2014年10月23日木曜日

今日から暫くブログを休みます。

今日から暫くブログを休みます。
理由は、最近左肩、腕などが凝っていた様で、手が苦痛を訴えていましたが、私は目をつぶって続けてきましたが、
しかし、先日 椅子に座って本を読んでいるうちに、居眠りをしてしまい、頭をカクンと前に下げたまま
の状態でしばらくいて、又後ろにカクンと1回頭を仰け反らし、これらが首の頸椎をちょっと痛めてしまった様で、弱り目に祟り目で、長い時間左手でキーボードを叩くのが、厳しい状況になってしまいました。
申し訳ありませんが、回復するまでしばらく休ませて頂きます。
(以前のものを読んでない方は、この機会に昔の投稿を読んでいただければと、思います。)
御了解下さい。  

又、Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、有難うございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
再開の折は又よろしくお願いします。

それでは再会の折までみなさん 「御機嫌よう  さようなら」

秋田

2014年10月22日水曜日

楠 美津香(女優)         ・一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇

楠 美津香(女優)     一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇
1962年東京生まれ、横浜放送映画専門学院(日本映画大学)を卒業後、お笑いの道に進みます。
コンビを組んで舞台に立ち、放送作家としても活躍しました。
シェークスピアに出会ったのは15年前、知り合いの舞台でマクベスを見て、言葉のおもしろさに魅かれました。
楠さんは37あるシェークスピアの作品全てを自分の言葉に表現し直してたった一人で何人もの登場人物を演じ、芝居を行っています。

マクベスを実際に見て興味を覚えた。
マクベスは情けなくて面白い人物だと思いました。
悲劇なんだけど、喜劇ですね、こんなに面白いんだったら、これをやっちゃおうと思った。
これが面白いのならシェークスピア37作品全部やろうと思って、その場で全部やりますと言って、全部やってしまった。
2000年から始めて、一つの季節に1つずつ作れば10年で37終わると言う計算のもとに行った。
参考にさせてもらってるのは、小田島 雄志先生と坪内逍遥先生です。
言葉はちょっと変えて、語尾を変えているだけ。しゃべりやすいように変える。

シェークスピアはあらゆるギャグを作った人だと思っている。
もともと皆が知っている物語だったりする。(ギリシャ神話だとか)
シェークスピアはギャグをそこに入れた。
喜劇から悲劇になってゆく、これは日本でいうと山田 洋次監督、最初笑わせてから泣かす、喜劇の王道、これをシェークスピアはやっている。
大衆演劇として作っている。
シェークスピアは手袋職人の子供として生れてからロンドンに行って、大ヒットの劇作家詩人になった人なので、二つの世界を知っている、庶民の世界と、王様が面倒みる劇団まで出世したので、庶民世界、国王貴族の世界も知っている。
庶民の笑える部分も作っているし、卑猥なところもいっぱいあるし、歌も出てくるしどこから見ても面白い。
言葉は美しいが下世話な世界をうんと描いている。

高校の時美術部だったが、2年の時に部長で周りにいなくて、一人だけだった。
お芝居をやらないと友だちに誘われて、やったら面白くて、横浜放送映画専門学院に行く事になる。
うつみけいこ師匠の漫才の授業があり、そこに来て、授業で組んだグループが受けて、TVまででて、1年やって駄目ならやめようと、始めたら仕事が来るようになって、やっているうちに解散したりして、そのうち舞台出るのは止めて、放送作家をしたりしているうちに、夫の一人コントを手伝ったり、台本作ったりしているうちに面白くなって、其れから一人コントを始めた。
物語をやりたいなあと思う様になって、講談の友だちの舞台を見ていていいなあと思った矢先に、マクベスを見た、これをやろうと思った。

最初1カ月で本を読んで、次に台本を作る、最後の1カ月でセリフをしゃべれるように練習をするという時間割でやっていました。
難しいのは神様の名前、悪魔の名前でこれが探し当てるのが大変だった。
一番好きなのが「ばら戦争」 連続した戦国絵巻 リチャード2世から始まって、ヘンリー4世ヘンリー5世ヘンリー6世 最後がリチャード3世で完結する。
(1455年から1485年の30年間にわたって「赤ばらランカスター家」と「白ばらヨーク家」とが王位をめぐって争ったのが「ばら戦争」)
リチャード2世の時はヨークとランカスターが国王を守っている。
リチャード2世はタイプが詩人で政治には向いていない。 
ヘンリー4世という武党派の実力者に王位を奪われる。
ヘンリー4世の時代は活躍しないが、ここで活躍するのはハル王子(ヘンリー5世になる後継者)で、この人がめちゃくちゃ不良で、不良息子に悩むのがヘンリー4世の物語。
ハル王子はロンドンの繁華街で遊びまくっている。

