2016年6月30日木曜日

2016年6月29日水曜日

2016年6月28日火曜日

玉川奈々福(浪曲師)      ・気がつけば編集者から浪曲師に

玉川奈々福(浪曲師)      ・気がつけば編集者から浪曲師に
昭和30年代まで落語や講談を押さえて、大衆芸能のトップに君臨した浪曲ですが、いつしかラジオやTVに登場する機会がめっきり減りました。
そんな中大活躍をしているのが玉川奈々福さんです。
玉川奈々福さんは上智大学を卒業後、出版社に入社して文芸図書の編集者になりました。
著名な作家と組んで、かずかずの本を出しましたが、人生の転機となったのが浪曲の三味線との出会いでした。
初めて間近で聞く三味線の音色に衝撃を受けた玉川奈々福さんは玉川福太郎氏に入門しました。
厳しい稽古に耐え7年後の2006年プロの浪曲師玉川奈々福としてデビューしました。
以来、自分の芸を磨くと共に積極的に様々なジャンルの演奏家と共演したり公演のプロデューサーをしたりしてきました。
新作作りにも取り組み、今日の世界に新風を吹き込もうとしています。
浪曲への熱い思いを伺います。

「左甚五郎旅日記」の中の「掛川宿」の冒頭を演ずる。
譜面が一切ない、微妙な合図で、一席をアウンの呼吸で三味線のかたと進める、自由な芸です。
私は三味線から入りました。
上智大学を卒業後、出版社(ちくま書房)に入社して文芸図書の編集者になりました。
沢山の人々とお付き合いさせて頂き、著名は方で言えば小沢昭一さん、嵐山光三郎さん、井上ひさしさん、山田洋次さん(映画監督)、横尾忠則さん(画家)、志村ふくみさん(人間国宝)、石牟礼道子さん等に色々勉強させてもらいました。
作家の方々と話す時に語彙が豊富ではなく自分が軽く、一生続ける習い事をしたいと思って、或るとき新聞で日本浪曲協会が一般の人に向けて三味線教室を開くという記事があり、参加する事にしました。
三代目玉川勝太郎が会長で幹部の人が大勢来ていて、30~40人位参加したいと言う人が来ていました。
三味線をやった人がかなり多かった。
初代東家浦太郎師匠を弾かれていた玉川美代子師匠がお手本の三味線を弾いてくださって、これまでの三味線の音の概念がガラガラと崩れた。
扱い方を全て教えてもらって、おっかなびっくり触りました。
辞めないで来たのが今につながっています。
隠されたミッションがあって、才能がありそうだったら、ピックアップしてプロに誘いこもうという思いがあった。
翌年7月7日に玉川福太郎師匠から誘われて、その翌月が舞台が用意されていてプロの曲師としてデビューしてしまいました。

主に土日、師匠の曲師として弾く様になりましたが、3~4年経ってもなかなかうまくならなかった。
浪曲での三味線は声の合間をつくって引かなければいけないのに、声とぶつかる三味線を弾いていました。
浪曲が判らないから、一席浪曲を覚えるようにすれば三味線の呼吸が判ると言われた。
先輩から勉強会をするように言われて、浪曲の本格的なスタートでした。
1995年に入門しましたが、2006年に玉川奈々福になりました。(玉川奈々福で10年になります)
ある時師匠の家で酔った勢いで天保水滸伝をやってもらう様に師匠に進言、お前が会をつくれと言われて会を企画することになりました。
かつては3000人位浪曲師がいましたが、少なくなってしまって今の師匠を見てもらったら凄いと言われるのではないかと、天保水滸伝をするとともに、第一回ゲストに小沢昭一さん、第二回に井上ひさしさん、第三回に澤田隆治さん(お笑い界のドンと言われる)、物凄くお客さんが来てくれました。(今まで伝え方が下手だった)
色んなジャンルの人とコラボも行う。(韓国のパンソリ、オペラ、落語、講談など)
自分の浪曲を客観的に考える事になるし、色んな芸能の表現などを見られて、浪曲を考えなおしてくれるいい機会にもなりました。

