2015年8月30日日曜日

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)
重要無形文化財保持者に認定されました。 
祖母の四世 井上八千代さん 父観世流能楽師 片山幽雪さんに続いての3代続いての人間国宝になります。
井上流は日本舞踊の流派の一つで、200年の歴史があり、京都で発展したところから京舞いとも呼ばれています。
明治時代 三世 井上八千代の時に京都祇園の都踊の振付を担当してから広く知られるようになりました。
井上八千代さんは四世井上八千代の孫にあたります。
2歳の時から舞いの稽古を始め、14歳で名取りに、20歳で祇園の舞踊教師になり、2000年に5代目井上八千代を襲名しました。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になりますが、伝統を守りつつ、新しい芸風を確立しようと日夜研さんに励んでいます。

元日は普通にお盃ごとをしてお雑煮を頂きますが、近年は、東京に家があるので、関東風のお雑煮を頂きます。
2日は舞い初めをすることになっており、どこにいようが舞い初めをするようになっている。
12月13日が京、大坂の習慣で、お正月の事をその日から始める。(すす払いなど含め)
祇園の芸舞妓さんも鏡餅を持って、ご挨拶に見えて「おめでとうさんどす、どうぞ相変りませず、よろしゅうお頼み申します」と挨拶します。
名取りは稽古場の舞台のひな壇に鏡餅を並べます。
挨拶に来られた祇園の芸舞妓さんに対してお返しに扇を差し上げます。
正月のご挨拶は、祇園の始業式があり7日に行う。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になり、早くて吃驚します。
京舞いはゆっくりした地味な舞いで、今の時代のテンポからすると、緩やか過ぎると言う事はあると思いますが、良さを考え直して、どこかに今のものを見つけていかないといけないと思っている。

名跡を継ぐ10年前から先代から継いでくれるようにいわれていた。
2000年には95歳にっなっていたので、祖母がどうしても継いでくれと言ってきて、主人に向かって直談判をして、五世を引き受けることになった。
名跡を継いでから10年過ぎから、周りの空気となじむ、心の優しさみたいなものを考えながら舞を舞わないと人になれないなという気持ちがわいてきて、還暦を過ぎて生まれ変わって子供の様な気持で舞えるようにと思っています。
初代 二世はあまりよく判っていない、三世井上八千代が語ったこと、作った舞い、振りから判っていることが井上流の歴史としての初世、二世の事なんです。
初世は本名が井上で舞をしていて、 御所務めをして色々学んで、宿下がりをしてから井上流の舞を始めた。

子供がいなかったので姪を養女にして、二世八千代が舞台に掛けられる様な舞を工夫して作ったと言われ、能、義太夫等を参考にして、華やかなものもこしらえた。
三世八千代 片山晋三と結婚した人が井上春子(三世八千代)。
明治維新以降京都を華やかにしようと、博覧会を考案して、芸子をレビュー式に舞台に上げて見るものを作りたいという発想で、振付の白羽の矢が立ったのが三世八千代でした。
それから祇園との結びつきが大きくなりました。
「みやこ踊り」と名付けたのが三世でした。
それまで女性が舞台で踊る事は興行としては無かったらしい。
四世は三世が70歳ぐらいになって入門、これなら後をさせられると言う事で家に留まって四世となった。(私の祖母)
四世には男の子しかいなくて、子供達は能楽師になり、孫の私が継ぐことになる。

祖母の50~60歳代の盛りの歳は技術的にもきらびやかな大変技術に秀でた人でした。
70,80,90歳と段々優しいなと、90歳代の頃はただあるがままにそこに人があると言う事を見せてくれたなあという気持ちでいます。
四世の芸風は大地に根の生えたような力強さと、生まれたての瑞々しさを併せ持つという様な人だったと思います。
小学校に上がる前、三世の追善会、お客様に見せる会に出してもらったが、突然怖くなった。(物凄く怒られた)
それからは怒られ通しでした。
井上流の基本姿勢は腰を落とす、かかとを上げる。
言葉も発しないので、お客様のイメージに訴えることが大きいので、お客様との緊密な空気感みたいなものが必要とされるのが舞いの世界かと思います。

