2015年9月30日水曜日

2015年9月29日火曜日

2015年9月27日日曜日

小川さゆり(山岳ガイド)      ・御嶽山噴火 その時私は

小川さゆり(山岳ガイド)       ・御嶽山噴火 その時私は
死者行方不明者63人、戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火から1年になります。
去年のこの日、お客さんをガイドする下見として一人で御嶽山に登っていました。
山頂に到着した直後山が噴火し、岩の下にあった穴に身体の半分をかくし、砕け散った噴石が当たったものの辛うじて生還する事が出来ました。
小川さんが生き延びたポイントは何か、山にかける人生に噴火はどの様な影響をもたらしたのか伺いました。

ガイドの仕事、100%は安全ではない山にどうやってお客さんを安全に連れて行けるか、リスク管理、万が一何か起きてしまった時にどれだけ早く対処できるか、という事です。
山で亡くなる人を見たのと、友達が雪崩に巻き込まれて亡くなりました、その時に山岳ガイドと一緒に行っていたんですが、ガイドになりたいなと思いました。
日本山岳ガイド協会の認定ガイドになっています。
私は雪山、岩の登坂はガイドとして行けません、夏山の縦装をメインにやっています。
中央アルプスがメインです。(木曽駒ケ岳、空木岳、恵那山 は有名  標高3000m弱)
ガイドだけで70日ぐらい、プライベートで120日ぐらいは行っています。

噴火当日、御嶽山に登っている。
一週間後にお客さんをガイドするので下見に行って、頂上に11時30分に着きました。
特に8合目あたりの紅葉が綺麗でした。
土曜日、天候もよく普段より頂上にいる人は多かったです。
お鉢めぐり(旧噴火口の周り)に向かおうとしていた時、背後からドーンという音がして振り向き見上げると噴煙が上がっていて、空一面に黒い粒が見えていて噴火だと思いましたが、噴火するとは全く思っていませんでした。
吃驚して、石が降ってくる前に隠れようと思いました。
登山道のわきにあった岩に張り付き身を縮めました。
視界を遮る濃いガスにまかれて、卵の腐った強烈な臭いがするガス(硫化水素)で息ができなくなりました。
息を吸うと余計苦しくなったが、喉を押さえてのたうちまわっている様な状況で、窒息して死ぬんだなという事を意識しました。

冷たい風が急に入ってきて、気がついたら普通に息ができるようになり、頭をあげると一瞬青空も見えて、視界もありました。
ガスのにおいはしていましたが、きつくはなかったので、一の池という急斜面があるので30mぐらい走って降りて、岩の下に小さな穴があったので頭を入れて背中までは入ったが、腰、右足は入れませんでした。
又ドーンという大きな音がして自分の手が見えないほどまっ暗闇になって、噴石が降ってきました。
たまに薄っすら見えるような状況でした。
噴石の砕けたものが右足にバンバンあたっていました。
家に帰ってみると右足の外側は真黒になっていましたが、特に怪我は問題なかったです。
その時はこれで終わりかなと、恐怖でしたが、噴火が終わってくれることを祈るだけでした。
主人にもう一回会いたいなあと思いました。
噴火から噴火が終わって逃げる瞬間まで1時間有ったと思います。(噴火は3回 爆発音はずーっとしていました)

噴火は3回目が一番大きくて新しい火口ができてその場所から350mぐらいのところにいた。
最初バスケットボールぐらいの大きさの岩で電子レンジ、洗濯機、一番大きいのは軽トラックぐらいの岩が降ってきた。(50分ぐらい続く)
何とか生きて帰りたいと思ったが、軽トラックぐらいの岩を見た時にはなるしかないなと思いました。
あっという間に視界が広がり、全貌が見えるが、黒一色でした。
3mm程度の火山礫で覆われていて50cm以上は積もっていて、さらさらと新雪のような感じでした。
4人の登山者に会うが、3人の男性は負傷は無く女性が脛に骨折をしていた。
全身が隠れる岩を探したが無くて、最短ルートで山小屋へ飛び込みました。
小屋の人に怪我をしている人の救助要請して、そして下山を開始しました。
噴煙をみた時に直ぐに危険と判断してどれだけ早く命を守る行動に移れたのか、それから最後に運だと思いますが、行動する事で運を引き寄せたと私は思っています。
剣が峰の連続写真があるが、1分ぐらい視界があり、どこよりも生きる可能性があったのが剣が峰だったんですが、一番多く亡くなったのが剣が峰でした。
60秒の判断、をどのようにするのか、瞬時に判断して逃げた人は助かっています。

