桒山賀行(くわやまがこう 彫刻家) ・手で見る彫刻展の25年
67歳 文楽の人形と人形使いを題材に演者シリーズで総理大臣賞などを受賞するなどユニークな作品を作り続けている彫刻家です。
25年前から視覚障害者のために、毎年手で触れてみる彫刻展を開いています。
この25年を振り返ってなぜ手で触れてみる彫刻展を始めたのか、触ることの意味触ることの効果などを伺います。
視覚障害者の人たちは手で見るという事で展覧会をする時に視覚障害者の人にも一緒に観てもらおうかなと、手で見るという言葉を使い始めたのです。
個展をする時に、近くに視覚障害者の人がいて、その人がアトリエに遊びに来て鳩の飛んでいる作品を触ってみた時に、このように羽根を広げて飛ぶんだという事を言ってくれて、それで展覧会があった時に一緒に観てもらおうと思って、手で触れて観るという、うたい文句を付けてやったわけです。
25年間 個展 グループ展を仲間とかと一緒にやってきました。
1年のうち 多い時は4~5回 グループ展、個展などでやっています。
作品を触ることに対して嫌がることは人に依ります、グループの人達は良いんじゃないのと言ってくれました。
点字を読むときは軽く触らないと凸凹は指に伝わってこないので彫刻を触るときにも同様に触るので、作品を触ることへの問題は無いと思います。
むしろ視覚障害者ではない子供たちが触ってもいいというと、叩いたり、引っ張ったりすることが一番怖いです。
何で出来ているのか、ということは触って見ると判るので、時々触ってみたいとは私も思います。
触ると親近感が出てくるが、展覧会等で、ただ観るだけでは、直ぐ忘れてしまったりする。
作品に対する責任感があるので、触るということは色々難しい問題がある。
日本は仏像から彫刻が始まっているので、拝む対象だったので、西洋は人物から始まっているので方向性が違うのかもしれない。
仏像は木彫が殆どで、漆を塗って、金箔を張って作り上げていて、金箔がはがれて形造られてきていて、時間が経過して修理できないものなので、触ることはできない。
日本画、洋画、そういったものは触れません。
わたしはほとんど展覧会作品は木彫に色を付けたもので、ひびが入ったり埃がついたりして、時間が経過したり自然が作り出したもので、味が出たりします。
雨宿りという題名の作品を出した時に、視覚障害者の3人連れが来て、雨が止んだのかどうかを確認するために、作品で庇から手を出す状態なんだという事を鋭く指摘してくれた。(妻は判らなかったが、庇との距離感が鋭かった)
若い視覚障害者の人にも観てもらえると嬉しいなと思います。
木彫を始めた視覚障害者の人がいて、60歳を越えた男性で、最近どんどん作品が大きくなってきました。
木彫の材料も送ったり、ノミも7~8本送りました。
彼は見たことが無いので、自分の頭の中に形が作り上げられていて、それを木彫にする時に置き換えるのですが、それが私達とは違う、 私は目から直ぐ頭を通らず手に行くと思う。
70歳、80歳になったころに、自分の力が無くなってのみが自由に扱えなくなった時に作品がどうなるか楽しみです。
作品はずーっと続けて観ていると作家の考え方が変わる瞬間があり、目で、触ってみる両方有ると思うので、続けていけたらいいなあと思います。
2015年11月15日日曜日
2015年11月14日土曜日
安永祖堂(花園大学教授) ・人生是公案(じんせいこれこうあん)
安永祖堂(花園大学教授) ・人生是公案(じんせいこれこうあん)
59歳 30年に渡って禅の公案の研究を続けてきました。
公案という課題を解く事は禅宗の僧侶にとっては大切な修行です。
安永さんは一般の人にとっても公案は生きる知恵を見出す宝庫だと言います。
禅問答は公案をめぐる問答の事。
テキストがあって公案と言います。
インドの仏教が中国に渡り、お釈迦様の事を学ぼうと、お経を学んだが、これはお釈迦様のお悟りの説明だろうと、悟りの追体験をしたいという事で坐禅を組みましょうか、という事で禅宗の宗派の源になり、特に活躍したのが唐の時代で、宋の時代になり、唐の時代の禅の天才という風に言われた人達の追体験をどうすればいいかとか言う事で、唐の時代のお坊さんたちのやり取りを問題の様に作ったのが公案の始まりと言われます。
公案が中国から日本に伝わったのは12世紀の終わり頃と言われ、1700ほどある公案を日本人が理解しやすい様に体系化したのが、江戸時代の僧、白隠でした。
白隠がまとめたうちの700~800が今も禅僧の修行に使われています。
これを解決するのに10年~15年必要です。
「右手と左手で叩くと音がするが、片手だったらどういう音がするのか、聞いてきなさい。」良く知られている公案です。
合わさる前なので音以前の音、そういうものを聞いてきなさいと問題を与えられる。
頭で考えるが、沈黙の音、とかいろいろ言ってくるがすべて否定されて、ふだん考えている意識では限界があるということを気付いてもらって、その音以前の音を自分がどういう風に聞くのかという風に追いこんでゆく。
回答はあるが、それは絶対かというとそうではなく、その人その人の隻手音声(せきしゅおんじょう)片手の音があるので、正解は一つではない。
公案の修行は玉ねぎの皮を向く様なものなんですね。
剥いてなにが残るかというと、何も残らない、一枚一枚玉ねぎの皮を剥くのは、よく禅の公案の修行で一つ一つ解決して行って、何か得るものがあるかというとそうでもない。
仏教である「空」である、禅の「無」に辿りつく。
般若心経の「色即是空」 禅の「無心の境地」
言葉を本当に生かすのは言葉と言葉の間ではないかと思う。
間が抜けている、間が持たない。
間を生かすことによって言葉が命を持つという考え方。
「空」、「無」 無いのではなくないことによってすごい価値があるという、そういう事を手がかリに考えると、片手の音、聞こえないけれども、実はものすごく意味のある音を秘めてるのではないかなと。
私たちは有ることの世界にどっぷりつかっているので、そのあるという世界は、ないという世界が裏打ちの様に常にあるんだよという事です。
絵で言うと、西洋の油絵は何かの色でキャンパス一杯に塗り込むが、白も赤や他の色と同じ一つの色に過ぎないが、水墨画は余白の美、白いという何もないというスペースは、実は他の色を活かす、一本の線を活かす大切なスペースと言える。
ある=プラスの世界 ない=マイナスの世界
「空」、「無」=ゼロの世界(無限のキャパシティーがゼロにある)
我々はある、ないの世界に振り回されているが、ゼロいう世界を教えてくれている。
どの様に生きるか
①身体に気を付けてお酒、煙草を控えて一生懸命運動する、これは生存するために努力している。
②一生懸命勉強して良い会社に入ってというよな事、これは生活するために努力する。
③生存する事生活する事と、生きることは別なことだと思う、自分がどういう風に生きるかという事を捉えなおす時には「空」、「無」 智慧の世界が重要な役割を果たすのではないかと考えています。
