2012年11月7日水曜日

菊池武夫(服装デザイナー73歳)    ・帰ってきたタケオキクチ 2

菊池武夫(服装デザイナー73歳)       帰ってきたタケオキクチ 2  
「菊池武夫の本」を出版  子供の頃あだ名が「青瓢箪」 5歳のときに大病をした 
胸のところに有る膜に膿がたまって、死にそうになった
戦争中で、病院に入院することができなくて、自宅で手術を受けた(戦時中)  
正常な形になるまで1年掛った  
12人兄弟で私の前後は二人いなくなったが、自宅にて、空襲があると、庭に作った防空壕に入れて貰っていた   
最初はカメラで何かを撮る、写真家になりたかった  
ドイツのツアイスの蛇腹で出てくるカメラが有ったので、写真を撮っていた

子供の頃絵がうまいと言われていた 
文化学院に行って、絵を習いに入ったが、デザイナーの始まりだと思う
高校辺りから、記憶する事の勉強が嫌いだったので、自由に発想する社会の方に行きたいと思った
絵書きには成れるとは思わなかったので、自然にデザインの方に行ったようだ   
学校の単位取得義務が無かった  
生徒が自由に授業さえ出れば卒業出来た
勉強らしい勉強はしなかった(本を読むとか音楽を聴くとか、絵を見るとかは自由にできたが)  自分に合った学校のように思えた
西村伊作院長  運動する科目が全くなかった  
運動することは頭に取ってよくないと院長の考えが有った

棟方志功が学校に講議きてくれて、実演をしてくれた  
集中力があって、版木絵を彫る時の姿勢は物凄く吃驚する 一挙手一投足を注視しながら、 授業をしていて、最後の5分ぐらい前に突然教室のドアが空いて、院長が入ってきて、その手にウイスキーの瓶を持って入ってきて、もうすぐ授業が終わるから、私の部屋で一杯飲みましょうと言って、出て行ったんですよ  
大人としてのなんか、大人ってこうなのか、私の大人に対する常識を遥かに超えた、大人の知らない部分を見せられた  
印象がほかの人と全く違った(他の人は全然それを覚えていなかった)  
同窓会でしゃべることは勉強以外のことしか、喋れなかった 勉強の事は覚えていない   
他の学校に行ったら、そんなことは学べなかったと思う

将来出来ることは何かと考えて、学院に行っている間に洋服に関することの実験みたいなんですが、 知り合いがデパートのコーナーを借りて 其のコーナーの中に、若手の学生が何を考えているかを具体的な洋服にしようじゃないかとの発想が有って 私と写真家になった大西公平にデザインをしてみないかとの誘いがあった  
イメージを作ってデザインをした  1年近くやっていた  洋服が結構売れた 
卒業の段階で洋服をデザインすることなのかなと思った
原のぶ子アカデミー  日本で初めて立体裁断をしていた  そこに行くことにした  
生地は絶対に無理やり扱うのは駄目だと言われた
旨く生地を扱えば形としてはきちっとしたものが出来る  
立体で習ったのが僕の基本になった様に思う

原のぶ子デザインアカデミーには1年しかいなかった  その間に2回ショーをやった  
授業は出ないで洋服作りはやった ショーをみて当時の先生方が声を掛けてくれた
ルリ落合さんという人が卒業するときに声を掛けてくれた、そこにいくようにした  
黒柳徹子の洋服を作っていた
行った当日に東映の佐久間良子さんの処にいって洋服を作るようにとの指示が有った  
吃驚してしまったが、なんとかデザインした 物凄く怖くなって辞めた
卒業した時に結婚をしていたので、直ぐにはたらなければいけなかったので、マダムミキさんのところに入って、注文される服を自分でデザインして生地を選んで、全部自分で選んで、23歳の時期に大人に合った洋服をどうやって作るかの実感が無い時に、洋服を作ったので矢張り3か月しか持たなかった
 
プレッシャーもあったし、もっと勉強しないいけないかなあと思って、知り合いに紹介された、ミノザ  家庭的な良い店だったが、自分で全部やる事に違和感を矢張り感じた
それまで学生だったので現実の社会を知らないし、修行したかった   
知識が少ない 実力がいっていないので 凄く不安だった
感性は有ったと思うかもしれないが、その間の経験は凄く濃密な時間だった
(1年間が10年分に相当する様な感覚だった)
その後、自宅で自分が満足する様な仕事をしたいと思って、親の援助も有って、アトリエを作った  知り合いを通じて、注文を受けたりして、仕事が段々出来るようになった

人の意見を聞く中での仕事だったので、疑問を抱くようになった  
師と仰ぐ人が見当たらなかった 
注文者が先生として、自分の技術がすこしずつ進化したと思う
交友関係も物凄く増えた  地道にやってきた人で大成した人は10指に満たないと思う  
物をやっているのは人ですから最も人は大事だと思った
歩く事は子供時代から大好きだった 
千代田区から、上野、池袋等に小学校の時代に歩いて行ったりしていた
ヘミングウエイが大好きだった 『春の奔流』  春風が吹く時にはうきうきしてくる  
体感する風が良かった
 
