岡村紀男(代表) じいちゃんち、遊びに来ませんか
じいちゃんちとは、じいちゃんの家のことです 大田区に住む、岡村さんは自宅を開放して子育てをする親子が気軽に立ち寄って、弁当を食べたり、おしゃべりしながら一日を過ごす事の出来る場所を、2年前に作りました これがじいちゃんちです
岡村さんは1941年(昭和16年) 旧満州の生れ 72歳 会社に勤めながら、大学を卒業して、聖学院大学では学生の就職の支援をする所長を務め、67歳で退職しました
仕事人間だったと自称する岡村さんは、退職して、地域で挨拶をする人すらいないことに気付きさみしかったといいます
なんとか地域に溶け込みたいと、大田区が主催する、地域と教育と言う講座を受け、これをきっかけになかまを募り、地域の子育て支援に取り組むことになりました
長年学生の就職支援の経験から、家庭教育の大切さを知った事をつたえたい
又3世代同居が珍しくなったいま、じいちゃんちで、他の子育てを見て、自分の子育ての参考にしてほしいと話しています
駅まで4分だが、静かな住宅街 近くに児童館もある
「じいちゃんち」を開設 時を共有できる場所を提供したいと思った
2F リビング 18畳ある 一番多い時は親子で30人ぐらい集まる
簡単な台所、冷蔵庫がある 登録した人は177名になる
毎週水、土曜日と月一回 冬場は(インフルエンザがはやるころ)少ないが、大体8~12組(20~25人)がくつろぐ 11時からオープンする
子供はなんでも口に持ってゆくので、口に持って行っても問題ないように、きちんと拭いて準備をする
子供の生活のリズムがあるので、調節してくるお母さんもいる
1F 8畳間があるので、場所が無くなった場合はここを解放する
終了は4時 おやつがあり、子供が好みそうなお菓子を用意する
おもちゃ、本 衛生管理する
周りを取り巻いているボランティアは女性 65歳ぐらい、50代後半 後の3人は子育て中
常時来られないのでそれに備えて、他に4名が参加
3世代同居ができなくなった現在、それに代わるような空間としてここを利用してもらっている
以前は男は会社で働く、女は家庭をまもるのが当たり前の時代だった
そうすると孫は一人で子育てをしてる 子供たちが遊ぶ中で、お母さん同士が話をするという事で、ちょっとしたゆとりの時間が持てる
定年退職して、5年が過ぎましたが、ある部分仕事人間だった
退職した年の1年は何もやる気が無かった タイ量が回復してきて、ふっと気がついたら、知っている人が周りにいない
今後10年、20年 こんな感じでこの地域で生きていけるかどうか、と言う気がした
2年目にこれではいけないと思って、地域と教育講座 がスタートすることが分かり応募する
5か月勉強する 地域で子育てたい と言う講座を立ち上げることになる
その発表会の中で、自宅を無料開放して、子育て支援をしたいと話をする 周りは吃驚したが、他にも共感する人がいた 一緒にやろうという事になる(6人)
会則を作った 2011年 5月 6月からスタートする ちょうど2年が過ぎた
去年1年間は取材が凄かった 元保育士の人もいる
直接アドバイスが受けられるので、非常に参考になる
地域にかかわってこなかったので、申し訳ないという気持ちはある
私にとって、得もいえない、喜びを与えてくれる場になったかと思う
子供は一日一日成長する その成長が目に見える
大学で学生の指導をしていた ほっておいても、ドンドン内定を取ってくる学生もいるが、どうやっても内定が取れない学生がいる
きちんと社会が受け入れられるような、自分を作っていない
社会人とは何かと言うと、ちゃんと挨拶ができる 挨拶ができるといことは、コミュニケーションができる
挨拶ができること と、失敗したら「ごめんなさい」 何かしてもらったら 「ありがとう」 と言える
これが自然と出来れば、世の中をちゃんと生きていける仕組みができている
それがきちんと出来的ないという事は、家庭でちゃんと教えられないで、成長してしまった
そういう子が学生に何人かであった
そういったことの大切さを感じて、一線をひいた
お母さん方には言わないが、そういう事の出来る親になってほしい、家庭を築いていってほしいと思っている 言葉には出さないが 大切だと気付いてほしいと思っている
兄弟でおもちゃを取りあう お兄ちゃん あの針が12のところに行ったら、弟に渡してね という
お母さんたちにああしなさいこうしなさいとは言わないが、他のお母さんがしている子育ての方法を盗んでほしいと思っている
まったり 親御さんたちにくつろいでほしい その言葉として「まったり」を使っている
子育てに、どれが正解で、どれが間違っているという事は無いので、選択肢をここから持って帰ってほしいと思っている
2周年パーティーをやる 音楽を聴く 0~3歳は音楽は解らないと思うが、手拍子打ったり、からだをゆすったりしている
地域の子供たちに手を差し伸べたい、と言う気持ち スタッフの気持ちは揺らがないベクトルがあっている
子供はこの人を受け入れてくれるかどうかを、瞬時に判断してしまう
子供が寄ってこれる気持ちを持ち続けるものは何かと言うと、体力なんですね
抱っこし続けるのは体力がいるので、ウォーキングをやっている
自分がこの地域に生きている、生かされているという事を感じさせてくれる
殺伐とした時代はどんなに繁栄してもいい社会ではない
「じいちゃんち」の考えは、広がりを見せている 荒川区 「あらじい」 見学などがある
9月になるが、川崎市宮前区から講座を立ち上げるので、話をしてほしいとの事はあるが、残念ながら輪はなかなか実施まで広がらない
家庭でどちらかが反対すると上手くはいかない
地域が理解していないか、家庭での夫婦の意見が合わないのか、この辺に鍵があるのでは
人がやれる、お金がかかる おおやけがもっとそういうものを育成させるために、お金を出すべきだと思います
お金、場所、人、意識の問題 いろいろあると思う
一人っ子が多いので、年齢差のある子供が一緒に遊ぶのは、きっとなにかあると思う
ボランティアの人たちの存在は大きい
最終的な願いは、子育てをするお母さん方、子育てを終わったボランティアの人たちが増えることによって、家庭で困った時に、助け船を出せる、そういう関係が広がってくれればいいなと、思っている
自ら動かないと何も始まらない
2013年7月2日火曜日
2013年7月1日月曜日
大塚宣夫(精神神経科医師) ・穏やかな、静かな最晩年を目指して
大塚宣夫(精神神経科医師 高齢者のための病院の会長)穏やかな、静かな最晩年を目指して
1942年岐阜県に生まれ、慶応義塾大学医学部卒業後、フランス政府給費留学生として、2年間フランスに留学しました
帰国後、自分の親を預けたい病院を目指して、高齢者のための病院を設立しました
今までの長い高齢者とのかかわりとの経験から、穏やかな静かな最晩年を目指してという題目で話を伺いました
人生の最後の何年間かをお預かりする立場なので、その部分を指して、最晩年と呼ぶようにしています
イメージとしては一人では生活できなくなって、他人の介護を受ける、病気の長期にわたる治療を必要とするような形で私どもに入院されていて、だいたい先がある程度見える時期なので、平均すると2年、3年と言ったところでしょうか
東京に2か所に病院を持っている
患者の平均年齢は88歳 100歳を越えている人が、110歳を頭に35人もいます
1980年設立 今年で34年目に入っている
関わったお年寄りは1万人以上になる 6000人のかたの看取りをしてきた
