しました。
その直後に赴任した訳で、大変幸せでありました。
各方面に行って、新しい方針を伝えて、中国人にたいする軍規を厳守しなくてはいけないと言う事を申し上げたわけですが、エピソードですが第一線の指揮官が従来は敵に攻めてゆくと家を焼いていた、後ろから見ているとどこまで進んでいたか判ったが、自分の部下が判らないという様な話をしていました。
日本軍が、蒋介石軍が制作した「勝利行進曲」という映画を獲得してそれをみて、重慶政府の宣伝映画でしたが、実際良く見ると実際の事を映画にしているのではないかと思いました、東京に戻る機会の時に昭和天皇にお見せしました。
軍規が良くはなったが手遅れで、数年前に新方針を出していれば、もうすこし効果があったとは思いますが。
小林:昭和46年秋 昭和天皇がヨーロパ御訪問の際に、外国人記者団に自分は立憲君主を念願として来たけれども2回だけ、非常に切迫した緊急事情のため直接的な行動を取った、その一つが2・21事件、もう一つが終戦の時であった、とお話しになったと言う事ですが。
昭和天皇は立憲君主を念願にしていらしった様ですが、2つの件についてどうでしたか?
明治維新以来、陸軍がフランス、海軍がイギリスの制度を取り入れて、フランスがプロシャに負けて陸軍がフランスの制度からプロシャ(ドイツ)の制度に切り替わってドイツ的な教育になって、第二次世界大戦のときにも災いをなしたのではないかと思いますが。
憲法もプロシャの憲法が草案になって伊藤博文も随分手を入れた様ですが、ドイツ的な専制君主と言っていいかどうか判りませんが。
西園寺侯爵が元老として天皇にアドバイスすると言う様になってから、イギリスの君臨すれども統治せずと言う様なイギリス式の君主の在り方をアドバイスしたのではないかと思います。
基本的にはドイツ的な憲法を実際的にはイギリス的に実行するというジレンマが有ったのではないかと思いますが。
小林:日露戦争についてはどう思われますか?
勝った勝ったと言う話が多いわけですが、戦史の講義を聞いた時に武力的には決して日本軍はロシア軍に対して強力では無かったと言う事を聞きまして驚いた訳ですが、最初の戦は鴨緑江のあたりで起きて、ロシア軍を撃退したということになっていて、ロシア軍を追い詰めて奉天の線まで行ったという事になっていますが、後から調べるとロシア軍が奉天の線まで下がったのは、ロシア軍の司令官が軍隊にたいして、日本軍の前進をすこしずつはばみながら奉天の線まで退却をするようにとの命令を出していたそうで、日本軍は撃退しながら奉天の線まで行って武力的に勝ったのではない。
日本では封建時代からお城があってこれを最後の一兵まで守ると言う武士道精神という様な気持ちが、日露戦争まで体に流れていたのではないかと、武力で敵を撃滅したということは少ないが、城を、街を死守すると言う事では力を発揮したと言う事を戦史で習いました。
最後はアメリカなどの仲裁で平和条約になったわけですが、ロシアが調印したのは政治的な国内問題でもってロシアは戦を止めたんだと、日本は勝った勝ったと提灯行列をしましたが、それ以来日本は強い、神風が吹くと言う様なことが一般の国民だけでなくて軍隊まで浸透していって、第二次世界大戦の時も神風が吹くと言う様な気分がみなぎっていたのではないかと思う。
日清、日露の戦争で日本は強いんだという様な誤った先入観で第二次世界大戦まで入ったんじゃないかと思います。
海軍は第一年度は勝つと、二年度は五分五分、三年目は判らないと言う風に判断していたが陸軍も科学的な判断を下していれば違ったかもしれないが、歴史の研究が十分でなかった結果ではないかと思います。歴史の研究は大事と思います。
玉音放送は市ヶ谷で聞きました。
日本の飛行機はなくなって、航空に関係していれば負け戦はわかっていたので来るべきものが来たという感じです。
特攻には反対でしたが、特攻で敵の上陸に対して囮の敵鑑を撃沈したとしても飛行機は無くなり、敵鑑が上陸すればそれに対する手はないので、上の方では判っていたので来るべきものが来たという感じです。
ソ連の崩壊、湾岸戦争、イラク戦争等、もう少し指導者が歴史を考えてほしいですね。
今の中近東のいろいろなごたごたも第一次世界大戦の時に、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入って来て、いろいろなことが有って、その時の軍隊の境が今の新しい民族国家の国の境になっている所もあり、国の境が直線になっているところもあり、問題があると思います。
軍隊の引きあげ方、後始末もしっかりしないで引き挙げていった場所もあり、尾を引いて色んな紛争をになっている。
欧米諸国が第一次世界大戦以来のやってきたことをもう一遍反省し直して、中近東の民族の歴史、部族の歴史を研究し直すことが、今後の歴史を変えてゆくのではないかと思います。
2016年12月29日木曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・オリエントを訪ねて(H16/4/7放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・オリエントを訪ねて(H16/4/7放送)
明治時代に東京大学が出来た時に歴史学科が出来ました。
その時に西洋史、東洋史、国史の三本立てになり、それが今日まで続いています。
日本オリエント学会の発起人でもある杉勇先生が文部省に申請をして、大学院の方に中近東関係の学科を作ってよいと言う文章が規則の中に入りました。
学部の方に中近東関係の研究するものはできなくて、今でも西洋史、東洋史で扱っていました。
制度は一度できるとなかなか変わらない。
NHK学園で当時の理事長がこれから必要になる学問と言う事で、古代オリエント史講座を作ったのが昭和63年になり、監修を担当して、古代オリエント講座が発足しました。
通信教育講座。
古代オリエントの美術にあこがれる、宗教に興味を持った方、言語に興味を持った方がいますが、宗教社会学的な見地から、旧約聖書の研究に入ったものなので、若いころは美術、芸術等は現実から逃避するためにそういったものをやるものではないかと、誤った観念を持っていましたが、東京芸術大学で教えるようになったので関心を持つ様になりました。
歴史学はやはり生きんがための人間同士の血みどろの争いの足跡、その上に組み立てられてきたと思います。
研究する以上はドライに研究を始める方がいいと思います。
古代史はすでに出来上がっている様に思うかもしれないが、遺跡から出てくるもの、残されたわずかな文字に依る記録等に頼って歴史を組み立てるものなので、フィクションも多いが、これから研究する人は鋭い眼光を持って実際に実物のない、裏の裏まで見通して行かなくてはいけない。
歴史を書いた人の意見が入っているので注意しなければいけない。
古代史は実際に起こったこと言う風に考えやすいが、考古学的発屈、新たな場所から古い記録が発見されることもあるので、決して出来上ったものではなくて、これからの研究者が組み立てていくものだと言っています。
1956年サマーワを訪問 古代のシュメール(シュメル 私はそう言っています)。
京都大学中原先生から伺いましたが、戦争中に俗説として、シュメルをスメル、天皇のことをスメラミコトと言いますが、スメルのミコトであると、日本の天皇はシュメルから来たと言う俗説がはやったのでそれを抑えるために、中原先生はシュメール(長音を入れる)とシュメルではないと
言う風になさったらしいが、当時の一時的な便法であったので、昔の様に「シュメル」と直した方がいいと私は思っています。
1956年に初めて中近東の土を踏みましが、鼻の中がピリッと乾いた、乾燥の国に来たと痛感しました。
現地に行きますと、全て肌で感じる、ウル遺跡、ウルク遺跡に行きましたが、何とも言えない感じでした。
テラスを重ねた様な神殿で、下部の方は残っている。
イラク政府が修復を始めて、レンガの跡も新しい様な風に直ってくるので、1956年に私が撮った写真は現地に行っても見られないという価値が有るのかもしれません。
