2012年9月10日月曜日

山本高樹(ジオラマ作家)      ・梅ちゃん先生と昭和の街並み模型

山本高樹ジオラマ作家)         梅ちゃん先生と昭和の街並み模型  
昭和の街並み模型が大変好評をいただいている  
街並み模型に込められた温もりが番組の魅力を高めている
模型の小道具をつくり続けている  
最近はコンピューターグラフィックの進歩の陰に仕事が少なくなってきたのが現実です
処が、梅ちゃん先生のタイトルバックの起用で山本さんの技術が再認識されました  
ジオラマに込めた人間ドラマとは何か  お聞きします

蒲田が舞台 架空の街をつくってほしいとの依頼が有った  
四季それぞれの描写が有って、生活感を描写する  
朝が来ないことはないという演出をしている
6パターン有る(月~土)  日本のどこにでもあるような下町風景  
昔の写真を参考にしてイメージをつくった       昭和39年生まれ
昭和30年代の状況はみた事も無い   
人形も 割烹着を着たお母さん、酔っ払い こむそう 紙芝居をしている人  街頭TV  
高校卒業後専門学校に行く 映像技術学ぶ   
原始地球のセット 凍ったニューヨークの街のセット

1984年から仕事を始めたがその頃はコンピューターグラフィックは無かった  
いつの間にかコンピューターが導入されてきた
90年代後半は物をつくって撮影するというのは無くなった   
つくった物をお客さんに直接見て貰うのが好きです
お客さんに想像する余地を残しておきたい   
展示の仕事が好きになった   
日本の古い街並みが好きで写真を撮って回った
ただ形にしただけでは駄目 雰囲気をどう表現するか   仕事が映像界から減ってきた  
日本の古い風景をつくりたかったので模型で再現する事に挑む
2001年からそれを始める  景気が悪くなって来てから 懐古的な雰囲気が出てきた  
落ちついた物を表現したいと思っていた

バブルの時に派手な夢を見過ぎた 
日本人て  お金さえあればどんどん街のビルは高くなるし、世界の有名な絵画も手に入るし、身分不相応な夢を持った
今日本人は等身大になってきているのではないだろうか  
なるべく多くの人に共感して貰うものを作るのかが永遠のテーマですね
子供に好きなことをしなさいといって、褒めてあげる    
好きなことを持っていると人生の糧になると思います
永井荷風が好きで(ストリップ劇場に入り浸っている) 
投げ込み寺(行き倒れの芸者さんが葬られた 浅草の北 箕輪)に荷風は言葉を残している

2012年9月9日日曜日

小田原健 (デザイナー)       ・木と森を生かすデザイン

小田原健 (デザイナー)         木と森を生かすデザイン  
1934年静岡県浜松市生まれ
父はパイロット技師、母は絵を描く 
16歳の時にアメリカのデザイナーの本に出会ってデザインになる事を決心  
日本の洋家具職人を育てた木工組合に入り、昭和を代表する木工名人 三輪磯松に出会います  
ここで身に付けた木工技術とデザイン力が小田原さんのデザイナー人生の基本となりました
若くして東京芸術大学の吉村順三教授に見出され、28歳で東京芸術大学の講師に抜擢されます 
小田原さんに活動の転機をもたらしたのは平成3年大分県を、襲った台風により倒された風倒木の扱いでした  
木は生きているという考えを持つ小田原さんは、風倒木の命を救い、森を再生する活動を始めました  
この活動は日本ばかりでなく、世界の森林関係者や木工職人と手をとりあって、木と森を生かし地球環境を蘇らすことに取り組んでいます

部屋にあるテーブル椅子は小田原さんの作品  家具、テーブルは塗装をしていない  
塗料大嫌い 針葉樹はヤニが有る ヤニは長年使っていると、外ににじみ出てくる 
それを磨いているだけで塗料は要らない  
木は生きている 生き物の上に塗料を付ける必要はない  
一枚の板がこんな形にしてくれと言ってくる  
それを受け止めてその板を使ってどういうデザインにするかを木から聞いてくる
小さい頃から工作は好きだった  
のみ、のこぎり、かんなを親がくれた  
自分で好きなように遊び道具を作るためにやっていた

中学生の頃にアメリカの工業デザイナーレイモンド・ローウィさんの本を読んで本当に感動した  こんな楽しい職業があるとは知らなかった
新聞を見たらレイモンド・ローウィが専売公社のピースの箱のデザインをしたと、あの鳩は不滅の鳩だと思った(今でも飛んでいる) 
デザイナーになろうと決心する 
どうやって勉強するかが問題  親は学校にと考えていた様だが私は全然そうは思わなかった 
東京芝家具組合に入る  
伯父が物づくりしたいのなら基礎技術を勉強したらどうかと 家具の世界で勉強したらどうかと昭和の左甚五郎と言われる、三輪磯松を知っていたので紹介してやるよと言われた  
有名な組合で伊藤博文が作った組合なんです  西洋家具です  
横浜の元町商店街は西洋家具の街 カーテン、カーペット、ステンドグラス、椅子、机、あらゆる生活関連が集まって 西洋人から教わった
伊藤博文が300人ぐらいの職人を今の新橋の赤レンガ通り に連れてくる  
ここに世界の大使館を作るんだと言って大使館を作る

