2012年7月8日日曜日

松尾昌出子(塾長79歳)      ・歌舞伎を通して子供を育てる

松尾昌出子(塾長79歳)          歌舞伎を通して子供を育てる  
松尾塾子供歌舞伎 歌舞伎を通して日本人の心を教えようと昭和63年からはじめられた  
今年で25年目を迎える 
大阪の子供達が中心  勧進帳に挑戦している  
稽古は舞踊関係は藤間良蔵先生  三味線は塚原先生が担当している  
年末から稽古を始める ビデオを見て概要を勉強する
春休みが終わる頃に一応台詞とすることなどが最後までできるようにと言う風に進んでいる   
幼稚園から中学3年生まで  声の質によって役を考えたりしている 
女性でも男役をしたり男性でも女役をやったりしている
発足は 母が7歳頃から踊りを習って歌舞伎の寸劇をやらせたら受けたのでそれから始めた  戦後は舞台を退いて主婦になった

小学校の2年生ぐらいから学校に行っていなかったので 歌舞伎を通して教え得られたことが多くて もう一度日本人の心と言うものを親しみながら子供達に身に付けてほしいという事で始めた  
入会金、月謝も何にも頂いていない   
母が人生の学校だったので子供達にも体験してもらいたいと思った  
芸も礼儀作法が厳しいので我慢して稽古をしている  
物事のけじめを付けてほしい
小さい子のしつけを兄さん姉さんが誘導してくれる
 特に小学校3~4年生の子が注意する側に成っている(最近まで注意された側)
日常の中で古典芸能に触れる機会が余りない 
託児所みたいな傾向が有る(より小さい子を連れてきたりするので 周りの人がフォローしてくれたりして)友達付き合いの下手な子もすっと入ってくる   
85歳の時に母が子供歌舞伎を立ち上げた  
父は松尾國三 旅役者から興行を立ち上げた
 
歌舞伎なんかやる子供はいないと私は言っていたが最初10数人来た  
1年後には25人ぐらいに増えていた  公演をやりたいと言い始めて財団に問い合わせ
平成元年に旗揚げ公演をした  
裏方は本歌舞伎の方にやっていただいた  義太夫 かつら等々
母からバトンタッチ(母が亡くなって3年目)  
子供の時にちょっと出たぐらいだったので母の1/00も歌舞伎を理解していないので出来ないと話していたら ,3年やってきたので続けたいと,親たちから言われた 
松尾塾は親孝行を教えている  追善公演をしないということは物凄い親不幸だと脅し文句を言われた  
追善公演だけはやろうという事になり周りの人達が助けてくれて何とかこなした  
そうしたらもう少し続けたいとの話がありいつの間にか20年経ってしまった

平成4年に追善公演行う 今考えると良くやったと思う  
子供は最初真っ白 そこにどのような絵を描くかは大人の責任なので何年かたってそれが怖かった  
人間としてもいつの間にか成長して嬉しかった  旨くなってくると卒業してしまう  
残念な気はする  
キャラクターに合わせてどんな役かなと考える
その時々の顔触れによって演目を考える それが楽しい 
2009年 怪我をして稽古場にはいけなかった時期があったが卒業して行った子たちが駆けつけてくれ
後輩の指導をしてくれた  しっかりやれてくれて吃驚した  
卒塾生、関係者にバックアップして貰ってやってこられた
市川団十郎のビデオを元にやらせてもらった 
 禅問答の様な台詞が一杯出てくる 
 
凄く気が入っている 一生懸命にやっている  
義太夫もその子供達の真剣さに生半可に出来ないと頑張ってくれている
「勧進帳」 「梅野芳兵衛」(大阪は一般的な市民の世話物  世話ものは難しい 
心の芝居なので台詞、動作に内なる思いを込めてやらなければいけない   
子供は母親ではないので母親の気持ちとかを演ずるのは難しい)   
長唄「末広がり」 (中島克介  母と縁が有って子供達に教えていた先生 亡くなったが
卒塾生を含めて出来るだけ参加して貰って三味線、唄を唄って、鳴りもの 太鼓 鼓 踊りも踊って貰って一つの演目を披露することになる) 

子供歌舞伎から学んだもの→子供は損得も無く駆け引きも無いストレスがたまらない 
元気を貰っている子供の無限の可能性にどのように付き合っていけるか
出来れば30周年をやりたい  
上方歌舞伎が演目も上演されないのがどんどん増えている 
出来るだけ知っている方が元気な間に 歌舞伎は義太夫が無いと
駄目なので 古いものを掘り起して大事にしていきたいなと思っています

