2011年10月8日土曜日

北村武資(織物師、人間国宝)    ・織りの美を目指す


北村武資(織物師、人間国宝76歳)  織りの美を目指す
父は昭和17年に亡くなる  表具師だった 祖父が昭和18年、兄が昭和19年に亡くなる  
母子家庭になってしまう
1935年京都に生れ  昭和26年に中学校を卒業 西陣の旗屋さんで習い工として働き始める
技術を身につければ生活の基盤になる 一生懸命仕事をしていれば必ず誰かがみている
30代40代の人を見ていてこの仕事をずっとやっていていいのだろうかと思うようになる 
少しでも自分の生活を改善しなければいけないし、より多くの収入を得ることでもある
もっと質の高い仕事をする 地理、歴史は好きだった どこどこでどんな催しがあるか、
染色関係とかの 視野を広めて行った

1959年大阪髙島屋で開催された初代龍村氏の展覧会に出会う 
紫綬褒章記念展 大阪まで見に行く 圧倒された すぐにそこで働きたいと即決した
あくる日から仕事をやりに行くが半月ぐらいはぶらぶらしているだけだった 
旗を組み立てる仕事を依頼される
ある旗屋さんが歌舞伎の公演の為に如何しても間に合わせなければならない衣装があり、
私の方に来られてやってみようと云う事になる  10日間の日程しかない
何とか間に合わせることが出来、旗屋さんが喜んだが、その衣装は伝統的な装束の問屋さん
注文していてそこが凄く喜んでもらえた
これからも是非織ってもらいたいので、龍村さんの処を止めてこちらに来てほしいと言われる
 独立したい夢もあってその魅力にひかれ話をひきうける

親鸞聖人の705年大御忌の為の袈裟とか衣を作る仕事だった 
自立へのスタートだった ふるいものの伝統的なデザインとか技術とか自分で習得する事が出来た
織物に対するある意味での自信が身に着いた 
織物の種類もいろいろあって、昔のままの通りを忠実に写すことに価値があるものと、現代の要求にどういう風に対応してゆくか、新しいものを生み出してゆく係わり方と二通りある  
試し織りを沢山していた 
森口華弘さんが主催していた西陣織りの研究会の人に試し織りを見せたら来てみないかと誘われる

友禅の作家の研究会 その場の雰囲気が違っていた 試作品を送る事になり東京に送る
(帯の織物) 日本染色展(昭和40年)だった  初出品初受賞となる
「菱重ね一松文様帯」が受賞作品 日本工芸会会長賞 29歳  
「帯漣」という作品を1968年 日本伝統工芸展に出品 NHK会長賞受賞
30代の後半に「羅」との大きな出合いがあった 中国の調査の馬王堆1号前漢墓から発掘された 
最初写真で見る 
飛鳥時代 一見したところ蝉の羽根のような織物 昔盛んに織られていたが現代では織れない
佐々木新三郎先生が研究していた
織り方がある事は知っていたが、やってみようと云う強い思いが湧いてきた 
創作活動の行き詰まりを乗り越えられるのではないかと、それに集中してそれに賭けて行った
半年そこそこで織ることが出来た 織物に対して理論的に研究してきた訳ではない 
常に織物に対して織ると云う現場でずっと仕事をしてきた人間ですから
「羅」というものがどういう構造でどういう手立てをすれば織れるかという事についてある程度
予測はついた それに基づいて旗の準備をして半年掛りで思い通り出来た

伝統工芸展に出品した 誰かが求めて私の手元に戻ってこなかった 
 高名な彫刻家が(既に故人)が今回の展示会に出品して30数年ぶりに出会えた
「菱重ね一松文様帯」特徴は本来織物は横糸と縦糸が直角に織りこまれているのが一般的な
のだが、この織物は縦糸に対して横糸が波型に織りこまれている
装束や法衣の仕事をしていたが、その中に水衣、とか波衣という織物があり、能装束の一種類 
縦糸に対して横糸が波を打っている
何と面白い織りものだなあと思った 
波衣と云う織物は簡単な平織りで織ったものを横糸だけを後で加工して波型にする 
ある約束型に沿って織ることによって、織りながら横糸が波打つように そういう織物を作りたいと
ずっと考えていた その発想の元にできたのがこの織物