他のジャンルの歴史、浪曲の歴史、自分の芸能はどういうところから生まれてとかを、話しているうちに色々勉強にもなりました。
三味線は語る人物の感情に寄り添って、語る人物の背景にある世界の風景を、感情を音色一つで描いてくれます。
平家琵琶、謡曲、浄瑠璃(江戸)、浪曲(明治)が生まれる。
私は新作も作っています。
浪曲は義理人情の世界が多いが、そうでないものもいっぱいあります。
老若男女に絶対に判る浪曲をつくってやろうと思って、浪曲「シンデレラ」を作り笑いも取り入れようと思いました。
或るとき「椿姫」を聞いて、この物語は浪曲むきではないかと思いました。
吉原を舞台にして、花魁「松の位」 遊女を椿太夫として考案して新作を作りました。
笑いだけを強調すようという訳でもありませんが30分位あるので、色々感情が動く方が、人の心が躍動するので、笑う部分、ホロっとする部分があると面白いので笑いもいれるようにしています。
「金魚夢幻」 玉川奈々福 創作
深堀隆介さんに金魚を書いていただいた演壇のテーブルかけ。
養漁場の金魚師でん助と今までにない色に生まれてしまった金魚との恋の物語。
子の話は金魚の話の様で、実は私たち人間について書かれており、人間とは何か?という大きな問題が隠されています。
我々日本人が金魚と共に歩んできた長い月日の深い結びつきが、この一作に込められています。
若い浪曲師5名が、どんどん伸びてきています。
生の声の圧は、CDなどとは違う迫力があります。
浅草の木馬亭で毎月1~7日 浪曲の定席があります。


























2016年6月27日月曜日

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!
水色の雨、パープルタウンのヒット曲でおなじみ、1986年イギリス人の音楽プロデューサーと結婚して、アメリカのロサンゼルスに住み、1男1女を育てました。
15年ぶりに日本で音楽活動を再開しようとした時に、東日本大震災が起きて、八神さんの人生は大きく変わりました。
祖国日本の大災害にいてもたってもいられず、必死で帰国した八神さんは、東北の支援活動に乗り出して、協力者をつのって支援ライブ活動に奔走しました。
その後、熊本地震、病院の入院病棟への慰問等、現在もアメリカから帰国してチャリティー活動に東奔西走しています。
八神さんを逞しく支援活動に奮い立たせたものは何だったのか、被災地の人達や、入院病棟の患者さん達と、どんな交流が続いているのか伺いました。

日本の活動から退いて15年、日本に歌を届けに行こうと言う事で、2011年3月11日ロサンゼルスから日本に向かった。
日本に辿りついて、コンサートは延期になり、名古屋の実家に戻って、悲惨な状況のTVを見ました。
八神さんはエンターテイメンター、ミュージシャンなのでこういう時には何かしてくださいと言われて、何ができるだろうと思いました。
ラジオ番組にだしていただいて、一緒に出来る人を探そうと、メールを下さいと言う事を発信しました。
色々な方からメールをいただいて、出来れば一緒に行動したいとか、お金では何とか協力できますとか、被災地に近いのでどこへでも車でお連れします、という様な内容がありました。
太平洋を越えてのPPCと言う活動をスタートしました。
東北支援のイベントを月に一回と、アメリカと日本を行き帰すると言う事をスタートしました。
山形のイタリアンシェフの奥田政行さんが被災地に入って炊き出しをスタートしているが、腹を癒すだけでなく、心を癒すためには音楽が必要だと言う事をおっしゃいました。
奥田さんとはそれからも活動をして、最近は熊本の震災にも今度は女川町の人達と阿蘇に応援しようと言う事にしました。

最初奥州市でチャリティーをやらさせて頂いて、それから南三陸町と陸前高田に入りました。
瓦礫が山となっている脇で歌ったこともあります。
最初は牡蠣の養殖をやっていた30名程度の方たちでした。
童謡を歌っていましたが、「水色の雨」は詩の内容がちょっと合わないと思っていましたが、要望があって歌ったら、皆さんの顔がぱっと明るくなるんですね。
奥田さんの炊き出し料理も素晴らしかった。
最初は欲張って5か所位回りましたが、その場から離れるのがつらかった。
その後は2~3か所にしました。
協力してもらったお金とか、自腹で行いました。(マネージャーとかは無し)
自分の力を信じてやらないと人との良い関係も築けないと思いました。
メールを送っても返信が無くて、自分で力をつけようと初めて思いました。
先ずは人を頼らないと言う事で、メールが来なかったので次に電話をかけました。
最初に電話をかけたのがJAの女性部で、八神さんは名古屋出身なので、愛知の知多の方たちが一緒にやりたいとの事で、場所はセントレア国際空港、自分は力があるんだと思いました。
メールではなかなか動かない、声を届ける、駄目だったら会いに行く事が必要だと思いました。