普段から自分で考えて判断する事を常に意識していないとだめだと思います。
意識しないと自分のものにならないので、意識しないと駄目ですね。
「自分の身を自分で守る」、あたりまえの言葉ですが非常事態の時にどれほどの人がその行動に移れるのか、どれほど常に意識しているのか、ということだと思います。
ヘルメット被る、シェルターを作るとかの動きがありますが、物で解決するほど自然は甘くないのではないかと思います。
山の危険というものに対して本当に真剣に考えるようになりました、今までも考えていたつもりですが、本当につもりだったと思いました。
自分の身を自分で守るということを、お客さんに言っていますが、言葉は重くなったと思います。
山は生きていると言う想いはなかったのですが、噴火の時に山は自らの意思があるのかなあと感じました。
山は怖いところだと思います、条件が悪ければ人の命を簡単に奪ってゆく場所ですが、こちらの向き合い方を真剣に考えればそう怖い場所ではないのかなあと感じます。
ガイド登山でも自分で考えて判断して行動できる自立した、絶対生きて帰ってくるという登山者になってほしいと思います。











2015年9月26日土曜日

一龍斎貞水(講談師)       ・人間国宝講談師の高座60年

一龍斎貞水(講談師)         ・人間国宝講談師の高座60年
16歳でプロの講談師になった一龍斎貞水さんは2002年に講談師として初の人間国宝になりました。
貞水さんは昔から演じられている怪談ものを守りながもくぎょうや雷の効果音を使い、赤や青の照明等で雰囲気を醸し出す立体怪談を演じてファンを驚かせ、怪談の貞水と言われるようになりました。
今では怪談噺だけで年間およそ150席になります。
講談は守るべきものと開拓すべきものがあるとおっしゃる一龍斎貞水さんに伺います。

高校1年生になってその5月から高座にあがりました。
お金がなかったので都立高校に行く様に親からいわれて、都立工芸高校(工業高校)に行こうとして、願書を持っていこうとしたら誰も友達が皆行かなくて、普通科の都立城北高校を受けに行ったら、受かってしまった。
担任が音楽の先生で、工業高校へ行くための勉強しかしていなかったし、音楽、英語、数学が得手としてなくて、面白くなかった。
父親は絵描きだったが、邑井貞吉先生が父と友達だった。
或る日邑井貞吉先生のところに行って、役者になろうと思っていると言ったら、芝居も講談も元は同じ芸の極意は同じだと言われて、役者になりたいのなら上野の本牧亭に出演しているので一緒に来給えと言われた。
邑井貞吉先生がやってご覧と言われて、講談はNHKのラジオで聞いただけなので、知っている物2つを5分ぐらいやった。
邑井貞吉先生は当時講談組合の頭取で、一緒に学生服を着ていったので孫だと当時前座だった田辺一鶴が勘違いして、待遇が良かった。
邑井貞吉先生がさっきやったことを高座でやってごらんと言われ学生服で高座にあがった。

それで学校にはいかないで本牧亭に通って、講談の世界に入るようになった。
父は何も言わなかったが、邑井貞吉先生には心配で聞いていたようだったが先生はそのうち辞めるだろうと言っていたようです。
やっているうちに段々好きになった。
趣味でやっているうちはいいが、生きてゆく道だと思うと逆に辛いと思う。
邑井貞吉先生の紹介で一龍斎貞丈先生の弟子になり、貞春という名前で始めた。
最初お客がいない高座の時を狙って練習をしたりしていた。
一龍斎貞丈師匠は講談をしゃべる人間からやれと言う事で、最初お茶を入れること、先輩の着物をたたむことから始める。
心使い、気配りができるかできないか、を楽屋で皆見る。
気配りができない、心がこもった仕事をしないものが、高座に上がった心のこもった話芸をやる訳はあり得ない。
楽屋の仕事をちゃんとできる人はどんなに下手でもお客さんはちゃんと聞いている。
心がこもってしゃべっているが、いい加減な者は上っ面でしゃべっているから直ぐお客さんが離れて行ってしまう。

