大竹 博(NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会 副理事長)
・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_3.htmlをご覧ください。
2015年11月29日日曜日
2015年11月28日土曜日
加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私
加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。
私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。
生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。
跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。
中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。
私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。
生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。
跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。
中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。
2015年11月27日金曜日
髙鶴 元(陶芸家) ・赤色に魅せられて
髙鶴 元(陶芸家) ・赤色に魅せられて
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。
77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。
上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。
ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。
高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。
小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。
日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。
77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。
上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。
ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。
高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。
小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。
日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。
2015年11月26日木曜日
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(2)
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(2)
青春小説、危うい年代だから物語が作り易いという事があるかもしれません。
私は小説を書くときに、きっちりプロットを固めて書くタイプではなくて、いくつかの場面が浮かんだら、つないでゆく様なタイプで自由に物語が進むに任せる書き方をします。
無鉄砲さと親和性がいいのかもしれません。
青春時代にしたかったというのが作品に反映されているのかもしれません。
音楽が好きで中学、高校とギターをやっていましたが、行く行くは自分のバンドを作って音楽で食って行きたいという夢はあったが、それに見合う努力はしていなかったと思います。
覚悟という点で言うと全く足りなかったです、青春のやり残し感があったと思います。
中学はバスケットをやり、高校時代にはバンドをやろうと思いましたが、碌なバンド活動はしなかったです。
大学を出て、バブルがはじけた直後、まだ簡単に就職できた。
長い間の旅行にでたいという夢があり、会社を一旦止めて、大学院に行けば旅行に行けるのではとは思ったが、修士までは取れるが、博士号までは取れなくて、結婚もして、どうにかしないといけないと2000年頃思ったが、その時に逃げ込むようにして始めたのが、小説を書く事だったんです。
その年に、台湾に帰ったんですが、バンドの人達と知り合って話をしてゆくうちに、自分はいままでの人生で何かを積極的に掴み取ろうとしたことがなかったと気づいて、ふつふつとしていて、自分は音楽では楽器は大したことはできず、博士論文は何度も却下されていたが、長い文章を書く持久力だけはついていたと思った。
準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめました。
好きで読んでいたレナード(アメリカのミステリー作家)の様な小説を書くことしか思っていなかった。
論文は書きたくないが、机に向かっているという言い訳がほしかったのかもしれません。