父親が死んで後を継いだ時に、ガラッと豹変する、凄くいい国王に成ってしまう。
ヘンリー5世が英雄で、トップの条件です、これを見ればどんな企業もトップになれるという様な、ノウハウが書いてあるようなのが、ヘンリー5世の戯曲です。 
ヘンリー5世は35歳で亡くなるが、後を付いたのがヘンリー6世、生後9カ月。
周り中が国王代行をやりたがる。
ヘンリー6世パート2でお互いにつぶそうという会議がずーっと行われる。
ヘンリー6世パート1の最後に出てくるマーガレット(フランスシャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪)をサフォークが捕虜にする。
サフォークは悪いことをもくろむ人でマーガレットを自分のものにしたくて、国王と政略結婚させてしまう。
ヘンリー6世は戦争を止めましょうと行っているが、マーガレットだけが戦争遂行する。
リチャード3世の時に魔女の様になって出てくる。
パート3で道化役をやって行くうちに、ラストに行くうちに、俺が狙っているのは国王の座だと言って、手に入れるためだったら何でもやってやるという事で、言い始めて、リチャード 3世に成る。
8作品に渡って裏切り合戦、寝返り合戦。
リチャード3世は最終章なので、なんで争っているのかわからないというところが、最初から話をしていると全部判る。

「アテネのタイモン」 皆にプレゼントを上げて、タイモンのところにたかりに来て、執事がもう家にはざいさんがありませんということになるが、大丈夫僕には友達がいっぱいいるから、今までの貸しを返してもらうからと言う事で行くが、口実を作って返してはもらえない。
タイモンが宴会をするという事で皆が出掛けるが、お湯を並べて、皆にお湯をぶっかけて、馬鹿野郎と言って山に行ってしまって、人間嫌いになって暮らすという、面白いもの。

父親がお笑い番組が好きで子供のころから一緒にみていたが、その時に記憶したギャグが37作品の中に全部出ている。
自分でよくわかるのがギャグで、シェークスピアは庶民だったので、庶民が笑えるギャグが作れる。
散歩しながらセリフを練習をしたり、子供を砂場で遊ばせながら練習をしていた。
繰り返し繰り返ししてセリフをおぼえていった。
芝居と主婦業の両立は出来ていないと思う。
本番が有ると洗濯物が山の様にある。
近松門左衛門 人形浄瑠璃 出てくる男が情けないことは、シェークスピアと似ている。
女は観音様にみたいなものが出てきて、シェークスピアとは違う。
シェークスピアは歴史劇だが、歴史を借りてきているだけで、シェークスピアが面白く人物を作ってしまっているので、私がどのようなリチャード3世をやってもどれもそうかもしれないという事ですよね。
シェークスピアのテーマは再生、人が沢山死ぬが、又蘇る、円を描いているのがシェークスピアの世界、転落する人生と又上に上り詰める国王に成る、ホームレスに成る、また再生するというこの円です。
人生の中で起こることがちりばめられているのがシェークスピアです。














2014年10月21日火曜日

橋本正樹(大衆演劇評論家)     ・大衆演劇の追っかけ男

橋本正樹(大衆演劇評論家)  大衆演劇の追っかけ男
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。

昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。  紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。

一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。

藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)

こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。

「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。  努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。








2014年10月20日月曜日

山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで

山崎まゆみ(ノンフィクションライター)   ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。

温泉エッセイスト  今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。

ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者  
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。

長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。

嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。

当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃  
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。 
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)

花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。

2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。

日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。

世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。












2014年10月19日日曜日

鎌倉幸子(国際ボランティア会)   ・移動図書館、被災地を走る

鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会) 移動図書館、被災地を走る
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。

2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。

シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。

友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。

大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援  最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。

気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。

段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。

最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。  手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉  本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。

「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。

本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。






2014年10月18日土曜日

山下正樹(歩き遍路の会会長)   ・私のお遍路みち

山下正樹(公認先達 歩き遍路の会会長) 私のお遍路みち
弘法大師空海ゆかりの霊場をめぐる人達はお遍路さんと呼ばれています。
山下さんは70歳 これまでに四国88の霊場を全て巡る結願を10回果たし、お遍路の指導者としての役割を担う先達にもなっています。
山下さんがお遍路を始めたのが57歳の時、以来すべての行程を歩いて巡る、歩き遍路を続けています。
ひたすら歩く事で何が見えてきたのか、伺います。

