2014年10月9日木曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第8回

保坂正康(作家)  昭和史を味わう 第8回 ”昭和天皇実録”を読む(2)
その時、昭和天皇はどう考え・どう行動したか
40件新しい資料が有る。 侍従長であった百武三郎の日記。
昭和11年から19年まで侍従長、軍人であった。日本の昭和史が戦争の時代。

昭和11年2月26日 2・26事件 形としてはクーデターの様な形を起こした。
26日~29日の4日間 国家の中枢を制圧していたが、一貫して天皇は反対していた。
本庄 繁 侍従武官長の本庄日記でも、判っていたが、それよりもさらに怒りが激しかったのを今回の日記から判明する。
不祥事件が起こることを想定していた節がある。
昭和10年8月に陸軍省軍務局長、永田 鉄山が相沢三郎に殺害される。(相沢事件)
裁判で被告のやったことを青年将校が悪いことではないと弁護するが、それを新聞に掲載されるが、天皇はその記事をよく読んでいた。
本庄に質問する。 
軍法会議は本来秘密でやるべきで、証人を立てて弁護する裁判するではないはずだと、行政が司法とは違うじゃないかと、それなのにこの裁判は何かと聞いている。
天皇は青年将校の不穏な動きをこの裁判を通じて報道の中から、感じていた。

本庄を信用していないんだなあと思う事がある。
昭和11年1月の実録のところに出てくる。
本庄の娘婿山口一太郎陸軍大尉 二・二六事件で無期禁固) 青年将校と気脈が通じている。
本庄は山口一太郎の弁護する。 
山口が新兵が入隊するときに挨拶するが、政治を徹底的に批判するが、其れが新聞にでるが、本庄にきくが、申し訳ありませんと答えるが、天皇は明らかに不穏な動きを察知していて、本庄を信用していなかった様だ。
天皇は26日から3日間、本庄を41回呼んでいる。 (自分のそばから離さなかった)
どうしてこう言う風になったのか、軍はなにをやっているのかと叱責も有ったと思うが、本庄も青年将校に味方をするようなことで動いているのではないかと、監視したのではないかと私は解釈をした。

昭和16年9月6日  
御前会議 昭和天皇が明治天皇の和歌を読んで、平和の意志を明らかにした。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
これを読んで外交交渉で解決しろと言う事を明らかにした。 
定説だが今回でも明らかになる。
近衛内閣は軍部に押されて、(東条英機陸軍大臣) 決着がつかない。
天皇は外交が弱い、これは戦争のための決定ではないかと近衛にいう。
天皇は戦争に傾斜してゆく国策決定者に懸念を持っていた。
9月6日の御前会議、10月17,18日近衛内閣が辞めて東条内閣が成立して、この頃はどちらかと言うと受け身に書れている。
従来、内大臣木戸幸一と天皇との間で話がついて、東条を重臣会議で決定すると理解されていたが、今度の実録では重臣会議、木戸幸一達が動いて、東条英機を推挙するという事に実録ではなっている。(東条は主戦派だが考えを改めさせれば、軍を抑えるだろうという考え。)

11月3日  海軍の軍令部総長・永野 修身に戦争をするとすれば、どういう風にやるのか、いつ戦争をするのかと天皇が聞いていることを実録に書かれている。
11月5日 御前会議 外交を進めるけれども戦争の準備をする方向になる。
11月26日 ハルノートが突きつけられるが、外交交渉は駄目と言う事になり、戦争が決まる。
ハルノート以後はちょっと前面にでる。 
天皇制(皇統)を守ることが大事だということで、動いてきたのではないかと私は思う。
大権を賦与している者が戦争をしなければこの国は潰れますよ、この国はどうなるか判りませんよと、言って報告してくる、とするならば、皇統を守る為に戦争と言うのもあり得るのかと、仕方が無いかと思ったのではないだろうか。
東条をはじめ軍人たちが物のけにつれたように、戦争だ戦争だと走ってきたので、天皇にそのことばっかり説明したので、大権を賦与したものがそこまで言うのであれば、しかたがないかなとの想いが有ったのではないか。
16年12月8日 日米開戦

昭和20年8月15日  終戦
8月15日に至る道は天皇はかなり積極的に平和にしたい、戦争を修めたいという気持ちは早くから持っている。
システムが戦争の体制になっていたので、意志をどう著わしてゆくか、それが実録の山です。
いつから和平の感じをもったか、私は昭和19年ごろには持っていたと思うが、形として著わしてゆくのは昭和20年2月に重臣を呼んで、いろんな意見を聞く、5月に鈴木貫太郎内閣作る、6月に大きな柱になる。
6月8日に御前会議、本土決戦を決めながら、ソ連を仲介に和平交渉をやるという形になる。
昭和天皇は実録を読むと、日本の政治の判断が軍事に踊らされている状況で、段々天皇の意志が固まって、鈴木内閣、阿南 惟幾陸将を説得して行く形で戦争をおさめる方向にいく。

8月6日広島に原爆が投下。 ソ連が対日宣戦布告  9日 御前会議
正式な情報が天皇に伝わらないが、天皇は海外の短波放送を聞いて戦況を調べている。
海軍の軍事力を長谷川清に6,7,8月 3カ月かけて調べさせている。
海軍力、防備体制等不備など本土決戦等は出来ないことを理解する。

昭和20年9月27日 マッカーサー元帥との第一回目の会見 11回会見している。
「日本の戦争責任は全部私にあります。  私がその責任を負うつもりであなたの前に立ちました」と言うが、感激したことをマッカーサーの回想記には書かれている。
2回目以降は書かれていない。(政治的な発言もしているのではないかと思われるが?)

