丹下セツ子(大衆演劇座長) ・我がブラジル旅役者人生に悔いなし(H27.4.8放送)
女優丹下キヨ子さんの長女、丹下セツ子さんは昭和39年 母キヨ子さんに呼ばれてブラジルに渡りました。
キヨ子さんが日本に帰り、亡くなった後もブラジルに住み続け、10年後に丹下セツ子劇団を立ち上げ、日本人のいる場所を全部回ってから日本に帰国しようと思ったとの事。
しかし、ブラジルは広く、どこへ行っても大盛況だったので、これほどまでに自分を必要としてくれるのならばと、定住を決意して、50年が過ぎました。
ときどき日本に帰って大衆演劇の役者を楽しんでいる丹下さんに伺いました。
毎年ブラジルから日本に来る。 永住権でブラジルに住んでいる。
今回は一番長い。(11月12日~5月16日)
沢竜二劇団と一緒にずっと7000km余りの旅をします。
見聞劇場のこけらおとしに沢竜二劇団と一緒に行きました。
そこでは1日2本 1カ月間違う内容の興行をする。
24歳の時にブラジルに行きました。
母がブラジルに行って、銀行の15周年に呼ばれて1カ月公演に行った。
ブラジルを気に入って、永住したいと言ってブラジルに行く。
私は劇団の座長になりたかったが、当時劇団をもつのに100万円かかった。(私の給料は3000円だった)
母が劇団の仕事を手伝ってくれたら100万円くれるというので、1年間だったら行こうと思った。
母はナイトクラブをやっていて、私は藤間流の名取りさん等と一緒にショーをやっていたが、
母は日本に帰ってしまった。
以前、大江美智子 不二洋子 合同公演を見て、女剣劇、こういうところに入りたいと思っていた。
母はこういう方向に行く事には反対だったので、後で考えるとそれで私をブラジルに置いてきたのではないかと思った。
ブラジルでは1200人ぐらい入る劇場があるが、照明とかいろんなものが凄く悪くて、出演者もカツラをかぶっているわけでもなくて、おしろいだけして、有るものを着てやっていた。
このままでは踊れないと言ったら、どこからか照明をもってきて、私が出る時だけ使ったが、周りからはいじめられました。(母はその時はまだブラジルにいた)
雪乃丞変化を或る劇場でやったら、ファンがついて役に立つのかなと思ったら、母が帰ってしまった。
或るとき、板前の御夫婦と知り合って、どうしてレストランを開かないのかと言われて、レストランを始めたが、(48年前 今年辞める)大変当たった。
10年目に丹下セツ子劇団を旗揚げしたが、浪曲語りが沢山いて、10人位が劇団に入ってくれた。
あちこちから来てほしいという事で、行く事になる。(ただ距離が半端ではない)
行って、寸劇、黒田節などを踊ったりすると、こんな恰好を見れるとは思わなかったと、泣くわけです。
こんなに喜ぶなら、移住地がいくつあるか判らないが、日本人のいるところ全部ボランティアで歩いて全部歩いたら日本に帰ろうと思ったが、50年経ってしまった。
自分を必要としてくれるところにいた方が幸せだと思う。
沢先生と回って、自分はなんだろうと思った、洗濯機はまわせない、携帯電話は使えない。
ブラジルに帰ったら周りがみんなしてくれるので、本当に私は幸せだと思う。
中南米では私の劇団は有名になった。
ギャラは頂く事はなくて、お礼としていただくものはあるが、一緒に行った皆にお金を上げる事はする。
ホテルと食事だけは私の要望を聞いてもらった。
和太鼓の稽古は最初私が教えていた(弟子は50人ぐらい)が、日本から太鼓の今泉豊先生に来てもらったりした。
今は立派な太鼓道場になった。
ブラジルに10年ぐらい前にNHKのTVが入って、いなかの方に行かなくてはいいと、私の役目は終わったと思った。
ブラジルにはファンがいるし、友達がいるし、太鼓道場があるし、仲間がいっぱいるので、帰れない。
劇団員は全部、一世の日本人の人で、日本で浪曲、尺八、琴等を習った人たちで、その人たちは全部亡くなってしまって、30周年で沢先生の人達を呼んだが、これが大衆演劇だと私につかえてくれた劇団員に見せてあげたかった、見せてあげられなくて非常に残念です。
丹下セツ子でなくては嫌だという人が、歳になってきたので、その人たちのために親孝行のつもりでやってきた。
沢竜二劇団を2度呼ぶ事ができたが、幸せだった、客は2日間で6000人入るが、17人呼んで、旅費、滞在時の費用を出して、1500円の入場料では赤字ですが、私が今日有るのは日系社会のおかげだからと思っているので、おじいちゃん、おばあちゃんが幸せになれるならばいいと思った。
レストランみやびというお店が有ったからこれができた。
私にはショーをやる丹下セツ子としてのお客さんと、レストランみやびの女将さんとの二つにはっきりと分かれる。
母が生きているころに、日本に帰って来てくれれば、何でもしてやるからと言われたが、その時に私は、母が私を向こうに連れて行って、かわいそうだったなと思ったのかなと思いました。
そのころはもうブラジルは捨てがたかった、お爺さんお婆さんがこんなに喜んでくれる人がいるんだと、ブラジルで骨を埋めようと思った。
今はブラジルが本拠地です。
2015年6月30日火曜日
2015年6月28日日曜日
ゴルゴ松本(お笑い芸人) ・お笑い芸人の”命”の授業
ゴルゴ松本(お笑い芸人) ・お笑い芸人の”命”の授業
埼玉県出身 48歳 県立熊谷商業高校で野球部に入部、1985年第57回選抜高校野球大会で憧れの甲子園に出場する事が出来ました。
同じく元甲子園球児のレッド吉田さんと1994年にお笑いコンビPIMを結成、ゴルゴさんの命と言う漢字を身体を使って表す芸で、人気を集めました。
2011年に知り合いから頼まれて少年院に講演に行ったのがきっかけで、少年院などでのボランティア講演の活動をスタートさせました。
ゴルゴさんの講演は主に漢字の成り立ちを説明しながら、更生を目指す少年少女に命、人生、日本人をテーマに語っています。
TV番組でも取り上げられて大きな反響を呼びました。
いま仕事の合間に定期的にボランティアで講演活動をしているゴルゴさんに伺いました。
甲子園では試合には出られなかったが、ギリギリでベンチに入れた。
4年前から(2011年11月22日)に慰門に行く事になる。
日本語、日本人の凄さを本にする。「あ、命の授業」
ちょっとした知り合いの人からやってくれないかと、言ってきたが、最初断ったが、刑務所、少年院を出たと、一生懸命人生をやり直したいと、いう就労支援をやっている北村さんが、是非少年院でやってほしいと、再犯防止のためにやってほしいという事で、引きうけることにした。
それまでは一切そのような事には関わっていなかった。
最初は興味本位な部分(自分が野球をやっていた時代に犯罪に手を染めた人が少年院に入ってその後どういう人生を歩んできたのだろうか、と言う様な)もあったが、行った時に、150人いたが、
短髪で、制服を着て、声も大きな声を出してきびきびしている姿を見て、是は野球部の様なスポーツ系の雰囲気が有った。
眼を見ると普通の子だったので何か伝えていこうと思えた。
「天才 TV君」ほか子供番組などにも出ていたので、受け入れてくれる。
口へんに土と書いて 弱音を吐く、と言う話。
野球を始めるが、甲子園の夢がかなわなかった人、芸能人で辞めていってしまった人達を見て、違いはなんだろうと思った時に、普段生きていく上で毎日何かを表に出して行動するが、その中で言葉が非常に大事なのではないかと思った。
最初は口にプラス(+)、マイナス(-)を吐いてもいいが、少しずつネガティブの言葉(-)を減らしてゆくと、口にプラス(+) 叶うになるのではないか。
無難 (苦難困難災難が無い人生) 有難(苦難困難災難が有る)→ 「有難う」になる
幸せ の反対 辛い その差は(-)の差 辛い時に何かが足りない。
辛い時には我慢しろと言うが、我慢はあまり意味ではない、我欲でおごりたかぶる。
日本には言霊と言う、言った言葉には魂が宿るという事が平安の時代から言われているが、その通りだと思う。
「辛抱」 「辛い」を「抱き」かかえてあげる。
辛抱→耐え忍ぶ 忍ぶは「心」に「刃」をもっていつか逆転するように、心に刃をもち続ける。
刃は刀鍛冶が日本刀を作るときに、熱して叩いて延ばしてゆき、冷やして、という作業を繰り返しやって、最後には磨きをかけたら、真剣になる。
忍ぶは鍛え上げられた強靭な刃の事を言うので、忍ぶは鍛え上げられた強靭な心をいう。
耐え忍んで、辛抱して強くなった棒を辛いの、一番上に足してやれば、幸せになる。
辛抱は心抱ともかける。
きょうは今の日 今日 きのうは昨日 作った日 あしたは明日(あかるい日) あさっては明後日。
「あすへの言葉」 言葉 ことの葉 枯れたものは土になり、緑の葉っぱは光合成で酸素を出す。
葉は再生するという意味が有る。
言葉は言ったことは繰り返し再生するよ、と言う意味です、大切な事です。
不思議な感覚ですが、お前やらなきゃだめだよと、言われているかと思っている。
この10年本を読んで、色々勉強させてもらいました。
講演では、紙に書く様にしてもらっていて、良いと思ったことは直ぐ伝えるように言っている。
善と悪 喜びと悲しみ 共通する文字が有るが、善と喜びは「口」が下にある。
悪と悲しみは「心」が下にある。
善い事嬉しい事は言葉に出して伝えっていっていいが、悪いこと、悲しい事は自分の心の中に一旦しまって、自分で心の中を通すことで、あとで言っていいかどうかを考えなさいと、いう漢字ではないかと思って教えている。
一番伝えたいのは、考え方一つだよと言う事、「幸」はさかさまにしても「幸」、幸せの反対は幸せ、自分で不幸と思っているだけ。
