2011年3月31日木曜日

三木稔(作曲家)        ・日本のオペラに命をかけて 

三木稔(作曲家)
日本史オペラ9連作』《春琴抄》、《あだ》、《じょうるり》、《ワカヒメ》、《静と義経》、組オペラ《隅田川+
くさびら》、《源氏物語》、《愛怨》、《幸せのパゴダ》が完成
37年を要して完成(80歳と100日目)
自分に創造力がなくなればればパッと辞めようかと思っていたが、それを感じたことはい
私の創作活動は還暦から始めている
70歳で癌になり放射線照射とホルモンで治療 7~8年癌と戦っている 大腸がん、十二指腸潰瘍も患う
 脳に水がたまる(手術)1年半で5回手術
足が衰える 入院中に作曲もして足の運動をさぼる
曾祖父は浄瑠璃の太夫 祖母は三味線の名取り・・・全く興味はなかった

連合艦隊司令長官希望海軍士官学校を受ける→敗戦(日本は科学で負けた)→理論物理学に進む
(テニス、合唱に入った) 
集団赤痢に掛る 薬なし→ 徳島に帰って「リンゴの唄に感動
ドビュシーの曲(夜奏曲 フランス)を聞いて感動して泣くに泣いた(それまでドイツの曲のみ あまりの違い
に吃驚)→作曲家へ志す
芸大 作曲科にはいる  楽団作って地方公演などする
日本音楽集団をつくる(自分はベートーベンを鏡として ベートーベンは第9 私はオペラで作品を)
1973年「春琴抄」がオペラの最初 
2005年8作目作る 《愛怨》オペラ 8世紀が舞台 奈良時代 この時病気療養中 瀬戸内寂聴さんに
書いてもらう(短編小説)

オペラ それを聞いて勇気をもらって自分の人生を自分で再構築出来るようなもののほうがいい
奈良長安が舞台 楊貴妃は琵琶の名人 遣唐使、仏教が入ってくる・・・舞台で琵琶をひけるような
シチュエーションを作ろう・・・寂聴さんに頼む
日本語がはっきり聞こえ解り易い (歌 鎌原さん良く分かる) 
日本の楽器が全て入る合奏運動を始めようと その中から21弦の琴を作って いろいろやる
1975年《春琴抄》オペラをつくる 日本音楽集団から遠のく

2011年3月30日水曜日

中村明(早稲田大学名誉教授)  ・豊かな日本語の語感を味わおう

 中村明(早稲田大学名誉教授)  豊かな日本語の語感を味わおう
「日本語 語感の辞典」執筆
しなやかな女性  しなやかな女子(違和感)   
あした(砕けた感じ)  あす 、みょうにち(硬い感じ)   
広島(地域) ひろしま(子供向け) ヒロシマ(原爆連想)
にほん  にっぽん(破裂音・・・力強さ)
どうか遊びに来てほしい・・・是非来てもらいたい
どうぞ遊びに来てほしい・・・来てもらいたい感性が上より薄い

語感を鋭くする→感情を鋭く出来てくる 言葉を味わい深くする
物を良く見る(感性)
うまいなと思う表現をメモする(覚える)
自然に出てくるようになるまで熟成させる(自分の頭の中で)
お勝手 台所  キッチン・・・世代による語感の変化
言葉は変化してきている  言葉:相手に対する思いやり

2011年3月26日土曜日

藤岡弘(俳優・武道家)      ・藤岡弘、流ブレない生き方


藤岡弘(俳優・武道家)      藤岡弘、流ブレない生き方
ボランティア活動で世界百数十カ国回る  出会いの縁 世界の人との交流
父:武道家 何があっても父の言うことを聞けと諭される 武道家としての精神 生き方を学ぶ 一人ぼっちになっても生き抜く 真剣に燃えて生きよ  
母:仏前につれてゆかれた 私の言うことが聞けないのであれば、あなたを殺してから私も自害します
  自分を守る為に武力を使ったのであるが、言い訳を聞いてくれなかった
武というもんは己を修めるもの 我慢
「自己を修める者迷い無」 幼いころの教えは大きな財産になっている
天下を治めようとする者はまず、家庭を修めよ 家庭を修めようとするには己を修めよ
外国を旅して、内乱があり多くの死を見てきた 先祖の愛の連続性で自分がある
最近自分さえよければいいという風潮が見られるようになり変わってきた
エゴによって争いが起きる 何故協調、共生ができないのか
子供は財産 子供は愛された分、大きくなって愛を返せる
生きる勇気を失ったら最大の損失
どの民族も幸せを求めている 次の世代を思いやる
あの世に持っていけるものは「感動と思い出」 金、地位、名誉なんかではない

