2013年3月31日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(茨城県)

五木 寛之
関東は古代から文化が栄えていたと最近の歴史はわかってきつつある
野口雨情 たくさんの童謡を作っている
「シャボン玉」「赤い靴」「あの町この町」・・・「船頭小唄」
さびしげな状況がある
シャボン玉には2歳の子供をなくしたことを詩の中に現われている
岡倉天心横山大観 
「潮来花嫁」
京都の貴族文化がダイレクトにはいってきたといわれる(短歌が栄える)
長塚 節多田富雄深作欣二 梅宮辰雄 香川京子 柳生博 栗山千秋
昭和7年ぐらいから旧満州に開拓民が入ってゆくが、屯田兵みたいな形で満州に行く
少年満蒙開拓義勇軍という少年たちも大陸に雄飛して王道楽土を建設せよと、おくりこまれて
日本という国の帝国主義の発展の中での、基地でもあった
相撲取り 常陸山、武双山、水戸泉、稀勢の里 片山慎吾(ゴルファー)
納豆が有名
吉田正 日本の音楽の巨峰  「寒い朝」(吉永小百合)・「再会」(松尾和子)
ステッセルのピアノ  ステッセルが乃木大将に送ったといわれるピアノが保存されている
(他にもこれがそうだと言っているピアノがあるが、はっきりとはしていない)


  



2013年3月30日土曜日

緒方正則(73歳)         ・人生聖書に導かれ

緒方正則(73歳)      人生聖書に導かれ
40年ほど前 大企業に勤めながら、大阪、片野市にキリスト教の教会を作り、25年余りにわたって月曜から金曜はサラリーマン、週末は長老として、信者に説教をおこなう伝道師として
2足のわらじをはき続けて来ました
会社を定年退職してからは、神学校に学び資格を取って自ら作った教会の牧師になりました
巡回説教者として関西や四国の教会に出かけて説教をおこなっていたが、現在は徳島県鳴門キリスト教会牧師をしています  
聖書は生活上の教えが見られる必要書といわれます
私の家は仏教の家で祖父が熱心な仏教徒だった  初めて教会に行ったのが27歳の時だった
組織の中で働いていていろいろ摩擦があったりした 
中間管理職で良くしようと動いたつもりだが、私がかき回しているのではないかと気が付く
聖書が指摘するのは偽善 を戒める
貴方は人の欠点ばかり見つけて、文句を言うけれど他人の小さな欠点に目をつけて騒ぎ立てるが、自分自身の大きな問題点があることを
貴方は気が付いていないのではないか とばっさりやられる
自分の本当の面に対する目が向くようになった

妹が27歳で死んでしまった 子供が一人いた それを見ていて、人間にもっと希望とでもいいますか、そういうものを提供できないかと
考えた  妹の死を引き金に何かしようかと考えた  何かというのが教会ということになる
死に対する克服が何かお手伝いできないかと考えた
妹に対し、病院に聖書を持ち込み、病気が発見されて3か月だったので 何かを発見できるのではないかと考えた
一粒の麦が地に落ちて、死ななければ一粒のままである しかし死ねば大くの実を結ぶであろう
妹の死を一粒の麦にしようと思った 何かここで教会活動を起こすことで、それが多くの実りという事に繋がるのではないだろうかと
考えた
半年後に教会を始めることになる  私と大学生がいて、家内 3人で始めた
最初借りている家がありそこを使っていた 次に自治会が集会場を提供してくれる
後押しがなかったら続けられなかった  その後家を購入する
週一回の礼拝 一時間ぐらい 聖書の説明を20分から25分ぐらい説明の準備をしなくてはいけない
難しいところがあっても飛ばせないので調べなくてはいけないので、準備が大変だった  
時間が大変
周囲の人の理解がないとなかなかできない 幸い私の場合はめぐまれた
仕事の関係で来られない時があったが、原稿を書いてFAXで送って代読してもらったこともある
一回として休まずにやってこられた  
大局観を見る力 いざ問うときの判断力 度胸 そういうものが欠けていると
感じたが、それが聖書を読むことによって、教会活動をすることによって与えられた

