2012年3月10日土曜日

中川真(大阪市立大学大学院教授)  ・岩手の神楽を守れ

中川真(大阪市立大学大学院教授)     岩手の神楽を守れ  
岩手県普代(ふだい)村に伝わるうのとり神楽は海の安全、豊漁を祈って毎年1月~3月に掛けて100kmの沿岸部を回る巡業する珍しい神楽です
古くから厚い信仰を集めてきました 
しかし東日本大震災の津波により巡業する地域が壊滅的な被害を受けて存続の危機に立たされています
大阪市立大学大学院教授で音楽学者の中川真さんはそのうのとり神楽を関西に招いて上演するなど関西から復興しようとプロジェクトチームの代表を務めています

中川さんはサウンドスケープと東南アジアの伝統音楽を専攻している  
様々な音に包まれていてどういう世界に生活しているのか
ガムラン インドネシアの伝統音楽 鳥の鳴き声、犬の鳴き声を含んだ環境音楽に吃驚した  自ら奏者になってしまった(アンサンブルのリーダーになった)
大きな木琴ようなもの  カナダ、インドネシアに演奏旅行する 
盛岡大学の先生からメールが入り、岩手の神楽の存続が危ぶまれるからなんか再生するか、どうするか お手伝いできることが無いかと思っていた

3/末 約1年間 一緒にお手伝いする事になる 
鵜鳥神楽とは→普代(ふだい)村 うねとり(卯鼠鳥)神社があって、ここに鵜鳥神楽という神楽があって、これを再生するという事です
岩手の沿岸部には様々な神楽があって 山伏神楽と言われる修験道の人達が維持してきた神楽ですね 
沿岸部にはいろいろあるが2つの神楽が特別な意味を持っていて、1つがうのとり神楽 もう1つが黒森(くろもり)神楽と言いまして この二つが回り神楽と言う
別名を持っているのですけれども、沿岸部の集落をずっと回って訪ねて演じて歩くと言う非常に特別な神楽なんです
鵜烏神楽と黒森神楽は交互に北回り(岩手県久慈市まで)と南回り(釜石市まで)を一年交替に市町村を約2か月間かけて巡行しています
世界的にみても非常に珍しい  五穀豊穣  海の安全 豊漁 とかを祈って100kmを巡業する  
神楽をやる人が1名亡くなったが、衣装とか楽器等は無事だった
めぐってゆく地域の 北は久慈から南は釜石にいたるまでの殆どが壊滅状態になってしまった うねとり(卯鼠鳥)神社 には権現様が祭ってあって、権現様は漁業の神様で 権現様が沿岸部の各地域を回ってゆく  
鵜烏(うのとり)神楽が続行不可能との情報が入ってきた 
DVDを送って貰ってみると音楽も神楽も日本の文化に取って無くなってしまうのは非常に残念だと思った
神楽宿 そこに寝泊りして(かつては大きな民家 最近は公民館等)演じてゆく 
1月から3月まで例年は行うが今年は1か所のみが可能だった
全部では20~30か所(年によって違う) が通常行われていた
人が亡くなった所でやっていいのかどうか、
(出来る可能性のある地域ではあるが人が沢山亡くなっている)

気にしていたが、その地域の人が是非やってほしいとの要望があり、実施の運びとなった  
神楽の持っている意味合いを改めて感じました
(神楽を見たり聞いたりするのは昔の普通の日常を取り戻す大きな機会になるのではないか)
昨年7月の釜石の避難所から是非神楽を見たいとの要望があって、行って上演したと聞きました その時に観ていた人達は踊り、音楽は胸に詰まって涙を流した様です  
演目は40から50 ある 一旦始まると6時間ぐらいやる 
ぶっ通しで それで10演目ぐらい  1演目で30~40分ぐらい 
練習はするのかと聞いたら、練習は一切しないとの事 身体の中に入っているらしく 演じる人はばらばらで選別された人達が行う
12月大阪、神戸の方へ呼んで上演する  
こういう神楽が東北に有って それを見る事によって 東北を知って貰うことで理解、震災援助の一助になればとも思う

えびす舞い お客さんとのやり取りがある(アドリブ) 和やかな良い舞いである
山の神  真っ赤な仮面をかぶって40分ぐらい一人で踊る 船が難破した時に光が見える 
うねとり神社の方だった 実は山の神が漁船を助けようと、光をかざしたのではないかと、海も山も一体化した神々がこの神社にはおられるという   
うのとり神楽の特徴  舞いの形 足の裏側まで見せる 独特な動き (芸態)  
色んな地域を巡ってゆく神楽
大阪の御客の反応は→こんな面白いのは観た事が無いとの反応であった
新しいメンバーは各地の神楽を回って行ってスカウトする  
小学生へ教える  現在のメンバーは20代から80歳まで  10人ぐらいで構成している

伝統芸能が衰退傾向に有ったが、芸能が心の立て直しに凄く大きな力を発揮した 
大震災に遭って 一気に燃え上がった
自然災害が大きな所ほど豊かな芸能が残っている 
芸能はそもそも自然に対して祈るという側面がある
何とか災害が来ないで欲しいとか 祈りの気持ちを再確認したのではないか 民族芸能が見直されている
民族芸能は絆をもつ大きな働きを持っている
ジャワ 2006年5月27日  大きな地震(約3500人の死亡が確認) インターネットで知る 
 画像の一つに瓦礫の中にガムランの楽器がぐしゃぐしゃになっているのを観る
自分で出来る事は文化の支援だと思いすぐに動いた
 
