2012年7月28日土曜日

小山明子(女優)         ・今日も二人で 夫大島渚との介護の日々



小山明子(女優)   今日も二人で 夫大島渚との介護の日々  
 (1935年1月27日 - ) は、日本の女優。千葉県生まれで神奈川県横浜市鶴見区育ち
1955年 映画でデビュー 1996年に大島監督が脳出血で倒れて以来16年間 に渡る介護が続いています
その間精神的にも疲弊し自身でも鬱と戦う日々であったと言われます  
それらをつづった図書「パパはマイナス50点」は日本文芸大賞エッセー賞を受賞
人生生きていれば何もないなんてことはない  61歳 大島が64歳の時に彼が倒れた  
これからいろいろ楽しい事をと思っていた矢先に倒れた
どこにも行けなくなった  イギリスのヒースロー空港に行く自動車の中で倒れた  
脳出血であったがその気配さえなかった

3週間イギリスの病院に入院した 手当がすぐに出来た  30分が勝負だと言われている 
早く病院に行けたので大事には至らなかったが 後遺症があった 
「御法度」の映画を取る予定だった  私は鬱に成ってしまって1か月入院してしまった  
畳の家だったので座って立ち上がろうとしても立ち上がれなかったので絨毯を引いて生活できるようにした(畳→洋風)
兎に角この身体の不自由な人とやっていかなくてはいけなくなった  
家政婦協会に電話して通いで週6日来てもらう様にした
何とか体制が整い さあ食事をしようとして唖然とする  
女優をやってきたので三食ご飯を作ったことが無かった

カルテ 1200kcal 血糖値が高い 一切判らず 主人は朝から酒を飲んでいたりしていた  オーバーワーク 等がたたって倒れてしまった
料理の本を一杯買ってきて勉強を始めた  
リハリビは本人のやる気次第 家族のサポート サポートが無いと成り立たない
理学療法 作業療法 言語療法 を真面目に彼はやった   単純作業を繰り返す 
 黙々と繰り返した  自分を受け入れた 八つ当たりをしなくなった
感謝の言葉が出てきた   介護鬱になってしまった(熱心すぎた)   
みそ汁の具に玉ねぎを入れる(玉ねぎは血液サラサラに成るので)

自分は駄目だ駄目だと追い詰めてしまった  入退院を4回繰り返した  
 鬱病になると食べられない 眠れない  15kg痩せた
何で鬱病を卒業で来たのかを考えると大島が早く復帰できた 優等生の患者だった 
言葉も魚の名前 花の名前を言ってくれと言われて最初全然出なかった
段々訓練で言葉を訓練して刺激を与えて(音楽を聞かせるとか) TVに出るまで復活した  
リハリビ室で倒れた MRI撮ったら何でもなかった 心電図  超音波何でもなかった 
胸部レントゲンで肺炎であることが判った
入院することになる(入院だけは私は嫌だった)  夫の入院後3日目に病院から電話がある
 お宅のお手伝いさんが心筋梗塞で倒れたとの事だった
又追い込まれた   近所の方々が事情を判ってくれて親切に助けてくれた  
ボランティアへの参加意識が湧いてきた 近所との付き合いができるようになった
生き方が変わった 

見なりがひどかったが努力をし始めた(64歳の時)   水泳教室に入ろうと思った 
料理教室、ヨガの教室にも入った
いまでも水泳教室に通っている  継続は力なり 現在77歳   血圧を測ってから入る  
自分との折り合いをつけながらやっている
女優に復活しようとTVのトークショーに出て帰ってきたら大島がお腹が痛いと言いだして救急車で運んで貰ったら十二指腸潰瘍穿孔  破裂していた
集中治療室に入ってこじれていたので中々一般病棟に入れなかった  
生きるってなんて大変なんだろうと凄く感じました