2012年7月7日土曜日

小松和彦(所長64歳)       ・今も生きる妖怪


小松和彦(国際日本文化研究センター所長64歳)   今も生きる妖怪
文化人類学と民族学、主な研究テーマは鬼や天狗、河童などの妖怪です。  
人呼んで妖怪博士、誰も研究しなかった世界に踏み込み妖怪を学問にまで高めた
妖怪はどのようにして生まれてきたのか、日本人にとって妖怪とは何なのか子供の頃から興味があったし恐れていた。  
4歳の頃トイレでくみ取り式で、そこが暗くて手が出てくるのではないかと思ったりした
小学校に入って怖い話をしたり、怖い映画を好んで見に行った。  
大学では歴史が好きで民族学等はやるつもりはなかったが、こういった学問があることが判り民族学を勉強した。
妖怪をメインテーマにしたが、きっかけは先生と秩父の山に行きました。 
民俗調査をするわけですが、皆は家族の事を調べていたが 私は「おさきぎつね」と言われた話が有り、昔蚕を飼っていてAさんのところは蚕があまりうまく出来なかったが、隣の家は旨く出来た。  
じつはおさきという狐をかっている家だとするとひそかに御主人の想いを組んで夜の内に其の蚕を持ってきてしまうとか 語られ方をする。
おさき狐は野生の狐と違って鼠のようにちいさ 、飼っている家ではちゃんと餌を与える。
神秘的な動物をかってたりする話で、神隠しの話等々聞いて衝撃的で、調べだした。  
かっぱの伝説、河童と言う想像上の動物を信じていた人達が一杯いたので、そのデータを集めようと比較したりする研究なども行われていた。

桃太郎とはどんな存在なんだろうとか、柳田國男は日本列島の中でかっぱの伝承を調べたけれども、私は世界中の河童に類似した信仰を復元辿ってみる事をやっていた。  
人類学はスケールの大きな周りから見れば妖怪なんて迷信みたいなものは撲滅しなくてはいけないように言われていたが、民族学の中では少しやってもそんなに批判されなかったので細々とやっていた。  
ただ妖怪は文明が進めば進むほど滅びるものだと、殆どの人が振り向かない 
そんなことを研究しても将来性が無いんじゃない、というような就職口も無い様な研究テーマでした。 
心惹かれるものがあった。  
自分探し的なものも有った
研究者は少なかったですから。
妖怪とは一体何なのか、真正面から取り組むととっても難しい。  
説明がつかない、変だなあと思う超自然的な現象、すべて昔は妖怪だと思った、昔は雷でも説明がつかなかった。 
なぜあの音は出てきたのか、説明としては怨霊とか、雷神とか山の神が怒っているので出しているとか、納得のできる説明物語を作っていたんだと思います。 
 
国家の政争の関係で敗者になって殺されたりして、恨みとかも自然現象と結び付けて語られていたりもする。  
鬼の研究していると鬼の抱えている悲しい側面も見えてくる。  
その複雑さが時には 日本では美学になったりする。  
幽霊は成仏できずにこの世にさまよい出てきた霊なんですが、恨めしいと言って出てくるだけでなく、好きな人と添い遂げられなかったので、添い遂げたいとかつての愛人の処に出てきたり、いろいろ幽霊がいる 
神社に祭られて御馳走お祭りをして、そこに座っていて悪いことをしない神様よりははるかに妖怪の方が人間の心みたいなものが現れたりして面白い。

人間の多様な感情を多様に引き受けているのが妖怪じゃないでしょうかね
菅原道真の怨霊、才能がある菅原道真が現れて藤原一門が政治的地位が脅かされるのではないかということで陰謀で失脚させてしまう。  
その後道真は大宰府で死んでしまう。
自然現象の落雷で内裏が被害を受けて感電死してしまう、疫病がはやる。  
それを説明するのに菅原道真の怨霊だと、神社を作って祀らないといつまでもたたりがあるということで北野天満宮を建てるが、一番それが有名です。  
人間が祭ることによってコントロールする。  
恨みの念を浄化させてゆくことができる、鎮魂 という。
平安時代の都作りでも、当時の権力者を失脚させてきたので、その怨霊が入ってこないように鬼門を設けたりした。  
当時としては合理的な事として捉えられていた。
日本の妖怪の特徴はアジアの妖怪は中国の影響を受けている。  
鬼神、百鬼夜行といわれるようになり、植物、道具とか色んな種類の鬼が絵に描かれている。  
現代で言う妖怪ですね。
共通しているのは人間に対して恨みを持っている、妖怪の種類を沢山にした一番の理由は人間が作った道具だと思います。