何で音楽かと言われたが これは心の薬ですと言って 人道支援だと言って、現地の人達と一緒になって復興を手助けした  
インドネシアに行って驚いたのは すぐに現地の音楽家たち或は舞踊家たちが動いて 色んな村をめぐって ワークショップをしたりとか演奏したり慰めたりしていた
特に驚いたのは演奏家の家が全部つぶれて、楽器も無くなってしまっていたのに、テントを張ってそこで子供達を集めて、ペットボトルだとか空き缶で一緒に合唱だとかをしている  
音楽とか芸術の力は凄いものだあると思った
うのとり神楽にはこれからも大阪に来ていただいて演奏してもらいたいし 元の巡業出来るようになるまで支援したい 10年は付き合いたいと思う

2012年3月9日金曜日

生島淳(ジャーナリスト)        ・故郷、気仙沼再訪

 生島淳(ジャーナリスト)             故郷、気仙沼再訪  
(1967年 - )は宮城県気仙沼市出身のスポーツライター、スポーツジャーナリスト   
実兄は元TBSアナウンサーの生島ヒロシ
昭和42年生まれ 早稲田大学卒業後は大手広告会社に就職 故郷、気仙沼には帰らなかった 東日本大震災の時には、姉が津波の犠牲者になりました 
離れていた故郷と再び向かい合う事になる  
コメンテーターとしてスポーツを担当 5年になる
「気仙沼に姉を追って」と言う本を出版する  5月に初めて訪ねる 
その時に変わり果てた気仙沼を見る 
見晴らしががいい こんなに海が近いのか、こんなに山が近いのかと思った 
19歳で東京に出てくる  正月も嫁の実家に行っていた(九州)  
去年の2月3日に母が亡くなり、49日を東京でやる事になっていた
震災以降は気仙沼を取材する様になった  豊かだったときの気仙沼を書きたかった 
戦後の政治と係わるようなところまで書きすすめた

漁業が栄えていたことに気付いていなかった 
出船送りで今日は○○君は休みです と言うようなことがあった 
気仙沼の追体験をするような感じで書いた 
3/18ぐらいに全ての会社の形態が繋がる様になってこの時点で姉に連絡が付かないようであれば、姉は亡くなったのだろうと区切りをつけたかった
生きてはいないだろうと思うけど、遺体が上がらない、と言うような中途半端な状況がずっと続いていて、おそらく見つからないんじゃないかと思うようになる
9月に葬式をやることに決めた 
9月の上旬 ソウルに行っていた時に姉らしき遺体が見つかったと言う連絡が入る 
姪とはDNAが一致しているがそれだと確定はできないので、私と兄のDNAを採取するとの連絡が有って 葬儀を出して DNAを採取して2週間後に姉だと確認できて 連絡が来て姉であると確認できて嬉しかった
 
ようやく自分の手元に戻ってきたように感じでいまだに義理の兄は見つかっていないが、気仙沼出身の人に取って何とか電話でも繋がっていれば、何とかできたのではないかと思う  
これは罪の意識と言っていいかも知れないが、自宅にいて姉からの電話があれば公民館に逃げなさいとか指示ができたのではないかとか
自分にとっての治療が古里を歩き、知り、それを一冊にまとめる事によって贖罪を果たそうとしたんじゃないのかなあと思う
姉の死を受け入れるようになるまで髭を剃らなかった記憶がある  
気仙沼の男性も髭を剃らなかったようです 
そんな暇がなかったと言うことかもしれないが、私の場合は身だしなみとかに気を使う気持ちが無くなっていて、区切りをつけたものの前向きには成れなかった  
一つ前向きになったのは プロ野球が前向きになる二次的な要素みたいなものを描いてほしいと言われ、5,6ページの記事を書いて気持ちが楽になった

仕事をすることでしか前向きには成れなのだと解って、それから書きあげるまで突っ走ったような状況だった
本を出した後の読者とのやり取り 物凄く真摯に向き合って読んでくれていると言うのが、判って中には読み進められませんという気仙沼の人がいたりしてます 
連帯感 残された人は共有してゆくのが非常に重要で 自分だけじゃないと言う風に思える事が凄く有り難いと言うか、或る意味自己憐憫しなくてもいい方法でもある
気仙沼の歴史と並行して我が家がどのようにして食堂を営むようになったか、祖母の時代から書き始めている
読んでくれた人(84歳、62歳)がまるで私の事を書いてくれているようだと言ってくれた 
三陸海岸の街は共通しているように思う
本を読んで自分の歴史として読んでくれる人が多い 著者としては嬉しい

気仙沼の人口は減り続けている 雇用が無くなっている 
現状ではあの土地には住めないという状況 インフラは整備されつつあるが数年単位で復興される
これでは住むことに対しては対応できない 
やむなく気仙沼を退去するのはやむを得ないよねと言っている
同級生と話した時には自分達の世代では無理だろうと言っていた 
あと20年 いまの10代、小学校の子供が残ってくれるようにしないといけないなと言うのが
我々父親世代の感想です  気仙沼まで失いたくないと思った
本を出したことで改めて繋がりができた   早く瓦礫のない風景にしてもらいたい 
愛郷心をもってもらいたい