ものを書いているという事で癒されました。
書きあがって自己満足で終わるのか、誰かほかの人も同じように思ってくれるのか知りたくなって周りの人に見せたら反応が良かったので、新人賞を探して投稿を始めました。
この仕事はやりたいとは強く思いました。
作家というのにはおこがましいというという感覚です、自分が満足できる作品を書けなかったからですかね。
自分はまだ作家になる力量がないのにデビューしてしまったという感覚がずーっとあるんです。
デビュー作は準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめた作品です。
思う様な商業的な成功とは無縁だったので、作家だけでは食べていけず、いまも大学で中国語を教えています。
40歳過ぎまではあまり自信は持てなかったですね。
台湾で生まれて、日本で育っているが、本名は中国名なので日本で暮らしていると日本人ではないことが判るが、台湾に帰ると子供達の間に交わると異和感を感じるみたいで、どこに行ってもしっくりこない感があって、でも子供のころからそれは悪い事ではないと開き直れた。
作家になった後も、作家として定義できないという部分もありますし、したくないという部分もあったのかもしれない。
定義をしてしまうと、後で自分とは違う大きな力で否定された時に、自我の揺らぎを経験してしまうのではないか。
例えば国家の話で言うと、自分は台湾人だと思っているのに、或る日国家からお前は違うと言われる様な揺らぎを経験したくないから定義をしない。
作家と思ってしまうと後で大きな力でお前は作家ではないと言われた時に、揺らいでしまうのであえて定義しないという側面もあったのではないかと思います。
定住しないで、出来れば一生移動していたかった、旅人の生き方に強くひかれた。
子供時代は台北の垣根の低い地域で大家族で住んでいました。
周りにはほらを吹く人達がいっぱいいて、楽しくてそんな大人になりたいとは思いましたが、そうはいきませんでした。
日本に来てからは急に核家族になり、素っ裸にされたような感じでした、怒られれば怒られっぱなし、守ってくれる人もいないし、心もとなかった。
いじめなどにも会ったが、問題は何人という事ではなくて、僕という人間なんだと気付いた時に、別にどこ出身だろうが、関係なく個人と彼等との付き合いなんだと判った時にアイデンティティーの問題を有る程度克服できたと思います。
「逃亡作法」 根なし草的な人々、いろんな国の犯罪者が出てくる。
中途半端に逃げるとにっちもさっちもいかなくなる、逃げた先には死に物狂いで逃げ込まないと逃げてる意味がない、逃げているのに何時の間にか追い掛けているような生き方をしないと逃げてはだめじゃないかと、思います、
僕が小説を一作だけ書いて駄目だという事で別の道に逃げてしまったら、ドンドン状況が悪くなるだけだと思うので、僕は運よく自分のやりたいことに逃げ込めたので本当にやりたいことを追い求めてゆくばかりだと思っています。
デビュー作から一貫したテーマです。
小説を書いている時は、自分は小説に、自分の人生に立ち向かっている感、があるからかもしれない、それで癒されるのかもしれません。
どこまで自分が新しい物語がつかめるか、という好奇心があり、書き続けたいと思っています。
物語はそこらじゅうにぷかぷかと浮かんでいるのではないかと思うのですが、どの物語を掴むかは、作家の筋力、センス次第だと思うが、自分の筋力、センスがどこまで通用するのかを見てみたい気がします。
自分で処理しきれないどろどろしたものが、身体の中に溜まってそれを書く事によって吐き出しているんだと思います。
「ブラックライダー」を書き切った時に、作家と名乗ってもいいのかなあと思いました。
デビュー作から何作かは、どこかで映像化を意識していたが、「ブラックライダー」に関しては物語は自分の力では終わらせないと思って描き続けました。
最後に一行を書き終えた時に、おわっちゃったとパニックになってしまいました。
「流」もそうです、終わらせない、物語が勝手に終わるまで終わらせない。
「流」 自分では凄いものを書いた感覚がなくて、手ごたえを感じたのは「ブラックライダー」なので
僕の目標は「ブラックライダー」を越えることなんです。
誰も書いた事もないものを書いてみたいです。
青春小説、危うい年代だから物語が作り易いという事があるかもしれません。
私は小説を書くときに、きっちりプロットを固めて書くタイプではなくて、いくつかの場面が浮かんだら、つないでゆく様なタイプで自由に物語が進むに任せる書き方をします。
無鉄砲さと親和性がいいのかもしれません。
青春時代にしたかったというのが作品に反映されているのかもしれません。
音楽が好きで中学、高校とギターをやっていましたが、行く行くは自分のバンドを作って音楽で食って行きたいという夢はあったが、それに見合う努力はしていなかったと思います。
覚悟という点で言うと全く足りなかったです、青春のやり残し感があったと思います。
中学はバスケットをやり、高校時代にはバンドをやろうと思いましたが、碌なバンド活動はしなかったです。
大学を出て、バブルがはじけた直後、まだ簡単に就職できた。
長い間の旅行にでたいという夢があり、会社を一旦止めて、大学院に行けば旅行に行けるのではとは思ったが、修士までは取れるが、博士号までは取れなくて、結婚もして、どうにかしないといけないと2000年頃思ったが、その時に逃げ込むようにして始めたのが、小説を書く事だったんです。
その年に、台湾に帰ったんですが、バンドの人達と知り合って話をしてゆくうちに、自分はいままでの人生で何かを積極的に掴み取ろうとしたことがなかったと気づいて、ふつふつとしていて、自分は音楽では楽器は大したことはできず、博士論文は何度も却下されていたが、長い文章を書く持久力だけはついていたと思った。
