釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(2)
健康で長生きしたい。
朝4時、5時に眼が覚めたら先ず柔軟たいそうをして、日が昇るのを待って、6時を過ぎてからウォーキングに出掛けます。
点字ブロックがあるところを白杖で伝わりながら歩きに行きます。
午後はヘルパーさんが来るので、新宿御苑とか代々木公園を2時間かけて歩くと言う風にしています。
障害者スポーツ大会があるので、出ませんかと言われて、ハイでますと言ったが、50m走る、ソフトボールを投げる、2種目出ました。
50mは大会新記録で金メダル、10秒31 ソフトボールも金メダルを取ることができた。
1日に10km歩く事が多い。
9秒台を目指します。
英語、第二外国語がスペイン語です。
ヨーロッパの中心言語には耳が慣れているので、なかなか聞こえなかった中国語をやってみようと思って習い始めたのが3年前です。
3年経って、大分音が取れるようになった。
ホテルでもバイキング方式が多くなってきて、私たちはとっても食べにくい、取りに行くのが難しいわけですから。
朝でもメニューを出してくれるホテルを選んで旅行してゆくツアーを組んでいけば視覚障害者でも旅行出来る。
温泉になると脱衣場に行ってからが困るので、誰かに手を引いてもらわないといけない。
ツアーを組みたいと思うのは砂風呂体験、塩を作る、そばを作る体験をしながら珍しい食べものを食べる。
視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長もしています。
それぞれその場所にはボランティア団体が有ったんです。
それを纏めて、各地方からやってくる人でも受け入れましょう、手引きをしましょうと言う団体を作った。
目的地に行く場合に、家から駅までは行けるが、その先はいけない場合が多々あるので、その時にその先をどなたかに手を引いて頂きたいと言う事がある訳です。
私としては旅行の手配をすることと同じことなので、難しいことではない。
音声のパソコンがあると言う事を聞いて、従来のパソコン操作と同じようにすることが出来る。
わたし自身はそんなに苦労ではない。
ボランティアの人が増えていってほしいと思う。
道に迷った時など「お手伝いしましょうか」と声を掛けてくれると、凄く嬉しい。
いろんな障害者の方が街に出てくると思いますので、ちょっと声をかけてくれると嬉しいです。
一番力を入れているのがブラインドサッカー。
サイドラインからボールが外へでない様にフェンスを設けている。(試合が中断しない様に工夫)
ボールを取りに行くときには、声をかけなければいけない VOY スペインコ語で「行くぞ」と言う意味
正面衝突を避けるために、声をかけることになっている。
シュート等と声をかける、コーラーと言う人がいる。(6人目 5人でプレイ)
判ってくるとフルスピードで走る様になってくる。
慣れてくるとボールの軌跡が読めるようになるので、足を出すとボールが止められる。
ボールの音、仲間の声、コーラーの声 この3つ 三角形をイメージしながらプレイをするので、選手に取ってみてはこんなに面白い事はないと思う。
ブラインドサッカーには解放感があると選手は言っている。
今チームとして日本選手権に出てくるのは13,4チームぐらい。
11月16日から東京でブラインドサッカーの世界選手権が行われた。
視覚障害者のサッカーだから可哀相な人達がやっていると夢夢思っていただきたくない、立派なアスリートが十分にサッカーをやっている。
日本のチームはまだ発展途上にある。 8チームで7,8位ぐらい。
リオ、東京に夢をつないでいきたい。
選手層を厚くすること、若手を育てていかないといけない、と思っている。
ボールを蹴ったこともない様な視覚障害者にスポーツの喜びを味わってもらいたいとも思う。
企業、学校からの研修も増えている。
視覚障害者と一般の人とがお互いに混じり合って共に生きる社会と言うのを形成出来たらいいと思っているので、見えないと言う事はこういう事ですよ、だからコミュニケーションを大事にしたいと思いますと言う風な、相手に対する理解、思いやりが深まって行けばいいなあと思います。
ちょっとした思いやりの心が優しい社会につながってゆくのかなあと思います。
2年後リオ、東京パラリンピックがあるので選手は大きな夢を描いているので、選手と共に夢を共有しながら行きたいと思います。
2014年12月31日水曜日
2014年12月30日火曜日
釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)
釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会理事長) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)
73歳 大学で英語を学んだ後、ツアーコンダクターとして、140カ国以上廻りました。
ところが50歳を過ぎた頃、網膜の機能が衰える病気と診断され、いずれ失明すると宣告されます。
その後釜本さんは知人の紹介で目が不自由な人たちがプレーするサッカー、ブラインドサッカーに出会います。
視覚障害のある選手たちがボールの音や、コーチの声を頼りに自由自在に動き回る姿に圧倒されブラインドサッカーを日本に広めようと協会を設立しました。
4年前完全に視力を失った後も選手の育成に力を入れる一方で、旅行を楽しみ視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長も務めています。
眼の見えない人が行うサッカーで5人制で、4人が全盲で、ゴールキーパーは健常者、又は弱視の方。
40m×20mのグラウンドで行う。
ボールを追いかけるのは難しいので、ボールが転がってゆくときに音が出るようになっている。
ボールの中に鈴の様な音源が内側にくっついている。
2002年に日韓ワールドカップが行われる予定だった。
2000年にシドニーのパラリンピックで次回のアテネでのパラリンピックが5人制のサッカーの正式種目になることが決定された。
そのころに大分眼が見えなくなってきて、電話がかかってきて、ブラインドサッカーを知ってますかと言ってきた。
視覚障害の方のサッカーも何とか取り入れたいので、手伝ってくれと言われる。
韓国まで2001年に8人ぐらいで見に行く事になる。
弟は釜本 邦茂
グラウンドにいったら、小さいと思った。
全盲なのになぜアイマスクをしているのだろうと、初めは視覚障害者ではどうせ大して走れないだろうと思ったらとんでもない、フルスピードで走っている。
試合後インタビューしたら、サッカーは面白い、との返事が返ってきた。
こりゃあ日本に帰ってきてやらなければいけないと思った。
多少光を感じる人もいるので、条件を一緒にするためにアイマスクをするという事を後から聞いた。
私も4年前から全然見えなくなって、見えないと言う事は大変なことだと感じた。
ボールの音、ガイドの声を聞きながら走ると言う事が、彼等はピッチの中に自由がある、ピッチの外は思う様な行動ができず不自由だと思っているので、自分一人で考え走ることが楽しくてもしょうがないと言う風な状況だと思います。
帰ってきて、大坂で始めて、次に横浜でやりました。
弟もサッカ-協会の副会長もやっていたので、開始の時には講演をしたり、自分がアイマスクをして蹴る様な事もしてくれました。
始めてのアジア大会を日本で開くときは、弟は大会の名誉委員長になってもらいました。
キャッチポスター 「サッカーは目じゃないよ」
弟が中学に入る時に、野球をしようか迷っていたので、サッカーをするようにアドバイスした。
私はバスケットボールをやっていたし、スポーツ家族であった。
私はなるべく社会に留まりたいと思っていたので、4年生の大学に行ってプロになる職業を選びたいと思って英語を勉強しました。
通訳ガイドの試験にも合格する。
経済、法律、歴史、地理、芸能から勉強しなければいけなかった。
大坂万博(1970年)がやってくると言うので、旅行業に入った。
前年から入り、日本に来る外国人に日本で案内すると言う仕事だった。
次に国内の仕事から海外の仕事に移る。
日本に会社があり、海外に支店を持つと言う事はなくて、海外に行けば日本人のスタッフはどこにもいないので、全部自分で通訳をしながら飛行機の確認、ホテルの確認をしなければならず全て自分の方に掛かって来ていた。
現地とのやり取りはFAXもなかった時代だったので、テレックスの様な時代なので電話代も非常に高くて、現地とのやり取りを電話でなんてありえなくて、兎に角間違いが非常に多かった。
行った先 行った先で 次の飛行機の確認をして行かなければいけない状況だった。
1970年代 ギリシャ キプロス紛争が発生 空港、鉄道が全部封鎖と成る。