ファションで興奮することは?  
ありますね  わくわくしますね  
自分の中で考えたり、作ることは原点ですから、そこの部分に止まっていていいのかなと思う
してこなかったことが多分いくつかあると思う  
自分がやってきた事がどれだけきちっと人の為に成ってきたかを、想い起こす意味で本を書いたのでその時に、自分がやってきたこと、を想い起こすんですが、やっぱりやっていないことが沢山ある  
我々の仕事はやりっぱなしになるので、その時だけの仕事になるので、之はどういう意味が有って、どうなんだと言う事をやっぱりそれなりに判るようにして、自分がやってきたことが世の中に結びつけるものが何があるかどうかを考えている  
毎日が生きてられて、ちゃんと出来ていればいいと思う 
積み重ねで結果的に幾つまで生きられるか判らない、昔と今の変化をあまり感じないので  
多分まだ出来るのではないかと思ってます

2012年11月6日火曜日

菊池武夫(服装デザイナー73歳)    ・帰ってきたタケオキクチ

菊池武夫(服装デザイナー73歳)         帰ってきたタケオキクチ  
1970年にビーを立ち上げ 1984年にタケオキクチを立ち上げました  
今年5月再び自身のデザイナーとして復帰しました

おしゃれすること自体が好き 足にはスニーカーが一番優しい 疲れも違う  
8年ぶりに復活  自分のブランドから身を引いた
30代~35歳までの方が主なお客なので 同世代のデザイナーに引き継いで貰った  
構想を練って、40代からうえの世代のブランド作ってやっていた
年齢のギャップを感じていたので、一度身を引いた アウトサイドからは見ていた  
30代は賢くなった 情報が豊か 自分の生きる道をある程度決定してしまうような
考え方を持っているように感じた  
エネルギーを外に出すのが判らなくなってきているように感じた

生き方 時代として、文化みたいなものであるかなと思う 
我々の時代の事を改めて、知って貰おうと思ったのが復帰の一つ
賢くなれば、慎重に成ってしまうのが優先してしまうので、一旦とっぱらって、白紙の状態から物をみるという習慣がもう少しあってもいいのではないかと思っている
ファッションは前に有った物を少しずつ壊しながら前に進みと言う事をしている 
先へ進む時のエネルギーが人に伝わって表現されたものに賛同して頂ける
今のファッションは完成されたものが多い そうならば、未来が無い 
 もっと目を広げて、できないことでもやってみると言う姿勢が必要かなと思う
1960年代に仕事を始める  縫製のアトリエを作って注文を貰ったりしていた  
物を自分で作って売ると言うことはしていなかった

自分で作った物を試してみたくなった 欧州、米国を2カ月かかって見て回った 
 もっと自由に表現するものがある  エネルギーの強さを感じた
帰ってきて会社(メンズ ビー)をつくった 
周りには自分の作ったものが無くて、評価して貰い、事業も順調に推移した
音楽のイメージと共鳴する様なものを作っていた   
 メディアの中でしょうけん 傷だらけの天使 の洋服を担当していた 
今までのTV界の製作とは違う
新しいドラマ ショウケンが着ていたものが私のデザインだったので、洋服と言うより、一つの文化のもとみたいな形で普及して行ったので印象が強烈だったと思う

1984年にタケオククチを立ち上げた(2年前にパリで仕事をしていた  
日本会社がガタガタに成ってしまっていて、もう一度きちっと土台を作りなおそうと帰ってきた)  友人に頼んで社長に変わって貰い、自分はデザインに専念しようと思った 1981年自分が考えている新しいデザインを展開したら、復活した  
1970年代は文化的にも動乱の時代だった 新しいものにたいする息吹きが有った
自分がやっている事に確信が有るわけではない  
ファッションショーをやって、反応を見るが、それだけでも確信が出来るわけでもない
これしかないと自分自身を追いこむ  テンションを高める 
製作過程で間が空いてしまったりすると、テンションが上がった状態なので耐えられずに
どっかに行ってしまったりすることがある  
(車で長い事旅行に行ってしまったり  最高で2カ月間)

会社のやり方は自分自身が形を生み出さないといけないと思った   
いろいろな人達の都度出合いがあって、そのノウハウを参考にしたことはあると思う
ファッションは二極化している  ファーストファッションは 物凄く有る面即断をしないといけない  世界中にアンテナを張って中に取り込んでいかないとだめ,システム作りをしていかないと駄目 ユニクロはワールドワイドでやっている  ファッションはその範囲でしかできない  
成功しないと継続できない 複雑な問題を抱えている  価格は安いほう  
同じものでは悲しいものもある  違うものを求める その繰り返し
新しいこれからの未来の生きかたの洋服、ショップの有り方を作っていきたいなと言うのが、復帰のもとでもあったわけです
人にやさしい空間、出来るだけナチュラルのように、ショップとしてのデザイン、完全にリセットして再スタートしたいと思っている
来年の秋からが新しい服を提供できるかなと思っている

