2016年8月31日水曜日

2016年8月30日火曜日

2016年8月29日月曜日

城谷 護(腹話術の会きずな代表)・こころ和ませる一人芝居

城谷 護(腹話術の会きずな代表)・こころ和ませる一人芝居
腹話術を始めて 30年、数少ないプロの腹話術師です。
今年4月には公演回数が3500回を越え浅草の演芸場で多くの仲間が記念公演を開いてくれました。
公演ではご自身の出身長崎の原爆被害を自ら脚本を書いて腹話術で語りかけお客さんから多くの共感を得ました。
城谷さんは演芸場ではお笑いを演じますが、子供達にはいじめをなくすこと、福祉施設では高齢者を元気付けること、東日本大震災の被災地ではこれまでに80か所以上のボランティア公演をするなど社会に役立つ腹話術を心掛けています。
昭和15年長崎県雲仙市の生まれ、長崎工業高校を卒業して、川崎市の造船会社に就職し、船舶の設計をしながら川崎の市民劇団、京浜共同劇団で俳優として、製作者として活動していました。
45歳になって新しい演劇として腹話術に出会い 60歳の定年退職を機にプロの腹話術師になりました。
人形の五郎ちゃんとは30年来のコンビです。
人生の大半を川崎市で過ごされた城谷さんは現在は川崎文化会議の議長も務められ、このほど川崎文化会議の50年の歩みの記念誌を発行するなど忙しい日々を送っています。

五郎ちゃんとは30年になります。
人形は初代のまんまです。(人形ドックには入りましたが)
プロの腹話術師は絶滅危惧種になりました。
東京圏では数人です。(全国でも数十人と思われます)
浪曲では東京圏で60人ぐらいいますので、それに比べると少なくなりました。
しゃべる時に少しは口はあけますが、動かないでしゃべっています。
声は子供の声が多い。(1、2オクターブ上)
人形が生きいきしていないといけない。(手、頭、口などの操作)
お客さんの反応なども見ながらやる必要がある。
ネタは何百と言っていいぐらいあります。
東京演芸協会が3500回を記念して、20人ぐらい出てくれて4時間半ぐらいやりました。
超満員でした。

面白い話もやりましたが、私らしさも出そうと思って被爆者の話もしました。
15歳で大やけどをして、1年9カ月療養して、大人になって世界をまたにかけて核兵器を止めるように訴えている人、谷口稜曄(すみてる)さんの話。
それから馬が2頭いて、父親が一緒に立っている写真、馬が戦争に取られていく日の記念写真。
兄達が馬に乗っているが、そのうちの一人が17歳で原爆で即死したが、五郎ちゃんと会話の中でそういうことは忘れてほしくないと思って話しています。
普通合わないと思うが、事実の持つ重みは心を打つみたいで帰りがけに、今日の話は良かった感動した、あんなことが腹話術で話せるんだねと言ってくれました。
先輩芸人が伝統的な芸の腹話術に君は社会性を持たせた功績は大きいと励ましの言葉を頂いた。
被災地は結構行っています。(全国色々)
悲しい時に行くのでこんな笑いでいいのかなあと思いますが、本当に喜ばれました。
神戸では長生きして良かったとか、宮城では今日は一年分笑ったと言われました。

ハンセン病の療養所が全国にいくつかありますが、或るところに行った時に80台の後半のお婆ちゃんがこんなの初めて見たよ、とおっしゃって、その人はおそらく10歳にならない頃隔離されてこの療養所に入れられたと思う。
「こんなの」という言葉が深い意味が有ると思う、考えさせられました。
韓国に行った時に、その国の言葉を覚えていくわけですが、「戦時中に日本が皆さんの国にご迷惑をかけたので、今日はお詫びに来ました、これからは日本は戦争はしませんのでぜひこれからは仲良くしてください」と言ったが、ワーッと拍手が来て、終わったら新聞社、TVの記者などが来て、新聞の一面のトップに大きな写真入りで出ました。
腹話術で平和友好の為に役に立ちたいと思って、アメリカ、フランス、ロシアなどにいって平和の話をしました。(フランス語はできませんでした)