幸せは、お金だと思っている人もいるが、そうではない、仲間、家族、笑顔で元気でいたら幸せだと、個人個人の責任、自分の人生は自分の責任みたいなところが有って、子供達には伝えます。
過去は過去で学んで反省して、未来に向かっていくしかない。
少年院で勉強するという事は、ここを出た後に違う人生が有るのだから、未来のためにやっているんだと考えなさいと言っている。
高校時代にお笑いの世界に行きたいと思っていた。
野球をやりながら、人のものまね、先生、ばっかりやって笑わせていた。
家の店の手伝いをするようになったが、芸能界の事が思い出されて、父に話したら自由にやる様にと言われた。
昭和63年に世田谷に引っ越すことになる。
レッド吉田と出会って、お笑いの世界に入る。(1994年4月)
新ネタを考えようとしていて、山の頂きを見ていたら、「命」に見えて、両手をひろげて片足を上げたら「命」に見えた。
それから「命」をやっていたら、そのうちにTVに出られるようになった。
それから10年後ぐらいに、歴史を勉強して、日本語を研究するうちに、不思議な感覚になり調べ始めた。
「命」 ひとたたき 母親のおなかの中にいる時から動き続けている心臓が、鼓動のひとたたき、ひとたたきの連続が、命なんだなという事がパズルのように解き明かされた様に感じた。
お笑いの後輩たちに激励のためのゴルゴ塾をやったのが、後の少年院の講演に繋がってゆく。
言葉は力を与えてくれる。
上杉鷹山 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり」
言葉は生き続ける事に気づかされた。
埼玉県出身 48歳 県立熊谷商業高校で野球部に入部、1985年第57回選抜高校野球大会で憧れの甲子園に出場する事が出来ました。
同じく元甲子園球児のレッド吉田さんと1994年にお笑いコンビPIMを結成、ゴルゴさんの命と言う漢字を身体を使って表す芸で、人気を集めました。
2011年に知り合いから頼まれて少年院に講演に行ったのがきっかけで、少年院などでのボランティア講演の活動をスタートさせました。
ゴルゴさんの講演は主に漢字の成り立ちを説明しながら、更生を目指す少年少女に命、人生、日本人をテーマに語っています。
TV番組でも取り上げられて大きな反響を呼びました。
いま仕事の合間に定期的にボランティアで講演活動をしているゴルゴさんに伺いました。
甲子園では試合には出られなかったが、ギリギリでベンチに入れた。
4年前から(2011年11月22日)に慰門に行く事になる。
日本語、日本人の凄さを本にする。「あ、命の授業」
ちょっとした知り合いの人からやってくれないかと、言ってきたが、最初断ったが、刑務所、少年院を出たと、一生懸命人生をやり直したいと、いう就労支援をやっている北村さんが、是非少年院でやってほしいと、再犯防止のためにやってほしいという事で、引きうけることにした。
それまでは一切そのような事には関わっていなかった。
最初は興味本位な部分(自分が野球をやっていた時代に犯罪に手を染めた人が少年院に入ってその後どういう人生を歩んできたのだろうか、と言う様な)もあったが、行った時に、150人いたが、
短髪で、制服を着て、声も大きな声を出してきびきびしている姿を見て、是は野球部の様なスポーツ系の雰囲気が有った。
眼を見ると普通の子だったので何か伝えていこうと思えた。
「天才 TV君」ほか子供番組などにも出ていたので、受け入れてくれる。
口へんに土と書いて 弱音を吐く、と言う話。
野球を始めるが、甲子園の夢がかなわなかった人、芸能人で辞めていってしまった人達を見て、違いはなんだろうと思った時に、普段生きていく上で毎日何かを表に出して行動するが、その中で言葉が非常に大事なのではないかと思った。
最初は口にプラス(+)、マイナス(-)を吐いてもいいが、少しずつネガティブの言葉(-)を減らしてゆくと、口にプラス(+) 叶うになるのではないか。
無難 (苦難困難災難が無い人生) 有難(苦難困難災難が有る)→ 「有難う」になる
幸せ の反対 辛い その差は(-)の差 辛い時に何かが足りない。
辛い時には我慢しろと言うが、我慢はあまり意味ではない、我欲でおごりたかぶる。
日本には言霊と言う、言った言葉には魂が宿るという事が平安の時代から言われているが、その通りだと思う。
「辛抱」 「辛い」を「抱き」かかえてあげる。
辛抱→耐え忍ぶ 忍ぶは「心」に「刃」をもっていつか逆転するように、心に刃をもち続ける。
刃は刀鍛冶が日本刀を作るときに、熱して叩いて延ばしてゆき、冷やして、という作業を繰り返しやって、最後には磨きをかけたら、真剣になる。
忍ぶは鍛え上げられた強靭な刃の事を言うので、忍ぶは鍛え上げられた強靭な心をいう。
耐え忍んで、辛抱して強くなった棒を辛いの、一番上に足してやれば、幸せになる。
辛抱は心抱ともかける。
きょうは今の日 今日 きのうは昨日 作った日 あしたは明日(あかるい日) あさっては明後日。
「あすへの言葉」 言葉 ことの葉 枯れたものは土になり、緑の葉っぱは光合成で酸素を出す。
葉は再生するという意味が有る。
言葉は言ったことは繰り返し再生するよ、と言う意味です、大切な事です。
不思議な感覚ですが、お前やらなきゃだめだよと、言われているかと思っている。
この10年本を読んで、色々勉強させてもらいました。
講演では、紙に書く様にしてもらっていて、良いと思ったことは直ぐ伝えるように言っている。
善と悪 喜びと悲しみ 共通する文字が有るが、善と喜びは「口」が下にある。
悪と悲しみは「心」が下にある。
善い事嬉しい事は言葉に出して伝えっていっていいが、悪いこと、悲しい事は自分の心の中に一旦しまって、自分で心の中を通すことで、あとで言っていいかどうかを考えなさいと、いう漢字ではないかと思って教えている。
一番伝えたいのは、考え方一つだよと言う事、「幸」はさかさまにしても「幸」、幸せの反対は幸せ、自分で不幸と思っているだけ。
幸せは、お金だと思っている人もいるが、そうではない、仲間、家族、笑顔で元気でいたら幸せだと、個人個人の責任、自分の人生は自分の責任みたいなところが有って、子供達には伝えます。
過去は過去で学んで反省して、未来に向かっていくしかない。
少年院で勉強するという事は、ここを出た後に違う人生が有るのだから、未来のためにやっているんだと考えなさいと言っている。
高校時代にお笑いの世界に行きたいと思っていた。
野球をやりながら、人のものまね、先生、ばっかりやって笑わせていた。
家の店の手伝いをするようになったが、芸能界の事が思い出されて、父に話したら自由にやる様にと言われた。
昭和63年に世田谷に引っ越すことになる。
レッド吉田と出会って、お笑いの世界に入る。(1994年4月)
新ネタを考えようとしていて、山の頂きを見ていたら、「命」に見えて、両手をひろげて片足を上げたら「命」に見えた。
それから「命」をやっていたら、そのうちにTVに出られるようになった。
それから10年後ぐらいに、歴史を勉強して、日本語を研究するうちに、不思議な感覚になり調べ始めた。
「命」 ひとたたき 母親のおなかの中にいる時から動き続けている心臓が、鼓動のひとたたき、ひとたたきの連続が、命なんだなという事がパズルのように解き明かされた様に感じた。
お笑いの後輩たちに激励のためのゴルゴ塾をやったのが、後の少年院の講演に繋がってゆく。
言葉は力を与えてくれる。
上杉鷹山 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり」
言葉は生き続ける事に気づかされた。
2015年6月26日金曜日
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(2)
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(2)
日本伝統工芸展の審査委員を永年務めてきた。
現代の作家のもの作りの仕事までにも関わらざるを得ない。
35年ほどやっている。
人間国宝の方々とも深くかかわってきた。
質の高い技を受け継いでいて、それを見事に展開されているので、拝見するたびに感動している。
人間国宝になられた方は、一種の独特の風格を皆さんお持ちで、持てる技を通してにじみ出る人間性をもっておられる、その様子を見ることができる。
人間国宝の制度ができたのは、昭和30年 今年で60年。
最初の人間国宝の一人が松田権六、蒔絵の技で人間国宝に認定されて、文化勲章を受ける。
石川県出身 家は農業で、兄が仏壇職人でその影響で、早くから漆の世界に入る。
東京芸大に行くが、学ぶべきことが何もなかったと自負していた。
日本工芸会を独立して作られた、その張本人が松田さんです。
郷土の工芸に思いをめぐらした先生は少ないと思います。
生存中は春の石川の伝統工芸展に必ず出席され、石川の作家を如何に育てるか、配慮された作家は少ないのではないでしょうか。
蓬莱の棚 漆の技を駆使した美しいたな。
近代の漆工芸の作品ではほうらいのたなは最高の名作だと思っている。
美しい鶴が10数羽で漆で塗られていて細かい細工がなされている。
蒔絵の技術を全分野駆使しています。
蓬莱とはおめでたい しかし鶴が描かれているが亀は描かれていない。
会場に昭和天皇が来て、鶴亀と言うが、亀がいないんじゃないかと言った時に、波が描かれています、その下に亀が隠れていますと、松田さんが言ったそうです。