国会議事堂の内部なんかも作った   
三輪磯松は弟子を取らなかったが伯父が知っていたので面接を受ける  
先ず手を見せろと言われた 
触ると良さそうだなと言われる 明日から弟子にしてやると言われた
最初の1年間は挨拶と掃除だけを教わる  見習い 見ながら習う  
道具を持たして貰った時にそのおかげで入りやすかった
3年目に家具の展覧会があるからやってみろと言われて作って出したら、最優秀賞を貰った  おまえ俺より旨くなったなと言われた
師匠から教えてもらったこと  木は生きている 
木は毎日動いているよと言われた 息をしている 
自然の素材に逆らったことをしてはいけない 縦は縦の、横は横の扱い方がある   
デザインにしても組み方によって、割れ、そったりする  
ルールにのっとってやれと言われた

反っているからほぞを0.数ミリ微妙にずらすことによってパンと組むと真っ直ぐになってしまう
どんな木材でも差別をしない どの木にも1本1本、特徴がある
吉村順三先生に可愛がられた 
(三輪磯松に習ったおかげで吉村先生に能書きを言えるようになった) 
最初お会いした時に物凄い感性をもっていたんで、先生に対する尊敬と感動を得た 
先生のいうことならば何でもついてゆくと思った 今でもそう思っている
先生の懐に飛び込んでしまった  
文化功労賞を受賞 新宮殿を設計 戦後の日本の住宅建築家としては一番尊敬されている人 箱根にホテルを作る時御縁が有った 毎日毎日が本当に感動だった 
先生の色の使い方、椅子の配置のセンス、空間の作り方 美しさは身体全体で受け止めた  
1mmの寸法でも妥協をしない この椅子にたどり着くまでに10脚作った  
毎週何日か徹夜をさせられた 原寸図をチェックしてくれるのが楽しみだった

28歳の時に東京芸術大学の講師にして貰った  あそこは職人の学校  
学長から辞令を貰った 22年間勤めたが 意義あることだった
建築家は15名の生徒 と付き合う    
人を教えるとは  どっかいいところがあったら見付けてやってくれ  どっかいいところがあったら引き出してやってくれ、どっかいいところが必ずあるから褒めてやってくれ    
優秀な人はさらっとやってしまう  
駄目な人は汗をふきふき泥だらけになってもがくが 付き合っていると、どっか光るところが見える 
そうすると君ここのところが素晴らしいよと褒めてやる  
それを先生に耳づくり?と言われた  
それが卒業の時にAクラスの生徒より上を行って卒業している   
(大体俺はお悧巧さんだよという人は駄目ですね)
そういう卒業生とはいまだに付き合っている
大分県での台風  巨大な木が倒れて仕舞いなんとかならないかと相談を受けた  
飛んで行った  巨大な量が倒れている  10万棟分ぐらいの量

杉という木に対しては深い意識は無かった  
角材にして、柱には成らないので 倒れた木は寝かしながら煉瓦のように横にして建物を作った (ログハウス)
風倒木展を開催した   国は焼却処分にすると検討していた  
私としては木が助けてくれと言っていると思った  林野庁長官のところに行って談判した
話はかみ合わず、自力でやることにした  
地元の人達と協力して行った  
マスコミを呼んで記者会見する事に成り 反響で1万人が来場してくれた(6日間)
ログハウスが10年ぐらいは暇なく売れた  一番簡単なのはフローリングを作った  
今は日本一の製材所になった

森を守らなければいけないと気が付いた  20年ちょっと前の話   
国内からの問い合わせは無く、スウェーデンからの問い合わせが有った
スウェーデンではヨーロッパに木を売りつくしたので何とか木を使ってくれないかとの話だった 
スウェーデンのは中々いい木だった
家具をつくろうと思った 日本に輸出する  
タイ、ニュージーランド から要請を受ける  東南アジアからも要請有り  日本でもようやく新潟で会いたいというところがありお会いした   その話に感動した  
地元の杉を使って木工産業を立ち上げたい  デザインが出来ない  
東京で展示会をするが貶されて戻ってくるわけです
 
魅力の無いものができている  18社の小さな建具屋  
全部ひざ詰めで話し合った  
私がデザイン、営業をやるからやるかと言ったら やるという事で、公共事業があるのではないかと言ったら 初回6000万円の温泉センターの仕事を提供してくれた  
その建具家具、総工事をした  
あまりにもいい出来具合に市長が吃驚した
  
売れなかった木が売れて、技術が再生して こんな良い施設ができたと、町の為に貢献したと 資源、技術、施設、全部その町の血となり肉となったわけです  
これが本当の産業ではないですかと言ったわけです  地場産業が芽生えた  
その一部を全国大会に出品した  最優秀農林大臣賞 と最優秀デザイン賞をもらってしまった  上越市にある協同組合「ウッドワーク」
森を大事にしながら家具をつくってゆきましょう  家具をつくることによって森が守られる  
地球環境を守る
開発という名前で環境をどんどん壊してきてしまっている  
一番の働きものは森の中にいる微生物ではないだろうか

2012年9月8日土曜日

石毛直道(食文化研究者)    ・鉄の胃袋世界を行く 


石毛直道(食文化研究者74歳)        鉄の胃袋世界を行く
国立民族学博物館 名誉教授
食文化研究の第一人者 文献の研究だけでなく、実際に世界をたべ歩き、訪れた国は80カ国以上  現地の人が食べている物はなんでも食べるという 鉄の胃袋を持った男と言われる
世界を旅してたべ歩いて見えてきたもの、日本人は世界でも極めて特異な食文化を持っているという事でした  
世界でどんな手厚いもてなしを受けたのかそこから何を学んだのか、国立民族学博物館の石毛さんに聞きました