2011年3月25日金曜日

武田双雲(書家)         ・書に求めるもの

武田双雲 (書家) 
<概要>「武田双雲の母親は書道家である 学校時代はあまり面白い授業ではなく 
授業以外のことで気を紛らす事をしていた
大会社に就職したが、ある時に母親の書を見て感激して 会社を辞めて書道家を志す 
その頃は相手に対して粗を探すような感覚で人を見ていた
しかしその様な人の見方は結局自分の気持ちを面白くはさせない 物の見方を変えて相手に対して
感謝の気持ちを込めてその人を見るようにするようにしたところ
相手の良いところが目につき、同様に自分の気持ちもすがすがしい気分になって来る 
自分の心に感謝出来る様になる
変えるにはそれなりの努力が必要で 具体的に言葉に表わして「常々言う 」又「書く」事が大事  
感謝眼鏡をかける(感謝の目、心を持って相手を見る、接する)
書を通して人々の心を和め、感動させたい」
母親の武田双葉さんから3歳の時から書道を習ってた
病気もたまにはいいかな いろんなところに幸せを見す
ネガティブに陥りやすい→あえてポジティブに思考する
感謝コレクター いつからか 学校の授業が面白くない →いかに面白くするか(ゲーム的)
20代 粗探し眼鏡をかけていた 店員の対応の悪さ、料金高いんじゃないの→悪いところばっかり目
につく →面白くない
感謝眼鏡 を見つける→相手も自分もハッッピーになる(世界が変わる→自分が変わる) 
良いところが見えてくる
書道で赤で直すぶんには簡単・・・伸ばすためには良いところを見つけほめてそれプラスここを直せば
もっと良くなると指摘する
サラリーマン2年半で辞める→書道家に転進(母親の書に鳥肌が立つ) 25歳
あらゆる書をまねる PRする人になる(広めてゆきい)

書は多くの人の心を動かすだろうと確信する  書道は人の心を揺さぶる事を実感する
「書は人なり」と昔からいっていた 生きざまと思いまる
日々の生活のなかで有り難いなあと思う心・・・日々成長したい
今ある身の回りのもの、ことを使い切る・・・成果が表れてくる 不満はでない 希望がわいてくる
会社を辞め、ストリートにでる(どのように書道家として一本立ち出来るか判らず道に座って求められれ
ば書を書く)・・・何も持っていない状態(技術、金、人、実績、信頼、・・・)
人って自分の事ばかり考えているものだと ストリートでの経験したい
ストリート ござに座って色紙を何枚か並べ、「貴方の好きな言葉を書きます」という看板を立てる→
何人か足をとめてくれる
どうやったら喜ばせられるのだろうかと思うと立ち止まってくれる人がある 人が増え笑顔が出来る
相手の心を開くには相手に対して興味を持つ、好奇心を持つ自分のエゴを出来るだけ減らすこと
プレゼントを渡すような気持ちで書くようになた
有り難いなと思う心が最強になる 折れそうになった時の根っこ 親からもらった愛プラス有り難い
なと思う心の気付き
自分を責めなくなった、落ち込みにくくなった 自分の心に感謝出来るなった

一般的に廻りに負けちゃったり自分の弱さに流されてしまったり、悔しがったりする→有り難いと
具体的にしゃべる、(何百何千と日々言っている且書いている)
負けそうになる自分の心を打ち壊してゆく
強制的に行動、習慣が性格を変えてくれた 生まれつきでなく性格は書道と同じで練習すればうまく
なるというのが希望
言葉にする、書にかくとか行動することが大事(思っているだけでは流されてしまう 変える事は出来ない)
「道」って長い道 現代は直ぐ成功、失敗が決まっちゃう(結果がすべて) 
書道 今日は駄目でも明日はちょっとでも良ければいい(緩さがある)
精度のいい感謝眼鏡を掛けたい、感謝眼鏡を一杯配りたい 書道はそのきっかけ 
人の心のありようを成長をさせる事がもっとも強いことだし優しさだ に気付いたから
「絆」 人間なんて半分で欠けているもの 人と混じり合えるし 高めあえるし半分同士の糸が
紡ぎあわされて社会と言うものができて
初めて社会があって自分の半分が生かされるということは「ありがたいなあ」ということになる・・・感謝
の心