「虫の音」 能楽の松虫で男の舞いですが、祖母が何度も作りなおしながら自分が舞ってきた。
なにごとにも縛られずに、舞を舞って人がある事で命の尊さを見せてくれたなあと言うのが私の見方です。
後継者には娘がいて、先ずは自分が受け継いだものを伝えたい、周りの人の舞台を観ることによって吸収して自分が何をしたいかという事を自分自身が考えながら舞を舞ってほしいと願っています。

2015年8月29日土曜日

中道治久(京都大学准教授)    ・火山に暮らし、火山を知る(H27・2・14放送)

中道治久(京都大学・桜島観測所准教授)    ・火山に暮らし、火山を知る(H27・2・14放送)
桜島のふもとに在る観測所で調査研究を続けています。
ここでは研究者が24時間交代で桜島の火山活動を観測しています。
対岸の鹿児島市の市街地に住む中道さんも毎日のようにフェリーで通い、週に一度は泊まり勤務をしながら、この火山を見つめています。
これまでに東北の岩手山や、御嶽山などを研究の対象にして来た中道さんに山の異変をどうキャッチして防災に生かしてゆくべきなのか、火山とどう向き合えばいいのか、伺いました。
8月15日に噴火レベル4の噴火警報が発表されました。

桜島観測所、正面に桜島が見えていて、いつでも見れるようになっている。
インターネット回線と自前の電話回線で、各火山観測施設から常時データが集まってきています。
地震の揺れ、地盤の傾き、GPSといったデータがすべて来ています。
他に3つ、すす書きの地震記録装置で、50年前と変わらない方法で、紙の上にかぶったすすを引っ掻くように地震の波を書く事をしています。(ドラム形式)
理由
①その時の地震や微動の多いか少ないか、振幅が大きいか少ないか、紙に描いている方が一目で判る、デジタルですといちいち起こして処理しなくてはいけない。
②50年前と変わらない方法で取っていれば、直ぐに30年前、20年前と言った時点と記録の比較ができる。
維持するには手間がかかるが、やっているのはここだけです。
ガスバーナーで炎を出してその先に紙をあてて、ドラムが回りながらすすを付けてゆく。(所員作業する)

地面のふくらみや傾きを計る機械があり、その記録が常時モニターされている。
昭和火口は1946年に噴火して溶岩が流れたが、火口での噴火が2006年に再開して、2008年には爆発噴火し始めていて、今に続いているのでライブカメラがあり、噴煙が流れている映像がある。
いろんな手法で多角的に見ている。
桜島では過去に、天平、文明、安永、大正、昭和と噴火を繰り返してきています。
去年は大正の噴火から100年になります。
今は急ではないが、マグマに入っている火山ガスが出ている状態です。
安永の噴火は海底で起こり、地面を持ちあげるので津波が起こる。
1914年(大正3年)で大きな爆発があり、人的な被害もあった。
1913年から霧島等で地震や噴火が始まりました。
同年6月、薩摩半島でマグニチュード6近くの地震が続けて起こる。
1914年1月11日に桜島で身体に揺れを感じる地震が起こり始めて、噴火につながると言う事で一部の集落では避難を開始する。

有感地震が増えてきて1月12日に中腹で白煙が上がってくる。
(井戸の水位も下がってきていて、白煙が上がる頃には井戸の水位がグーッと上がってきた。)
海岸では水蒸気が上がる事が観測された。
午前10時すぎには山腹から噴煙が上がってきて、警察の要請で島民の非難が始まった。
3000人が助かった。
大正噴火は島の形を変える様な大きなな噴火だった。
島の東側と西側から噴煙を上げて、噴煙が収まる頃には溶岩流が流れてきた。
東側の溶岩は、桜島は島であったのが、大隅半島とくっついてしまった。
西ノ島 火山島ができてどんどん広がるのを真近で見られたのは、近代的な観測装置で観測できるのは世界中が注目している。
昭和30年、人が亡くなる様な噴火があったが(北岳)、それ以降南岳で噴火が続いている。
桜島観測所が1960年設立、70年代活発になったので、危なくなってきたので、ふもとの方に観測所が移ってきた。

活火山、休火山、死火山と昔は習ったが、こういう区別は無くなっている。
1979年御嶽山の水蒸気爆発で無くなりました。(記録には無かったが突如噴火した)
火山と共に生きてゆくという視点が必要ですね。
火山の中味をよく知っておく事と、よく観測を続けること、噴火の危機が事前に判れば直ぐに非難する事が大事です。
日本には活火山と呼ばれるものが、110有り、気象庁が24時間常時観測している火山が47有り、その中に大学等が連携協力している火山がその一部にある。
京都大学では昭和35年から桜島をずーっと観測してきている。
2005年から名古屋大学に在籍して、御嶽山の観測調査に当たる。

