2013年3月3日日曜日

戸田奈津子(映画字幕翻訳家77歳) ・時代を作った女たち

戸田奈津子(映画字幕翻訳家77歳)    ・時代を作った女たち
津田塾大学英文科を卒業 映画関連の仕事に就こうと門をたたき続けたが、当時の字幕翻訳
の仕事は少人数の男性ばかりの職場
そこで外国映画会社の通訳のアルバイトをしているうちに、大きな転機がきました 
戸田さんが志した時代には夢がかなうには永い月日が必要でした    
第1回淀川長治賞受賞  「字幕の女王」とも呼ばれる

最近は映画はみる機会が少なくなってきた  今は趣味が合わなくなてきている 
効果に映画は音楽が全編に流れていて、音楽だけでもシーンを思いだす      
この頃の映画は展開が早い
映画を見始めたのは戦後3年ぐらいで解禁になった  海外の映画は半分はヨーロッパ 
後はアメリカだった  小学校から映画を見始めた  別世界が有る事に吃驚した
掘立小屋で 途中でフィルムが切れたりして10分位待ったりしたことも有った

映画にははまりっぱなしだった   
中学で英語を学ぶようになって、映画の影響で興味を持って勉強した
話したり聞いたりは映画で接触が有ったので勉強になった   
一生に一度と思って映画の場面を見ていた
大學卒業時点で どうしようかとはたと困った  
好きなものを活かせるものは無いかと考えたら、字幕があり英語が生かせると気がついた
しかし、入れてくれる処が無かった 
清水俊二 字幕で良く出て来るので、手紙を出したら、返事が来て会って貰ったが、メッセージとしては駄目だった

清水さんは字幕の第一人者だった  繋がりは保とうと思っていた  
翻訳をして生活を繋いでいた   
映画会社からアルバイトが来た  英文の手紙を打つ   
映画会社に外国からお客が来ると言うので通訳の役割を頼まれたが、会話をやったことが無かったが、何とかこなして段々 こなせるようになった(映画の内容を理解していたのでこれが良かった)
段々字幕の仕事が入る様になった  20年掛った 
(苦節何年というような感じではなかったが  楽天的)  結婚には魅力を感じなかった
水野晴郎さんと出会う  チャールトン・ヘストン等にあう  転機になったのが「地獄の黙示録」 
コッポラ監督 フィリピンで撮影(日本で途中下車した)
コッッポラ監督の一声で字幕をやらしていただいた   これがブレークした これで人生が変わった  
全然くれなかったところからも、話が有り 無茶苦茶忙しくなった  1週間から10日しか時間を
くれなかった
CGでは封切りの間際まで画面をいじるので(フィルムではないので)、時間が無くて 字幕の仕事の条件が悪くなった
現在は字幕翻訳者は20人位(7割が女性)周囲に入りたい人が一杯増えてきている 
(女性が多い)
翻訳の性別は関係ない  個性は出て来る事はある(自分の事は解らない)    
原文はあくまで尊重しないといけない
万人がわかるような言葉 いかに日本語にするかが難しい(日本語の方が大変)

イマジネーションの力は大事   言葉に敏感であることは重要です
宗教を知らないといけないし、その地方地方の文化も知らないといけない  
解らない領域は専門の人に見て貰って問題点を指摘して貰う
頭の中が1週間ごとにドラマが有って楽しい  俳優と似ていると思う  
頭の中では全人物に成っている訳だから、感情がないと台詞に成らない
頭の中では芝居をしている    
今の若い人達は世界が狭くなってきているように思う  今の若い人は知った世界の話が好き
(お茶の間的な) 外の世界に出て行かない
好奇心が少ない様に思う  自分で決めてほしい  周囲の責任にしてはいけない

2013年3月2日土曜日

菅波茂(66歳)          ・多国籍医師団世界を駆ける

菅波茂(66歳)多国籍医師団世界を駆ける
国連医療NGOアムダグループの代表を務めている  AMDA は国連に登録された多国籍NGOで本部は岡山にあります 
代表的な活動は紛争や、災害が起きた時に 現地に派遣する多国籍医師団です   
スローガンは「救える命が有ればどこへでも」
相互扶助の精神に基ずき、緊急人道支援活動を展開しています  
ハイチの地震や東日本大震災の時にも出動しました
アムダは今から29年前に医師である菅波さんが中心に成って設立しました

本部に10人(スタッフ) ボランティアの人がいつも4~5名が来ている  
医師は私とナースの方がいます
普通は医療機関に勤務している  今は300人~400人が登録されている  
海外は インドネシア支部 ではハッサムリン大學にあります 
インド支部はマニパール大學に有って基本的には大學にある  どんどん送り出してくる 
だから向こう任せです 

支部は世界に 29カ国 メインはアジア、中南米 、アフリカ、ヨーロッパの一部  アジアであれば  
韓国、モンゴル、台湾、フィリピン インドネシア、カンボジア、ベトナム、インド、スリランカ、バングラディッシュ、ネパール
アフガニスタン、カザフスタン、   カナダ  南米(コロンビア、ホンジュラス、ペルー ボリビア)
アフリカ(ザンビア、ウガンダ、スーダン)
志の原点  高校二年の時に 太平洋戦争写真集と言うのが有って、出て行く時と負ける時 
負ける時の中に、同じ年頃の日本兵が南方戦線の海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる
写真が有った

海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる写真が有った 
どうして同じ年頃の日本人がこんな死に方をしているのかと言うのが私の意識に入っている
1946年生れで  戦争と言う者は私の人生に大きく影響はしている 
大學に入って昭和41,42年にアジアに医学調査団を出そうと言う事で塾を開いた 
7人いたが、学園紛争で、4人が全共闘に参加して空中分解した
それではひとりでもやろうと 学校を10カ月位休学して、ずーっと旅をした  
体が弱くて病院に行ったりした   そこでいろんな体験をしたので関心が高まった
アジアの活気、多様性にも魅せられた

昭和44年に帰って来てから 尺八をやっていたので 琴、三味線のクラブで アジアに親善邦楽演奏キャラバンをやろうと20人ぐらいでやったとき倉敷の或る方から 医者と医学生がいるのならミャンマーとタイの国境地帯 にあるパコダ農場で健康診断をやってくれと言われてそうすればバンコックで私が演奏会場を世話すると言われて、パコダ農場で寄生虫の検査等をやって医療器具を置いて帰った
農場主から手紙が来て、保健センターと保健委員会を作ったからもう一度来てくれと言われて、
もう一回行った(お金がかかるので寄附を頂く)
その後どうするんですかと聞かれて、又いきますという事で、どんどんといろんなところに行くようになって、専門知識が増えて現在に至った