乗るかそるかの時がある 何に頼るかということになると、日常的な活動 教会との取り組み
具合 そういうものから
身についてきたことがいつの間にか言っているように感じる
まわりのひとたちの理解はかかせなかった
妻は毎週毎週 来たひとの為に食事を作ってくれた
牧師になって、念願のという気持ちはない  
先に実践をやってしまった関係で思いつめた気持ちよりは、やらざるを得なくなったというような感じが強い 

牧師やるようになる前 ボランティアというかやめようと思えばいつでもやめられる環境にはあった
牧師になるということはボランティアではない、引くに引けない 責任がある
これは自分がやらなければならないというような感じ
ここで残りの生涯を使っていこうという感じ
実用的な、生活上の教えはあちこちに散見される 自分ではなかなか発見できないないので、
それを
みなさんに 知ってもらいたいと思う
「小さいことに忠実な人は大きいことにも忠実である」
日常のことをほったらかしにして、聖書を読んでいてもしょうがない
危機管理 どういう気持ちで毎日の仕事に当たってゆくか 心構え、気構え
「明日のための心配は無用です 明日のことは明日が心配します  労苦はその日その日に
十分あります」
いやなことから逃げない  今日の仕事は今日終えてしまう 明日に延ばさない
気の進まない仕事 それから先に済ませる
「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと心配したり また体のことで何を着ようかと
心配してはいけません

命は食べ物より大切なもの、体は大切なものではありませんから」
ふつうはこの反対  しかし あなた方にとって本当に大切なもの 
あなた方が気を取られている 着物どうしようか 食べ物をどうしようか 
毎日毎日考えているが それだけでは人間として生きていて
ちょっともったいないなあ と もう一歩出ていきたい 出て行った先に何があるか
聖書の中にある  
そういうことを考えると 自分は今日一生懸命生きればいいんだ
明日のことは明日考える  それが大切だと思う
自分ができる範囲で、自分の今いる場所で今ベストを尽くす  
こんなことではないでしょうかね

宗教は怠けものを作るのではないかと考えているという誤解があるのではないか
これからの日本の社会が求めている人材を実は宗教が作り出してゆくべきだと考えている
宗教は逃避だとよく言われるが、これはそうではないと思っている
逆に足場を作ってくれる 積極的に生きてゆくために足場を作っていると思う
宗教は縛るからいやだ ということがあるかもしれない
よく考えてみると何が自分を縛っているかというと、それは宗教ではなくて、その人の欲ではないと欲に縛られている
それが私たち人間の普通の姿ではないかと思う

束縛から解放する それが宗教の働きの大きな一つだろうと思います
宗教というと冠婚葬祭専用のように思われいることが多いのではないのか
あるいは冠婚葬祭という場所に押し込まれているような気がする
もっと宗教が働くというか、社会的に機能する場がもっと作られていってほしい
引き出すときなんじゃないかなあと思っている今こそ宗教の力を
日常の生活と宗教が離れていないで、毎日の暮らしに近いところで宗教が捕らえられれば
いいなあと思います

一つの形が聖書の中にこんな言葉ある と日々の生活のヒントになりアドバイスになるわけです
それを見落とさないで生きたいと思っている

2013年3月28日木曜日

木村健(童話作家)       ・疎開児童が見た特攻隊

木村健(童話作家)  疎開児童が見た特攻隊
1945年満州・武淳の生れ 童話作家として「トロッコ少年ペドロ」 「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」など
の作品があります
下北沢近郊に埋もれている文化を発掘する北沢川文化遺産保存の会の幹事を務め、
これまでに坂口安吾萩原朔太郎斎藤茂吉などの近代文学を代表する作家の足跡を訪ね、
下北沢分子町文化地図を表しています
5年前木村さんの作家活動をささえるブログに昭和20年頃長野県広岡村で歌われてきた唱歌を
知っている方はいませんか、という問い合わせ
があり、これがきっかけとなって、疎開児童の鉛筆部隊の取材が始まりました
去年、「鉛筆部隊と特攻隊」というタイトルで疎開児童と特攻隊員の交流した著書を出版しました
昭和20年3月27日 68年前の出来事 特攻隊の兵士が沖縄の慶良間諸島で敵の艦船に突撃した
日なんですね
米艦船にこれが突撃する場面 岡本喜八監督の激動の昭和史沖縄決戦にも出てくる 
沖縄戦の象徴的場面 疎開学童が泣いた 子供たちと特攻隊とは触れ合っていた
東京世田谷の代沢国民学校の学童が空襲を避けるために、昭和19年に浅間温泉に疎開する
このときに引率の先生の一人がこの部隊を鉛筆部隊と名前をつけた
次にその彼らの宿泊旅館に特攻隊員が偶然にやってきて、一カ月滞在してともに暮らした
学童には思い出ふかい兵士だったので悲しんだ