昭和21年1月1日  人間宣言 天皇を神の末裔と信じる日本国民が、其れが故に世界を征服するという誤った考えなどは持ってはいけない、神であることの否定。
後年、明治天皇の五カ条の御誓文 あれは日本の民主主義の原点です。 
日本にもあの様な民主主義が有ったんですという事を伝えたいと言ってます。

昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した日 国際社会に復帰。
吉田茂全権団を宮中に呼んで茶話会を開いたりしている。
退位の話が有ったようだが、今回の実録では触れていない。
主権者から象徴へ。

昭和34年4月10日 皇太子結婚 天皇は大変喜んだ。 和歌をいくつも作った。
昭和50年9月30日 アメリカ訪問 その4年前昭和46年8月欧州7カ国訪問。
イギリスの訪問の8月5日 実録では着いた日だけで14ページも書いてある。
皇太子としてきた時のことが思い浮かべたことと思われる。
アメリカでいろんなパーティーで話があるが「不幸なできごとがあった」ことを述べる。
占領期 日本の飢えと貧しさの中で、感謝の気持ちを言っている。

私たちも昭和の時代をこういう風に生きてきたという事を纏めることも大事なことだと思う。


2014年10月8日水曜日

遠山昭雄(介護紙芝居研究者) ・現場から生まれた介護紙芝居

遠山昭雄(介護紙芝居研究者)   現場から生まれた介護紙芝居
埼玉県川越市 東京経済大学卒業後に、介護施設の職員になり、16年前に介護に紙芝居を生かそうと考えました。
当時は子供用の紙芝居が多かったために遠山さんは、高齢者や介護に適した紙芝居を求めて出版社等に粘り強く働きかけました。
その結果これまでに紙芝居18作品が出版され、今では介護の現場で幅広く使われていると言います。
紙芝居には遠山さんが介護の現場で33年間体験してきた思いや工夫が込められています。
現在、遠山さんは仕事は退職しましたが、お母様の介護の傍ら紙芝居のボランティア活動を続けています。

介護には興味はなかったが、友だちから人を求めているところがあると、そこ行く事が介護の世界に入ってゆく入口でした。
施設は身体障害者の養護施設で、ほとんどが脳性麻痺の人達でした。
今の介護とはかけ離れた仕事でした。
大学でゼミナールが心理学、卒論がホスピタリズムでした。
身体障害者の養護施設が閉鎖的で、当時精神医療では解放化が叫ばれていた。
夜勤の度に亡くなるという事にぶつかって、かなりショックでした。
人の生き死にに関係ない仕事をしたいと思った、自分が働きかけたものによってものが具体的に残る様な実感を得たかった。
職業訓練で木工の勉強をしたが、木工で食べてゆく道は厳しい事も判って、老人ケアに辿り着いた。
老人ケアに移ってからは、毎日のようにレクリエーションをしなければならず、メニューを考えた時に、街頭紙芝居を思い浮かべた。
街頭紙芝居は昭和5年に始まったことが判って、それに引きよせられたのは、私の世代より上の世代、今のお年寄りはほとんど紙芝居に吸い寄せられたのではないかと思って、レクリエーションの時間に紙芝居をやれば、盛り上がったりするのではないかと思った。
紙芝居をやってみて、がっかりするような結果だったと思う。
お年寄りを喜ばせる様な作品選び、演じ方がまだ出来ないのかなあと思いました。
作品を探し廻ることになったが、本屋さんに行っても無く、図書館には置いてある。
子供向けがほとんどで、それが壁だった。

紙芝居文化推進協議会があるが、そこの会員になったり、全国紙芝居まつりというイベントが一年おきにあるが、そこに参加したりしていた。
手作り作品の中から、大人が喜んでもらえるような作品を探して、製作者と交渉してコピーして出来れば出版できないかと、出版社に交渉を始めた。
認知症にきく紙芝居は出来ませんかと、作家の人には話したことがあるが、「えーっ」と言われた。
出版社もリスクがあり、出版社もなかなか踏み出してくれる、と言う事はなかった。
「始めよう老人ケアに紙芝居」と言う本を出してもらった。(私の監修で)
セミナーを開催して、現場で働いている介護職と、紙芝居関係者 半々ぐらい来てくれて、高齢者向け介護紙芝居というジャンルを何とかしたいという機運が生まれた。