千葉県生まれで近くに考古学の大学生がいたが、その人の腰ぎんちゃくに成り 貝塚が大変多いところで、縄文時代の遺跡を中学生の頃から沢山歩いてて、新しい遺跡を私が発見したりした
当時、考古学が有ったのは京都大学だけだったので、考古学をするために、そこに入った  
もう一つ興味が有ったのは、海外に旅行する事だった(海外旅行の自由化以前)
探検部がありそこに入り、大学の先生を隊長にしてその調査の補助員としてゆくのが、海外に行くのに、一番手っ取り早いので大学の2年生の時にポリネシアのトンガ王国に行った

その頃は発掘が進まなかった頃 島中歩くと、貝塚だらけなんです 現代の貝塚なんです 
女の人が貝拾いをして、毎日のように貝を食べて裏庭に捨てる  
現代の貝塚に興味を持ったのが始まり
大学院の頃にはニューギニアのチュウギ高地を探検した  
我々が出掛ける10年前ぐらいまでは、石器時代だった  
世界で一番最後まで石器を使っていた処、未探検地域だった 
石器時代の暮らしに出会って本格的に文化人類学に興味を持った   
そこで考古学から文化人類学に変更してしまった  

助手の頃に結婚しようと思ったが金が無くて学割があった(若い学者への割引で安く飲ませてくれたり、つけで飲ませてくれたり) 
京都で一番安い飲み屋でつけで飲んでいた     借金を返すために本を書く事を思いついた  
よく売れる本を考えたら テーマは何だろうと考えたら食い物だろうと思った
それぞれの場所についての食べ物がノートに記載されていたのでそれを集めて、一般の人向けに書いた   
それが大変よく売れて思ったより沢山お金が入った
文化人類学的に食生活を研究する事をやらないとまずいと思い、始めた

食を意識するようになってから、長期の調査だと、自分で「居候方式」となずけた調査法
例えばタンザニアで調査したときには、私が調査対象にした村は神奈川県と同じ面積だが、人口はすかすかで、 狩猟採集の民族がいる 
弓矢で狩りをしてサバンナの中を移動している民族 
牛を飼ってそれを食べ物にしている民族 農業をしている民族
農業と牧畜の両方をもっている民族 の4種類の民族がいた  
そこで友達になった家に転がり込んで居候をする 
お金を払わないで、仕事も手伝いながらそこの家族が食べるものと同じものを食べる 
 
1週間居たら持ち物は全てわかる 生活を一緒にして調査する
狩猟採取民族で面白いのは焼いて食べるのが一般的 草食系の動物なら内臓をしごいて(腸とか)製造過程の糞(臭いはするし苦味がする)を焼いた肉に付けて食べるんです  
それが美味しいとのこと  
慣れないと駄目 慣れるとそれが癖になる(慣れる所までは行かなかった)
現地の人の者ならば何でも食べる  サモアで食べたパロロというものがある 
サンゴ礁にすんでいるイソメの仲間で、格好がミミズみたいなもの  パロロが実に珍味

サンゴ礁の穴に入っていて一生出ないが、 毎年10月と11月の満月の晩から8日目、9日目の夜明け前の2~3時間にポロロの生殖体の部分だけちぎれて、海に浮かんで生殖活動する  
1年でも限られた時間にしか取れない 網で取る  
毒々しい緑色 太さが1mm、長さが10cm  細いミミズみたいなもの,
うごめいている生のままライムの汁を掛けて食べる  初めて食べた私にとっても美味しかった  磯の香りで浅草海苔の香り 生うにの味とこのわたの味がする  
日本酒があったらいいなと思った
冷凍しても味が変わってしまって駄目、取れたてをたべないと駄目 

ゲテモノも食べた、コブラだとかいろんな蛇をも食べた  くせがなくて鶏の肉に似ている  
インドネシではワニの肉を食べた 癖がないいい味だった
私の胃袋を通過したものを全部数えたら、ちっちゃな水族館や動物園が作れるかもしれない
中国の雲南省の奥地で東南アジア系の民族が住んでいる処 豚の生き血をどんぶりに注いでお客さんに呑ませるのが習慣  栄養はあるが生のままだと非常に危険である
口や喉にキズがあると、そこに生き血を飲んだ時にそこからウイルスが感染する,という事知っているので、大変抵抗感があるが、お前の為に殺した豚の血だというので飲んでしまった  
大丈夫だった
食べ物を研究しているんだったら、食べることも仕事のうちだろうといわれるが、世界中の美味しいものを食べられていいなと言われるが、楽しいことは仕事にするんじゃないという事がつくづく判った
文化として調べるんだったら、美味しい物とか年に2~3回しか食べないものよりも 一番大事なのは、そこの人が毎日食べるものそれを食べなければいけない

ニューヨークの日本食の調査 懐石料理の様にぽちぽち盛るのは駄目で 皿に沢山盛付ける
アメリカの日本料理は日本に較べて、3倍の量がある
それを食べるとなると大変な量になる それを1日4回 調査の例数を稼ぐためにそればっかり続けた
麺の調査、イタリア パスタの調査 コースの中の一部 まずオードブル、次にスープかリゾット、パスタ、メインディッシュ、それからデザートをたべるというコースの一部で、コース全部を注文しなくてはいけない   
パスタをいろんなものを経験してみようと思うと、一度に4種類ぐらい注文しなくてはいけない
食べて食べて帰ったら、糖尿病になってしまった

珍味  スウエーデンのシュールストレミング  子持ちニシンの塩から見たいなもの  
普通の塩辛と違ってある程度発酵させてしまってから、缶詰めにしてしまう
缶詰めは普通、熱をかけて殺菌するが、それをやらない
そうすると空気に触れる事が無い状態でニシンが醗酵する  缶はパンパンに張れる  
猛烈な匂いなので飛行機に持ち込むのは禁止されている 
猛烈な腐敗した臭い  世界で一番臭い食べ物  
げてもの それぞれの文化によって違う