2012年11月5日月曜日

安岡定子(子供論語塾講師)   ・論語を平成の子供達へ

安岡定子(子供論語塾講師)  論語を平成の子供達へ
祖父、安岡正篤(漢学者)と幼少の頃一緒に過ごす   孔子は今から2500年前、内戦が絶えない
春秋時代に生まれ、人間形成の大切さを弟子に伝えました
弟子たちが孔子の言葉を本に纏めたのが「論語」です   
論語は古い教育の残滓と言われた時代がありましたが、現代の世相不安のなか、再評価されました
安岡さんは東北から九州まで子供を中心に、素読を中心とする寺子屋方式で行いまして、
さらに大人たちを対象に塾も広がり始めています
「子供論語塾」はシリーズを通して、30万部発行するベストセラーになって、NHK教育TV番組の
「子供論語シリーズ」にも解説出演していらっしゃいました
論語の魅力、子供達に論語を教える狙いなどを伺いました
大学は中国文学を専攻 リズムが好きだった 杜甫李白等 「 国破れて山河あり・・・」リズムが良い    
必修で論語を読まなければならないので改めて勉強
内容を理解できたのは、大学になってから(高校でも教わったが理解できなかった)  
30代の半ばから改めて勉強する(論語の講座にいく)
たまたま田部井文雄先生の講座だった  3か月の講座 (生涯学習講座) 
主婦、リタイアした人が多かった
漢文を読むと言う事に趣を置かなかったので、楽しかった理由の一つ  
弟子との関係の人間模様を説明してくれて、興味を抱いた
今の私達と変わらないと思った(個性的な弟子に合った話を孔子はした)   
登場人物は多岐にわたっている

人間的な姿が見えていて、面白かった 
祖父から直接は教えて貰ったことは無い  環境は大家族的な暮らし 父は次男 
伯父、叔母も同一敷地内に住んでいた  一人になることは無い
祖父が私に接するのは気長だった 答えは教えてくれないが答えの導き方を教えてくれた  
勉強の学び方が大事だと言っていた
判らない漢字は諸橋先生の大漢和から引いて教えてくれる  
一旦閉じて、改めて自分で引いて見なさいと言われる
気長に一緒に付き合ってあげる  小さいお子さんと接するときにはその様に付き合いたいと
思って、教え方を理解出来たので良かった

講座で仲良くなった人で盛岡さん 青少年の育成の係わっている人で、精神世界をきちっと
若い頃から持つことが大切だと思っていられる人
お子さんに論語を読む場を企画された  それが論語塾に成ってゆくんですが 田部井先生に
相談してやろうと言う事になった
子供であれば女の先生が良いのではと言う事で私に話があり、引き受けることにしました
小学校1年生から が多かった   
先ず声を出して読むことに重点を置いた  
難しい話をするとつまらなくなってしまうと言う事があるので、楽しく声を出して
リズムで身体に覚えてゆくようにした  何が大切かと言う事を伝えたいと思った  
「仁」 思いやりが大切と 特に詳しく教えるようにした

「巧言麗色 仁少なし」    いつか大人になったら判る時期が来ると思うので先ずは言葉を
覚えればいいと思っている
大人が思っている以上に記憶力が良い ので無理ではないかと思うような言葉も直ぐに覚える
繰り返し読むことで段々意味が判ってくる  
3年生ぐらいになると、そんな風に捉えているんだと、時々吃驚する
3冊セットに成っている  これはと思われる20章を最初に選んだ(子供と一緒に読みたいもの) 
「子日く 学んで時に之を習う 亦説ばしからずや  朋有り、遠方より来る 亦楽しからずや   
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや」
(子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不愠、不亦君子乎)

学ぶ喜び  良き友人  理想の人  基本の3つ
「子のたまわく 剛毅木訥 仁に近し」 
(子曰、剛毅木訥近仁 
正しい事をする強い意志  
口下手 (恥ずかしがり屋さんで上手く言えない人) 誠実です(思いやり、優しい気持ち)
「子 子夏に謂いてのたまわく  女(なんじ)君主の儒となれ 小人の儒となることなかれ」 
(子謂子夏曰、女為君子儒、無為小人儒)
 子夏:弟子の名前   儒:学者   仁、信、義、徳を身に付けた学者になりなさい
全国14か所になる  成果は中々見えない 大人になって読むと味わい深い  
美しいもの文章をリズムで身体の中に子供のころから入れてゆく
答えが決まっていないものも大事  そういったものはおろそかにしがちであるが 
情緒  表現力、思考力 が含まれていて 小さい頃名文に触れておくと言う事は
表現力も思考力もとても優れた、物に育ってゆくので何年も続けていると実感出来るので大切だと思う
大人の受講生 学ぶ姿勢が真摯である 子供に対しても良い影響を与える 