当時御嶽山は地震が起こる場所だと言われていて、2007年初めに沢山地震が起こって、3月に小さな噴火があった、その2か月前に山の地下で水蒸気爆発が起こるときに現れる様なゆっくりとした地震を見つける。
緊張して気象庁と情報交換をした。
山のふくらみは解消されないままになっていた。
水蒸気爆発は一般的に予測は難しいと言われる。
山頂直下で地震がいっぱい起こったと言う事はマグマの動きが始まったというサインで、水蒸気爆発の可能性が高まったと言う意味では、噴火を警戒するレベルは上がってもいいと思います。
あんな水蒸気爆発が起こるとは、思ってもいなかった。

桜島など爆発噴火を繰り返す火山を対象に、噴火に至る場合と、しずしずと火山灰を出すような場合とで、前兆となる地震、山体の膨張がどう起こるか、どう違うのかを明らかにするのと、爆発する噴火としずしずとだす噴火で、仕組みがどう違うかという研究に注目している。
災害を防ぐ意味では地球物理、岩石学、地球化学、気象、等だけでなく、砂防等の工学、避難の時の社会学、心理学とともにやってゆく必要がある。
学者だけでなく住民、自治体と一緒になって協力してゆく事が重要だと思っている。
その実践の場が桜島だと思っていて、ここでやっている事が世界の災害軽減につながってゆくと思ってます。
机の上に座っている人ではなくて、現場に行って現物を見てくる人が増えてくると嬉しいです。

桜島の最新情報
8月15日に懸念されていた大きな噴火の可能性は低くなり、今は目だった噴火は起こっていません。
警戒レベル4になった時は、午前7時過ぎから地震が起こり始めて、午前8時40分頃から傾斜計等に大きな変化が起き、9時頃から地震が多発して一気に噴火に向かうのではないかと緊張が走ったので警戒レベル4になる。
噴火しても不思議ではなかったがその後変化は、減速してきて大きな噴火はしていません。
現在は継続的に水蒸気を火口から出していて、爆発も8月15日以来現在までありません。
爆発が減ったのは火口が目詰まりして来たための様です。
8月19日火口の調査をしたが、噴石、礫等が火口の中に溜まっているのがはっきり確認できます。
防災には最新情報が必要で、現在どこが立ち入り禁止になっているかとか、噴火したらどこに影響が有るかを確認してもらいたい。








2015年8月28日金曜日

2015年8月27日木曜日

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医・東大准教授) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)

医学部に行った際、臨床はできないという心構えで行ったが、学生は全員病院実習をする。
大学病院のすべての科を回って、1~2週間ずつ臨床のはじっこを経験する。
小児科を回った時に、原因体験を連想させられた。
リハビリの時の記憶、治るために一生懸命耐えた風景に、他の科に感じない、心に留まった経験をした。
臨床をやれるかどうか、やってみたらという意見もあり、やってみることにした。
一人暮らしの教訓は不安なことがあったら飛びこんでみて、不安を課題に変えましょうという教訓だったので、飛びこんだら課題が明確になって、優先順位が付けられるのではないかと、一人暮らしの教訓を生かそうと思った。
大きく違ったのは、一人暮らしと仕事の違い、これは非常に次の学びだったと思います。
失敗もまた楽しい(一人暮らし)、仕事では失敗は患者さんに危害を加えることになる。
お手本通りに近づけるようにしようとする、そこに悪循環が始まる、あせり、不安として解釈して、身体が動かなくなるので、目標から遠ざかる、その悪循環が始まり、臨床は難しいと思う様になった。

職場が変わって、地域の忙しい病院の小児科に行く事になる。
無理だと思ったら進路を変えようと思ったが、忙しいところではお互い監視する間が無くて、早く育てて自分が少しでも休めるようにしたいと周りが思うし、人が足りないので助け合わなければ仕事がこなせないと理解しているように感じました。
その空間が助かった、お手本があるのではなく、タスクが先ずあり、タスクをこなすには柔軟でいい、という助けあって臨むという柔らかい組織だった。
お互いが癖を理解していて、スタッフは完璧な人はいなくて、癖を抱えながら補い合ってチームを組んでいる。
結果として、私がいるときにはこんなふうなサポートをすればいいという、スタッフが了解してゆく空間を作っていけた。
見本通りではなくても、例えば採血がちゃんとできればいいという事になる。
初めて一人で当直をしたが、救急車も何台も来たが何とか一晩こなせて、一睡もせず朝を迎えた時にほっとしたら、一緒に一晩迎えたスタッフがやってきて、救急車が来た時に立ちあがっていましたと言われて、自分では記憶にはなかったが。

