2013年4月30日火曜日

安藤忠雄(建築家)        ・私と直島の25年

安藤忠雄(建築家)   ・私と直島の25年
1941年 大阪生まれ  高校卒業後、独学で建築を学び 日本建築学会賞をはじめ、数々の賞を受賞 2003年には文化功労者に選ばれるなど、世界的に活躍する建築家です
コンクリート建築で知られる安藤さんが、直島の再生に取り組んだのが、1980年代でした
当時、瀬戸内の島は公害で緑が少なくなっていました
島に緑を取り戻し、文化の島にしようと、いう試みは25年たった現在は、世界の最先端をいく現代アートの島となって、多くの観光客が訪れるようになっています
ことしもこの春から秋にかけて、瀬戸内国際芸術祭が開かれています
島の活性化に取り組んできた安藤さんに25年の歩みを伺います

瀬戸内海には島が2000ぐらいあり、そのうち人間が住んでいるのは、400ぐらい
瀬戸内海は江戸時代から世界中の人が世界一の内海だと言っている
1988年に福武 總一郎さんという人が直島を買った 瀬戸内海に浮いている文化の島を孵化した
卵が産まれた 当時は島は荒れていた   島を文化の島にしたい福武さんは思った
岡山と高松に連絡船があった 岡山から最初の連絡場所が直島
島は荒れていて、亜硫酸ガス等で、禿げている 砂利や石をとって荒れている
美しい海にするという事で、山を美しくしてそのあとに、ホテルや美術館などを造るんだと
美しい棚田、美しい民家を残し、古い民家に現代美術を入れようと言いだした
非常に難しいことだと言ったが、一人の人間の情熱は凄い

大阪生まれ、大阪育ちで、大阪で仕事をしているが、学歴がない人間が、情熱があるからあの人に仕事をさしてやろうと人がたくさんいてくれたので、今までやってこられた
私の仕事は韓国、中国、台湾、アブダビだとか、なんです
ほとんどアジア、ヨーロッパ、米国等もあるが、事務所の全収入の8割が外国 残りの2割があるが、東京、北海道などで、大阪はゼロです

直島は2500人  40万人来る 
1993年 最初1年間に1万人 5年後に4万人 現在は40万人
最初のころは島の人たちは外からいっぱい人が来て嫌だと言っていた
15年後に変わった うどんや、民宿、コーヒーショップをしようと変わってきた
70歳超えた人たちが働く  日本の街作りの見本
安藤ミュージアム(100年前の古い民家を利用) 外から見ると古い民家 中に入ると現代建築
日没閉館 照明がない 自然光で見る 暗くなったら帰る

新渋谷駅 地下30mですが、駅を設計したが 上から入ってくる風と、鉄道が走る風で冷房する
私はアイディアと設計をしたんですが、これを可能にしたのは、いろんな人たちとの提携で造られた
この原点が住吉の住宅 1976年にできたもの 14坪の細長い家に真中が中庭 総工費1000万円という事で、中庭に入ってくる光と風だけで生活する 暖房は自分で考える
家の評判は悪かった 夜中にトイレに行こうとすると、雨のときは傘を差さないといけない
近頃は究極のエコハウスと言われている  これが渋谷駅、直島につながっている
自然がエネルギーになっていることをもう一度考え直したほうがいい

直島  海を綺麗にする 1985年ぐらいから、工場が外国に行くようになった
韓国、中国ベトナムなどへ  空き地には木を植える (10~20cmの苗木)
段々大きくなると養分が海に流れる それでプランクトンが発生、小魚が寄ってくる 
循環型社会であるという事が判った  手島 産業廃棄物を捨てる島 河合隼雄先生(文化庁長官)  中坊さんと私たちが、手島にも木を植えろという事で、ずーとやり続けている
自然を回復させながら、自然と生きてきた日本人の生活の在り方を風景として残してゆきたいというのが福武さんだった  私もそれに乗ってよかったと思う

棚田は美しい  外国人が明治に来た時に、多くの人たちが棚田をああいう風に作っている生活が美しい、細やかな生活が美しいと言っている  美しい風景を瀬戸内海に残したいと思うと同時に、現代美術は購入すると高いから美術家が直島を見て、俺もここで作品を作りたいと
自分で作ってもらうといいと  そういう風にしながらそこにしかできない風景を創ろうとして、割とうまくいく
地中美術館 地下に美術館がある モネの水蓮の絵がある(目が悪くなってきたころの絵)
上から光が入ってくるようになっている  全然照明していない  漆喰壁
モネの絵は自然光でしか見えない  上に上がると海が見える(綺麗な海が)