「帯漣」 この作品にも縦糸に対して横糸が波打っているように見えると思うが、
「菱重ね一松文様帯」を基本としているが、この構造を斜めに、あやめに崩していった
崩しながらセンターに対して左右対称なデザインになっている 
波打っているこの波の状況を少しずつ右から左にあるいは、左から右へという風にずらしながら
構成していった
谷間の部分に糸の重なりがあるが、そういう部分とかあるいは全然糸の表情がない処とか 
組織のメリハリというか重なってる部分とかがそういう変化を付けている
織りの質感を表現しているわけです 濃淡で菱型が組み合わさったような構造になっている 

「織帯 羅」 1973年の作品 羅を復元 レースのような織物と言われているだけに 縦糸がクロス
すると云うか、もじれて、もじれ目の祖密によって菱形の模様が織りなされている
馬王堆の発掘の羅を見てから意外と短期間に織りあげる事が出来て、自分としても意外な感じがしたけれども、こうして久しぶりに見るとまあ良くぞこんだけ正確に折れているなあと
自分でも吃驚している  色は渋い赤 植物染
「碧地塔門羅布地」 青い色をしている 羅というものの特徴 織りそのものの表情というのか 
織物というのは地色があって、生地があって、それにいろんな模様が表現されている
のが一般的なものですが、この作品羅は地模様 一色で織り方で模様が出てくる 

その模様の要素が75度か80度の斜めの角度のその角度が模様の主体なんです 
それを崩してゆくというんでしょうかねえ 方眼紙状態を詰めたり飛ばしたりしながら、
こういう模様を作り上げるわけです
それでいて且、一つの模様の単位は連続してゆくわけです
連続していった時の織物の効果、デザイン効果を意図しながら方眼紙状に一つの単位模様を
作り上げる
復元した「羅」から私の新たな「羅」の世界の展開ですね  
自分で染めたが色の見極め 染料はいくつかあるので調合しながら自分の好みの色に持ってゆくが質感と色がうまく調和した  

「羅」と「経錦」で人間国宝 人間無形重要文化財 
「織校紋金地縦錦布地」 これは別名法隆寺錦と言われる 
奈良の法隆寺に伝来している四角い模様
の中に丸の模様があって、織校錦と言われているものがある
典型的な復元の仕事です 織り方、材質とかを学びとってそれから自分の新しい作品として色や
模様を展開してゆく これは其の一つ
「縦錦布地青華」2009年作品 真っ青 これは化学染料でないと出来ない 
古典的な縦錦という技法を使いながら表現は現代の色というもの
一つの単位は風車のような模様 羽根の部分が一つ一つ全部違う 

しかも光の当たり具合によって一つ一つに縦の線があったり、横の線があったりする
これこそ縦錦でないと表現できない質感というかテクニックですね 
花の芯の部分がピンク色になっている これは補色の原理(ピンクは使っていないがピンクに
見える)
計算外の起こった 縦糸の数は8000本 このぐらいの密度がないとこの様な模様が浮いてこない
横糸は影抜きと主抜きと言って2種類の横糸を通す
縦糸に色があって その色を表に出したり、裏に沈めたりと言う風にしながら8000本の縦糸を
操作して 表が白なら裏は紺色になっている 
そういう風に紋織の一つのテクニック
横幅は72cm 長さは5mぐらい 

展覧会 130点展示してある その全部が一つ一つ織りあげたもの 
作家として取り組んでも40年になるが 織物の道に入って60年 
よくもまあこんな仕事をしてきたなあと思う
織物の仕事は根気と集中力 好きで織りものに入ったわけではないが、今もそんなに楽しんで
仕事をしてきたという気持ちはないが、でも織物と戦ってきたという感じはある
自分自身と織物が一体の様な感じ 私の場合は本当に地道な日常の仕事の中で手近な目標を
見つけて一つ一つクリアしてきて越えられたら又次の目標を手近な処で見つけて
そしてコツコツとやってきたというそんな感じですかね 
基本は技術というよりも現場だと思う 
常に現場からの発想でいろんなことを考えて織物に取り込んできました
年をとって来て、手が荒れてきて細い絹糸相手で手に沿わなくなってきているし、目も衰えてきて
いるのでちょっとは仕事の内容が変わってゆくんじゃないのかなあ