自然に大人の挙動、等を学んでゆく
「子 のたまわく 歳寒くして しかる後に 松柏のしぼむに後るるを知る」 
(子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也)  
冬になると 葉を落とさない木がある(松、とかの常緑樹 柏は檜の事を指す)
孔子は人の生きざまを重ねた  何事かあったときにその人の本当の力が見える 
その人が何を大切に生きているかという本当の姿が見えてしまう
「子のたまわく 君子は矜にして争わず、群して党せず」 
(子曰、君子矜而不争、群而不党) 
理想の人は自分に対しては、非常に厳しいけれども、人と争う事もない  
多くの人と仲良くすることは
出来るけれども  だからと言って偏った付き合いをしない  徒党を組んだりしない
孔子自身が激動の時代を生き抜いた人だから、悩みにこたえてくれる     

2012年11月4日日曜日

中村昌枝(79歳)         ・時代を作った女たち(女子バレーボール)

中村昌枝(79歳)            時代を作った女たち(女子バレーボール)  
東京オリンピック 女子バレーボール主将 1933年山梨県の生れ 
37年主将として世界選手権で優勝 39年東京オリンピックでも優勝して金メダルを取りました 東洋の魔女と呼ばれ世界を驚嘆させました   旧姓河西昌枝  

バレーボール協会とは何にもやっていないが、応援をしています  
年に何十回はボールに触る ママさんバレーで教えたりしている
10月23日にソ連と決勝を争う  
2セットまでは日本が取ったが3セット目にソ連が先行  
マッチポイントを握るが6回のサーブ権の移動があり最後に勝利する
当時31歳だった  当時の仲間たちはオリンピック後に2~3年後には結婚した
昔からいつでも一番後ろに並んだ  
兄が3人いるが、背は皆大きかった 両親は普通だったが 

小学校時代が戦争だった  
畑仕事を手伝いするのが当たり前の時代だった(田植え、草取り、麦刈等)
背が高いのは悩みだった バレーボールを選んで良かった  
中学ではバレーボールもなかなか無かった時代  きっかけはバレーの先生がいたから
高校に進んでもバレーボールを選び 県では優勝が出来なかった  
3年の時に関東大会に出る 1回戦は勝ったが、2回戦には負けた
ニチボーの足利工場の工場長がこの大会を見ていた  背が高いので目にとまった  
バレーは旨くなかったが、採用してくれることになった

27年に足利工場に就職する  当時は日本一のバレーボールチームだった  
真似したり聞いたりすれば何とかなると思った 2年目にレギュラーになった
29年に貝塚工場に転勤となる  ニチボー貝塚が誕生する 全日本を制覇する  
4つの全国大会があり、全部制覇する 25歳の時 その時に6人制が出来る
その時は辞める事にしていたが、6人制でやれば、外国に行けると言う事で続けることにした
1960年ブラジルで世界大会があり、そこに行くことになる   銀メダルを取ることになる  
決勝ではソ連に負ける
優勝杯を見た時に あの一位のソ連に勝てば、優勝杯を獲れるのだと思って、合言葉のもとに練習することになる 
オリンピックにバレーの種目が入ることになる 
オリンピックの2年前に世界選手権大会があり、優勝する そのままのメンバーでやるかどうかが焦点になる
大松監督がお前らがやるなら、おれもやると言った  
両親との話では纏まらず、監督に預けることになる(29歳の時)

父はオリンピックの年の8月に亡くなり、オリンピックは見ることが出来なかった
オリンピックでは追われる立場になる  女子バレーは金メダルだと回りから言われていた  
兎に角練習をやって、ミスの無い事を目指した
出来なかった事が段々出来るようになった そういうことの繰り返しだった  
8~10時間練習する  4時間位しか眠らなかった
時差の問題があり、寝る時間を深く眠る事になる  そういう身体にして行った。
4時から練習に入って、7時位におにぎりを食べて、1時、2時に終了する様な練習時間編成だった
給料貰っても遊びに行かないので、使い道が無かった  
世界をめざすようになってから、正月休みぐらいだった
練習のきつさで辞める人はいなかった  
鬼の大松監督といわれたが、練習はきつかったが、練習が終わると普通の人だった
コーチは置かなかった 兎に角一人でやった  
その姿勢の一生懸命さに 一緒に付いて行った  
監督、選手が お互いに知りつくしていた
50年経っても昔のチームメイトとの 絆、仲間意識は全然変わらない
身体を動かしているのは健康に良い(ママさんバレーでの継続)