或る程度売れないといけないので、リスクはあるが出してみようという事になる。
介護紙芝居は全作品18作品。
「金色夜叉」人気がある。  尾崎紅葉の代表作 
(紙芝居で熱海の海岸の一場面を読んでもらう。)
「お茶にしましょう」→言葉遊び お茶 ちゃぶ台 大福 それをきっかけに会話になったりする。
「連れション」→3人の子供の神様が出てくる話。 おしっこの出具合。
介護紙芝居 作品の内容、演じた時に何らかの形で、ケア的な要素が有っていいかなあと思う。
遊び、楽しさがあって娯楽性に富んだ内容や演じ方であるという事が一番望まれる。
双方向の関係、やり取りが生じやすい作品が理想的かなと思います。
それが介護につながっていけたらと思っています。

盛り上がるときも有れば、そうでないときもある。
紙芝居関係者の区分の仕方、参加型と物語完結型があるが、ほんらいの紙芝居は物語をきちっと伝えることが本質的なものかもしれないが、介護現場では遊びの要素、双方向の関係、観ている人たちの横のつながりを作りだすうえでは、遊びの要素を取り入れた参加型の紙芝居を多く活用するという事になります。
認知症の人が多い場合は参加型、童謡とか唱歌が入っていて、皆で一緒に歌いながらストーリーが展開してゆく作品になっているので、そういう作品を多く利用する事でやっています。
「金色夜叉」など大衆演劇路線といっているが、若いころ記憶した内容をもう一度紙芝居で演じて、そのころを思い出してもらうのが有効かなあと思っています。

アイコンタクト取れるように、お年寄りと目を合わせるように工夫している。
紙芝居のボランティア活動をしている人達のサークルが出来てきて、介護施設にボランティアで入りこんで紙芝居を演じることが増えてきています。
堺 正一さん(元県立盲学校校長  6月に放送した「高齢者のケアに紙芝居」)も同じ思いをもっているということを知って吃驚していますが、情報交換をしています。
紙芝居イベントに参加すると、紙芝居友だちができてきて、自分が支えられている様な気がします。
紙芝居が今後ライフワークになるのではないかと、感じがしている。
出版以外でも演じるという事を通して楽しみを持続できる様な気がする。
絵は周りに描ける人がいるので、紙芝居の脚本が書ければいいなあと思います。




2014年10月7日火曜日

沢 竜二(俳優)          ・一座を率いて60年

沢 竜二(俳優)       一座を率いて60年
1935年 福岡市生まれ 両親は各地を回って芝居をする旅役者、沢さんは4歳で初舞台を踏み、16歳で座長と成って一座をひきいて、芝居を意欲的に取り組みました。
今ではいわゆる大衆演劇の舞台ばかりではなく、映画やTVなどにも出演して、幅広い役柄をこなして高い評価を得ています。
沢さんは大衆演劇を歌舞伎や新劇に負けないジャンルにしようと、侍ミュージカルと銘うって、アメリカでの公演をするなど、日本の芝居の魅力を世界に発信しようとしています。
母の旅公演中に芝居小屋で生まれたという、沢さんの話を伺います。

6月に福島、南相馬で5か所、寸劇と踊りと歌とをやってきて、皆を笑わしてきました。(3年ぶり笑ったと言っていました)
4歳で初舞台を踏んでいる。 子役で出された。 忠臣蔵の子との別れの場面に登場した。
演劇をやるのに田んぼの中に舞台だけを作り、むしろで囲って、下にむしろ、ござを敷いて開幕は夜の7時からと成る。
新国劇の澤田 正二郞先生から母は名前を頂いた。
先生の人気が上がると女沢正と名乗る人が8人いた。 母も女沢正と名乗っていたが、8人もいるのはまずいという事で、先生がこっそり見て、母が8人いた中から選ばれた。
8人兄弟で、忙しくて母は九州から離れられなかった。
一番辛かったのは、夜遅くまで起きていて、コックリコックリしていると、母があやしてくれるが、おしろいがついてしまい、学校に行くとそれを周りからからかわれて、いじめの対象になった。
3日~5日で次のところに行くので、学校も転校になってしまう。
小学校2年生の時に、父が劇場を買ったので、それからは落ちついて学校に行けるようになった。

劇場が中学2年の時に燃えて、久留米に移転するが、万能選手だったので元の中学から呼ばれ、朝早くから通った。(走って通う様になる)
高校に通う様になるが、仕送りが少なくなり、3カ月滞納したものは退学という張り出しがあり、それを見て学校は止めた。
役者になることにする。  段々人気が上がり、男座長の方が客が入るという事で、沢幸次郎と言う名前で16歳で座長になる。
沢幸次郎として凄い人気になる。 関西にも行くようになり、関西でも人気になる。
昼間は時間が空いているので、ウエストサイド物語の映画を見て、凄いと感動して、どうしたらいいのか3日間芝居を休んで寝込んだ。

アメリカにゆき、日本のものをやるべきかと考えたが、そのためにはまず東京と考えた。
船村 徹先生に手紙を出して、先生に会う事になる。
40人の座員を置いて一人で東京に来れるのかと、言われたが行く事を決心する。
29歳で東京に出てくる。
考えた5倍、10倍の苦労だった。 家賃が払えず、キャバレー回り、内職などをする。(親子3人暮らし)
父が死んで、全部質屋に入れて、飛行機代がでて、死に目に会えた。
もう先が見えなくて、先生にもう帰りますと、言ったら、先生が5000円をくれた。
不運が随分続くが、逆境に強い人間になった。