2012年3月8日木曜日

笹原政美(医師64歳)       ・震災地での医療活動



笹原政美(医師64歳)    震災地での医療活動
東日本大震災2日後の3月13日から、南三陸町の志津川小体育館で診察を始めた
仮設住宅に住む人たちに取って一番心配なのは、具合が悪くなったときに駆けつける医療機関です
慣れない土地での不安な生活 馴染みの人が一緒に移り住むことで患者さんたちに、少しでも安心感を与えられたらと、被災者への寄り添い医療を決意、昨年12月に南三陸町を離れて、とめ市に新たな診療所を開設しました。  
やっぱり掛り付けの医者が一番 、顔を見るだけでもほっとすると云っています。
信頼と言う絆で結ばれた医師と患者 東日本大震災ではからずもその原点に立ち戻ることができたと 語っています

診療所から仮設住宅までは歩いてゆける 位置にある
被災者の人は高年齢の人が多い 60名ぐらいを診療している 2/3が南三陸町の人達
2005年に南三陸町で開院した  津浪警報6mとの情報があり 以前チリ地震があったので その時の高さに合わせて堤防は作っていたんですね
6mであると堤防で防げると思ってた  市の7割が瓦礫となってしまった
妻は仙台に用事があって行っていた 連絡が3日間取れなかった 
高台のところまで波が来ておりここも危ないと言う事で志津川小体育館(小学校)に避難した
体育館は最終的には1000人になった 
重傷患者を見て自衛隊のヘリコプターで石巻等に送って貰ったりした
高齢者を家族の人が送って又車で家に行くと言う人達が結局犠牲者になってしまった
高齢者の人達が残されて横になっているという状態でした  
有る一角を寝たきりの人達とかをそこに設けて寝る場所にしました
薬もなにも無いのでこちらで話を聞いて判断すると 緊急性があるかどうかとの判断をする程度しかできなかったですけれども
医師としては私一人でした 当日は忙しくて眠ることはできませんでした

寒いですから 1週間後に卒業式があり その幕を取り外して寒さ対策にしました
避難所のかなりの人は顔なじみであって患者もほっとしているようであった
1か月ちょっと 薬の無い中 医の原点はなにかを考えさせられた 
医療と言うと専門的になりますね それから時代の医療に遅れないように 新しい事を次々にやってゆく それが患者さんに取っていいことだと治してあげることだと 云う具合に思ってますね     
今回の震災を経験してちょっと見方を変えようかと 実際あの場に居たら、具体的なことはできないので 医者としての存在は課せられたものとして有るわけですから
原点は人対人の関係なんですね 
ですから被災者の立場だとか心理的なもの、置かれている状況 そういうものを考えて行って はたして自分はどのようにして    あげられるか 
個々によって  違いますから その人その人にあったことを考えてゆく  
被災した状況等を聞きながら或る程度時間を掛けて診療した 
心が打ち解けて表情を見ると安心したように見えた

夜、頭が痛くて眠れないと言う患者 家が流されたのではと聞くと ちょっと話始める 
自分の息子も嫁さんも孫も亡くなってしまったと
3日後に嫁さんの遺体が見つかり確認に行ったところ、3歳の子がいるのだが その3歳の子をぐっと抱えるような格好で歯をぐっと噛みしめている顔であるが腕の中にはその子はいない 
息子さんは役場の職員で有ったのですが、息子さんも亡くなっている   
たまたま外出していたので私は津浪から逃れる事ができたが、家にいれば嫁さんも孫も無くすことはなかったのではないかと言う思いがある  
そういう悔恨の念があるので頭痛がする、眠れないとの事  その話を聞くと看護師も私も診察ができない 言葉が出て来なくて涙が出てくる

そういう例が何例か有りますね 生々しい状況ですね 
自分でこらえていたことがちょっと先生に話せたと言う事ですね
次に来る時には症状がちょっと良くなる その次に来た時にはもっと柔らかくなっている 
4回目に来た時には一般のはなしもできるような状況になってきている
話しも聞くと言うことは重要ですが、こちらから如何に聞きだしてやるような配慮をしなくてはいけないと言う事が判りますね
或る面で顔見知りであると この人にはこの様なことを話しても大丈夫かなと言う自己判断をしながら話を出してくるんじゃないかと思うんですね

こちらも納得しながら聞いてあげるとどんどん話が発展していって自分で抱えていたものが一気に出て それも越してしまうと あっ聞いてもらえる人がいるんだなと思う
これは決して自分の身近な人には言えないんですね どうしてかと言うと 何でお前だけ助かったのかと言われるかも判らないと思う
矢張り顔が判らないと駄目ですよね  避難所の医療チームを解散するときに ほかの地域に移転する移転先に紹介状を書きますね
渡す時に患者さんは判るわけですよね もしかして先生ともこれが最後かと 私ももしかしてこの患者さんとはこれで最後かなと 言葉に成らなくてもそれは判りますから 

そこには患者さんと医者と言うルールは在りますけど人間対人間ですよね 
これが私の望んでいた診療なんだと思いますね
南三陸町に居たときには忙しいですから、機械的に診ていたが こちらに来たら多少時間にゆとりがありますから 一人の患者さんとはある程度話をしながら診療できる 私自身も疲れない 
患者さんも喜んで帰って貰えるのかなあと思います  
医者として初めて活動した時期は一歩でも前へ前へ色んな情報、経験をと思っていたが いつの間にかどっか違った方向に行ってしまった

今回の震災で 原点に戻る 医の原点 医者として志した自分自身の原点だけではなく 
人間としての原点 ですよね
同期の人に話すとあっと気付かされたと言ってくれた
医療の原点と言うものは臓器を直すだけではなくて人間全体としてどういう風に診てあげられる医者になっているかどうかという事
生きていると言うそこを如何にサポートをするかに気付かされたと言う事ですね  
医療と言うものに対する考え方が変わりましたね