お早うと言って部屋に入ると失語症で中々返事ができない状態だったが2か月位過ぎてからようやく「おはよう」と言えるようになった
病院内の図書館で沢山の本を読んで、これから生きるヒントをとっても沢山本から得ました  
沢山の良い本にであって良い言葉を貰いました
一番大切なものは目に見えない   
なせば成るなさねばならぬ何事も なさぬは人のなさぬなりけり(上杉鷹山の藩立て直しの言葉)
やればできる して見せて、言って聞かせて、やらせて見せ褒めてやらねば、人は動かず
(山本五十六)
先生は夫が帰ってきたら歩けるようにはならないだろうと言われたが絶対に寝たきりにしては成るものかと思って 掴まるバーを付けたり リハリビの人を、来て貰う様にして歩けるようにもなって言葉も出るようになりました  そのまま諦めたら駄目      任せる所は任せる  
自分で発散出来る処が必要   
 
幸せの基準は 海外旅行とか 美味しいものを食べたいとか なんか見たいとか それは幸せなことですが 今望めないこと 今私はそういう生活は出来ない
その中で私が幸せなのは あんなに管につながって駄目かもしれない 
でも家に帰って最後を迎えさせたいと思って連れて帰ってきた喜び
すこしずつものを食べれば元気に成る  ビールはどうしますかと言ったら「当然」 と言った
機嫌良く一日を楽しく生きられれば良いと思っている  
いずれ人間は死ぬ 最後の時に自分は良い人生だったなと思って貰いたいなと思っている
かきくけこの精神  か=感謝する 感動する心  き=興味をもつ  く=工夫する  け=健康に注意する  こ=好奇心

2012年7月27日金曜日

中橋安彦(野馬追い組頭)     ・妻への鎮魂相馬野馬追い

中橋安彦(野馬追い組頭)         妻への鎮魂相馬野馬追い  
相馬野馬追い  28~30日の日程で元の形でおこなわれる 
15歳からまいとし伝統行事に参加している  
旧相馬藩の流れをくむ武士の出身で、100騎の騎馬武者を統率する先頭組頭を務めてきました東日本大震災の時には中橋さんの家は津波で流され 長年連れ添った奥さんも亡くされました  
伝統の祭りを元通りに復活させる事が死者に報いる事になるという思いから今年の祭にも自らも甲冑を身につけて参加することになりました
現在9頭の馬を飼っている  体調がいいと毛並みも良くなってくる  
微妙に気の入り方がたずなに伝わってくる
軍者の役割を担当することになる   
相馬の馬追いの全体を指揮するものと組頭への統卒の役目  
今年は昨年と違って5つの集落が全部参加することになる  昨年は2つの集落が参加
宵祭 本祭  野馬駆け   平将門が千葉県流山に騎が有って軍事訓練をしていた  
野馬駆けの内で一番良い馬を奉納して五穀豊穣を祈った
途中からそういうお祭りになってきた 
 
先祖代々馬追いに参加していた  
3/11には当日会社に出勤して、会議中だった 凄い揺れで天井のエアコンは半分落ち込んで 地震で駄目に成るかと思った
地震が終わって妙な静寂があった 
表に出て電柱が斜めに成っていて 震災の状況を受け入れられなかった  
情報で津波が来そうだという事になって現実にもどされるような感じだった  
家が海岸近くだったので 非難はしたという情報が入り ほっとした感じではあったがどの程度の津波が来たかは分からなかった  
地震がおさまってから1時間後に自宅に戻ったが、母親は避難していた  

自宅まで5kmだったが2km帰った時点で畑にまで波が来ているので、状況をみても津浪だとは受け入れられなかった  
胸騒ぎがして自宅に帰った時に、津波が来たのだと理解した  
既に更地になっており なにも無かった  
愕然としたと言ったのが正直な気持ち   
妻からメールが入っていた(勤めに行っていた)  こっちは大丈夫だったよ 
落ちついたら戻るという内容だった
気を付けて戻れよとメールした  その時点では安心していた  
自宅に戻る途中で津波に呑まれてしまったようだ
息子も成人していて地元の消防団に入っていてその状況を遠くから見ていた様だ   
今思うと息子も辛かったと思う
  