稲垣 浩監督が 無法松の一生 主役 阪東 妻三郎 、三船敏郎  2本とも稲垣監督製作
3本目を考えているが、三本目の主役はお前だと言われて、1か月後にクランクインするから頑張れと言われて、監督は死んでしまった。
芸人研究所を作って80人集まる。
再び一座に戻って再生する。
大江美智子と半年間熱海で演劇をやり、「人生劇場」の水槽を使った大立ち回りをやったが、それを見ていたアメリカのプロデューサーが俺たちにやらしてくれと言うよな話もあり、アメリカ公演が増えてゆく事になる。
色々なところで開催をして、ラスベガスで3カ月のロングランをやった。
言葉は日本語でやるが、役者が喜怒哀楽を出せれば、通じることが判った。
宮本武蔵をやるが、一乗谷の決闘 一場面で最後に6歳の子供が白装束で相手としているが、子供を突く場面があるがブーイングで客が立ちあがるが、 立ち廻りをやると座ってきて、最後で二刀流でやる様になると拍手が来るようなる、最後の場面で、振り返ると殺した子供が立っていて、生きていると思って子供を抱くとやっぱり死んでいたかと、慟哭すると客が大拍手でした。

武蔵の格好をしたまま最後に「マイウェイ」を歌う。 日本語
プログラムにだけは英語で紹介してほしいといった。
「子供のころからスターではない、父母も旅役者だった。私も旅役者。 夢が一つ壊れたら夢が一つ消えたら、もうひとつ夢を見ればいい、命は一つでおしまいだけど、夢が消えても死にません。夢は必ずどっかに落ちています。 お互いにそれを拾って生きていきましょう」
ニューヨークタイムスの一面に、沢は武蔵の格好をして歌う「マイウェイ」はフランクシナトラを彷彿とさせる、という記事がでた。
これ以上の絶賛は無いので、ここで止めなかったら、客が入らなくなったりしたらみじめだと思ってアメリカ行きはここらがいい潮時だと思った。

アメリカの客は九州のお客と似ていると思う。 即身体と声で返ってくる。
昔日本では喧嘩をするにも、どこまでやればいいと言う事は解っていたが、今は判らないから命がけでやってしまう。
踊りは自我流でやっていたが、国立劇場でやってもやりだしたら度胸がついてしまった。
蜷川さんの舞台にも呼ばれて出ているが、僕には絶対文句は言わないが、あの人にはかなわない。
健康の秘訣 ストレスを溜めない。 芝居をやっているとストレスは溜まらない。










2014年10月6日月曜日

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル)  ・80歳、今もステージに立ち続ける

松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル) 80歳、今もステージに立ち続ける
ムード歌謡コーラスグループのセンターボーカルを担当している松平さんは、80歳の今もステージに立ち、甘いソフトな歌声で多くのファンを引き付けています。
多くの歌手が歳と共に第一線を退いてゆく中で、松平さんは独自の健康維持で、現役を保っています。
80歳での健康維持法、ボイストレーニング、若いころからエンターテイナーとしての芸を磨いてきた多くの方々との交流録について伺います。

80歳が来た様な気がしない。  マヒナスターズ結成60年
新幹線もなく演奏旅行がきつかった。 北海道等はバスの移動で疲れた。
歯はすべて自分のもの。 母がにぼしを味噌汁に入れたり、ぼりぼり食べていたりした。
生まれは新宿だったが、戦争のため北上に学童疎開していた。
末広亭で落語を聞いていたので、疎開先のお寺でしゃべって、食べものを貰ったりした。
戦争が終わって、直ぐに疎開先から帰ってきて、全焼で何もなく、お爺さん宅が焼けてなくて、アパートもやっていたのでそこから中学、高校と通った。
淡谷のりこさんが歌っていたのを聞いて、涙が出た。
立教大学に進学、ハワイアンをやった。

灰田 先生が池袋にハワイアン喫茶をやっていて(自分自身ではないと思うが)、そこに出演するように言われて、スカウトされて、進駐軍のところに行ってやっていたが、帰りが遅くて辞めたが、再度誘いがあった。
ギターもやったが手が痛くて、ボーカルだけをやる様になる。
三島 敏夫佐々木敢一、私でビクターから宣伝用のレコードの話があり、それに歌をいれていたが、三島さんが佐々木を連れて戻ってしまって、裏声をやる人がいなくなり、私がやらざるを得なくなり、裏声を練習していたが、喉が弱ってしまって、血が出て直ぐ病院に入院した。(22,3歳の頃)
結核だと思ったら1カ月半で治る。
佐々木敢一が戻ってきて、元の一人で歌えると思った。(「ウナ・セラ・ディ東京」あたりから)