又松竹梅の竹が描かれていない、同様に、下地は竹を編んでございますので、竹は隠れていますと言って、天皇は大笑いされたそうです。
幅が61.2cm、奥行きが37.3cm、高さが114cm 漆の他の作品にくらべるとダントツに大きい。
釧路湿原の鶴を写生したと、おっしゃっていた。
俵屋宗達、尾形光琳 琳派の作風を自分なりに、この棚で生かして、図案構成してみたと言われる。
日本伝統工芸展の10回目を石川県で開催したいとの松田さんからの依頼があったが、棚橋源太郎先生からは、学芸員はよそ様のものをもち込んで簡単に引き受けるものではないと、徹底して仕込まれていたので、松田さんに簡単に会場をお使いくださいという返事はしたくありませんと言ったら、松田先生が大変御立腹して、先生の一番弟子の大場松魚先生が スーツの後ろを引っ張って、君言葉を慎んだ方がいいよと言われた。
その後、知事のところに行ったようで、知事からおしかりの言葉を受けて、10回展から始める事になった。
その後今日までずーっとやるようになる。
蓬莱の棚の持ち主が、東京大空襲で火災に会わない様にし、又疎開した新潟でも大空襲に会ったが直ぐ持ち出せるように縁側に置いて、棚を担いで出て被災を免れた、そういうことなら東京近代美術館に寄託したらと言う事で、長く寄託されていたが、購入の話が有り、7000万円以下なら知事の決済で購入ができるが、それ以上で有れば議会の承認を取らなければいけないので、交渉したが、無理だと言われたが、満場一致で賛成となり、石川県の美術館に入ることができた。
蓬莱の棚の裏には、戦争末期の状況が日記の様に日本が負けてゆく様相が書いてあり、もう仕事ができなくなるだろうと、それ以前に自分の持てる技を全力投球してこの棚を作るんだと書いてある。
先生はお話をもって遇するというタイプの先生で、延々と話をする。
一番の思い出に残る言葉は、「ものから学べ」 物は物を見る人間がそのものからいろんなことを引き出して、物から学ぶという事が実践出来る最高の場である、それが博物館の世界でもあるし、非常に大事なことであり、物を見る目を徹底して訓練する事を怠ってはならないと、くどく何べんも聞かされました。
蓬莱の棚は2年に一度ぐらいは展示している。(温度、湿度、紫外線等の関係もあり)
美術館の展示のありようを、今後考えていかないといけないと思う。
ものから学ぶための方法論を引き出すような、創意工夫を学芸員は考えるべきであると、名言だと思う。
名品がケースの中に寝転んでいる様な、気配りのない展示がされているところもある。
観賞しやすい方法の場を考えるという教育活動の面だとも思う。
博物館学は昭和26年に博物館法ができて、学芸員を置かなければならなくなり、それを立教大学が受けて立ち、棚橋先生は物から学ぶという現場が博物館の世界だと、松田権六さんと同じことを言っている、この影響は今日でもあり、物を見る目を常に養う、それにはいいものを沢山見る事。
毎日ものを見ていると、作品がちゃんと語ってくれる。
伝統いうものは人間の生活に根差したものだと思う、根ざすという事は生活体験を通してどういう見方、考え方で対応するかと言う事に繋がってゆくと思います。
伝統はその年代年代の積み重ねで残ってきたエキスであると思うので、エキスの素晴らしさを大切にしながら、それを受け継いでゆく生活の中に生かしてゆく、それが本当の意味での鑑賞の仕方、対応の仕方で有るではなかろうかと思っています、エキス即ち心だと思います。
日本伝統工芸展の審査委員を永年務めてきた。
現代の作家のもの作りの仕事までにも関わらざるを得ない。
35年ほどやっている。
人間国宝の方々とも深くかかわってきた。
質の高い技を受け継いでいて、それを見事に展開されているので、拝見するたびに感動している。
人間国宝になられた方は、一種の独特の風格を皆さんお持ちで、持てる技を通してにじみ出る人間性をもっておられる、その様子を見ることができる。
人間国宝の制度ができたのは、昭和30年 今年で60年。
最初の人間国宝の一人が松田権六、蒔絵の技で人間国宝に認定されて、文化勲章を受ける。
石川県出身 家は農業で、兄が仏壇職人でその影響で、早くから漆の世界に入る。
東京芸大に行くが、学ぶべきことが何もなかったと自負していた。
日本工芸会を独立して作られた、その張本人が松田さんです。
郷土の工芸に思いをめぐらした先生は少ないと思います。
生存中は春の石川の伝統工芸展に必ず出席され、石川の作家を如何に育てるか、配慮された作家は少ないのではないでしょうか。
蓬莱の棚 漆の技を駆使した美しいたな。
近代の漆工芸の作品ではほうらいのたなは最高の名作だと思っている。
美しい鶴が10数羽で漆で塗られていて細かい細工がなされている。
蒔絵の技術を全分野駆使しています。
蓬莱とはおめでたい しかし鶴が描かれているが亀は描かれていない。
会場に昭和天皇が来て、鶴亀と言うが、亀がいないんじゃないかと言った時に、波が描かれています、その下に亀が隠れていますと、松田さんが言ったそうです。
又松竹梅の竹が描かれていない、同様に、下地は竹を編んでございますので、竹は隠れていますと言って、天皇は大笑いされたそうです。
幅が61.2cm、奥行きが37.3cm、高さが114cm 漆の他の作品にくらべるとダントツに大きい。
釧路湿原の鶴を写生したと、おっしゃっていた。
俵屋宗達、尾形光琳 琳派の作風を自分なりに、この棚で生かして、図案構成してみたと言われる。
日本伝統工芸展の10回目を石川県で開催したいとの松田さんからの依頼があったが、棚橋源太郎先生からは、学芸員はよそ様のものをもち込んで簡単に引き受けるものではないと、徹底して仕込まれていたので、松田さんに簡単に会場をお使いくださいという返事はしたくありませんと言ったら、松田先生が大変御立腹して、先生の一番弟子の大場松魚先生が スーツの後ろを引っ張って、君言葉を慎んだ方がいいよと言われた。
その後、知事のところに行ったようで、知事からおしかりの言葉を受けて、10回展から始める事になった。
その後今日までずーっとやるようになる。
蓬莱の棚の持ち主が、東京大空襲で火災に会わない様にし、又疎開した新潟でも大空襲に会ったが直ぐ持ち出せるように縁側に置いて、棚を担いで出て被災を免れた、そういうことなら東京近代美術館に寄託したらと言う事で、長く寄託されていたが、購入の話が有り、7000万円以下なら知事の決済で購入ができるが、それ以上で有れば議会の承認を取らなければいけないので、交渉したが、無理だと言われたが、満場一致で賛成となり、石川県の美術館に入ることができた。
蓬莱の棚の裏には、戦争末期の状況が日記の様に日本が負けてゆく様相が書いてあり、もう仕事ができなくなるだろうと、それ以前に自分の持てる技を全力投球してこの棚を作るんだと書いてある。
先生はお話をもって遇するというタイプの先生で、延々と話をする。
一番の思い出に残る言葉は、「ものから学べ」 物は物を見る人間がそのものからいろんなことを引き出して、物から学ぶという事が実践出来る最高の場である、それが博物館の世界でもあるし、非常に大事なことであり、物を見る目を徹底して訓練する事を怠ってはならないと、くどく何べんも聞かされました。
蓬莱の棚は2年に一度ぐらいは展示している。(温度、湿度、紫外線等の関係もあり)
美術館の展示のありようを、今後考えていかないといけないと思う。
ものから学ぶための方法論を引き出すような、創意工夫を学芸員は考えるべきであると、名言だと思う。
名品がケースの中に寝転んでいる様な、気配りのない展示がされているところもある。
観賞しやすい方法の場を考えるという教育活動の面だとも思う。
博物館学は昭和26年に博物館法ができて、学芸員を置かなければならなくなり、それを立教大学が受けて立ち、棚橋先生は物から学ぶという現場が博物館の世界だと、松田権六さんと同じことを言っている、この影響は今日でもあり、物を見る目を常に養う、それにはいいものを沢山見る事。
毎日ものを見ていると、作品がちゃんと語ってくれる。
伝統いうものは人間の生活に根差したものだと思う、根ざすという事は生活体験を通してどういう見方、考え方で対応するかと言う事に繋がってゆくと思います。
伝統はその年代年代の積み重ねで残ってきたエキスであると思うので、エキスの素晴らしさを大切にしながら、それを受け継いでゆく生活の中に生かしてゆく、それが本当の意味での鑑賞の仕方、対応の仕方で有るではなかろうかと思っています、エキス即ち心だと思います。
2015年6月25日木曜日
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)
昭和7年石川県生まれ 83歳 県立美術館に学芸員として就職したのは昭和34年の事でした。
以来、56年間県立美術館一筋の人生を歩み、定年後も嘱託を受けて館長を続けています。
石川県は加賀百万石の繁栄を誇った江戸時代から優れた工芸の伝統が育まれ工芸王国とも呼ばれています。
嶋崎さんは その豊かな伝統を受け継ぐ美術館の活動を推進するとともに芸術文化に関する各種の委員、国の文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展の監査委員、審査委員を長年勤めて来られました。
半世紀を越える美術館人生の体験や今の思いを伺いました。
金沢駅を飾るとすると、工芸品だろうと、代表的な作家に作品を作って貰ったが、ギリギリでした。