病院を始めたときには、38歳と若い時だったが、自分自身が70歳を超えていて、いろいろな事を考えてみると、本当に年を取ることは難しい事であり、なかなか想像を絶する世界だなあと感じます いい意味でも、悪い意味でも
人は意外と、そんなにたくさんの年寄りを見、他の人が亡くなるのを見ていても、自分が年を取るとか、その先に自分が死ぬんだという実感がどうやっても持てない
これは人間の「さが」みたいなものかも知れない わが身に起きると、何が起きたんだと言う感じになる
一日、一日が初めての体験 昨日まで出来たことが、今日は出来なくなる
はじめは高齢者には全く関心が無かったが、1974年 日本に帰ってきた翌年の春
精神病院に勤めてきた
(1971年~1973年、フランス政府の給付留学生で2年間勉強した)
高校時代の友人から、彼の祖母のことで電話がかかってきた
83歳の祖母が自宅で脳梗塞で倒れて、自宅で見ていたが、昼間は寝ていて、夜になると大騒ぎをするというようなことになって、家族がたまりかねて、どこかに入れてくれるところを探してくれということになる
探したが、そこは現代の姨捨山と言っていいぐらいの、すさまじいところで、汚い建物の中に布団が一杯敷き詰めてあって、その中にお年寄りが転がされていた
暗い雰囲気、不快なにおいが立ち込めている場所だった
入れてもらえるとしたら、最低でも3か月~4カ月待ってくれとのことだった
驚いて、自分達の親も10年、20年経てば 4人の親の介護を私の上にもかかわってくるにもかかわらず、預ける先があんなところしかないのかと言うのが、最大のショックだった
人口問題の講演会があって、日本はこれから物凄い、勢いで年寄りが増えてくる
ある確率で、必ず認知症、脳梗塞であったりで、介護を必要とするお年寄りが増えてくる
介護をめぐる問題が社会に大きくのしかかってくるという事だった
自分の親だけでも、安心して預けられるような場所と仕組みを作りたかったというのがきっかけだった
1980年に作った病院は147床でスタートしたが、希望者が山のように来られて、すぐに一杯になった お金を借りて増築 3回繰り返して、1990年中には、837床という規模まで行ってしまった
2005年には、第二の病院を都内に作って今日に至っている
最後まで面倒をみるというのが特徴
高齢者 ①65歳以上 65歳から最初の10年が第一ステージ 体も元気 気力も十分にある
まだまだ社会的にも活動できそうだと思っている 或る意味、人生バラ色の日々
意外とそうでない面もある 一日家にいる 自分でやりたいことを目いっぱいやる
新しいことに挑戦する、可能性を探る とっても素晴らしいことだが、条件として周りの人に被害をこうむらせる、他人に頼って何かをするという事だけはすこしでも避けてもらいたい
気力、体力が余っているのであれば、それをもっと活用して、他人の役に立つようなことを会わせて考えてもらえれば、もっともっと、いい時間になるのではないかと思う
「夫源病」 ご主人が家にいる時間が長くなって、それがストレスで体調を崩す奥さん
女性は意外と外で仕事をされていた女性は家でもいろいろやることは多いが、男性は訓練を受けていないので、(自分で自分の事を出来る人はいい) なんにも出来ないままに家にポンといられるのは、これは困ると思う
一番いいのは家事全般をしっかり教えてもらって、家庭内で役に立つ存在になる事
一人で留守番ができるようになるように鍛えること
奥さんは結構、自分の仲間で旅行に出かけるとかあるけど、私も連れて行ってと言うのが最悪、留守を守り通しますというのが重宝がられる
第一ステージをどう過ごすかが、重要 他人に頼らない 自分で道を切り開く 独立自存
実際に形にするすべ、これをその時期にしっかり身につけるかどうか、が その先も随分中味を決める
施設に入ってきても、結構周りに愛される人になった方がいい
命令口調で、あれをやってくれこれをやってくれと、上から目線でものを頼むのは煙たがれる
②第二ステージ 75歳過ぎ 結構あちことにガタがくる いろんな病気はでる 耳は遠くなる、目はかすむ 歯は抜け落ちてくる、折れる ちょっとしたことで転んで骨折するというようなことが次々に起こる時期
治療を受けてもなかなか病気そのものが良くならない、怪我をすると治りが遅い、寝ている間に別の事が起きるみたいなことで、この時期は ポンコツ車なので、無理して使えば壊れるし、鍛えようと思ってもきしむばかりで難しい
この時期大事なことは、怪我をしない事、無理をして病気にならない事
大事に、大事につかう だましだましつかう事が大事
③第三ステージ 自分の力でけでは日常生活が送れなくなる 認知症になる人も増えて来る
なんらかの形で他人の手を借りて、生活せざるを得ない状況に追い込まれてゆく
先が見えたなと言うのが、最晩年
生きていたいと思うような良き環境を整えられるかどうか 人生の質が問われる時期
基本となるのは快適な生活ができるような環境を整えられるかどうか
介護、他人の助けを得ないと、食事を取る、排泄、入浴をするという事ができないわけなので
体制を上手く整えられるかどうか
いろんな起きてくる、身体の障害、病気にどう対応するか、そこで中心になるのは医療
生活介護、医療が一体的にきちんと対応してもらえるような体制を作れるかどうか
これが人生の最晩年を決めるのではないかと思う
一人暮らしが増えている
他人の世話にならないという気概が無いと、出来ない
自分の力で出来るところまでやるんだという気概、これが自分の持っている能力を最大限に活性化する源だと思う
身の丈の生活 自分の負担にならない範囲で生活をする 風呂を毎日でなくても清潔が保てればいい、食事なども時には自分の気の向くままに食べ、ぬいても構わない
一人暮らしはその気になれば長持ちさせられる
どんな場面でもその気概を持ち続けることが大事だという事です
認知症 75歳を過ぎると認知症の比率が高まる 全体の70%が当院ではある
認知症にならないための努力はしてきたと思うが、なるときにはなる
手先を頻繁に使えば、ならないといわれるが、なる時はなる
もしやりたい事、行ってみたいところがあれば、元気なうちにやる
認知症 最初は軽い 一人くらしができるのが大部分です
皆さんが先回りして、一緒に住むという事をする場合があるが、それは認知症そのものを更に進行させる源と言ってもいいぐらいだと思う
一人暮らしは自分のあらゆる物を動員して生きなければならない環境なので、衰えた精神機能を駆使して生きているので、それなりに生活はできる
認知症の人は過去の記憶が一部欠落して、新しい情報が入らない状況の中で、少ない情報の中で自分なりに判断して、行動している
外から見ると、其れがその場にあってない様に見えるが、本人は一生懸命に考えて、最善の判断をし、行動を取っているので、ここはしっかり認めてあげないといけない
自分としてはベストを尽くして判断し、行動しているのに、なんで文句を言われなければいけないのか、腹立ち、不快な感じにさせられ、そこからいろんな次の問題が出てくる
家族が認知症の人に対応するのが一番難しいのは、其家族と言うのは、お父さん、お母さん
と言うのは偉大な存在であるし、親はちゃんとした人というイメージを持っている、その人のイメージがすこしでも崩れると受け入れられないような感じがあり、これが次々といろんな問題を発生させる(家族の介護の難しさがある)
介護というものは、他人に預ける、家族とは違った目で見られる
家族に対しては意地を張ったりするが、他人だと結構自分の身をゆだねられるという事がある