安土桃山時代に日本に来た宣教師ルイス・フロイス ポルトガル人がいた
日本の塩辛を食べて 我々にとっては魚の臓物の腐った物、腐敗したものは忌み嫌うべきものと
している      
処が日本人は肴として大変好むと 言っている
ポルトガル人にとっては食べ物のカテゴリーに入らない  
それぞれの文化によって線引きが違う 
あるところではゲテモノが別のところでは常用するという  差別すべきものではない
   
卵かけご飯  ヨーロッパの人は日本に住んで日本の文化良く知っているのに、矢張り抵抗感の有る人が多い    
生の卵を食べるのは日本人と蛇だけだという
中国人は何でも食べると言うが中国人は生卵を食べない  
中国料理は野菜でも生では食べない料理
アジアでも東アジアの食文化は箸を使います  料理法にも影響する  
料理する前から小さく切っておかないといけない  そういった料理法が発達する
汁ものにいろんな具を入れて食べるというのも、アジアで発達したわけで箸だったら熱い汁の中の具を食べる

ヨーロッパでもコンソメやポタージュがあるんじゃないか あーいった液体のスープになるのは割と新しくて、スプーンを一人一つずつ持つようになった
それまでは具が沢山のスープでそこへパンを付けたりして食べていた  
熱い汁の中に煮えた具を箸でつまんで食べるというのは、麺が発達した
熱い麺類は手で食べるわけにはいかない 
中国で出来た麺類がアジアに広がり、それが私の考え方では西アジアを通ってイタリアに入りスパゲッティの様なものになったと考える
日本の場合は 肉を食べない文化が長く続いたことで、肉を食べないという事になると御馳走は魚になります 

味噌、醤油が万能調味料として発達したということもあり、生魚を切っただけで醤油、ワサビなんかを食べる刺身は大変上等な料理  
肉を食べる料理は油を沢山使うのですが、(動物性脂肪 バター 植物油)日本というのは本当に油を使わない料理だった  
天ぷらも江戸時代中ごろからポルトガルから伝わったと言われる
脂っこい味は下品な味とされてきた  普段のおかずは野菜 イモ類は甘みがあるが葉っぱの
野菜はあまり味が無い  そこにうまみを付け加える

鰹節、昆布、干しシイタケだとか 出汁の文化が発達した 
これは日本の特色  鰹節のイノシン酸 だとか 干しシイタケのグアニン酸  昆布のグルタミン酸 と言ったものがうまみのもとに成りうまみというのは今までは甘み、苦味、酸味 塩味 4つの味が舌から大脳に伝わるという説だったが、旨味も脳に伝わる     美味しく感じる
旨味を付けくわえたりするけれども、食べ物そのものの持ち味を大事にするというのが日本料理  
あんまり肉を使わなかった料理が、今世界中で日本料理ブームになった
ヘルシーだと評価されている  
アメリカの1970年代の終わりから始まるのですが、アメリカ人が寿司を食べ始めた
健康に良いんだと話す 
本音の方を聞いてみると無理して健康にいいからたべている訳ではない、食べてみたら美味しいかったというのが一番の理由だった
自分達の文化が持っていなかった新しい食べ物を発見したんだ  
アメリカを起爆剤にして寿司だけではなくていろんな日本料理が広がっている
人間の食→世界の学者たちが食を文化として捉える事が少なかった 
1970年代の後半から食文化が始めた  人間の食文化の特徴を考えなくてはいけなかった
文化と言ったら何か 動物には無い、人間だけが持っている 
本能とは違って生れ落ちてから後、習ったりして身に付けたもの

動物と区別するいろんな考え方がある  人間は言葉を使う動物  道具を作る動物 
人間は料理をする動物 友達の霊長類を研究している自然人類学者の研究で、この頃よくわかってきたのは、料理の一部はチンパンジー、ボノボ といった高等霊長類 
料理を広く考えると 下ごしらえも含まれる 
堅い木の実を石ころに置いてもう一つ石ころを拾ってきてポンと割って中身だけをたべる 
これは広い意味での料理の一部門
しかしながら、人間の料理の一番の中心は火を使った料理をすること 他の動物は料理をしない  
人間は料理をする動物であり、これは皆さん異論が無い 
人間は共食する動物である  動物は成長したら一頭一頭自分で探してきてたべる 
集まってたべる事もあるけれども、個体が食事の単位 どこでも人間の食事は一緒にたべる
一緒にたべる基本的な単位が家族  
人間が家族を創り出した時から、人間の食事は共食という事になったわけです
日本の食文化はここ40年で劇的に変化している  伝統的な日本食ではなくて洋風 、中華風が家庭の食卓に上がるのが当たり前になったが、それだけでなくレトルト(温めるだけ)、中食
(調理済みの食べ物を買ってきてプラスチックをただ開けるだけで家庭で食べる) がかなりある  
食品産業が家庭に中に入りこんでいる
共食  一人でたべる様になる  家族と一緒に居ながら一人でたべる  
朝ごはんはむしろ一人一人で学校、出勤に合わせてたべるようになってしまった
晩御飯の時でも友達と一緒にたべてしまったり、家族で一緒に晩御飯をたべるというのは大変少なくなってきた
出来あがった食品を家庭に供給する(社会の側の食品産業)  
家庭の外で食べる外食産業  
家庭の食卓に対する 社会の食卓が外食産業
家庭の台所に対する 社会の台所が食品産業  
社会の食というのがドンドン家庭に入り込んで家庭の食というのが衰弱し始めているというのが現在の社会ですね