準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめました。
好きで読んでいたレナード(アメリカのミステリー作家)の様な小説を書くことしか思っていなかった。
論文は書きたくないが、机に向かっているという言い訳がほしかったのかもしれません。
ものを書いているという事で癒されました。
書きあがって自己満足で終わるのか、誰かほかの人も同じように思ってくれるのか知りたくなって周りの人に見せたら反応が良かったので、新人賞を探して投稿を始めました。
この仕事はやりたいとは強く思いました。
作家というのにはおこがましいというという感覚です、自分が満足できる作品を書けなかったからですかね。
自分はまだ作家になる力量がないのにデビューしてしまったという感覚がずーっとあるんです。
デビュー作は準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめた作品です。
思う様な商業的な成功とは無縁だったので、作家だけでは食べていけず、いまも大学で中国語を教えています。
40歳過ぎまではあまり自信は持てなかったですね。
台湾で生まれて、日本で育っているが、本名は中国名なので日本で暮らしていると日本人ではないことが判るが、台湾に帰ると子供達の間に交わると異和感を感じるみたいで、どこに行ってもしっくりこない感があって、でも子供のころからそれは悪い事ではないと開き直れた。
作家になった後も、作家として定義できないという部分もありますし、したくないという部分もあったのかもしれない。
定義をしてしまうと、後で自分とは違う大きな力で否定された時に、自我の揺らぎを経験してしまうのではないか。
例えば国家の話で言うと、自分は台湾人だと思っているのに、或る日国家からお前は違うと言われる様な揺らぎを経験したくないから定義をしない。
作家と思ってしまうと後で大きな力でお前は作家ではないと言われた時に、揺らいでしまうのであえて定義しないという側面もあったのではないかと思います。
定住しないで、出来れば一生移動していたかった、旅人の生き方に強くひかれた。
子供時代は台北の垣根の低い地域で大家族で住んでいました。
周りにはほらを吹く人達がいっぱいいて、楽しくてそんな大人になりたいとは思いましたが、そうはいきませんでした。
日本に来てからは急に核家族になり、素っ裸にされたような感じでした、怒られれば怒られっぱなし、守ってくれる人もいないし、心もとなかった。
いじめなどにも会ったが、問題は何人という事ではなくて、僕という人間なんだと気付いた時に、別にどこ出身だろうが、関係なく個人と彼等との付き合いなんだと判った時にアイデンティティーの問題を有る程度克服できたと思います。
「逃亡作法」 根なし草的な人々、いろんな国の犯罪者が出てくる。
中途半端に逃げるとにっちもさっちもいかなくなる、逃げた先には死に物狂いで逃げ込まないと逃げてる意味がない、逃げているのに何時の間にか追い掛けているような生き方をしないと逃げてはだめじゃないかと、思います、
僕が小説を一作だけ書いて駄目だという事で別の道に逃げてしまったら、ドンドン状況が悪くなるだけだと思うので、僕は運よく自分のやりたいことに逃げ込めたので本当にやりたいことを追い求めてゆくばかりだと思っています。
デビュー作から一貫したテーマです。
小説を書いている時は、自分は小説に、自分の人生に立ち向かっている感、があるからかもしれない、それで癒されるのかもしれません。
どこまで自分が新しい物語がつかめるか、という好奇心があり、書き続けたいと思っています。
物語はそこらじゅうにぷかぷかと浮かんでいるのではないかと思うのですが、どの物語を掴むかは、作家の筋力、センス次第だと思うが、自分の筋力、センスがどこまで通用するのかを見てみたい気がします。
自分で処理しきれないどろどろしたものが、身体の中に溜まってそれを書く事によって吐き出しているんだと思います。
「ブラックライダー」を書き切った時に、作家と名乗ってもいいのかなあと思いました。
デビュー作から何作かは、どこかで映像化を意識していたが、「ブラックライダー」に関しては物語は自分の力では終わらせないと思って描き続けました。
最後に一行を書き終えた時に、おわっちゃったとパニックになってしまいました。
「流」もそうです、終わらせない、物語が勝手に終わるまで終わらせない。
「流」 自分では凄いものを書いた感覚がなくて、手ごたえを感じたのは「ブラックライダー」なので
僕の目標は「ブラックライダー」を越えることなんです。
誰も書いた事もないものを書いてみたいです。
2015年11月25日水曜日
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(1)
東山彰良(作家) ・流れ流され直木賞(1)
1968年台湾生れ47歳 9歳の時に父親の仕事の関係で福岡県に移り住みました。
大学院在学中に小説を書きはじめ、2002年第1回「このミステリーが凄い」大賞の銀賞読者賞を受賞し、デビューしました。
2009年にはお金も、学歴も定職もない若者の行き場のない日常を描いた作品「路傍」で大藪晴彦賞を受賞。
今年の夏に第153回直木賞を受賞しました。
受賞作は「流」 1970年代から1980年代の台湾を舞台にした長編小説です。
戦時中、国民党側に付き台湾にのがれてきた東山さんの祖父や父がモデルになっています。
何者かに殺された祖父、その死の真相を追う主人公の成長と青春を描い作品です。
作品のテーマである流れ流されることについて伺いました。
台湾に行ったが、まだ台湾版は出ていないが、サイン会もさせてもらったし、結構いろんな方にお会いし、忙しかったです。