この辺りは、十分に活用してやっているのが、施設の実態だと思う
私の大好きな言葉に 「我が親を人に預けてボランティア」と言うのがある
私はあなたの親を見るから、あなたは私の親を見て、見たいな仕組みが出来てくるといいなあと思う
人生の終わりに近づけば、近づくほど自分の今まで身に付けた全ての物を、しっかり自分のために使うという精神が大事だと思う
歳をとって残っているのは何かと言うと、人脈、生活の知恵、財産
何かしてもらったら、それに対してしっかりと、感謝の気持ちを表す習慣が大事
「ありがとう」と言う言葉を惜しまず発する事が大事 やっぱり言わないと人は解らない
自分が今まで身につけてきたお金 どう使おうと勝手だが、自分が死んだら、あなた方子供に
遺産としてゆくんだから、俺の面倒を見るのは当たり前の事だと、こういう気持ちになりがちだが、私は何年後かわからないが、纏まった何百万円、何千万円と言うお金よりも、今のうちに何かやってもらったら、感謝の言葉と共に、お金をすこし添えて渡す、これだけで周りの人の動きが全然違ってくる
感謝を形にしてくれる人のところに集まってくる(入院している方にも似たようなことがある)
頻繁に感謝の気持ちを発する人、来てくれたことに評価してくれる人、自分の手元に或る程度おいて置いてこまめに、小分けに渡している人のところには、本当に、お孫さん子供達も引きも切らず、と言う事は結構ある
人の気持ちは微妙なところがある 頭と金は使いよう
不便な状態に陥った時こそ、知恵を出し、持っているお金を存分に使って、豊かに生き切る、
他人に頼らないで、生ききる
最後に近づけば近づくほど、医療の役割は大きくなってくると思う
治療すれば治るのかという判断だとか、今は治療を必要とするのか、医療にかかわればなんとかなるのかどうか、この人に治療をして本当にこの人にとってプラスかどうか、判断を含めて、現代の医学は少しでも長生きをさせる、本人に苦痛が伴っても、医療を施してしまうところがある そこから悲劇的なことが起きてしまうところがある 80歳、90歳の人が亡くなるときに、全身管だらけになり、最後の最後まで家族が遠ざけられて、だめでしたというような事がある
それが本人が望んでいたことなのか、もう一回見直さなければならないと思う
人はいつか死ぬんだし、亡くなった時に本当に大往生であったと、云う風に言ってもらえるような見送り方は非常に大事なことだと思う
人生は終わりよければすべてよし ですから
私の父は 病院開設後 2年目にいれようかと言っていたときに、自宅で亡くなってしまった
母親は92歳の時に、病院に入って6年半いて、亡くなった(99歳、大往生だと思っている)
義母は80何歳で突然亡くなる
義父は認知症になり、最後の3年は気の向いたときに晩酌をして、寝るときには寝るといういい時間を過ごしたと思う
わたし自身が安心して身を任せられる仕組みをどう作るか
家族が望む医療と、本人が望む医療が同じではないと思うので、どのようにギャップを埋めてゆくのかが、課題
食べたい時に食べ、起きたい時間に起きて、お風呂は自分のサイクルで入れてもらう、このギャップをどうして行ったらいいかが課題だと思う
1942年岐阜県に生まれ、慶応義塾大学医学部卒業後、フランス政府給費留学生として、2年間フランスに留学しました
帰国後、自分の親を預けたい病院を目指して、高齢者のための病院を設立しました
今までの長い高齢者とのかかわりとの経験から、穏やかな静かな最晩年を目指してという題目で話を伺いました
人生の最後の何年間かをお預かりする立場なので、その部分を指して、最晩年と呼ぶようにしています
イメージとしては一人では生活できなくなって、他人の介護を受ける、病気の長期にわたる治療を必要とするような形で私どもに入院されていて、だいたい先がある程度見える時期なので、平均すると2年、3年と言ったところでしょうか
東京に2か所に病院を持っている
患者の平均年齢は88歳 100歳を越えている人が、110歳を頭に35人もいます
1980年設立 今年で34年目に入っている
関わったお年寄りは1万人以上になる 6000人のかたの看取りをしてきた
病院を始めたときには、38歳と若い時だったが、自分自身が70歳を超えていて、いろいろな事を考えてみると、本当に年を取ることは難しい事であり、なかなか想像を絶する世界だなあと感じます いい意味でも、悪い意味でも
人は意外と、そんなにたくさんの年寄りを見、他の人が亡くなるのを見ていても、自分が年を取るとか、その先に自分が死ぬんだという実感がどうやっても持てない
これは人間の「さが」みたいなものかも知れない わが身に起きると、何が起きたんだと言う感じになる
一日、一日が初めての体験 昨日まで出来たことが、今日は出来なくなる
はじめは高齢者には全く関心が無かったが、1974年 日本に帰ってきた翌年の春
精神病院に勤めてきた
(1971年~1973年、フランス政府の給付留学生で2年間勉強した)
高校時代の友人から、彼の祖母のことで電話がかかってきた
83歳の祖母が自宅で脳梗塞で倒れて、自宅で見ていたが、昼間は寝ていて、夜になると大騒ぎをするというようなことになって、家族がたまりかねて、どこかに入れてくれるところを探してくれということになる
探したが、そこは現代の姨捨山と言っていいぐらいの、すさまじいところで、汚い建物の中に布団が一杯敷き詰めてあって、その中にお年寄りが転がされていた
暗い雰囲気、不快なにおいが立ち込めている場所だった
入れてもらえるとしたら、最低でも3か月~4カ月待ってくれとのことだった
驚いて、自分達の親も10年、20年経てば 4人の親の介護を私の上にもかかわってくるにもかかわらず、預ける先があんなところしかないのかと言うのが、最大のショックだった
人口問題の講演会があって、日本はこれから物凄い、勢いで年寄りが増えてくる
ある確率で、必ず認知症、脳梗塞であったりで、介護を必要とするお年寄りが増えてくる
介護をめぐる問題が社会に大きくのしかかってくるという事だった
自分の親だけでも、安心して預けられるような場所と仕組みを作りたかったというのがきっかけだった
1980年に作った病院は147床でスタートしたが、希望者が山のように来られて、すぐに一杯になった お金を借りて増築 3回繰り返して、1990年中には、837床という規模まで行ってしまった
2005年には、第二の病院を都内に作って今日に至っている
最後まで面倒をみるというのが特徴
高齢者 ①65歳以上 65歳から最初の10年が第一ステージ 体も元気 気力も十分にある
まだまだ社会的にも活動できそうだと思っている 或る意味、人生バラ色の日々
意外とそうでない面もある 一日家にいる 自分でやりたいことを目いっぱいやる
新しいことに挑戦する、可能性を探る とっても素晴らしいことだが、条件として周りの人に被害をこうむらせる、他人に頼って何かをするという事だけはすこしでも避けてもらいたい
気力、体力が余っているのであれば、それをもっと活用して、他人の役に立つようなことを会わせて考えてもらえれば、もっともっと、いい時間になるのではないかと思う
「夫源病」 ご主人が家にいる時間が長くなって、それがストレスで体調を崩す奥さん
女性は意外と外で仕事をされていた女性は家でもいろいろやることは多いが、男性は訓練を受けていないので、(自分で自分の事を出来る人はいい) なんにも出来ないままに家にポンといられるのは、これは困ると思う