シンメトリーの研究。
シュメルの時代のはんこには、2種類有って、押すはんこと、粘土の上に葦の先を削って、粘土の上に文字を書いてゆくという習慣が有り、指の太さぐらいの円筒の周りに沈み彫りでいろいろなデザインで書いて、粘土の上に転がすと無限に絵が展開されて、円筒印章と呼ばれます。
円筒印章のデザインの中に真ん中に聖樹があり、その左右に対照的に動物を配置したと言うのが有ります。
西と東に伝搬して行って、真ん中の植物、動物の種類が変わってくるが、真ん中に神聖なもの、両脇に動物を配置するモチーフは変わらず、それがシルクロードを経て、中国に渡り、日本にもはいってきて、奈良の正倉院の宝物の中にも、植物、動物の種類が変わってくるが、そういったもののデザインが入ってきます。
中近東の歴史を学んでいるうちに日本の歴史にも関心を抱くようになり、両者の比較を始めました。
その手始めがシンメトリーのデザインだったと言う事です。
中近東では今でもシンメトリーのデザインが多いです。
ユダヤ教が紀元前6世紀ごろに現れましたが、ユダヤ教の用いてるデザインにもシンメトリーがあり、キリスト教でもそうですし、イスラム教でもシンメトリーのデザインが用いられています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、所謂一神教の様な宗教が信仰された場所だと、シンメトリーのモチーフのデザインが用いられるんじゃないかと考えています。
日本では一般的にシンメトリーと言うものは、窮屈に感じる、奈良時代に中国から入ってくるが、平安時代になるとどこか崩されていくが、日本人はバランス感覚が発達してるので、見た目がおかしい様なところまでは崩しません。
日本では、宗教的な神社、お寺、家紋などにはシンメトリーが用いられるが、真ん中に植物、両側に生物という様なモチーフは極めて少ない。
多神教と言っても、シュメルと日本では異なるところが有りますし、一神教でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では異なるところが有り、注意しながら一神教、多神教の言葉を使うべきだと考えるようになりました。
昭和50年 エジプト訪問。
カデシュの戦い、紀元前1286年 エジプト19王朝ラメセス2世と、ヒッタイト新王国のカデシュの戦い。
アナトリアに国を設けたヒッタイトと、南のナイル川流域に国を建てたエジプトが戦うわけで、両方とも記録には自分の方が勝ったようなことが書いてあるが、実際にはそれほどはっきりした勝負はつかなかったのではないか、むしろヒッタイトに分が有った様なふうにもあるが、戦争の重要性は後で出来た平和条約、平和条約を結んでお互いに領土を侵略しないとか、第三国から攻撃をされた時には援軍を差しのべるとか、捕虜になった場合にも返還するとか、条約が有った。
現在の平和条約のルーツの様な感が有る。
ヒッタイトとエジプトでも同じ文章が発掘されている。
イラン2度訪問、昭和31年、46年。
ペルシャ ペルセポリス 2度行っています。
アケメネス王朝が古代オリエント史としては一番重要だと思っています。
紀元前6世紀ごろになるとペルシャ人が勢力を持つようになる。
民族、発屈の人骨では判らなくて、記録に残った言語に依ります。
シュメル人 独立したシュメル語を話していた。
南はバビロニア人、シリア人はセム語族の分類に入ります。
北はインドヨーロッパ語族(印欧語族) 紀元前2000年頃 ロシアのステップ地帯から東ヨーロッパに渡って広く分布していて遊牧をして馬を連れていたが、南に下って来て中近東の歴史に参加してくる。
ペルシャ人が中近東に入って来て勢力を伸ばして、殆ど征服して支配する様になる。
紀元前500年ごろにダレイオス大王が出てきて統治する。
世界帝国と称していい様な制度ができてきます。
税制、交通、宮殿等いろいろなことを成し遂げた、重要な遺跡が有ります。
ペルシャ帝国ができる前にバビロニア王国が有り、パレスチナにせめてユダの王国を征服して、ユダヤ人をバビロニア王国のバビロンにつれてきました、有名なバビロンの捕囚、ユダヤ人はバビロン付近に住まわせられていた。
政治的、宗教的な活動は許されなかった。
ユダヤ人は想を練ったり、宗教的な感覚を得たと思います。
ペルシャ帝国が成立すると、バビロンに捕えられていたユダヤ人が解放され、故郷のエルサレムに帰ってゆく。
エルサレムの神殿を再建するが、周りはそれぞれ権力を握った人たちがいて、再建がなかなかできなくて、ペルシャ王が支援をして、エルサレムの城壁、神殿も完成する。(第二神殿、紀元前515年)
ユダヤ人(ユダ部族)はそれまでいろいろな神を信仰していたが、ヤハウェの神を唯一の神とする。
純粋なユダ部族が固まり、ヤハウェという一つの神だけを信じる、第二神殿でもって新しい宗教集団として営みを始める、それがユダヤ教です。
ペルシャ帝国が西南にあるエジプトを考慮してパレスチナに防御のための橋頭保にしようとユダヤ人にゆだねたと思われます。
一神教はペルシャ帝国の政治的な状況の基にユダヤの一神教ができ上ったとこういうふうに考えたらどうかと思います。
ササン朝は勢力が衰えてくると、有力者がシルクロードを経て中国に流れてきて、ササン朝の文化(オリエント文化)が中国に入って来て、やがて日本に入ってくると言う事です。
明治時代に東京大学が出来た時に歴史学科が出来ました。
その時に西洋史、東洋史、国史の三本立てになり、それが今日まで続いています。
日本オリエント学会の発起人でもある杉勇先生が文部省に申請をして、大学院の方に中近東関係の学科を作ってよいと言う文章が規則の中に入りました。
学部の方に中近東関係の研究するものはできなくて、今でも西洋史、東洋史で扱っていました。
制度は一度できるとなかなか変わらない。
NHK学園で当時の理事長がこれから必要になる学問と言う事で、古代オリエント史講座を作ったのが昭和63年になり、監修を担当して、古代オリエント講座が発足しました。
通信教育講座。
古代オリエントの美術にあこがれる、宗教に興味を持った方、言語に興味を持った方がいますが、宗教社会学的な見地から、旧約聖書の研究に入ったものなので、若いころは美術、芸術等は現実から逃避するためにそういったものをやるものではないかと、誤った観念を持っていましたが、東京芸術大学で教えるようになったので関心を持つ様になりました。
歴史学はやはり生きんがための人間同士の血みどろの争いの足跡、その上に組み立てられてきたと思います。
研究する以上はドライに研究を始める方がいいと思います。
古代史はすでに出来上がっている様に思うかもしれないが、遺跡から出てくるもの、残されたわずかな文字に依る記録等に頼って歴史を組み立てるものなので、フィクションも多いが、これから研究する人は鋭い眼光を持って実際に実物のない、裏の裏まで見通して行かなくてはいけない。
歴史を書いた人の意見が入っているので注意しなければいけない。
古代史は実際に起こったこと言う風に考えやすいが、考古学的発屈、新たな場所から古い記録が発見されることもあるので、決して出来上ったものではなくて、これからの研究者が組み立てていくものだと言っています。
1956年サマーワを訪問 古代のシュメール(シュメル 私はそう言っています)。
京都大学中原先生から伺いましたが、戦争中に俗説として、シュメルをスメル、天皇のことをスメラミコトと言いますが、スメルのミコトであると、日本の天皇はシュメルから来たと言う俗説がはやったのでそれを抑えるために、中原先生はシュメール(長音を入れる)とシュメルではないと
言う風になさったらしいが、当時の一時的な便法であったので、昔の様に「シュメル」と直した方がいいと私は思っています。
1956年に初めて中近東の土を踏みましが、鼻の中がピリッと乾いた、乾燥の国に来たと痛感しました。
現地に行きますと、全て肌で感じる、ウル遺跡、ウルク遺跡に行きましたが、何とも言えない感じでした。
テラスを重ねた様な神殿で、下部の方は残っている。