台湾の若い世代の方たちにもこんなことがあったのか知らなかったとご意見をいただきました。
インタビューで政治的な意図は無く純粋な青春小説として読んでほしいと再三強調しました。
ミステリーでもある。
祖父が亡くなった後に周りの人から聞いて、ドラマチックな人生だなと思い至り、祖父を主人公にした小説を書こうと思ったがまだかき切る力がないと思って、父親を主人公にこの小説を書きはじめました。
縦糸がミステリー、主人公の成長物語、ものもののエピソードを描きました。
年配の読者がかなり多い、一番に感じたのは懐かしさなのではないかと思います。
舞台をどこに設定しようと、空気、時代を書き切れたのであれば日本の読者が読んでも、ノスタルジーを感じて頂ける自信はあったが、自分が書き切れる自信は無かったです。
今回は特に楽しんで書けたと思います、自分が熱くなって書けたと思います。
祖父を書きたかったが、1930年代の中国大陸を舞台にした大長編になるのではないかと思っていたので、その出力は足りなかったと思う。
「ブラックライダー」を書く事によって家族の事を書く事が出来る自信になった。
家族の歴史をノンフィクションで書くと加害者の要素が強くなりすぎるからと思います。
小説とした書いた方がより良かったと思います。
祖父が10年以上前に亡くなり、祖父が若いころいろいろやってきたダイナミックな人生をして来たことを知るに従い、物語が少しずつ芽吹いて行ったと思います。
父親は自分で或る程度家族の歴史は調べていたが、山東省に祖父の兄弟分が生きている事を突きとめて、父は会いに行っていたが、6~7年前に父と一緒に行ってそのお年寄りから直接聞きました。
馬爺さん 物静かな人だった。
戦争中の血なまぐさい話等もいろいろ聞きました。
父が山東省に初めて行った時に祖父が村人を殺したという石碑が有るが、それを父は見ていますが、開発で取り壊されて今は無いです。
中国の馬爺さんを訪ねて腑に落ちたのは、戦争はイデオロギー的な切り口で語られることが多いが、馬爺さんはそんなことは一切言わずに、友達がこっちの味方だったから自分もこっちの味方だったなど、という話し方しかしなかったので、腑に落ちた。
祖父は社会を良くしようとか、革命を起こして自分の理念を実現しようというのではなくて、巻き込まれて行って自分の生きるための最良の選択をしただけなのではないかと思いました。
最良の選択で守りたかったのは家族だったと思います、
戦争というのは一人の力ではどうにもならず、大きな流れに押し流されてその中で自分に出来る最良の選択しかなかったので、祖父としてはささやかな日々の暮らしをしたかったのだと思います。
母方の祖父も軍人だったが、鉄砲の弾を受けて撃たれた跡があり、それを見るたびに凄いと思っていました。
戦争に行って家族を連れて中国大陸から台湾にのがれてきたので、凄いなあと思いました。
私は台湾で生まれて、日本で育ったので、アイデンティティーに揺らぎを感じることがよくありますが、40年以上日本に住んでいるが、家族次第です。
家族が台湾にいれば台湾でいいし、家族が日本にいれば僕のいる場所は日本でいいと思います。
漠然と概念として思っていたことを言葉にしたことで、家族を守っていくんだという覚悟が芽生えてきたと思います。
流されるということは良いも悪いもない、個人であらがってもどうしようもなく、その中で個人がなにができるかという事だと思います。
ままならないことがいっぱいあるが、大きな流れで普通に考えれば利口ではない選択肢も、彼にとってはそれは友情を大切にした結果であったり、愛情を大切にした結果であったり、そういう所を描く事によって祖父の事も間接的に描きたかった。
流れを全身全霊で受けとめるときもある、損得ではなく理性を越えた行動というか。
この本の主人公に関しては、流されながらも自分であがらって、自分の少しでもなりたい自分に成っていくという少年を描きたかった。
大切なものが十人十色で違うと思うが、守りたいものさえしっかり守る、大事なものさえしっかりしていれば多少のより道はいいと思っています。
流れが自分の大切なものさえ押し流そうとしたときには、そこは本当に死に物狂いであがらうべきだと思います。
踏みとどまるポイントはその人のキャラクターの性格、キャラクターの色という事になるのではないかと思います。
最終的な漂着地、皆が自分を曲げずに到着できる地点を一番最後の章で模索したつもりです。
主人公も犯人もお互いに容易に歩み寄らせたくなかった。
覚悟が定まるまで、流れにあがらう足がかりを主人公が得た瞬間、流れの中に自分が手を伸ばして掴んで、離してはいけないものを見つけた瞬間です。
主人公が少年時代と決別して大人になってゆく、というところです。
不自由になって何者かになってゆく。
少年時代と決別して大人になってゆく、という事は不自由になってゆくという事だと思います。
1968年台湾生れ47歳 9歳の時に父親の仕事の関係で福岡県に移り住みました。
大学院在学中に小説を書きはじめ、2002年第1回「このミステリーが凄い」大賞の銀賞読者賞を受賞し、デビューしました。
2009年にはお金も、学歴も定職もない若者の行き場のない日常を描いた作品「路傍」で大藪晴彦賞を受賞。
今年の夏に第153回直木賞を受賞しました。
受賞作は「流」 1970年代から1980年代の台湾を舞台にした長編小説です。
戦時中、国民党側に付き台湾にのがれてきた東山さんの祖父や父がモデルになっています。
何者かに殺された祖父、その死の真相を追う主人公の成長と青春を描い作品です。
作品のテーマである流れ流されることについて伺いました。
台湾に行ったが、まだ台湾版は出ていないが、サイン会もさせてもらったし、結構いろんな方にお会いし、忙しかったです。