人間が作った道具も魂を持っていて、その魂は人間と同じ様に悲しみ怒ったりしているはずだと、魂を持った道具に対してきちっとした満足するように処遇しないと捨てたりするときにも恨みを買わないように捨てなければいけない、それが根底にあると思う、   
あらゆるものには魂がある、そして人間はその関係で魂を喜ばせたり怒らせたりすることができる。  
其の魂を怒らせるとたたりますよと、道具も捨てるときは怒られないように祟られないようにと言うことだと思います、日本独特なものです。
江戸時代になると作家が自分で新しい妖怪を作って物語にしたりしはじめる。  
世界でもこんなに豊かな妖怪文化があるのは珍しい。  
その背景をきちっと歴史的に示してみたい、世界でも日本の妖怪は知られる様に成ってきた
妖怪とともに生きてきたのが日本人だと思う。   
人間と言うものを説明しようとする時に、人間だけで説明しようとすると無理があると思う。 
神様の世界から人間を見るとか、妖怪の世界にそこに人間を送り込んでみたりした時に、人間はそこの世界でどのような行動をするのだろうかとか、妖怪が人間に対して訓練を与えてくれたり 人間の世界では空を飛べないんだけれども、妖怪たちと一緒になったら空を飛べちゃったりだとか、現実の世界の法則を解き放たれた想像の世界の中で人間はさまざまな夢を実現することができる。  
妖怪と言うには人間が現実的には限界を持った存在なんだけれども、想像力で限界を超えていろんなことを可能にしてくれる、それが凄く僕には大事な役割だと思います。  

妖怪を通して妖怪を鏡にして人間を見る、そういう気がします。 
妖怪を研究すると人間研究に繋がってくる、人間を研究することになる。
想像していた以上に真ッ昼間から妖怪が徘徊しているのが最近の現状だと思う。  
妖怪のアニメーション映画等、こんな時代が来るとは思わなかった。  
文化は想像力がつくりだすもの、科学的合理的な考え方だけで生きて行きましょうというそれが幸せになれるんですという風に行ってきたことの破綻みたいなものが 文明科学技術だけでは人間幸せに成れないんだよ、とそういうことの裏返しみたいなもので想像を駆使してゆくことによって人間らしさを取り戻している、そういうものと関係があるのではないかと思っている。  
現代社会がちょっと厄介なくらいに科学技術、物質文明に取り囲まれてしまっていて、心の想像力が枯渇してしまっていることの証でもあるような気がして複雑です。
今までの国際日本文化研究センター所長は梅原猛河合隼雄山折哲雄等、そうそうたるメンバーで、私は6代目になる 
歴代の所長の共通していることは、世の中の常識に捉われずに新しい分野を開拓している多様な性格を持っていて、幅広い教養を持っている。  

2012年7月6日金曜日

山崎努(俳優)         ・演じること読むこと生きること 2


山崎努(俳優)           演じること読むこと生きること 2
芥川比呂志のハムレットを19歳の時に見て俳優になりたいと思った  
エネルギーを貰った様な気がして俳優に興味を持った
友達に俳優志望の人がいて彼に誘われて試験を受けに行ってたまたま受かってしまって入った 
19歳~22歳 3年間勉強した  アルバイトもした  
河内桃子が暗がりで手を握ってラブレターかと思ったがお金であった (貧乏に同情してくれた)  文学座に入ってその後劇団「雲」にはいる
芥川比呂志と一緒に移動した その後映画にも出る  
最初兎に角何の力も無いのに虚勢を張っていた 内心めげそうになるのに突っ張っていた
『天国と地獄』の誘拐犯役をやって脚光を浴びる 
25歳の時  監督の力で役をこなすことができたと思う
技術と言うのはばかでも覚える 10年やっていれば旨くなる  
本当の表現はそういったものではないと思っている

其の時感じた事其の時に表現したいと思ったもの 一度やったことはやりたくない    
其の時に生まれてくることを大事にしたい
失敗と成功のぎりぎりのところでやっているのが面白い 安全運転は駄目  縋るものを一杯作ってしまうと冒険ができない
自分からこういう役をやりたいと言ったことはない  
突然不自由なところで決められる 不自由さが面白い 
実人生でもこんな面相でこんな条件でと この世に出てきたのではないので それは具合が悪いんですよ でも其の枠の中で生きてゆく努力をするのが楽しいと いうか楽しまなくてはいけないと思うんですよ  役も同じだと思う  
この役をやりなさいと突然来るわけですから  
「おくり人」  そういう職業があることを知らなかったので実際やっている方に教えてもらいました
ジュディーデンチ 演技を見て非常に刺激をうけてこの人に出会わなかったら自分の俳優人生は変わったのではないかと思った
自然らしく見せるためにはいろいろ技術がいる 
観客はある生理的なリズムで無意識に見ている  
生理的なリズムを裏切ってやるとアレっとなる
それを延々と続いてやると物凄い感動になる  
例えばここで息継ぎをするだろうと思っているとしない 
ここではするだろうと思ってもしない そして一気にしゃべって仕舞う 
呼吸法を覚えないと出来ない 
 