「らしくしなさい」と言っている、前座は前座らしく、前座なのに真打ち「ぶるんじゃない」と言っている。
怪談は目立つ、本来は難しいと思う。
話だけなのでお化けが出てきても怖くはない、言葉だけで幽霊をあらわすので、人物をはっきり語りだせなかったら怪談は成り立たない。
怪談はテーマは現代的、善い人もいれば悪い人もいる、騙すやつがいれば、騙される人もいる、足を引っ張る人もいる等、そういう人間が怪談噺には出てくる。
怪談で話す幽霊はお化け屋敷の幽霊ではない。
怪談で照明、道具、音響等を使うが、そういうものに自分の講談が負けてしまうと何にもならない。
そういうのを相手にして自分が語っていかなければならないので難しい。

立体怪談 しゃべりながら照明、音を出す等一人でやる。
昔は若い歌い手は将来ミュージカルをやりたいと言っていたが、考えたら芝居があり音楽があり、歌、踊りがある、講談ミュージカルは何がいいかと思ったら、民謡講談だと思った。
講談をしゃべる、民謡が流れる、照明、背景がある、踊りを踊る。
民謡講談で使った方法を、キャバレーで怪談噺をやってホステスが怖がってお客にしがみついたりして喜ばれた。
うちの師匠は講談がうまくできたら怪談をやってもいいと言っていた。
立体怪談を年間140~150はやっている。
段々道具類は重くなってきている。
2002年人間国宝になる。(間違いではないかと思った。)
偉大なる未完成が一番いいと思う。
壁にぶち当たるには有る程度分かってきたから壁にぶち当たる、壁を乗り越える為のテクニック等を身に付けば、さらに高い壁があり、それの繰り返しであり、一番偉大な未完成で終われればいいんで、完璧だと思ったらそこで止まってしまう。

















2015年9月25日金曜日

海老彰子(ピアニスト)       ・ピアノはわが師、わが友

海老彰子(ピアニスト)        ・ピアノはわが師、わが友
現在、フランスのパリを中心に活躍しています。
東京芸術大学1年生の時に、日本音楽コンクールで優賞したあと、フランスに留学し、パリ国立音楽院を首席で卒業されました。
その後様々な国際コンクールで輝かしい成績を収め、今では世界各地で演奏を行っています。
最近ではご自身の演奏活動のほか、ピアノコンクールの審査員や審査員長を務め、今年は10月にワルシャワで開かれます、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も初めて務めることになっています。

4月にショパン国際ピアノコンクールの予備選で160人近くの方を74人に絞るという審査をしました。
1974年から40年以上パリで活動をしています。
今はフランスだけではなく世界各地に演奏に出かけているので、パリでの生活だけではなくなりました。
両親がピアノを演奏させたいとの思いがあったようで、3歳半の時に姉と一緒に広島で勉強を始めました。
母はピアノが好きで、父はバイオリンとクラリネット、サックスフォンをやっていました。
音楽を職業ではなく趣味でやっていました。
4歳の時に「声くらべ腕くらべ子供音楽会」がNHKのラジオで有り、出演しまして、今も録音テープがあります。
8歳でNHKのTVの「ピアノのお稽古」に出させて頂きました。
最初の頃はピアノはやりたくなかったが、7歳の時からはピアニストになりたいと思う様になり、自分で楽しんで曲に話を作りながら勉強していました。