小学校、保育園では、いじめのことを例え話をしながらいいますが、終わった後は優しくなるそうです。
子供達のこころを掴みながら、子供達自身が納得いく、解決の方法を見出すことが大事だと思います。
挨拶のモデル校になった小学校があったが、挨拶ができない子供達がいるので来てくれと言われ1時間半挨拶の問題の話をしたら、1カ月後に友達と話せるようになって、3ヶ月経ったら学校の先生と話せるようになったと言うことだった。
1年半たって心配で聞いてみたら、クラスの委員長になったと言う事でした。
その子が気がついて動きだすことが大事だと思っています。

自閉症の子がいる中学校に行っていた。
登校する日は普段10人いかないが、五郎ちゃんが行く日は15人ぐらいになる。
大きなマスクで顔を隠していた子供がマスクを外して、五郎ちゃんを抱っこしてにこっとした。
人形には人間じゃない魅力がある。
率直に言っている、うそつきではない、良い格好をしない、信頼できるそういうものが有るのではないか、それを人形の中にその子は感じたと思う。

小さい時に見て、なんで人形がしゃべるんだろうと不思議なままで大人になってきました。
いつかやりたいと思っていた。
自己流で腹話術を始めたが、上手くなれなくて、島三紀夫さんという師匠に出会って教えを乞うたが、断られ師匠の追っかけを3~4年やったら、本気だと認められ指導してもらえる様になった。
45歳だった。
劇団、腹話術、会社と大変だった。
腹話術の脚本も書きます。
自分の人生と重ねたネタを私はやりたいんです。
芸は単に上手でしょうと言うよりも、聞いている人達が共感したり感動したりするものでないと駄目だと思っていて、その人の人柄が滲み出るものでないと駄目だと思う。
兄が原爆で犠牲になってから父が仏壇に向かって、「茂よ われはなんで死んだとか」 と毎日泣いていました。
私が5歳の時でしたが、鮮明に残っています。

認知症の人達のところに行く事が多いが、絶対笑わない人がいましたが、その人を五郎ちゃんが笑わせました。(入所して3年経つが初めてとの事)
しゃべらなかったお婆さんがいたが、「お婆ちゃん 20歳の時に何をしていた」と言ったら、突然「名古屋の工場にいてさ・・・・」とずーっとしゃべりだして、周りのスタッフの人が吃驚しました。
腹話術もセラピーに生かせるのではないかと思う。
自閉症、医療分野、福祉、教育などにも生かしたい。
腹話術の会きずなの会員 80人(川崎中心) 浦和では30人のサークルがあり教えています。
他にも北海道、鹿児島、神戸などに行ってサークルの人に教えています。
腹話術は流派があるが、垣根を取り払う様に全国的に交流会もやっています。

川崎文化会議という団体、文学、音楽、美術など色んな人たちが入っているが50年経って記念の冊子を作ろうと、川崎全体の文化史になる様に年表を充実させようと自分達の文化以外にも調べて作りました。(1947年以降の様々な出来事を調べ上げる)
川崎は労働者の街、色んな意味で注目された街です。
文化運動なども纏めておきたかった、3年掛かりました。













2016年8月28日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)    ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"

奥田佳道(音楽評論家)    ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
セレナード 夏の夜の音楽  モーツアルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク 第4楽章から
*「ロンド」
ナハトムジークを直訳すると「夜の音楽」  
儀式、パーティーがあった時にそのために演奏する音楽。
作曲 1787年8月10日に完成 
5つの楽章から出来ていてメヌエットの楽章が1つ無いが、判らない。
第1楽章:アレグロ ソナタ形式 ト長調 4/4拍子
第2楽章:ロマンツェ(アンダンテ) 三部形式 ハ長調 2/2拍子
第3楽章:メヌエットとトリオ(アレグレット) ト長調 3/4拍子
第4楽章:ロンド(アレグロ) ロンド形式 ト長調 2/2拍子