自然にやるということは自然にいればいいというのではなく 技術が必要で技術を習得しなくてはいけない  
呼吸法は自己流であった システムになっていなかった  外国人に教わった  
イギリスの俳優は先ずはブレスの訓練からやっていた 
呼吸法ができるまでには随分時間がかかった   
舞台で使いこなすようになるまでには時間がかかったが遣り甲斐があった 30代後半の事
舞台の音響 有る舞台で音響が通らないところがあった 1000人近くになると劇場の作りで影響される  其の時はマイクを使わざるを得なかった

声の微妙な感触はマイクで増幅してしまったら殺されてしまう  
生の声でどう伝えるか  毎回違う  
演技も出だしにこだわる 乗れない時と旨く行く時と出だしで判る  
色んなことが本番中に起きる  
自分の計画通りに進んでいったのでは感動は生まれない  
失敗を含めて演技 やり直しは利かない  成功とはその通りに行った場合も成功とはいえない
一番大事なことは演技論よりも日常を大事にするのが基本である  
日常は日常で別にあって演技の仕事は演技の仕事として別ある と考えてしまうのはいけない、日常の延長線上にある と思う   
日常をどのくらい濃密に過ごすかと同時に 舞台を特別なものだとは思わない方がいいという事ですね  
舞台を大変だとは思わないようにする  
舞台は長いので健康管理が大切   
舞台に出てくる人物は実際の人間ではないのでしっかりどこかが歪んでいる 
異常なところを持っている人物ばかり 全く平凡な人間は平凡な人間の形に狂っているので その様に私だったらやります 
笠 智衆 (りゅうちしゅう) 他に居ないような老人     
役との出会いは運命みたいなもの  モットー 楽しむこと 楽しくやること

2012年7月5日木曜日

山崎努(俳優)          ・演じること読むこと生きること

 山崎努(俳優)           演じること読むこと生きること  
(1936年(昭和11年)12月2日 - )は、日本の俳優
黒沢明監督の「天国と地獄」の誘拐犯役で注目を集めて以来 NHKドラマ「ザ商社」でのエネルギッシュな演技 日本アカデミー賞 「おくりびと」等で知られています
読書家でも知られ週刊誌の「私の読書日記」という書評欄を2006年から6年間続け「柔らかなさいの角」と言う本に纏められました
山崎さんの暮らしぶり、人生観、俳優論もあり 読書が俳優山崎さんにとって大きなものであることが判ります

トーク番組は苦手  「柔らかいさいの角」 出来るかどうかやってみようと思って「私の読書日記」の仕事を引き受けた
読むことと書くことは違うので最初慣れない中を何とかやってきた  
本業の合間にやるのは最初締め切りに間に合うかどうかが心配であったがだいぶ慣れました
本を選ぶのは感ですね  
「柔らかいさいの角」の表紙の絵も編集者に頼まれて自分で書いた 絵を描く事は好き    
「サイの角のようにただ一人歩め」と言うかっこいいフレーズが気に行っていた 
ブッダの言葉だった

「隠れ仏教」鶴見俊輔の本の中にサイの角に触れたところがある 
インドサイの角は中が肉でぶよぶよである これは衝撃的だった 
今までは堅いと思っていた
芥川比呂志に出会わなかったら俳優には成らなかった      
一回に3冊 なるべく偏らないように心がけている
身体の力身体の仕組み パパロティ    
舞台を続けていると切り替えが難しいとい言われている  
千秋楽の翌日から神経がおかしくなる

開演の時間になると身体が戸惑う   最初何でこういう状態になるのか判らなかった
以前よりも色んな実験をして自分を好きになった  新しいことは何でもしてみたい  
身体のままに 人はかろうじて身体で自然と繋がっている   
或る人が鬱に成って散歩をして散歩が登山靴を履いて山に登る様になった
身体がその様に動いていくものなのですね    
5人で担当している 自然にテリトリーが出来てきた 
俳優であること 老人であることにアクセントを持ってやっている  
「声と言葉と恐怖心」 タイトル  耳についても小学生は柔らかな耳を持っている  
知識が増えてゆくと意味で言葉を取ろうとするが 子供達は知識が少ないので、音で取ろうとする  だから柔らかいのだと思います 
 
子供の耳が鋭いのは言語能力が限られているからである 
幼児は音を頼りに回りを知る  
赤ん坊は優秀な耳を持っているのかもしれない   
 声そのものが持っている表情が有ってそういう届き方ができればいいなと思うが、大人に成ってきて意味に捉われてきてそういう感性が鈍って行ってしまうのではないかと思う  
「声の秘密」 本屋さんで見つける  大体は本屋さんで見付ける
「創作のコツは表現する事柄を心から面白がることと感じいる  
達人は悠然と楽しむ」 丸谷才一 エッセー
俳優は準備はするが瞬間的なもの 感じた事をそのまま表現する  