台湾の若い世代の方たちにもこんなことがあったのか知らなかったとご意見をいただきました。
インタビューで政治的な意図は無く純粋な青春小説として読んでほしいと再三強調しました。
ミステリーでもある。
祖父が亡くなった後に周りの人から聞いて、ドラマチックな人生だなと思い至り、祖父を主人公にした小説を書こうと思ったがまだかき切る力がないと思って、父親を主人公にこの小説を書きはじめました。
縦糸がミステリー、主人公の成長物語、ものもののエピソードを描きました。
年配の読者がかなり多い、一番に感じたのは懐かしさなのではないかと思います。
舞台をどこに設定しようと、空気、時代を書き切れたのであれば日本の読者が読んでも、ノスタルジーを感じて頂ける自信はあったが、自分が書き切れる自信は無かったです。
今回は特に楽しんで書けたと思います、自分が熱くなって書けたと思います。
祖父を書きたかったが、1930年代の中国大陸を舞台にした大長編になるのではないかと思っていたので、その出力は足りなかったと思う。
「ブラックライダー」を書く事によって家族の事を書く事が出来る自信になった。
家族の歴史をノンフィクションで書くと加害者の要素が強くなりすぎるからと思います。
小説とした書いた方がより良かったと思います。
祖父が10年以上前に亡くなり、祖父が若いころいろいろやってきたダイナミックな人生をして来たことを知るに従い、物語が少しずつ芽吹いて行ったと思います。
父親は自分で或る程度家族の歴史は調べていたが、山東省に祖父の兄弟分が生きている事を突きとめて、父は会いに行っていたが、6~7年前に父と一緒に行ってそのお年寄りから直接聞きました。
馬爺さん 物静かな人だった。
戦争中の血なまぐさい話等もいろいろ聞きました。
父が山東省に初めて行った時に祖父が村人を殺したという石碑が有るが、それを父は見ていますが、開発で取り壊されて今は無いです。
中国の馬爺さんを訪ねて腑に落ちたのは、戦争はイデオロギー的な切り口で語られることが多いが、馬爺さんはそんなことは一切言わずに、友達がこっちの味方だったから自分もこっちの味方だったなど、という話し方しかしなかったので、腑に落ちた。
祖父は社会を良くしようとか、革命を起こして自分の理念を実現しようというのではなくて、巻き込まれて行って自分の生きるための最良の選択をしただけなのではないかと思いました。
最良の選択で守りたかったのは家族だったと思います、
戦争というのは一人の力ではどうにもならず、大きな流れに押し流されてその中で自分に出来る最良の選択しかなかったので、祖父としてはささやかな日々の暮らしをしたかったのだと思います。
母方の祖父も軍人だったが、鉄砲の弾を受けて撃たれた跡があり、それを見るたびに凄いと思っていました。
戦争に行って家族を連れて中国大陸から台湾にのがれてきたので、凄いなあと思いました。
私は台湾で生まれて、日本で育ったので、アイデンティティーに揺らぎを感じることがよくありますが、40年以上日本に住んでいるが、家族次第です。
家族が台湾にいれば台湾でいいし、家族が日本にいれば僕のいる場所は日本でいいと思います。
漠然と概念として思っていたことを言葉にしたことで、家族を守っていくんだという覚悟が芽生えてきたと思います。
流されるということは良いも悪いもない、個人であらがってもどうしようもなく、その中で個人がなにができるかという事だと思います。
ままならないことがいっぱいあるが、大きな流れで普通に考えれば利口ではない選択肢も、彼にとってはそれは友情を大切にした結果であったり、愛情を大切にした結果であったり、そういう所を描く事によって祖父の事も間接的に描きたかった。
流れを全身全霊で受けとめるときもある、損得ではなく理性を越えた行動というか。
この本の主人公に関しては、流されながらも自分であがらって、自分の少しでもなりたい自分に成っていくという少年を描きたかった。
大切なものが十人十色で違うと思うが、守りたいものさえしっかり守る、大事なものさえしっかりしていれば多少のより道はいいと思っています。
流れが自分の大切なものさえ押し流そうとしたときには、そこは本当に死に物狂いであがらうべきだと思います。
踏みとどまるポイントはその人のキャラクターの性格、キャラクターの色という事になるのではないかと思います。
最終的な漂着地、皆が自分を曲げずに到着できる地点を一番最後の章で模索したつもりです。
主人公も犯人もお互いに容易に歩み寄らせたくなかった。
覚悟が定まるまで、流れにあがらう足がかりを主人公が得た瞬間、流れの中に自分が手を伸ばして掴んで、離してはいけないものを見つけた瞬間です。
主人公が少年時代と決別して大人になってゆく、というところです。
不自由になって何者かになってゆく。
少年時代と決別して大人になってゆく、という事は不自由になってゆくという事だと思います。
2015年11月24日火曜日
金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う(H27/7/13 放送)
金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う(H27/7/13 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2015年11月23日月曜日
Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター) ・ラスト・ディナーは、私の歌と!
Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター) ・ラスト・ディナーは、私の歌と!