*「グラン・パルティータ」のアダージョ

チャイコフスキーのセレナード
弦楽セレナード 
セレナードとワルツの要素をミックスしたもの、アレンスキー1861年生まれ ロシアの哀愁的な響き
*アレンスキー作曲 セレナード

ムーンライトセレナーデ、サンライズセレナーデ 一緒にでたが、有名になったのがムーンライトセレナーデだが、サンライズセレナーデも良い曲です。
*サンライズセレナーデ

プリンス ロック界のモーツアルトと呼ばれる、モーツアルトとの共通点がある。
誰もやらない曲を作り、自分で演奏し、皆に聞いていただくために自分でプロデュースをする、全て自分でやったという事は本当にモーツアルトとの共通点があると思います。
*「パープルレイン」

2016年8月27日土曜日

平山 優(時代考証者)    ・大河ドラマ「真田丸」の時代

平山 優(時代考証者)    ・大河ドラマ「真田丸」の時代
山梨大学の非常勤講師や山梨県立博物館の福祉官などを経て、現在は山梨県立中央校という学校で教壇に立たれています。
御専門は日本の中世史で武田家や真田家にまつわる多数の著作が有ります。
当日の公演の会場となったのは長野県高山村です。
高山村は真田丸にも登場する福島政則が晩年を過ごしたところでもあります。
福島正則は石田三成と仲たがいして、盟友の加藤清正と共に徳川方についた武将です。

20年以上前に福島正則の史跡を見にやって来たことが有ります。
福島正則は石田三成こそ豊臣家を危うくすると思って、家康と共に彼を排除したが、結果的に徳川家康の天下掌握に大きく寄与することになる。
大阪の陣が始まるが、福島正則は大変苦悩する事になる。
福島正則は家康にほぼ軟禁状態となる。
自分は大坂方の使者に対面することなく、家臣に対応させて自分は味方できないと、言って追い返したと伝えられている。
福島正則は大阪にあった自らの屋敷に大量の備蓄米を備蓄していました。(確実な資料)
徳川家康は当時大阪の屋敷に2万石の米をもっていました。
秀頼は大阪に籠城するために兵糧米を没収したが、福島正則は8万石を備蓄していた。
福島正則は無条件で引き渡した。

自分が時代考証をするとは思っていなかった。
ドラマの内容が極端に史実と違ってしまう事を修正する様な、アドバイスをする役目です。
三谷幸喜さんの作品ですが、三谷さんをお手伝いする役目をもっています。
三谷さんにはお会いしたことはありません。
時代の流れ、時代の動きなどを年表に作ったり、資料を提供したりして、大まかなあらすじを作って渡したりします。
出来上ったシナリオをみて、内容に誤りはないか、おかしいところはないかチェックします。

第1話から2話、武田勝頼が滅亡すると言うところから始まるが、真田の一族に人質を解いて故郷岩櫃(いわびつ)に戻すと許可をするところから始まるが、どのルートを伝わって岩櫃(いわびつ)まで帰すかが、プロデューサーからの質問だった。
いろいろ考えたが、余地峠(武田信玄が軍用道路として利用した)を経由して榛名山のふもとを通って岩櫃(いわびつ)に行くルートを考えたが遠回りとの意見もあり、十国峠のルートも考えたが、峠を越えた処の大日向がその時期北条方に帰属していることが資料から判ったので、碓氷峠を越えて軽井沢に一泊して岩櫃(いわびつ)に帰るルートにした。
視聴者から軽井沢は新しいのではないかという質問が有ったが、古い軽井沢は武田の時代に宿場町として機能していることが判っている。
言葉遣いが現代風すぎるとの意見もあるが、難しい。(若い人は時代劇を余り見ない)
戦国時代の言葉は復元することが不可能です。
黒田官兵衛 正式には発音は「黒田くあんひょうえ」です。
当時外国人宣教師が文字にして残しているので、これで発音が判る。
昔の人の発音を史実どうりにやったらほとんどの人が判らないと思う。