アムダに成って行く経緯 1978年にカンボジア難民が出た 日本のメディアが欧米の若者達が
東南アジアにいって一生懸命ボランティア精神で頑張っていると日本の若者にボランティア精神は無いのかと、こういうキャンペーンが有った
私達も行ってみようと思った  
その時に難民キャンプがどこにあるかと言う事も解らなかったし、世界の難民を国連難民高等弁務官が一元的に管理している事も解らなかったし、実際に難民キャンプにたどり着いても、実績のある団体しか国連難民高等弁務官は契約して実際に仕事をさせない
善意が有っても善意が有るだけでは救えることはできないことが解って、1980年にアジアの医学生と今のうちから人間関係を作って、将来アジアの為の医療プロジェクトをやったらどうかと言う事で、第一回アジア医学生国際会議をバンコクでやって、4年経って そのOBでアムダを立ち上げた

 the assosiation of medical doctors of asias゙(アジア医師連絡協議会)  
学生のネットワークを作った  国内的には一体何をやっているのか解らなかった 
1992年に湾岸戦争がおこった
多国籍軍にお金を寄付した(それも10年間と言う立法を作って) 処が当事者のクエートがアメリカの
新聞に感謝の広告を出したが、30ケ国に日本が入ってなかった
そこでお金だけでは駄目だと、顔が見えない日本 ではどうするかと NGOという団体が有るのだからという事で外務省が予算を付けた 
郵政省が国際ボランティア貯金をやった  
それから世の中がすこしずつ認められたが、1995年の阪神大震災の時に100万人の入ってなかった
ボランティアが入ってきたが、ボランティアの受け皿に成ったのが、私達の様な国際NGO医療団体だった   
初めて国際NGOの認知を得た  初めて認められたのがここですね
東日本大震災の時にインドのブッタガヤにいて、子供の心臓病のできる手術が出来る所を探して
いた  本部と連絡したらその時には医療チームを派遣した後だった  
凄く早い対応に感激した
日本海側から入った方がいいのではと新潟から経由して仙台に入って行った
一番大切なことは避難所に真っ先に行く事  
その人達が何を感じているかが、一番大切 自分達は見放されたと言う気持ちに成っている
何が出来るかと言う事も大切だが、貴方がたは見放されていませんよというメッセージが一番大切  次に自分達がどこで活動拠点にするかと言う事 被災地に入って考えるしかない 
被災地に早く入る そこでいろいろ情報を集めて、どうしたらいいかを考える 
 
広範囲には絶対できないので目の前で何が出来るかと言う事で対処する
岩手、仙台、福島 あたりはアムダの会員はいないので被災地の会員が活躍すると言う事は
出来なかった 
釜石、大槌町 仙台 南三陸町  南相馬市  で活動した  医師とナースを送りこむ  
延べ150人 補給は岡山、東京から支援物資を送った
感動したのが大槌町 避難所の中でクリニックを立ち上げて、避難者と一緒に寝泊まりしていたケアーをされていた   現地の医者とも協力して連係してやった
避難の学校ではいろんな方がと協力してやった

私たちはよそ者であるので、一番大切なのは、被災地の方々がどう考えて、どう思われているのか、その考えを大切にしたどう支援するのかと言うのが私達の役目だと思います
被災地の医者が頑張っているんであれば、その医者を応援すると言うのがベストだと思います
医療行為で一番恐ろしいのは医療事故 どんな薬が駄目だとか、どんな病気を持っているとか
見過ごしたら行けない
被災地の医者は患者を良く知っているのでまず彼らが主人公です   
私達はお手伝いする 、と言う事がベスト

インドネシア、タイ、韓国 ここからは受け入れて一緒に避難所を廻ってもらった  
医療行為も中心に 以外はポジティブリストとネガティブリストがある
ポジティブリストはしては、しなければいけないこと以外はしてはいけない 
ネガティブリストはしてはいけない事以外は何をしてもいい 私達はネガティブリスト 
①医療事故は困る ②被災者の方々に迷惑をかけてはいけない 
③他の方々の提案とかを拒否してはいけない    医師とか、ナース以外に調整員がいるので、
なんでも役に立つことが有ったら実現してゆく

寒さ対策  必要なのは灯油  アムダを支えてくれている団体が有るので出来る事が有る  
タンクローリー出被災地に持ってきて呉れる  ガソリンもない 電気自動車を持ってきて呉れた
小さな避難所が一杯有ったので電気自動車で往診が出来た 
団体、自治体が有ったためにこの様な事が出来た  
ナース、助産婦 ミルクの対応  子供の為のプレルームの作成およびそれらの補助道具の手配
海外での活動 フィリピン、インドネシア、 災害が多発する ここが一番多い あと中南米

 2010年はハイチの大地震 インド、トルコ あちこちにいく
地震の後にコレラが発生して対応をした  アムダの反響は 私達が一番大切にしているのは
相互扶助  一方的に相手を支援するのではなくて、困ったときはお互い様 援助を受ける側にもプライドが有る    
プライド 自分も他人の役に立ちたいとの思いの裏返し
2006年 ジャカルタの京都に当たる処で、地震と津波が有った時に救援活動をした  
その後1年後に行ってオープニングセレモニーが有ったときに何故私達が来たかと、それは貴方がたが困ったから来ました しかし 私達も日本人も阪神大震災の様な困る事が有る  
その様な時には是非助けて下さいよと話をしたら、その後に知事さんがスピーチをされて
、Dr菅波のように、自分達が困ったら来てくれといってくれた、団体は初めてだと、いままでもいろんな団体が支援してくれたけれども、自分達が困ったときに、来てくれと言ってくれた団体は初めてだと私達は非常に嬉しいと言ってくれた

これが相互扶助だと思います
東日本大震災の時には来てくれた 
ハイチの時にはマックスが(岡山大学歯学部大学院で勉強した人が忽然と現れる)支部を作ってくれて 救援活動をしてくれる
被災地に入って行って、支部がなければ当事者に支部を作って貰う  
そうして支部が増えて行く
1995年5月にサハリンで地震が有りました  チャーター機で入ったときにサハリの政府のひとが、
日本の援助は要らないから帰ってくれと言われた
医療支援だけでなく我々にはもう一つ役目がある、5か月前に阪神淡路大震災が有ったときに
貴方の国はたすけてくれたんじゃないかと、其の時の市民が貴方がたにお返しにしたいと、私達は調査を兼ねてきたんだと、判ったと言う事で800km離れた被災地まで向こうの飛行機で
何回も行ってくれた 
 