2011年10月7日金曜日

山崎泰広(福祉機器・会社社長)   ・車椅子は生活の場 2

山崎泰広(福祉機器・会社社長)       車椅子は生活の場 2  
一日中快適に座っていられる事、作業が出来ることが必要 機能リハビリ、個別リハリビ 
欧米では障害者支援機器がとっても発達した 
日本では機能リハビリが中心だった 車椅子が最低機能
アメリカで高校留学先で窓に座っていて後ろに落ちてしまい背骨を打って脊髄を損傷して、頭をその後に打って頭蓋骨を骨折する 10日間意識はなかった
脳挫傷も2か所あった 脊髄損傷だけが残る  
もう歩けませんという告知 日本では躊躇してしまうがアメリカでは告知をなるべく早く言うべきだと それも正しい知識と情報を持った人がいうべきだと云う考えがある

意識が戻って3時間後ぐらいに告知された いろんな情報をくれた 
車椅子になると言ってもこんなことが出来ますよと スポーツもできるし 職業の選択もあるし なのでこれから貴方の目的を達成できるように頑張ってゆきましょう  
私の場合は心配の前に心配の種を取り除いてもらったような状態だった  
落ち込む前にこんなことが出来ますよ 子供を作るにも人工授精がありますよ 
車椅子でもこんな職業に就いた人がいますよ スポーツもこんなことができますよ
いろんな事を教えてもらったので後に残ったのは車椅子でもいいかと思いました  
それは素晴らしかった
リハビリで最初に言われた言葉が「貴方は怪我をする前と少しも変わっていませんよ」 
自分としてみれば変わっている しかし根本的には変わっていない
「今までもっていた目的も夢もあきらめなくていいですよ 
但し障害を負う事で同じ方法では出来ないのでどういう方法を使えば出来るのか 方法だけで駄目ならば、どういう道具を使えば出来るのか どういう設備を使えば出来るのか どういうテクノロジーを使えば出来るのか それを考えて貴方の目的や夢を達成するのが、リハビリの役目です」と言われた  千人力の言葉でした 
 
別の高校(もとの高校は車椅子では建物構造が無理なので)へ複学、ボストン大学に行く  
車椅子でも不自由にならないように対応してくれる 
その後これで貴方は他の学生と同じスタートラインに着きましたかと言われ着きましたと言ったとたんに後は何の容赦もない 
遅刻しようが、単位を落とそうが全部障害のせいではないでしょ 
それは貴方のせいでしょと言われた  本当の平等  
スキューバダイビングを新たにやるようになった 
日本に戻ってきて驚いたのは優れた道具が一切なかった 
最低限の機能だけの車椅子 床ずれ予防などしないクッション だったりした
バリアーフリーが悪かった (今から27年前) スロープ、車いす専用 トイレ、駐車場 レストラン、デパート等も行けるところが限られていた

8年間アメリカにいて6年半が車椅子生活であったが、自分が障害者だとは思わなかった 
理由
①障害者の人に理解が深い、
②自由な活動をしてくれる道具がある
③バリアーフリーの環境がある
考え方は講演をする 道具は輸入する会社を作る バリアーフリーに関してはいろいろな自治体とか官庁の委員をやってそこでいろいろ発言したりして替えてゆきたい
バリアーフリーは障壁除去という事なので障害がある人が使いにくい物を変えてあげましょうと云う事 ユニバーサルデザイン→もっと全ての人達でも同じニーズの人達が居る