隠しテーマがある。
①家族をテーマにしている。
通常戦国期の武士の家では、家を2つ、3つに割ってお互いが殺しあうことが普通でしたが、真田家は分裂することがほとんど無かった一族です。
分裂したのは、真田幸綱の時代、その後再び一本化され、関ヶ原の戦いの時になる。
信繁が討ち死にしてからは真田家は松代藩の藩主として幕末まで存続する。
②偉大な父をもつ子供の苦悩、挫折、成長を描く。
武田勝頼、北条氏政、上杉景勝、豊臣秀次、徳川秀忠、真田信幸、信繁など。
滅びのはかなさも描いている。
信幸、信繁は父親の背中を見ながら成長してゆきます。
信繁は新しい環境で、文物、人物と出会い、その中でもまれて視野を広げてゆく。
兄弟の考え方が次第に距離がでるようになる。

当時の村社会は、村の人達は刀を差し、周りの村と水争いなどをするときには、合戦と言われるほどの戦いを行っていた。
そういった方向で今回進めている。
武士以外は大刀を差してはいけないという事になっていたが、戦国時代迄の村社会の男子は元服すると、刀差しの祝いをして、村の人は皆武器の使い方を知っていた。
今回、村の戦いもちゃんと描かれている。
③今回新しい視点の導入、新しい史実の導入も行っている。
真田昌幸は変幻自在な動きをする。(裏切り、寝返り)
今回、国衆という言葉が多く出てくるが、国衆は学術用語でもある、小さい場合は数ケ村、大きい場合は郡規模の村を支配する領主。
大名が国衆の安全保障を維持出来なくなった場合、国衆は自分の領地を守るために、守ってくれる新たな上級権力と結びつくことは当時は当然のことです。
真田昌幸達は自分達の領地をどうやって守るかで苦悩したが、そのことを沢山描きました。
大名視点、上からの目線に気付いていただきたかった。

6月17日 真田信繁の手紙が発見されたというニュースが有りました。
写しはあったが、今回原本が発見されました。
新資料の発見が有って、ドラマの動きに大きな影響を与えたということが実はあります。
信繫が大阪に人質として行く事になるが、その後人質の地位から外れて秀吉の家臣になったということだが具体的な地位は全く分からなかった。
朝鮮出兵の時に、肥前名護屋の城の留守居役を細かく決めて秀吉が大阪に帰るが、その資料が真田家の記録にあり、信繫は馬回り組とでてきた。
どうしようと思っていた役だったがこれで見事に解消した。
信玄枡は京枡(現在使っている)の3倍あった。
信繫に舛を統一すると言わせている。(太閤検地について押しだしたかった)
三谷さんは沢山の資料を読み、それを自分で咀嚼して物語に織り込んでゆくという事は唯脱帽するばっかりです。
北条氏直に降伏したらどうかという事は多くの大名も動いているが、徳川家康は北条とは太いパイプが有り徳川家康が動いたのも記録で判っているが、だれが入ったか判らなかったので信繫にした。

史実どうりではドラマは作れない、ギリギリのところで折り合いを付けて、証明できないことは無かったとは言えないということにもなり、歴史ドラマの成立する余地があるという事です。
真田信繫は生前、幸村と名乗ったという事実はありません。
信繫が戦死してから70年後に難波戦記に幸村という名前が登場します。
講談本が出来、講談で語られて、民衆に認知されいてゆき、名前がいつしか変わって行った。
赤備え、大元は武田軍から来ているといわれる。
武田信玄の重臣に飯富虎昌(おぶとらまさ)がいて弟が山県昌景、飯富虎昌(おぶとらまさ)が亡くなった後、山県昌景が赤備えを継承して(武田軍最強の部隊)、真田信繁は武田の衣鉢を継ぐという形で大阪の真田の軍勢を赤備えにしたんだろうと言われる。
丸馬だし 武田信玄が築いた城に多く見られる。
真田十勇士はいません。