困ったときはお互い様  相互扶助は国際的に通用する と判った  
相手の面子が立つ
何故来たのかと言う事 相互扶助 、日本とその国との歴史も良く勉強して説明すると受け入れ
てくれる  一番大切なものは 人間関係
①フレンドシップ  ②スポンサーシップ ③パートナーシップ  があるが基本になるのは「私は貴方を見離しませんよ」 「私は必要とされている」  
3つの処で一番危険なのが 一方的に支援するスポンサーシップ  
これは援助を受ける側のプライドがでない自分も役に立ちたいんだと言う事がでない
人間関係と言うものは、苦労を共にしないと尊敬と信頼がでない
苦労を共にするという事は苦労を解決する中で、自分にないものを相手に見出した時に尊敬の念が起きる 

そしてどんなに苦労が厳しくなっても相手が逃げないと言う事が判ったときに、信頼がでる
尊敬と信頼という人間関係が出来て 育ちも、生れも、宗教も、国の違う人達が共存共栄が出来る
人はできるだけ苦労を避ける これも当然しなければいけないが、しなければいけない苦労は一緒にすることによって共存共栄という新しい立場が出来て来るんだと  これがアマダの哲学
何故難民キャンプにわざわざ行くのか  それはともに苦労するというパートナーシップ   
そこの人達のこれを契機にして信頼関係に基ずいた共栄共存と言う人生を一緒にやり
ハイチに行ってみて、直接米軍が占拠していて入れなくてドミニカから入った  
ハイチと歴史的に対立の歴史が有ったが、沢山の人がドミニカに入って治療受けている  
支援の手を伸ばさなくてはいけないと機運が生じた時  子供達をもっと親しく
したらどうかと、言う事で 言葉は違っていたのでスポーツだったらお互いに理解が出来ると思うので、大阪の少年スポーツサッカークラブに御願いして、日本とドミニカ、ハイチのサッカーをした

スポーツは物凄い求心力が有るなあと思った  
紛争を抱えている処でスポーツを積極的に取り入れて行って、子供の時からお互いに尊敬できる
人間関係に持ってゆくと言う、スポーツ和平を医療和平に加えてやっています
政府が入ると国益、お互いの立場だとかあり 民間サイドでやって行くのは良い
平和の定義 今日の家族の生活と明日の家族の希望が実現できる状況であること
今日の家族の生活とは 食べれて、健康で有ること 明日の家族の希望 子供に教育を与える事
阻害する者、 紛争、災害、貧困がある   その解決にいろんな人が関与できる 
スポーツ、教育、医療 その応援も一市民として出来る
市民参加型人道支援外交 いま必要ではないかと思う  
相互扶助という形でやって行く事がお互いの平和の為に一番解り易いし、世界全体がそうなる
ことが私達の最終的な望みなんです

2013年3月1日金曜日

今井信子(ビオラニスト69歳)       ・古希を奏でる深い音色 

今井信子(ビオラニスト69歳)      古希を奏でる深い音色
1943年 生れ 6歳でバイオリンを始める 
桐朋学園大学に進んで室内楽を斉藤英雄さんに師事しました  
1964年桐朋学園オーケストラの一員としてアメリカツアーに参加 この時にボストン交響楽団が演奏するリヒャルト・シュトラウスの「ドンキホーテ」を聞いて、ビオラの音色に魅せられて、帰国後バイオリンからビオラに変更しました
桐朋学園を卒業後 海外に留学 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を受賞しました
ジュネーブ音楽院 アムステルダム音楽院の教授を務めながら、演奏活動を行っています  
1992年からは東京で教育的音楽祭ビオラスペースを開催して後進の指導にもあたっています
3月3日には古希記念としてコンサートを開きます

現在ジュネーブに住んでいる 日本では3か月ぐらい滞在している  
メナヘム・プレスラーとかロバート・マンとか私の先生でもあり 現在でも90歳を越えている方が、
まだ旅行なさって演奏しており、私などはまだまだです
精神的にも肉体的にも若い人達です
最初はバイオリンを習ったが、母親がこの子には手になにか技術を付けようとした   
常に付き添ってくれていた
生活のリズムがそうなって行った   大人しくてひ弱な人間だった  
小学校の頃はあまり覚えてはいない
桐朋学園に入ったときはバラ色の状況だった  一日中けらけら笑っていた時期であった  
高校3年に成って感受性が開けて、いろいろ先生と話していただいて、世界が広がった 
バイオリニストには成ると思っていた

音楽は終わりは無いし、その人の表現であり、感情に結びついているので モーツアルトのシンフォニーで2楽章で緑の色なり、若草色、ブルーが虹が出てきたりして、これだったら音楽の世界で生きて行こうと思った(音楽に色を感じた)
齋藤秀雄先生はスパルタ教育の 精神的なところをがしっと教えて貰った   
物事に対する時には真面目に,真摯に、とことんまでやらないといけないと言う事を教わりました  
それは本当に大きいことだった
1964年にアメリカに渡って演奏旅行をした  スケールが違って物凄く驚いたのを覚えている
ボストンシンフォニーの夏のフェスティバルのある処で私達も呼ばれて弾いた時の事、今でも鮮明に思い出すが、思い出すが 芝生の上で聞いていた時のリヒャルト・シュトラウスのドンキホーテと言う曲があり(私も知らなかったが) チェロの素晴らしいソロが有って、それを聞きながら、ちょっと序奏が終わったときに素晴らしい、甘い バイオリンでも無い チェロでも無い ビオラの場面 語りかけるような音が聞こえてくる  
ビオラも多少は弾いたことはあるがこんな音は聞いたことは無かったので物凄くはっとして
、こんな音が出るのであれば、私のこれから一生やっていきたいと思った

弾いている人に有った イタリアの人で 弾いてくれと言われて、そこで弾いてみた  
手を見せてくれと言われて、手の大きさを観てくれて、これで有れば出来ると言われて、天にも昇るような気持ちだった
一瞬のある出来事で人生が変わる時が有る  
ビオラをやることを決心する(大學4年で)それまでも、バイオリンとビオラは両方やる様に教育されてきた
音楽上で言えばビオラは大事な部分だと思う   ビオラ曲は増えてきている  
やることはたくさんある
ヘンデル作曲  細川俊夫 編曲 「私を泣かせて下さい」  (天に向かって弾いている気持ち)
音域的には5度低い  特有なセンチメンタル ノスタルジックな音だと思う  トランペットのような鋭い音も出る  人間の音域に近い