2012年11月3日土曜日

中村ユキ(漫画家39歳)      ・大好きな母は統合失調症

中村ユキ(漫画家39歳) 大好きな母は統合失調症
4歳のときに母が27歳のときに統合失調症になり、入退院を繰り返し、いろいろ苦しみましたが、
ある事をきっかけに症状が安定したと言われます
統合失調症の母との30年に渡る生活をユーモアを交えて描いたコミックエッセーを、発表、
「我が家の母は病気です」  この病気を知って貰おうと活動しています 
母とのこれまでの生活、知って貰いたいこととは何なのか
最初は隣の人が悪口を言っていると言って、隣の家の人を凄く気にするようになった  
私や祖父母は隣の声が聞こえてこなかったので母の言っている意味が判らなかった
人の家に土足で上がって、ガタガタ震えながら、この家に入らないと殺されると言って
、まわりの大人たちは、驚いていた場面を覚えている

100人に一人が罹ると言われている病気、10代から20代に多くかかる病気 だと言われている 
症状がいろいろ  直るまでの経過がそれぞれ違う
個人差が激しい病気  昔はこの病気にかかると一生が台無し、人格が崩壊して廃人になると言われていたが、今はリハリビ、薬と併用しながら普通に生活できる陽性症状では幻聴、幻覚、妄想があり、陰性症状ではやる気が起きない、身体を動かすのが苦痛、引き込もりがある
原因と考えられるのに、ストレスと言われてるが、実家の祖父がDVで家庭暴力がひどかったので
母は優しい人と結婚したいと思ったようで、結婚したが父は凄い ギャンブラーで、定職を持たないので、お金で苦労したり、また 父の友達等が結婚したので、俺も結婚するかと言うような、形で結婚したので、母に愛情を返してくれなかったんじゃないのかなあと思いました

私を産んだ後も 母に対しても優しくしてくれなかった 
祖父母にもたよれず、生活の悩みを全部抱えてしまった
最初の入院は1ヵ月位  母の場合は薬を飲むと直ってしまうような状況だった 
 再発する どうやって病気と付き合って行くかと言うようなことは教わらなかった
結果的に放置される 自分の事を卑下するようになった  何回か自殺未遂をしたことがある  
母には私は懐いていたので、生きていてくれれば良いと思った
私と一緒に生きている事が、母の生きる支えのようになった  
うれしいきもちも有って考えさせられた
周りの大人のサポートは無かった 
 
退院後は通院して服薬をするのが通常ですが、そう言った事も教えられなかった
大阪から千葉の病院に入院して、戻っていたら、病院に行っていないので、通院しなかったし、
薬を飲まなかった
子供の頃から母の面倒を見るようになった 家の掃除、洗濯、料理は?  
普通には暮らせていた 幻聴があるが日常生活には支障が無かった
高校を卒業して、就職をした   その頃には母は父とは離婚していた  
母はストレスで大酒を飲んだりしていたが そういう辛さを私は理解していなかった 
自分も稼ぎたいと思って、就職の道を選んだ  母がどう仕様もないぐらい大暴れして、
これはどう仕様もないと、母の主治医のところに連れて行った
普通の人に理解して貰うのが恥ずかしいと思っていて、どういう事が有ったと言うようなことを
先生にも話してなかった、と言う事が判った

先生は何ですか、この状態はと、驚いた  
毎月一回は頻繁にこの様なことは有ると言ったら、先生は吃驚してしまった
いままで病院に来た時には、日常の悩みごとなどを話して帰っていたので、眠りやすい薬、
とかいらっとしたときにだすストレスの薬を薬を出していただけですと言われた
相談することすら出来て無かったのが驚きだった 母の事を段々オープンにして言った
おばに預けた事がある 母が大暴れして入院して、仕事を辞めざるを得なかった  
叔母への説明では理解できなくて、実際にみてもらった
叔母は隠すことは無くって、助けて頂戴と言った感覚で対応した  
おばに丸投げしてしまった事に反省もした

母の病気について正しく知るようになったのは、発病から25年経って、28歳の時  
地域支援センターにお世話になるようになって、そこの所長さんから、お母さんの病気は統合失調症という脳の病気なんですよ、と言われて エーって吃驚したのを覚えている
今まで不気味、不思議だと思っていたことが納得できた  
当時は心身共に疲れてしまっていて、やけっぱちの状態だった
良くなるために自分から動くと言う事は無かった  母が先に死ぬか、私が先にしぬかと、
もうどうでもいいような気持ちだった
所長さんが、私はもっとひどい症状の人を見ているけど、確実に改善している事を経験してきたから、あなたたちもそうなれるよと言われました

綺麗事に聞こえたが、通う中で明らかに笑顔が見えたり、ともだちも出来るようになった  
すこしずつ、支援センターの所長さんの言葉を受け入れられるようになった
自分から大きく動こうと思ったのが、母が障害年金が止まってしまった時、どうしていいか判らなかった  
所長さんが如何しても動けない時が有るんだったら、家族の同意が如何しても必要な時があるので 横にいてお医者さんが来たときにハイと言って、くれればいい 私が全部サポートするから ついてくるだけでいいから一緒にいらっしゃい と  言ってくれて、手続き、お金がおりるように全部やってくれた  
自分は全然動かないで、障害年金を頂けるようになって、母に笑顔が戻って生活も凄く変わってきた  