(台風関係のニュースの為、中断)
ステージでジャズを歌ったり、ハワイアンを歌っていたりした。
トリオロスパンチョスがきて、声が素晴らしかったので、ラテン歌謡をやってみたくなった。
ウナ・セラ・ディ東京」 作詩 岩谷時子さん
声の管理 食事 焼き肉だとかは疲れが取れる。
車は夏は冷房、冬は暖房で声を出すのには、一番いい。
休みの日は発声練習、ジムに行って運動をやっている。
身体の弱っているところをカバーしようとして、余分なことをするといけない、返って悪くする。

子供のころから歌謡曲が好きだった。
歌謡曲、ジャズ、ハワイアンを良く見に行った。
カメラを持っていれば、東海林さん、岡さんとかいろんな人と一緒の写真を撮れたので、悔やまれる。
東海林さんは酒が好きだったので、一緒に飲んだりして、帰りに肩を組んで歌を歌ったりした。
座右の銘 「人生成り行き」 その時その時でがむしゃらにしないで、成り行きでやる、そういう気持ちです。


2014年10月5日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第7回

保坂正康(作家)   昭和史を味わう 第7回 ”昭和天皇実録”を読む(1)
 昭和天皇の青少年時代 人間形成を見る。
2014年9月9日公表 61冊 1200ページ 宮内庁作成
明治34年4月29日誕生  昭和64年1月7日亡くなる。
62年天皇在位
明治天皇記は 120卷(1冊は薄い) 公開は13卷 黒塗りがある。
今回は全部公開されたのが、画期的。
今まで推測として語られていたものが事実と成った部分がある。
1回目は誕生から即位まで、1901年~1926年まで
2回目は即位から亡くなるまで 1926年~1989年

幼少期の教育
大正天皇に出した手紙が3通公開されている。  
8歳の時の両親への手紙(静岡県沼津御用邸での日常での)
「まだやっぱりお寒うございますが、おもうさま、おたたさま ごきげんよういらっしゃいますか?
迪宮(みちのみや)も、淳宮(あつのみや)も、照宮(てるのみや)も皆丈夫でございますから御安心あそばせ。
私は毎日学校がございますから、7時45分ごろから歩いて通います。4時間のおけいこをしまって、みうちに帰ります。 そしてお昼をしまって大抵、山や、村や、松林に出で面白く遊びます。・・・昨日はお使いでお手紙のお道具や、おまなを頂きましてありがとうございます。 おもうさま おたたさま
ごきげんよう 2月4日 迪宮裕仁」

桑野鋭 自由民権運動をやっていて、新聞記者になって、宮内庁の中で家族向けの雑誌を出すのでそこの編集者として雇われたようだ。
昭和天皇、秩父宮、高松宮殿下の幼年期の教育係をされている。
新しい時代にこういう天皇であってほしいという想いが明治天皇、大正天皇にあったのでは?
足立たか 学習院長の菊池 大麓の推挙で教育係につく。(科学的に見つめる目)
足立たか の父親は札幌農学校で、新渡戸稲造と同期生、クリスチャンの雰囲気を身に付けている。
全人格的に広がりを持つ様に教育している。
学習院の初等科に入学 院長が乃木 希典
明治天皇から孫を育ててほしいという事で院長になる。  
質素、倹約を厳しく指導する。
乃木さんを家族に一番近い人として昭和天皇は尊敬していたようだ。

歴史が好きで、生物に対して興味を持つ。
物をよく見るという事を大事にしている。
二心のある者は嫌いだという事をよくいっていたと書かれている。
生物学、分類学 土台になる学問に興味を持つ様に導いていったという風に感じる。
明治45年 明治天皇が亡くなる。 11歳の時
皇太后が3人を呼んで、亡くなった姿を見せる。
乃木さんが殉死するが、その前の日に昭和天皇に2冊の本を渡す。
今までの資料では2冊と成っているが、実録では1冊の名前しか載っていない。(これからの検証が必要)

大正3年からお学問所ができて、帝王学を大正10年まで学ぶ(13歳~20歳)
学友が7~8人いる。 勉強のほかに体育、天皇に関しては別枠で帝王学、軍事学も学ぶ。
帝王学 基本的には歴代の天皇の事績を勉強する事、これからの時代は天皇は国民とどうあるべきか、と言う様な事を学ぶ。
どういう様な託し方をするのか、どういう人を信用するのか、どういう様なシステムの上でそれが動くのかなどを学んだと思います。
独自の相当分析力を持った、歴史的勘の優れた君主だったのではないのでしょうか。
大正10年にヨーロッパ訪問する。

イギリス訪問など 反対派も出るが、牧野 伸顕などが説得する、これからの天皇は世界をよく知っていなければならない、国際環境をよく知っていなければならないと、出発する事になる。
大正10年3月3日 船で横浜から出発する。 
イギリス中心 ジョージ5世が別室に呼んで通訳と3人で立憲君主制を説く。
立憲君主政と言うのは 天皇と言うのは君臨すれども、統治せず。
貴方が命令したり、指導するのではなく、貴方は存在しているだけ、臣下のものがきちんと大権を使う様に、そういうシステムになっているのだから、貴方は直接口をはさんであれこれいってはいけないんだと、それが君臨すれど、統治せず、立憲君主制 天皇はジョージ5世から教わったと言います。