最初はアメリカに留学する 英語が解らなくて苦労した ビオラを弾く時間が余り無くて、ニューヨークに
出たいと思って、ジュリヤードに入った
もし落とされたらに日本に帰って来るつもりだった   
 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を頂いた  
スイスのチューリッヒに行く ヨーロッパでカルチャーを学びたいと思った  
住んで見たという憧れの地であった
アメリカのシカゴのカルテット フェルメールカルテット そこで5年間弾いた 音楽家として基礎を
学んだ一番大事な時期だった

バイオリン2人 チェロ1人、 ビオラ1人  4人で競い合いした  出て来るものも濃い、内容の有るもの
だったと思う
子供がいたので、自由な時間が欲しくて ロンドンでソロを弾いたり、室内楽を混じったりしてやっていた   子供を連れての生活だったので 制約があり 大変だった
武満徹と出会う 自分は音楽を聞いて殆ど泣く事は無かったんだが私の音楽を聞いて、感動してくださってそれから親交が生れて 彼の作品を私が弾きたいと思って、1989年パリで初演した色彩豊かな曲を作曲して頂いた
ビオラスペース 20年続いている  ヒンデミット 何でもできる人
ビオラ奏者として、楽器を教えると言うよりも、斉藤先生から学んだ音楽家としてあるべきこと、
人生をどういう風に過してゆくかと言う事 に物凄く興味が有って、レッスンをしてても、、
人間と人間ですからいろんな事が有り、レッスンを休んだりとか、質問を受けた時にどう対処するか、難しくて 人と居る時にはいつも正直であるとか、音楽と向き合う時も本当にとことんまでやる 
中途半端にやらない 諦めずにやる
周りの人に恵まれていた   何かあったときにタイミングが物凄く大事で 待たない方がいい時が殆ど やる事は今日やる
多少のリスクはあろうとも突き進むことが大事  考え込むと出来なくなってしまう   
壁にぶつかり ぶつかり 諦めないで行く
一生懸命にやっていれば、必ず何か降って来ると言うか 道が開けて行く  
リスクの無いところに栄光は無い  音楽は変化するもの 終わりはない
音楽はいろいろな解釈が有り、骨組があり、それを知っていることは大事だが、それに捉われると見動きが出来ない、自由が求められない
  
そう言う事に成って行くと音楽は死んでしまう
今生れた音だと言う感じの音で弾かないと誰もなにも感じない
全部決めてしまって弾くものではない  いつも新鮮さがないといけない  
いつも感じると言う事は大事ですね 初心の心で弾きたいと思っている
初心の心で弾きたいと思っている

*ロバート・マン  1946年にジュリアード弦楽四重奏団を結成し、1996-97年のシーズンに引退   する
   まで50年にわたり第1ヴァイオリン奏者を務めた
  近年はソリスト、作曲家、そして指揮者としての活動にエネルギーを注いでいます。
*メナヘム・プレスラー1946年サンフランシスコのドビュッシー・コンクール優勝。フィラデルフィア管弦  楽団と協奏曲を共演、カーネギーホールデビュー現在インディアナ大学で教鞭を執り ヴァン・ クライバーン、エリザベート王妃、アルトゥール・ルービンシュタインといった各国際コンクールの審査員も務める

2013年2月27日水曜日

村上隆(現代アーティスト51歳)      ・現代アートで時代を変える 2


カタールのドーハで開催され(国交40周年記念)そこで展示された作品、 圧倒的な存在感が話題になった全長100m にも及ぶ大作五百羅漢図について伺います

絵画は抽象的な現代アート 大作五百羅漢図は初めて日本人に好かれた作品です   
きっかけは 芸術新潮 辻 惟雄先生と連載をやっていた
狩野 一信の五百羅漢図が改めて脚光を浴びる展覧会作っていて、辻先生は狩野 一信を非常
に軽視していた
処が本物を観る機会が有って、見たら自分の認識が違っていたと、雑誌や本で見ていたものと、全く違う事が判った 大きな過ちをしていたと気付く
先生は五百羅漢図の事ばかり書くようになった  
最初は3cm四方に200体位をかく 長沢芦雪   五百羅漢図が見つかる
米に書けるアーティストの方を調べて、おなじ体数をかいて貰った  又羅漢の話に成って、
伊藤若冲 羅漢の話をする

狩野 一信の勉強して、大震災が有って 芸術が無力であると言うのを感じた思うところが有って報道で宗教の発生の原点が見えた様な感じがした
現代は科学至上主義で、なんでも分析できるという前提のもとに、それに従って皆が従ってゆく 
信心がまかり通っているという考え方が有る
宗教はどっちかと言うと脇に追いやられている  
割りきれないと言う事は人間の世界には有って、病気とか衛生面で 克服されていない時代は特にそうだったんだなと、大震災の時にあっと言う間に表に出てきた   
五百羅漢と言うのはそもそもいろんな禍を一個一個解決してくれると言う 

神様としていらっしゃる 十六羅漢は中国人が生みだして、日本に渡来して500人に増えた  
宗教の発生そのものに、五百羅漢と言うのは、今突然 狩野 一信の展覧会が有るけれども 
偶然ではなくて必然だなと思って常に偶然が時代にピタッと来る瞬間が有る
その瞬間に 大震災前に、辻先生は五百羅漢、五百羅漢と言っていて、大震災が有って
僕も描いてみようと思って、 自分が本当に無力であることを思い知らされて、(絶望感)  
社会に何の効果もない 何にもない生き物でした
絶望を共有することが、芸術の一番大事なものと思った  ゴッホは一番解りやすい 
ゴッホは色んな意味で絶望していたと思う

絶望の中で日本の浮世絵に希望を見出したり、自画像をかいたりし希望を見出そうとしていた 
絶望のふちまで行って自殺してしまった、ムンクも同様   
五百羅漢は、出来ないと断ろうとしたが、だめだった  
絶望している事を正直に表現すると言うのがカタールでやっていく 
展覧会の意味はなさそうだったが、カタールから助成を頂いていたし、カタールの王室の人は同じ
アジア人ということをおっしゃっていたし、アジア人同士の先進国であった日本がああいう大震災でカスタトロフして、それに気がついた芸術家が絶望してしまって、という思いで描いた