2016年8月26日金曜日

英 裕雄(医師)       ・大都会・新宿 訪問医療がみる生と死

英 裕雄(医師)       ・大都会・新宿 訪問医療がみる生と死
英さんは医師になってすぐ新宿で訪問診療を始めました。
地域の訪問診療医として目指したのは病院で行う高度なレベルの医療を提供して、在宅で生活する人を支えたいというものでした。
介護保険制度がスタートしてからは、高齢者医療の分野でも在宅での訪問診療への取り組みが進められてきました。
英さんはその前から訪問診療の有るべき姿を模索してきました。
単身者、外国人、高齢者 様々なバックグラウンドをもつ人達が暮らす大都会の新宿、訪問診療医英さんが見てきた人たちが織りなす生と死はどのようなものか、伺いました。

訪問診療、元気な人を対象とするのではなくて、病院に行けない、寝たきりだったり、障害が重い状況等、継続的な医療が必要な患者さんに対して、定期的に医者がお伺いしながら、診療してゆく事を基本としている。
患者さんがより重症度が高くなってきて、単なる往診ではなくて体系的に訪問して行く医療体系が必要になってきた。
病院は生活とは切り離された所にある。
病気は生活と介護を含めて不可分なところがある。
病院は色々な高度な検査をするが、訪問医療で出来ることとできないこと、病院で出来ることとできないことが有り、当初は病院と同じような検査をして出来る治療をするという意気込みで始めたが、それだけでは改善しない。
色々考える時期が有ったが、病院では医者が薬、検査をやってたりするが、その間看護士が医療以外を行う側面があった。(食事、その他の色々の世話など)
そういった側面が大事だと気付いた。
自宅でも病院と同じように改善できると実感したのは、在宅医療を始めてから、5~10年ぐらいたってからです。

病院に行かなくても自宅で対応して見ようと、そういうことを繰り返してゆくうちに、介護の意義、やり方などを会得してゆき、病院に行かなくても良い様な状況になり、在宅医療もあながち捨てたものではないと思った。
最初、研修医の時代とかに、在宅医療をしたわけではなく、病院医療の限界性を感じた。
社会生活の不安、様々な身体が動かない不安などは、生活支援、不安に寄り添うようなサービスの提供が必要だと思った。
家での生活を支援する仕組みが必要と感じて居た時に、友人から在宅医療が大切になると示唆され、始めて見ました。
データも大事な指標になるが、それ以上に生活の指標が凄く大きい。
病院的な発想ではなくて、生活の機能と病状の回復が病院とは逆転している。
例えば病院では炎症を起こしている患者さんには、炎症が大分回復するまではそれなりの食事制限をするが、在宅では炎症がちょっと良くなって患者さんが食欲がでてきたときには、患者さんの要望を取り入れる。
高齢者にとっては生活機能の改善を先にとった方が、予後が良いということが在宅医療で学びました。

24時間、365日対応で患者さんと接しています。
患者さん、家族の方は24時間、365日対応しているわけです。
患者さんと共に苦しむ、悩むとか、葛藤、不安を高じさせている原因を探ったりすることは、医学の教科書には書いていない。
そういったことを学ぶいい機会になった。
介護の不安感、生活の不安感などはしゃくし定規に解決出来るものではない。
不安と寄り添いながら模索してゆき、介護のサービスの方と連携しながら、御家族の協力を得ながら、支えとかをしてゆく。
20年間やってきて、若い人で継続してゆく事は難しい。
かけがえのなさを感じていて、自分に負担軽減しながら、多くの医療者が負担無く、24時間、365日出来る様な体制を作った方がいいと思う反面、24時間365日患者さんと向き合って得られるものとか姿勢とかも感じる。