本来の自分として本当に人生を生きているか。(実感を得ている人は多くないのでは)
①,②では満たされない世界というのは、そういう世界に向けて禅として一つの智慧を示していると思います。
昭和31年愛媛県で生まれ 父方の祖父が禅寺の住職だったので、仏教を身近に感じて育ったと言います。
6歳の時に交通事故に遭い、左足に障害の残る大けがを負う。
私と言う人格を作って行く上で、自分と他の人が違う事の意識というものに影響があったと思います。
本当の自分とはどういうものだろうと考える時に禅はエネルギーを与えてくれた。
障害を持っている自分がこのままでいいんだという事が受けいれられるようになったのは、禅の世界にいたお陰だと感謝しています。
花園大学の平田 精耕先生に出会い、修行の道を進む事になる。
修行の面白さに取りつかれた。
何百年と掛かって作り上げられた公案の体系の魅力に取り付かれた。
悟りを得るための公案もあれば、悟りを捨てさせる公案もある。
物事を続けていると、コツを覚えてしまうので、公案の修行も同様で、それを取ってしまう否定してしまう公案もある。
15年余りを公案修行に打ち込む。
「如是」、「真如」 ありのままでいいという感覚に落ちついたのは、修行させていただいたおかげだと思っている。
もとのもくあみ 自分で有り自分でない もとの自分にかえってくる、そういう風な禅の生き方は、
日常の世界が自分にとって最高の世界だと思っている人達に 非日常の世界を知ってもらって、また日常の世界に帰っていただく、その時に初めて本当に今自分がいる日常の世界の意味が判るのではないか、どっぷり日常の世界に浸かったままではその意味は判らないのではないかと思います。
人は何のために生きるのかは、一人一人が解決しなければならないと思うが、私は何のために生きるのかは、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだと判りました。
「生死一如」 生と死は一枚の紙の表と裏の様なものだというが、私にとって生死一如という言葉は、人は何のために生きるんだ、と矛盾するようですが、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだ、禅の修行、公案の修行を積んで得ることが出来ました。
生と死は一体であるという事に気づき、そのことをありのままの自分として受け入れること。
人と比べてどうかという事に随分日常の生活で振り回されているのではないか、そう言う価値観から解放されたら新しい生き方ができるのではないか。
貴方たち一人一人、その肉体身体は生き生きと働いている、耳で音を聞き目ではものを見て鼻では香りをかぎ、口では話す、全て合わせてやっているものはなんだ、それが無位の真人がいきいきと働いている。(一生懸命に判ろうとしている)
肩書きを全部取っ払ってしまったら、それが無位の真人という事です。
無位の真人として現実の世界をどう生きるか、問いたいのは充実している人生は人と比べてどうこうと考えている自分の欲を満たすためだと生きていませんかという事です。
日常の世界を離れて、真人の世界に追い込んでみて、又日常の世界帰ってくるという、本当に日常の意味を知るためには非日常の世界に入ってそこから帰ってこないと日常の世界は判らないのではないでしょうか。
非日常の世界 一つは禅の世界、世俗の価値観を離れた世界。
自由 禅の言葉 自らをよりどころにする。
本当の自分をよりどころにして生きてゆく、それが真の自由。
神仏でなくても、なにかをよりどころにして生きている。
禅の世界は、本当の自分をよりどころにして生きて行きましょう。
盤珪 永琢(ばんけい えいたく)和尚のそばに目の不自由な老人がいて、私は目が不自由なものだから人の言う事を耳で判断する、人の言葉は不思議なもので言っている言葉と違う響きが聞こえることがある。
隣の家でおめでたいことがあり、大抵の人の言葉が「よかったねえ」という言葉が自分には嫉妬の響きに聞こえ、隣の家に不幸があった時に、「お気の毒に」と慰めの言葉を言うが、自分にはその不幸が自分には起こらなかったという安心の響きがある、人間とはそういうものだ、ところが盤珪 永琢和尚は不思議な人で「よかったねえ」というと「よかったねえ」と聞こえ、「気の毒になあ」というと「気の毒になあ」としか聞こえない。
盤珪 永琢和尚は無に生きているので、相手のおめでたいことは自分のおめでたいことと同じように言えるし、不幸も自分の事の様に思える、仏教の言葉で「同悲同苦」と言います。
自己を「空」、「無」にして「同悲同苦」を可能にする。
本当の修行は現状公案 辛いことなかなか解決できないことが次々に起こってくるので、それに立ち向かう、私たちが生きてゆくのは公案の修行を日々重ねているのと変らないと思う。
「苦」は満たされないこと、苦にあふれた人生をほんとうの自分として生きてゆく、それは公案の修行と同じだと思います。
59歳 30年に渡って禅の公案の研究を続けてきました。
公案という課題を解く事は禅宗の僧侶にとっては大切な修行です。
安永さんは一般の人にとっても公案は生きる知恵を見出す宝庫だと言います。
禅問答は公案をめぐる問答の事。
テキストがあって公案と言います。
インドの仏教が中国に渡り、お釈迦様の事を学ぼうと、お経を学んだが、これはお釈迦様のお悟りの説明だろうと、悟りの追体験をしたいという事で坐禅を組みましょうか、という事で禅宗の宗派の源になり、特に活躍したのが唐の時代で、宋の時代になり、唐の時代の禅の天才という風に言われた人達の追体験をどうすればいいかとか言う事で、唐の時代のお坊さんたちのやり取りを問題の様に作ったのが公案の始まりと言われます。
公案が中国から日本に伝わったのは12世紀の終わり頃と言われ、1700ほどある公案を日本人が理解しやすい様に体系化したのが、江戸時代の僧、白隠でした。
白隠がまとめたうちの700~800が今も禅僧の修行に使われています。
これを解決するのに10年~15年必要です。
「右手と左手で叩くと音がするが、片手だったらどういう音がするのか、聞いてきなさい。」良く知られている公案です。
合わさる前なので音以前の音、そういうものを聞いてきなさいと問題を与えられる。
頭で考えるが、沈黙の音、とかいろいろ言ってくるがすべて否定されて、ふだん考えている意識では限界があるということを気付いてもらって、その音以前の音を自分がどういう風に聞くのかという風に追いこんでゆく。
回答はあるが、それは絶対かというとそうではなく、その人その人の隻手音声(せきしゅおんじょう)片手の音があるので、正解は一つではない。
公案の修行は玉ねぎの皮を向く様なものなんですね。
剥いてなにが残るかというと、何も残らない、一枚一枚玉ねぎの皮を剥くのは、よく禅の公案の修行で一つ一つ解決して行って、何か得るものがあるかというとそうでもない。
仏教である「空」である、禅の「無」に辿りつく。