このようなことはほとんど記録になく特攻隊が松本にいたことすら忘れていた
鉛筆部隊 鉛筆で戦えと指導された 親への手紙を書くとか、兵隊への慰問、日々に日記をかくとか
記憶にしっかりと覚えてる 特攻兵18歳から20歳志願の若い人 
特攻隊というのは満州の新疆で編成されている 満州国皇帝の溥儀に謁見している
特攻隊4隊が編成される 2隊 陸軍松本飛行場に飛んできた
特攻機というのは機体を改装する必要がある 250kgから500kgの爆弾をつりさげて敵艦船にぶつかる
爆装改装といわれる これを当初は岐阜の加賀見原で行なわれる予定だった
しかし名古屋空襲があって、松本飛行場に避難した

ここで爆装改装を行うことにして、その間浅間温泉に特攻隊が滞在した
このときに疎開してきた学童と遭遇することになる
学道にとっては憧れの存在だった
泥んこになって子供たちと一緒に遊ぶ 触れ合うことによってつながりができて結ばれて 
出撃命令が下されて壮行会が行われる  このときに歌った歌詞が偶然覚えている人がいて記録ができた
「明日はおたちか、松本飛行場 さーっと飛び立つ我が愛機 かわいい皆さんの お人形を乗せて
わたしゃ行きます まるまるへ」 歌なんですが彼らの操縦席にはそのお人形が実際にぶら下がっていたと
整備兵が手記に書いて残していた

「世界平和が来ましたならば、いとしなつかし、日の本へ かえりゃまっすぐ浅間をめがけ」
普通の特攻は結成されると、一直線に知覧 金谷に行く  すぐに米艦船に突撃してゆく
松本に2隊は松本に留まり一か月過ごすことになる
景憂 人とのふれあい おしゃまでかわいい女の子への思いはとても深くあったと思う
松本明美さん 田中幸子さん 
2人は特攻兵への思いを一層強める 年老いても生きる杖になっている
知覧特攻兵平和記念館 館長も記録にはなかったとびっくりしていたとのこと
松本市博物館で戦争と平和展を開催した

食い入るように若い人たちが見に来て熱心にみてくれた
おじいさんと孫が来たりして幅広い年齢層の人が来てくれた  反響のある展示会だった
ブログに見知らぬ方からコメントがあった  昭和20年頃広岡村で歌われていた唱歌を教えて
くれませんかという内容の質問だった
寮歌を知りたいとのことだった それが発端になって代沢小学校に行って疎開された方にあって
、鉛筆部隊のことを知った 

骨董商が骨董市で買ったものに唱歌の歌詞と鉛筆部隊の手紙とかが一切が残っていた
私のところに知らせてくださって、手紙と、歌詞のコピーを送ってくれた
いろんな人がかかわってきた  インターネットと現実世界に広がって情報が集まってきた
それを丹念に記録していって、昨年、「鉛筆部隊と特攻隊」を出版することになった
近代戦争史に抜け落ちてきたことだった
本の反響は大きいものがあった  出版社に手紙や電話がきた(こんな情報があると新たに教えてくれる)
鉛筆部隊だった方の奥さんが保存していて私に日記帳(5から6冊)を知らせてくれた
日記だけで一人の人間の精神史を見るような気がする

2013年3月26日火曜日

高橋敏夫(牧師・表千家)     ・出会いと別れ高山右近に学ぶこと


高橋敏夫(牧師・表千家) 出会いと別れ高山右近に学ぶこと
神学校で学び悩み、考えたのは自分の目標とする日本人のキリスト教徒は誰か ということ 
千利休の弟子で戦国時代を生き抜いたキリシタン大名高山右近でした
高橋さんは高山右近の生誕の地からキリシタン禁止令で国外追放処分となってたどり着いた、フィリピンのマニラまでその足跡をお尋ね、40年以上かけて
彼の生き方を研究してきました 
そこから見えてきたのは、厳しいキリシタン追放令や禁止令の中で自分を曲げずに、生き抜いた高山右近の信念と人間的な魅力だったといわれます  
その右近に大きな影響を与えたのは千利休との出会いと彼に学んだ茶の湯の思想があったのではないかと考えています 
高橋さんの教会には大種庵という茶室があります 
高橋さんは牧師であり茶の湯の教授なのです
 