自分の原点を探す  原点になるものを若い学生は持たないといけない
20代の初めに神戸新聞の社長にどんな本を読んでいるのかと尋ねられ、建築の専門書しか読んでないというと、駄目だ、もっと考える本を読めといわれる
「宮本武蔵」 何度も読み返す 幸田露伴の「五重の塔」 和辻哲郎 「古寺巡礼」「風土」  
自分の原点になる本を持たないといけない
 
自分の原点は六甲山と瀬戸内海  六甲山は100年前 木が一本もない 木を伐採してエネルギーにした  その後植林した 全部植林 調子の悪い時には六甲山を見た
その原点が、本であったり、瀬戸内海、六甲山であったりするが、次の時代の子供たちのためにしっかりした風景を作っておきたいと思ったのが直島の風景だったんです
保育園、幼稚園、小学校、中学校は全部木造で作りたいし  作っている
子供のころは自分たちの感性は木造です 
中心 広い縁側  年齢の違う子供たちが集まって対話をする  縁側で語り合う
芸術を創っている ボランティア 4000人(常時ではないが) だいたい大学生
家も与えない、寝るところも考えてもらうというボランティア (考え方が変わる 家にいると親が全部やってくれる 10人のうち、2人ぐらいは考えが変わると思う)

先の判らないところに挑戦しているのが、芸術家
心でトレーニングすることは大事(携帯電話の時代に)  ともに生活する 自分たちで生活する
ボランティア こえび隊 3年に一回やる 段々増えてきている (いろいろな芸術大学の学生)
劇団も来たりする 演劇者は生命力がある 生命力のある人間になってほしい
お客は100万人(半年) 皆何かを求めている 今まで人生が70歳ぐらいであったのが90歳ぐらいになってきた どこかに行って刺激が欲しい、どこかに行って自分を探したい、どこかに行って美しい風景を見たい、という気持ちがあると思うが、もうひとつの自分を探したい
大体女性のほうが多い 

日本の特徴は長生き 特に女性は元気  大きな力は好奇心 男性はもう寝ていると
益々好奇心のレベルは高くなってきている  目標が持てれば人間は元気に綺麗になってゆく
日本の社会の悪いのは理想がなくなった事  民族の民度が低くなっている
心の中に青春を取り戻さないといけない
20代 こういう事をしたい、こういう事をやりたいこういう風に生きたい もう一回思いだして70代、80代でも十分に青春を取り戻せる訳ですから  100歳まで生きても寝ているだけではね
新しい世界を切り開かなければいけない

東北の大震災で、遺児育英資金「桃・栗育英会」をやっている 
1万円を10年間払い続けている人を探そうと
100人以上申し込んでくる 年で1万8000人 8割が女性  今でも突然100万円申し込む人がいる  子供たちのために自分ができることはと考えて、やるんでしょうね 今では39億円集まった
瀬戸内オリーブ基金 阪神大震災でも育英基金を行った
日本の国に何がないかというと ①ものを決断しない  ②責任取らない ③スピード無い
これではアジアの人たちと付いていけない
韓国、責任感と決断力はある   アジアと共に生きることを考えないといけない

アジア、ヨーロッパの人たちは好奇心旺盛  自分の豊かな生活は金では買えない 
自分の心の豊かさも金で買えない  好奇心しか方法がない
いくらエネルギーがある 食糧、食事もしても何の役にも立たないでしょう
国を元気にするには、個人が大事 個人が元気でないと国が元気になるはずがない
1945年敗戦のあと、1950年代に来た外国人の外交官、商社マンが日本は必ず復活するといった  なぜなら子供の目が輝いている 大人がよく働く 楽しそうだと
お金ではなくて目標があって、目標が自分の青春の心を燃やしていた あの頃元気だった
1980年代 お金が出来てきて、日本人は理想、青春だとかを全部忘れてしまった
お金があれば豊かになったと、いくら立派な洋服、時計 とか身にまとうが
バブル崩壊後ずーっと停滞している なぜかというと青春の心を持った人がいなくなった

中央の東京が元気でないと駄目だし、地方は自分たちで元気にならないといけない
大阪は大阪なりの豊かさ、元気さを取り戻さないといけない
自立心育てる  子供の教育が大事  放課後が大事  今は学校が終わった後は塾に行く
同じような人間ができる  絵、音楽、野球をするとか自分が何をするかという時間を持たないといけない そうしないと自立する心ができない
放課後がない子供たちが突然22歳で、大学を出たとたん、自分で考えていかなくてはいけない