ホテルで一服して、午後見学だったが、午前に街に出かけるが店のシャッターを閉める光景に出会う、キプロスとギリシャが戦争を始めることを聞く。
2日目 ニュースを集めようしたが、全然集まってこなかった。(電話局も閉鎖)
現地の旅行会社の人から、内緒でイタリアのブリンジ市の港町に船が出ることを告げられる。
乗りますかと、戦争中なので乗船料3倍も取られるけど、と言ったら皆乗ることに賛同してくれる。
ローマのガイドの人が来てくれて、声をかけてくれた私は涙が出そうになった。(感激と嬉しさ)
何があるかわからず、瞬時に決断してゆく以外にないと思っている。
旅行会社を辞めて、英語塾を開いていた時に、眼の病気になる。
50歳を過ぎたあたりから目が痛いと言う状況だったが、数時間過ぎると治ってしまうので、病院には行かなかったが、眼にゴミが入り取れないので、眼の大学病院に行く。
取ってもらって、検査をしてもらって、網膜色素変性症ですと言われ、将来目が見えなくなると言われた。
2,3年後に視野狭窄が始まる。 視覚障害者3級になる。 4年前に見えなくなる。
宣告を受けた時は20,30年先でしょうと、笑い飛ばしていたが、段々見えなくなる。
眼の見えなくなった不安感があった。
手紙が来ても見えない、返事を書くのに書いてもらうが、ちゃんと書いてくれたのかと、疑ってしまう日々の連続だったが、相手に任せると言う状況となる。
電話が鳴った時に、立とうと思って動くが、柱に額を当てて大きなたんこぶを作ったりした。
受け入れる以外にない、気持ちを穏やかにする方法はない、悩んでも仕方がないと切り替えざるを得なかった。
野菜とかいろいろ支払いはカードでやっている。
今は野菜とかヘルパーさんに値段を読んでもらったりして、高かったら止めとくわと言う事も出来るようになった。
生きるための全ての情報の80%は眼から入ってきます。
いくらあがいても、この病気は今の時点では、治らない。
受け入れて生きてゆく、明るく、はつらつと元気に生きてゆくしかないと思う。
ブラインドサッカーの選手は物凄く明るいと思います。
心の奥底では治ってほしいと思っているかもしれないが、彼等は受け入れてブラインドサッカーに携わっているから明るいと思っています。
眼が見えなくなって失ったものは非常に大きいが、得たものも凄く大きいので、わたし自身はブラインドサッカーに携わって、サッカーというものを通して非常に多くの人と関わることができ、ボランティアさん、ヘルパーさん等と知り合いになれた。
ブラインドサッカーで彼らが夢を描いてくれる、私もその仲間にいるんだと言う事が、わたし自身としても大きな夢を描けている、こんな嬉しいことはないなあと思っています。
73歳 大学で英語を学んだ後、ツアーコンダクターとして、140カ国以上廻りました。
ところが50歳を過ぎた頃、網膜の機能が衰える病気と診断され、いずれ失明すると宣告されます。
その後釜本さんは知人の紹介で目が不自由な人たちがプレーするサッカー、ブラインドサッカーに出会います。
視覚障害のある選手たちがボールの音や、コーチの声を頼りに自由自在に動き回る姿に圧倒されブラインドサッカーを日本に広めようと協会を設立しました。
4年前完全に視力を失った後も選手の育成に力を入れる一方で、旅行を楽しみ視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長も務めています。
眼の見えない人が行うサッカーで5人制で、4人が全盲で、ゴールキーパーは健常者、又は弱視の方。
40m×20mのグラウンドで行う。
ボールを追いかけるのは難しいので、ボールが転がってゆくときに音が出るようになっている。
ボールの中に鈴の様な音源が内側にくっついている。
2002年に日韓ワールドカップが行われる予定だった。
2000年にシドニーのパラリンピックで次回のアテネでのパラリンピックが5人制のサッカーの正式種目になることが決定された。
そのころに大分眼が見えなくなってきて、電話がかかってきて、ブラインドサッカーを知ってますかと言ってきた。
視覚障害の方のサッカーも何とか取り入れたいので、手伝ってくれと言われる。
韓国まで2001年に8人ぐらいで見に行く事になる。
弟は釜本 邦茂
グラウンドにいったら、小さいと思った。
全盲なのになぜアイマスクをしているのだろうと、初めは視覚障害者ではどうせ大して走れないだろうと思ったらとんでもない、フルスピードで走っている。
試合後インタビューしたら、サッカーは面白い、との返事が返ってきた。
こりゃあ日本に帰ってきてやらなければいけないと思った。
多少光を感じる人もいるので、条件を一緒にするためにアイマスクをするという事を後から聞いた。
私も4年前から全然見えなくなって、見えないと言う事は大変なことだと感じた。
ボールの音、ガイドの声を聞きながら走ると言う事が、彼等はピッチの中に自由がある、ピッチの外は思う様な行動ができず不自由だと思っているので、自分一人で考え走ることが楽しくてもしょうがないと言う風な状況だと思います。
帰ってきて、大坂で始めて、次に横浜でやりました。
弟もサッカ-協会の副会長もやっていたので、開始の時には講演をしたり、自分がアイマスクをして蹴る様な事もしてくれました。
始めてのアジア大会を日本で開くときは、弟は大会の名誉委員長になってもらいました。
キャッチポスター 「サッカーは目じゃないよ」
弟が中学に入る時に、野球をしようか迷っていたので、サッカーをするようにアドバイスした。
私はバスケットボールをやっていたし、スポーツ家族であった。
私はなるべく社会に留まりたいと思っていたので、4年生の大学に行ってプロになる職業を選びたいと思って英語を勉強しました。
通訳ガイドの試験にも合格する。
経済、法律、歴史、地理、芸能から勉強しなければいけなかった。
大坂万博(1970年)がやってくると言うので、旅行業に入った。
前年から入り、日本に来る外国人に日本で案内すると言う仕事だった。
次に国内の仕事から海外の仕事に移る。
日本に会社があり、海外に支店を持つと言う事はなくて、海外に行けば日本人のスタッフはどこにもいないので、全部自分で通訳をしながら飛行機の確認、ホテルの確認をしなければならず全て自分の方に掛かって来ていた。
現地とのやり取りはFAXもなかった時代だったので、テレックスの様な時代なので電話代も非常に高くて、現地とのやり取りを電話でなんてありえなくて、兎に角間違いが非常に多かった。
行った先 行った先で 次の飛行機の確認をして行かなければいけない状況だった。
1970年代 ギリシャ キプロス紛争が発生 空港、鉄道が全部封鎖と成る。
ホテルで一服して、午後見学だったが、午前に街に出かけるが店のシャッターを閉める光景に出会う、キプロスとギリシャが戦争を始めることを聞く。
2日目 ニュースを集めようしたが、全然集まってこなかった。(電話局も閉鎖)
現地の旅行会社の人から、内緒でイタリアのブリンジ市の港町に船が出ることを告げられる。
乗りますかと、戦争中なので乗船料3倍も取られるけど、と言ったら皆乗ることに賛同してくれる。
ローマのガイドの人が来てくれて、声をかけてくれた私は涙が出そうになった。(感激と嬉しさ)
何があるかわからず、瞬時に決断してゆく以外にないと思っている。
旅行会社を辞めて、英語塾を開いていた時に、眼の病気になる。
50歳を過ぎたあたりから目が痛いと言う状況だったが、数時間過ぎると治ってしまうので、病院には行かなかったが、眼にゴミが入り取れないので、眼の大学病院に行く。
取ってもらって、検査をしてもらって、網膜色素変性症ですと言われ、将来目が見えなくなると言われた。
2,3年後に視野狭窄が始まる。 視覚障害者3級になる。 4年前に見えなくなる。
宣告を受けた時は20,30年先でしょうと、笑い飛ばしていたが、段々見えなくなる。
眼の見えなくなった不安感があった。
手紙が来ても見えない、返事を書くのに書いてもらうが、ちゃんと書いてくれたのかと、疑ってしまう日々の連続だったが、相手に任せると言う状況となる。
電話が鳴った時に、立とうと思って動くが、柱に額を当てて大きなたんこぶを作ったりした。
受け入れる以外にない、気持ちを穏やかにする方法はない、悩んでも仕方がないと切り替えざるを得なかった。
野菜とかいろいろ支払いはカードでやっている。
今は野菜とかヘルパーさんに値段を読んでもらったりして、高かったら止めとくわと言う事も出来るようになった。
生きるための全ての情報の80%は眼から入ってきます。
いくらあがいても、この病気は今の時点では、治らない。
受け入れて生きてゆく、明るく、はつらつと元気に生きてゆくしかないと思う。
ブラインドサッカーの選手は物凄く明るいと思います。
心の奥底では治ってほしいと思っているかもしれないが、彼等は受け入れてブラインドサッカーに携わっているから明るいと思っています。