家族が食事の単位にならなくなるかというと、どうも後100年 200年 考えても、ならないんじゃないかと思いますね
家族以外の基本的な社会の単位は如何も出来そうもない  
家族の共食 それを支える家庭の台所もやっぱりずっと残ってゆく 
そうしなきゃなんないから駄目だと、義務感でさせるのではなくて、今までみたいに家事としてやりたくないけど料理作りしなくてはいけないという義務感を抱かなくても、そういうときは買ってきて食ってもいい訳ですが、 料理をするというのは、物を作ることの楽しみがある
 
そういった楽しみを目覚めてもらって それで今までの様に
女の人ばかりだけじゃなくて、男の楽しみとしての料理を行う  
一人だけで食べるのじゃなくて、一緒に食べる事の楽しさ、美味しさ 心理的な美味しさがある
そういったことをもう一度考えてみたらいいんじゃないかと思うのが私の意見です

2012年9月7日金曜日

阿部ヤヱ(わらべ歌伝承者)     ・お婆さんに教わったわらべ歌と人生 2

阿部ヤヱ(わらべ歌伝承者78歳)   お婆さんに教わったわらべ歌と人生 2  
もう一人のお婆さん 隣の家のお婆さん 一日座っている人(脳卒中で) 
祖母と同じ歳 私に唄ってくれたり、昔話しを話してくれたりしてくれた
小学校5年生の時にきちんと覚えようと決心をした  2年間ほどかけて全部覚えた 
祖母から話してくれた事と全く同じだった
子供に眠らせる子守歌と 子供に聞かせる子守歌がある  (重要な意味を含んでいた)  
持ってる能力を出す為にやる
耳が聞こえるから眼が見えない時期から声を掛けると自分でも声を出すようになる  
にぎにぎ 手を開いたり閉じたり(応対する位から) 首が座ったら、首を振ることを教える 
いやいや 嫌だという気持ちを表す 
上手上手といって手をたたく 人を褒める(やったら褒める)  褒めれば褒められる  
褒められれば頑張れる  頭をなぜなぜ美味しいものを食べた時にする(自分で頭をなぜる) 
万歳万歳 自分が頑張った時にする
ハイハイを始めた時に 待て待てという 
 
3歳になったら行く先までを教える(積極的にやる) 人の前に立ってやる
いじを張って泣く子はほったらかす  我慢、勇気を教える 勝ちたいという想い  
じゃんけん遊び(2歳過ぎ)手を動かすと脳が働く
歳に合わせて遊びが繋がっている  
次への伝承する人 幼児教育に携わった人がやってくれる  若い人でも興味がある人がいる
何百年かかって伝承されてきた  赤ちゃんの時に己に勝つ 
相手に勝つという風になってしまうと怖いと言ってました  
己に勝つということはとにかく頑張る、という事であの人はあんなに頑張ってたんだなあと その人のいい事をまねる  それが己に勝つ    
相手に勝つというのは あいつはあそこまで行って憎らしい どうやってあいつを負かそうかと思って、邪魔したり、足払いをかけたりして その人を落とす
自分は何もしないで 憎む 妬む  怨む 呪う までして人は落ちてゆくように出来ている 
それを何とか食い止めないと人の世はちゃんとやっていけない、という事で 昔から己に勝つという育て方をしてきたんだぞって言われてました  
人は昔も今もこれからも変わらない 
 
赤ちゃんは何も知らないで生れて来るから、知らない赤ちゃんに人間らしい心を身につけるための元を能力を起こしてやる
のが赤ちゃん育てなんだと言ってました
根本に自己に勝つという事が有ってそのためには 我慢、努力 勇気が必要  
(赤ちゃんのやることがすべて我慢、努力、勇気  すべて初めての事をする)
飢饉の時にも戦の時も同じ  自由にはならないし 食べるものが無い 
でもこれをいっても判らない時代が来るかもしれない  
それでもそういう心を持つことだけは大事なんだと  後の人達に残さないと こういうものが心を育てる事ができなくなったら 人はひどい苦労をしないと、生きてゆけないんだぞ と言ってました身につける事が先で、兎に角赤ちゃんの時から保育園幼稚園の時代までにしっかりと身に付ける事が先で、後は習うという事をしないと大人になってから知識はあるけれども生き方が判らないという事が有って苦労すると思います

2012年9月6日木曜日

阿部ヤヱ(わらべ歌伝承者)     ・お婆さんに教わったわらべ歌と人生

阿部ヤヱ(わらべ歌伝承者78歳)     お婆さんに教わったわらべ歌と人生  
東野に古くから伝わるわらべ歌伝承者  
柳田國男の東野物語で有名な東野には 数多くの歌が伝えられてきました
阿部さんも幼い頃からわらべ歌を聞いて育ち わらべ歌が大好きに成りました   
そして二人のお婆さんの教えを受けわらべ歌には子育て、人育ての為の、大切な役割があることを知りました   
そんな大切なものなら自分がきちんと伝えようと子供心に決心をした阿部さんは両親のもとで農業に携わり 結婚して、子供を育て、孫や、曾孫にわらべ歌を聞かせながら、昔ながらのわらべ歌を伝承する人生を送ってきました  