般若心経の「色即是空」 禅の「無心の境地」
言葉を本当に生かすのは言葉と言葉の間ではないかと思う。
間が抜けている、間が持たない。
間を生かすことによって言葉が命を持つという考え方。
「空」、「無」 無いのではなくないことによってすごい価値があるという、そういう事を手がかリに考えると、片手の音、聞こえないけれども、実はものすごく意味のある音を秘めてるのではないかなと。
私たちは有ることの世界にどっぷりつかっているので、そのあるという世界は、ないという世界が裏打ちの様に常にあるんだよという事です。
絵で言うと、西洋の油絵は何かの色でキャンパス一杯に塗り込むが、白も赤や他の色と同じ一つの色に過ぎないが、水墨画は余白の美、白いという何もないというスペースは、実は他の色を活かす、一本の線を活かす大切なスペースと言える。
ある=プラスの世界 ない=マイナスの世界
「空」、「無」=ゼロの世界(無限のキャパシティーがゼロにある)
我々はある、ないの世界に振り回されているが、ゼロいう世界を教えてくれている。
どの様に生きるか
①身体に気を付けてお酒、煙草を控えて一生懸命運動する、これは生存するために努力している。
②一生懸命勉強して良い会社に入ってというよな事、これは生活するために努力する。
③生存する事生活する事と、生きることは別なことだと思う、自分がどういう風に生きるかという事を捉えなおす時には「空」、「無」 智慧の世界が重要な役割を果たすのではないかと考えています。
本来の自分として本当に人生を生きているか。(実感を得ている人は多くないのでは)
①,②では満たされない世界というのは、そういう世界に向けて禅として一つの智慧を示していると思います。
昭和31年愛媛県で生まれ 父方の祖父が禅寺の住職だったので、仏教を身近に感じて育ったと言います。
6歳の時に交通事故に遭い、左足に障害の残る大けがを負う。
私と言う人格を作って行く上で、自分と他の人が違う事の意識というものに影響があったと思います。
本当の自分とはどういうものだろうと考える時に禅はエネルギーを与えてくれた。
障害を持っている自分がこのままでいいんだという事が受けいれられるようになったのは、禅の世界にいたお陰だと感謝しています。
花園大学の平田 精耕先生に出会い、修行の道を進む事になる。
修行の面白さに取りつかれた。
何百年と掛かって作り上げられた公案の体系の魅力に取り付かれた。
悟りを得るための公案もあれば、悟りを捨てさせる公案もある。
物事を続けていると、コツを覚えてしまうので、公案の修行も同様で、それを取ってしまう否定してしまう公案もある。
15年余りを公案修行に打ち込む。
「如是」、「真如」 ありのままでいいという感覚に落ちついたのは、修行させていただいたおかげだと思っている。
もとのもくあみ 自分で有り自分でない もとの自分にかえってくる、そういう風な禅の生き方は、
日常の世界が自分にとって最高の世界だと思っている人達に 非日常の世界を知ってもらって、また日常の世界に帰っていただく、その時に初めて本当に今自分がいる日常の世界の意味が判るのではないか、どっぷり日常の世界に浸かったままではその意味は判らないのではないかと思います。
人は何のために生きるのかは、一人一人が解決しなければならないと思うが、私は何のために生きるのかは、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだと判りました。
「生死一如」 生と死は一枚の紙の表と裏の様なものだというが、私にとって生死一如という言葉は、人は何のために生きるんだ、と矛盾するようですが、もうこれで死んでもいいと思える瞬間を手に入れる為だったんだ、禅の修行、公案の修行を積んで得ることが出来ました。
生と死は一体であるという事に気づき、そのことをありのままの自分として受け入れること。
人と比べてどうかという事に随分日常の生活で振り回されているのではないか、そう言う価値観から解放されたら新しい生き方ができるのではないか。
貴方たち一人一人、その肉体身体は生き生きと働いている、耳で音を聞き目ではものを見て鼻では香りをかぎ、口では話す、全て合わせてやっているものはなんだ、それが無位の真人がいきいきと働いている。(一生懸命に判ろうとしている)
肩書きを全部取っ払ってしまったら、それが無位の真人という事です。
無位の真人として現実の世界をどう生きるか、問いたいのは充実している人生は人と比べてどうこうと考えている自分の欲を満たすためだと生きていませんかという事です。
日常の世界を離れて、真人の世界に追い込んでみて、又日常の世界帰ってくるという、本当に日常の意味を知るためには非日常の世界に入ってそこから帰ってこないと日常の世界は判らないのではないでしょうか。
非日常の世界 一つは禅の世界、世俗の価値観を離れた世界。
自由 禅の言葉 自らをよりどころにする。
本当の自分をよりどころにして生きてゆく、それが真の自由。
神仏でなくても、なにかをよりどころにして生きている。
禅の世界は、本当の自分をよりどころにして生きて行きましょう。
盤珪 永琢(ばんけい えいたく)和尚のそばに目の不自由な老人がいて、私は目が不自由なものだから人の言う事を耳で判断する、人の言葉は不思議なもので言っている言葉と違う響きが聞こえることがある。
隣の家でおめでたいことがあり、大抵の人の言葉が「よかったねえ」という言葉が自分には嫉妬の響きに聞こえ、隣の家に不幸があった時に、「お気の毒に」と慰めの言葉を言うが、自分にはその不幸が自分には起こらなかったという安心の響きがある、人間とはそういうものだ、ところが盤珪 永琢和尚は不思議な人で「よかったねえ」というと「よかったねえ」と聞こえ、「気の毒になあ」というと「気の毒になあ」としか聞こえない。
盤珪 永琢和尚は無に生きているので、相手のおめでたいことは自分のおめでたいことと同じように言えるし、不幸も自分の事の様に思える、仏教の言葉で「同悲同苦」と言います。
自己を「空」、「無」にして「同悲同苦」を可能にする。
本当の修行は現状公案 辛いことなかなか解決できないことが次々に起こってくるので、それに立ち向かう、私たちが生きてゆくのは公案の修行を日々重ねているのと変らないと思う。
「苦」は満たされないこと、苦にあふれた人生をほんとうの自分として生きてゆく、それは公案の修行と同じだと思います。
2015年11月13日金曜日
故・深谷義治さんの二男・敏雄 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵(H27/7/28放送)
故・深谷義治さんの二男・敏雄 孫・富美子 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵
(H27/7/28放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
