2025年11月25日火曜日

佐野慈紀(元プロ野球選手・野球評論家)   ・利き腕を失ったリリーフエース

佐野慈紀(元プロ野球選手・野球評論家)   ・利き腕を失ったリリーフエース 

元プロ野球選手で糖尿病にる感染症で、右腕の肘から先の部分を切断せざるを得なかった方がいます。 佐野慈紀さん(57歳)は愛媛県松山市の出身、松山商業高校時代は1986年の夏の全国高校野球選手権大会で準優勝を果たしました。 近畿大学工学部を経て1990年度ドラフト会議にて、ドラフト3位にて投手として当時の近鉄バッファローズに入団しました。 1996年には中継ぎ投手として、史上初の1億円プレイヤーとなり、中継ぎ投手の評価を高める存在となりました。  その後中日ドラゴンズや、当時のオリックスブルーウエーブを経て、2003年に現役を引退しました。  39歳の時に糖尿病を患い、感染症の転移によって去年右腕の肘から先の部分を切断しました。  自らの右腕でピッチャーとしてプロで活躍しながら、その右腕を切断せざるを得なかった思いなどについて伺いました。 

体調自体はだいぶ良くなりました。  透析も受けていて体重も落としていかなければいけないという事で、いま小学校高学年ぐらいの体重です。 現役の時に比べてマイナス40kgぐらいです。  最初指に感染症が出て、指を2本切断することになりました。  その時の葛藤は結構あったんですが、感染が広まって腕の方まできて、その速度がかなり早くて、悩む前に決断するしかなかったですね。  2mmぐらいのかさぶたが2つあってそれがずーっと治らなかったんです。  血流をよくするための手術を行って治ると思っていたら、そこから急に感染症になって広がって行きました。  薬を飲んでも透析をしていたので、全部流してしまう。  利き腕の方なのでショックでした。 切断を決めたのが56歳の誕生日の前日でした。  迷いはもうなかったです。 ひじの上の切断では義手もつけられない。  能天気にいた方が気持ちは楽だと思いました。

野球を始めたのは小学校4年からです。 父が野球が好きでした。 高校時代はピッチャーも3番手、4番手でした。 松山商業としては一番弱いと言われるようなチームでした。 ピッチャーが強くなって負けなくなって行きました。  冬場の雪の舞うなかでノックしている時に、選手たちが全員裸になって「さあ来い」といって練習をして、監督、コーチもしょうがなく 自分たちも裸になってノックした、という事が一つのきっかけになったのかもしれません。  当時のキャプテンが水口栄二さんです。  彼が一番最初に脱ぎました。  夏に準優勝と言う結果を残しました。  決勝では投げられなかったのが悔しかったです。(相手は天理高校) 

近畿大学工学部に入学して、リーグ10連覇、最優秀投手賞を4回受賞する。  1年の秋から投げはじめて4年間で28勝しました。  近鉄バファローズから3位指名を受けて入団。  3年で1軍に行かないと首になるという覚悟はできていました。  1年目の成績はぼちぼちだったと思います。  中継ぎ投手としての重要さとか面白さがわかって来て、遣り甲斐が出て来ました。  1995年シーズンには自身初の二桁10勝を挙げる。 1996年シーズンオフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。 

1999年、シーズンオフで3対3の交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍しました。  自分自身しっかりしたモチベーションを持てなかった。   国内で契約してくれる球団が無かったので、2001年独立リーグエルマイラ・パイオニアーズでプレーしました。  2002年MLBロサンゼルス・ドジャースマイナー契約する。 2003年オリックス・ブルーウェーブへテスト入団し、日本球界へ復帰。  一軍登板は2試合にとどまり、現役を引退する。   大好きな野球を続けられたのは感謝しかないです。  悔しかったのは優勝をすることが出来なかったという事です。  

今はこのようになって、受け入れることが出来なくて、正直受け入れることは無いと思いました。  ただそれをくよくよ考えてしまうと、ネガティブになって落ち込んでしまうので、気持ちを切り替えようと思って、強がってでもポジティブでいようという風に決めました。  高い壁でもチャレンジして乗り越えた時の喜びは、何にも代えがたいものなので、そういったことを子供たちに教えて行ったら嬉しいですし、野球って何より楽しいので、それを感じて貰えたらなあと思います。