2011年3月24日木曜日

米田佐代子(平塚らいてうの会)  ・「平塚らいてう」について

米田佐代子     

「米田」:東京都立大学人文学部卒業後、同大学助手、千葉大学・専修大学・一橋大学等の講師を
経て山梨県立女子短期大学教授、2000年3月定年退職。専攻は日本近現代女性史
平塚らいてうを中心に近代日本の女性運動と女性思想を研究、女性学、ジェンダー論、男女共同
参画問題等でも発言
実生活では共働きで二人の子を育て、保育運動・学童保育運動・PTA活動・親子読書会などに参加
、今は高齢者施設のボランティアにも参加。総合女性史研究会代表もつとめた
現在は、「NPO平塚らいてうの会」会長兼、2006年に長野県あずまや高原に完成した「らいてうの家」
館長として、東京と長野を行き来している
話の内容は主に「青鞜」に関する事、平塚らいてうの事、婦人問題の事 「旅の7日間」 「夕焼け」
 「三つの目」について等の感想、説明
青鞜」 ブルーストッキング イギリス社交界女性が青い靴下を目立つように履く・・・これがもとになり
「青鞜」と云う雑誌の名前になる
青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、
女性による月刊誌主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝が中心だった。
『文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい』との
論もある
日本女子大卒業生が5人集まって出版
新しい女性と言うことで非難さ
れる
創刊の辞 後の方に掲載 
「元始、女性は実に太陽であった 真正の人であった  今女性は月である
 他に依って生き 他の光によって輝く病人のやうな蒼白い顔の月である
  私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や 取り戻さねばならぬ」

平塚らいてうは森田草平と心中未遂をする(作家の卵) 私の主人は私自身である 自分の力で立ち
あがってゆく

「自分は新しい女である 少なくとも真に新しい女だと日々長い日々努めている 真にしかも永遠に
新しいのは太陽である
自分は太陽である 少なくとも太陽でありたいと日々願い、日々努めている 新しい女は今美を願わない
善を願わない ただ今しらぜらる王国を作らんがために自己の尊き天職の為に力を力をと叫んでいる」
当時のメディア、等は新しい女とは何事かと非難する
自分が選んだ道はどうなるかわかりません でも行きつくところまで行ってみよう・・・らいてうの一生
を貫いていた
後ろを向いてしまっては駄目 らいてうは発していた 地べたに落っこちてもいいから前に進もう
母親になって子供はいとしいと思い、子供を守らなくてはいけないと思いそのためには子供を守る
権利が必要であると
市川房江氏とともに「婦人参政権」に取りむ

1914年「旅の7日間」 
「四六時中共に一緒に在りたいと思うのは全ての人の心であろう 私もまたそうであろうと願っている
 けれど自分は朝から晩まで 
同じ部屋にいて自分の愛する者と顔と顔とを合わせていることには、耐えられない 机を並べて一緒
に読書をしていたり書き物を
することも自分には出来ない 自分は本当に人を愛することが出来るのだろうか 又本当に人の愛
を受け入れられるのだろうか
私は愛しつつある瞬間においてさえ折々そういう疑問に悩んでいるのを知っている 自分は人を
たった一人の人さえ愛することが出来ないのを
悲しんでいる 咎めている そしてどうかして本当に愛そうと努力している けれど一方には人を
愛し人から愛されることから逃れようといつも
願っている自分があるようだ」
奥村博史と恋に落ちる 暮らすことにした 思ったことを表現してしまう  
お互いに距離を置く事は要
子供を産みたくなかったが、結局生むことになり、母性の素晴らしさに気がつく 他愛主義・・・これこそ
人生人間の生き方であると思う 

母親になったことが参政権の原点 (戦争を男たちが勝手に始めた)女達は子供を守る為に活動する
でしょう
らいてうの言葉「私は永久に失望しない」・・・よその子を大事にしてくれる人が増えてくれば私は安心
だ私は永久に失望しないでしょう
→それが日本が平和で子供たちが幸せに育ってゆく道
「夕焼け」1925年
「瞬間の尊とさよ 夕餉の後始末を台所でゴトゴトとしているうちに あの夕焼けはもう消えちゃった 
冷たい冷たい空の色
何故私はもっと気軽に何もかも、うっちゃって野に飛び出さなかったんだ」 
ああ 私はあくせくしすぎていた 消えちゃう瞬間に何故夕焼けをしっかり見る余裕はないのか
当時 老人ホームを作ろう・・・新鮮な考え方(当時 家の人達、嫁の役割) 共同の世界をつくるのに
女性の力が必要

1951年「三つの目」 
①私たちはいつも現実を見る鋭い目 
②はるかな未来を見通す永い目 
③心の内側を凝視するかつて瞬きをしたことのない深い目
この三つの目を持って生きてゆきたいと思います
85歳で亡くなる
9/1が「青鞜」発刊日 発刊100年を長野上田で行う