目の前の痙攣している赤ちゃんに注意が向かっている時に、自分を振り返る余裕がなくて、タスクをどうこなすかという事だけに注意が向かっていて自分という存在が消えた時に、脳性まひの体は一番動きやすくなる。
能力、障害は身体の中に在るのではなくて、人と人の間に能力が生成したり、タスクと集団との間に能力みたいなものが生成したり、だと思う。
身体の外に能力とか障害があるという一例だと思う。
どれだけ周囲に頼れるか、ということが能力を決めるし、本人の特質で生じるものではなくて、関係で生じるものだという事が基本的な考え方だと思います。
障害があろうが無かろうが、子供の発達は依存しなくなるという事ではなくて、依存先を増やすことだと思う。

成長するに従って親だけではなく、他にも依存できる人が増えて行ったり、道具、乗り物にも依存してそれまでできなかったことができるようになって、依存先を増やして行くプロセスが発達、自立であったりする。
障害をもっていると世の中の道具、人々のデザインが体に合わない、健常者の人にあう様に作られている、依存先が増えていかない。
健常者の方が依存先が沢山ある、少数派は駒が少なくて、多数派は社会の中に依存する駒がたくさんある。
公共交通機関なども同じ、依存先の数が健常者のほうが多い。
一つの駒に対する依存度の深さは、依存先が少ない方が深くなる。(奪われた時のダメージが大きい)

脳性マヒの研究も続けているが、私の中に見えやすい問題の部分と見えにくい問題の部分がある、見えにくい問題に痛みという問題があり、研究が少ない。
発達障害、依存症などにも関心をもっています。
見えやすい、見えにくいの違いは、一つは広い意味での言語化ができるかどうかとかかわっている。
人に伝えられれば、依存先も増えてゆく。
言語化できる障害と言語化しにくい障害の間の序列化の問題が気になっている。
言語化できるニーズは強い、交渉するにあたっての配慮、ニーズは言語化できる人は議論のテーブルに着いた時に、自己主張できるが言語化できないと我がままを言っているという様なうまく言葉にならなくて、感情的になったり落ち込んだり、という事になりがち。
私たちの社会が身体障害の人に合った公共交通機関のデザインを持っていないと同様、言語のデザインも少数派に合っていない、言語も多数派に合ったものとしてデザインされている。
不利になってしまう事を気にしています。

当事者研究、例えば自閉症本人が研究者になって、自分の経験について新しい言葉を生みだすという発想。
聴覚で言うと「感覚飽和」という言葉を発表した。
外から入ってくる感覚が頭の中を埋め尽くす状態。
外から見た時は自閉症という言葉が、内側から見るとこういう言葉になりますという事を打ち出すわけです。
言葉ができると見えるものになる、見えにくい障害が見えるようになると混乱、混沌としていたこれまでの人生が本人の中でも整理がつく様になり、周囲と共有する事が可能になる。
脳性まひの二次障害の現象、少し障害が重くなる、これまでなかった症状が新たに出てくる現象。
二次障害の側面・・・①前よりできなくなる。 ②痛い。
①→恐れるに足りない(新しい生活を組みたてればなんとか解決する)
②→病院で治すしかないのか?  手術をして良くなる人もいるが悪くなる人もいる。
痛みの問題 文献を読んだり当事者研究等を重ねてきて、私は「痛みはあるけれどもそれがどうした」という付き合い方をしている。
困難(痛み)を無くそうと思うと痛みが強くなる。(逆説的だが)