文章の場合はよくよく考えて一番的確な言葉を選んでゆく  自分に一番しっくりする言葉を選んでゆく  作業としては正反対  俳優と文章を書く事    
若い頃だったら文章を書くことはやっていないと思う  
若い頃から日記は付けていた 「俳優ノート」につながる    
芝居は準備から稽古から本番まで長いので日記を付けていたが映画、TVは付けていなかった
連載の仕事に関しては吃驚したが楽しもうと思ってやってきている   
戦争に関して体験を伝えてゆくことは難しい   大岡昇平 『俘虜記』   
切り口がみつからない本があるがそういうものは書けない

山田風太郎 『人間臨終図巻』 内藤陳さんの「息どうするんだんだっけ」 面白くて 臨終の言葉について書いてみようと思った
佐野洋子   勝海舟の『これでお終い」が最高  
佐野洋子の父親「金と命は惜しむな」
笑いは大好きなので意識している   
本を読むということは自分の生活の中に入ってしまっている  
ご飯を食べたり酒を飲んだりするのと同じで活字が無いと駄目
「どんぶらっこ」 語感が良い  人生は何があるか判らない 
桃がどんぶらっこ どんぶらっこと流れてくる 思い通りには流れてゆかない
「どんぶらっこ」は面白い言葉だった  背伸びしないで日常の実感を書いているつもり
役をつくる事と本を読むことは同じだと思う  
どこか自分なりの切り口を見付けてそこから入ってゆく 
役作りもそうだし 其の切り口を見付けることそれが楽しい

2012年7月4日水曜日

八木功(ニーハオ大飯店主)    ・餃子と人情は私の宝物

 八木功(ニーハオ大飯店主78歳)           餃子と人情は私の宝物  
モンゴルで別れ別れになった父親を訪ねて、45歳の時に日本の地を踏む  
八木さんと4人の家族  日本語を習い料理を研究し、地元の人達からの温かい支援を受けて懸命に働いた結果、兄弟たちを合わせて12店舗まで大きくなりました    
旅順で生まれる 1934年 昭和9年   人を大事に一生懸命やるのは自分の為でなく みんなの為に八木さんは日本人 夜間中学に入って厳しく日本語を教えてもらった  
45歳から中国語から日本語に切り替えるので大変だった
 
うちの父(愛媛県松山市)が兵隊で旅順に行った 軍港としても知られる土地  
長男として生まれる  白玉山に登った時の思い出がある(5歳)
父が料順で店を経営していた  戦争が激化してきて様子が変わってきた 
お客さんに出すものが無くなる  モンゴルに行ってしまった (4年間過ごす)
1945年6月にその街が戦場と化してしまった  
父から先に旅順に戻りなさいと言われて母と子供達で旅順に帰った
父は残らざるを得なかったのでそのまま残ったがその後連絡はとれなくなってしまった 
食べ物が無くて会話が必要に成り中国語を習った 
朝4時半ぐらいにソ連人が住んでいる処にジャガイモの皮とかパンの切れ端とか拾って家に帰ってそれで朝食として食べた 
12歳 仕事を一日重労働をした 母も倒れて家族の柱として働かざるを得なかった 
 
薬代は全然ない 川に魚がいるので魚を食べれば良くなると言われたので冬に魚を取って2~3匹取って母に食べさせた
近所の方がコウさんがトウモロコシを25kgを持ってきた(弟をそれの方に連れてゆくつもりだったが) うちに其のトウモロコシを置いて帰って行った
16歳で大工になる  1956年 22歳の時に市の優秀青年に選ばれる 連続3年  
結婚は27歳 段々貧乏ではあるが生活は安定してきた
1966年 文化大革命前  公安局から葉書が届いた 日本から葉書が来たとの事 
返信を出しなさいと言われた 残留婦人の人に手紙を書いてもらってだした
文化大革命がありその後2年以上途絶える 
日本との友好条約が成立して 其の時から再度連絡が取れるようになった

父が日本に一人でいるので帰って来いと言われた 
当時生活は楽になっており日本語も全然話せない状態であるが父には会いたくて一時帰国する 会話はできない(父は日本語、私は中国語) 
ビザは一時帰国だけれども永住と書きなさいと言われた 
そう書けば永住できると言われたが、中国では現場監督の地位に有り知人も多いので、日本には戻れない 父が中国に来るようにと言ったがそれもかなわなかった  
父が厚生省に掛け合って一時帰国を永住に変えようと交渉していた  
わたしも日本に帰れば何とかできるようになるのではと思った