鳴るはずの無い電話に電話を掛け続けた  信じたくなかった 
どこかにいるのではないかと思って、余震がまだあったので6時には、暗くなっていて避難所に入った 
夜も携帯を鳴らしてみたりした 
翌日早くに息子と出掛けて7時ごろに妻を見付けた  
抱きあげられたのが唯一の幸運というか自分の手で見付けられたというのは そういう風に言い聞かせている
会えたのだからという風に考えるしかなかった 
 
女性なのにぐちを言わずに快活な人だった
元気な姿でやっていることがやっぱり女房への供養になると思うし、天で見ていて今年もちゃんとした格好で出なさいよと見ていてくれると思う
下向いてばかりでは駄目なので お祭りが有ってこうやって自分も出続けている 
お祭りなので元気な姿を見せるのが女房に対しての供養になるのではないか、と思って昨年は出ました  
多分喜んでくれていると思う     
鎧を身に付けた時点で侍になった様な、侍になってますね

2012年7月26日木曜日

増永広春(走墨書家70歳)     ・筆が走るアスリートが跳ねる

増永広春(走墨書家70歳)         筆が走るアスリートが跳ねる  
埼玉県大宮生まれ
筆で手紙を書く母の美しさにひかれ20年間の修行の末 芸術の道に進みました  
華道 茶道 陶芸 織物 デッサンを学びその中から書でも無く絵でも無く
イラストでも無い独自の処方 走墨の世界を生み出しました  
陸上 競泳 体操 フギアースケート等の選手の姿は 花 舞等の漢字に通じた書となります
これらの作品は外国の人達から高い評価を得ています  
侘び 錆びを越えた新しい世界の創造 書と絵画の融合の世界を描く 
増永さんに走墨に込めた心を伺います
    
小さい頃からスポーツは大好きだった  
人間の身体の醸し出す美しさ  高橋 浅田真央の回転を文字に表現
水墨画でも無い,デッサンでも無い、絵画でも無い、華道 茶道 陶芸等の勉強をして反映している
無駄を省く  残った物を生かす  
如何に空間が美しく見えるか  見ている人がどうとらえてくれるか  
デッサン帳にいろいろ書いて行きながらその中から浮かぶ
今は墨で手紙を書く人はほとんどいません 残念です  
母の勧めで15年間 習う 公募展に出したが2度挫折 3回目に出したら賞を貰う事ができた 中国の先生に漢字を習う その後独立する  
芸術の世界に入る その時にいろいろな芸術を勉強した  最終的に書になる  
「走墨」  銀座で個展を開く ポスターの仕事 競輪のポスターの製作依頼が有った 
 待ってましたという感じだった

20数年ポスターを続けて書いてきた  凄く勉強になった 
88年 NHK ソウルオリンピック 総集編のタイトル を担当する 激励の言葉が来る 
作品展を年に1~2回は開く事を念頭にやっていて70回ぐらいになる
用即美 用をなすものは美しい   
スポーツ選手からのコメントは 中野浩一 「額の中に自分がいるようだ」
アルジェリアで作品展をした  
真っ白な帯に字を書いて出席した際の周りから大いに称賛された
外国の人達  走墨体験 「育む」・・・ 母親が抱っこしている姿にする  
中国は昔 象形文字 字になって 又字が進化している
手紙を筆で書いて貰いたいと思っている

海外でも個展をいろいろ開いている  
会場で日本の音楽を掛けていると中々子供達が帰らない 
どうしてかと問い合わせたら 「気持ちがいい」との事
作品はいくらなのかと言うのでどうしてかと問い合わしたら 親にクリスマスのプレゼントをするとのことで 僅かな額ではあるが渡した
墨汁は一切使わない 墨をすることが大事  心を静めて想像をめぐらす  
白黒のはずが色が脳裏に浮かんでくる(見る人の感性が広がる)
茶道の茶室  無駄のない世界  空間を旨く感じさせる  書の世界も同様
日本の文字とかひらがなを世界に向けてもっと軽やかに伸びやかな線で表現して発信してゆきたいと思っている