眼が見えなくなって失ったものは非常に大きいが、得たものも凄く大きいので、わたし自身はブラインドサッカーに携わって、サッカーというものを通して非常に多くの人と関わることができ、ボランティアさん、ヘルパーさん等と知り合いになれた。
ブラインドサッカーで彼らが夢を描いてくれる、私もその仲間にいるんだと言う事が、わたし自身としても大きな夢を描けている、こんな嬉しいことはないなあと思っています。
2014年12月26日金曜日
渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者) ・知ってほしい、盲ろう者の世界
渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者) ・知ってほしい、盲ろう者の世界
渡井さんは40歳 8年ほど前から、小学校、幼稚園をまわって、盲ろう者について知ってもらうための特別授業をしています。
視覚と聴覚の両方に障害がある盲ろう者のありのままを子供達の素直な心で感じ取ってほしいと言う思いからです。
渡井さんの夫、秀忠さんは38歳 盲ろう者を支援する仕事をしていますが、自身も全盲で難聴の障害があります。
二人は福祉を学んでいた大学時代に出会って結婚、現在は2人の子供との4人暮らしです。
盲ろう者、眼と耳の両方に障害のある方
何時障害を負ったかと言う時期によっても、コミュニケーション方法は様々です。
主人の場合は 点字を勉強していたので、手と手を重ね合わせて、タイプライターのように点字を一文字ずつ「こんにちわ」と言う風に、点字を打つ、指点字で話をしています。
手話を覚えている方が、目で見ることが難しくなったので、触手話という方法
点字、手話も判らないと言う方は、音声、FM補聴器を付けているとか
掌に一文字ずつ文字を書く、手書き文字、平仮名、カタカナ 等で行う。
ホワイトボードの様な小さなものに相手のいうことを書いてゆく筆記と言う方法もあります。
多少見える人も、人によって見え方も違うので色々です。
盲ろう者の通訳介助者 盲ろうと言う方が病院に行くときお医者さんとの話を通訳する、学校、買い物などで呼ばれたりする。
相づち 相手の肩をポンポンと2回ぐらい叩く。
笑い 相手の肩をポンポンポンと早く叩く。
合っている時は 肩に〇を書いたり、間違っている時は×を書いたりする。
盲ろう者の数は全国で約1万4000人と言われる。
両方障害登録しない事もあり正確には判らない。
主人は7歳ごろに全盲になり、耳の方は生れ付きの難聴だった。
静かな場所ならば、音声で聞こえるが、(右の耳だけ補聴器を付けている)、テーブルを挟んで話す時には聞こえなくなる。
長男が幼稚園に入る前ぐらいの時に、左手に長男、右手に主人、前に娘を抱っこして歩いていた時に、小学生がお母さんと一緒に歩いてきて、主人の事を「あの人、何」と聞いていた。
その時に言われたお母さんが「見ちゃだめよ」と言って足早に去っていってしまったので、その時にはショックを受けた。
主人には状況説明をできなかった。 他にも似たような経験があった。
長男が幼稚園の年少の時に父親参観あり、その時に担任の先生が、お父さんをどうやって他のお子さんに説明したらいいんでしょうかと言われ、先生の見たままを説明して大丈夫ですと伝えたが、先生はどうやって説明したらいいか判らないと言われた。
盲ろう者のことをもっと知ってほしいと思う様になった。
特別授業では盲ろう者の2人に話をしてもらう事にして、どうしてこのようになったのか、と言う事を話してもらって、その後耳栓して、目隠しをして白杖を持って、点字ブロックの上を歩く、盲ろう疑似体験をしたり、街中で白杖を持った人の手引きの仕方、私の紙芝居(2時間)をやると言った様な感じです。
紙芝居は自分で作る。 「ひろ(長男)のパパ 盲ろう者ってどんな人」
白杖、補聴器などの事を説明したりする。
授業の後、手紙をくれたり、調べ学習をしてくれたりする。
大きな模造紙が部屋中に張ってあって、そこに眼の事、耳の事以外に、ユニバーサルデザイン、盲導犬、養護学校とは、いろいろ福祉の分野のことをグループごとに調べて、模造紙に書いてくれた
便利グッツまで考えてくれた子がいた。 凄く感動しました。
今幼稚園、小学校を回っている。
大人は偏見と言うか、ものの見方も出来てしまうので、小さいお子さんは素直なのでなんでも吸収してくれる。
サポートしたいがどう声を掛けていいかわからないと言う事でついつい通り過ぎてしまう人も少なくないので、やり方についても判らないと、危険も伴う事もあると思う。
突然白杖を引っ張ってゆくとか、後ろから押してゆく方もいる。(とても怖い)
白杖を持っていないほうに立って、その人の肘を支えるようにして補助する。
高校卒業するころに、自分は何をしたいのかなあと思った時に特別何もなかった。
絵を描くのが好きだったので、2年ぐらいは美術の学校に行って絵を描いていた。(紙芝居の作成に役立つ)
社会福祉学部があることを知る。 受験して入る。
掲示板に、盲ろう者向け通訳介助者養成講習会の案内が出ていて、それを見て受けてみたいと思った。(もう一度行った時にはすでにチラシはなかった)
電話をして養成講習会を受けたいと連絡して、行く事になる。
交流会の時に秀忠さんと会う事になる。
秀忠さんの授業の通訳をやっていた。
結婚の話があり、かなり迷って1年ぐらい返事をしなかった。
気が合いそうだし、小さいころから寮生活をしていたので自立した方だと思った。
親は私の気持ちを重視してくれたが、でも賛成的でもなかった感じですね。
あちらの親御さんは(この子と結婚しても)いいのか、と言う様な感じでした。
出来ちゃった結婚だったので、私は絶対産みたいと思った。
今は中学1年生(男)、下は小学校4年生(女)
大変でしょうと言われるが、楽天的に考える方なので、悪い事を考えても同じ時間だけ過ぎてゆくので、それならいいことを考えて行こうよと、常に楽しいことを考えてその日、その日と言う感じで過ごしてきたので、すごく大変とは思っていないですね。
いろんなところを回って、活動を重ねることで、地域の皆さんとの繋がりが強くなったと感じます。
娘の小学校にはまだ行っていないので、娘も私も楽しみにしています。
障害者に限らず、お年寄りでも、ちょっと困ったかな、お手伝いをした方がいいかなと言う人を見たら、お手伝いが自然にできる様な子供達になって欲しいなと思います。
眼と耳が障害があると、家から自由に外に出られない方が多いので、ひとりでも多く出られるようになったらいいと思います。。
お子さんたちが素直に偏見なく接してくれればいいなと、欲を言えば大きくなった時に、眼、耳が不自由な人でも物を買う時に、点字がついて触って分かるようなものを作る人に成ってくださいと、おまけ的に授業で言っています。
いろんな人が世の中にいるんだなと言うのを知っていただければと思います。
渡井さんは40歳 8年ほど前から、小学校、幼稚園をまわって、盲ろう者について知ってもらうための特別授業をしています。
視覚と聴覚の両方に障害がある盲ろう者のありのままを子供達の素直な心で感じ取ってほしいと言う思いからです。
渡井さんの夫、秀忠さんは38歳 盲ろう者を支援する仕事をしていますが、自身も全盲で難聴の障害があります。
二人は福祉を学んでいた大学時代に出会って結婚、現在は2人の子供との4人暮らしです。
盲ろう者、眼と耳の両方に障害のある方
何時障害を負ったかと言う時期によっても、コミュニケーション方法は様々です。
主人の場合は 点字を勉強していたので、手と手を重ね合わせて、タイプライターのように点字を一文字ずつ「こんにちわ」と言う風に、点字を打つ、指点字で話をしています。
手話を覚えている方が、目で見ることが難しくなったので、触手話という方法
点字、手話も判らないと言う方は、音声、FM補聴器を付けているとか
掌に一文字ずつ文字を書く、手書き文字、平仮名、カタカナ 等で行う。
ホワイトボードの様な小さなものに相手のいうことを書いてゆく筆記と言う方法もあります。
多少見える人も、人によって見え方も違うので色々です。
盲ろう者の通訳介助者 盲ろうと言う方が病院に行くときお医者さんとの話を通訳する、学校、買い物などで呼ばれたりする。
相づち 相手の肩をポンポンと2回ぐらい叩く。
笑い 相手の肩をポンポンポンと早く叩く。
合っている時は 肩に〇を書いたり、間違っている時は×を書いたりする。
盲ろう者の数は全国で約1万4000人と言われる。
両方障害登録しない事もあり正確には判らない。
主人は7歳ごろに全盲になり、耳の方は生れ付きの難聴だった。
静かな場所ならば、音声で聞こえるが、(右の耳だけ補聴器を付けている)、テーブルを挟んで話す時には聞こえなくなる。
長男が幼稚園に入る前ぐらいの時に、左手に長男、右手に主人、前に娘を抱っこして歩いていた時に、小学生がお母さんと一緒に歩いてきて、主人の事を「あの人、何」と聞いていた。