転院して薬も変わって、所長さんがこちらにいた方がいいよと言ってくれて生活が変わってきた
自分が足りなかったのは自分が正しく動く事だと気付いた  
この人を信じて見よう、やりなおしてみようと思った
心の整理もつかなくって、正しい知識もない時に、誰かが支援してくれないと、立ち上がれない
時期が有った  その時に肯定するようにやってもらえたら、落ち込んだりとか、絶望的には成らなかったのではないかと思う  
支援センターの人に感謝しています
ストレスによりワーッと症状が出る前に、相談が出来て、対応できるので波が小さく安定してきました
体験を漫画にすることになったのは、漫画家のアシスタントになる  
(漫画を沢山読むのが好きだった)   最初少女漫画、少年漫画
鬱病がポピュラーになって、有名人も公にするようになり、統合失調症を誰か有名人が公にする
人はいないかなあと思っていた
母が発病後30年になり、夫が貴方は漫画家なんだから、自分でやりなさいよと、言われて、
それでは書こうかなと思ったきっかけです

統合失調症に対しては夫は勉強している訳ではないのだが、普通に接するのが統合失調症の
人には一番良いので 怒らない マイペース こだわりが無い
結婚する時には母のことは言えなかったが、突然異常な行動を起こす事があると言ったが 
じゃあ一緒にすめばいいじゃないかと言われて拍子抜けがした
夫は楽天家です  物事をあまり考えない  
私は反対の性格で暗く落ち込むタイプなので 正反対なので助かっている
自分の母親を書く事に対して  症状がいろいろ違う事があるので統合失調症の人から苦情が
来るのではないかと気にはなった

変な意味で偏見を持つのではないかと 漫画を出すのに怖かった   
反響は一般の方から統合失調症と言うのは、分けの判らない行動をすると思っていたら
ちゃんと病気で症状が有って普通に暮らせるように治療法があると捉えて貰って、
私が勝手に先読みする こわがられるという内なる偏見が有ったと 
ちゃんと理解して貰えると確信している  昔のイメージと変わってきたことは凄く嬉しい  
手を貸してくれた人が増えた
知識が無かった頃はいらいらした   
嫌な感情を抱えるようになって母の状況がどうというよりは、私の心のなかで母に対するマイナスな感情を抱えたと言うのが、私の人生で一番辛いことでした
  
そのせいで母を憎んだりと言うのが有ったし母はそういう私を憎みはしない、母は憎まれていることを感じたし、それまでは知らない他人の声だったんですって、それが私との関係は本当に悪くなってからは私の声で聞こえ出した
母にとってはもの凄く辛いこと  我が子の声で憎まれている声が聞こえてくる   
険悪になった時期が有った その時は物凄くイライラしてきた
生活が穏やかに成って 身体的に楽に成ってから 母の立場で考えるようになった  
いらいらは減ってきた 実体験から身体で理解して行ってイライラが少なくなった
制度、施設の利用案内も判るように漫画に記載している
  
先ずあることを知って貰わないといけないと思う
周辺の理解の大事さ  「人薬と時間薬」と言う言葉  人の温かさ 人の中で改善してゆく  
精神疾患に必要なのはその病気を受け入れてゆくだけの時間
どんなに薬を飲んでいても環境が悪いと体調を悪くする  症状を押さえきれない
家族だけでは駄目で、友達だったり、支援センターであったりする   
何とかいい方法を見つけて知識を得て、情報を得て 諦めないでチャレンジして行って貰いたい

2012年11月2日金曜日

秋山好輝(フルート製作者58歳)   ・銀食器でフルートを作る

秋山好輝(フルート製作者58歳)       銀食器でフルートを作る  
19世紀の銀食器を使い、フルートを製作している  
1954年徳島県の生れ  高校時代はフォルンを吹き、将来は音楽家を目指しましたが、大学進学に当り演奏者ではなく、楽器製作の道を選びました  
生来、器用な秋山さんは上京してフルート製作会社の門をたたきました  
コツコツ仕事に取り組む秋山さんは若くして要職に抜擢される事になりました  
当時製作したフルートには秋山と刻印されるまでになりました 
さらによい響きを求めて独立して、フルートの名器と言われる、フランスのルイロットに係わることになります 
ルイロットと言えば、バイオリンに例えればストラディバリウスに相当する名器です   
その製作は19世紀のヨーロッパの銀食器を使い、かなずちで叩いて管を作るなど、手作りが基本です  