早く日本語を体得しようと思い、昼は葛西小学校 夜は小松川中学校の夜間部に通って日本語の勉強を始める  45歳 昭和54年
今中国料理店を経営して大成功する  中国料理をやるとは思わなかった  
父が料理店をやっていたので見よう見まねで覚えて行った
日本に帰ってきた時に先生が来客した時に水餃子を先生たちにもてなした  
これは美味しいと感動された
焼き餃子を食べたいと先生に言われた  
焼き餃子は中国には無いので判らないから先生と共にいろいろな店に食べに行った 
家に帰っていろいろ研究した 大連での焼き肉饅を思いだして 其のやり方を応用して先生が来た時に出したら先生が本当に喜んだ

おいしい餃子を日本の方に食べさせたいと先生方が動いてくれたりして小さな店を出したいとは思ったが 自信は無くて ある店を紹介して貰って1年半勉強して (経営も含めて)1983年 昭和58年 蒲田に店を開く事になる 「羽根付き餃子」として大盛況となる  
店を出す時にお金が無く 先生たちが37名の知り合いの方に声を掛けて食べてもらって 結局70名ぐらいの方から370万円を集めて店を出すことができた
店の選択が難しかった 半年かけて店を探した  駅から1分(本店) 
開店してから直ぐに行列だったのが本当に嬉しかった 1日3~4時間しか眠れなかった
いくら忙しくてもいくらお客さんが増えても料理の味の手を抜かない  
お客さんに喜んでもらえる     安い美味しいと喜んでもらったのが幸せと思っている
水餃子と焼き餃子はどちらが好きか→水餃子が好き   
蒲田は中国の人が多い コックさんは中国から呼んできている
留学生の手助けをしている  

2012年7月3日火曜日

宇野功芳(音楽評論家82歳)    ・名指揮者ブルーノ・ワルターと我が音楽人生

 宇野功芳(音楽評論家82歳)        名指揮者ブルーノ・ワルターと我が音楽人生  
(1930年5月9日 - )は、東京都生まれの音楽評論家、指揮者。国立音楽大学声楽科卒
幼少のころから音楽が身近にある環境に育つ  
1952年にワルターに手紙を出したところ返信が届きその後ワルターが亡くなる前年まで交信が続きました
ワルター没後50年の今年宇野さんが編集長になり作家 作曲家 バイオリニスト 等が寄稿したとワルター特集の本も出しています

1930年生まれ 生れた時に蓄音機があった 父が音楽好きだった  
父は牧野周一 漫談家  失業して漫談家になった 活弁家だった
話すこと、映画が好きで オーケストラがボックスに居た (新宿武蔵野館 武蔵野管弦楽団) 
映画説明するのに丁度合っていた
府立4中(戸山高校)に入学(質実剛健の校風 帝大コース)  
戦争中なので音楽の合唱班等は無かった
終戦後は合唱部で合唱していた(男ばかり) 当時は5年生だった(声変わりしていないものもいたので)ので混成合唱をして コンクールに出たりもした(他に無かった)
1位は6中(新宿高校)に持って行かれた  
卒業時は都立4高(戸山高校) 上智大学英文科に入る カトリックの学校男子が軟弱に見えた
途中で音楽学校を受ける 父親を説得した が結核になってしまう  
昭和27年に手術して 昭和31年国立音大声楽科に行く  合唱の指揮者になりたかった
卒業後は都立定時制(小松川高校 7中)の非常勤講師になる  合唱部の指導した 
最初に定時制高校の歌を聞いたときに感激した 
22人でこの合唱団は良くなると思った スパルタ教育をした 
日曜日も指導した(日曜でも夜しか使えなかった)  「故郷を離るる歌」
ブルーノ・ワルターに  22歳の時にファンレターを出す   
ベートーベンのバイオリン協奏曲 毎日のように聞いていた
友人がドイツ語をやっていて其の友人を介して彼の先生(ブルーノ・ワルターのファンだった)にドイツ語に翻訳して貰って手紙を出した。

返事が来て吃驚してしまった  大げさに言うと命の恩人 手術をしてから十数日目に其の手紙を読んで感激して大いに喜んだのが病気に対しては良かった
一回で終わらないで文通が10年間も続いた  
今年ブルーノ・ワルター没後50年になる
どこの馬の骨とも判らない東洋人に対して世界的な指揮者が良くも手紙をよこしてくれた  
アメリカに行ってから華美な迫力の有る演奏に変わった 
其の事に私はちょっと不満を感じてその事を手紙でしたためた事もあった
ブルーノ・ワルターはナチスに追われたアメリカに渡る ユダヤ系のドイツ人  
1933年にナチスが政権を取ってからナチスに追われる
子供時代から幸せな生活をしてきたがこれを機に厳しい生活に置かれる 
ドイツからパリに逃れて ヨーロッパに居られなくなって皆でアメリカに亡命する
カリフォルニアに住むようになる   手紙のやり取りが無かったなら今の私は無かった  
ブルーノ・ワルターの事を書いてくれとの周りからの話があり書くようになる
音楽評論家の道に進むようになる 指揮者になりたかった気持ちは変わらない  
音楽評論は生活の為
他の批評家はどこからつつかれても困らないように防壁を立てて書いている 