あのはげ山を緑一杯にして、あのはげ山に現代美術があって、世界中の美術家が豹変したいと思ってやってくるという風にしたいと思った 福武さんのその思い、勇気が凄かった 
なしえた原点とは→情熱と持続力  今の日本人は情熱が薄い 持続力がない
木を植える 水をやる 上から水をやると上を向く 
やらなかったら下を向いて地下水を捕まえに行く  あんまり水をやらなかったら枯れてしまう  
日本の子供はどんどん上から水をやるように、自分たちが過保護に育つ いつも上のほうを向く
親のほうの顔をむく  これでは本当のものはできない 
自分の考え方をしっかり組み立てられないといけない

文化交流を通して、日中、日韓 国はぎくしゃくしているが 文化交流で寄与していきたい























2013年4月29日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(下重 暁子作家)

天野祐吉・隠居大学(下重 暁子作家)
NHKの名アナウンサーとしてかつて、活躍  本をいっぱいお書きになっている
さっぱりとして、ぴしぴしと割り切って考える方(男勝りというか)
最近、しょっちゅう着物を着るようになった
俳句についての本を出された 
俳句は江戸時代 連句 そこから発句が俳句になった
108人の俳人がどんな歌を作ってきたかが判る
鷹羽 狩行さんに帯を書いてもらう 「快刀乱麻 天下無敵」と書かれた
この本を読んで判ったのは下重さんは「快刀乱麻」の人だと判った
不良老年の進め  年取ったら不良老年に皆なろうよ  
野坂 昭如さんに不良老年の組合を作ろうと言われた(天野)
野坂さんから 酔狂連という皆で飲んで歩くだけの会をやろうといわれた(下重)
私と安達瞳子さんが名指しされた 私も飲ん兵衛だが、彼女はしとやかな感じだが、あの人は凄い

不良老年のすすめ
第一条 恋をしよう ときめこう (下重・私は駄目なんですが 昔の恋を引っ張っている 会った時はどうしようとセリフを考えていたが、あるときぱったりあったら、「お元気ですか」 だけで他に何も言えなかった 両方に連れ合いがいたが  ときめくのは難しい)
ボーイフレンドの作り方  出会いは老人ホームで
第二条 せめて恋愛気分を楽しむ
第三条 名刺から肩書きをなくせ(これは大事 特に男が多い)
アナウンサーは9年やる ニュースショー  本当はアナウンサーはやりたくなかった
黒田夏子さんは同級生です できれば物書きになりたかったが、女で出版社、新聞社では採ってくれるところがなく、アナウンサーしかなかった
 
NHKに入る 名古屋にすぐ転勤、野際陽子さんに会って二人で酒を飲んで、東京に帰ってきた
当時、荒田寮という寮があって、私たち二人は「荒田のおろち」と言われていた
「隠居」という名刺を作ったが、いろいろあって辞めることにした(天野)
日本自転車振興会 特殊法人だった 一時会長になる (下重)
女が何か役に立てればいいなと思った  必要とされることがうれしい 補助金として社会還元するが、これはいいなあと思った(放送関係の文化に対しての補助金)
競輪のコマーシャルの世界をがらりと変えた(それまでは見たくないようなコマーシャルだった)
このコマーシャルで賞をもらった(2位)
自分を信じてずーっときた黒田さんの生き方に感動する

第○条  電車の中で席を譲る 私より年をとっているような男の方に席を譲られて、ショックを  受けた  (このごろは優先席に行ってしまう)
第○条  年甲斐もなく、何かに狂おう 

人はみかけに依る  見かけに依らないのは、こっちに見る目がない
見る目さえあれば、どういう人かは判る  
顔は中身の一番外側 動き出すと、じわーっと顔に出てくる
男の顔は履歴書 男の顔は変わる

おしゃれは大事 
街に出て買い物をしよう (デパートは嫌い なんでもあるというのは嫌い)
  福袋 どうして購入するのかが判らない 何が入っているのか分からないのに
安心して楽しめる  これは気に入らない  (お年寄りも安心して楽しめますというような乗り物  は、面白くもなんともない)
不良は 自分がある 枠からはみ出すのは、人間としては自然











 

2013年4月28日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(岐阜県)