痛みは原因ではなく結果かもしれない、痛みを問題化しすぎないで、痛みとどう付き合って行くかという事に注意を向けるという事で実践しています。
痛みにしてもそうですが、身体の異議申し立てに対してねじ伏せ様とすると、問題が肥大化する。
身体の声はわずらわしいが、声を無理強いして消すような方向でやってしまうと際限なくなる。
身体の異議申し立ては何か生活を見直すきっかけをくれているかもしれない。
問題を解決するよりも問題をシェアーすることが、楽になるという事が凄くあります。
失禁も秘め事だったが、自分の恥ずかしいこと、情けないことがあらわになり、共有してもらう事で生きていける、希望が湧いてくる。
隠されたもの、多くの人が自分だけで解決しようとしてきている事が膨大に有って、言語化もなされないまま、水面下でねじ伏せられていたり、膨大な苦しみが世の中にあって、ねじ伏せられる方に動いているが、隠されても隠しきれない人間の事実だと思うので、それが明るみになるというのは研究そのものというか、人間はこういう存在なんだという知識が増えてゆく。

人間はこうでなければならないと言う対極、どんな人生に転がって行っても、何とかそのあとも続くんだという安心感、いろんな人生があって、どれも先があると言う、安心感。
苦労が少ないと言う事には価値を置いていない、知ると言う事は私の中では、世界はこうなっている、人間はこうなっている、という事をより多く知ると言う事が価値だと思っている傾向があって、苦しみが減ると言う事は2番目ぐらいに大事だと思っていて、知ることが一番大事なことだと思っている。
知ると言う事のためには苦しみが無いと知れないと言う事はあると思う、自分の思い通りにならないから色々考えたり思考したりする、其れに依って知ると言う事が待っている。
せっかくの苦しみを知ることも無くつぶしてしまったらもったいない、そこから何を知識として得られるのか、封じたまま苦しみだけの解決をしてしまったら、何だか違う様な気がする。
知る機会を与えてもらっているのであれば、ラッキーだと思います。






2015年8月26日水曜日

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医・東大准教授) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)
1977年山口県生まれ 38歳 生まれた直後の高熱などが原因で、脳性まひとなり手足が不自由になりました。
健常者に近い動きができるように物ごころつく前からあざができるほどの厳しいリハビリを受けますが、成長とともに除々にリハビリを止め自分らしい暮らし方を模索し始めました。
障害について深く学びたいと医学部に進学、東京大学を卒業後は小児科医として診療にあたりながら、障害と社会の関係を研究しています。

トイレ、食事等はサポートが必要なので長時間移動の時にはサポートが一人つきます。
車椅子を使う様になると、立てなくなるという風に間違った思い込みがあり、2000年以降に段々違う事が判ってきたが、当時は皆が信じていて車椅子を使わない様な指導がなされていた。(腹這いで床を移動、或いは乳母車みたいなものを利用)
中学生から車椅子を使う様になった。
生まれて3日目に高熱が出て、そのまま意識を失って、救急救命室に入って、2カ月後退院時には脳性まひの障害が残っていた。(感染症、髄膜炎等のトラブルがあったのではないか)
脳のどこかに損傷があり、その場所に依って表れ方が違って、私の場合は運動野という場所で手足を動かす指令をする場所。
特徴は首から下が緊張している状態(寒くは無いが、寒い時に体がこわばる様な状態)
今のリハビリはその人らしい生活のスタイルを健常者と同じでなくていいから、実現しようと言うものだが、当時は健常者にしてしまおうという様な目標を打ち立てがちな時代だった。(90%治るという様な文献が出ていた時代だった。)

実現しない時に、努力が足りないのではないかという風に自分を責めるし、親も巻き込まれてゆく。
1時間半ぐらいの訓練を、母と一緒に毎日4~5回ぐらいするので5~6時間になっていた。
嫌だけれどやる習慣がついたが、段々とこの習慣は何でやってるんだろうと気付く事があった。
3歳ぐらいの時に、意を決した表情でリハビリは止めたいと母に言ったそうです、母は一瞬ひるんだがねじ伏せて母は続けることを選んだが、私の顔つきがぱっと変わって目線が宙を向いたそうです。
この児は何も言っても駄目だと、あきらめの表情をしたのを今でも焼きついていると、最近母が言っていました。(ここ数年当時の両親の思いを聞く機会がある。)
修羅場の様なリハビリの風景なので、祖母などはそんなにやらなくていいのではないかといさめていたが、当時の母はやれば治るのにやらないなんて考えられないと思って、リハビリへの情熱は揺るがなかった。
憎いと言う気持ちと同時にここまですべてをなげうって、自分のためにやってくれている事は、子供心に判るので、最大の財産として親から貰っていて、どこかしら屈託なく信じられる自分のキャラクターがあるとすれば、それは親からもらっているものだろうと思う。