その時に言われたお母さんが「見ちゃだめよ」と言って足早に去っていってしまったので、その時にはショックを受けた。
主人には状況説明をできなかった。 他にも似たような経験があった。
長男が幼稚園の年少の時に父親参観あり、その時に担任の先生が、お父さんをどうやって他のお子さんに説明したらいいんでしょうかと言われ、先生の見たままを説明して大丈夫ですと伝えたが、先生はどうやって説明したらいいか判らないと言われた。
盲ろう者のことをもっと知ってほしいと思う様になった。
特別授業では盲ろう者の2人に話をしてもらう事にして、どうしてこのようになったのか、と言う事を話してもらって、その後耳栓して、目隠しをして白杖を持って、点字ブロックの上を歩く、盲ろう疑似体験をしたり、街中で白杖を持った人の手引きの仕方、私の紙芝居(2時間)をやると言った様な感じです。
紙芝居は自分で作る。 「ひろ(長男)のパパ 盲ろう者ってどんな人」
白杖、補聴器などの事を説明したりする。
授業の後、手紙をくれたり、調べ学習をしてくれたりする。
大きな模造紙が部屋中に張ってあって、そこに眼の事、耳の事以外に、ユニバーサルデザイン、盲導犬、養護学校とは、いろいろ福祉の分野のことをグループごとに調べて、模造紙に書いてくれた
便利グッツまで考えてくれた子がいた。 凄く感動しました。
今幼稚園、小学校を回っている。
大人は偏見と言うか、ものの見方も出来てしまうので、小さいお子さんは素直なのでなんでも吸収してくれる。
サポートしたいがどう声を掛けていいかわからないと言う事でついつい通り過ぎてしまう人も少なくないので、やり方についても判らないと、危険も伴う事もあると思う。
突然白杖を引っ張ってゆくとか、後ろから押してゆく方もいる。(とても怖い)
白杖を持っていないほうに立って、その人の肘を支えるようにして補助する。
高校卒業するころに、自分は何をしたいのかなあと思った時に特別何もなかった。
絵を描くのが好きだったので、2年ぐらいは美術の学校に行って絵を描いていた。(紙芝居の作成に役立つ)
社会福祉学部があることを知る。 受験して入る。
掲示板に、盲ろう者向け通訳介助者養成講習会の案内が出ていて、それを見て受けてみたいと思った。(もう一度行った時にはすでにチラシはなかった)
電話をして養成講習会を受けたいと連絡して、行く事になる。
交流会の時に秀忠さんと会う事になる。
秀忠さんの授業の通訳をやっていた。
結婚の話があり、かなり迷って1年ぐらい返事をしなかった。
気が合いそうだし、小さいころから寮生活をしていたので自立した方だと思った。
親は私の気持ちを重視してくれたが、でも賛成的でもなかった感じですね。
あちらの親御さんは(この子と結婚しても)いいのか、と言う様な感じでした。
出来ちゃった結婚だったので、私は絶対産みたいと思った。
今は中学1年生(男)、下は小学校4年生(女)
大変でしょうと言われるが、楽天的に考える方なので、悪い事を考えても同じ時間だけ過ぎてゆくので、それならいいことを考えて行こうよと、常に楽しいことを考えてその日、その日と言う感じで過ごしてきたので、すごく大変とは思っていないですね。
いろんなところを回って、活動を重ねることで、地域の皆さんとの繋がりが強くなったと感じます。
娘の小学校にはまだ行っていないので、娘も私も楽しみにしています。
障害者に限らず、お年寄りでも、ちょっと困ったかな、お手伝いをした方がいいかなと言う人を見たら、お手伝いが自然にできる様な子供達になって欲しいなと思います。
眼と耳が障害があると、家から自由に外に出られない方が多いので、ひとりでも多く出られるようになったらいいと思います。。
お子さんたちが素直に偏見なく接してくれればいいなと、欲を言えば大きくなった時に、眼、耳が不自由な人でも物を買う時に、点字がついて触って分かるようなものを作る人に成ってくださいと、おまけ的に授業で言っています。
いろんな人が世の中にいるんだなと言うのを知っていただければと思います。
2014年12月23日火曜日
早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(2)
早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(2)
東京勤務が昭和46年ぐらい、もうこっちで50年ぐらいになるが、人と話す時に、酒を飲んだ時等は関西弁が出たりする。
本音をいうのは関西、関東は飾ったりするので、関西弁の方が本音を聞きだしやすいのかもしれない。
本音を聞きたいと思う時はこちらも本音で応じないと聞き出せない。
女子刑務所を取材していた時に、飲み屋の女将さんが言った言葉に、女の気持ちは朝と夜では全然違うと、夜になるといろんなものが渦巻いていたりすると、いう。
その時によっても、ポツンと一言、言った時に話が広がってゆく事もある。
相手の思いをちゃんと汲みとって話を深く突いていくしかない。
刑事も同じことを繰り返し聞いたり、別の話を聞いたりしながら、真実に近づこうとする。
何度も会うと言う事は無駄に思うかもしれないが、それでもそのなかから新しいものを聞けたりする。
人間をそのまま取材した平尾誠二 ラグビー 小谷正一さん プロデューサー。(彼は面白かった)
新聞拡販の目的で数多くのイベントを仕掛け、西宮球場での闘牛大会、百貨店の絵の展覧会などさまざまなイベントをプロデュースする。
私と編集長で井上靖さん宅に行った時に、小谷さんを紹介される事になる。
小谷さんに会いに行って、売れる週刊誌を作るノウハウを結局聞けなかった。
小谷さんの事を書こうと思った。 伝記を書こうと思った時には亡くなっていた。
小谷さんを知っている人を取材して歩いた。
小谷さんは毎日オリオンズを作る。
新聞の部数を増やすのに繋がると言うのでやるが、見事に失敗する。
阪神タイガーズの主力選手を引き抜くが、阪神ファンは怒る、優勝もするが、人気は無かった。
「努力は運を引き寄せる。」 宿沢 広朗氏の言葉
本当に友だち、親友、兄弟、親子の様な感じにならないとなかなか本音のところまでは行かない。
「聖路加病院で働くということ」 執筆
日野原さん以外の人を書こうと思っていた。
細谷亮太先生を書こうと思った。 先生は俳句、エッセーなど芸達者だった。
細谷先生に会いに行って話をしたら、私の他に面白い医者、看護師がいるので、リストアップするので皆に取材してその中から書いたらどうかと言われて、「銀座の達人たち」終了させ、2008年ぐらいから取材にかかって、ようやくちょっと前(10月)に終わった。(6年間掛かる)
何度となく会って、(病院内、飲みながらなどして) 話を伺った。
30人リストアップしてもらって20人ぐらい取材、4人を対象に書いた。
人間は日常生活の中にいて成り立っているので、日常生活に踏み込んでいって話を聞かないと、描けないと思うんです。
4人の方は死と向き合っている人達 子供が死んでゆくという事は非常に悲しくて辛いという細谷さんは小児がんの担当医としてずーっとやってきた。
小児がんの子供に告知をするのを、日本で初めて行った人。
細谷先生はアメリカで子供に癌だと言う事を告知しなさいというふうに教えられる。
告知する事によって治療法を子供達に明らかにして、治療する。
アメリカにあった本を彼自身が翻訳して、出されるが、医学会とかでバッシングを受ける。
柳田邦男さんが援護射撃をして、次第に理解されてゆく。
石松伸一先生 救急部 死と隣り合わせの人の仕事。
サリン事件の時に聖路加病院は押しかけて来た患者を全員受け入れた事で凄いと評判になった。
石松先生は浮浪者でも何でも見るので、たまには院長、病院の方針とぶつかることもある。
どう折り合いをつけるかは、その日その日でやっている。
伊部さん 看護部長 看護師からなった人。(聖路加病院看護大学学長)
4人とも親を亡くしている人達。 自分たちの親の命も見つめてきた人達。
動物でも植物でも命があって、草花一つ見てても、全て生き物なので いずれなくなるので、その間にどういう風に生きていくのかという事は、この頃は自分では明日死んでも、十分だと思うが、そういいながらもう一日でも長く生きたいと言うのが本音かもしれない。
これからは短いものを自分に課して、自分の書きたいものを書いていこうかなと思っています。
旅は非日常、非日常に踏み込むことはいいのかなあと思う。
発表の当てがなくても書こうと思っている。
毎日同じことの繰り返しの様でありながら、毎日違っているのかなあと思うし、違うべきだなあと思う。
一喜一憂する事が大切だと思う。
東京勤務が昭和46年ぐらい、もうこっちで50年ぐらいになるが、人と話す時に、酒を飲んだ時等は関西弁が出たりする。
本音をいうのは関西、関東は飾ったりするので、関西弁の方が本音を聞きだしやすいのかもしれない。