美術館を作るときに、いろいろ議論が有ったが、やっぱり江戸時代からの延長線上に在る、伝統文化、その中でも、伝統工芸であろうという事で、伝統工芸というものを美術館の運営の柱にしようという事で、工芸を意識して集めてきました。
昭和34年に県立美術館に就職する。
大学では日本史を専攻していたが、卒業したころは朝鮮戦争の頃で、不景気で就職するところがあまりなかったが、石川県で学芸員の資格をもったスタッフを美術館に入れなければならないという新しい博物館法と言う法律ができて、私を紹介してくれた人がいて、この世界に入るきっかけになったわけです。
旧制小松中学のころに、運動場を耕して食料生産をやろうという事で耕したら埋蔵文化財が出てきて、今後は歴史学は物が語る時代が出てくるだろうという事から大変興味がわいて、一時考古学をやろうと思った時代が有った。
立教大学で棚橋源太郎という博物館学の有名な先生がいて、そこにいけばスタッフに成るための養成講座が有るという事で、そこを受けるべきだという事で、受けて学芸員の資格を取った。
当時は学芸員は認知度が低くかった。
開館記念には何を展示するかが、一番の課題だったが、石川の地域は素晴らしい古美術品があり、空襲にも震災にもあっていないので、見事に伝承されている。
できるだけ地元の文化財で構成した展覧会をやろうという事で、その代表作の一点に、山川庄太郎さんがおもちの雉香炉、かつての前田家の持っていたものと言われていた物を構成しました。
天皇陛下が石川に来ることになり、いままで人に見せたことはなかったが副知事が山川庄太郎さんがおもちの雉香炉を天皇陛下に見せられないかと交渉をして、お見せする事になったが、天皇陛下がご覧になって、個人の見事な古美術品であるが、これを県民、国民の宝として、公開できないものだろうかと言う事をおっしゃったみたいで、副知事が山川庄太郎さんにお伝えしたら、感動して寄付しようという事になり、それが美術館を建てるきっかけにもなり、公開することにもなった。
雉香炉は大変話題になり、全国から多くの方が見に来られた。
正式には色絵雉香炉 野々村仁清という江戸時代初期の京焼の名工が作ったもの。
今は、色絵雌雉香炉も一対で置いてある。
仁和寺の門前に窯が有ったらしくて、この雄と雌がつくられたと言われる。
それが離れ離れになっていたが、250年ぶりにペアになって展示されることにつながった。
美術館の象徴になっている。(一部屋にこれだけが飾ってある)
雄は前田家に入って、雌ももともと前田家に有ったのでは無かろうかと言う事だったが、その後前田家から出てしまい、雄だけが国宝になっていて、江戸末まで前田家にあって、それが山川家を経由して、今県立美術館にある。
京都文化が加賀にいかに影響をはたしているかと言う、象徴的な存在がこの野々村仁清なんですよと言うと皆さん納得される。
雌は重要文化財、平成3年に御寄付を頂いた。
山川庄太郎さんは他にも沢山美術品を持っていて、山川美術財団の組織にして、借用して展示したい旨を伺うと、羽織袴で、打ち水をして出迎えてくれ、お茶の接待をしてくれた記憶が有る。
旦那衆の厳しい御意見を聞いて、やっぱり勉強(目利き)になりました。
古美術は茶道技術を中心として、そのコレクションが大成されているお宅が非常に多い。
九谷焼が石川は有名で、誇れるコレクションだと思う。
古九谷(江戸前期)は豪快な色絵の絵付けの技法等々含めて醸し出す雰囲気は、日本の焼き物の中でトップだと思う。
有田の技法を学んだといわれるが、京都の雅、地方の伊万里等をミックスして、加賀の独特の美意識で作り上げたのが古九谷だと思う。
50数年の間にコツコツとそれなりの名品を意識してコレクションにつないできたと思っている。
漆、友禅等見事な伝統工芸が有る。
初代加賀藩主 前田利家の遺言状が残っていて、長男の利長に与えたが、書いたのが奥方の「お松」だったが、文武両道に長けた人間は素晴らしいという事で文にも力を入れる、文に長けているかどうかも見るべきだと遺言状に書いてある。
「文」は文化、芸術と言う事だろうと、3代前田利常あたりが痛切に考えたようだ。(幕府への認知度を高める)
日本の美術を凝縮した形で加賀の文化としてまとめあげてゆくが、5代まであたりに完成して作り上げてゆく事で、加賀の文化であろうと、それが今日の姿に転化して繋がって来ているのであろうと思う。
百工比照 もの作りの技をどういう形で残してゆくかと言う、職人の見本の為のコレクションとして、いろんなものを集めて、技の記録を残してくれている。
実践的に完成したのが5代の前田綱紀だったが、彼は百工比照という大コレクションを作る。
書物などのコレクションもしている。
織物、着物、裃、和紙、真珠の玉、建築金具、錠前、紐等ありとあらゆるものを集めている。
漆の工芸見本帳、金属の薬品処理等の見本帳等今日につたわっている。
加賀の工芸の凄さと言うものを改めて、百工比照のコレクションから垣間見ることができる。
昭和7年石川県生まれ 83歳 県立美術館に学芸員として就職したのは昭和34年の事でした。
以来、56年間県立美術館一筋の人生を歩み、定年後も嘱託を受けて館長を続けています。
石川県は加賀百万石の繁栄を誇った江戸時代から優れた工芸の伝統が育まれ工芸王国とも呼ばれています。
嶋崎さんは その豊かな伝統を受け継ぐ美術館の活動を推進するとともに芸術文化に関する各種の委員、国の文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展の監査委員、審査委員を長年勤めて来られました。
半世紀を越える美術館人生の体験や今の思いを伺いました。
金沢駅を飾るとすると、工芸品だろうと、代表的な作家に作品を作って貰ったが、ギリギリでした。
美術館を作るときに、いろいろ議論が有ったが、やっぱり江戸時代からの延長線上に在る、伝統文化、その中でも、伝統工芸であろうという事で、伝統工芸というものを美術館の運営の柱にしようという事で、工芸を意識して集めてきました。
昭和34年に県立美術館に就職する。
大学では日本史を専攻していたが、卒業したころは朝鮮戦争の頃で、不景気で就職するところがあまりなかったが、石川県で学芸員の資格をもったスタッフを美術館に入れなければならないという新しい博物館法と言う法律ができて、私を紹介してくれた人がいて、この世界に入るきっかけになったわけです。
旧制小松中学のころに、運動場を耕して食料生産をやろうという事で耕したら埋蔵文化財が出てきて、今後は歴史学は物が語る時代が出てくるだろうという事から大変興味がわいて、一時考古学をやろうと思った時代が有った。
立教大学で棚橋源太郎という博物館学の有名な先生がいて、そこにいけばスタッフに成るための養成講座が有るという事で、そこを受けるべきだという事で、受けて学芸員の資格を取った。
当時は学芸員は認知度が低くかった。
開館記念には何を展示するかが、一番の課題だったが、石川の地域は素晴らしい古美術品があり、空襲にも震災にもあっていないので、見事に伝承されている。
できるだけ地元の文化財で構成した展覧会をやろうという事で、その代表作の一点に、山川庄太郎さんがおもちの雉香炉、かつての前田家の持っていたものと言われていた物を構成しました。
天皇陛下が石川に来ることになり、いままで人に見せたことはなかったが副知事が山川庄太郎さんがおもちの雉香炉を天皇陛下に見せられないかと交渉をして、お見せする事になったが、天皇陛下がご覧になって、個人の見事な古美術品であるが、これを県民、国民の宝として、公開できないものだろうかと言う事をおっしゃったみたいで、副知事が山川庄太郎さんにお伝えしたら、感動して寄付しようという事になり、それが美術館を建てるきっかけにもなり、公開することにもなった。
雉香炉は大変話題になり、全国から多くの方が見に来られた。
正式には色絵雉香炉 野々村仁清という江戸時代初期の京焼の名工が作ったもの。
今は、色絵雌雉香炉も一対で置いてある。
仁和寺の門前に窯が有ったらしくて、この雄と雌がつくられたと言われる。
それが離れ離れになっていたが、250年ぶりにペアになって展示されることにつながった。
美術館の象徴になっている。(一部屋にこれだけが飾ってある)
雄は前田家に入って、雌ももともと前田家に有ったのでは無かろうかと言う事だったが、その後前田家から出てしまい、雄だけが国宝になっていて、江戸末まで前田家にあって、それが山川家を経由して、今県立美術館にある。
京都文化が加賀にいかに影響をはたしているかと言う、象徴的な存在がこの野々村仁清なんですよと言うと皆さん納得される。
雌は重要文化財、平成3年に御寄付を頂いた。
山川庄太郎さんは他にも沢山美術品を持っていて、山川美術財団の組織にして、借用して展示したい旨を伺うと、羽織袴で、打ち水をして出迎えてくれ、お茶の接待をしてくれた記憶が有る。
旦那衆の厳しい御意見を聞いて、やっぱり勉強(目利き)になりました。
古美術は茶道技術を中心として、そのコレクションが大成されているお宅が非常に多い。
九谷焼が石川は有名で、誇れるコレクションだと思う。
古九谷(江戸前期)は豪快な色絵の絵付けの技法等々含めて醸し出す雰囲気は、日本の焼き物の中でトップだと思う。
有田の技法を学んだといわれるが、京都の雅、地方の伊万里等をミックスして、加賀の独特の美意識で作り上げたのが古九谷だと思う。
50数年の間にコツコツとそれなりの名品を意識してコレクションにつないできたと思っている。
漆、友禅等見事な伝統工芸が有る。
初代加賀藩主 前田利家の遺言状が残っていて、長男の利長に与えたが、書いたのが奥方の「お松」だったが、文武両道に長けた人間は素晴らしいという事で文にも力を入れる、文に長けているかどうかも見るべきだと遺言状に書いてある。