イラク政府が修復を始めて、レンガの跡も新しい様な風に直ってくるので、1956年に私が撮った写真は現地に行っても見られないという価値が有るのかもしれません。
シンメトリーの研究。
シュメルの時代のはんこには、2種類有って、押すはんこと、粘土の上に葦の先を削って、粘土の上に文字を書いてゆくという習慣が有り、指の太さぐらいの円筒の周りに沈み彫りでいろいろなデザインで書いて、粘土の上に転がすと無限に絵が展開されて、円筒印章と呼ばれます。
円筒印章のデザインの中に真ん中に聖樹があり、その左右に対照的に動物を配置したと言うのが有ります。
西と東に伝搬して行って、真ん中の植物、動物の種類が変わってくるが、真ん中に神聖なもの、両脇に動物を配置するモチーフは変わらず、それがシルクロードを経て、中国に渡り、日本にもはいってきて、奈良の正倉院の宝物の中にも、植物、動物の種類が変わってくるが、そういったもののデザインが入ってきます。
中近東の歴史を学んでいるうちに日本の歴史にも関心を抱くようになり、両者の比較を始めました。
その手始めがシンメトリーのデザインだったと言う事です。
中近東では今でもシンメトリーのデザインが多いです。
ユダヤ教が紀元前6世紀ごろに現れましたが、ユダヤ教の用いてるデザインにもシンメトリーがあり、キリスト教でもそうですし、イスラム教でもシンメトリーのデザインが用いられています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、所謂一神教の様な宗教が信仰された場所だと、シンメトリーのモチーフのデザインが用いられるんじゃないかと考えています。
日本では一般的にシンメトリーと言うものは、窮屈に感じる、奈良時代に中国から入ってくるが、平安時代になるとどこか崩されていくが、日本人はバランス感覚が発達してるので、見た目がおかしい様なところまでは崩しません。
日本では、宗教的な神社、お寺、家紋などにはシンメトリーが用いられるが、真ん中に植物、両側に生物という様なモチーフは極めて少ない。
多神教と言っても、シュメルと日本では異なるところが有りますし、一神教でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では異なるところが有り、注意しながら一神教、多神教の言葉を使うべきだと考えるようになりました。
昭和50年 エジプト訪問。
カデシュの戦い、紀元前1286年 エジプト19王朝ラメセス2世と、ヒッタイト新王国のカデシュの戦い。
アナトリアに国を設けたヒッタイトと、南のナイル川流域に国を建てたエジプトが戦うわけで、両方とも記録には自分の方が勝ったようなことが書いてあるが、実際にはそれほどはっきりした勝負はつかなかったのではないか、むしろヒッタイトに分が有った様なふうにもあるが、戦争の重要性は後で出来た平和条約、平和条約を結んでお互いに領土を侵略しないとか、第三国から攻撃をされた時には援軍を差しのべるとか、捕虜になった場合にも返還するとか、条約が有った。
現在の平和条約のルーツの様な感が有る。
ヒッタイトとエジプトでも同じ文章が発掘されている。
イラン2度訪問、昭和31年、46年。
ペルシャ ペルセポリス 2度行っています。
アケメネス王朝が古代オリエント史としては一番重要だと思っています。
紀元前6世紀ごろになるとペルシャ人が勢力を持つようになる。
民族、発屈の人骨では判らなくて、記録に残った言語に依ります。
シュメル人 独立したシュメル語を話していた。
南はバビロニア人、シリア人はセム語族の分類に入ります。
北はインドヨーロッパ語族(印欧語族) 紀元前2000年頃 ロシアのステップ地帯から東ヨーロッパに渡って広く分布していて遊牧をして馬を連れていたが、南に下って来て中近東の歴史に参加してくる。
ペルシャ人が中近東に入って来て勢力を伸ばして、殆ど征服して支配する様になる。
紀元前500年ごろにダレイオス大王が出てきて統治する。
世界帝国と称していい様な制度ができてきます。
税制、交通、宮殿等いろいろなことを成し遂げた、重要な遺跡が有ります。
ペルシャ帝国ができる前にバビロニア王国が有り、パレスチナにせめてユダの王国を征服して、ユダヤ人をバビロニア王国のバビロンにつれてきました、有名なバビロンの捕囚、ユダヤ人はバビロン付近に住まわせられていた。
政治的、宗教的な活動は許されなかった。
ユダヤ人は想を練ったり、宗教的な感覚を得たと思います。
ペルシャ帝国が成立すると、バビロンに捕えられていたユダヤ人が解放され、故郷のエルサレムに帰ってゆく。
エルサレムの神殿を再建するが、周りはそれぞれ権力を握った人たちがいて、再建がなかなかできなくて、ペルシャ王が支援をして、エルサレムの城壁、神殿も完成する。(第二神殿、紀元前515年)
ユダヤ人(ユダ部族)はそれまでいろいろな神を信仰していたが、ヤハウェの神を唯一の神とする。
純粋なユダ部族が固まり、ヤハウェという一つの神だけを信じる、第二神殿でもって新しい宗教集団として営みを始める、それがユダヤ教です。
ペルシャ帝国が西南にあるエジプトを考慮してパレスチナに防御のための橋頭保にしようとユダヤ人にゆだねたと思われます。
一神教はペルシャ帝国の政治的な状況の基にユダヤの一神教ができ上ったとこういうふうに考えたらどうかと思います。
ササン朝は勢力が衰えてくると、有力者がシルクロードを経て中国に流れてきて、ササン朝の文化(オリエント文化)が中国に入って来て、やがて日本に入ってくると言う事です。
2016年12月28日水曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・三笠宮様と古代オリエント(H16/4/6放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・三笠宮様と古代オリエント(H16/4/6放送)
10月27日、昭和天皇の末の弟君、三笠宮崇仁様が亡くなられました、100歳でした。
三笠宮様は生前、オリエントの宮様の愛称で親しまれるほど、古代オリエント史に造詣が深く、東京芸術大学等で講義をさたり講演も数多くなさっています。
ラジオ深夜便にも12年前「心の時代」に御出演されています。
三笠宮様を偲んでオリエントに思うをアンコール放送します。
私が陸軍の参謀をしていまして、中国、南京の支那派遣軍総司令部におりまして、いろいろ見聞をしまして、キリスト教の宣教師の方が山の奥に入って伝道に勤めているとか、八路軍(中国の共産軍)が日本軍と対峙していて、岩山でどこからか土を運んできて農耕をすると言う様なこともありました。
中国の民衆に対していろいろな問題を起こした訳でしたが、
八路軍は婦女子に対する軍規が厳正であった、情熱が優れていた。
そういったことがどこから来るんだろうと考えていて、敗戦になりもういっぺん勉強し直さなくてはいけないと言う事で東京大学の文学部の研究生となり、西洋史を山中先生についてキリスト教を学んで、さかのぼってゆき、宗教改革、もっと古いことを知りたくて、宗教史、大畠清先生の講義を伺う様になりました。
キリスト教も新約聖書から旧約聖書までさかのぼらないとわかりませんし、八路軍のマルクシズムも、マルクスが代々ユダヤ教のラビ学者(律法学者)の家に生まれていて、ユダヤ教のことも聞いていたと思います。
キリスト教もマルクシズムも辿ってゆくと旧約聖書の問題になるのではないかと思って、東大の文学部に入る時には旧約聖書の研究をしていました。
創世記、天地創造の物語、ノアの洪水の物語など有りまして、出エジプト記もあり、物語の基が今のイラクの古い所、メソポタミア文明になり、古代エジプトの歴史になり、物語の基を探るようになり、範囲が広がっていって、古代オリエントの研究になったわけです。
旧約聖書の一番最初に創世記が有りますが、天地創造物語が有り、洪水物語があり、ノアの洪水と一般的に言われますが、流れつくところがアララト山という事になっています。
今のトルコの東の国境付近にあります。
好奇心の強い人がアララト山に登って流れついた船を探そうとした人がいます。