一番いいのは家事全般をしっかり教えてもらって、家庭内で役に立つ存在になる事
一人で留守番ができるようになるように鍛えること
奥さんは結構、自分の仲間で旅行に出かけるとかあるけど、私も連れて行ってと言うのが最悪、留守を守り通しますというのが重宝がられる
第一ステージをどう過ごすかが、重要 他人に頼らない 自分で道を切り開く 独立自存
実際に形にするすべ、これをその時期にしっかり身につけるかどうか、が その先も随分中味を決める
施設に入ってきても、結構周りに愛される人になった方がいい
命令口調で、あれをやってくれこれをやってくれと、上から目線でものを頼むのは煙たがれる
②第二ステージ 75歳過ぎ 結構あちことにガタがくる いろんな病気はでる 耳は遠くなる、目はかすむ 歯は抜け落ちてくる、折れる ちょっとしたことで転んで骨折するというようなことが次々に起こる時期
治療を受けてもなかなか病気そのものが良くならない、怪我をすると治りが遅い、寝ている間に別の事が起きるみたいなことで、この時期は ポンコツ車なので、無理して使えば壊れるし、鍛えようと思ってもきしむばかりで難しい
この時期大事なことは、怪我をしない事、無理をして病気にならない事
大事に、大事につかう だましだましつかう事が大事
③第三ステージ 自分の力でけでは日常生活が送れなくなる 認知症になる人も増えて来る
なんらかの形で他人の手を借りて、生活せざるを得ない状況に追い込まれてゆく
先が見えたなと言うのが、最晩年
生きていたいと思うような良き環境を整えられるかどうか 人生の質が問われる時期
基本となるのは快適な生活ができるような環境を整えられるかどうか
介護、他人の助けを得ないと、食事を取る、排泄、入浴をするという事ができないわけなので
体制を上手く整えられるかどうか
いろんな起きてくる、身体の障害、病気にどう対応するか、そこで中心になるのは医療
生活介護、医療が一体的にきちんと対応してもらえるような体制を作れるかどうか
これが人生の最晩年を決めるのではないかと思う
一人暮らしが増えている
他人の世話にならないという気概が無いと、出来ない
自分の力で出来るところまでやるんだという気概、これが自分の持っている能力を最大限に活性化する源だと思う
身の丈の生活 自分の負担にならない範囲で生活をする 風呂を毎日でなくても清潔が保てればいい、食事なども時には自分の気の向くままに食べ、ぬいても構わない
一人暮らしはその気になれば長持ちさせられる
どんな場面でもその気概を持ち続けることが大事だという事です
認知症 75歳を過ぎると認知症の比率が高まる 全体の70%が当院ではある
認知症にならないための努力はしてきたと思うが、なるときにはなる
手先を頻繁に使えば、ならないといわれるが、なる時はなる
もしやりたい事、行ってみたいところがあれば、元気なうちにやる
認知症 最初は軽い 一人くらしができるのが大部分です
皆さんが先回りして、一緒に住むという事をする場合があるが、それは認知症そのものを更に進行させる源と言ってもいいぐらいだと思う
一人暮らしは自分のあらゆる物を動員して生きなければならない環境なので、衰えた精神機能を駆使して生きているので、それなりに生活はできる
認知症の人は過去の記憶が一部欠落して、新しい情報が入らない状況の中で、少ない情報の中で自分なりに判断して、行動している
外から見ると、其れがその場にあってない様に見えるが、本人は一生懸命に考えて、最善の判断をし、行動を取っているので、ここはしっかり認めてあげないといけない
自分としてはベストを尽くして判断し、行動しているのに、なんで文句を言われなければいけないのか、腹立ち、不快な感じにさせられ、そこからいろんな次の問題が出てくる
家族が認知症の人に対応するのが一番難しいのは、其家族と言うのは、お父さん、お母さん
と言うのは偉大な存在であるし、親はちゃんとした人というイメージを持っている、その人のイメージがすこしでも崩れると受け入れられないような感じがあり、これが次々といろんな問題を発生させる(家族の介護の難しさがある)
介護というものは、他人に預ける、家族とは違った目で見られる
家族に対しては意地を張ったりするが、他人だと結構自分の身をゆだねられるという事がある
この辺りは、十分に活用してやっているのが、施設の実態だと思う
私の大好きな言葉に 「我が親を人に預けてボランティア」と言うのがある
私はあなたの親を見るから、あなたは私の親を見て、見たいな仕組みが出来てくるといいなあと思う
人生の終わりに近づけば、近づくほど自分の今まで身に付けた全ての物を、しっかり自分のために使うという精神が大事だと思う
歳をとって残っているのは何かと言うと、人脈、生活の知恵、財産
何かしてもらったら、それに対してしっかりと、感謝の気持ちを表す習慣が大事
「ありがとう」と言う言葉を惜しまず発する事が大事 やっぱり言わないと人は解らない
自分が今まで身につけてきたお金 どう使おうと勝手だが、自分が死んだら、あなた方子供に
遺産としてゆくんだから、俺の面倒を見るのは当たり前の事だと、こういう気持ちになりがちだが、私は何年後かわからないが、纏まった何百万円、何千万円と言うお金よりも、今のうちに何かやってもらったら、感謝の言葉と共に、お金をすこし添えて渡す、これだけで周りの人の動きが全然違ってくる
感謝を形にしてくれる人のところに集まってくる(入院している方にも似たようなことがある)
頻繁に感謝の気持ちを発する人、来てくれたことに評価してくれる人、自分の手元に或る程度おいて置いてこまめに、小分けに渡している人のところには、本当に、お孫さん子供達も引きも切らず、と言う事は結構ある
人の気持ちは微妙なところがある 頭と金は使いよう
不便な状態に陥った時こそ、知恵を出し、持っているお金を存分に使って、豊かに生き切る、
他人に頼らないで、生ききる
最後に近づけば近づくほど、医療の役割は大きくなってくると思う
治療すれば治るのかという判断だとか、今は治療を必要とするのか、医療にかかわればなんとかなるのかどうか、この人に治療をして本当にこの人にとってプラスかどうか、判断を含めて、現代の医学は少しでも長生きをさせる、本人に苦痛が伴っても、医療を施してしまうところがある そこから悲劇的なことが起きてしまうところがある 80歳、90歳の人が亡くなるときに、全身管だらけになり、最後の最後まで家族が遠ざけられて、だめでしたというような事がある
それが本人が望んでいたことなのか、もう一回見直さなければならないと思う
人はいつか死ぬんだし、亡くなった時に本当に大往生であったと、云う風に言ってもらえるような見送り方は非常に大事なことだと思う
人生は終わりよければすべてよし ですから
私の父は 病院開設後 2年目にいれようかと言っていたときに、自宅で亡くなってしまった
母親は92歳の時に、病院に入って6年半いて、亡くなった(99歳、大往生だと思っている)
義母は80何歳で突然亡くなる
義父は認知症になり、最後の3年は気の向いたときに晩酌をして、寝るときには寝るといういい時間を過ごしたと思う
わたし自身が安心して身を任せられる仕組みをどう作るか
家族が望む医療と、本人が望む医療が同じではないと思うので、どのようにギャップを埋めてゆくのかが、課題
食べたい時に食べ、起きたい時間に起きて、お風呂は自分のサイクルで入れてもらう、このギャップをどうして行ったらいいかが課題だと思う
2013年6月30日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(沖縄)