私の家は分家なのでお婆さんはいません 
母が田んぼに連れてって私を見ながら農作業をしていました 
母のそばにいて歌をせがんだそうです
畦が狭いもので逆さになって窒息しそうになったそうです  
それで本家のお婆さんに預かって貰って昼の間見てくれるようになる(朝早くから夜になるまで)
冬は家にいた   祖母は慶応2年生まれ  
当時は祖母が子供の面倒を見るのが当たり前だった  祖母は掃除、洗濯もしていた
火の取り扱い、洗濯の仕方が自然と判るようになった   夕方 いつも歌を歌ってくれる 
ウサギに向かって歌う 
ウサギは眼が真っ赤になってもじっと一人で、生きているんだ(普段黒い眼をしているが)と言って 母親は必ず来るからと 「うさんこっこ」(ウサギ)の歌を歌ってくれる 
そして母が来るまで寂しさを我慢した  
飼っていたウサギが大きくなって祖母がウサギ買いに売る段になり ウサギが悲しくて眼を真っ赤にしていると思ったら ウサギ買いから元々ウサギの眼は赤いといわれた 
ウサギを売ることに反対したら ウサギ買いがお前も買って仕舞うと言われ逃げたすきにウサギは買われて行った
 
しかし 祖母からウサギの眼は黒いと言われていたのが実は嘘だったと判りそれからは祖母のいうこと聞かなくなってしまった
皆が困って、祖母も困って 祈祷させたり カンの虫を取ってもらったりしたが、私は嘘をつかれた事に対してへそを曲げていた
余りものを言わなくなったので祖母がちっちゃいウサギを持ってきて無理やり抱かせた 
これが「うさんこっこ」の歌のウサギなんだよといってくれて そのウサギの眼を見たら明らかに眼が黒かった  
あー歌は本当だと思って喜んだ小さい箱に入れてくれて私のウサギだと思って育てた  
大きくなって、或る時に行ったら箱が空っぽだった  
あー売られたんだと思ったが聞けなかった  
ウサギが大きくなれば売られてゆくというのを知っていたので我慢した    
山に向かって「うさんこっこ」を歌った  ウサギは山ウサギが当たり前だった 
(山ウサギの眼の色が黒い)

白い兎は外国から入ってきた外来種で眼が赤い  
歌の方が早くから有ったために売るためのウサギは眼が赤い兎であった  
歌は本当だったと思った
自然に向かって歌うのは心を育てるから大事だと言われた  
花の様なものはチェー、チェーと声を掛けて撫でさせる 
そしてかがんで良い臭いだねと言う風にする
果物は リンゴの様な場合は赤くて綺麗だし食べてほしいから 見る、聞く、触る、嗅ぐ、味あう という五感を起こしてあげるというのがやり方です
遠くのものを見るというのが大事  空 飛んでる鳥に向かって うたう  眼の為にもいい  
歌に人はこう生きるんだという教えがある
空を見ると気候を教える事にもなる   ねぐらに向かって帰るカラスに向かって歌う(唄がある)  
自然に呼びかけていると心が育つ  
自然というものが 動物、植物 というのは草を食べて おてんとうさまのお陰で生かされているその動物植物の命を、頂いて人間は生きているという事が、自然に判ってくる  
自然が判るとともに命の大事さが判るし 命を守ってくれているのがおてんとうさま という事が 自然に感じ取れるように伝わっている   
自然に対する感謝の気持ちが、人に対する感謝の気持ちにもなるから、必ず自然を教えないと人には成らないというのが、前の人達の伝わってきたそういうものとして教えたんだと思います  
栗の木にまつわる唄もある    本家に大きな栗の木が有った    
子供心に厄介になっていたと思っていたが、役に立ちたいと思った
東野のわらべ歌は厳しい人生の中どう生きたらいいのかを示唆している
わらべ歌は話す力を育てる  昔話は聞く力を育てる  
いろんなことを聞かないと喋れない   謎かけは 言葉遊び 考える力を育てる  
話す、聞く、考える この三つを身につけないと人はちゃんと生きていけない
生きるということはどういう事かという事が判れば、どんなに辛くても生き抜く事ができるんだという事でした
わらべ歌は生きる事をつたえることのきっかけなんです

どんなに時代がかわっても人の生き方は変わらないと思います 
変えてはならないと思います 
人の持っている力、能力というのは昔も今も変わらないと思います
むしろ今の方が人の持っている能力を出さないで ただ習うだけでやってゆくから、折角持っている能力を出さないで知識だけで生きているんだと思います
人として生きてゆく時は昔から伝わってる能力を全部出して人間らしく生きる事は大事だと思います

2012年9月5日水曜日

楊逸・ヤンイー(作家)      ・憧れの地 日本で自らの人生を作る

楊逸・ヤンイー(作家)     憧れの地 日本で自らの人生を作る  
国交回復してから40年になる節目の年  1987年(昭和62年) 来日 
ちょうど25年になる (22歳の時来日) 
日本の大学を卒業し 、中国語を教えるかたわら、小説も書き始めるようになります 
結婚や、離婚を経験しながら2008年には芥川賞を受賞するまでになりました
母国語を日本語としない受賞作家として注目されました

気が向いたら書くような感じ すらすら書けるときと書けないときがある 
一気に書いてしまうのが好きなタイプだと思っている
『流転の魔女」を連載している   大学でも教えている  
日本に来て25年なる あっという間の時間だった
1964年ハルビン生れ(東京オリンピックの歳)  貧しい生活だった
 日本では高度経済成長を始める年  生きる環境は違っていた
1966年から文化大革命が始まる  
記憶には無いが  文化大革命の嵐の中で有ったが、そんなものだと思っていた(後で考えると凄い時代だったとは思う)