はじめは全く関心の薄い人だった 教会に仕える立場になって、最初はドイツだった  
教会のイメージとドイツの教会のイメージは全く違った
ヨーロッパ神学を一番多感なころに学んだので、日本の心を知らずの日本人になっていた
高山右近の存在は遠い存在だった  
どやされるように おれは日本人だと知らされた 
なんで日本人はこんなにもキリスト嫌いなのか
人口の1%にもなっていない  (キリスト教人口は) 
日本の教会はどこかの国のただのコピーじゃないかと思ったが、そこに高山右近があった
日本の歴史の中で生き生きと同じ信仰を表現した人は誰か 
 内村鑑三も調べたのですが、ちょっと違っていた
米国の宣教師の方が開いてくださった聖書研究会があった
その主催するキャンプに行った

一人のクリスチャンの高校性がハミングしながら便所をきれいにする人がいて
それを見て、このまま僕は生きていったら相当その人との人生の差を付けられると思った
思わず神様に本当に神様がいるのであれば、僕を便所掃除の出来るような人間にしてくださいませんかと    思い、祈った  
便所掃除のできる人間はすごいと思った
その後聖書の勉強等をするようになった ドイツ、フランス、イギリスなどで学んだ 

マニラには高山右近の銅像がある
金沢に追放された後は教会のために、教会を作りそしてキリスト教の理想の姿を実践しようとして頑張っていた人で、しかも利休の極上の人といわれて、7人高弟の第一人者です  
高山右近の手紙の内容 はぼうき 茶の世界で羽でできたほうき(清めの道具として大切な
道具) 一服差し上げる

お茶を一服差し上げる 一服は4時間半かかる茶の湯のフルコース そのもてなしの手紙
その内容がわからなくて、表千家の門をたたくことになる
武将であってなおかつキリシタン大名 人生を生き抜いた
高山右近は摂津の国 高山で生まれた  秀吉につかえる 21歳で高槻城主になる
1587年 豊臣秀吉のキリシタン追放令で大名だったのが明石城領地没収にあっても生き抜いている
師匠の千利休が秀吉の使いで宗教を捨てなさいと
大友宗麟が病をして、大阪城に来て島津に悩まされているから、島津成敗をしてくれないかと直訴する

大大名の大友宗麟が秀吉のところに来たということで、彼は黄金の茶室で彼をもてなす
大友宗麟は家来に書き残している  
彼は大友宗麟を助け日本を制覇するにはどうしても九州を制覇したいと思う
全軍を九州に送る高山右近も行っている 平定後 彼は箱崎に陣営を構えている 
そこで突如バテレン追放令が出て、その原文が松浦藩のところに残されている  
右近はバテレン追放令により全部失う  3回使者がつかわされる
秀吉の直属の部下 千利休を次に送る 武士は二君に仕えずといって、神につかえる
もう一回来るが、命を捉えると思い 明石に使者を出して、自らは福岡の島に逃れる
小西行長の領地である小豆島に宣教師達と一緒に隠れて住むようになる
そのあと前田利家がもらいうけたといういきさつがある

点々と逃れながら、前田利家の領地 能登半島の付け根あたりに領地をもらいうけた
(3万~4万石)
高山右近は秀吉の前に信長につかえていた 小西行長は秀吉の子飼い 
秀吉を選ぶだろうと小西行長に    言っていた(秀吉からの問いかけ)  
小西行長はうまくのがれた(秀吉を裏切っていたと思われる)  
右近は 前田藩の客将 八王子の城を攻めるときに汚点を残している
茶の湯の思想  茶の湯を修道することは仏を修どうすることと同じですよと言われた