五木寛之 歌の旅人(沖縄県)
初めて行ったのが本土復帰の前 数年前に沖縄の新聞の連載小説を担当した
海がきれいで、砂浜が真っ白 近代日本の歴史のなかでも特色を持った地域
独特の文化がある
「島人ぬ宝」(「しまんちゅぬたから」ビギン 作詞作曲 明るく伸びやかでいながら、内容が重い
民謡酒場が各地にあり、この歌がかかると、踊り出す
相互扶助 人の絆の強いところと言う感じを受ける
「いちゃりばちょうべい」 一回やったらみんな兄弟
仏教の「慈」 フレンドシップ ブラザーと言うような意味と聞いたことがある
「なんくるないさー」 まあいいよ 大丈夫だよ 心がほどけてゆく土地
安らかさの背後には、厳しい自然、搾取とかの中で、生き抜いてきた人たちの絆があるわけだから、難しい
明治以来の歴史とかを考えてみても、ずしっとやっぱり重いものがこちらに伝わってくるところがあるわけですから複雑ですよ
仲宗根 美樹 歌声喫茶から 「川は流れる」 その時代が彷彿するような歌
南さおり 安室 奈美恵
文学 大城立裕 1970年 九州沖縄文学賞を立ち上げる そこから沢山の作家が生まれている 沖縄が上位に入ってくる 目取真俊(水滴) 又吉栄喜(豚の報い)とかドンドン出てくる
九州芸術祭文学賞と名前が変わる 文学的風土の高いところ
ここ数年来 モダンになってきて、沖縄独自の色が薄くなってきていることが気になっている
私は40数年 ずーっと選考委員を続けている
スポーツ 具志堅用高(13回防衛) 宮里藍 宮里美香 諸見里しのぶ 伊良部秀輝 大嶺 祐太
名嘉睦稔 版画家 悲しい時には悲しい歌を聞きたい (老人慰問の時の老人からの話)
さとうきび ざわわ
さとうきび畑 昔はハワイのマウイ島はサトウキビの畑がずーっと続いているそういう島だった
そこへは日本人の移民の方が随分出稼ぎに、さとうきび畑で働く労働者として、来ていたが、その人たちの亡くなった後の墓地があった 広島 北陸 沖縄が多かった
アルゼンチン、ブラジルなどを回ると、沖縄出身の方が沢山いらっしった 世界に開かれた土地でもある
160島があって そのうち49の島に人が住んでいる 亜熱帯気候
「池間の主」 宮古島民謡
失業率は全国ワーストワン 離婚率、出生率が一番
男女ともに長寿日本一だったが、最近は男性が肥満 ランクがぐーんと下がってきた
推測するとアメリカ統治の時代に、ステーキが入ってきて、沢山食べるようになった
揚げ物が多い(長持ちをさせるように) 酒も飲むし アメリカ的な食事をする
食生活の見直しを始める
島豆腐 チャンプルにぴったり 沖縄そば 沖縄の塩 島とうがらし
沖縄の本屋は照明が凄く明るい
女優 仲間 由紀恵 黒木メイサ 満島 ひかり 山田優 比嘉愛未
男性 ガクト フィンガーファイブ キロロ ブギン 等グループが多くある
沖縄 古い昔の根強い歴史を背負った芸能、文化と新しい文化とぶつかり合って、その潮流がぶつかりあう中に、潮目ができて、魚が集まってくるように、ぶつかりあうなかに一つの新しい動きが出来てくるような、気がする
「二見情話」 作詞作曲照屋朝敏 首理に帰るときに、お礼の意味でつくった曲
二見 自然の風景の美しいところ 二見の娘はみんな姿、形がよく、美人
志も、気持ちもとても素直で、いい娘さんたちが多い 二見の自然も海も山も美しいという意味の歌(そのあとに、戦争の話が出てくる その思いが残っていて普通の民謡とはちょっと違う 2番、3番で) 九州の民謡と似ている 五木の子守唄と似ている
民俗学、歴史等を話せば、きりがないが
初めて行ったのが本土復帰の前 数年前に沖縄の新聞の連載小説を担当した
海がきれいで、砂浜が真っ白 近代日本の歴史のなかでも特色を持った地域
独特の文化がある
「島人ぬ宝」(「しまんちゅぬたから」ビギン 作詞作曲 明るく伸びやかでいながら、内容が重い
民謡酒場が各地にあり、この歌がかかると、踊り出す
相互扶助 人の絆の強いところと言う感じを受ける
「いちゃりばちょうべい」 一回やったらみんな兄弟
仏教の「慈」 フレンドシップ ブラザーと言うような意味と聞いたことがある
「なんくるないさー」 まあいいよ 大丈夫だよ 心がほどけてゆく土地
安らかさの背後には、厳しい自然、搾取とかの中で、生き抜いてきた人たちの絆があるわけだから、難しい
明治以来の歴史とかを考えてみても、ずしっとやっぱり重いものがこちらに伝わってくるところがあるわけですから複雑ですよ
仲宗根 美樹 歌声喫茶から 「川は流れる」 その時代が彷彿するような歌
南さおり 安室 奈美恵
文学 大城立裕 1970年 九州沖縄文学賞を立ち上げる そこから沢山の作家が生まれている 沖縄が上位に入ってくる 目取真俊(水滴) 又吉栄喜(豚の報い)とかドンドン出てくる
九州芸術祭文学賞と名前が変わる 文学的風土の高いところ
ここ数年来 モダンになってきて、沖縄独自の色が薄くなってきていることが気になっている
私は40数年 ずーっと選考委員を続けている
スポーツ 具志堅用高(13回防衛) 宮里藍 宮里美香 諸見里しのぶ 伊良部秀輝 大嶺 祐太
名嘉睦稔 版画家 悲しい時には悲しい歌を聞きたい (老人慰問の時の老人からの話)
さとうきび ざわわ
さとうきび畑 昔はハワイのマウイ島はサトウキビの畑がずーっと続いているそういう島だった
そこへは日本人の移民の方が随分出稼ぎに、さとうきび畑で働く労働者として、来ていたが、その人たちの亡くなった後の墓地があった 広島 北陸 沖縄が多かった
アルゼンチン、ブラジルなどを回ると、沖縄出身の方が沢山いらっしった 世界に開かれた土地でもある
160島があって そのうち49の島に人が住んでいる 亜熱帯気候
「池間の主」 宮古島民謡
失業率は全国ワーストワン 離婚率、出生率が一番
男女ともに長寿日本一だったが、最近は男性が肥満 ランクがぐーんと下がってきた
推測するとアメリカ統治の時代に、ステーキが入ってきて、沢山食べるようになった
揚げ物が多い(長持ちをさせるように) 酒も飲むし アメリカ的な食事をする
食生活の見直しを始める
島豆腐 チャンプルにぴったり 沖縄そば 沖縄の塩 島とうがらし
沖縄の本屋は照明が凄く明るい
女優 仲間 由紀恵 黒木メイサ 満島 ひかり 山田優 比嘉愛未
男性 ガクト フィンガーファイブ キロロ ブギン 等グループが多くある
沖縄 古い昔の根強い歴史を背負った芸能、文化と新しい文化とぶつかり合って、その潮流がぶつかりあう中に、潮目ができて、魚が集まってくるように、ぶつかりあうなかに一つの新しい動きが出来てくるような、気がする
「二見情話」 作詞作曲照屋朝敏 首理に帰るときに、お礼の意味でつくった曲
二見 自然の風景の美しいところ 二見の娘はみんな姿、形がよく、美人
志も、気持ちもとても素直で、いい娘さんたちが多い 二見の自然も海も山も美しいという意味の歌(そのあとに、戦争の話が出てくる その思いが残っていて普通の民謡とはちょっと違う 2番、3番で) 九州の民謡と似ている 五木の子守唄と似ている
民俗学、歴史等を話せば、きりがないが
2013年6月29日土曜日
渡辺玉枝(登山家) ・富士山から世界へ
富士は日本一の山 をテーマに甲府放送局がつたえてきた 最後の一時間
皆様からの便り
「富士登山の思い出」
昭和16年の登山の様子 中等学校、学友と3人で登山 当時の日本は対戦不可避と見て軍部を始め、国民の全ての人が緊張した時代だった
まず吉田の浅間神社に参拝、バスで馬返しまで行く、そこからは草履ばきで、杖を頼りに歩く