洪水物語で一番基はイラクで人類最古の文明を栄えさせたシュメル人の作った洪水物語、チグリス川、ユーフラテス川、特にチグリス川が毎年洪水を出して、その悲惨な物語がシュメル人の洪水物語になっています。
シュメル人の洪水物語がバビロニア、シリアとかの民族に伝わり、船に乗って助かる人の名前も、山の名前も民族に判る様な名前に変わってきます。
その後、パレスチナに行ってノアになり、船の泊ったところがアララト山になり、決してノア、アララト山が実際の地名、人名ではない訳です。
旧約聖書を学ぶ時に周辺の諸民族の歴史を研究する必要が有ると思います。
オリエントという言葉は、古いラテン語にある「登る太陽」とか、東の方を意味したオリエンスという言葉に由来します。
イタリア半島に住んだローマ人はラテン語を話していて、東にはギリシャが有り、ローマ人はギリシャの文明を高く評価していて尊敬していたのでギリシャ文明を取り入れて、ギリシャ文明は東から来る、光は東方よりと言う有名な言葉を残したわけで、近年では拡大解釈をされて、ヨーロッパから見て東、アジアから光が来ると言う事にも使われていますが。
オリエンスが今ではオリエントという事になりました。
中近東の範囲がオリエントですが、今では英語でオリエントと言うと東アジア、日本までも入ると言う事が有ります。
古代オリエント、多少範囲が違うが、西は東部地中海地方、北は黒海、カスピ海を連なる線、南はエジプトのナイル川流域地方、アラビア半島、 東はペルシャ帝国の東端、或いはアレクサンドロス大王が征服して行った、インダス川流域の支流五川地方迄を考えたらいいと思います。
時間的に考えると、5000年前ぐらいから文字を用いだして、ペルシャ帝国、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の時代までを終りとしたと思います。
アレクサンドロス大王はマケドニアの王でギリシャ兵を連れて遠征して、ギリシャ風の文明、ヘレニズム文明がアジアの方まで入ってきた。
古代オリエント文明はアレクサンドロス大王の遠征までその後はヘレニズム文明と考えたらいいと思います。
紀元前3500年~紀元前330年ぐらいまでが、古代オリエントの占める時代。
近東、中東、中近東、 地理的な名称というよりは政治的名称
近東:第一次世界大戦が始まる直前に支配していたのがオスマントルコ帝国で、ヨーロッパの諸国がオスマントルコの領土に野心を持ち始めて、ヨーロッパから見てオスマントルコ帝国の西の方の部分を指して近東(Near East)と呼ぶようになり、極東(Far East)は東アジア、日本あたりを指すがかつては、インドあたりと思われる。
近東と極東の間を中東(Middle East)という様になった。
近年になり中近東(the Middle and Near East)という名称が使われるようになりました。
第二次世界大戦が終わって、東京大学の文学部の研究生になり、旧約聖書を中心とした歴史を調べていたが、古代オリエントの歴史を研究している学者が少ないと言う事、中近東諸国との経済関係が深くなってきたので、研究組織を作らなければいけないと思って、古代オリエントを研究していた先生方に相談をしまして、オリエント学会を作った訳です。
1954年、昭和29年に正式に成立しました。
古代から現代までの研究をしなくてはいけないと言う事で、「日本オリエント学会」として、英語では
「THE SOCIETY FOR NEAR EASTERN STUDIES IN JAPAN」
正会員が70人ぐらいでした。(維持会員が10人余り)
昭和53年には維持会員は237名に達しました、現在正会員は700人余りになりましたが、維持会員は90人以下に減少しています。
「オリエント通信」雑誌が出ていたが、その後纏まって単行本が出ました。
日本オリエント学会が発展して、研究者の組織はそれでよかったのですが、研究の資料を提供する、図書を閲覧する場所が必要になり、博物館と図書館を管轄する組織が無かったので、一緒にする所がほしかった。
両者を平等にしないで一方を上位に持っていったような文章に直してようやく国の許可を得て、ICU(国際キリスト教大学)で講演をした時に、中川先生が学長でその話をしたら、学校の牧場だった所を購入して、出光美術館の三鷹分館という形で建物が出来ました。(昭和50年)
「日本オリエント学会」の事務所 三笠宮研究室
東伏見宮様の屋敷を宮内庁が管理していて(今、常陸宮様のあるところ)、の一部屋を借りて勉強したりしていましたが、今の陛下が東宮時代にお入りになると言う事で、出なくてはいけなくなって、宮内庁の資料部に一部屋空いていると言う事でそこを借りて三笠宮研究室になりました。
日本オリエント学会ができた時にそこを事務所にしようと言う事になりました。
助手の村井すみえさんが日本オリエント学会も兼務すると言う事になりました。
宮内庁という国の役所に民間の事務所を置くことはいけないと言う事で出なくてはいけなくなり、理事の加納 久朗さんが持っていました太平洋協会に事務所を移しました。
日本オリエント学会の強力なスポンサーであった天理教の中山正善氏で、図書なども買っていただいたりしていて、天理教館が出来た時に日本オリエント学会の事務所もそこに移りまして、現在まで続いています。
今年の秋、それぞれが執筆する形で、古代オリエント事典を出すことになりました。
固有名詞を(地名、人名)を日本のカタカナに直すということは本当に大変です。
執筆者184名、800ページになろうかという本です。
中近東文化センターとしてはトルコの発掘は大変重要なことと思っていて、募金のために3年前から全県下で講演をやっています。
最小限の目標は達せられて、アナトリア考古学研究所の組織を作って、建物を建て替える計画をしています。
10月27日、昭和天皇の末の弟君、三笠宮崇仁様が亡くなられました、100歳でした。
三笠宮様は生前、オリエントの宮様の愛称で親しまれるほど、古代オリエント史に造詣が深く、東京芸術大学等で講義をさたり講演も数多くなさっています。
ラジオ深夜便にも12年前「心の時代」に御出演されています。
三笠宮様を偲んでオリエントに思うをアンコール放送します。
私が陸軍の参謀をしていまして、中国、南京の支那派遣軍総司令部におりまして、いろいろ見聞をしまして、キリスト教の宣教師の方が山の奥に入って伝道に勤めているとか、八路軍(中国の共産軍)が日本軍と対峙していて、岩山でどこからか土を運んできて農耕をすると言う様なこともありました。
中国の民衆に対していろいろな問題を起こした訳でしたが、
八路軍は婦女子に対する軍規が厳正であった、情熱が優れていた。
そういったことがどこから来るんだろうと考えていて、敗戦になりもういっぺん勉強し直さなくてはいけないと言う事で東京大学の文学部の研究生となり、西洋史を山中先生についてキリスト教を学んで、さかのぼってゆき、宗教改革、もっと古いことを知りたくて、宗教史、大畠清先生の講義を伺う様になりました。
キリスト教も新約聖書から旧約聖書までさかのぼらないとわかりませんし、八路軍のマルクシズムも、マルクスが代々ユダヤ教のラビ学者(律法学者)の家に生まれていて、ユダヤ教のことも聞いていたと思います。
キリスト教もマルクシズムも辿ってゆくと旧約聖書の問題になるのではないかと思って、東大の文学部に入る時には旧約聖書の研究をしていました。
創世記、天地創造の物語、ノアの洪水の物語など有りまして、出エジプト記もあり、物語の基が今のイラクの古い所、メソポタミア文明になり、古代エジプトの歴史になり、物語の基を探るようになり、範囲が広がっていって、古代オリエントの研究になったわけです。
旧約聖書の一番最初に創世記が有りますが、天地創造物語が有り、洪水物語があり、ノアの洪水と一般的に言われますが、流れつくところがアララト山という事になっています。
今のトルコの東の国境付近にあります。
好奇心の強い人がアララト山に登って流れついた船を探そうとした人がいます。
洪水物語で一番基はイラクで人類最古の文明を栄えさせたシュメル人の作った洪水物語、チグリス川、ユーフラテス川、特にチグリス川が毎年洪水を出して、その悲惨な物語がシュメル人の洪水物語になっています。