父親が大学の教授、母親が小学校の先生だったので所謂 知識階級に属しており 、やり玉に挙がった  
母親の方は親とかが地主なので父親と兄さん皆で台湾に逃げてしまった   
父はハルビンの大学で漢文を教えていたが 1970年1月に文化大革命で蘭西県の農村に下放され、1973年9月にハルビンに戻る  
小学校の2年生の時だった  家は住むところが無かった 苦労はいろいろ有った 
日本に来るまで平和な日々は無かった
一番上の姉が鉄道事故に遭って亡くなった  兄が学生下放して 先で血を吐いたりした  
苦難が続いた 穏やかな日々は無かった
伯父が(母親の方の)1949年の時に 台湾に逃げて うちの母親の家系は皆国民党系なので 連絡が断って音信不通だった 

日中国交回復のニュースを知った時に、なんとなく風の便りに、伯父が日本に渡っていたのは知っていた 
もしかして会えるかもしれないと思った かすかに期待を持てるようになったと思う  
大分後になって1970代の終わりごろにようやく連絡取れるようになった  
飛躍的な展開だった
一番びっくりしたのが連絡取れるようになって 叔父たちから写真が来たがすべてカラー写真だった  見た事も無かった  
非常にショックで同じ世界にいる人間 なのかなと思った  
当時は常に口癖のように社会主義は一番優れたシステムで資本主義の社会は人間が人間を食う社会で搾取を受けて苦しんでいるんだよ  
と言われ 我々はアメリカを解放して、日本も解放して 資本主義を一掃するという宣伝をしてきたので信じていた

写真を見た途端に資本社会で良い服装をして 良い家に住み 幸せそうな顔をしていて どう見ても幸せそうで我々よりどう見ても良い生活をしているという
ショックは大変なものだった   
(中学生の頃、日本にいる親戚が送ってきた日本の都会の風景写真等を見て日本に憧れる) 日本に行く方法を考えて 伯父が横浜にいるので 日本語学校を探して貰って入学志願書を出した  
日本大使館に提出して待つ  全く期待していなかった  
教師一家だとコネが無く (今もそうかもしれないが) 絶望的ではあったが 運よくおりた
日本はコネの効く社会ではないと後で知ったが 当時は判らなかった 非常に嬉しかった
卒業も待てずに2週間後には日本に来てしまった
   
日本の印象は→綺麗で穏やか 空気が違う ざらざら感が無い しっとりしている
夜 小田急線に乗り 凄い満員電車の中でも良いにおい(シャンプーとか)がする 
当時中国はおしゃれ、化粧をしてはいけないという習慣だった
昼間は日本語学校に通い、夕方から早朝まで仕事をする  辛くはなかった  
その時期が一番充実していた様に思う
好奇心があるのでいろいろ見たかった    
15時間労働して日本語学校にゆく繰り返しだった   すべて新鮮だった  
お金が無くって なにも無かったが、 駅からアパートまで歩いて30分の処に住んでいた 
ゴミ収集場にいろんな家具、電化製品が捨てて有り、吃驚して、いいものばっかりで新しくて、冷蔵庫も捨てて有ったりした 
 
お茶の水大学に入学 卒業後就職する 
繊維関係の会社 一旦止めて 在日中国人向けの新聞社勤務する  
前から書くのが好きでそういう仕事がしたいと思った
新聞に一回きりで載せるミニ小説みたいなもの、エッセー、詩とかを書く  仕事は楽しかった 
読者からの投稿をのせなければならなかったが、紙面を人に使わせるのが 、勿体なく 、人の文章を直すのが嫌で、こんなのを使うなら自分で書くと当時5ページを担当していたが、毎回自分の文章を一つずつ入れていた  
書くのは凄く早かったので直ぐ帰れた    同僚は朝まで掛かっていたりした  
私は定時に来て定時に帰っていた  そのうちに6ページになる

一旦その仕事を止めた(離婚するために) 収入が減って 暇人になって、生きる意味が無いんじゃないのと感じるようになって 転職するか 副業をやるかという様になって 子供も2人居て そう簡単に 中国人で中年女が転職は凄く難しいところが有って、悩んで どこかのフリーライターとして書けたらなあと思って、日本語の小説を書き始めた 
自己アピールする為に書き始めた  
編集者の目に留まれば今度頼もうなあというような気持ちになってくれればいいと思った  
「ワンちゃん」(最初の作品)で文学界新人賞  
時が滲む朝」(3作目)で芥川賞受賞する    
窮地に立たされていたが救われた
「ワンちゃん」が一番人生の大きな転換点、「時の滲む朝」は天安門事件がテーマになっている
「時の滲む朝」は中国社会を気になると言う前に この自分の身をもって体験した歴史というものなんですね
今になって思うんですけれど、我々日々生きている中で何となく生きて行っているんですけれど、すべて歴史なんだよと思えるようになりましたけれど
だけどつい前までは、矢張り私の中で 文化大革命を経験したとか何とかは 凄い生れた時の環境がずっと続いたわけで何度もまずかったわけですね
一番ショックでこれは本当に歴史だという意識を持ったのは天安門事件ですね  
中国の転換期に合って矢張り大きな私の歳にしても 天安門事件に参加した
学生たちとは変わらない歳で思いはよくわかる  
我々は本当に中国の現代を生きて
きて余り良い目に有って無くて、余り個人的な恨みやら、いやみやら、というものは持っていない  
純粋で国によくなってほしいという愛国心というものは天安門事件からその後しばらくまで持っていたんだと今になって自覚する  
そういう気持ちも本当に全部含めてですけれども、一つの記念としてこの小説を書きました
私の中にも有ったという事を作品として残したかった
先年日本に帰化した  
今後の作品は→  普遍性  個性的な作品でありながらも普遍性を反映できるような物を書きたい
実践的な作品というかいろんなパターンを挑戦してやっていきたい  
書くのを楽しみに仕事をしたい
日中がからんだ作品が多かったんですが、純粋に中国だけ あるいは中国でも無く日本でも無く 別の域に行きたいと行けたらなあと思います