自分の為にやるのは限られているが、人の為にやろうとすると、何倍にも力をだすことができると思った。
阪神淡路大震災の時にロサンゼルスの自宅でニュースを聞いて歌を届けたいと思ったが、被災者が歌ってと言う様な感じではないと言う事で、その言葉でホッとした自分もあった、自分の歌が求められるか判らないし、迷惑がられたらみじめだと思った。(弱い自分があった)
今回東北の時には、飛んで行く勇気が備わっています。
大槌町街全体が流されていて、寒い夜そこでチャリティーをやって、女の子が歌を有難うと言われて、サンキューカードをもらって、その小学校の3人の子を連れてニューヨーク(9・11でのビル)へ連れて行って、パワフルな街になったことを見せたかったので、歌だけではなくそんなこともしました。
「枯れ木に花を咲かせましょう」 チャリティーのCDになり東北支援をしました。
この子たちは小学校3年生でしたが、去年の春、中学校に行くになり、卒業するので、伺い立派に成長した姿を見ました。
ピアノを弾く姿を見てびっくりしました。
退場の時に「枯れ木に花を咲かせましょう」 の曲が流れ歌を聞きました。

継続していると次に何ができるかが段々判ってくる。
私の声は紅白時代をクレヨンの色で言うと6色だったのが、48色位あると言うぐらいの表現力が付いたと思います。
自分の人生色々あった方がいいと思います。
病院の慰問は、リクエストがあったので歌を歌ったりする活動をしました。
亡くなった人の友達から、あの日は本当に嬉しかったと言うメールをいただいたりしました。
人とのつながりは時間ではないと凄く感じました。
アルバム「There you are」は私にとっても一生思い出に残るアルバムだと思います。
以前の考え方と違って、自分の歌がどういう力を持っているかという事を貪欲に知りたい。
東北の人達に教えていただいたのは、「人間いつ何が起きるか判らない、明日のことはわからない、、確かなのは今だけだから」、私の歌も同じで確かに歌えるのは今日だけと思って歌うと、毎日どこかで歌いたいと言う気持ちと、私の歌を聞きたい人のところに歌を届けたいと思う様になりました。
アルバム「There you are」の中から「1年と10秒の交換」
NHKの取材で女川町で出会った佐々木さん、両親が旅館を経営していたが、彼女は旅館を継ごうと心に決めていたが、両親に告げずにいて、津波にあって両親と旅館を失ってしまった。
彼女は大事な一言を両親に言えずに終わってしまった。
自分のこれからの人生、1年、これを諦めて10秒だけ絶対会えないはずだった人にもう一度10秒戻ってくるんだったら、果たしてその交換は出来るかどうか、それがこの曲です。
彼女はこの曲を聞いて両親に会えるような気がすると言ってくれました。
もう一回抱きしめられたいという気持ちが最近すごく強いと彼女はおっしゃって、この曲を聞くと隣に両親がいるような気がすると言っていました。





























2016年6月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”
ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』  
イタリア音楽家たちによるヴィヴァルディの四季。
鳥のさえずりの音をだすパイプオルガンの音。
ヴィヴァルディの四季の遺伝子。
1678年生まれ 1741年ウィーンで亡くなる。
詩と音楽を楽しむのがヴィヴァルディの四季
*「夏」 第二楽章 
聞きなれない打楽器負の音、をイメージした効果音をチェンバロの鍵盤楽器に紙を載せて、打楽器を演奏するように叩く。

ヴィヴァルディにとってもヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』 は自信作で有った様で、自分のオペラに春のメロディーを使っている。
ヴィヴァルディのオペラが最近見直されている。
ヴィヴァルディはオペラの初期の時代。

*歌劇 「テンペーのドリッラ」から 「そよ風のささやきに」
「春」のメロディーをこんなに堂々とコーラスに使う。

バロックの作曲は自然をオーケストラやコーラスで描く事をやりたかった、特に嵐を描写する事がイタリアのバロックの作曲家にとっては課題でした。
オペラ 『グリゼルダ』 「恐ろしい嵐のあとは」 
モーツァルトの「夜の女王」を彷彿とさせるが、こちらのオペラの方がずーっと先に書かれている。
嵐をホルンがファンファーレの様に荒々しく表現している。