88の札所を一巡りすると1200kmぐらい。
歩く醍醐味もあります。
最初の第一歩がなかなか踏ん切りがつかない、大変だろうとか、しんどいやろうとか、でも最初の一歩が踏み出さない限りは何も始めらない。
私はゆっくり歩くので50日かかります。
「もうちょっと頑張ったらお寺に着く」 「あわてないでいい」とか お大師様の声が聞こえる。
頑張っているから声が聞こえるのではないかと思っている。
ひたすら歩く事で常に自分自身と向き合う事になります。
(人生そのものに通じると山下さんは考えています。)
お遍路文化に触れられると言う事が一番嬉しいです。 地域の人が支えている文化。

①札所寺院 ②お寺とお寺の間を結ぶ遍路道 ③遍路道を支えている地域の方  
④遍路道を歩くお遍路さん 
この四つの要素で成り立っているが、一番大きなものが地域の方がお遍路さんを支えるお接待と言う文化を引き継いでいると言う事。
お接待 無償の行為、お茶を一杯差し上げる、励ましの声をかける。
なじみになって、泊っていきなさいとか言われる。(一般の家なのに)
お爺さんお婆さん、先代を見習って、お遍路さんを接待する、生活の一部になっている、すごい文化だと思う。
心が一緒にお接待として付いている。

12年の前に夏に初めてお遍路しました。(本格的に始めた12年前の時?)
10日間は梅雨の大雨の中で、梅雨が明けてカンカン照りで、高知県焼坂峠から下りて、添蚯蚓(そえみみず)を上がってゆくが(高低差400m)、その前に焼坂峠で全て水を飲みつくしてしまう。 困っていたときに農家のお婆ちゃんが呼んでいる。
死にとうぐらい喉が渇いており水を分けてもらおうかと思っていたら、お婆ちゃんが水を用意して待っていてくれた、本当においしかったですねえ。
一気に飲んだら、怒られる、急に飲んだら身体に悪いと。
家に帰って次の水を持ってきてくれた。
人対人がお遍路道の中につながりができる。(お接待)
人の優しさが身に沁みる。 結願したときには涙がボロボロでました。
「お陰さまで」と言う言葉が本当の意味で感じました。

(昭和19年広島生まれ 高校卒業後、大手都市銀行に就職、支店長を目指して日々励んでいたが、大きな転機が訪れたのは45歳の時でした。 
関連会社への出向、出世の道から外されたこと、慣れない職場でのストレスから50歳の時に尿管結石で1か月入院、この時歩きお遍路の事を知る。)
歩き遍路の体験記の本があった。 
だらだら生きるよりは新しい自分を探さないといけないと思った。
支店長に成れなかったのも、結果的に自分に実力が無かったのだと思った、それまでは人ばっかり恨んでいた。
平成14年6月、57歳で会社を早期退職、お遍路の旅に出る。
会社や仕事中心の生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかった。

帰ってきた時に、もっと自分を生かせるところがあるはずだと、納得した仕事ができること、地位とか名誉ではなく、一番大事なのは会社人間は視野が狭いこと。
社会人間になろうとしたら、お互い平等の考え方がいるわけです。
お接待を受けた温かい心が私にそういう風に感じさせたと思います。
旅は甘くはなかった。 道に迷うし、トラブルがあり、足が痛くなったりしたが、その時に出会った地域の方々の温かい励ましの言葉、お接待で自分は生きているのではなく、生かされていると言う事が実感するわけです、それが自分にとって大きな収穫でした。
88番札所で結願して、一番思ったのはもうこれで遍路道を歩かなくていいと言う思いでした。
宿に帰って、朝起きると歩けないと言う寂しさが出てくる、これは不思議な気持ちでした。
お四国病 お遍路の魅力に取り付かれた病気 薬が無くてお遍路に行く事、心が落ち着く。

いろんな方が廻っていて、40~50日で廻っていて頭がクリアになる、一歩離れて自分を見つめることができる。
根底は自分の足で歩くしか解決しない、生かされてると感じた時は、自分も何かでお返ししなければいけない、物ではなく心で、だから私は出来ることで世の中にお返しをしようと思っています。
最初のお遍路を36日間で結願、高知県の島で環境保全、地域振興のNPO法人事務局長を務めることになる。
大月町 柏島 遍路道の資料を見つける。 復元しなさいということかと、直感した。
1200kmの内、土の道は100kmぐらいしかない。  土の道は足が喜ぶ。
地元の人と共に遍路道の復元をして、毎年地元の人が草刈りをしてくれている。
保存会の会長に翌年出会い、お年寄りが元気になったと言う事でした。
お遍路さんのお接待でいろんな話ができて、話題が増えて、元気になった。