高校は東京芸術大学の付属高校、大学は東京芸術大学に進学する。
高校の同級生には野平一郎さん、作曲家の高橋裕さんとか他にもいろいろいらっしゃいます。
大学3年の時にパリに給付留学生として留学する事になりました。
事前に先生が決まっていたが先生が別のところに行く事に急に決まって、3カ月宙ぶらりんの状態に一時なり精神的にも厳しく、言葉の勉強もやってようやく9月にパリに入れるようになりました。
ようやく勉強する事が出来ました。
アルド・チッコリーニ 先生、有名なピアニストについて勉強する事が出来ました。(入学試験の後)
5年間勉強しました。厳しかったです。
1年の時にアルド・チッコリーニ先生からコンクールに出ないかという事で1975年ロン・ティボーの国際コンクールに参加、2位となり、課題曲に対し併せて、アルトゥール・ルービンシュタイン賞をはじめとする4つの特別賞も受賞。
1980年ショパンコンクールに出場
5年に一度 国を挙げてやっているコンクールですが戒厳令が敷かれていた年でした。
優勝は ダン・タイ・ソンさん(ベトナム 22歳) 私は5位でした。
第一次予選の時は今までで一番緊張しました。


大江光さん(大江健三郎さんの息子)の作品を演奏するようになる。
江戸京子さんが主宰される東京音楽祭に招待されて、ショパンを弾いてほしいとの依頼があり、
そのあとに江戸さんの家で大江光さんと一緒になり、後日楽譜を頂く事になる。
大江健三郎さんからお話があり、ピアノとフルートの録音をするようになる。
(大江光さんの作品を収めた2枚のCDは、いずれも日本ゴールドディスク大賞を受賞して話題となり作曲家、演奏家ともに脚光を浴びた)
光さんの純粋な感性というのが、私たちをなごませてくれた様な思い出がいっぱいあります。
浜松国際ピアノコンクールで審査員長、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も行う予定。
マルタ・アルゲリッチさんも今回審査員です。
コンクールの前のオープニングコンサートで彼女がチャイコフスキーのピアノコンチェルトを弾く事になっています。
浜松国際ピアノコンクールでは審査員としてマルタ・アルゲリッチさんに来ていただく事になっています。
ショパン国際ピアノコンクールには日本から12名参加します。
浜松国際ピアノコンクールでは449人の人が応募、87人が残る事になりました。
人生とは何かなあと考えますが、なるべくいい伝統をバトンタッチしてゆく、それに尽きるのかなあと思います。
技術だけでなく、人間としての生き方、いいと思うものを伝えていければと思います。
いろんなピアノを弾いてきたので、出来るならばショパンが弾いた時代の古いピアノ等を含めて、いろんな種類のピアノで録音を少しずつ残していけたらいいと思います。
昔のピアノは普通に弾いてはあまり音が出ないので、音が出るようにするにはどうしら良いか考えると音楽に集中して弾かないと駄目、古楽器は意義のある経験を教えてくれるところがあります。






2015年9月24日木曜日

海部宣男(国立天文台名誉教授) ・自然を知りたいという心とともに

海部宣男(国立天文台名誉教授) ・自然を知りたいという心とともに
1943生まれ 専門は電波天文学、赤外線天文学 長野県野辺山の電波望遠鏡、ハワイの世界最大級の望遠鏡、スバル望遠鏡の建設で中心的な役割を果たしました。
その後国立天文台台長を務め、南米チリの標高およそ5000mの高地に国際共同プロジェクトで大形の電波望遠鏡アルマ望遠鏡の建設にも携わりました。
2012年から3年間は世界の天文学者の集まりであるIAU国際天文学連合の会長として活躍され、このほどその任を終えました。

加盟国は70カ国ぐらい、個人の天文学者は1万1000人ぐらいです。
副会長は前にやっていたが、会長は荷が重いと思っていた。
最期が非常に忙しかった。(総会が行われる)
IAUの組織全体を大がかりに変更する。
IAU国際天文学連合 教育活動、普及活動に非常に熱心に取り組んできた。
世界的に広めるために開発のための天文学のオフィスを作った。
国連加盟は180いくつあり、天文学を本当に研究できる国はそれほど多くはないと言う事です。
大学教育の支援、小、中、高の学校の教育の支援、一般の方への普及活動をやろうと言う事でIAUの10年計画を立てて、丁度私のところで道半ばで軌道に乗った。
オフィスを南アフリカ(ケープタウン)に建て、非常にうまくいっている。
支部を6カ国に作っていった。