五木寛之・歌の旅人(岐阜県)
100回以上行っている 飛騨、美濃 有名な川と山がある  山紫水明
歴史も古い 壬申の乱 関ヶ原の戦い  稲葉山城(岐阜城)
野口五郎岳という山があって 野口五郎の名となる  「私鉄沿線」
大垣は  江戸時代で一番寺子屋が多かった所  江戸時代末期は武士でも農民でも、商人でも、女子でも 一緒に学んでもよいといわれている (信州の影響があったのではないか?)
念仏の土壌の深いところ 郡上踊り 越中風の盆  もともとは基本的には念仏踊りから出てる
江口夜詩 戦後「あこがれのハワイ航路」 等 大ヒット 「赤いランプの終列車」
円空 全国回って彫った  斎藤道三、明智光秀 坪内逍遥、島崎藤村 早船ちよ 北川悦吏子
山本寛斎 朝井 リョウ 日比野克彦 
織部賞  古田織部 モダンなアーティストに対して  土取利行(演劇音楽) 
立光学舎     
岐阜の持っている古い歴史と伝統の中に、新しいものをはぐくんで育てていこうとする気風があるんだなと実感して、それでここを活動の拠点にしようと立光学舎を作ったと思う
篠田正浩(映画監督) 松竹に入る  高橋尚子 森祇晶 高木守道
長良川慕情 奥飛騨慕情 飛騨のつり橋(山口百恵 歌 あまり世に知られていない珍しい歌) 
高山 短編小説を書いた覚えがある  高山祭  外国の人も多く来る
白川郷  世界文化遺産     美濃紙 紙作り   長良川の鵜飼(鵜匠 世襲制とのこと)
中条きよし 「わけ」   
日本三大巨桜  淡墨の桜(宇野千代作品題名にもある) 樹齢1500年
50周年(五木寛之) 「流れゆく歌」音楽アルバムの中に 最新作として「淡墨の桜」 を作詞する
木曽檜  
知る事はその街に親しみを感じる











  

2013年4月27日土曜日

八名信夫(俳優76歳)      ・悪役だからこその面白さ難しさ

八名信夫(俳優76歳)   ・悪役だからこその面白さ難しさ
プロ野球・東映フライヤーズ(日本ハムファイターズ)にピッチャーとして入団しますが、試合中のけががもとで3年で選手生活を断念、映画俳優に転向します  昭和58年に悪役商会を結成、映画やTVドラマで数々の悪役を演じてきました
最近では朝の連続TV小説「純情きらり」でおじいさん役など出演し幅広く活躍しています

俳優生活55年を迎える  岡山県出身  悪役ばっかりやってきた
いろんな方との出会いがありました いろんな職業のかたとかと話をしてきました
人の味というものを教わりました
米軍の兵隊がキャッチボールをしているのを見て、面白いと思って軍手を数枚使ってミットを作ってもらって、遊んだ  それが野球への道の元となった
高校は秋山、土井が下にいた
腰の骨を折ってしまう  東映から俳優のほうに行けと言われる
東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博さんから言われる

当時背の高い俳優がいなかった 俳優の勉強した  
最初は新人は俳優座に半年間勉強させられる  現場で勉強させてもらう事になる
一日400円で、なかなか生活がやっていけなかった(時計とか、いろんなものを売った)
俳優を止めようと思った時があった  野球の時代は月給5万円(大学の初任給が6000円ぐらい)  いつ辞めるか考えていたが、顔が映る場面に出ないといけないと思った
監督に身体の小さいのが倒れるより、俺が倒れたほうが迫力があると訴える
ではやってみろと言われた  
倒れこむ瞬間に砂埃がバーっとでて、迫力あるシーンが撮れて、監督等に認められた  
馬に乗って追うシーン(馬に乗った事は無かったが乗れると偽ってでる) 
後ろ姿だけを悪役は映される  
馬が倒れて、俺も倒れて、スタッフが寄ってきて、先に馬に気を使った

悪役で勝負 すぐに悪役は死ぬので、すぐに次の仕事ができる  月3回死ぬ
役作り 洋画を見て研究した 悪役で俺が一番帽子が似合う
生活ができるようになったのは20年ぐらいたってから 役がつくと3000円貰えた
40年近くたった時 個室をもらえるようになる 名前も大きくなるようになる(5秒ぐらい映る)
母親が悪役はいいから善人役をやれと言われるが、スナックで数人で歌っていたら、60代のおばさんから、今映画がつまらないのはお前らがちゃんとした芝居をやらないからつまらないんだ、主役にこびているじゃないか、もう一回使ってくださいという目が画面に出ていると言われた  
タクシーで待つ間にそのことで話をした