2012年7月25日水曜日

天野隆子(時代考証家)       ・ドラマの時代を忠実に再現する為に

天野隆子(時代考証家)        ドラマの時代を忠実に再現する為に      
子供の頃から歴史が好きで子育てが終わって改めて勉強する  
それがきっかけれTVドラマの時代考証をするようになった
連続TV小説はいからさん おしん 梅ちゃん先生まで 明治大正昭和の時代考証を始めて30年になりまた
坂の上の雲等の風俗考証など沢山のドラマの裏方を支えてきました
梅ちゃん先生  父が医者で彼女も先生になる  
台本を最初に拝見してチェックを入れてディレクターに返してその後現場からも質問がある
作家と監督がどのような視点でとらえているかによっていろいろ変わってくる 
過ごした年代年齢過ごし方によってどんどん時代考証の立場としては取材が変わってくる 
 
時代考証とは時代劇に出てくる道具衣装風俗作法等がその時代に合っているかどうかの確認の作業  
近年(明治、大正、昭和)は難しい  
昔のことほど易しい 昔のことは誰も知らないから  
明治以降は文献、写真等があるので沢山あって難しい
大学は経済を勉強 子供への手が離れて 小木新造先生に歴史を勉強し始める  
何年かしてからNHKから依頼されて手伝う事になった 昭和57年
朝ドラマはそれから11本になる  最初のドラマは明治の後半の話  
テニスのラケットも調べて四角っぽいものだったのでそれを作って貰った
おしん昭和58年 台本を作る前からひそかにこういう事を書きたいんだけれどもと言われて 貧しい農家の日常生活について(山形)調べる

自分達が食べるものは大根飯 それを調査 資料をガリ版刷りで年寄りから聞いたことを記してあった 3:7 大根:屑米   実際は逆なようだったようだ
住まい 布団も満足にない時にどうしたら暖をとれるか調べたら わらの中に裸で寝るのが暖をとれるという事を知った
予備稿を数回先ず読んでチェックして調べることは調べる  
ほとんどは国会図書館 中央図書館 国立公文書館等いろいろなところで調べる
昔はカードだったので調べるのが大変 3冊までだったので内容が違う場合もあり時間がたいへん掛かった
今はコンピューターなのでコンピューターが使えなと検索できない 
調べるのは時間がかかる仕事  確固たる裏付けが無いと報告できない,ずっと貫いている

坂の上の雲  3年に渡って放映  風俗考証を担当   
軍隊を離れての生活の様子を担当する  
秋山 好古 秋山真之   結婚相手の家紋を調べてくれとの要請  
青山墓地の埋葬場所を訪ねる  
家紋が付けられている墓があるのでそれに着目して調べたら有った,こんなことまでやるのかと思う事もあるが      
白洲次郎の物語で,お母さんの気持ちになって書いてくださいとの要請があり対応する    
兄、姉から学生時代のこととかをいろいろ聞く事ができた
姉の家計簿は一番参考になった  
薬代 初診料等  生活の状況が判る  
周りのいろいろな方から情報が得られた(母、おば等々)
「負けて勝つ」  吉田茂の物語  マッカーサーと対等に渡り合う