世界にはアマチュア天文学者がいっぱいいるので、研究者とアマチュアを結ぼうではないかという事で、天文学普及オフィスを作って、日本の三鷹につくり面白い活動をたくさんしています。
太陽系外惑星が何1000とあり重要な惑星に名前を付けようと、世界のネット上での投票にかけて選ぶと言う、皆で名前を付けようとしています。
日本の中学、高校が非常に熱心です。
野辺山の電波望遠鏡等を作ってきましたが、日本は孤立していると言う印象を持った。
世界の天文学と対抗しようとすると、相手は巨大なアメリカと、強固な連合を持っているヨーロッパで日本は一人で、アジア諸国の協力が必要だと思った。
韓国、中国、台湾、日本はお互いの頭を飛び越して、アメリカ、ヨーロッパと行ったり来たりしていてお互いの事はあまり知らないのでおかしいと思った。
経済、政治は違っても文化は共有しているので、近いと言う事と文化を共有していると言う事は学問の世界でも非常に大事で、だからヨーロッパは連合していて、アメリカはカナダと密接につながっている、何故アジアだけできないのかという発想があった。
1990年ぐらいから共同で中国、台湾、韓国、日本で東アジア天文学会議をずーっと続けてきました。
段々協力が育ってきて、天文学も盛んになってきた。

プラネタリュウム 日本では星の話はギリシャ、ローマ神話をやっている、北京、インドネシアでも同様にやっておりこれは変だと思った。
アジアにはアジアの沢山の星の話が有るはずだと思って、アジアのお互い同士が知り合うと言う事を是非やりたいと思っていて、世界天文年でプロジェクトを立ち上げようと思って、13カ国から集まった。
シンポジュウムを三鷹でやったら、60数名集まって話も100ぐらい集まって、それを本にする計画を立てた。
去年日本語版ができて英語版を進めているところです。
大事なことは絵を入れた、話を出した国の画家が描かないと文化は絶対に伝わらないので、絵も含めて文化を感じてほしいと言う事が狙いです。
英語版を出版すれば、それを元にして元の国の人が自分の国の言葉に翻訳して出してもらうという事です。

小学校6年~中学1年に掛けて自分で望遠鏡を作って、観測をやったが、宇宙、自然は不思議な面白いものだと思っていた。
山、谷を見ても不思議に思った。
火山でのないのになんで山があるんだろう、なんで谷があるんだろうと思っていた。
「自然界の脅威」という本を買ってもらって、自然の地形、造形がどうやってできるのかが判ってきて、自然とは何て凄いんだろうと思って、それがずーっと有ります。
背後にある物理法則、長い時間が作りだす自然の営みが、宇宙そのものにつながってゆくわけです。
宇宙も自然の一環として凄いものだと、そういったものをもっと知りたいと思った。
研究やるんだったら今まで誰も知らなかった新しい自然の驚きを見つけてやりたいと言う想いが一番の動機です。

電波天文学、赤外線天文学 星や太陽からも電波が出ていて、無線が発達して電波を受けることを覚えて、光ではなくて電波を受けて光と同じようにそれが何であるかを調べる。
電波で見ると、人間の目で見えなかった、全く違う物が見える。
電波天文学が始まって光と合わせて、宇宙とはこういうものだと言う事が理解できたと思います。
星は何からできるか、判らない、星ができる前の物質は温度が低い、電波でしか見えない。
星が烈しく爆発するときには、エネルギーが散らばっていくが光では見えなくて、電波では見える。
星がどうやって生まれるか、星が一生を終って死んでどうなるか、大きなサイクルが光と電波を合わせてようやく見えてきた。
銀河系等から来る電波は弱いので受けられない、波長の短いミリ波を受けたら新しいことが判るだろううと 赤羽賢司森本雅樹先生らによる宇宙電波グループに参加、小さいミリ波電波望遠鏡(口径6m)を作った。
アメリカのタウンズ氏(ノーベル賞を貰った人)が宇宙にも化合物の電波があるはずだと言う事で見つかり、大きな分野になるのではないかという事でそっちの方に大きく転換した。