焼け火箸を腹に刺されたよ  実際にこびてたよ そういう目をしていた(また仕事くださいという)
賛同してくれる人間だけで作ろうと思った   「悪役商会」を立ち上げる 
施設訪問する  日本全国 養老院とか まず庭を掃除しながら、回ってきた
明治大学の監督だった人から言われる
ありのまま 媚びない 飾らない 
人に好かれるという事はいいことだが、好かれようとして、生きて行くな
人に媚びて、人が何かやってくれるのを待つな、 自分からやれよ   財産になった



2013年4月26日金曜日

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの 2

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの
「凍」「一瞬の夏」などの作品の本が完成してからも続く、もうひとつ物語を中心に伺います
そこからはノンフィクション作家の沢木さんの生き方が見えてきます

登山家の夫婦を取材 山については全く経験のない人間だったが、山野井泰史さん夫婦がヒマラヤの8000m近い山に登って、下りて という時にかなり厳しい雪崩にあったり、してるうちに凍傷にかかって、日本に戻ってきたときに、手術を受けて 泰史さんは指4本 妙子さんは最初の関節から指10本 失うとかの状況になっているんだけれど、知り合いに一緒にお見舞いに行きませんかと言われた(知り合いではなかったが私の読者だと言われて行くことにした)

全然2人とも普通で、無理に自然にしているのではなく、嘆いたってしょうがない、今ある状況の中でどうやって生きていこうかと、言う感じがきっちりとあって、凄くかっこいい人だった
私が却って2人のファンになってしまった  その後付き合いだした  
1年後にもう一度山に行かなくてはいけないという事になった(その時に投げ捨てた荷物はごみに過ぎないと、そのゴミを引き取らなくてはいけないと、拾わないと登山は完結しない)  
一緒に行こうかなと言ってしまった

夏に富士山に行くことになる  スーッと上る事が出来た
「息は吸おうと思うな、吐こうと思って吐いてくれ」と言われた 
シェルパは強く吐くそうすると吸わなくてはいけない     
測候所に泊る事になる(山野井さんと測候所の人は知り合いだったので)
へモグロビンが血液中の空気と結びついて空気を身体中に送る 
へモグロビンが酸素と結び付きやすいと、酸素が大量に送りやすいので高地に強い
山頂に長い時間いると高山病にかかりやすいといわれるが、大丈夫だった
その秋にヒマラヤに行くことになる
5000m超える時には順化を普通やるが、大丈夫じゃないのと言われて行ってしまった
5500mにテントを張って、翌日荷物を二人は探しに行く 私はぼんやりそこで過ごす
そこでまた一泊するが、高山病になるのか心配はあった

帰るときに頭がクリアになった(ミニ高山病になっていたのかも)  これを書いてみようかなと思った
取材側に入っていく方法が違う  取材を徹底的にやる(三人称) のと 一人称 徹底して一人称として見る人間、を見つめる  私ノンフィクション 風、空気の流れまでも自分が肌で感じる物を文章として提出するというもの 
最初に完成系として出来たのが「一瞬の夏」という作品
「テロルの決算」では綿密に資料を集める 浅沼稲次郎山口二矢 二人の人物像が浮かび上がってくる

「一瞬の夏」はボクシングの元チャンピオンが30歳を前に、もう一回、再起をかけようとする
カシアス内藤  文章を書こうと思って始めたことではなかった
見るだけではなくて何かをするという願望が強かったような気がする、それがカムバックすると言ったときに内藤さんに手を貸す事が私にとっての、見るだけのものではなくて、何かするもの、行為をするものとしての 自分自身の主体を自分が満足する事だったと思う
作りごとではない(凄いこと) 内藤さんの願望だけでなく、私の願望でもあったと思う
1年間の写真を仲間が撮ってくれていて、それをスライドで見せてくれるというので、家に行って見ているうちに、凄い物語だなあと感じて、彼の写真集を出すことになり、短い文章を書いたが、朝日新聞に書くことになり、カシアス内藤の1年間を書いた