「文」は文化、芸術と言う事だろうと、3代前田利常あたりが痛切に考えたようだ。(幕府への認知度を高める)
日本の美術を凝縮した形で加賀の文化としてまとめあげてゆくが、5代まであたりに完成して作り上げてゆく事で、加賀の文化であろうと、それが今日の姿に転化して繋がって来ているのであろうと思う。
百工比照 もの作りの技をどういう形で残してゆくかと言う、職人の見本の為のコレクションとして、いろんなものを集めて、技の記録を残してくれている。
実践的に完成したのが5代の前田綱紀だったが、彼は百工比照という大コレクションを作る。
書物などのコレクションもしている。
織物、着物、裃、和紙、真珠の玉、建築金具、錠前、紐等ありとあらゆるものを集めている。
漆の工芸見本帳、金属の薬品処理等の見本帳等今日につたわっている。
加賀の工芸の凄さと言うものを改めて、百工比照のコレクションから垣間見ることができる。
2015年6月24日水曜日
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる
1948年 東京生まれ 実践女子大学家政学部を卒業したあと、東京医科大学に進み、医学博士号を取得した本多さんは、これまでに栄養と健康に関する著書60冊以上出版してきたほか、TVや雑誌などでのレシピ作りやアドバイス、プロ野球を始めスポーツ選手に対する栄養指導を行う等、食育の第一線で活躍を続けてきました。
本多さんは最近自宅を1/3にダウンサイジング、これに合わせて、身の廻りのものも1/3に減らしました。
老後に備えてのダウンサイジング、その狙いは何か、そこから得たものは何か、本多さんが管理栄養士として歩んできた道を交えて伺いました。
長生きをせざるを得ない時代になったので、身の丈に合った暮らしをストレスなく送って行きたいと思った。
今まで3階建ての全てを使っていたが、1/3にして残りの2/3部分を、貸して減らない財布を作ろうかなと思った。
一番大事なのはものを処理しようとか、暮らしを小さくしようと思っても、どこから手を付けていいかわからないので、これからの人生自分がどういう風に何を一番大切にして生きていきたいかをしっかり考える事だと思った。
私は食が一番大事なので、台所がどこからも見えるように家の真ん中にあるが、設計士からは本当にこれでいいのかと言われた。
出掛ける時も、火の始末、水、電気などを一望に判るし、料理をしながら他のことをしていても火の心配が無い。
1/3にするために、いろんなものを来てくださる方に声をかけて、持って行ってもらったり、被災地の知り合いの方NPOの方々に生かしていただく様に本とか食器などを利用してもらったりする。
貰ってもらうのに3年掛かった。
食器、フォーク、ナイフ、スプーンなどは山の様に有ったし、家具なども結構あった。
家に来てもらって食べてもらうのが好きで、食器類6人分のものは残すことにした。
写真 アルバム 等は本箱を整理するときに、どうしてもとっておきたいものだけを剥がして、小さな木箱に入るものだけを選んだ。
書籍もいっぱいあったが、本箱は1/5ぐらいになった。
自分の今後の仕事の在り方にも、整理するときに感じました。
最初にピックアップしたのは辞書で、相手(NPOとか)が役に立つものだろうと思われるものを次に選んで少なくしていった。
今後は自分が積み上げた経験を世の中の役に立てる種類になるのではないかと思った。
自分が積み上げた仕事のファイルが、一番の財産なのかと思ったので、本箱には並べてある。
幼稚園、小学校から高校までは学校が嫌いだった、仕方が無く学校にいっていた。
一人の世界が好きだった。
母の意向で大学を選んで大学に入って大学の授業を聞く様になって、勉強ってなんて面白いんだろうと思った。
化学が面白かった、先生との出会いが良かったと思う。
どの授業も最前列で全ての講義を聞いていた。
自分の未来を照らすような指導して下さる先生に出会えたという事は人生最大の宝だと思います。
知らないことが判ることが一番楽しい。
何故だろう、どうしてだろうと思う事を勉強するようになって、色々やってみたら楽しさが判った。
料理と科学との兼ね合い、面白い世界だなあと大学生の時に体感した。
聞いただけだと時間とともに薄れてゆくが、教えて頂いた事をやってみたり、さらに工夫を重ねたりすることによって、もっと知りたくなったりして、勉強することの楽しさがある。
出会った教授が、「今あなたが勉強している事を社会にどういう風に役立てたいか」という論文を書くときに、色々考えて、病気と栄養とのかかわりに興味が有って、実習にも行ったが、結論は就職するのはやめようと思った。
こういう食になればこういう病気にやがてなるだろうと、いうことが医学的に判っているのに、どうしてなっちゃった人を治療するのだろう、なる前の人の啓蒙活動することにお金を注いだり、活動をするところが無いんだろうかと、思っていた。
病気にならない人を作る為に、栄養学でどんな仕事が成り立つだろうかと、自分で切り開いていこうかと考えた。
教授が後押しをしてくださった。
栄養学の背景には医学的な要素が有るので、予防医学的な栄養学の分野を切り開くには、医学の世界の勉強をしなければいけないというのが先生の考えなので、医学部を目指した。
千葉大学食品微生物教室で食べものと細菌の関係の研究をして、早稲田大学の体育生理学教室
でスポーツと健康の関係をやっていて、栄養とスポーツをテーマで勉強したいと思って、研究員を7,8年して、東京医科大学介護学教室に入って博士論文を作る事にした。(コラーゲン代謝について)
水を除いた人間の体を構成する固形成分の一番多いのがタンパク質で、そのうち比率が多いのがコラーゲン。
骨などもコラーゲンが基本になっている。
歳を取るに従って、代謝が鈍くなって古いコラーゲンを使い続けると、架橋が起きて、皮膚が弾力が無くなりしわが深くなる。
代謝の謎を解く研究をしました。
生活習慣病は食原病でもある、自分の体質を知り、食習慣が大事で、啓蒙活動が大事なので、知り合いの編集長から本を出しなさいと言う事から本を出版するようになり、60冊以上になる。
講演会にも呼んでくださったりして、どんどん広がって行った。
スポーツ栄養学を導入する事を、プロ野球の球団から依頼が有り、選手の献立を作るとか、選手を支えているご婦人たちに栄養学を勉強してもらったりした。
他のスポーツの色々な選手が強くなるためにはトレーニングも大事だが、トレーニングを支えていい成果を出すためには、基本的な食生活が大事だという事が選手の方も判ってきて、そういう仕事もたくさんしました。
あまりに世の中が便利になって作らなくても食べられる時代になって、何にも考えなくても24時間食べものが売られている時代になったので、弊害、栄養の偏りができてしまって、メタボになって、やがて脳梗塞、心筋梗塞、心不全になるのが判っているのに、今何でもないので気がつかない、という時代になってしまって、食が意識しないで生きていけるのが問題なのかなと思います。
歳を取ると基礎代謝が下がってゆくが、必要なたんぱく質、ビタミン、ミネラルは減らない。
カロリーの摂り過ぎは押さえながら栄養はきちっと摂る事が大事で、賢く摂ることが大事。
栄養とカロリーは違うので、栄養はちゃんと摂ってカロリーは控えるという事が大事。
自分で料理するという事が脳の老化を防止する事に凄くつながると思う。
料理は段取りが凄く大事で、自分で段取りをして自分で料理して自分で食べることが、一番意識しないとできなくなるので、意識する事が大事です。
自分でやってみることが大事で、美味しいという背景、味が濃い薄いとかこくが有るとか無いとか感じたりする、美味しいという背景の見えないものが見えてくる。
砂糖、塩、油は生活習慣病の元凶なので、自分で作る時には砂糖、塩、油を減らして、なおかつ美味しくするためにはどうしたらいいのかなあと、工夫する事、実践する事で、自分で作ったものは美味しくなるはずです。
水野南北の言葉
「食は命なり、運命なり」 私の好きな言葉です。
食が自分の健康、命を支えているだけでなく、ものの見方を変えたり、それによって運命が変わったりする。
1948年 東京生まれ 実践女子大学家政学部を卒業したあと、東京医科大学に進み、医学博士号を取得した本多さんは、これまでに栄養と健康に関する著書60冊以上出版してきたほか、TVや雑誌などでのレシピ作りやアドバイス、プロ野球を始めスポーツ選手に対する栄養指導を行う等、食育の第一線で活躍を続けてきました。
本多さんは最近自宅を1/3にダウンサイジング、これに合わせて、身の廻りのものも1/3に減らしました。
老後に備えてのダウンサイジング、その狙いは何か、そこから得たものは何か、本多さんが管理栄養士として歩んできた道を交えて伺いました。
長生きをせざるを得ない時代になったので、身の丈に合った暮らしをストレスなく送って行きたいと思った。
今まで3階建ての全てを使っていたが、1/3にして残りの2/3部分を、貸して減らない財布を作ろうかなと思った。
一番大事なのはものを処理しようとか、暮らしを小さくしようと思っても、どこから手を付けていいかわからないので、これからの人生自分がどういう風に何を一番大切にして生きていきたいかをしっかり考える事だと思った。
私は食が一番大事なので、台所がどこからも見えるように家の真ん中にあるが、設計士からは本当にこれでいいのかと言われた。