長野県野辺山の電波望遠鏡 ミリ波観測(口径45m)を作る。
世界でも驚いた、いきなり新しい大事な分野で世界一の望遠鏡を作った。
日本の天文学の大きなステップとなった。
宇宙の暗黒の冷たい雲があるが、その雲から星ができる事は観測してだんだん判ってきて、星ができると星を回りながら暗黒の冷たい雲は細かい個体の粒を含んでいて、それがくっついて惑星ができる。
暗黒星雲がどういう材料で出来ているか徹底的に調べたら、有機物、炭素の化合物がいっぱい見つかった。
われわれの体は有機物で出来ているが、宇宙にはそれのもとになる様なものができていると言う事が非常に面白かった。
これは科学として研究できるかもしれないと思ったのが非常に大きな収穫だった。

スバル望遠鏡(光)の製作にかかわる。
惑星ができる所を観測できる可能性のある望遠鏡。
INLTでは親しまれないからと提案して スバルという名前を付ける。
清少納言が星はすばるだと言ったぐらいなので、イメージが鮮やか。
日本が世界に追い付くためには一足飛びが必要だった。
ミリ波電波望遠鏡(口径6m)から口径45mへと冒険はあったが自信はあった。
日本にあった光の望遠鏡はイギリスから買った岡山にある1.9mの望遠鏡だったが、自前で8.2mの望遠鏡を作るが、日本の技術力も進んでいて着実にやれたと思います。

「初心忘るべからず」という事を常に思っている。
最初の想いは非常に大事で、新鮮、純粋。
大型計画が十分理解されていない部分があるので、是非やらなければいけないことを分野全体の支持でやってゆく、そういう考え方が必要なのでもっと組織的にやっていこうと言う事でマスタープランが出来るようになり、そこにかかわっていきます。
日本は科学雑誌が少ない、アメリカからは2桁少ない。
日本の科学者の幅の狭さがある、もっと社会に広く科学の関心が広まっていかないと危ないと思います。
出来るだけ科学を、科学の精神を広めていきたいと思います。









2015年9月23日水曜日

南 慧昭(勝光寺)        ・仏心を歌で届ける

南 慧昭(勝光寺)          ・仏心を歌で届ける
1942年昭和17年、800年の歴史のある勝光寺の長男として誕生しましたが、寺を継ぐ道を選びませんでした。
鹿児島大学を卒業し、東京の大手食品会社に勤め企業戦士として働きました。
52歳の時、勝光寺を守っていた次男で副住職の光洋さんが病気で亡くなり、南さんは再び人生の選択を迫られました。
悩んだ末60歳まで会社に勤め、2年間の修業を積み勝光寺の住職として迎えられました。
その時に生まれたのが仏の教えを歌で届ける歌説法です。
小さい時から歌が大好きな南さん、大学時代はグリークラブで、社会人になってからは地域の合唱の指導者として、活躍しました。
その実績を修行した寺の長老が知るところとなり、音楽の経験を布教に生かしたらどうか、と勧められ歌説法が誕生しました。
今は自ら作曲した曲を寺や公民館、福祉施設、会社の研修会などで歌い、仏の心、教えをつたえています。
南こうせつさんは南さんの弟さんです。

勝光寺の住職を10年務めています。
修行したのは周りは平均年齢23歳で、私は60歳なので健康面を含め不安は感じました。
10年間色々あったなあと思いだしました、あっという間でした。
お寺の環境を是非解放したい、遊んでくださいと思っています。
40,50年前はお釈迦様の誕生日には甘茶を頭から掛けてあげて皆にふるまってくれる、檀家とかに関係なく頂きに来ていました。
以前よりもお寺に接する機会が少なくなりました。
甘茶の会を気候の良い5月上旬に行っています、お経をあげて、甘茶を振る舞って、本堂で音楽会をやります。
集まった方が全員参加してもらって、皆で歌ってもらいます。
楽しんでもらって、お寺、お坊さん とっつきにくいそいうものから、接していただければと思っています。
本堂にピアノがありますが、こうせつから貰いました。