5合目を抜け出ると、広大な赤茶色の山肌が見えてきた
その夜は8合目の山小屋に泊まる 夜、小屋から外に出ると、富士吉田の町明かりや、暗い山肌に捨てられた空き缶が月の明かりに照らされて、とてもきれいだった
翌朝は暗い中を頂上を目指して、登った
頂上でご来光を拝んだ 綿のような雲の上からオレンジ色の太陽が見えると、その景色の素晴らしさに居合わせた人々から万歳の声も聞かれた
しばらく休んだ後、お鉢めぐり 火口巡りに出かけた
この素晴らしい富士山に夢多き多感な少年時代の私が登山を体験することができ、89歳の今も幸せに思っている
「富士山の氷」
今から70年前 私が10歳のころ 父が一人で富士登山に出かけたときの事です
当時は山形から東京経由で登山口に行くのに、夜行列車を乗り継いで2日半、登山、下山に2日半、帰るのに2日半 合わせて1週間の長旅でした
お土産はなんと富士山の氷 麻布に包まれた 1辺が50cm 長さが1mの氷の柱が車いっぱいに横たわっていた 息がとまる思いでした
考えてみれば、真夏の8月に列車の中で2日も3日も氷が解けないはずは無いのです
後で解った事なのですが、実は隣町の製氷所から買ってきて、子供たちを喜ばせようとした、父の最初からの計画だったようです これが富士山の氷だと子供に感動を与えた父の子育てこそ、日本一の富士山に負けない日本一の親心だと今でも思っています その父は35歳の若さで招集され、フィリピンで戦死しました 恥ずかしながら私も80歳になりましたが、父の足もとまでも及びません
渡辺玉枝(登山家) 富士山から世界へ
富士河口湖町の出身 短期大学を卒業後 神奈川県庁に勤務 1965年神奈川県庁山岳会に入会をきっかけに登山を本格的にはじめ、19977年北米大陸最高峰マッキンリーの登頂その後4810mのモンブラン アフリカ大陸最高峰 キリマンジェロ 南米最高峰のアコンカグアなどにも登頂
退職後は地元に戻り、青木が原樹海のネーチャーガイド 自然の魅力を伝えるガイドをする傍ら
登山を続けて、2002年、世界最高峰のエベレストに、63歳で登頂される
それは女性世界最高齢記録となりました
去年2012年 73歳でチベット側ルートからエベレストに挑戦して、女性世界最高齢記録を更新されました
富士山が世界文化遺産になる 富士山は生れて来て、毎日ずーっと見続けてきた
肉親の様な思いでいつも眺めてきた
故郷に、大きな山から帰ってきて、身の回りにきれいな緑があって、その緑の中にすくっと立っている富士山を見ると、あっ、日本に帰ってきたという、そういう感じを持って、やっぱり富士山はいいなと思います
10年前に、ネパール側からのぼった チベット側は全く環境が違うと聞いて、やっぱり行ってみないと解らないという事で、ルートはどうなっているのかと いろいろな興味をもって昨年行きました
運良く、それほど苦労せずに登れることができた 外国の山 22回のぼっている
22回全部頂上からの景色を見ることができた
高い山は 自分の体調と、隊の組み方によってもよる
1998年 定年の1年前 「ガッシャーブルムⅡ峰」
遠藤京子さんがマナスル、田部井淳子さんがエベレストに登り、田部井さんが一躍有名になる
素晴らしい登山家とも一緒に登ることができた
8000m 4回一緒に登っているカメラマンの村口徳行さんと一緒に登った
シェルパ ネパール人のなじみのシェルパさんがいる 日本語で解るシェルパさんだった
こっそり登って、こっそり帰ってくるのは出来ない時代になった(無線連絡等)
高度順化 1週間かけて行う チベット側は車で5200mのところまで行ってしまうので注意が必要
8000m超えるとかなり急斜面 岩場 滑落すると体がバラバラになってしまうという想いがあった
絹の布(長さ2m~2.5m 幅30cm) 頂上においてくる 3000人ぐらいは登頂している
登頂日 2日おいてあるかどうか 秋は1日あるかどうか 運が結構ある
昨年3月27日 日本を出発した トレーニングはなかなか苦手で、日本ではしなかった
畑で草を取ったり、昔ながらの鍬でやっているので、それがトレーニングかと思っている
山で使う筋肉は違うので、最低一回だけは近所の山に出かける
富士山は毎日毎日 私が小さい頃、用水が流れていて、飲料水をカメに汲んできて、そこで自分の顔を洗ったりする 富士山を眺めて、今日は富士山はご機嫌がいいぞとか、今日は雲がくっついているとか、そんな感じで富士山は日常生活の中に一緒にある山
青木が原樹海の自然の魅力 河口は樹海とは離れているが樹海と言われているところは東京都と同じ面積ぐらいがある広いところ、886年の噴火で溶岩が流れてきて、その上に木が生えて森になったのが、青木が原樹海
富士山の裾野の魅力も、もうちょっと知りたいし、そういう自然を大事にしなければいけないと思って、いろいろ研修とかうけて、ネーチャーガイドもやるようになった
高い山に登るのに、それほど過酷かとは私は思わない
頂上に登ってみると、地球は丸いなあと感じる
1回目は40分ぐらい 無酸素状態を感じた 今回は無理のない程度、無酸素状態を味わった
自然は容赦は無いけど、それを乗り越えた感激はある
もし大人になって、いろいろな国にいけるかも入れないけど、絶対に富士山のふもとから見る景色はどこへ行っても負けないよと、両親から言われたが、富士山はやっぱり素晴らしい
逆さ富士、素晴らしい
皆様からの便り
「富士登山の思い出」
昭和16年の登山の様子 中等学校、学友と3人で登山 当時の日本は対戦不可避と見て軍部を始め、国民の全ての人が緊張した時代だった
まず吉田の浅間神社に参拝、バスで馬返しまで行く、そこからは草履ばきで、杖を頼りに歩く
5合目を抜け出ると、広大な赤茶色の山肌が見えてきた
その夜は8合目の山小屋に泊まる 夜、小屋から外に出ると、富士吉田の町明かりや、暗い山肌に捨てられた空き缶が月の明かりに照らされて、とてもきれいだった
翌朝は暗い中を頂上を目指して、登った
頂上でご来光を拝んだ 綿のような雲の上からオレンジ色の太陽が見えると、その景色の素晴らしさに居合わせた人々から万歳の声も聞かれた
しばらく休んだ後、お鉢めぐり 火口巡りに出かけた
この素晴らしい富士山に夢多き多感な少年時代の私が登山を体験することができ、89歳の今も幸せに思っている
「富士山の氷」
今から70年前 私が10歳のころ 父が一人で富士登山に出かけたときの事です
当時は山形から東京経由で登山口に行くのに、夜行列車を乗り継いで2日半、登山、下山に2日半、帰るのに2日半 合わせて1週間の長旅でした
お土産はなんと富士山の氷 麻布に包まれた 1辺が50cm 長さが1mの氷の柱が車いっぱいに横たわっていた 息がとまる思いでした
考えてみれば、真夏の8月に列車の中で2日も3日も氷が解けないはずは無いのです
後で解った事なのですが、実は隣町の製氷所から買ってきて、子供たちを喜ばせようとした、父の最初からの計画だったようです これが富士山の氷だと子供に感動を与えた父の子育てこそ、日本一の富士山に負けない日本一の親心だと今でも思っています その父は35歳の若さで招集され、フィリピンで戦死しました 恥ずかしながら私も80歳になりましたが、父の足もとまでも及びません
渡辺玉枝(登山家) 富士山から世界へ
富士河口湖町の出身 短期大学を卒業後 神奈川県庁に勤務 1965年神奈川県庁山岳会に入会をきっかけに登山を本格的にはじめ、19977年北米大陸最高峰マッキンリーの登頂その後4810mのモンブラン アフリカ大陸最高峰 キリマンジェロ 南米最高峰のアコンカグアなどにも登頂