無理だから 25mでもカタール用に作れたら、皆喜んでくれるので言っとくよと言われて、
かちっと来て何が何でもやろうと思った
私は建築家に似ていると思う  設計する   歴史を知らないと出来ない 図面を引いて施工
すれば出来るというようなやり方だが、今回はそう言う風には出来なかった  
自分の中で今回はわーっと出てきた(初めて芸術家と言ったように思った)
絵具会社に連絡し、作って貰う(銀色を多く使うので 絵具を作って貰う日程等を含めて、調整する) 延300人(40~50人いた) チームワーク 絵具一つとってもチューブなっているのはここ50年ぐらい昔はオイルと油を大理石の上ですり潰して絵具を作っていた 
 
絵の大事な部分は下準備  絵は100年以上生き残れなくてはいけないので、下準備が下手だと剥落してくる
昔に成ればなるほど、アシスタントが多かったはず、そうしないと一人で出来る分量ではない 
絵画を作ると言うことはコンピューターグラフィックと同じ世界 
日本の戦後の情操教育はドイツのシュタイナーズ理論に結構趣をおいておいて、感じるままに
感じましょうと言う事が一番重要になってしまった
それの延長線上で芸術もかたられているので、感じるままに感じるって、非常に個人が主体性を
もつように、感じる 教育された方は気持ちが良くなる理論なんですね  

しかし迷走してしまっていると言うのも事実  本当はルールが有るのにも拘われず ルールが無くていいので感じるままに感じるのが一番べストなので、「ピカソの絵は俺感じない」とかに成ってしまう  
それはルールを知らないからそうなってしまう 
芸術のルールは?→写真もデザインも同じだが、 四角いもの 7:3とか6:4とか 比率は人間が
見やすい比率ですが 縦に絵を観る 横に見る時に、目が追う軌跡と言うのは目が四角の中を泳ぐ流れは有る一定のナビゲーションは可能なんです
絵を観る目の巡回先は有るわけです  それはまだ建築のように理論付けられていない  

現代美術の登場によって目線の誘導とかいうとかは 、関係ない情操教育のもっと尖鋭性のものが出てきてしまって、ただここに物体が有ればそれは芸術である というムブメントが出てきてしまって1970年代に出てきて仕舞って、あんまりそこら辺が発展していない 
生きざれにされているエリアですが ルールが有るんです
私がルールを理解していると言う事を専門家の人達が解っているので、共有しているので私が
作っているフィギュア、と言うのを珍味だけど食べてみよう、食べてみたら、まあいいんじゃないの と言うのが私の作品なんです   

ルールがある、設計図が有る、大作が有ればそれなりに複雑な建築の図面と同じように、絵画の図面も複雑に有る   
建築が地震が有れば立っていると同じように、地震と言う様な時に対応するのに匹敵するのは
絵で有れば、300年残るのか、10年しか残らないのかで、絵画の設計図の図面は全然違う   例えば 下地作る、素材の選択 素材の塗り方、乾燥のさせ方 漆職人とか、陶器職人と似ていると思う  技術的な文脈ですね
画面が有って壺が有って花が有ったら先ず花から見る  
抽象画では顔で有ったり、花であったりを、どういう風に設定、表現するかが非常に難しい

写真では解らない事が、本物を観ると絵具がちょこっとした厚みが違っていたりして、明らかに
一番最初に見る構図のところに突起部が有ったりして、それは写真には写って無かったりする やっぱり本物 を見なければ、駄目だと言う事になる
五百羅漢図も全然違う  雑誌で見ると目線から30~40cmの距離  この距離で100mの絵は
見れない 人間が必然的に後ずさりして見る 4m以上下がって見る
近くで見てこんなに複雑な事をやっているんだと 遠くで見るのと違ったものが見える

女王が村上氏のファン コロンビア大学に行かれてアートの空気を吸った 
 国を立国とはどういう事をすることか 国が立国して、存続して、頂点迎えて 衰退してゆく
そう言う歴史を学ぶ時に 国と言うフレームの中に芸術と言うものは絶対なければいけないというのは学んだと思う
経済、産業だったりするのはもちろんだが、芸術も絶対必要だと思う  
人間が生きて行く中で  そこを強烈に学んだので、そこは足りないと思ったので、凄く今精力的にやっていると思います  
早く国を熟成するためには不純物が必要だと思う
今日本は不純物を廃絶しようとしている  純粋に経済を活性化すればいいと 皆言う 
それはおかしい 不純物がないと人間は生きていけない

不勉強だと思う  カタールは王室が国を何とかしてゆこうと思っている   
早く国を熟成しようと思っている
カタールは日本のシエールガスの技術によって潤っているので日本には恩が有ると言っている  
日本がいなければ、我々の国は無いと言っている
大震災の時でも99億円を被災地に寄付している  
村上氏は日本では評価が余りないが→藤田嗣治 は珍妙な髪型 おかっぱ頭 丸眼鏡で 
パリで寵児だった 
戦争が起こって、愛国心が燃えて帰ってきた  
自分が出来る仕事で、出来る事と言う事で、戦地に行って絵を書いた  
戦争が終わって、戦犯として 日本の絵画協会みたいな処から彼こそが戦犯であると、つるし上げを食った
  
いろいろ有ってさばきを受けて逃げるようにしてパリ戻った  嫉妬と無理解だと思う
彼がやってたのは洋画 だけど彼のフォームは日本画なんですよ 
折衷したことは日本洋画の人達には許されざる事だった  
西洋のルールを学ぼうとして洋画をやっているんじゃないのか 、有ろうことか日本の魂である日本画を海外でしかも、油絵で語るとかなにごとかと言われて、彼は追われて逃げた  
芸術の本当の大事な部分は衝突なんです  衝突と破壊 そしてもう一回再生 
その衝突の瞬間は物凄い嫌われてと言うか、無理解の極地になる
何が起こっているか判らないので  でもやっている本人はビジョンが見えている 

50年後は単なる何の変哲もない風景ですよと
今は見えないかもしれないけど、困ったなあと、当人はこんなに嫌だとはおもわなかった 
毎日毎日言われる  はしたない 人のネタで商売している
藤田さんと同じ  日本画の技法で西洋で商売している事と同じ、そんなもの誰にでもできるじゃないかと、手塚先生も日本画の人に君はスケッチが出来ていないので勉強しなさいと言われた しかし 漫画は記号で有って写生ではないと言う理論を発明
私も文化の衝突の真っただ中に居るんだろうなと思いますが、勝手に人のねたで商売をして搾取であると 搾取して何も還元していない
でもそのうちに解ると思う  いずれそのうちに還元するのは実は私なんです、