70年代は治るということが信じられていたが、80年代からあれは嘘でしたという論文が書かれるようになり、実際に治っていない自分があり、不安になって行き、親が死んだ後自分はどうなるのだろうと考えて、親の介護が無くなることで自分も死ぬのではないかと思う様になる。(小学校低学年の頃)
夜な夜な怖くて泣くというのがしばらく続きました。
中学のころに、父が市役所の職員で、障害をもった担当の部署だった。
父を介して大人の障害の人達との出会う機会ができてきたのが中学生の頃だった。
障害者のまま普通に生活している光景を目の当たりにした。
感じた希望は凄く大きなもので、健常者にならなくても生きていけるらしいと、非常に安心感を覚えた。
そこから早く先輩たちの様な暮らしをしたいと思う様になった。
中学生のころから、親がいない状況で生活がしたいと思う様になった
その欲望が高まってゆき、大学では一人暮らしを始める。(東京大学)
引っ越しは親が手伝ってくれたが、当時販売を開始した携帯電話を枕元に置いてゴロンと寝転んだのがとっても新鮮だった。
トイレ、食事、その他の欲求不満を経験できることが新鮮だった。(それまで全て親に頼っていた)
欲求を絞ってゆくと ①トイレ ②ご飯、③お風呂、④外出 
優先度を考えると ①トイレ  トイレを解決すれば何とかなるかもしれないと、課題が明確になって行った。

トイレまでの距離の実感、リハビリの膝たちの実感、便器への座り方など、限界まで体を動かしてみることで腰のひねり具合、手の動き、足の踏ん張りなど新たな発見があった。
失禁をしたりしながら、目標を達成しようとするが達成できなかったりして、その失敗にも快楽を感じる様なこともあって、じんわりと来るような喜びみたいなものを感じたりした。
自分の体が社会的な規範に対してまだ足りないのではないの、というメッセージが生理的な欲求の方から知らせてくれている、突き上げてくる、そこに快楽がある。
失敗があるお陰でそれに突き動かされるように、トイレを改造してトイレがバリアーフリーになって行った。
社会の形と自分の形が歩み寄ってゆく様な、その楽しさです。(一人暮らしで初めて気が付く)
失禁をした時に、見ず知らずの人がどの程度サポートしてくれるのかに関心をもった。
トイレに行きたいと思った時に声を懸けた時、相手の変化があり、たじろぐ人と前のめりになる人がいて、そういう人は安全だと思うしそういう人に声をかける、相手が一人だと断られることが多いのでカップル、複数のグループの人たちに声をかける。

集団でいる人の方が声をかけやすい。
介助者との関係においては、言葉の開発をして行かないといけない。
介助者の癖、限界を考えて、相手に指示を出すにはどうしたら伝わるのか、安全のためにいつも考えている。
介助者と阿吽の呼吸(親と同じように)の距離ではなく、言語化すると相手との間に距離が開いてそれがちょうどいいと思っている。
山ほど助けてくれる人がいるという事を知った、社会は案外優しい場所だと身を以て知ることができた。
最近どんな状態になっても生きていけると思うようになった。
8歳に思っていた、親が死んだ後自分はどうなるのだろうという不安な思いの明確な解答が得られた、それが私にとっての一番の財産です。



2015年8月25日火曜日

鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター)  ・フラに癒やされた介護の日々(台風情報のため休み)

鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター)  ・フラに癒やされた介護の日々(台風情報のため休み)

2015年8月24日月曜日

野崎健作(漆芸作家)        ・今、伝えたい 犬養木堂のことば

野崎健作(漆芸作家・元県立高校講師)    ・今、伝えたい 犬養木堂のことば
昭和18年岡山県たまの市生まれ 中学卒業後電力会社に就職、定年後、社会人教員の募集に応募して、岡山県高橋工業高校電気科の教員として採用されて11年間教壇に立ちます。
22年前平成5年岡山市の犬養木堂記念館で開かれた講演会に行きました。
講演は昭和7年5・15事件 首相官邸で犬養首相襲撃の生き証人の今木あさ子さんの体験談でした。
その時の犬養木堂(毅)の言葉「話せば判る」は暴力を否定した民主政治の原点という想いで、自らの体験を通じてこの言葉を語り伝えていたのでした。
野崎さんは今木あさ子さんの話に感銘を受けてその体験を録音させてもらいます。
戦後70年野崎さんは幼いころの記憶、戦争で手足を無くした傷痍軍人の姿が今でも忘れられず、いまきさんの残してくれた犬養木堂の言葉を今こそしっかり伝えて行きたいと思っています。