子供の頃は本堂が役所、病院などが近くにあったりして会議の集会場等になっていて夜になると、宴会場になって酔っぱらった人から歌を歌えと言われて、歌って喜ばれたのを覚えています。
今考えると、毎回やるので、自己紹介したり、お話をしたり歌う事に慣れてしまったようです。
出前歌説法、出掛けて歌で説法する、心の健康について歌うんだよという事です。
きっかけは、修行して何とか卒業する事が出来て、長老から音楽を初めいろいろ経験してきたのだから、是非新しい布教のスタイルでお説法を作り上げてみたらどうかと言われた。
バブルの崩壊の時期で、世の中が一変してどうしようもなく、世の中でとんでもない事件が起きてきて、皆さんが精神的に不安定になり、是非心の健康をテーマにして明るい世の中にしてゆくように、新しい布教のスタイルを作ってみたらどうかと言われました。
特に童謡を入れてみたらどうか、一方通行ではなく皆で歌ってもらたらどうかと思った。
今日は楽しかったと思ってもらえればいいんだと言う事を、先ず実験をして、良い反響があって広がっていった。
童謡は不思議なもので皆覚えている。

地域の公民館活動で、老人会、等で来てくれないかとの話もあり、企業の方からも話がありました。
友人とともにオリジナルの歌も作詩、作曲したりしました。
「我が家が一番」
「親子三代住みなれて家族のきずな太くなる。 春の雨音叩いても、大きな掌受けとめる。
ひとの心のぬくもりを貴方は教えてくれました。 見守りがわらの頼もしさ。」
作詩 梅小路孝史さん(友人) 作曲は私です。
皆さん、手拍子をして、歌詩カードを皆が見て判るわけです。
歌はただ話だけでなくして、手拍子をしたりしていると、みな生き生きして最後には笑顔になってきます、それが一番説法していて楽しみです。
人と人の繋がり、繋がっていけば笑顔ができてきて、結果的には心の健康に繋がり、歌の役割は非常に大きいのではないかと思います。
大きな大きな人の輪 お布施の歌
「有難うございますと、心をこめて素直に言えますか。 どれほど親しい中であれ、人に施しを受けたなら感謝の気持ちを表しましょう。」
最後に歌ったあとは皆さん笑顔になる。
笑顔が出ると言う事はそれが一番素晴らしい、音楽の力は素晴らしいと思います。

周りからはお寺の跡を継ぐんですねとしょっちゅう言われて、子供の頃はお寺が好きではなかった、派手で楽しい方がよかった。
母親からは、世の中に出て思いっきり自分が暴れなさいと言ってくれた、凄いと思った。
しかし最後に、うちは1196年に大友能直候が作ったお寺であり、子供が4人いて誰も継がないのは世間の笑い物になると言ったのが重い言葉だったが、子供の意志で自分の道を選んで行くとギブアップしないが親から言われるとかならず人のせいにすると思う。
兄も飛び出し、私は東京、弟も都会に出たが都会と合わず戻ってきて副住職になる。
私は企業戦士で目の前を走っているだけだった。
52歳で神田の社長になった時に、バブル崩壊となった。
大変だという事で勉強会があったが、豊かにはなったが心はちっとも豊かにならないと皆が言う。
弟も亡くなり、別世界に行く事になる。
健康で有れば60歳からの人生は絶対楽しい、大事にして下さいと皆さんに言っています。

心の健康
人間には煩悩があり、煩悩があるがゆえに、色々邪魔をする、或いは人生を楽しくすることもある、どちらにも働く。
戻らぬ過去にとらわれず、まだ見ぬ未来に夢追い過ぎず、何とかなるさの気楽さで今を楽しく過ごしましょう。
過ぎ去った事はどうしようもない、夢は持つ事は素晴らしいが、追い過ぎてしまってはいけない。
苦しい事は色々あるが一歩踏み出せば、次の動きが出てくる。
坐禅 
姿勢を正し、ゆっくりと腹式呼吸、目線1m先、半眼 手を組んでゆっくり落ち着く。
雑念が起こるが放りだす、何度もやるうちに少なくなってくる。
神経をゆっくり休める時間、結果的に自分の心を見つめ直すことになる。