出掛ける時も、火の始末、水、電気などを一望に判るし、料理をしながら他のことをしていても火の心配が無い。
1/3にするために、いろんなものを来てくださる方に声をかけて、持って行ってもらったり、被災地の知り合いの方NPOの方々に生かしていただく様に本とか食器などを利用してもらったりする。
貰ってもらうのに3年掛かった。
食器、フォーク、ナイフ、スプーンなどは山の様に有ったし、家具なども結構あった。
家に来てもらって食べてもらうのが好きで、食器類6人分のものは残すことにした。
写真 アルバム 等は本箱を整理するときに、どうしてもとっておきたいものだけを剥がして、小さな木箱に入るものだけを選んだ。
書籍もいっぱいあったが、本箱は1/5ぐらいになった。
自分の今後の仕事の在り方にも、整理するときに感じました。
最初にピックアップしたのは辞書で、相手(NPOとか)が役に立つものだろうと思われるものを次に選んで少なくしていった。
今後は自分が積み上げた経験を世の中の役に立てる種類になるのではないかと思った。
自分が積み上げた仕事のファイルが、一番の財産なのかと思ったので、本箱には並べてある。
幼稚園、小学校から高校までは学校が嫌いだった、仕方が無く学校にいっていた。
一人の世界が好きだった。
母の意向で大学を選んで大学に入って大学の授業を聞く様になって、勉強ってなんて面白いんだろうと思った。
化学が面白かった、先生との出会いが良かったと思う。
どの授業も最前列で全ての講義を聞いていた。
自分の未来を照らすような指導して下さる先生に出会えたという事は人生最大の宝だと思います。
知らないことが判ることが一番楽しい。
何故だろう、どうしてだろうと思う事を勉強するようになって、色々やってみたら楽しさが判った。
料理と科学との兼ね合い、面白い世界だなあと大学生の時に体感した。
聞いただけだと時間とともに薄れてゆくが、教えて頂いた事をやってみたり、さらに工夫を重ねたりすることによって、もっと知りたくなったりして、勉強することの楽しさがある。
出会った教授が、「今あなたが勉強している事を社会にどういう風に役立てたいか」という論文を書くときに、色々考えて、病気と栄養とのかかわりに興味が有って、実習にも行ったが、結論は就職するのはやめようと思った。
こういう食になればこういう病気にやがてなるだろうと、いうことが医学的に判っているのに、どうしてなっちゃった人を治療するのだろう、なる前の人の啓蒙活動することにお金を注いだり、活動をするところが無いんだろうかと、思っていた。
病気にならない人を作る為に、栄養学でどんな仕事が成り立つだろうかと、自分で切り開いていこうかと考えた。
教授が後押しをしてくださった。
栄養学の背景には医学的な要素が有るので、予防医学的な栄養学の分野を切り開くには、医学の世界の勉強をしなければいけないというのが先生の考えなので、医学部を目指した。
千葉大学食品微生物教室で食べものと細菌の関係の研究をして、早稲田大学の体育生理学教室
でスポーツと健康の関係をやっていて、栄養とスポーツをテーマで勉強したいと思って、研究員を7,8年して、東京医科大学介護学教室に入って博士論文を作る事にした。(コラーゲン代謝について)
水を除いた人間の体を構成する固形成分の一番多いのがタンパク質で、そのうち比率が多いのがコラーゲン。
骨などもコラーゲンが基本になっている。
歳を取るに従って、代謝が鈍くなって古いコラーゲンを使い続けると、架橋が起きて、皮膚が弾力が無くなりしわが深くなる。
代謝の謎を解く研究をしました。
生活習慣病は食原病でもある、自分の体質を知り、食習慣が大事で、啓蒙活動が大事なので、知り合いの編集長から本を出しなさいと言う事から本を出版するようになり、60冊以上になる。
講演会にも呼んでくださったりして、どんどん広がって行った。
スポーツ栄養学を導入する事を、プロ野球の球団から依頼が有り、選手の献立を作るとか、選手を支えているご婦人たちに栄養学を勉強してもらったりした。
他のスポーツの色々な選手が強くなるためにはトレーニングも大事だが、トレーニングを支えていい成果を出すためには、基本的な食生活が大事だという事が選手の方も判ってきて、そういう仕事もたくさんしました。
あまりに世の中が便利になって作らなくても食べられる時代になって、何にも考えなくても24時間食べものが売られている時代になったので、弊害、栄養の偏りができてしまって、メタボになって、やがて脳梗塞、心筋梗塞、心不全になるのが判っているのに、今何でもないので気がつかない、という時代になってしまって、食が意識しないで生きていけるのが問題なのかなと思います。
歳を取ると基礎代謝が下がってゆくが、必要なたんぱく質、ビタミン、ミネラルは減らない。
カロリーの摂り過ぎは押さえながら栄養はきちっと摂る事が大事で、賢く摂ることが大事。
栄養とカロリーは違うので、栄養はちゃんと摂ってカロリーは控えるという事が大事。
自分で料理するという事が脳の老化を防止する事に凄くつながると思う。
料理は段取りが凄く大事で、自分で段取りをして自分で料理して自分で食べることが、一番意識しないとできなくなるので、意識する事が大事です。
自分でやってみることが大事で、美味しいという背景、味が濃い薄いとかこくが有るとか無いとか感じたりする、美味しいという背景の見えないものが見えてくる。
砂糖、塩、油は生活習慣病の元凶なので、自分で作る時には砂糖、塩、油を減らして、なおかつ美味しくするためにはどうしたらいいのかなあと、工夫する事、実践する事で、自分で作ったものは美味しくなるはずです。
水野南北の言葉
「食は命なり、運命なり」 私の好きな言葉です。
食が自分の健康、命を支えているだけでなく、ものの見方を変えたり、それによって運命が変わったりする。
2015年6月23日火曜日
大城光代(更生保護法人理事長) ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生
大城光代(更生保護法人理事長) ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生
大城さんは沖縄初の女性初の裁判官として活躍されてきました。
82歳になられた現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めていらっしゃいます。
更生保護法人というのは主として刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人の社会復帰をを助ける施設です。
大城さんは弁護士だった父親の跡を継いで、24歳で司法試験に合格しました。
沖縄で初の弁護士として活動した後、思うところが有って、35歳の時に那覇家庭裁判所の裁判官になりました。
その後、福岡、東京、静岡、横浜の高裁、地裁、家庭裁判所で、裁判官として事件を担当してきました。
定年後は故郷の沖縄に戻って様々な社会活動をしています。
更生保護法人は保護観察所の指揮監督のもとに、刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人、保護観察をつけられたものなど、受け入れて社会復帰を手助けする仕事です。
父親は安里積千代 沖縄社会大衆党委員長、その後衆議院議員になる。
父親っ子だったので、必ず父みたいになると言っていた。
台湾の高尾に父は行っていて、農民たちに関する仕事をやっていて、バナナ、マンゴウ等を持って来てくれて、子供心に弁護士はいい仕事だと思った。
弁護士は弱い人たちを助けるいい仕事だと思った。
当時は沖縄の通貨はドルだったので、月30ドルだけ送ってくれたので在学中に何とか受かりたいと思ったが、失敗してして就職してから受験を続けたが、なりふり構わず一生懸命勉強しました。
沖縄初の弁護士となる。(昭和32年)
新民法ができて沖縄中を説明して歩いた。
女性の弁護士の力を世間が認めない。
父や夫の補助者としか見られなかったのが一番いやだった。
早くから裁判官の要請があった。
父が国会議員になったのでその後釜として政治の世界への要請が有ったが、政治家には成りたくなかった。
そういった色々なことが有り裁判官の道に進むことにした。
本土復帰の時に転勤の話はあった。
夫が福岡に行けと言ってくれて、息子が熊本の学校に行っていたし、むしろ喜んで行く事にした。
裁判官として務まるか、不安はあったが、地裁で民事事件をやりたかったが、家裁の少年係を担当する事になる。
44歳の時に突然夫が亡くなる。
たまたま帰った時に、食事で呼んだが、返事が無く2階にいて意識はなかった。(心筋梗塞)
一番忘れられないのは、ホテルニュージャパンの火災による死者の遺族の方々の起こした損害賠償事件を担当したことです。
TVのニュースを見ていて是は自分が担当するのではないかと、予感が有った。
現場を見に行ったが、外観は立派だが本当にずさんな建築だった。
壁はベニヤ板、スプリンクラーが無かった。
火元は外国人の人の寝たばこ、9階から出た火がまたたく間に燃え広がり、33人が亡くなりその一部の人の担当をする。
横井英樹社長の言動が問題となる。(のらりくらりとした責任逃れ)
社長の資産が無かったので、金額に不満の方もいたが全員和解する事になる。
嘉手納飛行場、土地所有権確認訴訟が有った。
那覇地裁では請求棄却になって、見たら、嘉手納飛行場は日本軍がもともと作った跡、原告の人たちは滑走路部分に土地をもっていた。