その後、ジムを作り、息子のボクシングプロデビューまで関係が続いてゆく
カシアス内藤はボクシングから退いた後に、いろいろ苦労して(いろんな仕事に赴いたり、妻を亡くしたりして生活にも苦労した)いたが、彼には人に教えるという能力にたけていることを発見した
「一瞬の夏」を少年院で読んでボクシングをやりたいという少年がいた その若者が新人王になる
日本タイトルマッチをその少年がやる事になる (一度は敗退したが)
内藤は若者を預かる事になる 1ヶ月間 内藤がジムで教える姿を見て、教えることの才能をそこで発見した  一つのことを週に一回だけ教えて行った 
勝って日本チャンピオンになったが、周りの誘惑に負けて、崩れてゆく  
フェードアウトして俳優になるが、そこでも又問題を起こして、崩れてゆく 
カシアス内藤が喉頭がんになり、急がなくてはと、ジムをバタバタと作る事になる
抗がん剤と放射線治療(食欲はあった)でステージ4のがんはそのままで、8年たったが生きている

息子がボクシングで高校のインターハイに出るようになり、プロに転向する
現在、活躍している
取材している相手、テーマが時間が感じられないぐらい、ずーっと一緒にある
果てしない長さで付き合いがある(小説の対象者の息子さんだとか、娘さんだとかとの付き合い)
山野井さんとアンデスに行きたいとの思いがあるが、1カ月間、時間がとれるだろうかと考えてしまったりする(若いころならば一つ返事で行こうと思ったと思う) 
あとどのくらい仕事ができるだろうか、考えるときもあるが、年がら年中考えているわけでもないので、ひょっとしてアンデスに行っちゃうかも知れない

偶然に対する信仰があって、偶然が常に何かを切り開いてくれるような、気がする
偶然に柔軟に対応することで、私の人生は動いてきた
偶然に対してかたくなにならない、偶然に対して柔軟にリアクションすることが、私の人生をこういう風にしてきた最大の理由だと思う
その時の偶然の出会いにきちっと、反応できる柔軟性、しなやかさをもっていたい
偶然性を楽しむ、偶然に反応する自分も楽しむ、そこで切り開かれた世界も楽しむのをできたら、結構面白い










2013年4月25日木曜日

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)   ・ぼくが追い続けてきたもの
大学卒業後、間もなくフーリーランスのライターとして執筆を始め、「若き実力者たち」「敗れざる者たち」などの作品で注目され、1979年、「テロルの決算」で大宅荘一ノンフィクション賞 1982年には「一瞬の夏」で新田次郎文学賞を受賞、2005年にはフィクションとノンフィクションの垣根を越えたといわれる作品「凍」で登山の極限状態を描きました

著書「キャパの十字架」について  
戦場カメラマンのロバート・キャパの出世作 「崩れ落ちる兵士」を巡ってのドキュメント
旅を追っているような、推理小説のような 感じのもの
スペイン戦争で取られた作品 (写真) この写真があまりにも見事な写真(兵士が倒れかかる写真)  1936年に撮影  キャパは40歳ぐらいで亡くなっている

山登りで高い山に登った時には、当人が登ったというならば、それを信じようという事になっている   戦場で撮った写真も同様に思われてきた  
しかし本当にそうなのかを調べた所、疑わしいと思われる事があった  私も信じていた
ロバート・キャパの伝記が出版された その人を私は知らなかったので、興味を持った
「ちょっとピンぼけ」 を読んでキャパは私に似ているなと思った
(ある種のいい加減さ 自然に溶け込む姿)

20代の初めに若くして世の中に出て行った 私も22歳のときに、物書きとして世の中に出て行ってしまった  ノンフィクションを書く  
取材をして書くわけだけど、観る人間であって行為をする人間ではないわけです
キャパもいろんな現場に行って(戦場の都市、難民とか)写真を撮るのですが、行って見るだけ、撮るだけ何もできない、何もしてあげられない という悲しみがロバート・キャパにもあったみたいで
ほんのちょっとだけ、「ちょっとピンぼけ」の中に文章が出てくる
私はそれに反応したんだと思う(思いが心に奥底に残っていた)
キャパの伝記を翻訳することになる(物凄く大変だった)