(H27/7/28放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
2015年11月12日木曜日
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる(H27/6/24 放送)
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる(H27/6/24 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_24.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2015年11月11日水曜日
小栗康平(映画監督) ・映画の原点に立ち戻る
小栗康平(映画監督) ・映画の原点に立ち戻る
1945年生まれ 早稲田大学第二文学部卒業後、フリーの助監督となり、浦山桐郎、篠田正浩監督等の映画にかかわります。
1981年に宮本輝原作、「泥の河」で監督デビュー、日本映画監督賞、モスクワ映画祭銀賞を受賞するなど高い評価を受けました。
「伽倻子のために」、「死の棘」を製作、「泥の河」と合わせて戦後三部作と位置付けられています。
1996年に自身の脚本で「眠る男」を製作、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞しました。
今回制作の映画「FOUZITA」は2005年製作の「埋もれ木」以来10年ぶりとなる作品です。
戦後70年、自身も70歳を迎えた小栗さんに、戦争を挟んだ激動の時代に日本とパリに生きた世界的画家藤田嗣治を通して伝えたいものは何かを伺います。
「FOUZITA」 画家藤田嗣治
1920年代パリの寵児として華々しくもてはやされた人ですが、その評価はそのまま当時の日本にあったわけではなかった。
日本美術界では やっかみがあった。
戦時中、戦争協力画を描いた事に依って、敗戦後に美術界の戦争責任を藤田一人が一身に負わされる形になる。
日本を出てフランスにもどり、それ以降日本には戻らず、フランス国籍を取り洗礼を受けてレオナール・フジタに変わった。
藤田は一般的に知っている程度だった。
フランスとの合作となった。
3年前から話があった。
藤田自身が著作権の権利に慎重な人だったが、君代さんもデリケートに維持していた、戦争画の問題が一番大きいと思う。
エピソードの多い人間なので、面白おかしくエンターテーメントにしようと思えば出来なくない人物なので、いろいろな映画人が映画にしたいという風な希望は持っていたらしいが、君代さんがガンとしていやだといっていましたが、或るいきさつの中でどうぞという話になって同意書を持って私のところに来ました。
絵を全く使わないで藤田を描く事は不自然なので、絵を使うことは最低条件なので、映画に絵を使っていいという許諾が無い限り映画は成立しなかった。
1920年代の裸婦と戦時中の日本の戦争画の二つを並べて、描きたいというのはごく最初から自分で決めたことです。
波風の多い人生を生きた人ですが、個人の個性から来るものがあったと思いますが、何よりも文化の衝突だと思います。
江戸末期まで油絵は無かったが、東京芸大をでて、単身でパリに行って、あそこまで売れて、格闘して、そのことから来る衝突とか歪とか、いろんなものを抱えて、いろんなものを引きずったと思うし、現在の我々の問題でもあるわけです。
戦争画を敗戦後すぐにマッカーサーが集めろと命じて、藤田が担当になっていて、後でいろいろな事を言われる原因にもなった。
絵がプロパガンダか芸術かで、評価が分かれて、芸術ならばアメリカが持ち去る権利は無い、結論が出ないまま扱いかねて、そっくりアメリカに持って行ってしまって倉庫に眠っていた。
その後政府間の交渉があり、永久貸与の状態で所有権はアメリカだと言われていて、140点のうち一割は藤田の作品です。
一挙公開の話もあったがいろいろと問題があり出来なかったが、、その後ぽつぽつと公開されてきて、今回所蔵している藤田の戦争画全作品14点が一挙公開されました。(12月まで公開)
藤田のエピソードは騒がしく、絵が持っている静けさ、波風の多かった歴史的人物を波風のまま描くのではなくて、それを静めた時に初めて撮れるなと思いました。
絵描きが主人公なので、絵を落としめない程度に映画もしっかりといい映画でなければいけないのでそれなりに考えました、絵画も映像も基本的には変わらないと思います。
以前の作品よりも丁寧にやりたいという感じはありました。
ほとんどパリでの撮影ですが、日本で撮っているシーンが何シーンかはあります。
前半はパリの生活のシーンですが、最初のシーンはパリで撮るのは難しいという思いがあり、フランスの役者に来てもらって日本で撮影しました。
パリの町並みは3階以上は1920年代と変わらないが、路面、一階、二階はCGで加工するというのが基本になります。
伝記という発想は持っていなくて、1920年代の藤田と藤田の生きたパリのモンパルナスの事物をしっかり見ようという見方で、同じようにしっかりと文化も背景も時代も異なる社会を、説明しなくても明らかな違いが浮かび上がって来るわけで、普段旅行等では気付かないことですが、違うということが歴然と判るのでそっちにかけたいという事が私は強かったです。
あまりにも今の世の中が判り易いことだけを相手にしている事について、映画に限らず社会全体に対して相当苛立つ思いがあります。
映画は、お客さんが入る事ということは、判り易く悲しい、嬉しい、切った張ったとかで企画が成立するわけでそこには組みしたくない。
前半がパリ、後半が日本、最後に又パリの戻り、藤田がクリスチャンになり象徴的に描かれている。
パリは動きがあり、日本は静かで色も抑えた感じになっているが、20年代藤田があそこまで売れるためにどれほど血みどろの格闘をしたか、どういう社会で格闘したか、ヨーロッパ近代の個人が戦い抜いて勝ちあがってゆく社会で藤田も勝ち抜いたわけで、40年代に日本でそういう社会があったかというと無かった。
明治以降の国民国家が形成されて、臣民という天皇の子という事でひとくくりになって、江戸社会が持っていた自然との共生とか、そういうものから40年代の戦時の日本と成ると、パリとでは明らかに社会も言葉もあらゆる事が違うわけで、違う事を藤田は両方生きたわけで、だからあとは考えてよと(聞きずらく正しいかは不明)、とは思います。
物凄く大きな違いを、矛盾を一緒に生きたわけで、それは人ごとではないでしょう。
27歳で藤田はパリに渡って、あちこちさまよい続けた人で、どこにも定着した事は無くて、戦後はパリでクリスチャンになって動かなかったが、幸せに居を定めていたかというとそういう気はしない。
藤田に日本に対して旅ではなく、もう少し奥深く日本の自然風土に踏み込んでほしい、そのための村を映画で用意したい、ちょっと幻想的な村の姿として感じられたのかもしれない。(?)