最初に取り上げられた土地で、原型が変わっていて、判らなくなっていて、集団和解方式で争いのない様にして、全体としての土地が原告のものであるか、国が買ったものであるかの争いになる。
国のいい分は昭和19年に買ったという事だったが、登記はできている部分もあるが、売買契約書が無い、宮古八重山の土地の代金支払いに関する書類が有って、それを根拠に国が同じころに買い受けたという主張だった。
土地の代金支払いに関する書類の日付けが昭和19年10月11日だった、十・十空襲の翌日だった。
これに疑問をもって、大空襲の翌日にこれだけの書類が発送されたのか、届いたのか、お金の支払いが有ったのか、全く分からなくて、其れを根拠にするのはおかしいじゃないか、売買の形を取ったとしても強制収用じゃないかと、現金ではなく国債で払うという事は何の役にも立っていない、これは取り上げられたに違いない。
戦後米軍が接収して、国が借り上げて米国に貸すという形になって、、地主たちが全部土地代金を貰って、米軍上陸は4月、僅か半年違いでこれだけの差が有っていいものだろうかと、国を相手に和解を勧告した。
土地が原告たちのものであることをみとめるが、その代わり住民は過去の土地代金は請求しない、将来に向かって土地代金を請求するという和解案を出したが、住民は納得したが国は(大蔵省)は認めなかった。(他への波及を恐れ考慮したのではないか)
途中の段階で、担当した3人共に転出させられてしまって、後任が行い、国のいうことを認めることになってしまった。
住民たちは上告したが、棄却されてしまった。
非常に残念でならない、もし私がそのまま続けていたら、地主たちの請求を認める判決を変えたと今でも思います。
昭和27年3月にパスポートをもって青雲の志をもって、横浜に来て、横浜で定年を迎えられたのは嬉しかった。(65歳)
県の機関の法律律相談を受けようとして、弁護士の登録をしました。
本土に15年間いたので、沖縄で恩返ししようと15年間勤めようと、80歳までは弁護士としてお役に立ちたいと思った。
現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めています。
尊厳死協会に入る(無駄な延命治療はしたくない)、献体登録もする。(もったいない精神)
自然葬で沖縄の海に散骨してもらいたいと思っている。
大城さんは沖縄初の女性初の裁判官として活躍されてきました。
82歳になられた現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めていらっしゃいます。
更生保護法人というのは主として刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人の社会復帰をを助ける施設です。
大城さんは弁護士だった父親の跡を継いで、24歳で司法試験に合格しました。
沖縄で初の弁護士として活動した後、思うところが有って、35歳の時に那覇家庭裁判所の裁判官になりました。
その後、福岡、東京、静岡、横浜の高裁、地裁、家庭裁判所で、裁判官として事件を担当してきました。
定年後は故郷の沖縄に戻って様々な社会活動をしています。
更生保護法人は保護観察所の指揮監督のもとに、刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人、保護観察をつけられたものなど、受け入れて社会復帰を手助けする仕事です。
父親は安里積千代 沖縄社会大衆党委員長、その後衆議院議員になる。
父親っ子だったので、必ず父みたいになると言っていた。
台湾の高尾に父は行っていて、農民たちに関する仕事をやっていて、バナナ、マンゴウ等を持って来てくれて、子供心に弁護士はいい仕事だと思った。
弁護士は弱い人たちを助けるいい仕事だと思った。
当時は沖縄の通貨はドルだったので、月30ドルだけ送ってくれたので在学中に何とか受かりたいと思ったが、失敗してして就職してから受験を続けたが、なりふり構わず一生懸命勉強しました。
沖縄初の弁護士となる。(昭和32年)
新民法ができて沖縄中を説明して歩いた。
女性の弁護士の力を世間が認めない。
父や夫の補助者としか見られなかったのが一番いやだった。
早くから裁判官の要請があった。
父が国会議員になったのでその後釜として政治の世界への要請が有ったが、政治家には成りたくなかった。
そういった色々なことが有り裁判官の道に進むことにした。
本土復帰の時に転勤の話はあった。
夫が福岡に行けと言ってくれて、息子が熊本の学校に行っていたし、むしろ喜んで行く事にした。
裁判官として務まるか、不安はあったが、地裁で民事事件をやりたかったが、家裁の少年係を担当する事になる。
44歳の時に突然夫が亡くなる。
たまたま帰った時に、食事で呼んだが、返事が無く2階にいて意識はなかった。(心筋梗塞)
一番忘れられないのは、ホテルニュージャパンの火災による死者の遺族の方々の起こした損害賠償事件を担当したことです。
TVのニュースを見ていて是は自分が担当するのではないかと、予感が有った。
現場を見に行ったが、外観は立派だが本当にずさんな建築だった。
壁はベニヤ板、スプリンクラーが無かった。
火元は外国人の人の寝たばこ、9階から出た火がまたたく間に燃え広がり、33人が亡くなりその一部の人の担当をする。
横井英樹社長の言動が問題となる。(のらりくらりとした責任逃れ)
社長の資産が無かったので、金額に不満の方もいたが全員和解する事になる。
嘉手納飛行場、土地所有権確認訴訟が有った。
那覇地裁では請求棄却になって、見たら、嘉手納飛行場は日本軍がもともと作った跡、原告の人たちは滑走路部分に土地をもっていた。
最初に取り上げられた土地で、原型が変わっていて、判らなくなっていて、集団和解方式で争いのない様にして、全体としての土地が原告のものであるか、国が買ったものであるかの争いになる。
国のいい分は昭和19年に買ったという事だったが、登記はできている部分もあるが、売買契約書が無い、宮古八重山の土地の代金支払いに関する書類が有って、それを根拠に国が同じころに買い受けたという主張だった。
土地の代金支払いに関する書類の日付けが昭和19年10月11日だった、十・十空襲の翌日だった。
これに疑問をもって、大空襲の翌日にこれだけの書類が発送されたのか、届いたのか、お金の支払いが有ったのか、全く分からなくて、其れを根拠にするのはおかしいじゃないか、売買の形を取ったとしても強制収用じゃないかと、現金ではなく国債で払うという事は何の役にも立っていない、これは取り上げられたに違いない。
戦後米軍が接収して、国が借り上げて米国に貸すという形になって、、地主たちが全部土地代金を貰って、米軍上陸は4月、僅か半年違いでこれだけの差が有っていいものだろうかと、国を相手に和解を勧告した。
土地が原告たちのものであることをみとめるが、その代わり住民は過去の土地代金は請求しない、将来に向かって土地代金を請求するという和解案を出したが、住民は納得したが国は(大蔵省)は認めなかった。(他への波及を恐れ考慮したのではないか)
途中の段階で、担当した3人共に転出させられてしまって、後任が行い、国のいうことを認めることになってしまった。
住民たちは上告したが、棄却されてしまった。
非常に残念でならない、もし私がそのまま続けていたら、地主たちの請求を認める判決を変えたと今でも思います。
昭和27年3月にパスポートをもって青雲の志をもって、横浜に来て、横浜で定年を迎えられたのは嬉しかった。(65歳)
県の機関の法律律相談を受けようとして、弁護士の登録をしました。
本土に15年間いたので、沖縄で恩返ししようと15年間勤めようと、80歳までは弁護士としてお役に立ちたいと思った。
現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めています。
尊厳死協会に入る(無駄な延命治療はしたくない)、献体登録もする。(もったいない精神)
自然葬で沖縄の海に散骨してもらいたいと思っている。
2015年6月22日月曜日
沢 知恵(シンガーソングライター) ・日韓を歌でつなぎたい
沢 知恵(シンガーソングライター) ・日韓を歌でつなぎたい
1971年 神奈川県で日本人の父と韓国人の母との間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ちました。
3歳からピアノに親しみ、東京芸術大学在学中に、歌手デビューします。
98年には歴史的経緯から日本の大衆文化が規制されていた韓国で、初めて公式に日本語で歌って第40回レコード大賞アジア音楽賞を受賞しました。
その後も日本語や韓国の言葉で、曲を作り日韓両国で公演を行っています。
6月22日は1965年に日本と韓国が国交を正常化して、丁度50年になる節目の日です。
小さい頃は無我夢中で、楽しく国から国へと渡り歩いて、それぞれの文化を謳歌して、育った幸せな子供でした。
日本と韓国が仲良くしていなかったら、こんなふうに生きていなかったかもしれない。
1960年代、韓国に行く若者はいなかったが、父は一人の日本人として、償いたい、隣り人(となりびと)になりたいと純粋な気持ちで海を渡った。
大学で出会った母を見染めて日本に来て結婚して私が生まれました。
2歳の時に韓国で仕事をしたいと、一家4人(妹を含め)で宣教師として働きました。
父は朝鮮半島全体のキリスト教研究したいという事で、資料がアメリカのワシントンの図書館に在るという事で留学しました。
私は学校に行っても最初はちんぷんかんぷんだったが、直ぐにおしゃべりになった。