全てに役立つように作りましょうという事→住みやすい街作り 
(ユニバーサルデザインと言ってもバリアーフリーの場合が多い) 
小さいエレベーターだったら専用になってしまう事がある
障害者だけでなく 足の悪い方、ベビーカー使用者、お年寄り 皆が利用できるような設備 →回転率が良くなる チャリティーでやるのではなく高齢者社会なのだから
そこの御客さんのニーズに合うような使い方にしてゆく 
ビジネスとしても成功するはずなのでお話をしてやっていただく
障害者用駐車場の利用許可証の発行を進めている 
ルールがないのでシステムを作ろうと思い、佐賀県で始める とってもうまく行く
19県目になる もうすぐ半分の県で実施することになる  総合利用制度を展開し始める  
最終的には全国の制度にしたい 

外国ではカナダのをアメリカで使えたりしている  
そんなところまでつなげたいと思っている
アクセス・インターナショナル㈱を立ち上げた 
バロセロナ身体障害者オリンピックに平泳ぎ100mで6位入賞している
1985年に日本に帰ってきている 1992年にバロセロナにゆく  
競泳の大会には今でも出ている(シニアには出ないようにしている)

2011年10月6日木曜日

山崎泰広(福祉機器・会社社長)   ・車椅子は生活の場

山崎泰広(福祉機器・会社社長)                   車椅子は生活の場  
シーティング シートさせる (seating) 身体をちゃんとするように作られている
多い時は20時間使う  今は一日中座っていても疲れないものが必要になってきた
元々は患者運搬用の道具 →自分で移動するための道具→ 車椅子使用者の生活の場
車椅子生活 32年になる
床ずれに悩む 飛行機に乗って日本に帰るときに床ずれになる
セミナーを日本各地で開いている 
シーティングが日本ではまだ広がっていない
車椅子の上で姿勢が悪いとそこで様々な問題が起きる 
片側に傾いていれば麻痺のある方だったら低い側の床ずれが起きる

ずっと傾いていれば背骨が曲がって、側湾という状態になってしまったり ズッコケた状態ですわっていると、背中が丸くなった状態になったり尾低骨が床ずれを起こす
シーティングを勉強に行くと健常者と障害者は違う事をまず理解して欲しいと言われる 
健常者は自宅ではあまり良い姿勢をとっていない  
特にリラックスしている時に悪い姿勢をとっている 
ところがちょっとでも違和感があれば無意識のうちに姿勢を変えている
だから悪い姿勢が身体に悪い影響を与えていない 
処が障害があると傾いていたら、下手をしたら半日同じ姿勢だとか一日だという事になると
身体に変形が生じたり、床ずれが生じたり、股関節が脱臼してしまう事がある

良い姿勢 ほとんどの部分が中立な姿勢 足も真ん中にある 
骨盤が後ろに倒れたり前に傾いたり横に傾いたりしない 
骨盤のうえに肩と頭があれば一番いい
シーティングでは骨盤を後ろから背もたれやずり落ちないようなクッション、横に倒れないようなサポートとか失われた筋肉、弱くなった筋肉の代わりのものを使えば、障害がある方でもいい姿勢が取れる そういう考え方です  
1982年に最初床ずれが出来て入院して直って、1986年に再発 1987年に手術 
その年にもう一回手術 1988年に4回手術をして 1989年に又手術する
骨盤が傾いていたら左のお尻の方に多く体重が掛る そこが床ずれになる 
骨盤を直さないと又同じ方が床ずれを起こす

一度床ずれを起こすとなり易くなる 
アメリカの手術は違うのではないかと藁をもつかむ思いでアメリカに行ったが手術は違わなかった
手術終了後車椅子を使用するようになって、シーティングスペシャリストと呼ばれる方が出てきて骨盤の傾きを直してくれた(当時日本ではなかった)
骨盤の傾きを直さないと手術しても何度でもなるよと、シーティングスペシャリストから言われる
日本に帰ってきて廻りの障害者の人達が毎年床ずれを起こしてしまっている 
話を聞いてみるとみんな諦めてしまっている
じゃあこの技術を日本に広めようと思った
基本はいい姿勢にしてやる 
快適で長時間とってても疲れないようにいろんなシーティングの機器を使ってサポートしてあげる
(ちっちゃな背もたれとクッションだけでいい)