最晩年、教会の設計も全部やって、ステンドグラス、フレスコ画など藤田一人でやって、それを描きながら広沢虎造の浪曲を聞いていたというエピソードもあり、心の中はそう簡単ではないと思う。
小ぶりのかわいらしい教会で、奥さんも自分自身もそこに描いている。
表現って、最後は祈りの様なものだと思っていて、映画はその側面が凄く強いと思っていて、姿かたちを撮るわけなので、姿かたちをじーっと観るのが映画なので、最後は祈るしかないのではないかと思う。
映画はいろんなドラマなりがあると思うが、原点は人の姿をずーっと観る、人が生きた風景をしっかりと観る、ここだと思う。
観たあと最後は美しい気持ちになりたい。
騒がしく藤田像を捉えている人は多いと思うが、絶対そんなことは無くそれ以上2倍、3倍 背後に抱えた悲しみ、孤独はあるはずで、そこを観ずに華やかな行動だけで語るべきではないと思う。
「泥の河」から始まって6本しか撮っていないけれど、映画を続けていてよかったなあと思います。
1945年生まれ 早稲田大学第二文学部卒業後、フリーの助監督となり、浦山桐郎、篠田正浩監督等の映画にかかわります。
1981年に宮本輝原作、「泥の河」で監督デビュー、日本映画監督賞、モスクワ映画祭銀賞を受賞するなど高い評価を受けました。
「伽倻子のために」、「死の棘」を製作、「泥の河」と合わせて戦後三部作と位置付けられています。
1996年に自身の脚本で「眠る男」を製作、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞しました。
今回制作の映画「FOUZITA」は2005年製作の「埋もれ木」以来10年ぶりとなる作品です。
戦後70年、自身も70歳を迎えた小栗さんに、戦争を挟んだ激動の時代に日本とパリに生きた世界的画家藤田嗣治を通して伝えたいものは何かを伺います。
「FOUZITA」 画家藤田嗣治
1920年代パリの寵児として華々しくもてはやされた人ですが、その評価はそのまま当時の日本にあったわけではなかった。
日本美術界では やっかみがあった。
戦時中、戦争協力画を描いた事に依って、敗戦後に美術界の戦争責任を藤田一人が一身に負わされる形になる。
日本を出てフランスにもどり、それ以降日本には戻らず、フランス国籍を取り洗礼を受けてレオナール・フジタに変わった。
藤田は一般的に知っている程度だった。
フランスとの合作となった。
3年前から話があった。
藤田自身が著作権の権利に慎重な人だったが、君代さんもデリケートに維持していた、戦争画の問題が一番大きいと思う。
エピソードの多い人間なので、面白おかしくエンターテーメントにしようと思えば出来なくない人物なので、いろいろな映画人が映画にしたいという風な希望は持っていたらしいが、君代さんがガンとしていやだといっていましたが、或るいきさつの中でどうぞという話になって同意書を持って私のところに来ました。
絵を全く使わないで藤田を描く事は不自然なので、絵を使うことは最低条件なので、映画に絵を使っていいという許諾が無い限り映画は成立しなかった。
1920年代の裸婦と戦時中の日本の戦争画の二つを並べて、描きたいというのはごく最初から自分で決めたことです。
波風の多い人生を生きた人ですが、個人の個性から来るものがあったと思いますが、何よりも文化の衝突だと思います。
江戸末期まで油絵は無かったが、東京芸大をでて、単身でパリに行って、あそこまで売れて、格闘して、そのことから来る衝突とか歪とか、いろんなものを抱えて、いろんなものを引きずったと思うし、現在の我々の問題でもあるわけです。
戦争画を敗戦後すぐにマッカーサーが集めろと命じて、藤田が担当になっていて、後でいろいろな事を言われる原因にもなった。
絵がプロパガンダか芸術かで、評価が分かれて、芸術ならばアメリカが持ち去る権利は無い、結論が出ないまま扱いかねて、そっくりアメリカに持って行ってしまって倉庫に眠っていた。
その後政府間の交渉があり、永久貸与の状態で所有権はアメリカだと言われていて、140点のうち一割は藤田の作品です。
一挙公開の話もあったがいろいろと問題があり出来なかったが、、その後ぽつぽつと公開されてきて、今回所蔵している藤田の戦争画全作品14点が一挙公開されました。(12月まで公開)
藤田のエピソードは騒がしく、絵が持っている静けさ、波風の多かった歴史的人物を波風のまま描くのではなくて、それを静めた時に初めて撮れるなと思いました。
絵描きが主人公なので、絵を落としめない程度に映画もしっかりといい映画でなければいけないのでそれなりに考えました、絵画も映像も基本的には変わらないと思います。
以前の作品よりも丁寧にやりたいという感じはありました。
ほとんどパリでの撮影ですが、日本で撮っているシーンが何シーンかはあります。
前半はパリの生活のシーンですが、最初のシーンはパリで撮るのは難しいという思いがあり、フランスの役者に来てもらって日本で撮影しました。
パリの町並みは3階以上は1920年代と変わらないが、路面、一階、二階はCGで加工するというのが基本になります。
伝記という発想は持っていなくて、1920年代の藤田と藤田の生きたパリのモンパルナスの事物をしっかり見ようという見方で、同じようにしっかりと文化も背景も時代も異なる社会を、説明しなくても明らかな違いが浮かび上がって来るわけで、普段旅行等では気付かないことですが、違うということが歴然と判るのでそっちにかけたいという事が私は強かったです。
あまりにも今の世の中が判り易いことだけを相手にしている事について、映画に限らず社会全体に対して相当苛立つ思いがあります。
映画は、お客さんが入る事ということは、判り易く悲しい、嬉しい、切った張ったとかで企画が成立するわけでそこには組みしたくない。
前半がパリ、後半が日本、最後に又パリの戻り、藤田がクリスチャンになり象徴的に描かれている。
パリは動きがあり、日本は静かで色も抑えた感じになっているが、20年代藤田があそこまで売れるためにどれほど血みどろの格闘をしたか、どういう社会で格闘したか、ヨーロッパ近代の個人が戦い抜いて勝ちあがってゆく社会で藤田も勝ち抜いたわけで、40年代に日本でそういう社会があったかというと無かった。
明治以降の国民国家が形成されて、臣民という天皇の子という事でひとくくりになって、江戸社会が持っていた自然との共生とか、そういうものから40年代の戦時の日本と成ると、パリとでは明らかに社会も言葉もあらゆる事が違うわけで、違う事を藤田は両方生きたわけで、だからあとは考えてよと(聞きずらく正しいかは不明)、とは思います。
物凄く大きな違いを、矛盾を一緒に生きたわけで、それは人ごとではないでしょう。
27歳で藤田はパリに渡って、あちこちさまよい続けた人で、どこにも定着した事は無くて、戦後はパリでクリスチャンになって動かなかったが、幸せに居を定めていたかというとそういう気はしない。
藤田に日本に対して旅ではなく、もう少し奥深く日本の自然風土に踏み込んでほしい、そのための村を映画で用意したい、ちょっと幻想的な村の姿として感じられたのかもしれない。(?)