今5つ目の古道の復元作業に入っている。
阿南市の山の中に在る道を地元の方と一緒にやっている。
21番札所太龍寺から山の中を抜けて22番札所平等寺に抜ける道6km。
江戸時代の道しるべが残っている。
太龍寺に上がる道、日本最古の遍路道 600年前の南北朝時代の年号の入ったしるべ石がある。
平成22年に遍路道で初めて国の史跡になる。

平成24年から子供達にお遍路の文化を伝えようと、お遍路授業を行っている。
一番嬉しいのは大きくなったら、私もお遍路に行きたいと言ったことです。
おさめ札 自分はどこから来たのかと書いた札を渡す。
旧庄屋(お遍路さんを泊めていた) 屋根裏の俵に1万5000枚のおさめ札が入っていた。
1番から順に廻る順うち 88番から逆に廻る逆うち 2つの廻り方がある。
平成16年 逆うちのお遍路に初めて出会う。
いつまでたってもお大師様にあえないので、反対に回ったらお大師様に会えると言う事で廻る。
反対に回ると全部のお遍路さんに会えることができる。
620人のお遍路さんに会えた。  

今治に59番札所伊予国分寺 58番札所仙遊寺がある。
仙遊寺にむかう逆うちをしていた時、5歳の女の子からわざわざ家から出て来て道が違うよと声をかけてくれた。
説明して納得してもらった、お礼にお接待で貰った飴を「お接待ですよ」と渡した。 
子供も喜んでくれたが私もわざわざ声を掛けてくれた事に感動した。
歩き遍路の魅力を広く伝えることをがライフワークとなる。
平成17年から毎年春に歩き遍路の入門講座を開き、参加者は250人余りになる。
お遍路によって今の自分がある。
文化遺産も沢山あるが、お寺とお寺を結ぶ遍路道、地域の方々 これが歩きお遍路さんを支えていると思います。
その一番大きなものが繋がり、ふれあい、心のやり取り もっと沢山の人に知ってもらいたい。
「お遍路では名刺と時計を置いてきなさい」と言われる。
目標としては88歳までは歩き遍路をしようと思っている。












2014年10月17日金曜日

中澤嗣子(元大相撲女将)     ・力士を目指す若者と暮らして

中澤嗣子(元大相撲中村部屋女将) 力士を目指す若者と暮らして
1951年愛知県生まれ 金城学院大学を卒業後、1年余りで富士櫻関と出会いました。
医者の家庭に育ち、相撲界とは縁も無く周囲からは反対されましたが、富士櫻の明るい性格と楽しい話し方に魅かれ結婚しました。
当時 富士櫻関は前頭や小結として土俵を沸かせていましたが、結婚生活はマンション暮らしで2人の子育てをする普通の暮らしだったと言います。
10年後富士櫻関が引退し、中村部屋を創設し、以来相撲部屋の女将さんとして力士を目指す若者の世話をすることになります。
中澤さんは強い力士を育てようと、別の部屋の師匠や力士にアンケート調査をしたり、自ら大学院で力士の養成法を研究したりとそれまで相撲界には見られなかったことに挑戦しました。
昨年中村親方が定年退職した為、26年間に渡る相撲部屋の女将さん生活を閉じました。

武蔵川部屋が使っている稽古場が元中村部屋の稽古場だった。
関取のおかみさんになって、部屋の女将さんになって36年間。
退職まで元気で過ごせたことは良かったと思うし、若い目標を持った力士と同じ屋根の下で暮らして、私にとっても、支えになったし力になったのでいい人生だったと思います。
何をしていいかわからないところから始まって、力士の役に立つ事はないかなあと思った時に、心理学とか力士の養成、と言う事で大学院に行く事が始まった。

仲良くしていた家族が相撲好きだった。
たまたま力士が遊びに来ているから来ないかと言われて、母と行ったのが、出会いの始まりだった。
今までにないタイプで、性格も明るいのでこういう人と結婚してもいいかなあと、あまり考えないで結婚した。 
全然別の世界だった。
マンション生活をしたが、1年の半分以上はいなかった。
結構、きっちり生活サイクルは決まっていた。
子供は二人いました。普通の生活が丸10年続きました。