自らもガンに侵されながら病院の医療活動の一環である最後の晩餐食事会で素晴らしい歌声を披露しているシンガーソングライターがいます。 Ko-Koさんです。
20年前に右足に大きな肉腫が見つかり、その後両方の肺にも転移し手術、抗がん剤治療を繰り返しましたが、その後は免疫療法、温熱療法、心理療法など、自分の納得する治療法などを自ら選択し、現在もガンと闘いながら音楽活動を続けています。
ガンになって初めて自分のやりたかったことに気づき、家族や医師、音楽仲間に支えられて曲作り、ライブ活動に充実した日々を送っているKo-Koさんに伺いました。
最初曲が流れる。 「最後の晩餐」作曲 Ko-Ko 作詩は主治医藤岡先生の奥さん藤岡ふみよさん
「今日が最後の日だとすればただゆったりと美しい木立の中で、優しい風を感じて過ごします。 今日が最後の日だとすれば、私は愛する家族や信頼してやまない友人たちと、過ごします。」
20年前に右足のひざの裏側に大きな腫瘍が見つかり、それが検査で悪いものだと判って、その後抗がん剤や、放射線の治療をして、1年ぐらいかけて手術をしました。
結婚して2人の子供に恵まれたが、下の子を妊娠した時に肺に転移が見つかり、出産した後に検査したら左の肺に転移してかなり大きくなっていた。
肺の潰瘍を取って、悪いものとわかって抗がん剤治療を受けたが、5年後に右の肺に小さいものが見つかり、これも悪いものだという事で取っていただきました。
何回も抗がん剤をやっているのに出来てしまうので、なんかおかしいのではないかと思いだして、その頃に藤岡先生夫妻との出会いがあり、出来たら取ってという事をしていると、最終的に取れない時が来るのではないかと不安があり、抗がん剤を止めて、免疫療法とか食事療法とかの方にかけてみようかという気持ちになった頃です。
抗がん剤治療は食欲も無くなり髪の毛も抜けてしまうので気持ちも萎えてしまう。
食事療法を1年ぐらいしましたが、肉が大好きなのに食べれなくて、食べようとしたが家族から大声で止められ、我慢するのは精神的によくない事に気づいて、話して先生も同意してくれた。
それから精神的にも体力的にも元気になってきた。(今でも肉は食べています)
食は楽しくおいしく食べるのが一番だと思います。
最後に手術したのが12年まえで、5年前に両肺に影ができて、取りましょうという事になったが、音楽活動をしていたので声が出なくなると怖いと思ったし、子供も小学生だったので手間のかかる時期でもあるし、今回は手術も治療もしないという選択をしてみようと思った。
藤岡先生に話したら、「それも一つの選択だからもう大丈夫だよ、いいよ」、と納得してもらった。
ハイパーサーミヤという温熱機械が入ったので、それはやってみようという事でやりました。
病院では先駆的な食事療法をやっていて、誰とどこで食べるかが一番重要で、最後の晩餐食事会といいまして、患者が死ぬ前に食べるご飯とかというわけではない、いままでの病気の私と決別してこれから新しい自分に生まれ変わろうではないかという、再出発の食事会です。
患者さん一般の方も皆で一緒に食べます。
「最後の晩餐」の後半の曲が流れる。
「今日が最後だとすれば貴方は何をしますか。 今日が最後だとすれば貴方は誰と過ごしたいですか。 今日が最後だとすれば貴方は何を食べたいですか。 今日が始まりだとすれば貴方はどう生きたいですか。 人生の最後に思いを寄せて生きることこそが幸せにつながり、人生の始まりの様な生き方が出来る。 今ここに自分はある、 今ここに自分はある。 今ここに自分はある。」
食事の料理を作って下さるのが国境なき料理団 の本道佳子さんです。
野菜ばっかりだが満腹になる素晴らしい料理です。
ご飯を食べてから私の歌を聞いていただきます。
歌が好きになったのも父の影響で越路吹雪さんが大好きでした。
父が亡くなった時にはお経ではなく、越路吹雪さんの歌と赤いバラで見送りました。
ピアノを教えて、ボイストレーニングの教室、ライブ、CDも出して、今年の熊本町のマラソンの応援ソングとして「ランナー」(作詞作曲 Ko-Ko)を選んでもらって嬉しかったです。
ガンになったから良かったことは、全てです、いろいろな事を学びました。
結婚する前、父が事業を失敗して、絶対に頑張るぞと、わたしも保育士をしながら昼も夜も頑張って体をいじめていましたが、病気になってなんか違うなと、せっかく生まれてきているのに色々、自分自身を見直すことができたと思います。
結婚して、いま子供達は高校2年生と高校3年生です。
私が病気だということは彼女たちも十分判っているのですが、言葉に出せないというか、私を見てる事によって安心してくれるというか、そんな感じです。
周りに支えられているというか、理解がある人ばっかりで、病気になってから音楽活動にもささえてくださる方にめぐり合う事が出来ました。
病気になってから、今日死んでも悔いのない生き方、でもそのもう一つに絶対死なないよという強い生き方みたいな潔さと強さみたいなもの、二本の柱で生きていると、何でも受け入れられるし、何でも引き寄せられるし、不思議な力だと思います。