犬養木堂記念館で講演会があり、参加したが、最後に夕方来られたら詳しい話をして上げますという事で出かけたら、話(テープにとった)をしてくれた。(その時友人と二人だけだった)
今木あさ子さん(お手伝いさん)が隣りでお茶を入れている時にパンパンと音がして、行ってみると、首相が血まみれになって「いまの若いものを呼んでこい、話せばわかる話せばわかる」という話を伺った。
犬養木堂記念館は平成5年10月に開館、その記念講演だった。
今木あさ子さんは明治44年生まれ 宮城県立石巻高等女学校を卒業後、犬養家に勤務、電話交換手兼お手伝いさんとして犬養総理の世話係の一人、当時22歳、平成10年87歳で亡くなる。

「昭和7年5月15日 日曜日の夕方のことです。 耳鼻科の大野先生が来られる日でその用意やら3時のおやつを出し、5時頃お茶にしました。
・・・・軍人が入ってきて軍靴のままけ破って「総理どこだ総理どこだ」と言って来た、「悪漢だ、悪漢だ」いっていたが、其れまではなにがなにやら判らなかった。(まさか軍人が総理を殺しに来るとは思わなかった)
・・・首相が血まみれになって「いまの若いものを呼んでこい、話せばわかる話せばわかる」と言う最後の言葉として言葉を聞いた。
軍法会議に毎日呼ばれたが、軍人を悪く言えない時代だった。・・・・。」
あの悲しむべき狂変を知っている人は極めて少なくなりました。
私は総理の最後を知る生き証人として、あの時のお言葉を多くの人に語り続けて今日に至りました。
武力暴力を否定した民主政治の原点と言うべき「話せばわかる」のお言葉が永遠に不滅の大教訓として生き残る事を切に願っています。
「話せばわかる」という言葉は今の若い人でも知っている人が多い。
今木あさ子さんは郷里の墓のところにこの言葉を、後世に残すために碑にして残した。

私は直接の戦争の記憶はないが、小学校の頃は戦争の後遺症は残っていた。
学校教育に於いても非常に影響(軍事教練的な)したと思う。
長男は大学に行った、次男も高校にいったが私は中学を卒業して就職する事になり、その辺の運命は非常に違う、大学を出ていれば違った人生を歩んだとは思うが、これがいいと思わなければいけないと理解している。
夜間高校を2校卒業(当時夜間高校卒業するのは半分程度だった)
岡山県の教育委員会が一般からたまたま教師を募集する、電気、工芸、福祉に関する各分野を募集していた。
電気は電気会社にいた、工芸は漆芸をやっていた、福祉は手足の不自由な人のボランティアをして全国を回って、お母さん方に数百人聞いてきたりして、心のケアをして認められて、デンマークに半月行かせてもらった経験がある。
大野昭和斎 倉敷市出身の人間国宝の人と一緒に作品も撮っている。

お母さんたちが心の中で悶々としていて、殺したり、捨てたりする事件がいっぱいあるが、泣きながら叫びながら話す場が必要だと思って聞いてきました。
遺伝学の先生の言われるには、おなかの中で交通事故に遭う様なもので、何万人に一人は生まれています。
お母さんたちは話して自分の気持ちが晴れる場が欲しい、子供を育てる励みになると思う、そいう意味で聞いてきた。
サラリーマンと教師は仕事の内容はまるで違う、一番最初教壇に立った時公式を書いたりしたが、或る生徒がそれは違いますと言われてしまった。
生徒の参考書の内容と説明は違っていたので特にことなきを得たが。
問題を起こした生徒に特別教育をする、学校には出るが教室には入らずに、別の部屋で個人的に行うが、印象に残った先生は誰かと聞いたら、2人居てその中に私もいてその生徒は良かったと言ってくれた。
「話せばわかる」 すべて人間が生活する上で、かならず対話、会話、心と心の話、個人のレベルでも国と国との話でも同じで、話すことの大切さ、言葉の大切さが大事です。
戦争ほど残酷、悲惨なことはない、平和こそ幸せなものはない。