退職後は地元に戻り、青木が原樹海のネーチャーガイド 自然の魅力を伝えるガイドをする傍ら
登山を続けて、2002年、世界最高峰のエベレストに、63歳で登頂される
それは女性世界最高齢記録となりました
去年2012年 73歳でチベット側ルートからエベレストに挑戦して、女性世界最高齢記録を更新されました
富士山が世界文化遺産になる 富士山は生れて来て、毎日ずーっと見続けてきた
肉親の様な思いでいつも眺めてきた
故郷に、大きな山から帰ってきて、身の回りにきれいな緑があって、その緑の中にすくっと立っている富士山を見ると、あっ、日本に帰ってきたという、そういう感じを持って、やっぱり富士山はいいなと思います
10年前に、ネパール側からのぼった チベット側は全く環境が違うと聞いて、やっぱり行ってみないと解らないという事で、ルートはどうなっているのかと いろいろな興味をもって昨年行きました
運良く、それほど苦労せずに登れることができた 外国の山 22回のぼっている
22回全部頂上からの景色を見ることができた
高い山は 自分の体調と、隊の組み方によってもよる
1998年 定年の1年前 「ガッシャーブルムⅡ峰」
遠藤京子さんがマナスル、田部井淳子さんがエベレストに登り、田部井さんが一躍有名になる
素晴らしい登山家とも一緒に登ることができた
8000m 4回一緒に登っているカメラマンの村口徳行さんと一緒に登った
シェルパ ネパール人のなじみのシェルパさんがいる 日本語で解るシェルパさんだった
こっそり登って、こっそり帰ってくるのは出来ない時代になった(無線連絡等)
高度順化 1週間かけて行う チベット側は車で5200mのところまで行ってしまうので注意が必要
8000m超えるとかなり急斜面 岩場 滑落すると体がバラバラになってしまうという想いがあった
絹の布(長さ2m~2.5m 幅30cm) 頂上においてくる 3000人ぐらいは登頂している
登頂日 2日おいてあるかどうか 秋は1日あるかどうか 運が結構ある
昨年3月27日 日本を出発した トレーニングはなかなか苦手で、日本ではしなかった
畑で草を取ったり、昔ながらの鍬でやっているので、それがトレーニングかと思っている
山で使う筋肉は違うので、最低一回だけは近所の山に出かける
富士山は毎日毎日 私が小さい頃、用水が流れていて、飲料水をカメに汲んできて、そこで自分の顔を洗ったりする 富士山を眺めて、今日は富士山はご機嫌がいいぞとか、今日は雲がくっついているとか、そんな感じで富士山は日常生活の中に一緒にある山
青木が原樹海の自然の魅力 河口は樹海とは離れているが樹海と言われているところは東京都と同じ面積ぐらいがある広いところ、886年の噴火で溶岩が流れてきて、その上に木が生えて森になったのが、青木が原樹海
富士山の裾野の魅力も、もうちょっと知りたいし、そういう自然を大事にしなければいけないと思って、いろいろ研修とかうけて、ネーチャーガイドもやるようになった
高い山に登るのに、それほど過酷かとは私は思わない
頂上に登ってみると、地球は丸いなあと感じる
1回目は40分ぐらい 無酸素状態を感じた 今回は無理のない程度、無酸素状態を味わった
自然は容赦は無いけど、それを乗り越えた感激はある
もし大人になって、いろいろな国にいけるかも入れないけど、絶対に富士山のふもとから見る景色はどこへ行っても負けないよと、両親から言われたが、富士山はやっぱり素晴らしい
逆さ富士、素晴らしい
2013年6月28日金曜日
眞理 ヨシコ ・四世代を越えて歌い継ぐ 2(再放送)
眞理 ヨシコ ・四世代を越えて歌い継ぐ 2(2013・4・18再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/04/2.html ご覧ください
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/04/2.html ご覧ください
2013年6月27日木曜日
眞理 ヨシコ ・四世代を越えて歌い継ぐ(再放送)
眞理 ヨシコ ・四世代を越えて歌い継ぐ(2013・4・17 の再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/04/blog-post_17.html ご覧ください
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/04/blog-post_17.html ご覧ください
2013年6月26日水曜日
奥村弘(神戸大学大学院教授) ・被災地の歴史資料を守ろう
奥村弘(神戸大学大学院教授) 被災地の歴史資料を守ろう
地震や津波など、自然災害に見舞われた時に、家屋の崩壊や流出と共に、家庭や公民館などに眠っていた貴重な古文書や日記、あるいは民具などが水浸しになったり、破損したりして捨てられてしまうケースが少なくありません
その消滅を出来る限り防いで、次世代につなげていこうという活動を展開しているのが、歴史資料ネットワークです
阪神淡路大震災をきっかけに誕生しました
鳥取県西部地震、新潟中越地震、東日本大震災などの、地震災害だけでなく、台風や豪雨などの災害地にも出かけて、資料保全活動を展開しています
専門は日本の近代史 幕末から明治期の地域社会がどういう風に変わってゆくのかと言う事が専門 阪神淡路大震災以降 歴史の資料をどのように社会の中に活かしてゆくか、学問的に考えてゆくか と言う事で歴史資料学をもう一つの専門にしています
保存品 200箱 点数にして、5万点ある 阪神淡路大震災以前の物もある
歴史資料ネットワークを立ち上げて18年になる
歴史資料と言うと有名な人が書いた書簡、日記を考えることが多いが、地域の歴史資料と呼んでいるのは、身近にあるもの 自治会、町内会が日常的に記録しているが、そういったものが歴史的に溜まってゆくと、地域やコミュニティーを唯一する手掛かりなので、そういったものを含めている(生活を物語るもの あらゆるものが資料になる可能性がある)
阪神淡路大震災で手押しポンプを使って水を井戸から取り出したが、そういったものも保存している
大災害に遇うと一挙に無くなってしまう 家の建て替えなどでも無くなってしまう
災害直後は、人命優先なので、資料保存のタイミングは難しい
活動をやるべきかどうか、最初は議論があった 地域の記憶をなくしては駄目だと、ボランティアが入ってきていた 最後に活動をしてゆこうという事で入って行った
最初は関西の若手 30~50人 その後増えていって100人 さまざまな形で参加してくれる人は300人ぐらいになった
水浸し、汚れてしまったりした資料の保存は? 和紙と墨は水には強い もう一度洗って、伸ばしてあげればちゃんと読めるものとして、救済できる
定着した墨は広がらないでそのまま残る
新聞、キッチンペーパーを使う事がいい あるいは一旦凍らせる(マイナス25度)、その後直接氷を飛ばす方法がある
乾燥するために直射日光は変色、劣化したりするので避ける 日陰干しは可能
人命救助が最優先なので、4日後ぐらいからスタートする
地域に住む方が残さなければいけないと、活動を早めに動くこともある
全国で20ぐらいの団体ができている 東日本大震災 宮城資料ネットワーク、福島、岩手、茨城県でも出来ている
瓦礫の中から家族の写真、位牌、お地蔵さんとか、18年前に比べると定着し始めた