2012年7月23日月曜日

今井通子(登山家)        ・時代を創った女達 2

今井通子(登山家)         時代を創った女達 2   
1970年代の後半からヨーロッパアルプスからヒマラヤに変わってきて、ダウワギリの4,2,3,5峰の縦走を成功させた
コンセプトそのものをどうするかと言うものの緻密な論議とデータの収集が大事 それさえやっておくと自信持ってやれる、でも200mぐらいの滑落があった  
チョモランマの冬期に登れるだろうと思った   
主人はネパール側から計画していた  私達は中国側から登ることにした  
風がぶつかって(ジェット気流)岩が落ちてくる  8200m位のところまでしか行けなかった  
マイナス60度位になった ほとんどの隊員が下痢を起こす  
人間の身体は寒くなると震えて熱量を増して身体の体温を上げる  脂肪を糖分に変える 
そういう動きも駄目になるとアディポネクチンというものが筋肉に直接あったりするが、脂肪をどんどん燃やしてあげる    2重のシステムを持っている  
バランスを取るためのサポートをする機材をもっと増さなければいけなかった (反省点)  
反省点を直してもう一度行く  
8400m位の処で雪崩のように石が降りてくるのでだめだと言って結局下山する  
もういいやと思った  スパッと諦められた
失敗には二つある   自分達が真剣に努力してなかった 
あるいは状況が判らなくて他に何かあると思って悔いが残った時
この様な時は改めて努力するもしくは悔いが残らないように挑戦する
自分達の力では到底及ばない何かがある場合の失敗は爽やかに失敗を受け入れる
(べストを尽くしたので受け入れる)

今は技術を持っていれば或る程度シェルパを雇って行っている  (冬期は除いて)
森林シェラピー 森林に行く事によって身体が癒される  
2007年ぐらいからやっていてそこの理事長をやっている
これを科学的に証明したのが日本  学会は「国際自然と森林の医学会」 を作って今は14カ国20名のテクニカル委員をしている
自然は人間を癒す力を持っている 
ヨーロッパは産業革命で生活が変わってしまったので それまでは一次産業で動物に近い生活をしていたが(農業とか漁業とか) 人間という動物としての生活 、が太陽のもとで起きて、星の下で眠るという普通の動物の生活をしていた  
それが工場の中で仕事をし、家の中で仕事をし 外にはあまり行かない  
そして石炭をどんどんたいて、結局は気管支ぜんそくが多くなったり 霧のロンドン(雨粒に核となる石炭の粒がつく  大気汚染)

大気汚染による霧、温暖化を経験  (氷河が無くなる)   
フランスはバカンスを作った 景気浮揚との事ではあるが日光浴の促進 
ドイツは人間は自然とともにあるべきだと始めたのがワンダーホーゲル   
根っこの部分で自然とのかかわりをきっちり押さえてやっていた
それを知ったから日本は欧米諸国の文化をパーツごとに受け入れている 
そこにある哲学的なものをなにもしらない
自然とともに生きることの意義からなにからも人に知らしめておかないといけないと思った
自然が人間にどういう事をしてくれるか気になっていた  
1982年に林野庁長官だった秋山さんが森林浴と言う言葉を作った

ソ連の学者が森林が持っている揮発性物質を全体をひっくるめてフィトンチッドと呼びその物質には消炎作用 殺菌作用 人の心をハイにしてくれる作用等、論文に出していてそれを元にした私はそれだけでいいと思った   
皆さんを森に連れてゆく (森林マラソン ウォーキング  コンサート 等)  
森林を元気にしなくてはいけない  
2000年ホルモン検査機器が発達して NK細胞を活性化するとかの研究が段々進んだ
森林セラピー基地48箇所ある(全国)  森に2日間 いると1か月後までNK活性化が高いままにいる  
免疫系の疾患がある程度癒される
森林は気候緩和能力がある   棚田とかひっそりとあった 
森林セラピーに行く人はいないのに棚田ツアーが盛んになったりして波及効果がある
WHO始め予防医学に注目している  
日本人は森林を科学したといって注目した  
昨年 1月に「国際自然と森林の医学会」を立ち上げた  
環境と健康 これに経済がくっ付いてくる  
熱心にやっているとなにをやっていても楽しい  
そういう点では極楽とんぼぽいかもしれないが
自分自身のモチベーションを常に元気なところに持って行っておく   