障害を負っていろいろな機能が失われるが、残存機能があるが、姿勢が悪い為に残存機能が十分に発揮されない人が一杯いる
姿勢を正すことによって機能性を向上させる
健常者の椅子に近づく事 がいい 
(車椅子の背もたれは布で作ってありこれは畳む為のもので機能重視)
セミナーをし始めてから18年になる 随分知られる様になって喜んでもらえる
二次障害 障害に遭って後から出てくる障害 私の場合脊髄損傷になって4年目に床ずれを起こす 
側盤とか身体の曲がる状態が起きた
硬縮、脱臼、呼吸が難しくなったり いろんな問題がある→いい姿勢をとると二次障害は解消できる 
寝ている事はいい事ではなく悪い事 廃遊症候群というのがあって 仰向けで寝るとせん骨と呼ばれる骨盤の骨 肩甲骨、踵、肘、後頭部、胸骨とか骨ばった部分、が当たると床ずれを起こす横になっても同様 座った時は坐骨 尾骨 しか当たらない シーティングで正しい姿勢を作ってやると尾骨は浮くので坐骨だけ支えることになる  
寝ている事は悪い事 ベットにお金をかける 
車椅子は最低限の機能があればいいと考えてしまうが間違い
姿勢の悪い方は力を抜いてくださいと云うと頭が前に倒れてしまう 
高齢者の施設に行くと、下を向いたかただとか、上を向いた方が多い

高齢者の方のシーティングをする時も障害者のかたにも、無理なく何時も正面が見えるようにするという姿勢を作る
そうすると目から情報が入って来て脳を刺激するのでいい
健常者の人は立っていることが多い 
足の長さが違うと骨盤が傾いたりして整体に行ったりとか靴底に入れてバランスをとったりする
車椅子の方だと座っているので、骨盤が傾いていると姿勢が悪くなる 
だからシーティングで骨盤をもどしてやる

国際シーティングシンポジュームが毎年あるが 今年は31カ国から1700人ぐらいの人達が来たが、そこで一番大切だよとどのセミナーにいっても言われるのは骨盤だ
骨盤は人間の土台なので 土台である骨盤をまず直す事で姿勢を直す 
元々リハビリは機能回復のものなのですが、アメリカではリハビリで何をしたいですかと最初に聞かれた 
私は高校に復学して勉強して大学に行きたい、スポーツもしたい、と言ったらそれに全部向かってリハビリをする 自分の目標に向かっているから楽しい 
何か判らなくて重りを挙げているのであったら辛い  
日本に帰って来た時に機能リハビリが中心だった 
日本はバリアーフリーが悪かったのでかなり無理してでも歩かないと自立できない、社会復帰できないという処があった
最近は事情がよくなったので車椅子でも移動できる 
そうなると個人の目的を達成するための個別リハビリをやって五体満足の人に近づくだけでななくて、社会の中で成功する事を目的とするアメリカの考え方 それが素晴らしいと思う

2011年10月5日水曜日

伴征子(熊本バレー研究所)       ・くるみ割り人形舞台 2

伴征子(熊本バレエ研究所)             くるみ割り人形舞台 2  
 バレエは好きだと思わないと続けられない 
トウシューズは小学校低学年ぐらいから履けるようになる
くるみ割り人形は子供にも理解しやすい  
ドイツの田舎で作られたクルミを割る為の人形
クララが見る夢  ホームパティー 大人も子供も楽しめる劇 音楽の仕掛けがいい
子供の成長が毎年違う それによっていろいろベストに持って行くように考える アンサンブル オーケストラのようなもの ルールの中で踊っている 
それに馴染む 廻りの人に気を配る  
どんなに上手にやっていても鼻につく事がある 下手だけど好感が持てる  
アマチュアの途中の姿は本当に大切なこと
今を楽しんでほしい 役でいらない人が居ないことが判る 
子供たちの成長が判る事が楽しい
最近は男性が多くなってきた 10人ぐらいいる
 