2011年3月23日水曜日

山崎洋子(童話作家・脚本家)    ・私と朗読ミュージカルの20年

 山崎洋子(童話作家・脚本家)   私と朗読ミュージカルの20年  
4年7ヵ月宝塚に在籍(無償の愛が宝塚にはある) いまの交流がある
大家族の長男の嫁になる これからはみんなに尽しなさいと父から言われる 
日中は時間がなく夜、童話を書く
自費出版
どんなに悪いと思った人でもちょっと角度を変えるとキラッと良いものがあるものだ
夫は10年間 脊髄梗塞で車椅子で一緒に寄り添う時間が出来た
遠藤周作が恵まれない人に光を当てよう (五つの台詞と一つの見せ場)
遠藤周作からいろいろなものをたくさん頂いた
19~80歳の人がラインダンス 客と舞台が一緒になる
80歳のおばあさんの話 自分の心持次第で楽しく生きられる
人の生死は絶対に避けて通れない
全盲の人がミュージカルを見に来てくれて感激 芸大に進み琴をやる
琴、中国琵琶と一緒にやる
脳梗塞を経験したが、軽かった 短い時間病院にいた 
いろいろのひとに出会うことが出来た
生きてゆくことへの讃歌

2011年3月11日金曜日

秋尾沙戸子 (ノンフィクション作家)   ・GHQの占領史から現代日本が見えてくる

秋尾沙戸子 (ノンフィクション作家)  GHQの占領史から現代日本が見えてくる
洋酒メーカーに就職 宣伝部配属 25歳で退職 結婚を機に辞めさせられるような状況
社会から切り離されたような状況に陥る→友人が働き口を紹介(女性キャスター)
東ヨーロッパの方に行く
1989年ベルリンの壁崩壊 ラジオでパーソナリティーやっていた 
尊い涙を流していたお爺さんお婆さんがいて映象に対してなにも言えなかった
知らないことに対して、罪深く感じる
5,6月に東欧を歩くべきであると思い、ホームステーする 友人を紹介してもらう  
かけがえのない時間を過ごせた

仮面を使って生きるのか、それともアウンサンスーチーさんみたいに戦うのか  
自分がどう生きるかの選択を東欧の人達は強いられていた
ドイナコルネア(ルーマニアのフランス文学教授) 幽閉状態にあって、チャウシェスクの批判の手紙を書いて 短波放送に送り続け国民の人達がそれを知り、革命につながった
取材して日本の皆さんに伝えたいと思い出版したのが「レーニン像を倒した女達」
東欧旅行の前離婚→NHKナイトジャーナル番組(日本の真相に迫る)→上智大学大学院→
ミャンマーのアウンサンスーチーさん、インドネシアのメガワティーさんと会う
民主化勢力に密着して取材できた  
軍がスファルトにつくのか、民主化勢力につくのか?微妙な時で状況によっては身が危ない状況にあった

彼らは国の未来の為に命がけで戦っている(インドネシアの行方にずっと見守ってゆきたい)
民主化と言うと影にアメリカの姿がちらついて見える
アメリカの目線で日本を見てみたい
アメリカのアフガン攻撃に懐疑的 アメリカを知らないのにアメリカ批判するのは違うだろうな
(アメリカのジョージタウン大学に1年間 民主化、アジア政策研究)
2003年 イラクに侵攻してアメリカは占領政策にもだえ苦悩してる 
どうして日本の戦後占領政策はうまくいったのか 答えなさいと言われたが答えられなかった
どういう人たちが日本に来てどういう気持ちで日本を改革しどんな気持ちで日本が抵抗したのか、素直に受け止めたのか 自分では判らない
調べ始めたが判らない事だらけだった
空襲 アメリカは綿密な実験を行っている
アントニン・レーモンドが指導して日本の家屋を製作 
ユタ州沙漠で日本の家屋を作り焼夷弾の威力を実験調査している      
占領時にタイムスリップする必要があると判断→ワシントンハイツに突き当たる→東京のど真ん中にある 28万坪 アメリカの街が目の前に出来た

明治神宮のとなり デモクラシーを受け入れようと自然になっていった(デモクラシーの宣伝)
60年安保 オリンピックでワシントンハイツは消えてゆく
3/10の下町空襲 大本営
真珠湾攻撃の前から戦争の準備をしている 
日系人で2ヶ国語が出来る人を確保→情報の重要性を認識
GHQ、マッカーサー占領政策  
驚いたのは末端の人達まで含め民主化が人類にとってとてもいいことをやっていると浸透している事
白洋舎・・・GHQのクリーニングシステムを学ぶ

戦争は非常に馬鹿げた事 日本は知らない間にGHQ改革の影響を受けている
(例えば清潔さは以前はなかったが戦後清潔さを身につける)
主要国家は世界戦略を持っている
地球義で主要国家(米、ロシア、中国等)は考えている 
日本は日本地図を平面的に考えている
日本はどうありたいのか知恵を絞って話し合ってゆく必要がある
個人の営み、息使いと国家の政策の両方から見つめる事が大事