2012年9月4日火曜日

池内計司(タオル会社社長)       ・ 四国今治から世界へ 2


池内計司(タオル会社社長63歳)           四国今治から世界へ  
どのようにして会社倒産の危機を乗り越えて、起死回生を果たしたのかお聞きします
独自のブランドを立ち上げたのは1999年の春 しまなみ海道ができた時にIKT(池内タオル)にする
IKTは今治だけで売るためのものなので売れることは無いので、今治で玄人さんに見せるための商品なので、どうせやるんなら作り手の理想形のものをつくろうと始めた これがIKT  
お客さんに向かっては最大限の安全 会社に対しては最小限の環境負荷 これをひたすら追い続けてきたタオル
安全に対してはデータを持って示そうとした  
2000年からはエコテックスと言うスイスのテキスタルな安全性基準の第三次機関がある

エコテックスで調べたデータを発表するという形でやっています  最も信頼度が高い
タオルにのっているもの全ての材料を調べる  
資金的に裕福だったので道楽みたいに資金を投入した  
洗濯を何回もしても素材はへたらない  東京で1999年 ロスアンジェルスで2000年 
各々3回展示会を実施 2002年の1月のロスアンジェルスで展示会をやるよりも、ニューヨークで展示会をした方が良いよと提案を貰う  
展示会を3月に行い賞を頂く 日本の企業として初めて受賞した

2003年1月末 小泉首相の施政方針演説で池内タオルが小さな会社だけど頑張っているという事を紹介する
マスコミで紹介されて9月に発売する予定であることを発表する  
生産準備を進めるが、8月にメインの取引先だった会社が自己破産をしてしまった
(70%取り扱う)
問屋が倒れて 手形ビジネスなので 数億円を無くすことになる  民事再生法を選ぶ  
再スタートを切る 
止める事 追加融資を仰ぐ との道も有ったがこの道を選ぶ   
お客さんがメール等で支援の声を掛けてくれたので迷うことなく決められた

民事再生法の場合には法律で余り再生することができない場合が多い 
 IKTのお陰で再起出来るようになった 周りの会社からも支援を頂いた(28社)
環境に優しい  廃水の問題等含めオーガニック率が92%  
お客さんが選んでいった事と思う  お客さんとのコミュニケーションは相当密に行っている
「風で織るタオル」 風力発電でおこなう  
2002年 1月 日本自然エネルギー㈱がグリーンエネルギー 売電しますという記事が出て交渉を開始して始めた
能代風力発電所は東北電力に売っている  8円/kw  12円/KWないと能代発電所としてはビジネスは成り立たない  4円分を池内が負担している 
   
廃水 瀬戸内海は新しい廃水設備を作らせないという厳しい状況にある  
良いタオルを作るために新しい染色工場を作らざるを得ず 1988年ごろから、吉井さん 吉井タオルの社長が電話を掛けてきて計画があるが金は私が出すから、池内君 君は身体を提供してくれという事でプロジェクトがスタートした  
排水設備は中々いいアイデアが無く 苦労したが 結果としては真水が流れるような染色工場が出来上がった 
基本的には時間を掛けてバクテリアに食ってもらうしかない(酸素の供給等々含めて)  
オリンピックの公式プールの5階建ての排水設備なので金はかかった
1992年に竣工  スリッパで入れる工場になっている(本来は長靴)  
世界で一番最初にオーガニックコットンを商品化するのが、1988年ごろ デンマークのノボテックスという会社が出した   ノルガード社長

日本ではエコマークがスタートするような時期 1996年に日本に来てノルガード氏が講演をして当時の日本では出来るはずが無いと言ってたが、有る人がそこで、情報提供して今治に対応で来るような染色工場があると言ったので ノルガード氏は電話を掛けてきて見せてほしいと言ってきた 7人が同意しないと見せられないと断ったが、押しかけてきて入れてしまう  データが凄い  
ISO14001取ったらと言われて取ることにする(タオル業界で初めて)  
ノルガード社長はこの設備の優秀さに驚く こんな素晴らしいものを作っていながら池内さんが環境に対してあまりにも無知なのを厳しく指摘する
彼とは馬が合い 染色工場に対して理解を示し ISO14001取るんだったら ローインパクトダイのノウハウを教えてあげると言ってくれた

それをバクボーンに1号モデルを出す  
池内のオーガニックと言うのは最初から色つきオーガニックコットンなんです
質を高めてきた  作り手の理想形を求めたかったので 有名になるまで助走期間が長かった
バスタオル 1枚 4000円~6000円  タオルはシンプルで無くてはいけない
(テクニックを使ってごってりしたものを作ったがアメリカ人からは嫌われた)  
オーガニックコットンはインドから入れている  
タンザニアからも入れるような動きを開始した (タンザニアの年収 1万円程度)
フェアートレードでリターンがあるかどうか 気にしたが大丈夫だった  
30万円程度の人もいるようになった

バスタオル 一枚作るのに20坪の綿畑が必要 2年に一回の収穫  広大な土地を要求するもの
日本人位真面目でいいものを作る国民はいない と思っている    
日本、フランスの展示会は発注する気も無いし発注されるとも思っていないので 実際どの程度成功しているのかどうか判らない
アメリカでは出展したその日に何が良くて何が悪いか判りやすい 
結論が早くていい よければ直ぐ発注してくる