バレエの中にマナーがあるのでそれを学んで欲しい 
礼儀作法 ゆったりしている格式に通じる
くるみ割り人形の劇を30年続けているわけは→楽しくてしょうがない
妹尾河童(せのお かっぱ) 舞台装置を作ってくれる人 兵庫県神戸市長田区生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家
1970年には文化庁新進芸術家在外研修員に選ばれ、ヨーロッパに留学し舞台美術を学んだ
バレエを子供たちに紹介したいので全うしたい 
バレエの楽しさを子供たちに伝えたい
国際的に活躍できる人というのは日本人の感性を持ってなおかつヨーロッパの感性も習得している人
そういうセンスを持っている人、力を持っている人はどこでも踊れる場所がある バレエを通して国の風土とか風習とかそういうものを判ってくる お互いの交流の場になる  受け継がれてゆく楽しみがある 

2011年10月4日火曜日

伴征子(熊本バレー研究所)       ・くるみ割り人形舞台

伴征子(熊本バレエ研究所)                    くるみ割り人形舞台
ピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽(作品番号71)、およびそれを使用した2幕3場のバレエ作品  
チャイコフスキーの三大バレエの一つであり 筋立てはホフマンの童話に基づくデュマの小説に依拠 初演は1892年12月18日(ユリウス暦では6日)、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて行われた
 
1944年 熊本市生まれ。九州女学院高校、熊本商科大学卒業   8歳のとき、熊本バレエ研究所の前身である三橋蓮子舞踊研究所に入門
古沼久、戸田裕子女史に手ほどきを受ける  68年から熊本バレエ研究所の代表となる 熊本で35年もやっている  
小学校4年生から大人まで70人程度で行っている  子供が主役  
くるみ割り人形劇は30年になる (県立劇場) 
クララ役 10代 技術的には向上しているが表現力はより指導が必要
初めてくるみ割り人形を開催するときにお金がかかるので、寄附を募って何とか開催にこぎつける
妹尾河童(せのお かっぱ)に舞台装置を何とか依頼する
総合的な形で子供たちをバレイにになじませて、馴染んで行って音楽もたっぷり身につけながらバレエを楽しんでいける大きなプロジェクトを持ってるのはとても珍しい見たい
外国人も参加するようになった 中国の上海 
何十年も続くというのは→「くるみ割り人形」がいい  音楽と物語
くるみ割り人形はペテルブルグで初演してから120年になる
私は8歳のときから始めた  バレエには予習復習がないから続けられたのでは
日本はバレイ学校はない でも世界で一流の人が育っている 
好きでやっている  才能があるかないかは判らない

2011年10月3日月曜日

伊東四朗(俳優74歳)       ・私の喜劇役者人生を語ろう 2

 伊東四朗(俳優74歳)        私の喜劇役者人生を語ろう 2    
森繁久弥:影響を受ける そんなに知っているわけではないが憧れの人だった 
映画を随分見た     どたばたからシリアスなものまでやっている     
喜劇役者は片方の隅からもう一方の隅まで全部出来るのが喜劇役者ではないかと思う  
頂点にいたのが森繁さん   
歌を歌わせれば抜群に巧い    
東八郎:コント番組で良く一緒にやった 江戸っ子 息子さんが一緒に現在出ている 
 
52歳で亡くなる 南伸助も52歳、石原裕次郎も52歳 美空ひばりも52歳   
東京喜劇 三宅祐司さんと一緒に伊東四朗一座、年によっては熱海五朗一座
(私が出られない時に行う時の名称 伊東がない 駄洒落)    
2004年から続いている 発端は三宅祐司の「いい加減にします」という番組にゲストに呼ばれた時があって、気に入られていつの間にかレギュラーになってしまった    
この番組が終了して、数年して勿体ないと感じるようになり、これを舞台でやらないかと声をかけた   
14年前に実現した 好評だったので又やろうかという事になる 小倉久寛も加わる 
三宅祐司から一座を立ち上げませんかといわれる   
座長を依頼されるが断る 一回きり(旗揚げ解散公演)はどうですかといわれ、同意するが結局 一回きりではなかった
  