2012年7月22日日曜日

今井通子(登山家)        ・時代を創った女達

今井通子(登山家)         時代を創った女達   
(1942年2月1日 - )は、東京都出身の医師・登山家
1960年東京女子医科大学に入学 山岳部に入りやがて岩登りに魅了される様になる  
1967年マッターホルン  69年にアイガー71年グランドスジョラスと言うヨーロッパで
一番難しと言われた三大北壁に挑戦して日本女性としては初めての快挙  
泌尿器科の医師として働く傍ら夫とともにヒマラヤトレッキングの魅力を広げるなど今も忙しい日々を過ごしています  古希を迎えた  
体力とか気力とか其の時に持っているものに今は逆に山に合わせている
最近天候がおかしい 1980年代から  肌で感じていた  
当時は誰も信じてくれなかったが、山の中にいると急激に温度が変わる    
大雪渓を登るときに名古屋が38度の時に20度位だったが急に寒くなる(4度だった)
 
泌尿器科の医者だった   前立腺の研究をしていた  
登山の時は健康診断している  医学全般は一応勉強する
子供のころに親にいろいろ連れて行かれた 親は両親ともに医者  
東京で育てていたらひ弱に成るのではないかと山、海に連れて行ってもらった
高校卒業するまでには親のいう通りに自然に親しんでいた  
休日は全然違う事をやろうと自然に親しむようにして、文化も学ぶには雨だったら映画館に行くとか、食事をするとかをしていた  
大学に行っても日曜日だけは山とかに行くという事をしていた  
月曜日に残務の勉強、仕事 をこなそうとすると3時間はかかると思っていたことが30分でこなせてしまうようなことがままある

積極的休養 頭を全部違う事に回していて、その間に今まで使ってきた神経とかそこでメンテナンスができて クリアに成って 効率がいい
自然の中ってただ単に楽しいという事だけで無くて人の頭の中から始まって全部メンテナンスする能力があるのではないかと思う
大学に入って最初に登山に行ったときは縦列でのってゆく形式に全然なれていなかった
(それまでは親と一緒だったので勝手に自分でペースを作れた)
辛かった 花があったり、鳥がいても休むことは出来ずにいた   岩にも登るようになった  自分で働き自分で自活するのが当たり前だと思っていた(親の教育がその様にしつけられた)    
ヨーロッパアルプスに登りたいと思った時にトラブルが有った時に、新聞社にホットラインを使わしてもらいたくて行ったのに 「女だてらに」と言うように見られた
実積を気を作らなくてはいけないと思った   
2人でマッターホルンに行った(下の1/3が氷壁 中が岩場 上が逆層) 4500m位の山
マッターホルンの場合は女性がどうのこうのと言う前に実積を作りたかった   
技術は持っていると思っていた  
ロッククライミングは自分を上げてくれる力があればいい  
人間の身体は生き伸びられる様に出来ている  
降りて来る時には余り感じなかったが 降りてしまってからやったとこれから自分が生きて行きたい道が開けたと思った 
 
その時にウーマンリブとか女の人が何かをしたいと思った時に実績でものを言わないと駄目なんじゃないかなあと思った  
各人がやりたい人が自分達だけでやればいいわけで皆で徒党を組んで地位の向上とか何とか云わなくてもいいのではないかと思った  (個人主義になった)
アイガー北壁  沢山の人が亡くなっているが研究してルートを考えた  
1963年より文化交流だとか、国益になる人でないとパスポートは得られなかった  
「高所登山時における人体の生理学的変化の研究」と言うテーマに人工的な処で研究した結果を自然の中で実験するというテーマにしていくという事にした
肺活量、血液、尿 検査を全部やって行った   
歴史を見ると死の歴史なので天候に左右されるとかで ダイレクトに登ぼることによって天候に左右されない方法を選んだ
  
とりあえず観察して洞察する  
マッターホルンの経験があるので技術的にはいけると思った
 1971年グランドジョラスは3大北壁を登った人が若干名いた  
グランドジョラスを登ったことが無い人間がアイガーだとかマッターホルンの凄さを言うなと 3つ登ってから言えと言われる  
それじゃあ登っちゃおうかなあと思っていたら 頂上で結婚式をやろうと今の主人から言われる(5人で登りにいって3人が立ち合い)  
グランドジョラス山頂で高橋和之と結婚