どうしても世間からは命と医療 は医者だと思うんですね 
避難先で医療活動をやっている時に医療と言うのは命に取って絶対的なものではない
私達医療関係者が過大評価していたのではないかと思った 
医療と言うのは命を守るために有ると思うのですが 人間が生きてゆく中でサポートしているのは医療はごく一部なのですね 
医療よりももっと大事なことがあることに気付かされる 
訴えられた時にもっと医者の立場から行政に働きかけるべきではないかと気付かされた
生活の安定があれば鬱的にも成らないし まわりとけんかなどもしないし 夜も眠れないと言う事も無くなりますし 血圧も上がりっぱなしと言うような無くなるのでは
血圧が200以上はざらだった  そんな状況で避難生活を送らなくては成らなかった

一つは町の復興がどうなるかが心配ですね  
もう一つは避難してきている人達が今日これからどうなってゆくのかと言う事
治療をして治すと言う事に加えて 癒すと言う事を如何に我々が提供して上げられるか 
言葉だけでは駄目 
癒すことをどうしたらいいかを考えているのですが ローテラピーと言う言葉があって 意味をも費やし? そういう医学の道があって専門的な話をちらっと聞いてその人の書いた本を読んだりしながら 如何に言葉だけじゃなくて 本当に心の中に入って行って癒すことができるかどうか 
私自身が努力してどういう事を患者さんに提供したらいいか と言う事を永遠のテーマとして与えられていると感じますので一生懸命勉強していこうと思っています
 
例えばストレスは患者さんは判っていて取り除く方法が判らないで医者に診てもらいに来ているのであるが、医者は精神安定剤を与えたのみで終わっていたのかも
やっぱり心対心で患者さんの心の中に入って行って初めて判ることであって、もしかすると薬って要らないのかも知れないと思っている

2012年3月7日水曜日

玄侑宗久(作家)         ・福島と私のこの一年2

玄侑宗久(作家)   福島と私のこの一年 2
大震災後 落ちついて本が読めなくなった 「三陸大津波」を4月頃に読めるようになる
方丈記 を薦められて読む  20代に一回読んだことがあるが、余り感じなかったが、今回読んで
周りの状況が違う事もあるのか 心に浸み込んだ 
あらゆる災害が鴨長明がその時代に体験している事と、その時代の政治の混乱が非常に現代と
似ていると言うか そこで鴨長明が思ったことがしっくりきた 
鴨神社の神官の系列なので家柄も良く 当時の教養人の遊びにも熱心で神様への
仕えがおろそかではないかという、
身内の人がいて、思うような仕事に付けなかった  後に出家するわけですね 
蓮胤(れんいん)を名乗った(平安末期)
天災、人災が多くあった 火事が多かった 地震も有った  飢饉が連続して起きている 
そう言ったことに対して天罰の意識が有った

最初の庵が最初に住んでいた屋敷の/10と言われ 晩年の二回目の庵がその1/100と言われている  
最後の庵が5畳なので 最初は5000畳の屋敷であった
天災、人災に見舞われ 落ち込んでゆくうちに見出したのが無常という境地 
「無常」とは→ゆく川の水は絶えずしてなお、元の水に有らず  
見た目は変わらないがそれぞれ構成しているものは変わってゆき、常に入れ替わっている
変化し続けているということなんですが どうしてそういう建物にエネルギーを注ぐのだろうか 
と言う事を長明は書いていますね
どうせ壊れるかも知れない住み家に そういうスタンスでやった方が良いだろうと 
彼はどんどん住み家を狭くしてゆき家財道具も少なくしてゆく 
最後の住み家は組み立て式で可動式だったそうですよ(やどかりみたいなもの)
この様なやり方に自信を持っていたが、待てよと 仏教では執着するなとの教えがあると 
こういう体験を経て絶対こうだと、思い描いている自分の姿と言うものは
やっぱり執着している姿ではないかと非常に深い反省がふっと出てくるんです

そこから彼は世が無常であるだけでなく 自らも無常でなければいけないと つまりこんなに自信を
持っちゃいけないんだと悟るわけです
今回東日本大震災が起こって、盛んに防災マニュアルなんか作っていますが、ちょっと違うわけなんですね
今回と違って今回より大きかったり、違っていると全く通用しないわけじゃないですか 
そういうものをマニュアル化したり マニュフェストに掲げたりするのは
揺らがない信念で提示するやり方そのものは執着だろうと 言う風に思ってしまったわけですよね
揺らいでいいんだと 新たな重心を求めて繰り返していいんだと思うようになった 
「方丈 」と言う言葉は 唯摩教 から来ていて ゆいま という在家信者がいた 
そこが無限の広がりがある 狭いはずなのに 執着が無くなれば無限の広さを持つ  
当初から方丈記を書き始めた時から執着をなくすことを掲げているわけです

無常  仏教ならではの考え方で 所業無常 処方無我 涅槃寂静 あらゆるものは移り変わり
変化している(所業無常) 
そこに他者が係わっているので単独でどうだと言う事はあり得ない(処方無我) 
その事によく気付いて 縁によって起こって来るものに対して いたずらな心の動きを無くしてゆくと涅槃寂静という安らかな境地がえられますよとの教え
インドから中国を渡って日本に来たがこの「無常」という考え方を日本ほど発展させた国は無いですね
「もののあわれ」「なつかしむ」 夏樫   
長明は琵琶の名手 琴も弾く  詩歌を作ったりした  出世を完全に諦めていたが世間のことは
良く知っていた
「ゆく川の水は絶えずして・・・」とは→福岡伸一先生(分子生物学者) [動的平衡]と言う言葉を
おっしゃってますがそれに近い 所謂自転車操業
変わらずに見えていると言う事は常に変わり続けている事  それこそが生きる営み