修道よりも金持ちの道楽みたいになってしまったので、利休のわびさびの厳しさの世界に戻ろうとの思いで書かれたのが南方録に書かれたので、その本からの影響ですべて仏教で茶の湯の哲学、美意識が作法が語られるようになったので高山右近を調べていくうちに、もしもそうならば高山右近は利休のわびさびに傾倒するのは不思議だなあと思った
彼はお城さえも捨てることのできる潔ぎよい人ですから、茶の湯の心というのは世界は
「捨ててこその世界」なんです
いろんな欲望で固まりやすい 戦国時代は領地が欲しい 
領地が上げられなくなったら、一つの茶椀が一つの城と同じぐらいの価値が出ちゃった
その技をうまく利用したのは織田信長で、秀吉が後でいうんですが、茶の湯ご政道という方法論を秀吉は用いて天下の武将たちの心を捕まえて、その中核にあったのは、
千利休という偉大な人だった  
利休さんも商人で大富豪 最初は武器も売っていました
表千家の家元のところには信長から鉄砲の球が届いたので、ありがとうという書状が届いている
自分で茶の湯を極めてゆくに従って、その道具にしても茶室にしてもすごくシンプルになるんですよ
削り取ってゆく 最後には茶室1畳半ですよ  
お客を1畳に迎えて半畳におもてなしする利休さんがお座りになって心からのおもてなしをする
殺伐とした戦国時代で欲と何かがとぐろを巻いている中で、せめて茶の湯のこの茶室では、
上下もなく持ってるとか持ってないとか  
そんなこと関係なく心と心でありがとうと、今日も出会って、この一幅のお茶をいただいて、
命をことごうことができた
そういう思いにみんな乾いていたのではないかと思います
キリシタンが増えたが、キリシタン大名たちは利休のわび茶を実践していた
そこにキリストに従うという信仰と見事にあっていたと思います

そうでなければ高山右近のようなキリシタン茶人は起こらなかったと思います
ロドリゲスが教会史の最後の最後に高山右近のことを挙げているが、彼は小さな部屋に入って(茶室)に入って礼拝をしていた
という文章で終わっている
戦場は皆茶室を造る そこで持てなしあっている   
朝鮮出兵した以外の人はもてなしあいをやっていた
これだけ金を使って、戦う意味、秀吉のようには、秀吉の心を理解されていなかったと思います
このときもう、高山右近は追放されていた  
前田利家の客将としては名古屋城に行っていたが直接参加していないが お茶会はしている

それだけ殺伐としている、乾ききった心、命絵の乾き ぬくもりへの  
乾き 愛に乾く それをお互いもてなしあう    和、啓、静、寂
相手を敬う これは日本人の心じゃないですか  
出会いがあり、別れて、いろんな考え方が出てきたんでしょうね
戦国の封建時代に、右近は亡くなった農民の棺を一緒に大名が担ぐ、
そんなことは普通考えれませんよね
お父さんが偉かった お父さんの信仰が本物で 最初12歳で洗礼をうけている高山右近は
お父さんのただ真似をするに過ぎなかったと思うんですよ  
でも段々お父さんを尊敬するようになって、お父さんの信仰は彼の心になりましたね  
彼自身が成長している  大名親子が棺を担いだ
 
つい最近わかったんですが、それも高槻城の本丸の近くですよ
お墓が発掘された さまざまなキリシタンの装飾品が見つかった 大発見だった
博愛の気持ちがないとできない 
戦国時代 裏切りが当たり前の時代 泥水をかぶる様な時代の中で、利休という人は
あのわびさび茶を発明したというか、考案したということは、いま400年続いている わび茶はすごいですよね(普遍的なもの)
そういった普遍性の中に高山右近やキリシタン大名はキリストの心を見たんだと思います
敵さえも許す、裏切られても赦しちゃう

高山右近の生き方  得よう得ようとして、欲望を増大させてゆく  
秀吉は切腹を利休に切腹を命ずる
高山右近は日本まで捨ててしまう  
宣教師と一緒にマニラに行っちゃって41日後に病死する
人生って最後は全部捨てるわけですから、自分の骨が入る骨壷を前にしてお茶を飲んでいます  
いかに自分の欲望とか欲しいものをかなぐり捨てて、生きるか
日本は貧しくなろうが豊かであろうが日本人としての心を大切にしていったらみんな幸せに生きていくと思いますね