再作曲 ヴィヴァルディの四季を素材にシンセサイザーやコンピューターを駆使して現代版の四季をマックス・リヒターが作って、ヴァイオリニストのダニエルホープが演奏したCDがリリースされて大反響。 
*「春、第0楽章 第一楽章」
鳥のさえずり、春の息吹がここちよく聞こえてる。
オリジナルのいい音を大事にしてそれに色々な色合いを付けてゆく、四季に敬意を払って、さらに今のこういう世界はいかがでしょうか、といった感じ。

*アストル・ピアソラ 「ブエノスアイレスの四季」 ヴィヴァルディの四季から影響を受ける。
他の多くの作曲家も影響を受ける。
*アストル・ピアソラ 「リベルタンゴ」















2016年6月25日土曜日

榎木孝明(俳優)        ・時代劇への想い

榎木孝明(俳優)    ・時代劇への想い
鹿児島県出身 1981年NHK 朝の連続TV小説、「ロマンス」主演でTVデビュー。
そのご俳優として映画、TV、舞台で活躍しています。

伊佐故郷大使、さつま大使、鹿児島お茶大使、本場大島紬大使、さつま焼大使などを引き受けています。
鹿児島は人間性の良いところだと思っています。
大河ドラマ、「真田丸」で穴山梅雪を担当。
歴史は多角的に見る必要があると思います。(勝者が歴史を書いている事がある様にも思う。)
役者を40年やっていますので、役に近づいて行くためには個人の意識は必要ないと思っています。
個人が頑張っても大した表現には成らず、自分のエゴを捨てることで魂が自分にきてくれる瞬間がきっとある様な気がして、それが判れば 極端な話やれない役は無いと思っています。
役がいかに生きて役の魂が喜んで下さるか、に近づく事だと思います。

両親が教職で、姉が3人いて、男らしい遊びは余りしなかった様に思う。
男も着るものは「ブラウス」だと思っていて、デパートに買いに行った時に「ブラウス」と言ってしまった失敗談もあります。
小さい時から何にでも疑問を抱くタイプだったが、「ぎ」(言い訳)を言うなと父親から殴られたりしました。
母親は優しい母親でした。
「お前には無限の可能性がある」と耳にたこができるぐらい母親からいわれました。
母は去年97歳で亡くなりました。(有難うしかないです)
美術系の大学に行って、途中で中退して芝居の道に進みましたが、母親からは泣かれました。
悪い役をやると、世間に合わせる顔が無いと、雨戸を閉めたりして外に出なかったりしたそうです。
NHKの大河ドラマだけで9作品になります。
民放では時代劇を殆どやらなくなってしまった。
日本人の動きがこんなに綺麗だと言う事に気づきます。(食事、ふすまを開ける所作など)
4歳ぐらいから時代劇に興味を持ち、刀を作って独り遊びしていました。

27歳の時に真田太平記をやって、本格的な立ち回り、乗馬などを勉強しました。
落馬の稽古をして、背中の骨を骨折したこともあります。
鍼の先生のところに行って、先生から骨折しているかもしれないと言われて、病院に言って即入院でした。
今を一生懸命生きればいいんじゃないかと思います。
13年構想して、8年前、「半次郎」という映画をやって、リーマンショクなどもあり大変だったがやってよかったと思います。
廻りから99%反対されましたが、妻からは後悔するぐらいだったらやればと言われて、やることにしました。
地元の人にエキストラに多くの方に出て頂き、西南戦争を主軸に脚本を書いたんですが、自分の先祖が西南戦争に参加したとか、大量に出てきて、自分の事の様に一生懸命やってくれて、それが映画にその気持ちが封じ込められ、臨場感あふれるものになりました。
自分で調べたり、本を読んだりすると中村半次郎の生き方にあこがれました。