「知足」  老子からの出典   宗教、特に禅宗では、人間の欲を戒めるために、よくこの言葉を引用
人間は、満足するということを知らず、充分な金や物を得ても、さらに欲張って、『より多く、もっと
欲しい』と
自分に快楽をもたらすものを際限なく追い求めるようです
なぜ人間は満足することができないのでしょうか。
それは、人間が生の本質を理解していないからです
生を維持するのに必要なものだけで満足して 自分の中には全て備わっていると言う事を信じる事
 現代では暮らしそのものにつながってくる
衣類でも安いからと言ってどんどん外国に行ってしまって日本で作る人がいなくなってしまう  
元々経済環境違う中、値段と言うものは戦い様がない訳ですから 
どこまでも開いていってしまい戦うと言う事は無益な気がするんですね
有る程度閉じて守らないと守れないですよね   或る意味グローバリズムの対極と言える

「無事」 外に求めないと言う意味では知足と重なってくる あれこれ探さない 自足してゆく   
青い鳥は自分の家に有る
「ものうしとても心動かすことなし」 →「ものうし」やる気にならない そんな時もあるさ    
人は苦しみをどんどん増殖してしまう存在ですから(頭が)  
色んな自然現象があるわけですけれども、そういう状況なんだなと受け止める 
しばらくしていると状況が変わってくる 
そこで深刻に思いつめない事を進めている(まさに今の東北地方の状況)   
心の持ち方で状況は変わる
「三界(さんがい)はただ心一つなり」  どういう思いこみをしておくのか いずれにせよ思いこむ
存在ですから思いこみなしにすると云うのは難しい訳ですけれども 
ならばどういう風に思いこんでおくかと言うのが非常に大きな問題ですよね
心一つで三界(さんがい)の住み心地は変わるわけですよね

「揺らぐ」 首都圏大地震が起きるかもしれない 色んな想定外の事を考えないといけない   
捉われないで自然体でいるほうがいい
下手な準備をしない方が良い 過信してしまう恐れがある  自然には絶対勝てない
小さな自治  色んな人の関係が判る   
復興構想会議 一回しかやってない 省庁が複数にまたがり 縦割りのかべを中々破れないし 
動きが鈍い
平時のやり方は或る程度しっかりしたマニュアルがあってしっかりした対応をしてくれるが、
有事の際は違う 別の指揮系統が平安時代でも有った
有事なのに平時のシステムが邪魔になっていると言うんですかね 
復興庁も他の省庁と横並びでしょ  横並びでは指揮出来ないですよ
見ていて速やかであるとは言えない

2012年3月6日火曜日

玄侑宗久(作家)         ・福島と私のこの一年

玄侑宗久(作家)  福島と私のこの一年
(1956年4月28日 - )は日本の小説家、臨済宗の僧侶。東日本大震災復興構想会議委員
小学校3年の頃、いずれ来たるべき「死」を想って毎晩のように泣いた    
中学3年で罹った日本脳炎のため、3日間の昏睡状態を経験
意識不明中の妄想の記憶と、あとで聞かされた行動などから、あらためて「死」について考えた   
高三のとき出逢った哲学者星清から後の出家への動機付けを得た
2001年「中陰の花」で第125回芥川賞  「般若心経 いのちの対話」で文藝春秋読者賞
「福島に生きる」 「無常という力」をここで立て続け出版
震災当日 町内に居た 2分50秒と長く非常に大きな揺れが来た  また合計で6分揺れた    
地蔵さんが倒れお墓が何十か所倒れたが本堂は無事だった
 
みはる町 TVで津波の被害を見る事ができた 
映像で見たのは初めて どう感じていいのか判らないような状況だった
4月末までの法事は止めた   当初役場に受け入れる人の要望が有った 
800名程度だとおもっていたら3000人の要望があった
2000人を引き受ける  1500人 1200人と落ち着いてくる 
避難所の様子は→ 体育館と言うようなので仕切り無 寒さありいつまでこのような状態が続くのか
心配だった
不安を語り合える仲間がいるということで、皆が一緒に居るから耐えられると言うようなこと
も言っていましたね

まったく想像を超えていた事態だった  生きていれば想定外の連続 
原発  どうしたらいいのか解らない感じで 父が入院していたり 又住職なので そういう事情が
あって動くわけにはいかない
町がコンパクトで基礎自治体に関する信頼と言うのが有ったですね 
被災者の自殺が何件か続いた→情報が入れば入るほど混乱が増すと言う 
特殊な事態が進んだと言う気がしますね
ただちに影響が無いといいながらホウレンソウ出荷停止と言う事になったでしょ 大丈夫だ、大丈夫だと
言いながら全面的に駄目だと言う状況になってしまった
他の物も何時 駄目になるか判らない  畜産農家の方にとって大事な家畜を捨てなくてはいけない 
でもその人達の中に同意できないと言う人達がいた
国の方に問い詰めたが、なんとも動かなくなってしまった  
安楽死に同意しないまま 放置されて餌をやりに通っている人がいる