この社会で喜びも分かち合い、苦しも受け入れるような心をもって、そして自分自身も病と自分も一緒に生きて苦しむ
ほかの人も同じ それが憐れみ  自分自身を憐れむ 家族、周りの人たちとともに生きるということは、苦しむもの
とともに苦しむ   みんなが求めている乾いている心をもう一度よみがえらせる、
そういう思いを高山右近はキリストの心と 茶の湯の修道の中で、見事に自分の血となし、肉となして、それがちゃんと自分の人生の中で生活の中で、表現される

高山右近の苦悩、苦悩する高山右近
親友だった細川忠興への手紙にも残っている 日本決別の高山右近の書状
家康の命令でフィリピンに長崎から出るというときに 
近日船出仕り候 一じく進呈申し候志なり  
帰らじと思わばかねてあずさいむ なき数にいるなおぞとどめる
楠正成の子供の正行の四條縄手で討ち死にした時のみんなが署名したとき血書なんですね
その言葉を高山右近はさらりと手紙に記して 彼は名を天下に上げた
私は南海に赴き、命を天にかける そして名を流す すみつぎする 
いかに  (きみ、おれの人生どう思う ) 60年の苦しみたちまち このたびの古文書はなかなか申しべく候
この手紙の1ヶ月後にフィリピンに旅立つ
63歳でマニラで亡くなる 日本の貧しい人たちを援助したキリスト者の代表が来たと歓迎された 高山右近が行ったマニラはスペインの植民地だった   
加賀乙彦さんは右近はそれを知って、本当にいたく悲しみ義憤を感じたと戯曲に書いている 高山右近はローマ法王とも書簡のやり取りをした   
死は新しい出会いの出発ですから  
好きな人と一緒にいられるということが幸せなんじゃないかと思います

2013年3月25日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学( 樹木 希林)

天野祐吉  隠居大学
樹木 希林
CM界の女王。  何にも打ち合わせなしでの会談と成りました。
事務所もなく一人でやっている。
マネージャーが亡くなり、新た人間関係をやるのも、やだなあと思って、大家もやっているので、
その収入で食べていければいいと思っています。

癌を何年か前に患う。 年寄りをやる女優が少なくなったので結構忙しい。

18歳で文学座に入る。  舞台俳優が1、 映画俳優が2 ちょっと落ちてTVに出る、3
CMに出るのが4だった。
CMの話が来る(綾小路小百合役をする)  30年以上前。
どう毎日やっても、安くて、 CMの道に行こうと思いましたね。
佳代子ちゃんとの間合いを、訓練しました。
「美しい人は美しく、美しくない人も、美しく写ります。」 と言うんです。
じゃあお願いしますと出すが、 美しくない人も美しく写るフィルムなんですか。 
疑問を感じて、 
「そうでない人はそれなりに写ります」 と言う事になる。  名作になる。
CMが市民権を得た、CMだった。(天野)  もっと早く言ってほしかった。
CMは普通人間を感じさせないが、このCMで変わった。
「そうでない人はそれなりに」と正直に言うという事は 樹木さんの存在感がある。

結婚させる情報誌の宣伝に、40年ぐらい別居している夫婦を持ってくるという、
何を語るかと言うと、何もいわないで、「ノーコメント」 もうひとつ何かありますかと言ったら
「ロックンロール」 そればっかりしか言わない。 そればっかりで作ったが。
大変なことになりまして、逮捕されてしまって、一人でやりましょうという事になり
「やっぱり、一人がよろしい雑草」 それだけでは申し訳ないので、
「やっぱり、一人じゃは寂しい雑草」 それで成立するなあ思った。
山頭火の句です。

直ぐ反応する、広告のだいご味は捨てがたいと思いますね。

ああいう事件がなくてもあれはあれで凄いし、(天野)
こんなに長く芸能人でいるとは思わなかったが、芸能界はこんなに面白い世界は無いなと
一人の人間が修行するのに、お寺に入って尼になって修業をするのも、一つの道だけれど
芸能界に入って、揉まれて、一人で歩いてゆく事は大変な修行の場を頂けていると
思う。
全部さらされてしまうわけなので。
一点だけ、もし越えてこれた理由はと言えば、あんまり人と比べてこなかった。
どう根の愛、立場 我関せずとしてきた結果、良い修行になった、という実感ですね。 
比べているときりがない。   
新劇 どうしてあんな不細工な女優しかいないのだろうと言われていて、それなら大丈夫だろうと
文学座に入ったが。   研究生から座員になるまでいた。
森繁久弥さんと初めて出会ったが50歳ぐらいの時で芸に勢いがあり、すごく勉強になった。