1870年代のフランスの銀食器を溶かして、板にして手で巻いたのがこの楽器です   
昔の材料の良さ  不純物が含まれていて、再現するのが難しい
1855年~ルイロットの会社が始まっている  ミネルバと言うマークが打ってある 
年代が違うとマークが少し違うので選んで使っている
ルイロットの使っていた出来るだけ同じ条件で作るように、こだわっている  
管を作る時点でもう楽器の音はすでにほぼ決まっていると思っている
最近はパイプを専門に作る会社が有るんで、パイプをつくる工程は殆どの会社はやっていない 規制品の管を買えば部品を載せるだけでいいのでフルートを、作るのは意外と簡単なんです 
ただ音を追求してゆくと管に行きついたので、気が付いた 
自分で作るしかないと思った  
作る人は良い楽器を作りたい 
経営者は良い商売をしたいと思っているので、今に至っている

97年に工房を立ち上げた時は家賃を払えない状況が結構続いた  
当時は眠れない日々が続いた  或る意味ふっきれた 
お金を儲けるのではなく、とりあえず好きな笛を作っていければいいと、なんとなく暮らせればいいと変わってきたので 良いと思うようになった  
紙が切れなくなった挟みを使って板を切る  それを丸める 
継ぎ目を見えないように擦って仕上げる  簡単ではあるが誰にも出来ないと思う  
独立をして普通の楽器を作っていたのでは駄目だと思っていた  
有る時不思議な手紙が来て、ルイロットと同じような楽器を作るには、巻き管で作ることが
絶対条件のように書いてあった   
ルイロットの後継者に成ってほしい様な意向が有ったのではないかと思った
   
2000年5月20日にジャン=ピエール・ランパルさんが、亡くなりまして、その1ヵ月位に一通の封筒が届いた  差出人、住所が書いてなかった  
日本人ですが、フランスのルイロットに勤めていたていた人らしい  
手紙が背中を押してくれたようだ 
フランスのルイロットは職人さんがいなくなって途絶えてしまった 
繋がらなくてはいけないという危機感が有った
日本人の器用さと根気強さが期待されたのではないか  
貴方が伝承するにふさわしいのでどうでしょうかという内容でした
フランスの楽器を目標にしていたので、11月1日にパリでフルートのコンベンションがあるので、手紙の主を調べようとしている

ジャンピエール・ランパルさんの遺言かなあと思っている  
フルートの世界的な演奏家 唯一金の巻き管は彼が持っている
音色 響きが豊か 色彩感がある 演奏家が想いを込めればいろんな音に変化する  
演奏家の想いを楽器に伝えやすい
音量指向に行っている現在、逆の方向のもの  優しい音がする    
現在シームレスなので工業生産されている
現在、私のは内側にひずみを付けている  
それによって多彩な音が出るようになっていると思う
以前には、作ってみたがルイロットを使っている演奏者に何かが違うといつも言われ、考えたがもう材料しかないのかなと思った

たまたま目黒の美術館に行って銀食器の展示会をやっていて、これだと思った 
調達 ロンドンの友達が直ぐに見つけてくれた
定期的に調達している   無くなる可能性がある  
国内で似たような材料を作っているが、矢張り不純物が違うので同じようには行かないのが現状 たまたま入れた会社がフルートの会社だった  今は良かったと思う 
会社で若くして研究部長になった  
演奏者の声を聞けば聞くほど会社では無理だと思った  
生産性と良い音を出すこととは相反する事であることが判った  
周りの人に助けられて、今が有ると思う  応援してくれている人がたくさんいた
機械をくれた人 部品を作ってくれてお金は後でいいよとか そういう人のお陰で出来た 
家賃はあとでいいよとか 力になってくれた

一緒に夢を見て下さいと言っていた  
ルイロットを越えたんじゃないかと演奏者から言われてきた  
ルイロットは古いので元気が無いようだ 新しいとエネルギーがある 
内側にひずみを付けるのは独特なもの フランスに行くがどういう評価してくれるのか楽しみ
プロの演奏者は使いたがらない  難しい コンディションに左右される楽器  
プロは毎日悪条件の中で演奏しなくてはいけないという、そこが一番大きな問題
それと価格が高い 
今使われいる楽器と違った方向にむく可能性があるので奏法まで見直さなければいけない可能性があるので決断が必要だと思う

楽に吹ける可能性  今の状態を残して楽に吹けるようにするには難しい問題がある   
購入はアマチュアの人が多い 最後の一本と思って購入する人もいる
技術の後継者は?→人を探して という問題ではない  
本気でフルートを作る人が出てくれるかどうかですね
力仕事だし、汚れる仕事だし、危ない仕事だし、お金に成らない可能性があるし(10年ぐらい) 今後10年ぐらいの内に一人ぐらい出てくれればいいなあとは思っているが
教える方も余裕が無いと駄目なので、ゆとりを持って仕事が出来るような状態になったときに、人を育てるだけの余裕が出来るかも知れない
今は笛を作っていて、楽しい時期ですね  段々作る数が少なくなってきている  
年に10本作りたいと思っているが、5~6本に成っている