不思議な状況になっている 米も安全だと思っているのに売れない   
報道してほしいと思っていて報道してくれなかったんですが、9/6原子力委員会で発表された
石井慶造先生(東北大学)の論文があるんですが
粘土粒子が宮城、福島を救ったという 要するに放射性セシウムが 水に解けると陽イオンになる
んですね 
陽イオンと粘土粒子の陰イオンが合体するんですね  
粘土粒子と言うのは顕微鏡で見ると空間がある平べったいものでして、そこにパカッとはまった様に
なりますとそれが水にはとけない 
酸 アルカリにも溶けない 何より植物に吸い上げられない形になるんです
農林水産省が当初予定していた 土壌のセシウム量から移行量が 1割ぐらい有るのではないかと
予想していたのですが

日本の田んぼほど粘土粒子が多いところは無いんですね (チェルノブイリもスマイリーも田んぼはない)
結局0.3%ぐらいしか入らなかったのです  吸い上げる危険は心配していない 
キノコは菌糸なので非常にめが荒くて、360度広がっていてキノコを取ってしまうと
その菌糸は見えないんで、あれは別ですけれども どうやってセシウムが付着しているのかと
言うメカニズムを理解すると
柿、栗にもあったが 花が咲いている時にまだ空から降っていたと言う事なんですね
吉田所長が会見したがようやく安定したのは7月、8月ごろだと 6月までは明らかに降っていた  
明らかに6月に柿、栗の花が咲いてそこに付着したと思われる
今年の場合明らかに違うはず そこのところを県外の人にも理解してほしい 
上から降ってこない限り余り吸収しない
如何して粘土粒子が多いのかと言うと日本が火山列島だからですよ

県知事が住民の気持ちを代表しているかと言えばそうでもないだろうと思うので、市民の気分を
代弁する事が出来ればと参加しました(復興構想会議)
構想と言う事で ビジョンを作るものと思っていた  
しかしつい牛の事、放射能についての現在の不備についても言ってしまう 
喫緊の問題と長いスパンで考えなくてはいけない事がある 
放射線物質が降ってしまった 世界でも調べられない事もあるので、医療施設を作り、研究機関を
充実させ、放射性物質の事は福島に
行かなければ世界最先端の事は判らないと言うような状態に持って行きたいと思っています
温泉施設は4割が来なくなってしまっている  
滞在型の医療施設、研究施設を作ったらいいのではないかと思い 特区にしてほしい
必要がないと研究もしない 一番知りたいと思ったのは一体3/11以前に日本人は日常生活の中で
どの程度被爆しているのか

ベクレルからシーベルトに換算するりくつを知っていた方が良いのではないかと思う 
カリウム摂取している 多くても害になり欠乏してもいけない 微妙な量を必要としている  
自然界から摂取するカリウムの0.117%は放射性カリウム40  
食べ物から年間摂取しているのが0.2mシーベルト 今回福島で56軒調べたが一番多く摂取した
家で0.1mシーベルト弱/年間にすると 
予防と差別→有る方に取っては用心に越したことは無いという考え方がある 
例え0%だとしても食べない これは風評被害だと思うんですね
差別の土壌を予防科学的な見方が作っていると言う事にどうも予防医学的な考えを持っている
人達が自覚が無いんですね

福島どころか東北の野菜は食べるなと言う人までいるわけですよね 
あと半歩で恐ろしい発言になるんですよ
避難から疎開、移住となる その土地の人になりつつあると言う事もある  
住民票を移した人だけで4万何千人いますけど 住民票を移さないで県外にいている人は6万人を
超えている
福島では203万人いたが200万人切っている (住民票移した人だけで)
瓦礫の中間施設  →沖縄の基地の問題と一緒  均等に負担すると言うのが一般論ではある
と納得しますが じゃあお宅の県にお願いしますと言われれば
どこも嫌なわけですね 

仮置き場 中間貯蔵施設を作らなければならないと言う時に起こってきてますね
成田空港を思いだすと良いと思うんですが 成田空港もあれだけの反対運動がありながらも
やっぱり大多数の利便とか幸いの為に一部の人権を
踏みにじると言うような国家権力が働くわけですね
国家権力と言うのはそういう無謀なものを持っているわけですよ  
 時にはそういう事をしなくてはいけない
いまはそこの部分を放棄して各町村でお願いしたいと 話あって決まるはずがない
どこかで人権が損なわれる事は確かで そう見えないような工夫をしながら、国が粘り強く説得
しない限り 決まらないと思いますね
原発については廃棄物の最終処分場が決まらない限り 稼働のしようがない
今回の様に生活が危機に陥ってみると  色んなシステムが集約的になり過ぎている

 集約的なシステムを稼働させるために原子力がどうしても必要だった
訳ですけれども システムをもっと小分けにするべきだと思います 
県内もいくつかに別れていてそこだけで色んな事が叶うと言う 江戸の藩みたいなような 300以上有った  
そういう自治の在り方を考えなくてはいけないのでは
電気にむやみに依存していた部分があって 電力総量さえ上げて行けばGDPが上がると言う
ような信仰めいた考えがあって あげて来たのが実情だと思うんです
実際余っていたので 節電してみて何とかなる 一人あたりのエネルギーの使い過ぎ 
生物学者 達川先生?の試算 人間が自分で作れるエネルギーの40倍を使っているのが日本の現状  
ちょっと前の生活は覚えている 一歩戻れば全然違ったものになるのではないでしょうか  
戻る勇気も要るのではないでしょうか