本音を聞きたいと思う時はこちらも本音で応じないと聞き出せない。
女子刑務所を取材していた時に、飲み屋の女将さんが言った言葉に、女の気持ちは朝と夜では全然違うと、夜になるといろんなものが渦巻いていたりすると、いう。
その時によっても、ポツンと一言、言った時に話が広がってゆく事もある。
相手の思いをちゃんと汲みとって話を深く突いていくしかない。
刑事も同じことを繰り返し聞いたり、別の話を聞いたりしながら、真実に近づこうとする。
何度も会うと言う事は無駄に思うかもしれないが、それでもそのなかから新しいものを聞けたりする。
人間をそのまま取材した平尾誠二 ラグビー 小谷正一さん プロデューサー。(彼は面白かった)
新聞拡販の目的で数多くのイベントを仕掛け、西宮球場での闘牛大会、百貨店の絵の展覧会などさまざまなイベントをプロデュースする。
私と編集長で井上靖さん宅に行った時に、小谷さんを紹介される事になる。
小谷さんに会いに行って、売れる週刊誌を作るノウハウを結局聞けなかった。
小谷さんの事を書こうと思った。 伝記を書こうと思った時には亡くなっていた。
小谷さんを知っている人を取材して歩いた。
小谷さんは毎日オリオンズを作る。
新聞の部数を増やすのに繋がると言うのでやるが、見事に失敗する。
阪神タイガーズの主力選手を引き抜くが、阪神ファンは怒る、優勝もするが、人気は無かった。
「努力は運を引き寄せる。」 宿沢 広朗氏の言葉
本当に友だち、親友、兄弟、親子の様な感じにならないとなかなか本音のところまでは行かない。
「聖路加病院で働くということ」 執筆
日野原さん以外の人を書こうと思っていた。
細谷亮太先生を書こうと思った。 先生は俳句、エッセーなど芸達者だった。
細谷先生に会いに行って話をしたら、私の他に面白い医者、看護師がいるので、リストアップするので皆に取材してその中から書いたらどうかと言われて、「銀座の達人たち」終了させ、2008年ぐらいから取材にかかって、ようやくちょっと前(10月)に終わった。(6年間掛かる)
何度となく会って、(病院内、飲みながらなどして) 話を伺った。
30人リストアップしてもらって20人ぐらい取材、4人を対象に書いた。
人間は日常生活の中にいて成り立っているので、日常生活に踏み込んでいって話を聞かないと、描けないと思うんです。
4人の方は死と向き合っている人達 子供が死んでゆくという事は非常に悲しくて辛いという細谷さんは小児がんの担当医としてずーっとやってきた。
小児がんの子供に告知をするのを、日本で初めて行った人。
細谷先生はアメリカで子供に癌だと言う事を告知しなさいというふうに教えられる。
告知する事によって治療法を子供達に明らかにして、治療する。
アメリカにあった本を彼自身が翻訳して、出されるが、医学会とかでバッシングを受ける。
柳田邦男さんが援護射撃をして、次第に理解されてゆく。
石松伸一先生 救急部 死と隣り合わせの人の仕事。
サリン事件の時に聖路加病院は押しかけて来た患者を全員受け入れた事で凄いと評判になった。
石松先生は浮浪者でも何でも見るので、たまには院長、病院の方針とぶつかることもある。
どう折り合いをつけるかは、その日その日でやっている。
伊部さん 看護部長 看護師からなった人。(聖路加病院看護大学学長)
4人とも親を亡くしている人達。 自分たちの親の命も見つめてきた人達。
動物でも植物でも命があって、草花一つ見てても、全て生き物なので いずれなくなるので、その間にどういう風に生きていくのかという事は、この頃は自分では明日死んでも、十分だと思うが、そういいながらもう一日でも長く生きたいと言うのが本音かもしれない。
これからは短いものを自分に課して、自分の書きたいものを書いていこうかなと思っています。
旅は非日常、非日常に踏み込むことはいいのかなあと思う。
発表の当てがなくても書こうと思っている。
毎日同じことの繰り返しの様でありながら、毎日違っているのかなあと思うし、違うべきだなあと思う。
一喜一憂する事が大切だと思う。
2014年12月22日月曜日
早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(1)
早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(1)
早瀬さんは現役の新聞記者として活躍していた昭和53年、パーキンソン病を患っていた母を老人ホームに入居させました。
その事を新聞に載せたところ、3000通近くの投書が寄せられそのほとんどが痛烈な批判が書かれていたそうです。
それを機に取材を重ねて1981年東京都内の老人ホームの実態を描いた、「長い命のために」という小説を書き、翌年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されました。
人間の命にかかわる様なことが、比較的多い。
単純な踏切事故でも、何でも命が絡んでいる。
社会部の取材は命が絡んでいる。
警察庁、警視庁の担当は、なんか顔つきが普通の人よりも人相が厳ししい様な顔がおおい。
物を書くと言う事は自分と向き合うことでもあるし、取材対象に向き合うことにもなる。
最初は名古屋に新聞記者としてゆく。
14,5ケ所 警察署があり、担当する警察署にいく。 3つの警察署をそれぞれ担当する。
夕刊があるので、午後の1時30分がぎりぎりに締め切りになる。
午後からはそれぞれ町の催し物を、朝刊に地方版用の記事を書く。(街ダネ)
発生事件の裏側 直後だとなかなか口に出すことが無いようなことも、時間をおいてだと、事件に関してのことを話してくれることがある。
次に大坂に行く。
デスクの一人が私に、新聞記者として理想的なのはハンターであり、ライターである事、と言ってくれた。
取材力があり、文章も書けたら理想的だが、取材を沢山した方がいいといった。
取材に厚みが増してゆけば、文章が下手でもいいものが書ける、文章はデスクなどが直す機会もあるので。
いろいろ集めた事実のなかのどの部分に焦点を集めるかは個人によって違う。
ノンフィクションでも光の当て方、どこを強調するかによって、内容がどこを読んでほしいのか、読み手に伝わらないといけない。
山崎豊子 取材はしつこいぐらいする。
10取材したら、10全部書くな、取材した半分ぐらいに絞って書か無いと駄目だ、全部書こうとすると散漫になったり、鋭さが無くなり、事実がぼやけてしまったりする、半分は捨てる気持ちで書かないといけないと言っている。
「長い命のために」 40歳ちょっとすぎぐらいの時、母親が青山のマンションで一人暮らしをしていたが、2年目に倒れていて、病院に行き、パーキンソン病で最後は寝たっきりになると言われて、家で介護されるか、特別老人ホームがあると言われて、主治医としては特別養護老人ホームの方がいいのではと云われた。
特別養護老人ホーム等の事を調べて、見学に行く。
特別養護老人ホーム
毎月30万円掛かるとすると、全額負担から無料まで15段階に別れている。
当人、或いは扶養義務者がどれだけ経済的に収入があるかを事務所が調べて応分の負担をする。
非常にいい制度。
養護老人ホーム
経済的な理由、体は丈夫だが収入がない人達を対象 経費はいくらか毎月いくらかは払える。
有料老人ホーム
何百万円という頭金を払って、毎月15から20万円払う。
今は特別養護老人ホームに入るのに待機者が多い。 空きが出ないと入れない。
定員100人 200人であると10%以下ですね。
特別養護老人ホームに入る資格もあり、特別養護老人ホーム「中野友愛ホーム」が丁度出来るところだったのでたまたま母は入れた。
実際にいって見ると、想像してたようなところ(人生の吹き溜まりとか言った人いるが)ではなかった。
「記者の目」と言う欄に、特別養護老人ホームに母親をいれたことに関する経験談を書いた。
3000通弱の反響があった。(反発の声が9割以上)
TV番組にもゲストで呼ばれたが、後で考えると徹底的に叩きのめす為に呼ばれた様だ。
[恍惚の人]、[楢山節考」 その10年後にこの「長い命のために」を書いた。
原則として全部実名です。
早瀬さんは現役の新聞記者として活躍していた昭和53年、パーキンソン病を患っていた母を老人ホームに入居させました。
その事を新聞に載せたところ、3000通近くの投書が寄せられそのほとんどが痛烈な批判が書かれていたそうです。
それを機に取材を重ねて1981年東京都内の老人ホームの実態を描いた、「長い命のために」という小説を書き、翌年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されました。
人間の命にかかわる様なことが、比較的多い。
単純な踏切事故でも、何でも命が絡んでいる。
社会部の取材は命が絡んでいる。
警察庁、警視庁の担当は、なんか顔つきが普通の人よりも人相が厳ししい様な顔がおおい。