シュメル人の洪水物語がバビロニア、シリアとかの民族に伝わり、船に乗って助かる人の名前も、山の名前も民族に判る様な名前に変わってきます。
その後、パレスチナに行ってノアになり、船の泊ったところがアララト山になり、決してノア、アララト山が実際の地名、人名ではない訳です。
旧約聖書を学ぶ時に周辺の諸民族の歴史を研究する必要が有ると思います。
オリエントという言葉は、古いラテン語にある「登る太陽」とか、東の方を意味したオリエンスという言葉に由来します。
イタリア半島に住んだローマ人はラテン語を話していて、東にはギリシャが有り、ローマ人はギリシャの文明を高く評価していて尊敬していたのでギリシャ文明を取り入れて、ギリシャ文明は東から来る、光は東方よりと言う有名な言葉を残したわけで、近年では拡大解釈をされて、ヨーロッパから見て東、アジアから光が来ると言う事にも使われていますが。
オリエンスが今ではオリエントという事になりました。
中近東の範囲がオリエントですが、今では英語でオリエントと言うと東アジア、日本までも入ると言う事が有ります。
古代オリエント、多少範囲が違うが、西は東部地中海地方、北は黒海、カスピ海を連なる線、南はエジプトのナイル川流域地方、アラビア半島、 東はペルシャ帝国の東端、或いはアレクサンドロス大王が征服して行った、インダス川流域の支流五川地方迄を考えたらいいと思います。
時間的に考えると、5000年前ぐらいから文字を用いだして、ペルシャ帝国、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の時代までを終りとしたと思います。
アレクサンドロス大王はマケドニアの王でギリシャ兵を連れて遠征して、ギリシャ風の文明、ヘレニズム文明がアジアの方まで入ってきた。
古代オリエント文明はアレクサンドロス大王の遠征までその後はヘレニズム文明と考えたらいいと思います。
紀元前3500年~紀元前330年ぐらいまでが、古代オリエントの占める時代。
近東、中東、中近東、 地理的な名称というよりは政治的名称
近東:第一次世界大戦が始まる直前に支配していたのがオスマントルコ帝国で、ヨーロッパの諸国がオスマントルコの領土に野心を持ち始めて、ヨーロッパから見てオスマントルコ帝国の西の方の部分を指して近東(Near East)と呼ぶようになり、極東(Far East)は東アジア、日本あたりを指すがかつては、インドあたりと思われる。
近東と極東の間を中東(Middle East)という様になった。
近年になり中近東(the Middle and Near East)という名称が使われるようになりました。
第二次世界大戦が終わって、東京大学の文学部の研究生になり、旧約聖書を中心とした歴史を調べていたが、古代オリエントの歴史を研究している学者が少ないと言う事、中近東諸国との経済関係が深くなってきたので、研究組織を作らなければいけないと思って、古代オリエントを研究していた先生方に相談をしまして、オリエント学会を作った訳です。
1954年、昭和29年に正式に成立しました。
古代から現代までの研究をしなくてはいけないと言う事で、「日本オリエント学会」として、英語では
「THE SOCIETY FOR NEAR EASTERN STUDIES IN JAPAN」
正会員が70人ぐらいでした。(維持会員が10人余り)
昭和53年には維持会員は237名に達しました、現在正会員は700人余りになりましたが、維持会員は90人以下に減少しています。
「オリエント通信」雑誌が出ていたが、その後纏まって単行本が出ました。
日本オリエント学会が発展して、研究者の組織はそれでよかったのですが、研究の資料を提供する、図書を閲覧する場所が必要になり、博物館と図書館を管轄する組織が無かったので、一緒にする所がほしかった。
両者を平等にしないで一方を上位に持っていったような文章に直してようやく国の許可を得て、ICU(国際キリスト教大学)で講演をした時に、中川先生が学長でその話をしたら、学校の牧場だった所を購入して、出光美術館の三鷹分館という形で建物が出来ました。(昭和50年)
「日本オリエント学会」の事務所 三笠宮研究室
東伏見宮様の屋敷を宮内庁が管理していて(今、常陸宮様のあるところ)、の一部屋を借りて勉強したりしていましたが、今の陛下が東宮時代にお入りになると言う事で、出なくてはいけなくなって、宮内庁の資料部に一部屋空いていると言う事でそこを借りて三笠宮研究室になりました。
日本オリエント学会ができた時にそこを事務所にしようと言う事になりました。
助手の村井すみえさんが日本オリエント学会も兼務すると言う事になりました。
宮内庁という国の役所に民間の事務所を置くことはいけないと言う事で出なくてはいけなくなり、理事の加納 久朗さんが持っていました太平洋協会に事務所を移しました。
日本オリエント学会の強力なスポンサーであった天理教の中山正善氏で、図書なども買っていただいたりしていて、天理教館が出来た時に日本オリエント学会の事務所もそこに移りまして、現在まで続いています。
今年の秋、それぞれが執筆する形で、古代オリエント事典を出すことになりました。
固有名詞を(地名、人名)を日本のカタカナに直すということは本当に大変です。
執筆者184名、800ページになろうかという本です。
中近東文化センターとしてはトルコの発掘は大変重要なことと思っていて、募金のために3年前から全県下で講演をやっています。
最小限の目標は達せられて、アナトリア考古学研究所の組織を作って、建物を建て替える計画をしています。
2016年12月27日火曜日
小檜山 博(作家・館長) ・人生讃歌
小檜山 博(作家・NPO法人「北の映像ミュージアム」館長) ・人生讃歌
1937年 昭和12年に北海道滝の上町生まれ、79歳、作家です。
新聞社に勤め、その傍ら執筆活動を始め、1976年発表の作品「出刃」は北方文芸賞を受賞、芥川賞の候補にもなりました。
その2年後、「イタチ捕り」が直木賞の候補になったほか、泉鏡花文学賞を受賞した、「光る女」は後に、相米慎二監督に依り映画化されました。
北海道内を走るJRの列車内に置かれる冊子に、長年エッセーを連載していてその温かな作風は根強い人気が有ります。
札幌市にある「北の映像ミュージアム」の館長、映画夕張国際映画祭の実行委員長としても活躍しています。
苫小牧工業高校電気科に進みました。
他人への思いやりの多さがその人間をきめると思っていますが、「チャリン」と音がすると振り向いてしまう自分がいて、心、心と言っていても金にはかなわないのかもしれないと、無意識に思ってしまうのかなあとの不安さが有ります。
お金で買えないものはないと、聞いたりするが「なにを」と思う事が起きます。
金では買えないものを残しておきたいという気持ちが僕の中にあります。
父が20歳、母が24歳の時に福島から北海道に出稼ぎに来ました。
両親が炭焼きをするために金物屋から、鋸とまさかりを借りようとしたら、保証人を連れてくるように言われたそうで、思いついたのが小学校の校長先生で、行ったところ保証人なってもらえて、泊るところが無かったが、泊めてもらいました。
両親がそれから時々話してくれて、僕の中に沁み込みました。
北海道に来る人たちは次男三男が多かった。
本州からの古い歴史観、風習などが北海道に持ち込まれなかったことと、78人のお雇い外国人が北海道に来て、テーブル、椅子等の洋風の施設ができていた。
自由と平等の気風が育っていった。
母親も男と同じ仕事をやっていて発言も強かった。
4歳まで炭焼き小屋で育って、次の山、次の山へと13回変わっていって、その都度小屋を作ってそこで寝ていました。
中学2年の時に村の学校から町の学校に転校して片道17kmの山道を毎日通いました。
朝4時半に起きて2時間ちょっと掛かって、家に帰ると夜の8時ぐらいになって、夕食食べて風呂も入らず寝てしまう生活をしていました。
その後遠い親せきに居候をして、そこは8人の子供がいて、そこに唯寝させてもらうだけでした。