7人の孫が第一シリーズで、私の役は脚本に無い役だったが、手伝いの子がいあないと大変だから
と言うわけで、文学座から私が行く事になり、森繁さんと二人でやる芝居が多くなって、そのシリーズ
が終わった時にパート2をやることになる。
森繁さんが私だけは確保してほしいとの事で、出演を依頼された。
苦労を考えると嫌だと言ったが、ギャラを倍にすると言ってくれたので、いいと言った方がいいと
いわれて、パート2をやることになる。
(あなたは100%だよ、アップ森繁さんでも50%アップなんだからと言われて)
私は5000円から1万円になったが、森繁さんは80万だったのが120万円になっていた。
パート2も好評だった。
オークションで名前を売った。(2万200円) TV朝日の社名変更の時に私も名前を変えました。
「悠木ちほ」から「樹木希林」に変更した。
私は余り執着心がない。

岡田太郎さん 82歳ぐらい、吉永さんが68歳ぐらいで、それで見ていてすごく釣り合いがいいと思った。
天野さんは、いくつ違うのかと言ったら、48歳の方が奥さんだそうです。
天野さんは素晴らしい、うらやましいと思う。
一人では70歳過ぎたら家を貸してくれない、夫にはそういった。
若い奥さんがいるんだから、私のところに来ないでください。
安く貸してるので、長くいてくれるが、そのやり方を娘夫婦にして、ちょっと揉めたことがあるが。
誰に彼に通用するものでもない。

映画、CMに忙しくて、暇な時間はあるのですか? ほとんど暇です。
ほとんど電話、FAXで済んでしまう。
暇なんだけれど、頭の中で一生懸命考えている。

占い師から、あなたはほんのちょこっとしたところから、コロッときますと言われ、では夫はと言ったら、
間髪を数、夫の首をグンと掴んで一緒に連れてゆきます、と言うんですね。
心配ありませんと、よく見てるなと思いました。
本人に言っておきました。 
一緒にぐぐっと連れて行ってしまえば、良いんだと思ったら気楽になりました。
天野さんは責任があるから、そういう責任をわざわざ抱え込むパワー、すごいなあと、それで奥さんが
幸せです、と言うんだから、凄い、見習わなければいけないあと思います。
























年中何か考えている  

2013年3月24日日曜日

赤松陽構造(64歳)        ・八重の桜のタイトルを書いて

赤松陽構造(64歳) 
八重の桜のタイトルを書いているタイトルデザイナー
映画やTVの題字やタイトルの文字、画面上に出す時間等、画面の文字全般の仕事をします
日本大学在学中に21歳の時に父を亡くして後を継ぐ形でこの仕事を始めました
43年間で担当した映画は400本にもなります

八重の桜の題字はどんなもので書いたのか 竹の先を割って行って筆の形にした物を使いました紙に対し滲みが無いという効果有、又滲みにくい紙を使用したのでなおさら滲まない字となった 
狙いでは細くでも強くと言う狙いはあります 芯の強い女性をイメージ
製作者役者の名前も同様に細い筆で書いた(10~20名の追加が有る 毎週書いている)
TVの題字では今回が初めて  映画ではゆっくりしたペースで出来る(TVは倍のペース)
「美しい夏 キリシマ」  黒木監督と親しくなるきっかけの作品
毎日映画コンクール特別賞 平成24年度文化庁映画功労賞 受賞する

従来は監督とか役者が貰っていたが、今回始めて裏方が受賞できた
いろんな方が集まって一つの者を作り上げる世界(役者、監督、美術、照明・・・)
キャパシティーが広い  プロの集団でもある 芸術家タイプの人もいる
映画  多くの人に見て貰う  作品がずーっと残る
デザインの仕事は点数とかは付かない 或る与えられた時間の中でどれだけ自分がこれに対して集中してどれだけできたかが唯一の根拠  どれだけ満足が得られるかだと思います
一番最初 企画から台本が出来た時に依頼が有る場合が多い 台本を渡される
粗繋ぎのフィルムを観てデザインをイメージする  そこからスタートとなる