死と生 死を一生懸命見つめていくと生きている事がよく判ってくる世界だと思っています。
死をうけ入れる生き方が日本人の根底には有るのではないかと思って、そういう事を表現できるのが半次郎を映画化する事だと言う事に至りました。
示現流 抜くまいと、真剣のつばと鞘をこよりで結んでいたそうです、こよりを切って剣を抜いたからには相手を殺すか自分が死ぬかどっちかを選べと言う教えなんだんです。
本当は時代劇をやるときには、そういう奥の精神を表現する人が全体のおなじ様な事を思って作ると全く内容が変わってくると思います。
時代劇再生運動 4年前に水戸黄門の番組がなくなり、打ち上げにも参加して、自分にも何かできないかなと思って、はじめました。
3つの柱があります。
①国主導型で年間映画を10本作り、日本文化を海外に売り出す。
 (黒沢さんの映画が日本の敗戦イメージをどれだけ払しょくしたことか)
②京都近郊に大時代村構想を働きかけている。
 (日本の文化を発信する基地 団塊の世代とかそこに住んでもらって観光地化する)
③日本の根本的な教育を考える。
 (武士道、生と死の感覚をちゃんと教える機関)
日本伝統工芸も危機的状況なので、これも何とかしたいと言う思いもあります。
頭で考えるのが西洋文化、日本は「はら」の文化だと思っていて(はらをくくる、はらがすわるとか)、「はら」文化を推進していけたらと思っています。








2016年6月24日金曜日

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(2)

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(2)
1970年代 シンセサイザーを使った音楽で新しい分野を切り開いてゆく。
NHKでステレオ放送を行い、他のメンバーと共に担当する事になる。
音楽の場合はオーケストラは、フルート、クラリネット、ファゴット、トランペット、フォルン、トロンボーン、チューバという風に、モーツァルト時代までは楽器は改良されたけど、ワグナー以降はそのまま、殆ど新しい楽器は開発されなかった。
アメリカでモーグ・シンセサイザー(アメリカの電子工学博士であるロバート・モーグが開発したアナログシンセサイザー及びその製品群) どんな音でも作り出せる装置を作りだした。
これは凄いと思って飛び付きました。
今までの楽器の延長ではなかった。
自分の描いた情景をそのまま現実の音として出している。
音色を変化させることも出来る。
これを使って、自分の描いている世界ができるのではないかと思い、音の宇宙を作ってみたかった、そういう装置だと思いました。
アルバム「月の光」 (音楽が流れる)
しずくなのか宇宙なのか違う世界を感じられる不思議な音、全部自分で行いました。
相談する人もなく、参考にするレコードもなく、音を作るのに直感が必要だと思います。

モーグさん自身もこういったというイメージがあって作ったわけではなく、音を作るうえでの色んな要素 46個を一つのフレームの中に入れたという、感じのものです。
アルバム「月の光」は日本のレコード会社では扱ってくれなかった。
新しいジャンルなので置く場所、棚が無かったと言う事だった。
アルバムを作るのに1年4カ月かかったので、何とかしなくてはいけないと思って、アメリカのピーター・マンヴェスというディレクターが「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムをリリースして世界的にヒットさせて、彼しかいないだろうと思って、無我夢中でもっていった。
反応が余りにも違うので吃驚した、その場でやるということが決まってしまった。
クラシックチャートで最後には1位まで行きました。(1974年)
それから日本で知られるようになる。
ここで新しいことをやって世間をあっと脅かしてやろうと言う事は全然なかった。
新曲「イーハトーヴ交響曲」 歌姫に初音ミクを起用したが、呼吸が合わないと駄目で、それが実にうまく合って、生の指揮者に合わせてバーチャルアイドルが歌うと言う事は、これからの現代アートにおいて絶対必要なことだと思います。
宮澤賢治の不思議な異次元の世界のパイオニアには、絶対このキャラクターは必要だと思いました。
「勝海舟」のテーマ曲(音楽が流れる) 1974年
当時アメリカ大陸まで横断する事は今の宇宙を目指す若者たちの心意気と同じだと思います。
水平線から太陽が昇る、そんなイメージなんですが。
シンセサイザーをやりながらやっぱりオーケストラの音の魅力を忘れたくなかったのでこういった曲を書いたわけです。
手塚さんとの付き合いもあって、手塚さんの映画は必ずオーケストラで演奏しました。
オーケストラにも新しい発見がありました。
好奇心がある以上は続けてみようと思っています。
面白いことをやっている事で、結果的に新しいことだった。
「イーハトーヴ交響曲」の中から「銀河鉄道の夜」 (音楽が流れる)