地域の歴史資料に関係するような方、郷土誌にかかわる方、自治体の職員の方と一緒にできるかが要のところであります 3~5人がチームを組むのが多い
村の中心だったところに資料は多くある 古い家、蔵のあるところ
阪神淡路大震災以後 2年単位で震度6ぐらいの地震が発生している
水害の場合は、歴史に関係する資料は 水害に強いところに置かれている事が多い
ところがここ数年間は100年間ぐらい浸かることが無かったのに、浸かってしまったという水害が多いので、活動が増えてきた
津波は今回が初めて、 海水の場合は、(カビに対して強いのではとか、紙繊維の劣化が大きいのではとか)対応を考えて研究している
写真に撮る作業をするも大事 公開出来るものは早く公開する
基本的には全て一定の修復が終われば、その地域の方のところに戻す
ふすまの下張 日常に関したものが基本(領収書とか、地域の当たり前のこととしてやっていたものの書き残しとか) 歴史資料の宝庫
はがし方が難しい へらを使う 形状はそれぞれ地域の人が考える
神戸 江戸時代には水路があった もう一遍見直して、水路を活かした街作りをしようしたときに、被災した資料から、一緒に考えたことがありました
石巻 蔵 古文書が残っていた 津波で周りは何にもない 津波の高さを示す線が残っている
どういう災害だったのか、気がついたら何も残っていないというような事があるので
安政時代 大きな津波が大阪を襲った 大阪市中の半分水没、橋が全部壊れる
河口部分に石碑ができる 経験を伝えてゆく活動がある
歴史資料保全活動は いわば街作りの基礎の部分を作る作業と考えている
ヨーロッパでは結構ある ドナウ川が氾濫して資料が無くなるとかで、地域の資料を保存する活動
江戸時代からの古文書の数は世界でも格段に多い
歴史文化と言うものは、広い分野の方々に支えられて、初めて出来るんだなあと凄く感じている
こういう事ですよと歴史を語りかけるだけではなくて、地域の方々、市民の方が自分で書いたり、作ったりしてゆくという、そういう力が強まってきている
成熟した社会を持っているなあと感じた
70~80歳の方々、大きく生活、日常のありかたが変わっている それをつたえたいという気持ちが凄く強くて、知らない世代に引き継ぎたいという想いが物凄く強い
深いレベルの歴史認識が社会の中でも大事だと思っています
地震や津波など、自然災害に見舞われた時に、家屋の崩壊や流出と共に、家庭や公民館などに眠っていた貴重な古文書や日記、あるいは民具などが水浸しになったり、破損したりして捨てられてしまうケースが少なくありません
その消滅を出来る限り防いで、次世代につなげていこうという活動を展開しているのが、歴史資料ネットワークです
阪神淡路大震災をきっかけに誕生しました
鳥取県西部地震、新潟中越地震、東日本大震災などの、地震災害だけでなく、台風や豪雨などの災害地にも出かけて、資料保全活動を展開しています
専門は日本の近代史 幕末から明治期の地域社会がどういう風に変わってゆくのかと言う事が専門 阪神淡路大震災以降 歴史の資料をどのように社会の中に活かしてゆくか、学問的に考えてゆくか と言う事で歴史資料学をもう一つの専門にしています
保存品 200箱 点数にして、5万点ある 阪神淡路大震災以前の物もある
歴史資料ネットワークを立ち上げて18年になる
歴史資料と言うと有名な人が書いた書簡、日記を考えることが多いが、地域の歴史資料と呼んでいるのは、身近にあるもの 自治会、町内会が日常的に記録しているが、そういったものが歴史的に溜まってゆくと、地域やコミュニティーを唯一する手掛かりなので、そういったものを含めている(生活を物語るもの あらゆるものが資料になる可能性がある)
阪神淡路大震災で手押しポンプを使って水を井戸から取り出したが、そういったものも保存している
大災害に遇うと一挙に無くなってしまう 家の建て替えなどでも無くなってしまう
災害直後は、人命優先なので、資料保存のタイミングは難しい
活動をやるべきかどうか、最初は議論があった 地域の記憶をなくしては駄目だと、ボランティアが入ってきていた 最後に活動をしてゆこうという事で入って行った
最初は関西の若手 30~50人 その後増えていって100人 さまざまな形で参加してくれる人は300人ぐらいになった
水浸し、汚れてしまったりした資料の保存は? 和紙と墨は水には強い もう一度洗って、伸ばしてあげればちゃんと読めるものとして、救済できる
定着した墨は広がらないでそのまま残る
新聞、キッチンペーパーを使う事がいい あるいは一旦凍らせる(マイナス25度)、その後直接氷を飛ばす方法がある
乾燥するために直射日光は変色、劣化したりするので避ける 日陰干しは可能
人命救助が最優先なので、4日後ぐらいからスタートする
地域に住む方が残さなければいけないと、活動を早めに動くこともある
全国で20ぐらいの団体ができている 東日本大震災 宮城資料ネットワーク、福島、岩手、茨城県でも出来ている
瓦礫の中から家族の写真、位牌、お地蔵さんとか、18年前に比べると定着し始めた
地域の歴史資料に関係するような方、郷土誌にかかわる方、自治体の職員の方と一緒にできるかが要のところであります 3~5人がチームを組むのが多い
村の中心だったところに資料は多くある 古い家、蔵のあるところ
阪神淡路大震災以後 2年単位で震度6ぐらいの地震が発生している
水害の場合は、歴史に関係する資料は 水害に強いところに置かれている事が多い
ところがここ数年間は100年間ぐらい浸かることが無かったのに、浸かってしまったという水害が多いので、活動が増えてきた
津波は今回が初めて、 海水の場合は、(カビに対して強いのではとか、紙繊維の劣化が大きいのではとか)対応を考えて研究している
写真に撮る作業をするも大事 公開出来るものは早く公開する
基本的には全て一定の修復が終われば、その地域の方のところに戻す
ふすまの下張 日常に関したものが基本(領収書とか、地域の当たり前のこととしてやっていたものの書き残しとか) 歴史資料の宝庫
はがし方が難しい へらを使う 形状はそれぞれ地域の人が考える
神戸 江戸時代には水路があった もう一遍見直して、水路を活かした街作りをしようしたときに、被災した資料から、一緒に考えたことがありました
石巻 蔵 古文書が残っていた 津波で周りは何にもない 津波の高さを示す線が残っている
どういう災害だったのか、気がついたら何も残っていないというような事があるので
安政時代 大きな津波が大阪を襲った 大阪市中の半分水没、橋が全部壊れる
河口部分に石碑ができる 経験を伝えてゆく活動がある
歴史資料保全活動は いわば街作りの基礎の部分を作る作業と考えている
ヨーロッパでは結構ある ドナウ川が氾濫して資料が無くなるとかで、地域の資料を保存する活動
江戸時代からの古文書の数は世界でも格段に多い
歴史文化と言うものは、広い分野の方々に支えられて、初めて出来るんだなあと凄く感じている
こういう事ですよと歴史を語りかけるだけではなくて、地域の方々、市民の方が自分で書いたり、作ったりしてゆくという、そういう力が強まってきている
成熟した社会を持っているなあと感じた
70~80歳の方々、大きく生活、日常のありかたが変わっている それをつたえたいという気持ちが凄く強くて、知らない世代に引き継ぎたいという想いが物凄く強い
深いレベルの歴史認識が社会の中でも大事だと思っています
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