デザインサンプルを作り プロヂューサーと打ち合わせをして具体的な流れになって行く
台本頂いてから1カ月~4カ月が大雑把な流れとなる
基本的にはいろんなものを書いてみる それを観て作品と合っているか考える場合が多い
何で書いてみよ言うかとか何に書いてみようかとかをポッと考えがいろんなときに浮かんでくる
書くものも、いろんなもので書く ろうせき、枝、割り箸、釘、マジック、等々
いろんな方法で作品に対応してゆく
一人っ子で我儘だった 昭和32年生れ 割合内気で有ったと思う
父親が映画の仕事をしていた 映画は小さい頃から一杯観に行った
高校時代は学園祭とかで16mmカメラを父親が持っていたのでそれを撮っていたりし興味を持った
カメラマンになりたいと思う様になった 大学では撮影コースで勉強する
父親が急逝して、食べていけないので、父親の後を継ごうと大學も中途でやめざるを得なかった
仕事が面白くなり始めたのが、30歳ぐらいからだった
筆の練習(レタリング)とかを自己流で勉強はしていた 書いたものを先輩から見せてもらったりした
当時は同じような字体が多かった 大島渚監督とか 篠田監督とか、若松監督とかにであって其の映画に係わることで凄く大きな刺激を受けた
体制の中に飽き足らずにプロダクションを作った方々だった
書道をやっていなかったから、かえっていろいろな発想が出来るようになったと思う

大事にしているポイントはあら繋ぎの物(ラッシュ)を観る時 映画の本質 この映画は何を言いたいのかを観れるか見れないか 見れれば後は自分で作っていく作業に入れるが、見られない場合は自分で作って行く作業には入れないわけです だからラッシュを観る時間を非常に大事にいている
この映画をどうしたらいい映画にできるかを参加した皆が考えているので、自分でも自分の領域でどれだけ良く出来るかを考えている
努力して行かないと手に入らない(天職とは思っていない 天職にしてきたと思う)
若い人 アナログからデジタルに変わってきた デジタルの仕事はやり直しが効くとか、早い時間で出来るという非常に便利なツールなんですが  しかし早いこと、便利になったことで失う事が物凄く大きいと思う

若い人達は何を失ってしまうかを解っていただきたい
デジタルでは観てやり直しが効く技術になった
良い文字をどうやって書くかは昔と変わらないと思う
(観る目が有る人が少なくなった事も事実)
映画で培ってきたものをTVでやってみたいと思う
アナログからデジタル 私達の時代の人がデジタルを覚えてアナログで培った物をデジタルに展開したいとは思う




2013年3月23日土曜日

浜内千波(料理研究家)       ・家族を繋ぐ料理の力

浜内ちなみ(料理研究家)  家族を繋ぐ料理の力
料理研究所出修行して昭和55年にクッキングスクールを開校しました
TV番組にも多く出演して、次々に料理本を出しました  
伝える料理は家族の健康をもって作る家庭料理です
その原点は浜内さんが徳島県海陽町で過ごした子供のころにありました
家族を繋ぐ料理の力について伺います

18歳で海洋町でてから40年になる 
海辺に育つ 毎朝太陽に向かって家族皆で合掌していた(父親の指示)
毎日同じ事を手伝う事は身に付く 身体の芯までしみこませて貰った
我慢強さもそう言ったことから身に付いたように思う
「おふくろの味」  家族の絆が新たに生れて来つつあるような気がする
母親は磯のものと、畑で採れたものでシンプルに作ってくれていた
出来るだけそぎ落とす味を考えて作ってくれた
私が小学校4年のころに兄が亡くなってしまって、健康には気を使う様な料理を気を付ける
ようになった
相手の事を思って作り続けること  かならず伝わると思う
つくるときの心、頂く時の心が大事のような気がする
家庭に入ると小さな社会となる  心を込めて頂く事は大事な事

食材自体の味  
昆布と同じ旨味成分  トマト 白菜 キャベツ 大豆 じゃがいも 玉ねぎ ニンジン 長ネギ
              ニンニク  シメジ えのき 海苔 
              豚肉、とり肉 牛肉  煮干し 鯛 マグロ 鱈
おいしい=健康
食べるもののバランス 歳と共にあまり食べてはいけないもの 炭水化物のとり過ぎに注意(糖尿病)
  野菜を一杯食べる事が大事(食べる前に野菜を食べる   しっかり噛む)