私は信じて疑わないし、そう言う事をずーっとやっている
うちの「かいかいきき」という会社は狩野永徳 2代目の人の評論文から来ている かいかいきき
私が大学に入って嫌っていたのは徒弟制度、徒弟制度を安易に組み込むと将来、家が建つぐらい、高く売れるよと言われたのが嫌でしょうがなかった
作品に意味がある様に感じなかった 
しかし日本人に一番合う芸術の生成の仕方とはなにかと言うと徒弟制度しかないと言うのを現代美術を勉強して、アメリカで活動してゆくうちに、日本人とは何かと、言う事を考えれば考えるほど、徒弟制と言う事を基本にして集団で物作りをやることが非常に、適性に有ってると言う事が解ってきたので、日本人が芸術をやる時には、集団でやるべしと 理念ですね  
漫画家でもそうです 
 
映画が作りたかった 去年から出来るようになった いままでの延長線   初監督  シナリオ
 音楽付けるとか 初めて 「めめめのくらげ」
受験の絵 西洋式の絵 漫画絵 漫画絵が下手だった  
五百羅漢図を作る時には、ストーリーを考えざるを得なかった ストーリーを一杯考えていた 
ストーリーテーリングが出来るかもしれないと発見したので、絵画では伝えられない事が有るので、今の空気を今の言葉で伝えたいと思っている
フィギュア作り、絵をかいたり、映画を作り 同じ気持ちでやっている   
すべてこの世は理不尽で不幸なものである そういうメッセージなんです

私の一番大事なメッセージなんです  今現代は不幸を感じさせない奇跡的な一瞬だと思います多分これから崩れて行くと思う
こんなに幸せな日々は続かないと思う ふっと振り返るとちょっとした裂け目で地獄図が出て来る
世の中なので、それはやっぱり忘れてはいけない
子供のころにベトナム戦争が有ったり、痛い痛い病 公害がいろいろあって なんで不幸な人が
いるんだろうと思って、  今は全部隠してしまっているんで  ストーリーの中で子供達にメッセージを伝えて行きたいと思っている  
ゴヤが子供を食べている絵が有るが、あれが私の絵の原体験で、ずっと頭に残っていて時々
其の絵がフラッシュバックして来るので必要な体験だと思う

2013年2月26日火曜日

村上隆(現代アーティスト51歳)      ・現代アートで時代を変える


村上隆の作品はアニメキャラクターや漫画の様なユニークなもの 2008年『My Lonesome CowBoy
フィギュアーの作品はおよそ16億円で落札されて話題になりました
それまでも等身大の作品が何度も5000万円以上で落札されて アメリカのタイム紙で世界で最も
影響力ある100人に選ばれたり、イギリスでのアート誌でも世界のアート業界をリードする100人に
選ばれています
2010年にはベルサイユ宮殿で個展を開催 2012年にはカタールのドーハで展覧会を開きました
特にカタール出展示した全長100mに及ぶ五百羅漢図は評判になりました  
東京芸術大学で日本画を学んで、大学院で博士号を取られています 
村上さんはなにがきっかけで現代アートの世界に入られたのか、そのユニークな作品で何を
伝えたいのか等を伺いました

何が表現したいのか  芸術の世界は、日本で教育されている芸術はオリジナリティーがある、
ユニークである  そこが大事なポイントでもう一つ 孤高の生き方をしている (アーティスト)
ユニークなものが出て来る そして讃える
大竹伸朗 展覧会で衝撃を受けた(現代美術)  現代美術について勉強し始める 
32歳の時にニューヨークに渡航する(現代美術の首都)いろんな側面が有って 
マイノリティーが大きなテーマであり トレンドが来る  ニューヨークの街はアートがあふれてる 
トレンドが出て来る   脚光が浴びる瞬間が来た(日本人に)
現代美術で中国人はいなかった 私は途中に居た マイノリティーにおいての芸術とは何かという
テーマが有ってその中に入って行った

印象派(モネ、)は数人だが、当時の芸術家は何万人、何十万人がいた  
最終的には時代が洗い流して残る作品、残る作家しか残らない 残る作品は良い作品ですか
偶然だと思う  伊藤若冲 の作品は一昨年ぐらいまでは青物問屋のお宅で結婚も
しないで絵三昧の生活を送っている作家と言う事で、お寺に寄贈して作品が残っていた と言う話に成っていた
帳簿が出てきて若冲本人が青物問屋全体を纏めていて、江戸幕府との折衝をしていたという記録が残っている事で、価値観も見方も変わる
絵に対する見方が変わった  お宅で好きで好きで細かく書いていた 
火事にあって自分の財産を全部焼かれてしまい何とか生きて行かなければ行けないと言う事で職業画家になった
 
65歳過ぎ  その頃からの作品が私は好きで 凄味が有る 食うに困った人間の底力が出てきて
びんびん来るものが有って凄く そういうところが好きだなあと思っていた  計算できる人だった
近い過去はどんどん忘れてしまったりとかある(30年~50年)  偶然が残ってくる
戦争で若冲は海外アメリカ、に売られて行ったが当時は高くなく、日本では価値がなかった
ゲテモノの部類として扱われていた
プライスさんは私は好きだと言う事で購入して、隠れていた過去が解って来るうちに、この作家は
価値がもっともっと高いのではないかと(研究されたりして行くうちに、)後世の人が決めている
尾形光琳とか琳派の作家に負けて、戦中、戦後は評価は低かった

最近では尾形光琳に匹敵するのではないかと評価されている   
何故その作家が評価されるのかは偶然性が高くて正直解らない
2008年タイム誌で100人に選ばれる  (村上隆と山中教授の2人)  
ちょっと前に運慶快慶の仏像が15億円で落札された
オークション会社は高く売りたい 5億円位まで2人が競って来て16億円までになってしまった
ギリシャ彫刻と人形とをアレンジしたような感じ   印象派のモネが如何して皆好きかと言うと
それはブランドだからです
ブランドが構築されるべくして構築され、構築されるべくして構築しようとしても構築されないものは構築されない

誰かがモネを好きな人が有る分量いて、その人達がマーケットを支え続けた  
だからモネは非常に高額で今も取引されている
それが世界の価値かと言う時に、なるほどねと思う と言う事でそれは一つの価値ですね
大衆がイニシアティブを取る  母が心が休まる、という なぜ心が休まるかと言うと 有名だからと
言うのが一つの理屈 自分は幼少の頃に本で見てたら現物を見てたら涙が出てきた  
それはアイドルとかと同じシステムであって、憧れのあの作品の現物を見たから涙が出てきたと言う事でその実態は虚構で有って現実でも何でもないと思う 
 