私の場合はいつ辞めてもいいという思いで書いているので厳しい評論となるのかも
いつも本当の事をいっているだけ ブルーノ・ワルターでも悪いものは悪い 
名も知れぬような指揮者の演奏でもいいものは良いと言っているだけ
クラッシクの聴き方 垣根が高いという先入観があるが クラッシック音楽は20歳になるまでに好きにならないと好きに成れない
演奏家はもっと厳しくて6歳ぐらいまでかもしれない 
3~4歳が一番良くって 6歳でピアノとかバイオリン等をやってしまわないと中学になってやったらプロに成れない
音の世界なので聞く方も高校生ぐらいまでにクラシックを好きにならないとあとでいくらいい音楽をきいても頭で聞く事になってしまう

ベートーベンはこういう人だとこういう曲なんだと そういう書いてあることをなぞりながら聞くだけで 本当に判っているのかは疑問ですね
おそらくは判っていないと思う  或る程度の感動はあるかもしれないけれども 其の演奏が判るというのは大変なことなんですよ 
眼に見えない 音楽と言うのは  旨いまずいは判るが 感動させるかさせないかと言う事でこれはやっぱり若いうちに習得してしまわないといけない
学校の音楽の先生の責任ですよ  音楽の授業で音楽が嫌いに成るので本当に残念   
私の一番驚いたのはベートーベンのシンフォニーを聞いた人は一人もいなかった
(音楽学校の声楽科) 一般大学のクラシックを聴いているが音楽学校に入った人は自分の専門しか興味はない 
そういう人が音楽の教師になった場合はそれは良い授業はできませんよ 
 
自分が演奏によってとっても演奏するという事が大変なこと
そういうのに熱心に取り組んでいる人は自分の体験を中心に授業をすれば生きたものになると思うんですよ 
借りてきた猫みたいに聞いてもいないベートーベンのシンフォニーなんかを喋るから生徒には通じないと思う  自分が好きでなきゃあいけない
合唱でも早くやるにはいい方が決まっているが 高校で合唱の名門校が有っていつもコンクールでいつも1位になるとか そういう人達は卒業した途端に、完全燃焼してしまって 合唱から離れるケースがある コンクールの弊害だろうなあ  
コンクールに物凄いハードな練習をする  
小松川高校でやったのはハードとはちょっと違って人間の心の問題として音楽をやっていたから彼女たちに通じたと思う

優勝するのは嬉しいけれども本当に音楽を好きになったか 本当に音楽が自分の血となり肉になったかと言うと疑問があると思う
小松川高校の合唱は 下町の持っている色んな苦しみ悲しみが出てくる 同じころ山の手のお嬢様学校に行ったが同じ「故郷を離るる歌」を歌っても全然違う
声は良いかもしれないが 全然故郷を離れる歌ではない 
「故郷を離るる歌」は寂しい歌なんですが 
小松川では故郷を離れる歌であると同時に人生との別れの歌のつもりで歌ってくれとそこまで言いました

2012年7月2日月曜日

村山明(木工芸家・人間国宝)    ・木目と木肌に魅せられて 2

村山明(木工芸家・人間国宝68歳)     木目と木肌に魅せられて
欅 神代欅 腐っていない限りは使える  菌に犯されると使えない   
盛器 稜線が練りれてくる お盆は底が平らで無いといけない(運ぶもの)   
盤→ 厚板 版→ 薄板  簡単に墨を入れたら頭にある形に、のみで一揆果敢に仕上げる   
自分がこういうものを作りたいという意志の基にすべての技術を結集して作る 
技術は技術だけ細分化されてゆく   
一時期技術などいらない 構想 とか想像とか が大事だと言っていたら 技術がおろそかに成ってきて 最近は技術を勉強するとかに変わってきている   
かんな 小さいかんなだけでも10種類  一番小さいもので長さが3cm  刃はいろいろある。  刃物屋が作る 個人の鍛冶屋さんがやっている   
磨ぐ ここから仕事が始まる  漆を塗る  欅はぱさぱさした木 木目がはっきりしている  
殆ど欅材を使っている
  