物を書くと言う事は自分と向き合うことでもあるし、取材対象に向き合うことにもなる。
最初は名古屋に新聞記者としてゆく。
14,5ケ所 警察署があり、担当する警察署にいく。 3つの警察署をそれぞれ担当する。
夕刊があるので、午後の1時30分がぎりぎりに締め切りになる。
午後からはそれぞれ町の催し物を、朝刊に地方版用の記事を書く。(街ダネ)
発生事件の裏側 直後だとなかなか口に出すことが無いようなことも、時間をおいてだと、事件に関してのことを話してくれることがある。
次に大坂に行く。
デスクの一人が私に、新聞記者として理想的なのはハンターであり、ライターである事、と言ってくれた。
取材力があり、文章も書けたら理想的だが、取材を沢山した方がいいといった。
取材に厚みが増してゆけば、文章が下手でもいいものが書ける、文章はデスクなどが直す機会もあるので。
いろいろ集めた事実のなかのどの部分に焦点を集めるかは個人によって違う。
ノンフィクションでも光の当て方、どこを強調するかによって、内容がどこを読んでほしいのか、読み手に伝わらないといけない。
山崎豊子 取材はしつこいぐらいする。
10取材したら、10全部書くな、取材した半分ぐらいに絞って書か無いと駄目だ、全部書こうとすると散漫になったり、鋭さが無くなり、事実がぼやけてしまったりする、半分は捨てる気持ちで書かないといけないと言っている。
「長い命のために」 40歳ちょっとすぎぐらいの時、母親が青山のマンションで一人暮らしをしていたが、2年目に倒れていて、病院に行き、パーキンソン病で最後は寝たっきりになると言われて、家で介護されるか、特別老人ホームがあると言われて、主治医としては特別養護老人ホームの方がいいのではと云われた。
特別養護老人ホーム等の事を調べて、見学に行く。
特別養護老人ホーム
毎月30万円掛かるとすると、全額負担から無料まで15段階に別れている。
当人、或いは扶養義務者がどれだけ経済的に収入があるかを事務所が調べて応分の負担をする。
非常にいい制度。
養護老人ホーム
経済的な理由、体は丈夫だが収入がない人達を対象 経費はいくらか毎月いくらかは払える。
有料老人ホーム
何百万円という頭金を払って、毎月15から20万円払う。
今は特別養護老人ホームに入るのに待機者が多い。 空きが出ないと入れない。
定員100人 200人であると10%以下ですね。
特別養護老人ホームに入る資格もあり、特別養護老人ホーム「中野友愛ホーム」が丁度出来るところだったのでたまたま母は入れた。
実際にいって見ると、想像してたようなところ(人生の吹き溜まりとか言った人いるが)ではなかった。
「記者の目」と言う欄に、特別養護老人ホームに母親をいれたことに関する経験談を書いた。
3000通弱の反響があった。(反発の声が9割以上)
TV番組にもゲストで呼ばれたが、後で考えると徹底的に叩きのめす為に呼ばれた様だ。
[恍惚の人]、[楢山節考」 その10年後にこの「長い命のために」を書いた。
原則として全部実名です。
2014年12月21日日曜日
出田秀尚(眼科医師) ・視覚障がい者に寄りそって
出田秀尚(眼科医師) ・視覚障がい者に寄りそって
我が国の近代網膜剥離手術の先達として、此の30年間網膜剥離の手術は勿論、難しい目の手術を専門に全国から訪れる数多くの視覚障害者を、失明の危機から救ってきました。
76歳の現在も、外来診察に当たっていらっしゃいますが、患者や家族に病気の治療や手術で視力が回復しない時のための術後ケアに力をいれていらっしゃいます。
失明という病とどう対処したらいいのか、この30年間で眼科治療はどこまで進んできているのか、お話を聞きます。
癌は治療が格段に進歩した。
分子遺伝学で新しい薬が出てきて、薬でも治せるようになりつつある。
眼も格段の進歩をしている。
白内障、昔は水晶体を取り出して代わりに厚い眼鏡を掛けていた。
今は超音波で眼の中で水晶体を砕いて、直径2mmの管からそれを吸いだして、折りたたんだプラスチックのレンズを眼の中に入れてしまう。 次の日から外を歩ける。
傷ついた網膜の組織を iPS細胞を増殖させたものをそこに挿入して、と言う様なものも試みられている。
加齢黄斑変性
糖尿病は昔はほとんどなかった。 去年あたり、失明の第一原因は糖尿病網膜症だった。
網膜がやられて、網膜が出血して、網膜が痛む、剥げて、光を感じる膜がやられるから失明する。
緑内障 眼圧が高くなって、視神経を圧迫して、神経を侵されて、見えなくなる。
糖尿病網膜症、緑内障が増えてきている。
ハーバード大学 スケペンス教授のもとで網膜剥離の手術を経験。
日本との違いにショックを受けた。
昭和42年ごろ、眼科医になるが、当時の網膜剥離の手術は網膜を後ろから電気で外側から焼きつける。
両目ともふさいで絶対安静、トイレも行けない、食事も起きて食べられない、枕で固定されて頭を動かせなくて、3週間過ごす。
治る人は1/2だった。
ハーバード大学 スケペンス教授 網膜はく離の講習会があり、網膜剥離の理論、診断、手術の理論を聞いた。
手術をした翌日から歩いている、5日間の入院で、そしてドンドン治ってゆく。
あまりにも日本との違いにショックを受けた。
スケペンス教授のもとでの2年間のフェローシップ (Fellowship) 応募者が100人に一人しかとらないとの事だったが、受かることができた。
手術も、外来の患者も対応させてもらった。
残って勉強したい、住みつきたいとの思いもあったが、あまりにも日本との違いが大きいので日本に持って帰って、日本に役に立ちたいと思って、日本に帰ってきて、熊本で大学に籍を置いて、学んできたことを教えてきた。
人間性についてもスケペンス教授に教えてもらった。 患者さんに寄り添っている。
患者を見るときに色々工夫をして観察をして、理論的なことが裏付けされている。
未熟児網膜症 保育器に入った子が眼をやられる。 新しい光凝固という治療法が開発されたが
未熟児網膜症を診察するのが日本の直像鏡では眼の後ろ半分しか見れないので、スペンス教授が開発した、「双眼倒像検眼鏡]を使うとよく眼の周辺部まで見える。
学会を通じて発表してきて、3年間頑張ったが、講義、診察等で朝早くから夜遅くまで大変だった。
自分で思う様な事が出来る立場ではなくて、40歳になって、このまま大学にいたのでは網膜剥離で人を助けることは出来ないと思って、妻の父親が眼科の病院をやっていて、大学をやめてこの病院を継ぐようになった。
網膜はく離の手術は大学病院などでやる様な難しい手術なので、開業医ではうまく行かないと言われたが、最低限手術出来る装置類を用意して、手術するようになった。
学会での発表をしていたので、全国の眼科医から教えてもらいたいと集まってきた。
スケペンス教授のところの様なフェローシップを作って、後進の指導を兼ねてやってきた。
緑内障、白内障などの患者も来るようになって、それに対応するように、客員医師も来ていただいて、いまでは全ての眼科を扱えるようになった。
治った患者さんからは偶然電車であって、感謝の言葉をいただいたりして嬉しかった。
「万民息災」 深い意味がある。 日本古来の事。
患者さんに寄り添う事が、何となく流鏑馬(やぶさめ)を長い事をやっていたことが身についたのか、スケペンス先生のやり方が体の中に入って行ったのか、眼の見えなくなる人に対しても、最後までこの人の人生を見てあげるのが務めだという風に思いながらやってきた。
心のケアを大切にしました。
眼を治すだけでなくて、その人の人間を一生涯見てやらなければ、と言う気持ちがあった。
眼が見えなくなった人に、治療方法のない人、に対して アドバイスを差しのべる。
ロウビジョン 低視力者 高齢になっている方が眼が不自由で動けない様な人達の手助けに、「自然に触れる旅」 自然は肌から感じる、四大元素 地、水、火、空 は肌で感じる。
クリエーティブな力を与えてくれる。
バシュラール 哲学者 人間に想像力は二つあると言われる。
薔薇は見たことがあるから想像出来るが、形式的な想像力しかないが、経験したことが無いことを想像する力は本当に物事をクリエートする力を持っているから創造的想像力、二つある。
創造的想像力は何が作ってくれるかと言うと、バシュラールによると地、水、火、空という。
若い人は教育を受けて職についている人はいいが、特に高齢者は増えているので、年に2回ぐらいバスに乗って、自然の四大元素に触れるため、阿蘇、天草に旅行する。
巨木に皆で手を組んで抱える。
塩水に足を浸けたり、木には香りを持っているのでそれを嗅ぐ。
そういった事に接して皆、元気付いている。
70歳すぎるとお迎えを考えるが、それに向かってどんなに生きるかは、未知の世界を歩くわけなので、クリエーティブな力が無いと乗り越えられないと思う。
何が災いしているかと言うと、今は理屈の世界、全て理論ずくめ、理論が正しいと思っている人が多い。