卒業は商学部で改めて医学部を目指しました。
高校から大学にかけて母親が乳がんになり、闘病の過程を手伝う中で、母親との関係、家族の関係が段々壊れて行ったり、母親の病弱の姿とか、人間の健康というものを物凄く重要なことだと思いました。
医学的知識が無い、体験が無いという事などにたいして自分に軸が無いと感じて、自分が生きてゆく上で医学が必要だと思って、医学部に行く道を志ざしました。
母親の症状にたいして医師からは厳しいことを言われたが、他の病院等にいったが、最終的には先生のいうことは正しかったと、受け入れざるを得ない様な状況になって初めて事実が認識できた。
患者さんと家で病状にたいして家族と向き合うという過程は、病気のつきあい方を患者さん、ご家族が探る過程でもある。
お任せ型の医療ではなく自らやってゆく医療は或る意味健全な医療だと思っている。
自分でチョイスしながら自分なりの一番ベストな医療を考えるのは、一旦退院して自宅でいろいろとトライする事はいいことかもしれません。

歌舞伎町の裏の大久保は韓国の方だけではなくてアジアの人が多く居住している。
一人ぐらしの高齢者が沢山います。
日本の高齢者の独り暮らしは15~20%と言われるが、新宿は30%、大久保は40%。
経済的に恵まれていない方が多い地域でもあります。
日本の将来はこうなってしまうのではないかと思う。
家のない方が居る、生活保護の方で簡易宿泊所で日常生活をしている方がいて、往診をどうしようかと思っている。
全ての基盤が無くて、そういった人達をどう支えていくかはこれからの課題です。
或る意味基盤整備をしてゆく必要がある。
高齢化社会において、医療的な解決だけでは多くの人たちが幸せに生活しきれないという事は我々はもう身につまされています。

誰も病弱になりたいわけではないし、自分の死がそう簡単にきてほしいとは思っていなくて、生老病死という言葉が有るが、自分の人生はこんなはずじゃなかったと、そう思ってほしくはない。
色んな模索をしながら自分にとって必要な医療は何なのかを考えて頂き、その中で自分の人生はどうあるべきなのかを考えて、模索に寄り添うのが在宅医療の一番大きな役割だと思う。
介護に関して完璧なものを目指してしまうと、逆にそれができないから家に連れ帰ることができませんという事につながりがちだが、出来る範囲で出来ることをやってもらえればお年寄りにとって嬉しいことは多いと思う。
自分の人生を生き切った感、在宅の患者さんは、そういうもの見せつけてくれる機会が多いですね。
我々にとっての支えです。
若くて自分で動けるのにもかかわらず、酒の問題から切り離すことができなくて、段々身体が蝕まれてゆき、本人は歩けるようにリハビリをやりながら酒を止めてゆきたいとその人なりのプロセスはあるが、禅問答のようだが、そういう葛藤のなかで何とか私としては本人なりに頑張りたいと言う気持を皆でサポートできたらいいなと思って、周りの皆とそういう方向で調整をしています。

人工呼吸器、胃瘻(いろう) 単に延命医療と言われるが、在宅で人工呼吸器、胃瘻(いろう)を使って外出したり旅行に行かれたりする人は少なくない。
医療行為が人を孤独にしてしまうのではなくて、周りの人の支えとか、社会の触れかたが人を孤独にしているのだと思う。
延命医療を逆に生活を取り戻す為の医療に替えてあげる、併用すると言う事も大事かと思っています。
人生の意義深さにおいて、医療を変えてゆくというのも、在宅医療の大きな役割です。
大抵の人達は自分の最期を気が付いていないのではないかと思う。
たまに自分でちゃんと御別れをする方がいる。
家族全員をベッドに集めて、時計を見て皆さんに笑顔で手を振って挨拶してそのまま息を引き取った人もいる。
良い思い出を残してゆくという事はいいことだと思います。(在宅の良さかもしれません)
問題解決型医療を教育で受けてきたが、20年間やってきて、寄り添い型、お互いに問題を抱えながら一緒にいることの重要性を凄く感じるようになったし、今を生きる、今を共に生きることが大事だと思っています。














2016年8月25日木曜日