椿、さるすべりは滑らか 欅は磨くと滑らかに成るがけばだってくる 漆を塗って滑らかにしてやる 水を付けて磨ぐと木の表面がふやける   
水分が飛んでから漆をそこに塗ると浸み込む サンドペーパーの番手を段々細かくしてゆく  
光沢がある とは堅くてキズが無くなること   
磨ぐとは表面を滑らかにすることと、水を使って磨ぐという時は漆が少しでも中に入る様にする為 水を使わないで磨ぐという事は表面の膜を押しつぶしてしまう   
光沢を上げる   漆を塗った後漆を乾かす 湿度の有る処で乾かす  
漆は樹液なのでどろっとしている 漆は空気中の水分と温度によって酵母が結合する    
化学反応を起こし高分子が結合して堅くなり表面がつるつるになる それが乾いたという  
厚く塗り過ぎると空気に触れた部分から固まるので表面だけが、乾いて中が渇いていない状態になる かさぶたのようになり中が乾かずキズになる
   
太陽に当てたりして透明度を上げたりして樹脂の中の水分を飛ばす    
出来るだけ遅く乾くようにする そうすると万遍無く乾くようになる   くろめる    
拭き漆は拭きとってしまう 塗っては拭きとり塗っては拭きとりを繰り返す  絶対失敗しないことは拭き残しをしないで99.9%拭きとる 0.1%残ったやつを積み重ねて   
光沢を出す 木目が出てくる  漆の部分が黒くなる 欅は際立つ  拭きとりは木綿が多い  紙の場合もある モスリン フクリン 毛織物は漆を吸いこまないので   
ずーっと伸びる ただし条件が良くないとまだらに成る   私は木綿が多い  磨ぐのはサンドペーパー400番ぐらいまでが木の表面の処理と形作りですね   
漆は其の状態まで磨ぎおろしてしまう その後は塗って拭き取って塗って拭きとっての作業となるあんまりやると細かい傷が無くなって漆が塗れなくなる
  
そうすると炭の粉で磨いてキズを付ける また漆が食い込むようにしてやる   手間がかかる作業  ごまかしがきかない   
欅の木目と漆が一体化しやすい  木とも漆とも言えないような木質に成ってくる     
先ずは塗るべき価値の有るものをつくること     
木との出会いがある 無理の木にはめ込めようとすると後で破綻みたいなようなことがあって中途でやめたとか最後までやってもしんどかったという事になる   
それがあると出来上がった品物に見た人が良い気持ちを与えないかもしれない   
木目は変えることはできないので人間の気持ちがそれに織り合って行かなければならない    
イギリス人はどのように思うのか  形態について思うが 木目に対しては気にしていないようだ  イギリス人と日本人は木に対しての姿勢が違うように思う   
お盆はお盆だとの想いがあるのはイギリス人の考えで、日本人はお盆はどのようなお盆だと思う 機能的にいい物と言うよりも情緒的にいい物を考える   
ヨーロッパの場合は金属的な文化 機能的にどうか  日本人の方が木に対して深い意味を持っているように感じる   
見てるだけでも楽しかったらそれでもいいのではないか  使って気持ちよければもっといいと思うが     
今見ていると使っている器物がかわいそうだと思うようにもなった     
触る人の気持ち 丁寧に扱うという基本ができている 
余り出来ていないとしたら置いておいてもいいのではと思う   
今面白いものは飽きが来る  じわーっとした面白さ継続する面白さが必要なのでは   
若い世代への提言  自分で勉強してほしい  
学習はするけれども、答えを求め過ぎてはいけない      作品の正解はない   
昔 黒田辰秋はものを見て「これはあかん」と言ったが 悪いところはどこだろうかと自分で考えたが 今の若い世代の人は直ぐに答えを求めたがる
  
それを考えることがものを作る基本なんですよ      
今の若い人は解を求め過ぎる 先生は早く仕事をさせたいから解を与え過ぎる  
お互いに正解は何かと いうと同じ事になってしまう   
先生も伸びないし、生徒も伸びない  時間を与えてやる事と自分で考えさせる  
先生もしょっちゅう勉強していないといけない   
考え方を変遷して行かないと 表現の仕方を変えて行かないといけないかもしれない   
使った人が長いスパンで持ってもらえるものをより長く持ってもらたい  
  
これが人間の感情とかにいい影響を与えているのかどうか  直ぐに切れるとか 判らんとか 自分の気に入らないことがちょっとでもあると自分で自分を    阻害してしまうようになりつつある時代にある    
工芸自体が人間の気持ちを納める仕事みたいなものを持てれば工芸も生き伸びていけるかも知れないし、工芸の或る意味の岐路に立っていると思います  
面白さばかりを追求すているのではなしに 、人間を癒す 
気持ちを良くさせることができること それぐらいになれたらいいと思う