腹が減ってしょうがなくて、或るとき実家に帰って、夜8時頃こっそり出掛けて家には12寺近かったが、母から箒を持ってきて叩かれました。
13歳にもなって、家の人達がおまわりを頼んで町中おまえを探すかもしれないことが判らないのかといわれました。(食べさせてはもらったが)
おばさんが起きていたらなんていうのだと言われ、帰った時は3時半ぐらいになり、どう言おうか判らなかったが、おばさんは気がつかずに寝ていまいた。
それから思い出すが、母親がどういわせようとしたのか、判らない。
それから65年が経ちました。
実家に飯を食いに帰ったことは言えない、飯を食いに実家に帰ったことは正しくなかったのではないかとだけは思っています。
中学を終わってきこりになるつもりでしたが、先生が3回父親を説得して苫小牧工業高校電気科に進みました。
或るときジャンバルジャン「ああ無情」の映画を見に行く事になっていました。
母親に映画代10円をくれとは言えなかった。(その前に20円のワークブック代を母親に言ったがもらえなかったので、ワークブック代を先生から借りた)
その日、仮病を使って早引きしました。
皆が映画館に入ってゆくのを見ていました、10円の恐ろしさを知っていました。
帰る度に母親から学校を辞めるように言われましたが、何とか3日3晩頼んで過ごしました。
寮仲間でアルバイトをするのにじゃんけんをして決めていましたが、或るとき裕福な先輩が加わって来て、彼がじゃんけんに勝ってアルバイトの仕事を譲ってくれました。
卒業式に卒業証書を貰えなかった、授業料などを2カ月分払ってなかった。
払った時点で卒業証書をもらうという事だった。
寮で食べることもできずに部屋で過ごしていたら、後輩3人が自分達の分を残して飯と味噌汁を調達してくれて、泣きながらそれを食べました。
7日後に父親がお金は払う事が出来ました。
新聞社に勤めて、小説を書いてゆく事になり、46歳の時に、卒業した時の3人(当時東京の会社にいた土木部長、、支店長になっていた)を温泉に呼んで御馳走することにしました。
あの時の飯が一番おいしかったと言ったが、3人は全然覚えてないとケラケラ笑っていましたが、覚えていないことはないと思いました。
例え彼らが忘れたとしても自分は忘れるわけにはいかないと思いました。
苫小牧工業高校電気科に行って、教わった事は人間にとって優しさとは何かを学びました。
全国138校廻ったりしましたが、メールで挨拶するので声を出さなくても言う必要がないと言って先生も困っているとの事で、どういう育て方をしたのか。
「今日はいいお天気ですね」(ところであなたのお体の具合はいかがですか、という相手を思いやる言葉)→「今日は」が「こんにちわ」になる。
これを親が教えなかったことはショックです。
「さようなら」 はまたお会いできるまでお元気で、という意味です。
学校に行く前に、子供に教えなくてはいけない言葉が1500語ある。
「行ってまいります」(行って帰って来るから大丈夫)、「行っていらっしゃい」
「ただいま」 唯今。(ただいま帰りました)
人間は言葉で考える。
思考力、判断力、主義主張全て言葉。
学力 子供自ら学びとる生きる力を学力と言う。(3つ)
①他人の心を感じ取る力
②他人と協力しあう力
③自分の感情をコントロールする力
お世話になった教育長が60歳で倒れてしまいました。
お礼の意味を込めて、はがきを毎日書いて届けました。
200枚を越えて、350枚、400枚を越えた時に亡くなってしまいました。
奥さんははがきを楽しみに生きてくれました、と言ってくれました。
私も残り少なくなってきたと思うので、お金のことだけは考えまいと思います。
お金のことを考える暇がない、本を読み、連載を5本持っているので沢山ものを書いて、カラオケをやり、酒を飲み、家族と友達と喋る。
40年前、原稿を頼みたいと言う事で、東京で会うことになったが東京に行く為の10万円のお金が無かった。
高校の友人(義侠心の強い人)が11回の退学処分の時に、先生が土下座をして彼を辞めさせるなら自分も辞めると言って彼の退学を救った。
その彼が30歳で社長になって、彼から10万円を借りて東京に行きました。
その時に書いた小説が直木賞の候補になっていきました。
金を返そうと、おでん屋で飲んで、お金を返したら、奥さんに3万円、自分に3万円、残りを取っておけと言って、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」と言ってくれました。
彼は自分を職員会議から救ってくれた先生ご夫妻に対して、お礼の意味で海外旅行を12年間全て援助し続けたそうです。
61歳の時に病気で亡くなっていきましたが、彼からもらった言葉、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」を座右の銘にして生きていきたいと思っています。
1937年 昭和12年に北海道滝の上町生まれ、79歳、作家です。
新聞社に勤め、その傍ら執筆活動を始め、1976年発表の作品「出刃」は北方文芸賞を受賞、芥川賞の候補にもなりました。
その2年後、「イタチ捕り」が直木賞の候補になったほか、泉鏡花文学賞を受賞した、「光る女」は後に、相米慎二監督に依り映画化されました。
北海道内を走るJRの列車内に置かれる冊子に、長年エッセーを連載していてその温かな作風は根強い人気が有ります。
札幌市にある「北の映像ミュージアム」の館長、映画夕張国際映画祭の実行委員長としても活躍しています。
苫小牧工業高校電気科に進みました。
他人への思いやりの多さがその人間をきめると思っていますが、「チャリン」と音がすると振り向いてしまう自分がいて、心、心と言っていても金にはかなわないのかもしれないと、無意識に思ってしまうのかなあとの不安さが有ります。
お金で買えないものはないと、聞いたりするが「なにを」と思う事が起きます。
金では買えないものを残しておきたいという気持ちが僕の中にあります。
父が20歳、母が24歳の時に福島から北海道に出稼ぎに来ました。
両親が炭焼きをするために金物屋から、鋸とまさかりを借りようとしたら、保証人を連れてくるように言われたそうで、思いついたのが小学校の校長先生で、行ったところ保証人なってもらえて、泊るところが無かったが、泊めてもらいました。
両親がそれから時々話してくれて、僕の中に沁み込みました。
北海道に来る人たちは次男三男が多かった。
本州からの古い歴史観、風習などが北海道に持ち込まれなかったことと、78人のお雇い外国人が北海道に来て、テーブル、椅子等の洋風の施設ができていた。
自由と平等の気風が育っていった。
母親も男と同じ仕事をやっていて発言も強かった。
4歳まで炭焼き小屋で育って、次の山、次の山へと13回変わっていって、その都度小屋を作ってそこで寝ていました。
中学2年の時に村の学校から町の学校に転校して片道17kmの山道を毎日通いました。
朝4時半に起きて2時間ちょっと掛かって、家に帰ると夜の8時ぐらいになって、夕食食べて風呂も入らず寝てしまう生活をしていました。
その後遠い親せきに居候をして、そこは8人の子供がいて、そこに唯寝させてもらうだけでした。
腹が減ってしょうがなくて、或るとき実家に帰って、夜8時頃こっそり出掛けて家には12寺近かったが、母から箒を持ってきて叩かれました。
13歳にもなって、家の人達がおまわりを頼んで町中おまえを探すかもしれないことが判らないのかといわれました。(食べさせてはもらったが)
おばさんが起きていたらなんていうのだと言われ、帰った時は3時半ぐらいになり、どう言おうか判らなかったが、おばさんは気がつかずに寝ていまいた。
それから思い出すが、母親がどういわせようとしたのか、判らない。
それから65年が経ちました。
実家に飯を食いに帰ったことは言えない、飯を食いに実家に帰ったことは正しくなかったのではないかとだけは思っています。
中学を終わってきこりになるつもりでしたが、先生が3回父親を説得して苫小牧工業高校電気科に進みました。