理屈は半分で後は、人間性、情の世界なんですよ。
情の世界があることを知ってもらいたい。(若い医師にも知ってもらいたい)
体から覚えないとしょうがないと思う。
挫折を沢山すること、私などは自分で右に行きたいのに左に行かざるを得ないことは、半分以上はそうです。
自分の思った通りに行けた試しはないが、左へ行ったから又新しい世界ができて、うまく行ったりする。
患者さんの気持ちを汲まないといけない。 その為には顔、態度を見ないと判らない。
患者さんがどういう不安を持っているか、と言う事を先ず判ってあげないといけない。
だから情の世界が大事。
自分体の中から幸せを、生き方を感じっとってもらうと言う事なんですね。
30代の方、網膜はく離の手術をしたが、真っ暗な世界になった。
励まして、盲学校に行って、鍼灸師になり、子供の剣道の試合に応援にいって、一本取る前に「肩」と言ったんだそうです。 奥さんも吃驚したそうです。
なんで判るのかと言うと、子供の息使い、相手の息使いが判る、又双方の足音も聞こえるそうです。
だから判るそうです。鋭い感覚を持っている。
網膜はく離でそのような状態になった後、家族のきずなが凄く良くなったと言います。
肌から入ってくる自然の刺激で、自らクリエーティブな力を醸し出している例と言うんじゃないでしょうかね。
我が国の近代網膜剥離手術の先達として、此の30年間網膜剥離の手術は勿論、難しい目の手術を専門に全国から訪れる数多くの視覚障害者を、失明の危機から救ってきました。
76歳の現在も、外来診察に当たっていらっしゃいますが、患者や家族に病気の治療や手術で視力が回復しない時のための術後ケアに力をいれていらっしゃいます。
失明という病とどう対処したらいいのか、この30年間で眼科治療はどこまで進んできているのか、お話を聞きます。
癌は治療が格段に進歩した。
分子遺伝学で新しい薬が出てきて、薬でも治せるようになりつつある。
眼も格段の進歩をしている。
白内障、昔は水晶体を取り出して代わりに厚い眼鏡を掛けていた。
今は超音波で眼の中で水晶体を砕いて、直径2mmの管からそれを吸いだして、折りたたんだプラスチックのレンズを眼の中に入れてしまう。 次の日から外を歩ける。
傷ついた網膜の組織を iPS細胞を増殖させたものをそこに挿入して、と言う様なものも試みられている。
加齢黄斑変性
糖尿病は昔はほとんどなかった。 去年あたり、失明の第一原因は糖尿病網膜症だった。
網膜がやられて、網膜が出血して、網膜が痛む、剥げて、光を感じる膜がやられるから失明する。
緑内障 眼圧が高くなって、視神経を圧迫して、神経を侵されて、見えなくなる。
糖尿病網膜症、緑内障が増えてきている。
ハーバード大学 スケペンス教授のもとで網膜剥離の手術を経験。
日本との違いにショックを受けた。
昭和42年ごろ、眼科医になるが、当時の網膜剥離の手術は網膜を後ろから電気で外側から焼きつける。
両目ともふさいで絶対安静、トイレも行けない、食事も起きて食べられない、枕で固定されて頭を動かせなくて、3週間過ごす。
治る人は1/2だった。
ハーバード大学 スケペンス教授 網膜はく離の講習会があり、網膜剥離の理論、診断、手術の理論を聞いた。
手術をした翌日から歩いている、5日間の入院で、そしてドンドン治ってゆく。
あまりにも日本との違いにショックを受けた。
スケペンス教授のもとでの2年間のフェローシップ (Fellowship) 応募者が100人に一人しかとらないとの事だったが、受かることができた。
手術も、外来の患者も対応させてもらった。
残って勉強したい、住みつきたいとの思いもあったが、あまりにも日本との違いが大きいので日本に持って帰って、日本に役に立ちたいと思って、日本に帰ってきて、熊本で大学に籍を置いて、学んできたことを教えてきた。
人間性についてもスケペンス教授に教えてもらった。 患者さんに寄り添っている。
患者を見るときに色々工夫をして観察をして、理論的なことが裏付けされている。
未熟児網膜症 保育器に入った子が眼をやられる。 新しい光凝固という治療法が開発されたが
未熟児網膜症を診察するのが日本の直像鏡では眼の後ろ半分しか見れないので、スペンス教授が開発した、「双眼倒像検眼鏡]を使うとよく眼の周辺部まで見える。
学会を通じて発表してきて、3年間頑張ったが、講義、診察等で朝早くから夜遅くまで大変だった。
自分で思う様な事が出来る立場ではなくて、40歳になって、このまま大学にいたのでは網膜剥離で人を助けることは出来ないと思って、妻の父親が眼科の病院をやっていて、大学をやめてこの病院を継ぐようになった。
網膜はく離の手術は大学病院などでやる様な難しい手術なので、開業医ではうまく行かないと言われたが、最低限手術出来る装置類を用意して、手術するようになった。
学会での発表をしていたので、全国の眼科医から教えてもらいたいと集まってきた。
スケペンス教授のところの様なフェローシップを作って、後進の指導を兼ねてやってきた。
緑内障、白内障などの患者も来るようになって、それに対応するように、客員医師も来ていただいて、いまでは全ての眼科を扱えるようになった。
治った患者さんからは偶然電車であって、感謝の言葉をいただいたりして嬉しかった。
「万民息災」 深い意味がある。 日本古来の事。
患者さんに寄り添う事が、何となく流鏑馬(やぶさめ)を長い事をやっていたことが身についたのか、スケペンス先生のやり方が体の中に入って行ったのか、眼の見えなくなる人に対しても、最後までこの人の人生を見てあげるのが務めだという風に思いながらやってきた。
心のケアを大切にしました。
眼を治すだけでなくて、その人の人間を一生涯見てやらなければ、と言う気持ちがあった。
眼が見えなくなった人に、治療方法のない人、に対して アドバイスを差しのべる。
ロウビジョン 低視力者 高齢になっている方が眼が不自由で動けない様な人達の手助けに、「自然に触れる旅」 自然は肌から感じる、四大元素 地、水、火、空 は肌で感じる。
クリエーティブな力を与えてくれる。
バシュラール 哲学者 人間に想像力は二つあると言われる。
薔薇は見たことがあるから想像出来るが、形式的な想像力しかないが、経験したことが無いことを想像する力は本当に物事をクリエートする力を持っているから創造的想像力、二つある。
創造的想像力は何が作ってくれるかと言うと、バシュラールによると地、水、火、空という。
若い人は教育を受けて職についている人はいいが、特に高齢者は増えているので、年に2回ぐらいバスに乗って、自然の四大元素に触れるため、阿蘇、天草に旅行する。
巨木に皆で手を組んで抱える。
塩水に足を浸けたり、木には香りを持っているのでそれを嗅ぐ。
そういった事に接して皆、元気付いている。
70歳すぎるとお迎えを考えるが、それに向かってどんなに生きるかは、未知の世界を歩くわけなので、クリエーティブな力が無いと乗り越えられないと思う。
何が災いしているかと言うと、今は理屈の世界、全て理論ずくめ、理論が正しいと思っている人が多い。
理屈は半分で後は、人間性、情の世界なんですよ。
情の世界があることを知ってもらいたい。(若い医師にも知ってもらいたい)
体から覚えないとしょうがないと思う。
挫折を沢山すること、私などは自分で右に行きたいのに左に行かざるを得ないことは、半分以上はそうです。
自分の思った通りに行けた試しはないが、左へ行ったから又新しい世界ができて、うまく行ったりする。
患者さんの気持ちを汲まないといけない。 その為には顔、態度を見ないと判らない。
患者さんがどういう不安を持っているか、と言う事を先ず判ってあげないといけない。
だから情の世界が大事。
自分体の中から幸せを、生き方を感じっとってもらうと言う事なんですね。
30代の方、網膜はく離の手術をしたが、真っ暗な世界になった。
励まして、盲学校に行って、鍼灸師になり、子供の剣道の試合に応援にいって、一本取る前に「肩」と言ったんだそうです。 奥さんも吃驚したそうです。
なんで判るのかと言うと、子供の息使い、相手の息使いが判る、又双方の足音も聞こえるそうです。
だから判るそうです。鋭い感覚を持っている。
網膜はく離でそのような状態になった後、家族のきずなが凄く良くなったと言います。
肌から入ってくる自然の刺激で、自らクリエーティブな力を醸し出している例と言うんじゃないでしょうかね。
2014年12月17日水曜日
佐藤芳之(食品会社社長) ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)
佐藤芳之(食品会社社長) ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)
アフリカに渡って50年以上が過ぎる。
日本とアフリカの文化の違いを表す言葉として、「言葉は風」と著作本にあるが、どういう意味か?