更に良い音を創り出したい  そのうちに1年に一本に成ってしまうかも知れない  
もっと楽な選択肢があったのかも知れないが、本物を作りたいという想いは何時も有った  
権限は無い、経営者ではないと本当に思った
経営する方の逆の部分も経験した   どれだけ真剣に考えているか、しかないと思う  
進化させなければいけない 
常に一歩前に、最高のフルートとは、それは難しい  
作り手が思っている理想の楽器と 演奏者の理想の楽器は一致しないものだと思う  
100%満足した楽器は演奏家にとっては、つまらない楽器になると思う  
95%満足して5%は演奏家が何かを考えなければいけない  

そういう楽器が一番良い楽器だと思う   
お客さんの顔を見てその人に合わせて楽器を作っているが、大量生産するメーカーは先ず楽器を作って、それを選んで、買う人が選んで買えばいいと言う事で全く違う  
しばらく吹いて吹き手も楽器になれて、もうちょっと何とかという事で微調整することも有る  
顔を見ない人の楽器は作らない  工房には来て貰うのが基本的なスタンス    
優しい音 柔らかい音だと言われる

2012年11月1日木曜日

原口隆行(鉄道ライター)      ・私の東京駅物語

 原口隆行(鉄道ライター)           私の東京駅物語   
先月10月1日、 東京駅が5年に渡る復元工事を終了しました  
サラリーマンを辞めた後にフリーの鉄道ライターとして、鉄道に関する記事等を鉄道雑誌などに 寄稿してきました  
東京駅の駅舎復元に当たっては記念のグラビヤ雑誌に、東京駅に関する歴史やエピソードなど興味深い記事を寄せています  

毎日、結構な人が一日中おとずれて居る  中年のご婦人が多い 
ノスタルジックな部分が感じられる事があるのではないでしょうか
丸ビルの5階に展望テラスがある  駅が良く見えるようになっている  
一番のお薦めは丸ビル36階で、食事を楽しみながら、東京駅が見えるようになっている
見どころ、復元されたドーム、天井が大きな見どころ  
動物のレリーズ 8か所配置されている 残された写真で復元されたもの
330m 左右幅である  

昭和20年5月15日の大空襲で壊滅的な打撃を受ける  応急的に処置した  
復旧構想が持ち上がったが、国鉄に費用が無くて、そのままに成っていた  
JR東日本に移行して、歴史的に価値が有るものだからという事で、発想の転換をして大正3年の時代の形に復元しようと言う事になる  
大正3年12月20日に開業した 
設計は辰野金吾博士 佐賀県唐津市の出身 (小笠原藩) 
設計事務所を立ち上げて業務をこなすようになる(帝大教授を止めて)
コンセプト 最初ドイツ人 ヘルマン・ルムシュッテルに相談したが、行きどまりにしないで、通過式の駅にした方がいいと進言あり、帰国した フランツ・バルツァーという技師が、その後を継いで、設計図を書いた   
和風建築だったが、辰野金吾が引き継いだ後は、当時の日本を象徴する駅にしたいので、様相になる 
 
試行錯誤しながら、書いていった  
最初は一階建だったが、後藤新平が東京市長に成って、どうせやるなら、3階建にしようと言う事で4倍の予算が付いた
南北にドームも付けた 
イギリスのビクトリア朝の建物と歌といわれているが、オランダのアムステルダム駅を模したと言われるが、似た駅はいろいろ駅はある
現在残っている駅で似ている駅は無い  オリジナル的なものと思う  
原敬首相が大正10年に東京駅の南口のドームの左手で刺される 
昭和5年に浜口首相が銃弾で撃たれる 
現在の新幹線の中央口に円形の処で事件が有った
一命は取り留めたが、それが原因で亡くなる

大正天皇、昭和天皇 行幸された場所でもある
財界の巨頭、政界重鎮の人達、高級軍人の人達が乗り降りした駅でもある
工事を慎重に進めた  関東大震災にも耐えた  
3月10日は下町 5月15日は丸の内界隈も大空襲を受ける  
要衝、交通網の襲撃は受け易い場所だった
鉄道は生命線なので、経済も停滞するので、一日も早く復旧しようと動いた  
終戦と同時に復旧計画がスタートした 昭和23年には2階建の駅舎を復元した
いなかにいると東京には願望がある 東京の大学に受かって上京した 
 列車が2階に着いた(高架ホーム)事に吃驚した(先輩からの手紙の内容)

浪人時代に伯父を頼って東京に行った  
新丸ビルから眺めて、大きいなあと東京駅を見て感じた  
その時に写真に収めた 唯一 一枚のみある
当時23時間59分かけて東京に来た事を覚えている  
その後サラリーマン生活 後に鉄道ライターになる
松本清張 「点と線」 鉄道作家の系譜 内田百閒 阿川弘之 宮脇俊三 根っからの鉄道ファン『阿房列車』シリーズ