いまの病気の状態は、左の肺にテニスボールぐらいのものがありまして、右の肺にピンポン玉ぐらいの大きさが二個、肝臓とお腹の方に転移があり、お腹の方に放射線治療をやっています。
でも歌えるんですね、先生に言わせるとゼイゼイやっていて起きていられることが不思議だっていわれるぐらいの大きさだそうです。
音楽活動はライブ等をやっています。
ライブでは私がエネルギーを与えている様で、実は私がエネルギーを貰っている様で、エネルギーの交換ができるのでとってもライブは好きですね。
少しでも多くの人に病気でもそんなに落ち込まないで、怖がらないでという事を伝えたいです。
自分の納得いく治療法だったり、情報を集めて自分の体なんだから、自分で決めてくださいと言いたいです。
納得してやると自信もつくし、絶対治るという気持ちの強さが出てくるので、又やらないと言う事も一つの治療の選択肢だと思います。
家族にたまには病人扱いさせてよと言いたい時もあります。
「手と手と手」 (作詞作曲 Ko-Ko)
「貴方の笑顔、貴方の泣き顔 貴方の声を、私の命を 手をつなぎあえたのは偶然それとも運命、
ひとすじの光に導かれながら辿りついて 澄み渡る青い空 、流れゆく白い雲、花も鳥たちも
生きる力を与えてくれる。 I belive myself 手と手と手つなげば、
love my friends 一人じゃないよ、 貴方のその手信じてご覧、手と手と手繋ごうよ。
孤独に泣いた夜も、明日が見えなくても、希望に満ちた新しい朝が迎えてくれる。
嬉しいこと、悲しいこと、揺れ動く心、光と影に試されながら生きてゆくわ。
I belive myself 手と手と手をつなげば、 love my friends
一人じゃないよ、そばにいるから信じた道を歩こうよ、手と手と手つなごうよ。
love my friends 手と手と手つなげばlove my friends 一人じゃないよ そばにいるから
輝く道を歩こうよ、 歌を歌って歩こうよ、手と手と手繋ごうよ、 手と手と手繋ごうよ」
皆一人じゃないんだよという事を伝えたかった。
出会いは偶然なのか、運命なのか判らないが、会うべくして会う人たちなんだなと、それが
手と手と手で結ばれて行って大きな輪になってゆくんだよという、一人じゃないんだという事を伝えたいです。
自らもガンに侵されながら病院の医療活動の一環である最後の晩餐食事会で素晴らしい歌声を披露しているシンガーソングライターがいます。 Ko-Koさんです。
20年前に右足に大きな肉腫が見つかり、その後両方の肺にも転移し手術、抗がん剤治療を繰り返しましたが、その後は免疫療法、温熱療法、心理療法など、自分の納得する治療法などを自ら選択し、現在もガンと闘いながら音楽活動を続けています。
ガンになって初めて自分のやりたかったことに気づき、家族や医師、音楽仲間に支えられて曲作り、ライブ活動に充実した日々を送っているKo-Koさんに伺いました。
最初曲が流れる。 「最後の晩餐」作曲 Ko-Ko 作詩は主治医藤岡先生の奥さん藤岡ふみよさん
「今日が最後の日だとすればただゆったりと美しい木立の中で、優しい風を感じて過ごします。 今日が最後の日だとすれば、私は愛する家族や信頼してやまない友人たちと、過ごします。」
20年前に右足のひざの裏側に大きな腫瘍が見つかり、それが検査で悪いものだと判って、その後抗がん剤や、放射線の治療をして、1年ぐらいかけて手術をしました。
結婚して2人の子供に恵まれたが、下の子を妊娠した時に肺に転移が見つかり、出産した後に検査したら左の肺に転移してかなり大きくなっていた。
肺の潰瘍を取って、悪いものとわかって抗がん剤治療を受けたが、5年後に右の肺に小さいものが見つかり、これも悪いものだという事で取っていただきました。
何回も抗がん剤をやっているのに出来てしまうので、なんかおかしいのではないかと思いだして、その頃に藤岡先生夫妻との出会いがあり、出来たら取ってという事をしていると、最終的に取れない時が来るのではないかと不安があり、抗がん剤を止めて、免疫療法とか食事療法とかの方にかけてみようかという気持ちになった頃です。
抗がん剤治療は食欲も無くなり髪の毛も抜けてしまうので気持ちも萎えてしまう。
食事療法を1年ぐらいしましたが、肉が大好きなのに食べれなくて、食べようとしたが家族から大声で止められ、我慢するのは精神的によくない事に気づいて、話して先生も同意してくれた。
それから精神的にも体力的にも元気になってきた。(今でも肉は食べています)
食は楽しくおいしく食べるのが一番だと思います。
最後に手術したのが12年まえで、5年前に両肺に影ができて、取りましょうという事になったが、音楽活動をしていたので声が出なくなると怖いと思ったし、子供も小学生だったので手間のかかる時期でもあるし、今回は手術も治療もしないという選択をしてみようと思った。