言葉は空気 昨日言った言葉はもういまどこにもない。
今話している言葉が本当なんだと言われた。 彼等は嘘が巧い。
武士に二言は無いというのと正反対。
書面契約がお互いの縛りになるので、言葉は縛られない。
ここはビジネスでは嘘を嘘ととらえないような姿勢が必要。
私としては自然に入れた。
私が雇った運転手には兄弟が50人近くいる。 母親は3人 一夫多妻制。
日本では考えられない様な兄弟が沢山いたりする。
会社でごみを掃除しないで、移動したりするだけとか、意表を突かれるような違いはあったが、こうやったほうがいいと言ったり、やったりしているうちに、すこしづつ変わってゆく。
共有体験、共有感覚を持ってものをやるんだという事、これは物凄く当たり前のこと、東北に暮らしたものとしては。
工場の中も綺麗になり、会社も順調に大きくなった。
失敗もいろんなことがあったが、失敗を失敗として見てしまうとマイナスになるが、教訓として思えば、いいと思う。
一番駄目だったのは、ブラジルで大きな農園があり、そこと共同で新会社を作ってやろうとしたが、ものの見事に現地の人に誤魔化された。
ギャング団が襲ってきて、やむなく引き揚げたが、後で判ったが襲ったリーダーが警察の署長がリーダーと成ってそこを取ってしまって、マカダミアナッツ産業を始めた。(1990年代)
不在地主的な、そこに住みこまないで利益を上げると言う様な事は、すごく甘い考えだと思った。
投資してそこで何かやろうとする時に、当事者が10年、20年住みこんでやらないとうまくいかないと思う。
お金だけの投資で、お金がお金を生む様な、人間がやる事業に投資した場合に、当事者がいなくて、外からどうだと言っているようでは、日々の空気が読めない、日々どんなことをやっているのか、判らないようでは投資をしてはいけないと、失敗から学んだ。
内部充実を図ると言うやり方にした。
生産部門に力を入れて、農場をつぎつぎに買っていった、500エーカー、1000エーカーの農場を9か所ぐらい買った。
品質の安定化につながってゆく。
必要なところ以外機械化はまだしていない。
働き手がいっぱいいるので、出来るだけ多くの人が生活の場にしている、雇用機会をつくりだすという社会的義務があると思う。
その国に合ったスタイルで会社を経営していく事が絶対必要だと思う。
4000人以上の社員、外からの農民5万人が契約している。
1家で10人養っているとすると50万人になる。
毎年2500人の子供達に教育費を出してました。 5年間やった。
2008年 68歳の時にほぼ全ての株券をケニヤのかたに手渡して会社を去る。
やることは全部やったし、他のこともやりたいと言う気持ちになった。
迷いとか何にもなかった。
送別会もやらなかったので、まだ帰ってくるのではないかと思っているかもしれない。
未練もなく消えてゆくのが良いと思った。
ちょっと惜しいなあと(30億円はあると思うが)思う事もあるが、かみさんは元気だからいいんじゃないと言ってくれる。
自分が必要ならいるが、必要でなかったら去る、惜しまれて去る、これいいんじゃないと思う。
入り方よりも去り方ですね。
今はルワンダで新たなビジネスをしている。
100日間で80万人が殺された。 部族対立
素晴らしく美しい国だったが、なんか悲しかった。
死んだ人の悔しい思いがある様な沈んだような感じ、でも再起して行こうとするエネルギーがあった。
ここで仕事をしてみようと思った時に、スラムに行った時に臭かったので、トイレを綺麗にすると言う浄化運動を2年間、市と一緒にやったのが始まりでチャンスが見えてきた。
微生物の働きでにおいを取ったり汚物を分解する。
穴を掘ってそこにしてゆくので、非衛生的なので、ハエが出たり、蚊が出たり、臭いがしたりして。
ナッツで有機栽培をしていたので、肥料を作る資材が環境にもいいという事で、トイレにも使って見たら臭いが無くなるし、水がきれいになるし、公共衛生という観点からの仕事を展開しています。
15,6年経てば採算の取れるいい仕事になると思います。
歩き続ければ大丈夫。
日本にアフリカから来てみると、完成度の高い国だと思うが、こちらから見るとアフリカはこれから行きたい未来だなという感じ。
日本の中に欠けている良さ、喜びがいっぱいあると思う。
一分、二分の単位ではなくて、一時間単位の様な時間 精密時計と日時計の様な時間。
リラックスした違った次元の自然の美があり、違った次元の時間の流れがあって、違った次元の喜び、楽しみがあるんだという事を、もう一つ心を開いて見えるのでは無いかと思う。
行ったり来たりの中から、狭い地球にいるので、地球のいろんなところのいろんな良さを体験、経験したいなあと思います。
面白いのは、ゼロから始める喜び、新しいところを開拓してゆくという感じ。
あと何時去るか、いい気持ちで去るかという事、そういうのを繰り返している。
マンデラ大統領が言った言葉
「自由への道は単なる政治的な民主化で終わることなく、万人が参画する人間中心の社会の建設を目指して継続する。
その過程での試行錯誤を通して社会全体のヒューマニティーを高めて行けばよい。
人は他人のために行動を起こした時こそ、本当の人間になれるのである。」
本当に尊敬しています。 こうなりたいと思っています。
アフリカに渡って50年以上が過ぎる。
日本とアフリカの文化の違いを表す言葉として、「言葉は風」と著作本にあるが、どういう意味か?
言葉は空気 昨日言った言葉はもういまどこにもない。
今話している言葉が本当なんだと言われた。 彼等は嘘が巧い。
武士に二言は無いというのと正反対。
書面契約がお互いの縛りになるので、言葉は縛られない。
ここはビジネスでは嘘を嘘ととらえないような姿勢が必要。
私としては自然に入れた。
私が雇った運転手には兄弟が50人近くいる。 母親は3人 一夫多妻制。
日本では考えられない様な兄弟が沢山いたりする。
会社でごみを掃除しないで、移動したりするだけとか、意表を突かれるような違いはあったが、こうやったほうがいいと言ったり、やったりしているうちに、すこしづつ変わってゆく。
共有体験、共有感覚を持ってものをやるんだという事、これは物凄く当たり前のこと、東北に暮らしたものとしては。
工場の中も綺麗になり、会社も順調に大きくなった。
失敗もいろんなことがあったが、失敗を失敗として見てしまうとマイナスになるが、教訓として思えば、いいと思う。
一番駄目だったのは、ブラジルで大きな農園があり、そこと共同で新会社を作ってやろうとしたが、ものの見事に現地の人に誤魔化された。
ギャング団が襲ってきて、やむなく引き揚げたが、後で判ったが襲ったリーダーが警察の署長がリーダーと成ってそこを取ってしまって、マカダミアナッツ産業を始めた。(1990年代)
不在地主的な、そこに住みこまないで利益を上げると言う様な事は、すごく甘い考えだと思った。
投資してそこで何かやろうとする時に、当事者が10年、20年住みこんでやらないとうまくいかないと思う。
お金だけの投資で、お金がお金を生む様な、人間がやる事業に投資した場合に、当事者がいなくて、外からどうだと言っているようでは、日々の空気が読めない、日々どんなことをやっているのか、判らないようでは投資をしてはいけないと、失敗から学んだ。
内部充実を図ると言うやり方にした。
生産部門に力を入れて、農場をつぎつぎに買っていった、500エーカー、1000エーカーの農場を9か所ぐらい買った。
品質の安定化につながってゆく。
必要なところ以外機械化はまだしていない。
働き手がいっぱいいるので、出来るだけ多くの人が生活の場にしている、雇用機会をつくりだすという社会的義務があると思う。
その国に合ったスタイルで会社を経営していく事が絶対必要だと思う。
4000人以上の社員、外からの農民5万人が契約している。
1家で10人養っているとすると50万人になる。
毎年2500人の子供達に教育費を出してました。 5年間やった。
2008年 68歳の時にほぼ全ての株券をケニヤのかたに手渡して会社を去る。
やることは全部やったし、他のこともやりたいと言う気持ちになった。
迷いとか何にもなかった。
送別会もやらなかったので、まだ帰ってくるのではないかと思っているかもしれない。
未練もなく消えてゆくのが良いと思った。
ちょっと惜しいなあと(30億円はあると思うが)思う事もあるが、かみさんは元気だからいいんじゃないと言ってくれる。
自分が必要ならいるが、必要でなかったら去る、惜しまれて去る、これいいんじゃないと思う。
入り方よりも去り方ですね。
今はルワンダで新たなビジネスをしている。
100日間で80万人が殺された。 部族対立
素晴らしく美しい国だったが、なんか悲しかった。
死んだ人の悔しい思いがある様な沈んだような感じ、でも再起して行こうとするエネルギーがあった。
ここで仕事をしてみようと思った時に、スラムに行った時に臭かったので、トイレを綺麗にすると言う浄化運動を2年間、市と一緒にやったのが始まりでチャンスが見えてきた。
微生物の働きでにおいを取ったり汚物を分解する。
穴を掘ってそこにしてゆくので、非衛生的なので、ハエが出たり、蚊が出たり、臭いがしたりして。
ナッツで有機栽培をしていたので、肥料を作る資材が環境にもいいという事で、トイレにも使って見たら臭いが無くなるし、水がきれいになるし、公共衛生という観点からの仕事を展開しています。
15,6年経てば採算の取れるいい仕事になると思います。
歩き続ければ大丈夫。
日本にアフリカから来てみると、完成度の高い国だと思うが、こちらから見るとアフリカはこれから行きたい未来だなという感じ。
日本の中に欠けている良さ、喜びがいっぱいあると思う。
一分、二分の単位ではなくて、一時間単位の様な時間 精密時計と日時計の様な時間。
リラックスした違った次元の自然の美があり、違った次元の時間の流れがあって、違った次元の喜び、楽しみがあるんだという事を、もう一つ心を開いて見えるのでは無いかと思う。
行ったり来たりの中から、狭い地球にいるので、地球のいろんなところのいろんな良さを体験、経験したいなあと思います。
面白いのは、ゼロから始める喜び、新しいところを開拓してゆくという感じ。
あと何時去るか、いい気持ちで去るかという事、そういうのを繰り返している。
マンデラ大統領が言った言葉
「自由への道は単なる政治的な民主化で終わることなく、万人が参画する人間中心の社会の建設を目指して継続する。
その過程での試行錯誤を通して社会全体のヒューマニティーを高めて行けばよい。
人は他人のために行動を起こした時こそ、本当の人間になれるのである。」
本当に尊敬しています。 こうなりたいと思っています。
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