連綿と続いていた東京の喜劇をどこかで続けて行く人間がいないといけないんじゃないかという背景があるわけですよ 彼なんかもそうなんです   
急遽再結成とはどうですか と三宅祐司から言われる  第2回目を公演する  
大震災から3か月過ぎてから公演する 大好評だった   
笑う事はいい事 笑う事によって心が解放されてり、身体にいい   
引き際のはやいのが東京喜劇かなと思う(関西喜劇に比べて)  
三木のり平 せっかく受けるところを切る(そうでないと粋じゃない)   
雲の上の団五朗一座 東京喜劇の真髄だと思う  
喜劇はその時代を写し取っている 
前のままやるのではなく現在に置き換えてやらないと受けない
  
アドリブを許すと前日考えてきて出してしまうものがある 
アドリブはその時突然出すことによって出てくるのがアドリブで面白い事は面白い   
考えてきたアドリブは邪心があるものだから、割と厭らしい (笑わそうとする意図がある)    
その日の御客さんが創り出してくる笑いというものがある    
アンケート用紙 を読みあげる 舞台と観客が一体化する   
喜劇ほどお客さんがつくってくれるものはない  
正解だと思ったものがことごとく覆される事がある 
稽古のなかにハンドルの中に遊びみたいなものを作っておく必要がある
  
お客さんの傾向である時には稽古通りやった方が正解の場合があり、他の場合はそうでないような時もあり、柔軟性を持ってやらないと喜劇は成り立たない   
練り上げた台本で手直しもして よしこれで行くぞと稽古も十分にして望んでもそれでも→ 練りに練ったからこそ後ろにちょっと余裕が出てくるんですよ   
その余裕というか、それがお客さんの反応を見ていられる目 脳がそこについてくるんだと思う ・・・自分だけの論なんですが   
身体で感じる 昨日、大爆笑がある 今日も大爆笑があるが昨日と今日の笑いは違う 何を笑っているのかが違う 
  
お客さんがこうした方がいいよと云う笑いがある (同じ笑いの中に) こうじゃなくて明日こうやってみようとその時0.何秒かの間に考える   
次の日にやってみるとその通りなんです 又教わったなと、凄いですよ 
やってていい商売しているなと   
場所によっても違う それを同じようにやってはいけない 
気付いてやらないと、それが喜劇役者なんだと思う   
お客さんに判るように、どんどん自分だけでやってはいけない   
難しいが後輩にも教えなくてはいけない 息子に対して反対はしなかったのか→反対する権利はない 正直に言えばやってほしくなかった   
自分の歩んできた道を振り返ってみると これは息子には同じ道は歩ませたくないと云う事は一杯あったので 止めろと云う権利もないですから    
守ることはしっかり守ってやりなさいと云う 守ること→人より早く台詞を覚えてゆけ 
時間は誰よりも早く行け スタッフと馴れ馴れしくするな   
伊東さんはしゃしゃり出ない、後輩たちに昔はこうだったとは言わない
 
それは心がけている部分は→昔はこうだったと云うんじゃあ喜劇は成り立たないから   
今を生きていなければ、今の空気を吸っていなければ駄目  昔はこうだったは絶対駄目   
しゃしゃり出ないのはずっと脇役をやってきたので脇役はしゃしゃり出ちゃ駄目 
主役芝居を立てる(主役を食うような演技→駄目)   
年をとると若い人とずれてしまう人が居るが→若い人と良く話をすることだと思う 
わざわざ話に割って入ってするのではなく、よく聞いている(若い人がどんな話をしているか)   
年だと言って弱弱しくやるのには抵抗を感じる 例えば病人の役をやるのでもなにがしかの元気があった方がいいかなと思う   
年だからといって年相応の芝居にはしないようにしている 
容貌は年なのだがそこにちょっと見えを張った力強さ、声にも、動きにも そういったものは役者にとって必要なのではないか  