最晩年、教会の設計も全部やって、ステンドグラス、フレスコ画など藤田一人でやって、それを描きながら広沢虎造の浪曲を聞いていたというエピソードもあり、心の中はそう簡単ではないと思う。
小ぶりのかわいらしい教会で、奥さんも自分自身もそこに描いている。
表現って、最後は祈りの様なものだと思っていて、映画はその側面が凄く強いと思っていて、姿かたちを撮るわけなので、姿かたちをじーっと観るのが映画なので、最後は祈るしかないのではないかと思う。
映画はいろんなドラマなりがあると思うが、原点は人の姿をずーっと観る、人が生きた風景をしっかりと観る、ここだと思う。
観たあと最後は美しい気持ちになりたい。
騒がしく藤田像を捉えている人は多いと思うが、絶対そんなことは無くそれ以上2倍、3倍 背後に抱えた悲しみ、孤独はあるはずで、そこを観ずに華やかな行動だけで語るべきではないと思う。
「泥の河」から始まって6本しか撮っていないけれど、映画を続けていてよかったなあと思います。
2015年11月10日火曜日
岡本宮之助(新内節演奏家) ・新内節の魅力を伝える
岡本宮之助(新内節演奏家) ・新内節の魅力を伝える
1960年 昭和35年東京谷中生まれ 大正昭和平成の3代に渡って新内節で活躍した岡本文弥は大叔父にあたります。
幼少時から岡本文弥の芸に接してきた岡本さんは、19歳の時から本格的に新内節の世界に入り、浄瑠璃を岡本文弥に三味線を4世、5世の岡本宮染に師事したほか、邦楽研究科の平井澄子にも薫陶を受けました。
岡本さんは東京と大阪の稽古場で弟子たちを教えるほか、各地の演奏会で新内節を演じています。
古典や岡本文弥が残した作品を伝承する事に力を注ぐ傍ら、新作の創作と発表にも取り組んでいます。
新内節の将来を考えると、若い世代に新内節の魅力を味わってもらう事が大切だと言います。
弟子は10人位だと思います、最近若い子が入ってきました。
文弥は戦前から反戦の新内などを作っていて、70年を記念してやろうという事でやりました。
「西部戦線異常なし」、「河童の道行」(東京大空襲)等をやりました。
松山市で「ノボさん」上演、12年前に野上周さんの作詞家から持ち込まれた歌詩に私が節をつけたものです。
正岡子規の亡くなる時の場面で絶筆の三句が主題になっているもの。
新内節を知らない人が多いので、文化庁から補助金を頂いて、新内協会が若手後継者の育成の会をやっています。
鶴賀若狭掾さん、新内仲三郎さん(両者とも人間国宝)に最後に演奏してもらっています。
「伊太八」 演奏
「愛染めてより一日もカラスの泣かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないわいな・・・」
一中節が京都にあり、江戸に下ってあたらしい音楽をやろうという事で宮古路豊後掾と名乗り、豊後節は江戸で人気になり受けるが、禁止になってしまって(煽情的な歌詩と節で世の中を乱して心中が増えたという様な説) 江戸所払いになり、弟子が困って常磐津、富本(発展して清元に)などに独立、そこから富士松薩摩と名乗る人が出る。
そこから分派して鶴賀若狭掾がでて、大天才で沢山の名曲を作った。
その門下に鶴賀新内(美声家 1751年 - 1771年)がいて、新内という名が付きました。
(おおざっぱな歴史)
常磐津、清元などは歌舞伎と結びついて伴奏音楽として活躍するが、新内はそこに入れなかった、素浄瑠璃と言って、舞踊、歌舞伎とは深く関わらずに生きてきた。
中学時代は器械体操にのめり込んでいて、怪我をして腰を悪くして辞めざるを得なかった。
高校時代は子供会のジュニアリーダーを中心にして暮らしていました。
祖母が文弥のお母さんの芸養女に入って、ずーっと文弥の妹で演奏活動は一緒だった。
大学を落ちて、三味線を弾いてみないかと母から言われて、手ほどきを受けに文弥の家にお稽古に行きました。
周りからも期待があり辞めるのにも辞められない様な感じでした。
常に三味線の音の中で暮らしていました。
文弥も音を染み込ませる事が早道だし大事だと言っていますし私もそう思います。
修行は厳しいとは思わなかったが拘束時間が長かったのが大変だった。
岡本文弥 101歳で亡くなる。1895年生まれ
早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていた。作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。
威張る人が嫌、戦争が嫌という人だった。
文弥の母親が持ちものが沢山数があって、文弥も同様でした。
抱えていないで、どんどん演奏する事が大事なことだと思います。
「戦争は散らかすからいけない」(戦争はいけない)
「コツコツ生きる仕事をする」(一歩一歩クリアしてゆくしかない、毎日毎日ちょっとづつやっていればいつか花咲く時があるんだろう)
という様なことはよく言っていました。
谷中は外国人が多く来ていて、呼びこんで三味線などを弾いてもらったりしています。
マーケットはあるのかもしれないが、どこにあるのか判らないが、沢山の方に新内節というジャンルがあるという事を知っていただきたいと思います。
1960年 昭和35年東京谷中生まれ 大正昭和平成の3代に渡って新内節で活躍した岡本文弥は大叔父にあたります。
幼少時から岡本文弥の芸に接してきた岡本さんは、19歳の時から本格的に新内節の世界に入り、浄瑠璃を岡本文弥に三味線を4世、5世の岡本宮染に師事したほか、邦楽研究科の平井澄子にも薫陶を受けました。
岡本さんは東京と大阪の稽古場で弟子たちを教えるほか、各地の演奏会で新内節を演じています。
古典や岡本文弥が残した作品を伝承する事に力を注ぐ傍ら、新作の創作と発表にも取り組んでいます。
新内節の将来を考えると、若い世代に新内節の魅力を味わってもらう事が大切だと言います。
弟子は10人位だと思います、最近若い子が入ってきました。
文弥は戦前から反戦の新内などを作っていて、70年を記念してやろうという事でやりました。
「西部戦線異常なし」、「河童の道行」(東京大空襲)等をやりました。
松山市で「ノボさん」上演、12年前に野上周さんの作詞家から持ち込まれた歌詩に私が節をつけたものです。
正岡子規の亡くなる時の場面で絶筆の三句が主題になっているもの。
新内節を知らない人が多いので、文化庁から補助金を頂いて、新内協会が若手後継者の育成の会をやっています。
鶴賀若狭掾さん、新内仲三郎さん(両者とも人間国宝)に最後に演奏してもらっています。
「伊太八」 演奏