ただ例えばサッカーを見るとファンタジスタなプレーが有るが、今考えられる技術、ゲームの運び
そういう物を全部考え尽くしてもこのプレイは物凄過ぎる 
それで点を入れるかねがファンタジスタ これと同じように芸術でもファンタジスタはある
実は私の芸術はそういう作品なんです (解って貰えないが)  マイノリティーのゴール  
セクシャリティーのゴール 彫刻、色彩 頓知 とかのいろんなゴ-ルが有る
そこのゴールにめがけてシュートが決まると尊敬されるアーティストです  
先ず技術的な面が有る、其の技術的な面は日本のアート史には見る目がない 
教育がなされていないので私の評価は低い

マネとかの作品が来て裸で森の中で食事をしている作品 凄いテクニックである  
当時のトレンドとしては、当時の作品から言って逆行している様な 時代に逆行するようなコンセプトで色の置き方、描写の仕方、テーマ設定 ゴールの狙い方が珍妙というか不思議なものを狙っている 
それが確かに今は通じるが、でも当時は通じなかったでしょう  
凄いこんなに飛距離の長いゴールをよく打てましたねと尊敬されている
芸術って そんな覚えることはないと思っているが 感性で解ると思うが 違います
サッカーとかはゴールに入るので解るが、芸術は誰が見ても解るとは云えない  
ニューヨークは現代芸術があふれている
私のは珍妙であると言う事ですね(いつもヘッディングでゴールをするような 又こんなヘッディングかよ 凄いね と言う様な)漫画が偉い 日本に燦然と輝く文化である 

日本の漫画も誰かが啓蒙しないといけない そうしなければ世界の藝術に成らない
日本人は解っていない だから外国のブランドは大好きなんですよ
 自分達はブランドを作れないと思っている
ブランドを作ると言うことは啓蒙活動ですから 啓蒙活動を集中してやり続けるプレイヤーが多い
ほど啓蒙成功する
しかし漫画のプレイは一杯いるけれども啓蒙する人は凄く少ない  漫画は芸術だと思って居る
漫画の方が正しい  マンガの方が世界の芸術でポットなんです  
それを立証するために自分自身がありとあらゆる芸術の分野を勉強してそれを立証しなければいけないと思って、自分自身が実験台になって、いろいろやっている

自分が子供のころに見たアニメ は凄いと思って感動を呼び起こす この凄さを人に伝えたいと
思って、伝えたいと思うより先に才能がドンドンそこの業界に入ってきて、物凄い驚くべき業界に漫画が成っている
葛飾北斎の冨嶽三十六景の赤富士  当時藝術だったんですかと言う事ですよね  
当時ただのポスターだった    器を包む新聞紙みたいなものだった
それを観て日本から送られてきた、版画とか包み紙を高い金で取引し始めた
これは凄いんだと印象派で伝える人が特別にいた ゴッホもそのうちの一人だった 

逆輸入で世界の浮世絵になった
何故逆輸入しかできないの 日本人は というのが 私の一番のモチベーションですね  
日本の文化を日本人たちが世界にどうですかと 問いかける事がなぜできないのかと
それを自分は若い頃から疑問に思っていたので自分自身がやって見ようと思った
それを筒井先生に話した  それは君の仕事だよ 気がついた人がやればいいと言われて、
やっている訳です
日本画とは何かとの疑問から始まった  
現代美術よりも日本画(当時平山郁夫先生等がいた)の方が遥かに高かった
マネーゲームが行われているのではないかと聞き込み調査を行っていた 確かにやられていた
バブル崩壊の時に日本画業界はクラッシュした 今もクラッシュしっぱなしだが   
いまたまたま私は現代美術の世界に来て 16億円 これはおかしい
当時のバブル経済の時の日本画の価格がおかしかったようにおかしい  
しかしそれが価格として続けて行けばおかしくなない

ではどうしたら続くのか、どうしたら続かないのかが、一番分析したいポイントなんです
それが偶然だと解ってきた   ここ10年ぐらい黒人文化が変わってきた 
マイケルジョーダンとかブラクカルチャーは凄い好きで 何かは解らないが
私の評価の1/3は黒人の文化をけん引している人達が後ろ手に成っていると言っても言い過ぎではない
胸の大きな女性がぽーんと居たり、エロチックなものが有り、それから伝えたい物は有るのか→ギリシャ彫刻、明治時代の洋画家は(安井曾太郎黒田清輝
海外に行って、ヌード絵画と言う者があると発見して、日本に輸入したが、展示禁止に成って、
いろいろ事件が有った

ヌードの人間を鑑賞するというたしなみが西洋人は有った  
我々には無かった フィギュア―では足を異常に長くとか、顔をちっちゃくとか胸を大きくとか、ヌードではない  着衣
だがそれぞれの箇所をデフォルメしているという鑑賞のルールがある
鑑賞のルールの接合(西洋式のヌードの鑑賞のルールとお宅の人達の着衣のルールを接合してゆく
とこうなるんじゃないんですかと言うのが私の作品) 
フィギュアにした理由は→6つのみ  抽象画家が私の分野 これが専門なんです
1950年代の抽象表現主義と今のキャラクター文化と言うものを接合すると、僕の絵になる 
そういう形なんです

何が求められているかと言う事からスタートする  最近は多い 漫画も多い
間違っていた教育を受けていたことを皆さん解っていただきたい   
芸術は孤高の人間が頭が飛んじゃっているような間儀で書くのではなく 
ちゃんとマーケットが有って、マーケットと歴史を作るプレイヤーが何人もいて、必然的な構造が有って次の世代に手渡されていると言う事を、一番誤解されやすいのがゴッホの逸話なんです
  
弟が生前1枚しか売らなかったという逸話が強すぎて、孤高の画家がべストと 思われているが、ベラスケスドラクロワとかアーティストはクライアントがいたりして、宮廷画家だったりして 何故そこを皆忘れてるんだろうと、忘れちゃいけないのは19世紀の最後に 50年ぐらいトレンドとして 芸術家が芸術家の為に書く芸術というトレンドが有っただけで、それの影響がいまだに続いて居ていますけど、今はそういう時代は無くなり、今のトレンドは何かと言うと 、資本主義と芸術との距離感を芸術家たちは常に探っている時代に入った
私はダミヤン・ハースト とジェフ・クーンズの後を追っただけです