2012年3月5日月曜日

澤田晋 (ヘリテージマネージャー)      ・震災地神戸に学ぶ街作り

澤田晋 (ヘリテージマネージャー)             震災地神戸に学ぶ街作り  
復興事業が進む中 忘れてはならないのが、かつてはその街に有った歴史や文化財の扱いだと兵庫ヘリテージマネージャの澤田さんは言います
阪神淡路大震災の時に生活第一に復興を進めた神戸では場所によっては古里の場所の姿が消えて、どこか見知らぬ街になってしまい戸惑いを感じた人達がいました  
その経験から自分達の歴史や文化遺産を引き継いでゆくヘリテージマネージャー制度を作ったのです
阪神大震災の1年後の状況は今ではあまり記憶がない    
東日本大震災の状況とでは感覚が違うような気がする
神戸は少しずつ景色が変わってきていたが東北は殆ど変わっていないので精神的に大変だと思う
人とのつながりを含めて復興していってほしい 
元の処に街を復興していいのかどうかを含めて検討しなくてはいけないので神戸復興とは全然違う
神戸において文化財の復旧に技術者が圧倒的に足りなかった
大学で建築を学んできた人達は伝統的な工法などは学んでいないんで、古い建物を修復する人達が非常に少なかった
震災後登録文化財制度が出来た (所有者が残したい意志があれば文化財になる制度 )

登録文化財を修復する人、維持する人も少ないと いずれにしろ人の少なさを感じた
震災から4年目にヘリテージマネージャーを作りたいとの申請があった 
(ヘリテージ=歴史文化遺産 祭り等のソフト的なものをも含めて)
古い建物をなくしてしまって、街の状況が一変したと言う事を見てきた建築士が一杯いた
古いものを如何して残してゆくか それが本当の意味での社会の在り方ではないかと思う 
震災を経験した人達が一杯いた
特に芦屋(高級住宅街)がそうだった  軒並みやられたが復興が早く 
だけどハウジングメーカーの住宅がぱっぱと建ってしまい、芦屋らしさをなくしてしまった
それに対して異議申し立てする様な状況ではなかった (2~3年後は) 
4年経ってくるとこのままでいいのかなという思いが出てくる

東北大震災の場合はそこまでの思いはとても無いような感じだが、一旦落ちつくような状況を作って それからもう一遍街作りを考える
ハードで取っ掛かりが無ければソフトで対応する方法もある  
伝統的なものが何故魅力的なのかと言えば、ハンドメードという大量生産とは違った味わいのあるものがあるのですけれども、味わいのある物の背後に有る人の心に触れる事ができる 
物を介してその奥に有る人の心に触れる事ができる  
物とその背後に有る世界みたいなものを気付かしてくれたのが、ヘリテージマネージャーのような気がするんです
陸前高田市の残った松 人々の心に残ってる 記憶が繋がればいいのではないか

福島の会津若松に行ったことが有るが、そこでは津波も無いし、建物も壊れていないので、私達が進めてきたようなヘリテージマネージャーの動きができており、津波で被災された地域にはまだこの様な動きはとてもできないが、こちらに対しては我々も一緒に援助してゆきたいと思う  
静岡では2006年ぐらいから始まっており、15県ぐらいが検討し始めている  
地域ごとのネットワーク作り  
祭り は広場さえあればできる 準備期間があるので 求心力をもったもの
現時点ではまだ東日本大震災の地域にいって対応する事はまだできない 
ヘリテージマネージャーを希望している人が後を絶たない毎年3倍の応募がる
(ここ10年 段々少なくはなってきているが)
失ってしまってから初めて人間大事なことに気付く事が往々にしてある
地域の事は地域でやると云うスタンスを取っている   
地域の人が一番良く知っているので地域のヘリテージマネージャーが地域の人と一緒になって自分達の解決策を見出してゆくと言う そういう仕組みをつくってゆく事が大事だと思う

2012年3月4日日曜日

渡辺憲司 (中学校高等学校長)   ・今君にできる事

渡辺憲司 (新座中学校高等学校長)     今君にできる事
日本の近世文学研究者で、立教大学名誉教授、立教新座中学校・高等学校校長  
江戸時代小説・大名文芸圏・遊里史等を専門とする 『時に海を見よ』
埼玉県立教新座中学校高等学校の校長渡辺先生は 大震災の影響で高校の卒業式を
中止しました
その代わりに学校のホームページに「新座高校の3年生の諸君へ」と題する渡辺校長の思いを
載せた処、その文章を眼にした人たちから賞賛の声が上がりました
一晩に30万アクセスが有った 一昨年立教大学の教授を定年で辞めて 校長にならないかとの
話があった 近いし学生の可愛いのが好きで引きうけた
昨年の3/11に卒業式が流れ ホームページに「新座高校の3年生の諸君へ」を載せ、評判になり
本も出てしまった

一部を義援金にと思っていたら妻から何てけちな事を云うの「全額でしょう」と言われる 
全額にしました
本は「時に海を見よ」というタイトル  一番大事なことは 一人の時間を大事にしてほしいと言う事
 究極的には人間自分達は一人で生きてゆくんだと気う事を
どっかで確認してその中から発想しろと言う事なんですが、大学と言うのは何だ 
大学に行くと言う事は何なんだ 勉強か? 勉強なんて大学にいかなくてもできるじゃないか
友達 友達だって大学に行かなくても作れるじゃないか 
大学は非常に自由な時間があるぞ、と言っているんですね
大学に行こうかと思っている時にふと 俺って何だろうな 海でも見に行こうかなと思った時に
大学でしかできないぞ 大学でしか時間を作れないぞと
つまり会社へ行ってるときに海に行ってきたよ何てできない 高校生でもできない  
時間の豊かさは大学生にしかないぞ