或るときジャンバルジャン「ああ無情」の映画を見に行く事になっていました。
母親に映画代10円をくれとは言えなかった。(その前に20円のワークブック代を母親に言ったがもらえなかったので、ワークブック代を先生から借りた)
その日、仮病を使って早引きしました。
皆が映画館に入ってゆくのを見ていました、10円の恐ろしさを知っていました。
帰る度に母親から学校を辞めるように言われましたが、何とか3日3晩頼んで過ごしました。
寮仲間でアルバイトをするのにじゃんけんをして決めていましたが、或るとき裕福な先輩が加わって来て、彼がじゃんけんに勝ってアルバイトの仕事を譲ってくれました。
卒業式に卒業証書を貰えなかった、授業料などを2カ月分払ってなかった。
払った時点で卒業証書をもらうという事だった。
寮で食べることもできずに部屋で過ごしていたら、後輩3人が自分達の分を残して飯と味噌汁を調達してくれて、泣きながらそれを食べました。
7日後に父親がお金は払う事が出来ました。
新聞社に勤めて、小説を書いてゆく事になり、46歳の時に、卒業した時の3人(当時東京の会社にいた土木部長、、支店長になっていた)を温泉に呼んで御馳走することにしました。
あの時の飯が一番おいしかったと言ったが、3人は全然覚えてないとケラケラ笑っていましたが、覚えていないことはないと思いました。
例え彼らが忘れたとしても自分は忘れるわけにはいかないと思いました。
苫小牧工業高校電気科に行って、教わった事は人間にとって優しさとは何かを学びました。
全国138校廻ったりしましたが、メールで挨拶するので声を出さなくても言う必要がないと言って先生も困っているとの事で、どういう育て方をしたのか。
「今日はいいお天気ですね」(ところであなたのお体の具合はいかがですか、という相手を思いやる言葉)→「今日は」が「こんにちわ」になる。
これを親が教えなかったことはショックです。
「さようなら」 はまたお会いできるまでお元気で、という意味です。
学校に行く前に、子供に教えなくてはいけない言葉が1500語ある。
「行ってまいります」(行って帰って来るから大丈夫)、「行っていらっしゃい」
「ただいま」 唯今。(ただいま帰りました)
人間は言葉で考える。
思考力、判断力、主義主張全て言葉。
学力 子供自ら学びとる生きる力を学力と言う。(3つ)
①他人の心を感じ取る力
②他人と協力しあう力
③自分の感情をコントロールする力
お世話になった教育長が60歳で倒れてしまいました。
お礼の意味を込めて、はがきを毎日書いて届けました。
200枚を越えて、350枚、400枚を越えた時に亡くなってしまいました。
奥さんははがきを楽しみに生きてくれました、と言ってくれました。
私も残り少なくなってきたと思うので、お金のことだけは考えまいと思います。
お金のことを考える暇がない、本を読み、連載を5本持っているので沢山ものを書いて、カラオケをやり、酒を飲み、家族と友達と喋る。
40年前、原稿を頼みたいと言う事で、東京で会うことになったが東京に行く為の10万円のお金が無かった。
高校の友人(義侠心の強い人)が11回の退学処分の時に、先生が土下座をして彼を辞めさせるなら自分も辞めると言って彼の退学を救った。
その彼が30歳で社長になって、彼から10万円を借りて東京に行きました。
その時に書いた小説が直木賞の候補になっていきました。
金を返そうと、おでん屋で飲んで、お金を返したら、奥さんに3万円、自分に3万円、残りを取っておけと言って、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」と言ってくれました。
彼は自分を職員会議から救ってくれた先生ご夫妻に対して、お礼の意味で海外旅行を12年間全て援助し続けたそうです。
61歳の時に病気で亡くなっていきましたが、彼からもらった言葉、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」を座右の銘にして生きていきたいと思っています。
2016年12月26日月曜日
藤井美登利(「川越きもの散歩」代表理事)・着物でつむぐ、ひと・まち・暮らし
藤井美登利(NPO法人「川越きもの散歩」代表理事) ・着物でつむぐ、ひと・まち・暮らし
20代に頃イギリスの航空会社の客室乗務員をしていました。
イギリスは伝統を重んじる国で町並みは200年前とほぼ同じなのに、バブル期の日本はどんどん街並みが変わってゆく事に疑問を持っていました。
観光で訪れた川越の蔵造りを守る町にすっかり引き込まれ、25年前東京から家族で引っ越してきました。
この街で子育てが出来たらと、街のあちこちを尋ね歩いて、仲間も増え古老たちとも親しくなりました。
着物が好きだった藤井さんは繊維で栄えた川越の暮らしを伝えるタウン誌、小江戸物語の発行に携わるまで、溶け込んでいきました。
川越は観光客が600万人来るようになりました。
川越唐桟という木綿の着物、蔵作りの基になった。
江戸時代は絹織物が有名でした。
産業革命で木綿の糸が幕末に、日本に大量に安く入ってきました。
中嶋久平が横浜に絹を売りに行って、イギリスからの細い木綿の糸を見つけて、川越周辺の織物屋に織って貰って、江戸に出荷をしていました。
絹に見える様な布地です。
20代の頃イギリスの航空会社の客室乗務員をして、東京とイギリスを往復していました。
イギリスは町並みは200年前とほぼ同じなのに、日本はどんどん街並みが変わって来ました。
時の鐘の建物、蔵作り等川越の建物を拝見して、こんな建物が残っていることに吃驚しました。
直ぐに引っ越してきました。
住んでみると、氷川神社のお祭(350年続いてる)を中心に1年が回っているような感じです。
国の重要無形文化財にも指定されていて、ユネスコの無形文化遺産にも登録されることが決まったお祭りです。
お祭りの段取りがあり、子供からお年寄りまで関わって、お祭をするシステムが有り、身をもって体験しています。
公園デビューがお寺だったりします。(氷川神社、蓮馨寺、喜多院等)
お囃子も人が段々少なくなってきているので、子供が入ると歓迎していただいた経験もあります。
お祭は10月第三の土日の二日間ですが、1年間かけていろいろと準備しています。
お祭りには主人と子供が関わってやっています。
タウン誌を作るきっかけは、お祭の打ち上げの時の話だとか、町内新聞に関わることから始まりました。
川越織り物市場の明治43年の木造建物の保存運動にもかかわったのも、きっかけの一つです。
着物で街歩き、という様なこともやっています。(普段着の着物の似合う街)
夏は浴衣姿が多いです。
レンタル着物の店が5~6軒あって、外国の方が着ています。(台湾、中国、タイ等)
8のつく日に着物で来るといいことが有る、というキャンペーンをしています。
絹のゆかりの秩父神社、高麗神社、川越は織物の集積地、 絹文化を残していこうという事で埼玉文化研究会を立ち上げて、その御手伝いをしています。
国産の絹は1%を切っているという事です。
幼稚園、小学校でかいこを飼う、という様な活動も進めています。
大きな製糸工場も2軒になってしまっています。
埼玉着物散歩という本を出させてもらいました。
「絹と木綿の物語」 糸でつながる街作り、八高線沿線には絹ゆかりの街がたくさん残っているので共通の糸の繋がりで、一緒に次の世代に地域の記憶を伝えましょうと、フォーラムを開催しました。
横浜から輸出していたので、横浜の人にも参加していただいています。
サリー(インド)、チャイナドレス(中国)、なんで日本人は着物を着ないのといわれて、アジアの民族衣装としての視点という事を発見させていただいたので、学ばさせてもらいました。
8,18,28日が「川越着物の日」と決めてやっていて、8の付く日に着物で来て頂くといいことが有りますという事でやっています。
8日(蓮馨寺で着物市の様なもの)、18日(蓮馨寺で着物のお直し 着崩れのため) 28日(NPOがイベント 成田山別院で)
20代に頃イギリスの航空会社の客室乗務員をしていました。