言葉は言葉だけではなくて、自然、文化全部を背負ってるものなので、生活の中で一致して、両親に自然にそれぞれの文化にどっぷりつからせてもらって有難うと言いたいです。
三カ国語の他にピアノの言語だったのかと思います。
小学校3年の時に日本に帰国、東京芸術大学に在学中に歌手デビューする。(1990年ぐらいでバブルの最後の頃)
英語で歌うのがかっこいいという様な時代だった。
母方の祖父が 金素雲という詩人だった。
祖父の詩集を手にとって見たら、訳された詩が美しかった。
こんな日本語を私は歌って見たいと思って、ピアノに向かって、読んだ。(「心」と言う詩)
「私の心は湖水です。 どうぞ漕いで おいでなさい。貴方の白い影を抱き 玉と砕けて船べりへ
散りましょう。 私の心はともしびです。 あの扉を閉めてください。 貴方の綾衣の裾にふるえ 心静かに 燃え尽きて あげましょう。」
読んでいたらそのままメロディーがついて5分、10分で一曲の歌になった。
これを境に日本語に引っ張られて行って、デビューして23年になりますが、日本語ばっかり歌っている、日本語の響きを伝えたいと思った。
出発点が「心」で、もともとの詩が朝鮮であったというのは、私にとって運命だったと思う。
祖父の身体の中で日本語と韓国語が溶け合って、私の中でもさらに溶けあって生まれてきた歌ではないかと思います。
韓国でも歌って見たいと思ったが、1996年は日本人がコンサートをするとか、日本語で、韓国で歌うのはあり得ない時代だった。
韓国語に訳して歌う事にして、うまく行った。
アンコールが有って、韓国語に直せなかった歌が有るといって、ラララで歌いますと行ったら、日本語で歌えという声が有ったが、ラララで歌って締めくくりました。
聴衆は残念だったと思います。
日本と韓国の歴史が動き出そうとしている、私たちも変わっていかなくてはいけないのではないか。
韓国もそろそろ変わっていかなくてはいけないのではないかと、感じ取ってくれたのではないか。
2年後日本語で歌う機会が有った。
当時は韓国でコンサートをする時に、政府に全楽曲の歌詞、メロディー、訳を提出しなくてはいけなかった。
1998年 光州でコンサートをする時に、日本語の歌を歌う事を許可するとの連絡が有った。
「心」、「ふるさと」だった。 (金大中大統領 日本の大衆文化を段階的に解放する政策行う)
「ふるさと」を歌い始めたら、一緒に歌い始める声が聞こえ始め、吃驚した。
植民地時代に「ふるさと」を歌っていた。
楽屋に何人もきてくれて 日本語の響きは抑制されていて美しいと感動しましたと言ってくれて嬉しかった。
日本でも韓流ブームが起きたりして、韓国文化がかっこいいという様にもなった。
歴史認識の問題は今も棘の様に刺さっている。
何が有ったかと言う事実を確認できないと、なにをという事になる。
相手の心に入るまで、伝え続ける事が大事だと思う。
もう一歩日本と韓国が刺さった棘を気にしながら歩み寄りたいのに、歩み寄れないでいるもどかしさ、音楽家として何かできるのではないかと言われている様な気がする。
「父の言葉」
「韓国を学びそれを日本に伝え、日本を学び韓国に伝えるという事は言うに優しいが、行うには至難の業である。
韓国での事実をそのまま日本につたえても、ニュースには成るが、日本人の心に入ってゆく事はない。
韓国を知るには、私と言う中間に立つものの屈折を経て、知識と感情の濾過を通してのみ、伝達可能になるのであろう。」
是は私へのメッセージだと思いました。
「知識と感情の濾過」 一番自然な形で出来るのが音楽ではないか。
日本と韓国の違いをお互い伝えあう事になったのであれば幸せな運命だと思います。
父は私が高校生の時に癌で49歳で亡くなったが、父が仕残した一部を歌で受け継ぐことができたら幸せです。
違いをもった人の心を一つに繋げるのが歌だと思います。
一回でも多く重ねてゆきたい。
ようやくスタートラインに立ったような気がする、私らしく歌そのものを届けたいと思う様になった。
1971年 神奈川県で日本人の父と韓国人の母との間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ちました。
3歳からピアノに親しみ、東京芸術大学在学中に、歌手デビューします。
98年には歴史的経緯から日本の大衆文化が規制されていた韓国で、初めて公式に日本語で歌って第40回レコード大賞アジア音楽賞を受賞しました。
その後も日本語や韓国の言葉で、曲を作り日韓両国で公演を行っています。
6月22日は1965年に日本と韓国が国交を正常化して、丁度50年になる節目の日です。
小さい頃は無我夢中で、楽しく国から国へと渡り歩いて、それぞれの文化を謳歌して、育った幸せな子供でした。
日本と韓国が仲良くしていなかったら、こんなふうに生きていなかったかもしれない。
1960年代、韓国に行く若者はいなかったが、父は一人の日本人として、償いたい、隣り人(となりびと)になりたいと純粋な気持ちで海を渡った。
大学で出会った母を見染めて日本に来て結婚して私が生まれました。
2歳の時に韓国で仕事をしたいと、一家4人(妹を含め)で宣教師として働きました。
父は朝鮮半島全体のキリスト教研究したいという事で、資料がアメリカのワシントンの図書館に在るという事で留学しました。
私は学校に行っても最初はちんぷんかんぷんだったが、直ぐにおしゃべりになった。
言葉は言葉だけではなくて、自然、文化全部を背負ってるものなので、生活の中で一致して、両親に自然にそれぞれの文化にどっぷりつからせてもらって有難うと言いたいです。
三カ国語の他にピアノの言語だったのかと思います。
小学校3年の時に日本に帰国、東京芸術大学に在学中に歌手デビューする。(1990年ぐらいでバブルの最後の頃)
英語で歌うのがかっこいいという様な時代だった。
母方の祖父が 金素雲という詩人だった。
祖父の詩集を手にとって見たら、訳された詩が美しかった。
こんな日本語を私は歌って見たいと思って、ピアノに向かって、読んだ。(「心」と言う詩)
「私の心は湖水です。 どうぞ漕いで おいでなさい。貴方の白い影を抱き 玉と砕けて船べりへ
散りましょう。 私の心はともしびです。 あの扉を閉めてください。 貴方の綾衣の裾にふるえ 心静かに 燃え尽きて あげましょう。」
読んでいたらそのままメロディーがついて5分、10分で一曲の歌になった。
これを境に日本語に引っ張られて行って、デビューして23年になりますが、日本語ばっかり歌っている、日本語の響きを伝えたいと思った。
出発点が「心」で、もともとの詩が朝鮮であったというのは、私にとって運命だったと思う。
祖父の身体の中で日本語と韓国語が溶け合って、私の中でもさらに溶けあって生まれてきた歌ではないかと思います。
韓国でも歌って見たいと思ったが、1996年は日本人がコンサートをするとか、日本語で、韓国で歌うのはあり得ない時代だった。
韓国語に訳して歌う事にして、うまく行った。
アンコールが有って、韓国語に直せなかった歌が有るといって、ラララで歌いますと行ったら、日本語で歌えという声が有ったが、ラララで歌って締めくくりました。
聴衆は残念だったと思います。
日本と韓国の歴史が動き出そうとしている、私たちも変わっていかなくてはいけないのではないか。
韓国もそろそろ変わっていかなくてはいけないのではないかと、感じ取ってくれたのではないか。
2年後日本語で歌う機会が有った。
当時は韓国でコンサートをする時に、政府に全楽曲の歌詞、メロディー、訳を提出しなくてはいけなかった。
1998年 光州でコンサートをする時に、日本語の歌を歌う事を許可するとの連絡が有った。
「心」、「ふるさと」だった。 (金大中大統領 日本の大衆文化を段階的に解放する政策行う)
「ふるさと」を歌い始めたら、一緒に歌い始める声が聞こえ始め、吃驚した。
植民地時代に「ふるさと」を歌っていた。
楽屋に何人もきてくれて 日本語の響きは抑制されていて美しいと感動しましたと言ってくれて嬉しかった。
日本でも韓流ブームが起きたりして、韓国文化がかっこいいという様にもなった。
歴史認識の問題は今も棘の様に刺さっている。
何が有ったかと言う事実を確認できないと、なにをという事になる。
相手の心に入るまで、伝え続ける事が大事だと思う。
もう一歩日本と韓国が刺さった棘を気にしながら歩み寄りたいのに、歩み寄れないでいるもどかしさ、音楽家として何かできるのではないかと言われている様な気がする。
「父の言葉」
「韓国を学びそれを日本に伝え、日本を学び韓国に伝えるという事は言うに優しいが、行うには至難の業である。
韓国での事実をそのまま日本につたえても、ニュースには成るが、日本人の心に入ってゆく事はない。
韓国を知るには、私と言う中間に立つものの屈折を経て、知識と感情の濾過を通してのみ、伝達可能になるのであろう。」
是は私へのメッセージだと思いました。
「知識と感情の濾過」 一番自然な形で出来るのが音楽ではないか。
日本と韓国の違いをお互い伝えあう事になったのであれば幸せな運命だと思います。
父は私が高校生の時に癌で49歳で亡くなったが、父が仕残した一部を歌で受け継ぐことができたら幸せです。
違いをもった人の心を一つに繋げるのが歌だと思います。
一回でも多く重ねてゆきたい。
ようやくスタートラインに立ったような気がする、私らしく歌そのものを届けたいと思う様になった。
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