第一次世界大戦が終わってから2年なので、ジョージ5世から戦場を見てほしいと言われて、フランス、ベルギーなど戦場を見ることになる。
戦場を見て、悲惨な戦争を聞かされて、時に涙を流す。 
戦争が如何に悲惨かを知らされる。
その思いをジョージ5世にベルギーから電報を打っている。
ヨーロッパ訪問は思い出の宝庫の様になっているのではないのでしょうか。(船での半年の旅)
大正天皇の身体がおもわしくなく摂政(天皇の名代)になる。 大正10年11月25日
大正天皇が亡くなる大正15年12月25日までの5年間。
大正デモクラシーが昭和天皇が即位された後、なくなってゆくのはなぜなのか、天皇の気持ちとは別に軍部がかなり横暴になってゆくプロセスがあるのではないでしょうか。


2014年10月4日土曜日

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家) ・百年の夢を次の百年に

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家)  百年の夢を次の百年に
81歳、昭和8年大阪府に生まれ、昭和32年に宝塚歌劇団に入団、「ベルサイユのばら」や、「風と共に去りぬ」など多くのヒット作の脚本演出を手がけました。
平成8年製作畑出身としては初めて、宝塚歌劇団理事長に就任、宙組(そらくみ)の新設などに尽力しました。
最古参の団付き演出家として今も活躍中で宝塚歌劇100周年の今年、新たな演出のベルサイユのばらを上演しました。
常にチャレンジをしてきた半生と改めて宝塚の魅力をお聞きしました。

100年と言う歴史の重みは今年感じさせていただいたし、そこに立ち会えたという事の感動は言葉にならない。
100年前の第1回の「ドンブラコの桃太郎」をやった、高峰 妙子さんは私が入った当時、声学の先生で、教えに来ていて当時のことを昨日の様に話しているのを聞いていて、葦原邦子という凄い大スターがレビューの時の大転換期のスターからあんた宝塚に入りなさいと言われて、宝塚に入った様な事もあり、スターたちのいろんな話を聞いているので、自分の中では100年経ったのかと思う気持ちと、100年て長かったなあと、二つの気持ちがあります。
「ベルサイユのばら」 40周年
宙吊りをやると、子供達の目の輝きが違うので、そんなことも使っている。
毎回台本が違う。 生徒たちに失敗をさせられないというのが大前提ですから、生徒たちも色々あるので、芝居の巧い子、歌の巧い子によってどうしても見せ方が変わってくる。

両親が無かったので、小さい時から親の愛には飢えていた。
悲しさ、苦しさのなかで、何でもない一言が嬉しかったり、人の親切が嬉しかったりしたことが、こういう風に素直に気持ちを書けば、見てくださる人も判って頂けるなと言う自信には繋がりました。
1歳未満で父が亡くなってしまう。
祖母の方に引き取られていった。
おじさん、おばさんに対してお父さん、お母さんと呼びなさいと、小学校一年生の時に祖母から言われた。  優しく育てられた。
普通の方だったら感じられない人間の情みたいなものが書けるなと言うものが、書いた事が作りものではなくて、自分の経験であるという事が、そういったものが多くの方が判っていただけると、自信にもなっている。

戦後宝塚が再開したときに、クラスの中に星組の娘役のスターの弟が中学の同期生で、簡単に切符が入ったので、見に行って、それが最初だった。
焼跡だらけだし、女性は紺がすりのもんぺ、男性も軍服を背広に直した様な服装の世界に、宝塚だけがピンク、ブルーがあり、若い生徒が新しく入ってきたジャズで足を上げて踊るわけで、感動していっぺんに虜になった。
私の感動したとおなじ感動をお客さんに知っていただきたいなと思って、いつも自分の本の中にはある様な気がします。
役者になって芝居をしたら、いろんな世界を演じられると思い、役者になりたいと思った。
役者になるなら、声学、ピアノ、三味線、バレー、日本舞踊もやらないと、役者になれないと言われて、いろんな事を勉強しはじめた。(日本舞踊は名取になる)
中学では演劇部を作った。 高校でも演劇部、早稲田大学では第一文学部で演劇を専攻、在学中にミュージカル研究会(後に劇団早稲田劇場)を作って 21歳で樋口一葉のたけくらべの脚色、演出、振付をする。

声学、三味線、バレー、日本舞踊を勉強する中で、周りは先輩だらけで、その中で耳年増になってきて、グループの中で意見を言うと、どっか一色違った様で、演出の方に回されて、纏め役をするようになった。
ミュージカル研究会というのは、倉橋 健先生がニューヨークに行って、帰ってきて新進気鋭の評論家になって、その授業を受けている時にミュージカルがブームになっているといわれて、おもしろそうだと勉強し始め、舞台でやろうということになって、舞台をやる様になるが、どうしていいのか判らなくて、宝塚に似ているなと思う事があって、たまたま葦原邦子と言う人を知っていると言う人がいて、連絡を取ったら、やってあげるという事になり、稽古を見てくれたりした。
あなたは宝塚に入りなさいと言ってくれる事になる。
大学卒業後、昭和32年1月宝塚に入る。(本来4月)
レビューの王様と言われた、白井鐡造先生の助手として仕事をする。
小林 一三さんが同じ1月に亡くなる。阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ創業者)