ニューヨークを中心とする現代美術の世界のトレンドです  日本は間違っている
芸術は死んだあとに解るみたいなことは一般的にはある  100年後に200年後に棚をなぜている?  でも16億円で売れているが
それは資本主義です そういうものをいち早くキャッチする100年後に価値が出るので貴方の国の(トレジャー?)として買っておいた方が良いですよと、アドバイザーが生れてきた  
国の宝物になるし、将来貴方の名を残して美術館が出来ますよと言う 誘惑ですよね
モネは売れそうで売れず 、ボストンに一杯売った  
商業主義と言われれば商業主義 美術館は商業主義では無いので忘れてますが時代を経て 余計なものが現われて、ピュアな芸術しか残っていないので、そこしかお客さんは見ないが  そもそもアメリカ人のヨーロッパコンプレックス フランスコンプレックスが強く有って、フランス人はフランス人で強力なサロンが有って新しいものを排他して、画壇が有って、自分の勢力をまもっていて、印象派みたいなものははじかれた、しょうがないの、で 営業に行った 

横山大観も同じ アメリカに営業に行ってアメリカで資金を調達して、インテントを起こす資金にした
私は交渉の方が上手なんですね  才能の有るアーティストを海外に紹介する方にも精力的に
やっている(20年生き残っている 修行みたいなものは必要)  
お客の立場に成って不自然であると言う様な価格(高い)で購入して、でもそれが資本主義だと思う(株と一緒の様なシステム)
資本主義のある種の欺瞞と言うか 現代社会に転がっている大きな矛盾と言うものとどうやって
向き合えばいいかと言う事で 自分では望んでいなかったが、資本主義真っただ中に放り込まれちゃったんです 今  お金も確かに物凄い価格で売れているが、売れている仕組みを知らずして、ずーっと自分が甘んじていれば、あっという間に凋落してしまう

これは不思議なぐらい何百人、何千人と見てきているので、そうならないためにどうすればと言うかと 手を考えると いろいろと手を考えるしかない
『DOB君』15年ぐらい描いているが微妙にマイナーチェンジしている
世界のトップ10に居る様な人(私の作品を買ってくれる人)も常に不安を抱えていて、自分達の
アイデンティティーだったりだとか、未来を予測するためにいろんな投資をしている会社を買ったり サッカーチームの買い上げ アートを買ったりだとか 学習している 彼らは貪欲ですね

2013年2月25日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(鷲田清一)

天野吉                隠居大学(鷲田清一  
身体やファッション研究してきました  大阪大学元大学総長  哲学者 
「聞く力」「ちぐはぐなファッション」 出版   
体は自分の身体と当たり前のように思っているが、自分では解らない
私が私であるこの顔も見た事がない 鏡では駄目  
神様は自分の顔を観えないようにしてくれている
自分しか痛みは解らない 自分自身に対する情報は他人より非常に少ない  
自分が感じている風に他人が感じているのか不安が有る
不安を鎮めるために服を着るとか化粧が有るのではないか  
似たようなものを着る事でギャップを小さくできる

風呂は自分の輪郭が解るから気持ちいい  
一番気持ちが悪いのは自分の温度と同じ温度のお風呂に入ること 自分の身体の境界がはっきりしない
服はこれについて安心させる 輪郭を意識させる 
似ていないと駄目だが全く同じでも駄目 微妙に違わないと駄目 これが一番安定する  
山本 耀司  背広、日本の着物  殆ど完成系のもの  
着物はサイズも自由だし、着物を着るとしゃきっとするし、畳めば四角に成るし、江戸時代の方が現在よりラジカル  なにより凄いのが頭の剃りの入れ方    
どういう風に自分を表すか  ファッションどこか背伸びする 冒険をする
 
背伸びイメージとかけ離れていると似会わない 服に負ける
挙動を迫って来る服も有る  製作者はおもなってデザインして来る  
服の完成とはなにかとか  挑戦している
体毛を取ったり、眉毛を一旦剃ったりだとかしているが 顔とかボディーを気にしている 
京都にいて良かったなと思うのは 学校では私服だった 
文化 極端 はっきりしていて  芸者、舞子(凄い格好をしている) 坊さん(貧相の極み)
極端であるのでその範囲内だったら許される文化が京都にはある
一番かっこ悪いのはファッション、ファッションとは云わない  
「たかが服、されど服」

人間にとって一番大切なものは何か、との問いに考え続けるのが哲学だと    
お金 と言うものに捉われない
「誠」  要するに大事なものは皆違う  ここちいい事 快楽 楽しさがないと生き続けられない お金、豊かさが大事だと言う人もいる
人によって全然違う  哲学の誤解  理論的な思考、推理  理屈の好きな人が論理を極めて行くひとだというイメージが有るが、理論を発明するのが哲学者だとは思っていなくて、哲学というのを発見するのを哲学者だと思っている    
どういう事かというと、その人自身は雄弁に言葉では自分の一番これだけはゆるがせにしないことについて、雄弁に言葉で話したりしない

ずーっと生涯拘り続けて、これだけはおろそかにしない  
これをおろそかにすると自分を否定する事になる等、なんか確信を持っている
そういうものを私達が人の生き方をみて発見して、それを有る意味で皆に通用する言葉にして、翻訳するというのが職業人としての哲学者としての仕事と思っている      
その人の生きかたの中に何か誠と言う様なものを感じさせる 
何かが有るよねと と言う様な事にまで 皆と普通の言葉で話し
皆と普通の言葉で話し合って
行くと言う事

2013年2月24日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(北海道)

五木寛之 歌の旅人(北海道)
「家の光」のライターをやっていた時期が有って其の時に北海道に始めて行った(20代の後半)
「内地」と言う言葉を使っていた事を思い出す  昔は民謡酒場があり、三味線の音が聞こえてきた
(大好きになった)
「白い花の咲く頃」寺尾ちさ(作詞) 田村茂(作曲)  岡本敦夫(歌)
自然がたくさん残っている  函館、小樽当りから都市化が始まる 北海道人口 550万人 
札幌が192万人   
「網走番外地」矢野良(作詞) 不詳  高倉健(歌)  
こせこせしない心情を持っている  伊藤整  小林多喜二 小樽の煉瓦作りの建物・倉庫は
北陸の豪商が立てたりしていた

「恋の街札幌」浜口倉之助  石原裕次郎(歌)
明治2年に北海道と言う名前がついた  江差追分    ニシン漁がかつては有名だった  
「シルエットロマンス」来生悦子(作詞) 来生孝雄(作曲) 大橋順子(歌)
作家 子母澤 寛  三浦綾子 今 日出海 安部公房 萱野茂 渡辺淳一 池澤夏樹 京極夏彦 
藤堂志津子  等
北島三郎 細川隆 中島みゆき 吉田みわ
クラーク先生
「旅の終わりに」舘原みさき(作詞 五木寛之) 菊池俊輔(作曲)  冠次郎(歌)