「愛染めてより一日もカラスの泣かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないわいな・・・」
一中節が京都にあり、江戸に下ってあたらしい音楽をやろうという事で宮古路豊後掾と名乗り、豊後節は江戸で人気になり受けるが、禁止になってしまって(煽情的な歌詩と節で世の中を乱して心中が増えたという様な説) 江戸所払いになり、弟子が困って常磐津、富本(発展して清元に)などに独立、そこから富士松薩摩と名乗る人が出る。
そこから分派して鶴賀若狭掾がでて、大天才で沢山の名曲を作った。
その門下に鶴賀新内(美声家 1751年 - 1771年)がいて、新内という名が付きました。
(おおざっぱな歴史)
常磐津、清元などは歌舞伎と結びついて伴奏音楽として活躍するが、新内はそこに入れなかった、素浄瑠璃と言って、舞踊、歌舞伎とは深く関わらずに生きてきた。
中学時代は器械体操にのめり込んでいて、怪我をして腰を悪くして辞めざるを得なかった。
高校時代は子供会のジュニアリーダーを中心にして暮らしていました。
祖母が文弥のお母さんの芸養女に入って、ずーっと文弥の妹で演奏活動は一緒だった。
大学を落ちて、三味線を弾いてみないかと母から言われて、手ほどきを受けに文弥の家にお稽古に行きました。
周りからも期待があり辞めるのにも辞められない様な感じでした。
常に三味線の音の中で暮らしていました。
文弥も音を染み込ませる事が早道だし大事だと言っていますし私もそう思います。
修行は厳しいとは思わなかったが拘束時間が長かったのが大変だった。
岡本文弥 101歳で亡くなる。1895年生まれ
早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていた。作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。
威張る人が嫌、戦争が嫌という人だった。
文弥の母親が持ちものが沢山数があって、文弥も同様でした。
抱えていないで、どんどん演奏する事が大事なことだと思います。
「戦争は散らかすからいけない」(戦争はいけない)
「コツコツ生きる仕事をする」(一歩一歩クリアしてゆくしかない、毎日毎日ちょっとづつやっていればいつか花咲く時があるんだろう)
という様なことはよく言っていました。
谷中は外国人が多く来ていて、呼びこんで三味線などを弾いてもらったりしています。
マーケットはあるのかもしれないが、どこにあるのか判らないが、沢山の方に新内節というジャンルがあるという事を知っていただきたいと思います。
2015年11月9日月曜日
大森安恵(東京女子医科大学) ・糖尿病患者と向き合う
大森安恵(東京女子医科大学 名誉教授) ・糖尿病患者と向き合う
高知県安芸市の生まれ 昭和31年東京女子医科大学を卒業。
日本の糖尿病と妊娠に関する研究分野を確立した方で、世界でも高く評価されています。
平成9年には女性で初めて日本糖尿学会の会長に就任されました。
現在は神奈川県にある海老名糖尿病院のセンター長を務めています。
診察をするには臨床研究とか学会の発表とか社会活動とか、診察以外のことがあるので本当に大変に忙しいです。
診察するには勉強しないといけないです。
11月9日から1週間糖尿病週間 昭和40年から始まる。
鯉に糖尿病があることを日本人が見つけている、現代病と思われているが古くからある病気です。
高知県の山村で生まれ、何故か物ごころついた時にはこの子は医者になる子と言われて育ってきました。
ハンセン病の治療をしていた小川正子先生が恩師で、ああいう先生になりたいという目標がありました。
女学校に行っていたときに、或る先生からこの学校からでは医学への試験は受からないと言われ、昭和23年都立桜町高校(優秀な学校だった)に2年の編入試験を受けていきました。
重圧は無く、やらなければならないという事だけでした。
東京女子医科大学 吉岡彌生先生の学校にあこがれていたので、入学しました。
ひたすら学問をさせられました、遊ぶということは無かったです。
吉岡彌生先生は戦争中に婦人活動をして公職追放されていて、解除されたばかりで、実際にお会いしたのは入学式の時で、ふくよかな優しい方でした。
新聞部に入っていて吉岡彌生先生に
インタビューをしたことがありますし、心から尊敬しています。
「苦しい事は宵越しをしない、今日あった苦しいことは今日片付ける。」
「人に講演、講義をする時には、必ず一番判りそうにない人の顔を見て講演しなさい。」
ということはよく言われました。
吉岡彌生先生と会えたことは、私の人生の幸せであったと思う事の一つです。
昭和34年に亡くなりますが、その時にも当直で亡くなられた時にお世話が出来ました。
昭和34年 結婚 相手は医者ではなかったので父親は絶対だめだと言われたが、何も言わずたった一言だけ「貧乏かもしれないけれども、心は貴族です」と言いました。
父には従わなかったので父親からは怒りと悲しみがあり、親と思ってくれるなと言われ、10年間はずーっと嘆いていました。
父は10年経ってやっぱりこの男と結婚して良かったねと言ってくれました。
医学はやればやるほど深くて、地元に貢献することが前提だったが地元には帰ることができずに、父親からは地域社会よりももっとおおきなところで貢献する様にという風に言ってくれて、10年後に許してくれました。
無給医局員の時に妊娠してしまって、流産してほしいと思ったこともあったが、死産してしまって、悲しみをこらえて診療している時に、偶然二人続けざまに糖尿病の診断がつかなくて死産した方を受け持ちました。
糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでないと言っていたが、悲しむ患者さんを前にして、教授が本を貸してくれて、1921年インスリンが発見されて、1923年には人類を糖尿病から救ったという事でノーベル賞を貰っていて、欧米では糖尿病の患者さんでも妊娠を許可していて、日本では間違っている事を感じた。(昭和36年頃)
糖尿病があっても妊娠できるという事を世の中に広め始めて、女子医科大学で第一例が生まれたのが昭和39年2月でした。
世間では妊娠するとおろされるという事がそれまで多々ありました。
忙しく仕事をしなければならず、私の心を汲んで子供がお腹の中で自殺した、というような思いがあり、子供が死んで導いてくれたと思います。
毎年毎年皇居のお堀端に彼岸花が咲くので、貴方が教えてくれて、導いてくれて日本の糖尿病の患者さんたちが妊娠ができるようになったので有難うって、お礼を言いに毎年欠かさず行きます。