2012年7月21日土曜日

石井裕子(ケアリングクラウン)      ・生きる力を引き出すケアリングクラウン活動記

 石井裕子(ケアリングクラウン63歳)  生きる力を引き出すケアリングクラウン活動記  
ピエロの衣装で病院を訪ねて入院中の子供達と遊ぶボランティアの人達の事(クリニクラウン)  
老人ホームや障害者施設などで幅広く活動するのがケアリングクラウン
夫と友人夫婦 4人で作ったケアリングクラウン グループとんちゃん一座 の代表 その活動は国内だけでなく海外にも広がります
ケアリングクラウンの取り組をお聞きしました

赤い鼻をつけ「トンちゃん」の愛称で親しまれる石井さんが「ケアリングクラウン トンちゃん一座」を結成したのは10年前
衣装はピエロの衣装とは若干違って,じみ 人が落ち込んだりしている人のところに行ってその人が持っている力を引き出す為のお手伝いをするのがケアリングクラウンと思っています   
「とんちゃん」 というニックネームがついていたのでその様に即座に決めました  
人との巡り合いとか 自分の知らなかったことを知った事によって これって私の周りに悩んでいる人達に少しでも元気が出るようにと思って 3人の子供が 世話を焼く必要が無くなったのを機にたまたまケアリングクラウンに目覚めた 
 
地域福祉のことは 民生児童委員は15年間させてもらった  
ケアリングクラウンを見たのはTVの衛星放送  その後研修にいって世話役を頼まれた 
広島を選ぶ  兄がレストランを経営していてそこで食べればみんなが喜ぶと思ってそこに決めたが 兄が面白い人がいると紹介してくれた 
障害者を招いてのハロウインパーティーもどきをして そこに招待された  
あれってTVで見たものに似ていると思って始めた 
アメリカに5回行って大学でおこなわれていた初級コース 中級コースを受ける
皿回し お手玉 身体を動かすこと パフォーマンス マジック  自分の顔に合ったメーク  
全部自分で手作りで衣装も作る 

ヨーロッパにも勉強に行く  研修を受けたりして知り合いになる  
パッチアダムス に2001年に東京で研修を受ける
自分の信念をこつこつと貫いてゆく姿勢をパッチアダムスから学んだ 
最初の活動は 子育て講座に行ったら子供に泣かれた  
この子供達がどのように変わってゆくかがテーマ  
遊んでいる間に泣く事よりも遊ぶことが段々大好きに成って遊ぶ ルールを教える      
最初は私一人でやっていたが、友人が荷物を持ってくれて、アメリカの講座に誘って 一緒に活動するようになった 
手が欲しくなり 夫に助けを頼んだ   友人のご主人も巻き込んでしまった  
現在4人で活動している

自分達の人生のよりよい人生を送ってゆく 自分達の為にもなっている  
最初幼稚園 老人ホーム 病院の方にも話してサーカスのような衣装で病院に入った  
車椅子の人と話をして会えてうれしくて泣いてくれた 
周りは理解できなくてあわてたが理由を説明したら理解してくれた
音楽はいい バルーンを作って持ってゆく 組み立てていろいろなものを作る  タコとか プロセスの中でいろいろなものになってゆく  アンパンマンになる
デイケアーセンター 年明けに獅子舞いの獅子が頭を噛む格好をすると いい事があると言うのでみんながやってほしいと賑わう。
心の中に眠っている自分の生きる力を色んな事をしてコミュニケーションを取ることによってその人がもともと持っていることをだしてくれるのではないかと思う

いろんな人がいるので身近で出合う人達との係わりの中からいろんな人たちとの出合う訓練になっていくんじゃないかなあと思います
だから身近な人達との生活を大事にしたいなあと思います
夢 沢山の人と出会って沢山友達を作って にこにこと最後を迎えたいと思います