中村部屋を創設
土地探し、銀行とのやり取りなど大変だった。
土俵のある建物を持つ事と、弟子が3人以上という規定があった。
26年間中村部屋をやってきて、120人ぐらいくるが、1カ月で帰ってしまう人もいて、その中から十両以上は4名だったが、十両以上はいなかった。
うちの場合は中学出を沢山取ったので、大学出、海外らは無いので、関取になる確率は少なかったように思う。
若い人を預かるので、さまざまな社会勉強もやらなければならない。
相撲社会は番付けが全てだが、年上に対しても或る程度尊敬しなくてはいけないし、地位が上で有ればちゃんとした振る舞いをしなくてはいけない。

歳を取ってゆくが強く成れない人は大変。 実力社会
団体生活 体罰、いじめなどは目に見えないところで起きているので、難しいが、伝統的教育の中にいじめに近い様な指導の方法が昔からあった。
やらせてから駄目だったら注意する事が基本なので、普段やっていることを見ていないと判らないが、今の子は説明を受けてからやるので、なかなかそういう指導の方法に慣れるには時間がかかるので、教える方もいらいらしたり、教えられる方もそんなことを言ったて、と言う気持ちがあるので噛みあうのが難しい問題がある。
厳しさは大事なので、規則とか、自分で気付く様にした。

五訓
①掃除は綺麗にすること
②自分の事は自分ですること
③時間を守ること
④挨拶は大きい声ですること
⑤返事は大きい声ですること
親方が作って毎日弟子たちに稽古が終るとやっていました。
出来ないと、兄弟子たちから言われる。
寝場所が変わったりした時には何かがあったことが判るので、様子を見たりする。

主人富士櫻は途中首を悪くしたので、稽古場で稽古が出来ない時期もあり、首の筋力をつけるとか、トレーニングをして、弟子たちにもウェイトトレーニングをするように奨励した。
トレーニングセンターに行く事も最近は一般的になるが、成果は本人の気持ちなので、なかなか難しいところがありました。(成果の上がる人と上がらない人がいる)
通信制の高校に通わせた。
親方がスカウトに行った時に断られる理由として、高校ぐらいは出したいと言うのがあった。
大学院で知り合った方が通信教育の高校の秘書をしていて、話が進んで、始まった。
大学院で人はいくつになっても、学ぶと変わるんだなと実感したので、年齢に関係なく学びたい思いがあったら、きっと豊かになるのではないかと感じていた。

幕下まで行った人が身体を壊して、就職しようとするが、学歴が中学ではなかなか就職口が見つからないと言う事があったので、幕下迄行くと言う事は色々持っているので、ちゃんと評価して貰いたいと言う気持ちがあった。
辞めた人が大学を目指すと言う子がいてとっても嬉しかった。
部屋をやっていて嬉しい事は力士が入門してくる時と、十両に上がった時。
入ってきた時は特別な気持ちです。(当人の決断、片腕をもがれるようだという親の気持ちなど)
弟子が急にいなくなったり、重い病気になったりしたことがあったりするが、そういったことを含めて後になっていい思い出の方が多い様な気がします。
親方は、出ていったものは追わないが、頭を下げて戻ってきたものは受け入れるが親方は何にも云わない。

社会人の大学院には色々な方がいて、それぞれの立場からいろんな話題を提供するので、相撲界だけの中にいて考えるのではなく、違った目で客観的に見る事が出来るようになったことが凄く良かったと思う。
専攻は力士教育 修士まで行く。
修士論文 伝統的にやってきたことにも、きちんと人を育てる要素があるので、それも大事にしなくてはいけないのではないか、という結論ですが、そのまま今の若い人に持ってきても無理なところがあるので、親方の立場からその違いに歩みよるとか、今まで以上に時間をかけるとかだと思います。

今の子供の生活環境が全く変わってしまった。
核家族化とか、生活が便利になってしまっているので、工夫が少ない。
力士になる環境がガラッと変わってきてしまっている。
海外の力士にくらべてひ弱、だが大事に育っているので愛情をかけられた分だけ素直さがある。
環境が激変しているが、今まで大事にしてきたことを大事にしながらも、指導法などで何か変えていかないと、と言う風には感じる。
親方の世代が若くなってきているので、それなりに考えていると思う。
伝統の重みの中で、きちっとやってゆく事が相撲が生き残ってゆく道ではないかと思う。
(相撲の素晴らしさとは)
土俵の美しさ、勝負をする息気ごみは素晴らしいと思っています。