死産の時に病院中が割れる様な泣き声を出して泣いて、赤ちゃんは見せてもらえないし、会っていないが、主人やしゅうとめからこんな子だったと言われ、想像はしています。
糖尿病と妊娠の分野を開拓するために子供が犠牲になって、導いてくれたと思っています。
糖尿病と妊娠の分野は私がやらなければいけないと思いました。
欧米では正常な妊婦さんと同じような血糖値にすれば糖尿病があっても大丈夫だということが確立されつつあって、むこうで一生懸命勉強しました。
昭和30年、40年代は糖尿病を隠して結婚した人がいて、50年代60年代は普通になってきましたが
糖尿病を周りに知られたくないという人、偏見を持って居る人はまだいます。
その後、子供二人を設けて大きくなっていますが、私はほとんど病院だったので、子供達はかわいがってもらえなかったといっていますが、仕事と子育てを両立する事は大学に行ったら大変難しいです。
心理学者の人から、スキンシップが少ないなら、必ず髪をとかしてあげなさいと言われて、必ずやっていました。
医学は日進月歩なので途中で中断したら、元に戻るには凄く時間がかかるので辞めるわけにか行かないので辛いところはありますが、常に勉強していなくてはいけないと思います。
いまだに学会には必ず行って発表もします。
高知県安芸市の生まれ 昭和31年東京女子医科大学を卒業。
日本の糖尿病と妊娠に関する研究分野を確立した方で、世界でも高く評価されています。
平成9年には女性で初めて日本糖尿学会の会長に就任されました。
現在は神奈川県にある海老名糖尿病院のセンター長を務めています。
診察をするには臨床研究とか学会の発表とか社会活動とか、診察以外のことがあるので本当に大変に忙しいです。
診察するには勉強しないといけないです。
11月9日から1週間糖尿病週間 昭和40年から始まる。
鯉に糖尿病があることを日本人が見つけている、現代病と思われているが古くからある病気です。
高知県の山村で生まれ、何故か物ごころついた時にはこの子は医者になる子と言われて育ってきました。
ハンセン病の治療をしていた小川正子先生が恩師で、ああいう先生になりたいという目標がありました。
女学校に行っていたときに、或る先生からこの学校からでは医学への試験は受からないと言われ、昭和23年都立桜町高校(優秀な学校だった)に2年の編入試験を受けていきました。
重圧は無く、やらなければならないという事だけでした。
東京女子医科大学 吉岡彌生先生の学校にあこがれていたので、入学しました。
ひたすら学問をさせられました、遊ぶということは無かったです。
吉岡彌生先生は戦争中に婦人活動をして公職追放されていて、解除されたばかりで、実際にお会いしたのは入学式の時で、ふくよかな優しい方でした。
新聞部に入っていて吉岡彌生先生に
インタビューをしたことがありますし、心から尊敬しています。
「苦しい事は宵越しをしない、今日あった苦しいことは今日片付ける。」
「人に講演、講義をする時には、必ず一番判りそうにない人の顔を見て講演しなさい。」
ということはよく言われました。
吉岡彌生先生と会えたことは、私の人生の幸せであったと思う事の一つです。
昭和34年に亡くなりますが、その時にも当直で亡くなられた時にお世話が出来ました。
昭和34年 結婚 相手は医者ではなかったので父親は絶対だめだと言われたが、何も言わずたった一言だけ「貧乏かもしれないけれども、心は貴族です」と言いました。
父には従わなかったので父親からは怒りと悲しみがあり、親と思ってくれるなと言われ、10年間はずーっと嘆いていました。
父は10年経ってやっぱりこの男と結婚して良かったねと言ってくれました。
医学はやればやるほど深くて、地元に貢献することが前提だったが地元には帰ることができずに、父親からは地域社会よりももっとおおきなところで貢献する様にという風に言ってくれて、10年後に許してくれました。
無給医局員の時に妊娠してしまって、流産してほしいと思ったこともあったが、死産してしまって、悲しみをこらえて診療している時に、偶然二人続けざまに糖尿病の診断がつかなくて死産した方を受け持ちました。
糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでないと言っていたが、悲しむ患者さんを前にして、教授が本を貸してくれて、1921年インスリンが発見されて、1923年には人類を糖尿病から救ったという事でノーベル賞を貰っていて、欧米では糖尿病の患者さんでも妊娠を許可していて、日本では間違っている事を感じた。(昭和36年頃)
糖尿病があっても妊娠できるという事を世の中に広め始めて、女子医科大学で第一例が生まれたのが昭和39年2月でした。
世間では妊娠するとおろされるという事がそれまで多々ありました。
忙しく仕事をしなければならず、私の心を汲んで子供がお腹の中で自殺した、というような思いがあり、子供が死んで導いてくれたと思います。
毎年毎年皇居のお堀端に彼岸花が咲くので、貴方が教えてくれて、導いてくれて日本の糖尿病の患者さんたちが妊娠ができるようになったので有難うって、お礼を言いに毎年欠かさず行きます。
死産の時に病院中が割れる様な泣き声を出して泣いて、赤ちゃんは見せてもらえないし、会っていないが、主人やしゅうとめからこんな子だったと言われ、想像はしています。
糖尿病と妊娠の分野を開拓するために子供が犠牲になって、導いてくれたと思っています。
糖尿病と妊娠の分野は私がやらなければいけないと思いました。
欧米では正常な妊婦さんと同じような血糖値にすれば糖尿病があっても大丈夫だということが確立されつつあって、むこうで一生懸命勉強しました。
昭和30年、40年代は糖尿病を隠して結婚した人がいて、50年代60年代は普通になってきましたが
糖尿病を周りに知られたくないという人、偏見を持って居る人はまだいます。
その後、子供二人を設けて大きくなっていますが、私はほとんど病院だったので、子供達はかわいがってもらえなかったといっていますが、仕事と子育てを両立する事は大学に行ったら大変難しいです。
心理学者の人から、スキンシップが少ないなら、必ず髪をとかしてあげなさいと言われて、必ずやっていました。
医学は日進月歩なので途中で中断したら、元に戻るには凄く時間がかかるので辞めるわけにか行かないので辛いところはありますが、常に勉強していなくてはいけないと思います。
いまだに学会には必ず行って発表もします。
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