イギリスは伝統を重んじる国で町並みは200年前とほぼ同じなのに、バブル期の日本はどんどん街並みが変わってゆく事に疑問を持っていました。
観光で訪れた川越の蔵造りを守る町にすっかり引き込まれ、25年前東京から家族で引っ越してきました。
この街で子育てが出来たらと、街のあちこちを尋ね歩いて、仲間も増え古老たちとも親しくなりました。
着物が好きだった藤井さんは繊維で栄えた川越の暮らしを伝えるタウン誌、小江戸物語の発行に携わるまで、溶け込んでいきました。
川越は観光客が600万人来るようになりました。
川越唐桟という木綿の着物、蔵作りの基になった。
江戸時代は絹織物が有名でした。
産業革命で木綿の糸が幕末に、日本に大量に安く入ってきました。
中嶋久平が横浜に絹を売りに行って、イギリスからの細い木綿の糸を見つけて、川越周辺の織物屋に織って貰って、江戸に出荷をしていました。
絹に見える様な布地です。
20代の頃イギリスの航空会社の客室乗務員をして、東京とイギリスを往復していました。
イギリスは町並みは200年前とほぼ同じなのに、日本はどんどん街並みが変わって来ました。
時の鐘の建物、蔵作り等川越の建物を拝見して、こんな建物が残っていることに吃驚しました。
直ぐに引っ越してきました。
住んでみると、氷川神社のお祭(350年続いてる)を中心に1年が回っているような感じです。
国の重要無形文化財にも指定されていて、ユネスコの無形文化遺産にも登録されることが決まったお祭りです。
お祭りの段取りがあり、子供からお年寄りまで関わって、お祭をするシステムが有り、身をもって体験しています。
公園デビューがお寺だったりします。(氷川神社、蓮馨寺、喜多院等)
お囃子も人が段々少なくなってきているので、子供が入ると歓迎していただいた経験もあります。
お祭は10月第三の土日の二日間ですが、1年間かけていろいろと準備しています。
お祭りには主人と子供が関わってやっています。
タウン誌を作るきっかけは、お祭の打ち上げの時の話だとか、町内新聞に関わることから始まりました。
川越織り物市場の明治43年の木造建物の保存運動にもかかわったのも、きっかけの一つです。
着物で街歩き、という様なこともやっています。(普段着の着物の似合う街)
夏は浴衣姿が多いです。
レンタル着物の店が5~6軒あって、外国の方が着ています。(台湾、中国、タイ等)
8のつく日に着物で来るといいことが有る、というキャンペーンをしています。
絹のゆかりの秩父神社、高麗神社、川越は織物の集積地、 絹文化を残していこうという事で埼玉文化研究会を立ち上げて、その御手伝いをしています。
国産の絹は1%を切っているという事です。
幼稚園、小学校でかいこを飼う、という様な活動も進めています。
大きな製糸工場も2軒になってしまっています。
埼玉着物散歩という本を出させてもらいました。
「絹と木綿の物語」 糸でつながる街作り、八高線沿線には絹ゆかりの街がたくさん残っているので共通の糸の繋がりで、一緒に次の世代に地域の記憶を伝えましょうと、フォーラムを開催しました。
横浜から輸出していたので、横浜の人にも参加していただいています。
サリー(インド)、チャイナドレス(中国)、なんで日本人は着物を着ないのといわれて、アジアの民族衣装としての視点という事を発見させていただいたので、学ばさせてもらいました。
8,18,28日が「川越着物の日」と決めてやっていて、8の付く日に着物で来て頂くといいことが有りますという事でやっています。
8日(蓮馨寺で着物市の様なもの)、18日(蓮馨寺で着物のお直し 着崩れのため) 28日(NPOがイベント 成田山別院で)
2016年12月25日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
バロック音楽の原点 、バッハ 近代のアーティストによって突然蘇る。
グレン・グールド カナダの孤高のピアニスト、デビュー版でバッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで演奏する、1955年。
*ゴルトベルク変奏曲(ピアノ バッハの時代にはピアノは無かった、チェンバロ)
1981年にも,もう一度、更にゆったりして演奏した。(ピアノでバッハの旋律を蘇らせた功労者)
日本にも、バッハのゴルトベルク変奏曲をライフワークにした音楽家がいます。
清水 靖晃さんがゴルトベルク変奏曲に魅了されて、1983年ごろからバッハの無伴奏テェロ組曲をサクソフォーンで演奏して驚かせました。
2010年にゴルトベルク変奏曲に取り組み、5人のサクソフォーン奏者と4人のコントラバスの奏者でゴルトベルク変奏曲を演奏しました。
2014年にゴルトベルク変奏曲の全曲を完成させました。
*ゴルトベルク変奏曲(清水さん他)
現代に新たな形でバッハが蘇る。
新日本フィルハーモニー交響楽団のソロコンサートマスターの崔 文洙(チェ・ムンス) さん(バイオリニスト)とその音楽監督になった指揮者の上岡 敏之さんがピアノを弾いてバッハのバイオリンソナタを録音しました。
*バッハの、バイオリンとオブリガード・チェンバロの為のソナタから、アレグロの音楽。(上岡 敏 之、崔 文洙)
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ピエール=ローラン・エマールのピアノ)
バッハの音楽をライフワークにしたジャズミュージシャン、ジャック・ルーシェ
1950年代からバッハの音楽をジャズのピアノトリオで演奏してきた、プレイ バッハ トリオ。
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ジャック・ルーシェ トリオ)
バッハのカンタータ 140番をバッハ自身がオルガンに編曲し、時空を超えて世界に広めて行った。
*目覚めよと呼ぶ声あり(ジャック・ルーシェ トリオ)
バロック音楽の原点 、バッハ 近代のアーティストによって突然蘇る。
グレン・グールド カナダの孤高のピアニスト、デビュー版でバッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで演奏する、1955年。
*ゴルトベルク変奏曲(ピアノ バッハの時代にはピアノは無かった、チェンバロ)
1981年にも,もう一度、更にゆったりして演奏した。(ピアノでバッハの旋律を蘇らせた功労者)
日本にも、バッハのゴルトベルク変奏曲をライフワークにした音楽家がいます。
清水 靖晃さんがゴルトベルク変奏曲に魅了されて、1983年ごろからバッハの無伴奏テェロ組曲をサクソフォーンで演奏して驚かせました。
2010年にゴルトベルク変奏曲に取り組み、5人のサクソフォーン奏者と4人のコントラバスの奏者でゴルトベルク変奏曲を演奏しました。
2014年にゴルトベルク変奏曲の全曲を完成させました。
*ゴルトベルク変奏曲(清水さん他)
現代に新たな形でバッハが蘇る。
新日本フィルハーモニー交響楽団のソロコンサートマスターの崔 文洙(チェ・ムンス) さん(バイオリニスト)とその音楽監督になった指揮者の上岡 敏之さんがピアノを弾いてバッハのバイオリンソナタを録音しました。
*バッハの、バイオリンとオブリガード・チェンバロの為のソナタから、アレグロの音楽。(上岡 敏 之、崔 文洙)
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ピエール=ローラン・エマールのピアノ)
バッハの音楽をライフワークにしたジャズミュージシャン、ジャック・ルーシェ
1950年代からバッハの音楽をジャズのピアノトリオで演奏してきた、プレイ バッハ トリオ。
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ジャック・ルーシェ トリオ)
バッハのカンタータ 140番をバッハ自身がオルガンに編曲し、時空を超えて世界に広めて行った。
*目覚めよと呼ぶ声あり(ジャック・ルーシェ トリオ)
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