2011年10月2日日曜日

伊東四朗(俳優74歳)         ・私の喜劇役者人生を語ろう

 伊東四朗(俳優74歳)            私の喜劇役者人生を語ろう  
父親は酒は飲めないが、どこかへふらっと行って返って来ては小歌を歌ったり、三味線をつまびいたりしていた粋な人だった
母親は一日中歌を歌っている様な人だった
サラリーマンになりたかったが、なれなかった 
いろいろな会社の試験を受けるが、試験に落ちてしまう
次男が早稲田大学の学生だったので生協を紹介してもらい、そこではたらくようになる
寄席、ストリップ劇場 、歌舞伎につての元に行くようになる

石井均の、ストリップの合間の軽演劇に、魅せられるようになる
(浅草3軒 フランス座、浅草座、カジノ座、 新宿2軒 セントラル座、新宿フランス座、 池袋にも有った) 石井さんからたまにはよっていけと、声をかけてくれた その後親しくなる  
石井均が今度一座を立ち上げるので、たまにはそちらの方にも遊びに来いと誘われる  
生協の正社員にならないかと誘いがあり、同時期に劇に出てみないかと言われた 
気持ちが揺れていたが、結局お願いして劇団に入ることになる 昭和32年の頃
自分の中に試してみたい気持ちが有ったのかと思う
(生協で働いていれば収入は安定だが、劇団員としては給料が貰えるかその後の状況がどうなるか判らない)

戸塚氏は石井均一座におり、ギャラが少ないので別に2人でキャバレーに行ってお金を稼いでいたが、石井氏が収入が安定してきたのでコンビを解消
替わりに伊東氏にコンビを組まないかと誘われる 
南氏が違う劇場にいて彼を誘い、南とやると云う事になる 南と戸塚がアルバイトでコンビを組んでやるようになる
南は放浪癖がありいなくなってしまった 又やってくれと私にお鉢が回ってきた 
南伸助の名前でやっていた(いつか帰ってくるだろうと)
ある時TVを見ていたら、大阪のTV中継に「おとぼけトリオ」(玉川良一東けんじ南伸助)で出演していた 
そのうち解散になり、戻ってくる 

私を首にするのもかわいそうだと云う事になり3人で始める
当時日劇に呼ばれたときに 名前を問われて「ぐうたらトリオ」ですと言ったら、そんな名前は丸の内には出せないと 東宝の重役が考える事になり「てんぷくトリオ」と名づける
南氏は生まれつきのリーダー、俺についてこい、俺について来れば間違いない お山の大将  
安易の方向を余り選ばない人だった
戸塚氏はひょうひょうとした人 人の敷いたレールを歩いていれば絶対間違いの無いと云う人 
昭和40年くらいからTVにぼちぼちでられるようになった
戸塚氏が42歳で亡くなってしまった「 お笑いオンステージ」NHKの番組が始まってすぐに亡くなってしまった ショックだった
2人でコンビを組んでやろという事は全然出なかった→各々が活躍するようになる
私が「天と地と」に出演する時には5日取られてしまったが、何とかやってくれた
NHKからいろいろな役を紹介してもらえるようになる 他からも要請がある 
当人としては断るような役(重要な役 電線音頭司会者とは凡そかけ離れた役)も有ったがこなした
伊原高忠 民放の名プロデューサー 「てんぷくトリオ」を採用してくれた 歌を一つ歌うのでも完璧にこなすまで家に返してもらえなかった 
踊りもありそれをきちっとできるまで帰らしてもらえない 
歌は歌い手より巧く歌え、踊りは踊り手よりも巧く踊れ それがコメディアンだと言われる(そこまで気持ちを高めろと云う事)
沢田幸二 プロデューサー てなもんや三度笠を担当  見に来てくれた 
それから出演してもらえるようになる 厳しい言葉「そこ どこがおもろいんですか」

若いうちは厳しさは必須だと私は思う 鉄は熱いうちに打てと言いますが、私は熱いうちに打たれて本当に良かった(若いうちは甘やかされては駄目)
良き仲間に恵まれ、良きプロデューサー、良き監督に恵まれた 何時間単位、何日単位で外れたら、そういった出会いはない・・・出会いの不思議さ
出会いを一番感じるようになるのはこんな年になってからですね