「舞い込んだ神様」 を1年経たずして書いた。
日本舞踊が出来ることから、日本物のミュージカルの演出家として、宝塚でやることになる。
「ベルサイユのばら」の演出も手掛けることになる。
二枚目の芸を宝塚の男役に教えて頂きたいと思っていたので、長谷川一夫さんに演出をお願いして、やってもらって、1回目が終わってそれで終わりだと思っていたら、来年もやると言う事で、洋物をやりたいという事で、やってみるのも面白いのかなと思った。
ある少女がやってくださいと、マーガレット少女雑誌を送ってくれていて、これをやってみようかなと思った、それが始まり。
ベルサイユのばら」 18世紀フランスが舞台で、ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの生涯を縦軸に、
道ならぬ恋の相手のスウェーデンの貴公子フェルゼン、王宮を守る隊長オスカル(ジャルジェ家の娘として生れたが、男として育てられた男装の麗人)、両親を亡くしてジャルジェ家で育てられたアンドレー(オスカルを愛している)、それぞれの人生、思いが絡み合いながらフランス革命の時代を迎えてゆくストーリー。

宝塚はロココの美術の世界を舞台で作ったら、日本の演劇界では宝塚は一番似合うという事を聞いた事があるので、ロココの女王と言われたマリー・アントワネットの一生みたいなものは宝塚でやっても面白いのではないかと思った。
これはどうですかと言ったが、長谷川先生は大反対で、間男する話など駄目と言われたが、上手にオブラートに包んでやりますからと説得した、しかし漫画の読者、宝塚ファン両方から反対の投書が来た。
漫画のファンの方も素直に入ってくるような、プロローグにしないといけないと思って、池田理代子さんの原画、マリー・アントワネット、オスカル、フェルゼンを舞台に飾って、そこから始まる様に、ワンクッション置いた。
衣装、ブーツ、かつら、今は豊かになってるので、いろんなものがあるが、当時は本当に少なくて、稽古の後に、皆が必死になってくれて、対応した。
長谷川一夫さんは日本物だったらこう見せるけれども、振りが洋物だったらこうするという様な、コツ見たいなものは御存知でした。
ラブシーンで身体が痛かったらお客さんは、綺麗なラブシーンだと思うのだから頑張んなさいと言われたのをいまだに伝説として残っています。(オスカルとアンドレーの一夜のラブシーンの場)
普通TV、映画だったら抱き合ったらすぐにキスをするが、舞台では一瞬 身を引く、それがどんなに会いたかったかどんなに愛していたのか、表現する芸になる。
目線の位置に関しても、厳しく指導された。

「ベルサイユのばら」の初演から2年半後、「風と共に去りぬ」で又大ヒットする。
トップのスターがひげを付けることは、絶対にタブーだった。(脇役は許されていたが)
榛名 由梨に一遍やってみてはと言ったら、「やりましょう」と言ってくれた。
周りからは大反対だったが、しかし大ヒットした。(その当時は宝塚は冬の時代だった)

宝塚の魅力は?
これだというのはないのかもしれないが、私自身が戦後の焼跡の中で宝塚を見た感動、これが宝塚だという、楽しさ、嬉しさそういったものが、宝塚のお客さんが求めているものではないかと思う。
美しい夢、様々な人の愛、そういったものを描いてゆく事が、宝塚が持っている良さではないかと思う。
非現実的世界を2時間見ることで、現実を忘れて、楽しんで、新たに現実の世界で歩んでゆく。
宝塚が世界に羽ばたいてゆくためには、日本の文化を紹介する、その一つのお手伝いになれば嬉しいと思うので、日本物をやらせていただきたいと思う。




 

2014年10月3日金曜日

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)・ゴリラを描き続けて30年

阿部知暁(画家・アフリカ学会会員)    ゴリラを描き続けて30年
阿部さんは昭和32年高知市の生まれ。  45年前小学校の修学旅行で、ゴリラと出会いその時何故か初対面のゴリラが笑った様に思えたそうです。
阿部さんは父親が画家だったこともあり、大坂芸術大学に進みますが、作品の方向性とテーマに悩んで、上野動物園に好きなゴリラに逢いに行きました。
人気者のゴリラを見ているうちに、好きなゴリラを描く事を決心し、以来ゴリラを描き続けています。
日本、ヨーロッパ、アメリカの動物園、アフリカの野生のゴリラを含め、1000頭以上のゴリラと出会いました。
ゴリラを描いていると、ゴリラの子供が阿部さんの絵を覗きに来たこともあるそうです。
ゴリラはゆっくり反応し、ゴリラ時間があるのではないかと、感じると言います。