自分を見つめる時間が大学には有る事が人生にとって非常に大事なんだ と言う事です
なぜかと言うと 人間はやっぱり一人一人なんだ  
その一人一人と言う事を自覚してお互いが結びつくんだ と言う事を卒業式に言いたかったんですね
本を出してから、年を取って来てから新しい出会いができた事は有りがたいことだと思っています
「これからの日本を生きる君に送る」という副題が出ている  3/11の後にこの気持ちを伝えたい  
一言で言うと貧しさだとか ひたむきさとか 貧しさを恐れないでやれ ひたむきで一筋でやれ 
幸せを追う時にもあれもこれもじゃない
一番大事な一筋に繋がるもの 芭蕉はなにをやっても駄目だったけど俳句に繋げる 
西行は歌に繋がって行った
歌や俳諧だけじゃなくて 人間これだと一筋に これはゆるがせにできない と言うものをひたむき
に持って行ってほしいと思うんですよ

それは何でもいい 俺はこれに繋がってゆくんだと言うものを人生で持って欲しい 
大震災で色んなものを失われた訳ですけれども、失われた状況の中でも一筋を探せと思いましたね
卒業する子供達に 大学と言う自由な場があって 海を見ながら自分の生きざまを考えてほしいと 
そして考えた中 生きざまの中でどうしても譲れない一つだと
いうものをやっぱり持ってほしいと思いますた (今回の本のメッセージ)
団塊の世代から上の人にはどういうことが言えますかね?→伊能忠敬がいますね 
50歳を過ぎてから日本中を歩いた人 そして地図を作って行った
一番凄いのは歳を取ってから 自分はなにをしたいのかと言う事を 理想を持ったと言う事だと思います
理想の夢とはなんなのか 我々に取って 我々は若者より先が短い 
短いだけに どういう国を目指したいのか どういう自分の人生を残したいのか
という理想をしっかり持つべきだと思います

江戸時代は隠居という制度があったせいかも有るかもしれないけれども、年を取って自由になる
んですよ  今までのしがらみから解放されてゆくわけです
昔の子育て論の中に 「親は子を抱かず 爺さんは孫を抱き締めよ 」と有る その後に 
子供を育てるときに一番大事なことは抱きしめる事だと言っている
これから未来に生きる子供達にどういうものを残したいかという理想を年寄は持つべきだと思う 
今まで反対できなかった事ができるわけですよ 撹乱しないと出てこない 
もっと新しい知識を持って 新しい教養を持って(教養は過去のものではない)
そういうものを持つ事によって 我々の理想 国の理想 個人の理想 そういうものを描く事が
年寄はそれができると思います

もっと学んで未来を見据えて (過去がある 良い事、悪い事 それを踏まえたうえでではなく→
これはむしろ一旦本当に新しくなるんだという気持ちを持つべきだと思う)  
歳を取る事によってできる新しさ 若いものは新しくなろうとして現実がある 
歳を取ると本当に一人になってゆく場合もあるし 新しい人生は開けてきているわけですから
過去を踏まえるよりも未来を見ないといけないんじゃないかと思う
日本は節目節目で理想を持っていた 結果論は別ですが   理想論を掲げながら当時の支配者、
老人たちがやってきた
この大震災の時に現在の支配者、年寄は理想を掲げていない 
 
歳を取って勇気が無くなるの駄目ですよ 発言するのでもなんでも  
そしていままでの知識を固定してはいけない  もう一回辞書を引く 海だったら海を辞書で引く 
見るとはどういう事か ・・・姿勢を年寄は求められている
こういう方向に纏めるのが大変  「でも・・」と年寄が言ってはいけない
広野に行く 私と高校生で  なにも言わない 見る 肌で感じる  一人で行って一人で見る
芭蕉は深川の芭蕉庵を水没させられて居場所が無くなり 1684年(40歳)、野ざらし紀行に出掛ける 
「野ざらしを心に風の沁む身かな」
「旅に病んで 夢は枯野を駆け巡る」 芭蕉の辞世の句  彼は長崎まで行きたかったけれども、
大阪の御堂筋で亡くなる 

俺は旅で病気になって死ぬけれど 俺の夢はこの枯野を駆け巡って次の処に行っている 
と言っている   最後まで夢を見ている
人生はいつも中途半端  どこで死んでも中途半端 想いを持っていないと駄目  
老い先が短いほど今日 本を買っておかなきゃいけないんじゃないですか
現実は違うけれども 理想に近づかなくてはいけない 
大学では江戸文学を教えていた  当時の理想として地方史の古文書をじっくりやりたかった
「今お前なにしてる」と言うような教師であってほしくない

歳を取れば年を取るほどしなやかになる・・・ローマの哲学者が言った言葉  キケロ  
歳を取ったら柔軟になる 頭は混乱している
多くの人が被災しており年寄は今なにをすればいいのか→自分の身を削る事 
自分の身を削らないで優しさは生まれない  
「優しい」は「痩せる」こと 「やせし」から「優し」なんです  
歳を取ったと言う事は削るものが有る  歳を取ったと言う事は色んなものを蓄えてきたという事
知識もあるでしょうし、お金 物質的な物もあるでしょう 心も削らなきゃあ 今の年寄に有るでしょうか?  
若いものがいろいろ悲しみを分ちあうのが難しい時に俺は分け合うぞと年寄が率先的にでないと 
身を削る年寄の義務じゃないでしょうかね