藤岡先生に話したら、「それも一つの選択だからもう大丈夫だよ、いいよ」、と納得してもらった。
ハイパーサーミヤという温熱機械が入ったので、それはやってみようという事でやりました。
病院では先駆的な食事療法をやっていて、誰とどこで食べるかが一番重要で、最後の晩餐食事会といいまして、患者が死ぬ前に食べるご飯とかというわけではない、いままでの病気の私と決別してこれから新しい自分に生まれ変わろうではないかという、再出発の食事会です。
患者さん一般の方も皆で一緒に食べます。
「最後の晩餐」の後半の曲が流れる。
「今日が最後だとすれば貴方は何をしますか。 今日が最後だとすれば貴方は誰と過ごしたいですか。 今日が最後だとすれば貴方は何を食べたいですか。 今日が始まりだとすれば貴方はどう生きたいですか。 人生の最後に思いを寄せて生きることこそが幸せにつながり、人生の始まりの様な生き方が出来る。 今ここに自分はある、 今ここに自分はある。 今ここに自分はある。」
食事の料理を作って下さるのが国境なき料理団 の本道佳子さんです。
野菜ばっかりだが満腹になる素晴らしい料理です。
ご飯を食べてから私の歌を聞いていただきます。
歌が好きになったのも父の影響で越路吹雪さんが大好きでした。
父が亡くなった時にはお経ではなく、越路吹雪さんの歌と赤いバラで見送りました。
ピアノを教えて、ボイストレーニングの教室、ライブ、CDも出して、今年の熊本町のマラソンの応援ソングとして「ランナー」(作詞作曲 Ko-Ko)を選んでもらって嬉しかったです。
ガンになったから良かったことは、全てです、いろいろな事を学びました。
結婚する前、父が事業を失敗して、絶対に頑張るぞと、わたしも保育士をしながら昼も夜も頑張って体をいじめていましたが、病気になってなんか違うなと、せっかく生まれてきているのに色々、自分自身を見直すことができたと思います。
結婚して、いま子供達は高校2年生と高校3年生です。
私が病気だということは彼女たちも十分判っているのですが、言葉に出せないというか、私を見てる事によって安心してくれるというか、そんな感じです。
周りに支えられているというか、理解がある人ばっかりで、病気になってから音楽活動にもささえてくださる方にめぐり合う事が出来ました。
病気になってから、今日死んでも悔いのない生き方、でもそのもう一つに絶対死なないよという強い生き方みたいな潔さと強さみたいなもの、二本の柱で生きていると、何でも受け入れられるし、何でも引き寄せられるし、不思議な力だと思います。
いまの病気の状態は、左の肺にテニスボールぐらいのものがありまして、右の肺にピンポン玉ぐらいの大きさが二個、肝臓とお腹の方に転移があり、お腹の方に放射線治療をやっています。
でも歌えるんですね、先生に言わせるとゼイゼイやっていて起きていられることが不思議だっていわれるぐらいの大きさだそうです。
音楽活動はライブ等をやっています。
ライブでは私がエネルギーを与えている様で、実は私がエネルギーを貰っている様で、エネルギーの交換ができるのでとってもライブは好きですね。
少しでも多くの人に病気でもそんなに落ち込まないで、怖がらないでという事を伝えたいです。
自分の納得いく治療法だったり、情報を集めて自分の体なんだから、自分で決めてくださいと言いたいです。
納得してやると自信もつくし、絶対治るという気持ちの強さが出てくるので、又やらないと言う事も一つの治療の選択肢だと思います。
家族にたまには病人扱いさせてよと言いたい時もあります。
「手と手と手」 (作詞作曲 Ko-Ko)
「貴方の笑顔、貴方の泣き顔 貴方の声を、私の命を 手をつなぎあえたのは偶然それとも運命、
ひとすじの光に導かれながら辿りついて 澄み渡る青い空 、流れゆく白い雲、花も鳥たちも
生きる力を与えてくれる。 I belive myself 手と手と手つなげば、
love my friends 一人じゃないよ、 貴方のその手信じてご覧、手と手と手繋ごうよ。
孤独に泣いた夜も、明日が見えなくても、希望に満ちた新しい朝が迎えてくれる。
嬉しいこと、悲しいこと、揺れ動く心、光と影に試されながら生きてゆくわ。
I belive myself 手と手と手をつなげば、 love my friends
一人じゃないよ、そばにいるから信じた道を歩こうよ、手と手と手つなごうよ。
love my friends 手と手と手つなげばlove my friends 一人じゃないよ そばにいるから
輝く道を歩こうよ、 歌を歌って歩こうよ、手と手と手繋ごうよ、 手と手と手繋ごうよ」
皆一人じゃないんだよという事を伝えたかった。
出会いは偶然なのか、運命なのか判らないが、会うべくして会う人たちなんだなと、それが
手と手と手で結ばれて行って大きな輪になってゆくんだよという、一人じゃないんだという事を伝えたいです。
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