小学校の修学旅行の栗林公園の動物園で初めて見て、笑ったように感じた。
その瞬間から、なんかすごく好きになった。
絵を学び出して芸術大学にも行ったが、方向性に悩んで、悩んだ挙句に、上野動物園の「ブルブル」という有名なゴリラの前で、相談した。
にやっと笑って、描けるかい、と言った様に感じた。
ゴリラの事について、色々調べたが、判らないことが多くて、様々な疑問が出てきて、当時の上野動物園の北島さんが、そんなに見たいんだったら、見てごらんと近くで見せてくれたりした。
東山動物園では当時4頭のゴリラがいて、そんなに好きだったたら、見なさいと言ってくれて、見せてくれた。
段々好奇心が出てきて、山極 寿一先生(ゴリラ研究では著名な先生、 現在京都大学総長)を訪ねて、優しく色々教えてもらった。

野生のゴリラと飼育されているゴリラは違う様な気がして、一大決心をして、アフリカのジャングルに入ることにしました。
人が入れるところがあり、たまたまツアーがあって、運よくツアーに入ることができて、マウンテンゴリラと東ローランドゴリラの森に行く事が出来ました。
マウンテンゴリラは高地にいるので、登るのに大変だった。
私たちは訪問者なので、風邪をひいていたり、病気になっているとゴリラに対して問題が生じるといけないので入れない。

大きな群れがいて、描いていたが、のろのろと動いているので、ゴリラの3歳ぐらいの子が、私のところに来て肩を抱く、頭をつっついたり、描いている絵を覗いたり、最終的には私の頭をぽんとやって、ケタケタと笑って、親の元に帰っていった。(阿部さんの肩を抱いている写真がある)
東ローランドゴリラの群れの中にいる父親ゴリラが一緒に3mぐらいのところにいる写真もある。
食べている時はゆったり、のんびりしている。
案内者とゴリラは顔なじみなんだと言っている。
皆友達なんだから、大丈夫だと、案内者が言ってくれた。(優しい気持ちで接する事が大事)
動物園のゴリラは西ローランドゴリラ、TV等で放送されるのはマウンテンゴリラ(3000m級の高地に住む)。
西ローランドゴリラが住んでいるところは、低地で湿気と暑さで、蒸し暑いところ。
菜食主義で、葉っぱ、タケノコ、果物を食べたりしている生き物。
気が優しくて力持ちと言う事がゴリラに当てはまる。

ちょっとした変化、脅かされたりすると弱い、下痢をおこしたりする。 細やかな神経を持っている。
1000頭以上のゴリラに会っている。
30年前には北海道から九州までいたが、最近は少なくなった。
怒った時、よく来たね、といったときにはそれぞれ違った音声で対応してくれる。
イギリスのゴリラ「、ジュジュ」というお母さんゴリラ、自分が食べたい美味しそうな物があると、鼻歌を歌う。
飼育係さんが、鼻歌を歌っていると思っていたら、そうではなかったので吃驚した。
森でも、ハミングしているゴリラ、がいるといわれる。
NHKが放送していたゴリラの番組があった。
顔が嬉々として、走りまわっている画像を見て吃驚して、聞いて回ったが判らなかった。
BBCの放送で、イギリスのケント州にある、ハウレッツ動物園だという事が判った。(24年前 海外ゴリラスケッチが始まる)
寿命は30年~40年 
イギリスのゴリラの祖父母の時代から孫の時代までの付き合いとなる。
イギリスの動物園ではゴリラの繁殖が巧くいっていて、秘密があった、ゴリラと言うものは、上に登って手足を鍛えねばならない。
日本のゴリラは手足を鍛えるところが無かった。
ゴリラの動きは俊敏に動きつつ、のんびりゆったりしている。
ゴリラの時間と人間の時間は違う。(山極先生の著書より)

ゴリラに対し子供達はどのように接するのか?
①恐い、恐いと叫ぶ子  ②優しそう、大好きという子 二つに分かれる。
恐いよと言う子は、両親に対して凄く自分を見つめてと言う欲求を目で訴えるし、身体でも訴える。
優しそうという子は、その子自身が満ち溢れている。
木登りゴリラ  美味しい果物、葉っぱがあるときには、俊敏に登るが、そうしないと美味しいものに出会えない。
三角おむすびが連なった様なウンチをするが、腸の関係でそうなる。  オナラも大きな音をする。
ウンチの臭いはあまりしなくて、繊維質、果物の実があり、森の再生にも役立っている。

ゴリラの目の先には蝶が舞っている絵があるが、会っていないが、これを研究している山極先生とか、京大の大学院生の壺川さんと言う方などがドンドン資料を見せてくださって、いろんな話をしてくださって描けた絵です。   感じのいいゴリラです。(ガボンのムカラバのゴリラ 「ムル」)
ゴリラから学んだこと
苦しいことがあっても、何があってものんびり、ゆっくり、道は開けなければいけないとか、あくせくいろいろ考えても仕方ないこともあるし、でも打破できるかもしれないという事をゴリラから学びました。
明日、明後日の事を考えるのではなく、今を大切にのんびりゆったり、生きなさいと言われている様な気がします。