ノンフィクションを書くときに、話を聞いたり、調べたりすることで、ノンフィクションが成立するが、この本の翻訳もノンフィクションだと思うと思った 判らないところは教えてもらおうと思った(永井順小田島雄志・東大教授、ドウス昌代・作家(ご主人がピーター・ドウス スフォード大学の教授))
3人にいろいろ教えてもらいながら、翻訳を進める(それでもいろいろ苦労しながらであった)
ノンフィクションを書く作業、取材作業そのもの、のような感じだった
もう一冊 キャパの決定版の写真集が出来たので、それも翻訳してほしいとの依頼があった
翻訳はそれほど問題ではなったが、今まで何にも不思議にも思わなかったが「崩れ落ちる兵士」
の写真を見たら、「あれっ」と私も思うようになった(これは本当に撃たれたのかなと疑問を感じた)伝記に、「崩れ落ちる兵士」の2枚の写真が掲載された雑誌のページを載せている

それを見ると倒れてゆくプロセスみたいに見えるが、違う人 一枚でも難しいのに、しかも同じ場所
おかしいと誰でも思う (しかし証明はできない  蔭口では流布されていた)
ウイラー(キャパの伝記作者)はおかしいけれども、いいんじゃないかと、私の言い方で逃げた
私は納得しなかった 翻訳は完成して、世の中に出た
「崩れ落ちる兵士」の写真については心残りになった
キャパの写真を撮った場所に行って同じアングルで撮ってみたいと思った
キャパの事に対して雑誌に連載するという話があり「崩れ落ちる兵士」の現場に行ってみようと、行くことになったが、途中でいろんなことが判り始めて、連載しようとしていた雑誌にはこのことは入れられないと思った ( 確かめてゆくと壁に当たったりして、ちょっと後退、又かんがえなおすと先に行っていたり)

本当のことを突き詰めるのは、本質的に彼を傷つけるとは思っていなくて、むしろ本当のことをあきらかにすることを望んでいるのではないかと思っている
彼はもういいんじゃないかと思っているかも知れない
ロバート・キャパは1903年生まれ 生誕100年(生きていれば森繁さんと同じ)
「キャパの十字架」 でほぼ証明されたと思う さらに「崩れ落ちる兵士」の写真を撮った場所は違っていて、そこから50km離れたエステホという村だとの事(スペインの大学教授が突き止めた)
確かに山の稜線がぴったりと合った   キャパの撮った写真をクリアファイルに入れて、エステホ村を何時間も歩いて、あるときに写真を見て、キャパが撮った写真ではないのではないのかと思うようになった

あの写真は撃たれていない、だから死んでもいない もしかしたらキャパではなくて彼ではなく彼と一緒にいた恋人(ゲルダ・タロー)が撮ったものではないか、かなりその確率は高いだろうと思う
(恋人は半年後になくなる) キャパは沈黙するようになったのでは
その時22歳のときで23歳のときには最初フランスの雑誌に載り、アメリカのライフという雑誌に載って有名になった  金のない無名のカメラマン  たまたま滑った所の写真でそれは恋人が撮った写真だとはいえるだろうか、そうとは思えない
(自分の手を離れて有名になって、なかなか言えなかったのでは  黙るという道を選ぶ)
NHKスペシャルでCGで崩れ落ちる兵士の状況を再現してもらった
ちょっと違った事もあり、どちらがただしいのか今後もっと検証してみたいとも、思っている



















2013年4月24日水曜日

池谷栄治(医学部生命科学科22歳) ・太陽の光を避けながら生きて

池谷栄治(医学部生命科学科22歳)  ・太陽の光を避けながら生きて
紫外線を浴びると皮膚が炎症を起こし、悪化すると肝臓にも障害を起こし、最悪の場合は死にもいたるおそれもある病気です
太陽の光を避けるため、一年中、長袖長ズボンを着たうえで、手袋、マフラーなどを身につけて生活している患者もいます
この病気を患う、池谷栄治さんは自分の病気とより向き合うため、免疫や神経など、生命科学に関する研究を続けながら、国の難病指定を求める活動を行っています  

医学部生命科学科の研究 山中先生のようなiPS細胞を使った研究や、免疫、神経そういった生命科学の生命の根本を研究して、今後の医療の発展につなげていこうという学科だと思っています
病気 小学校の2年生の時に身体の異変に気付く 晴れた日の運動会の終わって家に帰った後に、皮膚にいたみを感じて、その日は氷で冷やしたが、その翌日は顔、腕など日光に当たったところが、パンパンに腫れあがって、それが最初の発症です
皮膚の内側から針で刺されるような痛み  近所の病院に行ったが、とりあえず日焼けのひどい状態ではと、氷で冷やすようにとの指示だった
小学校4年生の時に、母が神戸大学の医学部の教授の方に、自分の子供たちの症状を話すと骨髄性プロトポルフィリン症であることを告げられる

ポルフィリンとは血液の赤血球に含まれている酸素を運ぶ働きをするヘモグロビンが作られる過程が途中で止まってしまい、ヘモグロビンにならずに発生する物質がポルフィリンです
ポルフィリン患者の私は日光を浴びることに依り、ポルフィリンが紫外線を吸収し、反応することで針で刺されるような痛みを発生して、ポルフィリンが毒素に変わり、肝臓にたまり、肝硬変や肝不全となり、最悪の場合は死に至る病気です
今は長袖、長ズボン、手袋 帽子、黒いマスク、マフラー(夏場はタオル等)という格好になる
病名を知った後では、自分だけこのような格好なので、周りの友達とは違うと感じて過ごしてきた窓ガラスは紫外線防止フィルムを張って、カーテンで覆うという様な処置を学校でしてもらった
体育は別行動で、室内で過ごす(残念なおもいであった  自分を納得させるようにした)
初めて観る人は、変な格好をしていると、好奇の目線や言葉もうけた

小学校6年のとき 放課後鬼ごっこをしているときに、隣の小学校の児童に見られて、不審者が小学生を追いかけているという通報があった 
誤解を解くためにその学校に行って(校長、担任、と私の3人で) 全校集会での説明をするはずであった
40名近いクラスメートが一緒についてきてくれた 2人の友達も発言してくれた
風邪などの病気と同じだと説明してくれる   彼は最高の友達ですと、いやなことを言ったりすると僕も嫌な気持になります、ですから嫌な事を言うのはやめてくださいと等々の話をしてくれた
クラスメート全員が応援してくれた 彼らの気持ちがありがたいと思っています
中学、高校で自分の知らない人たちに、説明するのに、小学校の時の応援のおかげで、説明する事が出来たと思う
クラスが変わったり、合同授業では理解しないでカーテンを閉めない事があったりしたが、その時に友達が病気の事を説明してくれたりして、室内の対応してくれた
ポルフィリン症は国の難病指定されていない そのため誤診や治療法、根本的な研究がまだ進んでない状況にあります

国の難病指定をしてもらって、治療法、研究が促進されるように、難病指定にしてもらえるように署名活動を行っています
難病指定になると誤診が少なくなる(医師の認識が広がる) ポルフィリン症の研究が進むことによって薬や治療法など根本的な研究が進むことがあげられる
認知度が上がる事によって健常者の認識度が上がって、心のない言葉や好奇な目線がなくなり患者の活動の幅が広がる
5年間で55万人以上の署名が集まる おととしから2回厚生労働省に署名を提出した
現状 厚生労働省からの難病指定というのは、まだ受けていない
自分より幼い人が同じ病気になってるのを全国から聞いているので、あるいは家から出られない人がいるので自分が前に立って、動ける自分が、病気を知って貰おういう気持ちで立っています
署名 北海道から九州まで多くの方が署名してくれている

鳥取県が58万人 55万人はほぼ鳥取県全員と同じ人数  感謝の気持ちでいっぱいです
署名の数もやっぱり大事ですが、それ以上に認識、社会のこういう病気があるんだという認識があれば、もっともっと難病指定(ポルフィリン症以外の難病を含めて)
自分がこれまで生きてこられたのは、地域の支え、家族の支え、学校の支え、もちろんですがそのなかでも、大半は学校の友人と生活してゆく時間が多かったので彼らの支え、助けてくれるという彼らの力に本当に助けられて生きているなあと感謝しています
医学の世界にいるので、ポルフィリン症をしっかりと自分の中で理解し、医学的な知識と認識を持って他の人達にどういう病気なのという事を聞かれたり、質問をされたりするときにしっかりと判り易く理解してもらえるような言葉で説明できるように、自分の病気であるポルフィリン症
をしっかりと理解して勉強していきたいと思います

自分の置かれた状況をしっかり理解して、病気も理解し、ポルフィリン症は友人の支えを教えてくれたり、いろんな方の支えや応援を教えてくれたものでもあるので、しっかりと病気をうけ入れ、そういった方々の努力に恩返しができるような、将来に進めたらいいかなと思います
病気を知った時は嫌なものだなと感じていたのですが、自分に、今進んでいる大学や、将来のためにどうしたらいいかという事を、このポルフィリン症が強く影響してきて、人格、考え方がいい意味でも悪い意味でも影響してきているので、自分の中で受け入れて、将来の進むべき進路に進んでいきたいと思います