田中優子(法政大学 前総長・名誉教授) ・江戸に惚(ほ)れ、江戸に学ぶ
今日は江戸という町が持っていた高い知性とセンス、それを生み出した教育について伺いました。
田中優子さんは法政大学名誉教授で江戸東京研究センターの特任教授を務めています。 今年は大河ドラマで「べらぼう」という天明,寛政時代、の大衆文化を前面に出した企画です。 江戸中期の平和な時代が大河ドラマにならないのかなと思っていました。 平和な時代でないと文化が育たなかったという事がよくわかります。 手習い(寺子屋)が段々増えてゆきます。 農民一揆が増えてくるが、 一人一人がサインをするんです。 文字が書けないと一揆にも参加できない。 農村でも町でも文字を書くことが必要になってきた。 貨幣で動くようになってきた背景もある。(数の管理) 文字が読めるになると本が読みたくなる。 出版社も本を出して本が売れる様になる。
江戸は半分の人口が武士であるという事です。 各藩が江戸屋敷を作る。 当時は270藩ぐらいあった。 江戸留守居役が必要になる。(地元には居なくて江戸にいる。) 江戸留守居役のネットワークが出来る。 人口の半分が子供のころからちゃんとした教育を受けて、四書五経を読める。 和歌、俳句も作れるようになる。 知的レベルの高い都市になる。 商人は武士と関わらなければ生きていけない。 遊郭には武士も行くわけで、そこもネットワークが出来る。(接待) 版元は町人で、武士に依頼する。 武士は現金はあまり持っていないので、版元は武士を繋ぎ留めておく。
大学で近代文学を専攻して、ある時に昭和10年代の文学をやることになり、私は石川淳(フランス文学)と言う人を担当しました。 そのなかに「江戸人の発想法について」という短いエッセイがありました。 読んでこんな人達がいたんだという衝撃を受けました。 いくつもの自分を持っているというのが普通の状態で、お互いに毎日を生きている。
現代の教育は暗記、覚える 、論理力、などが中心になり、科目が全部別れている。 江戸時代の場合は身体を動かすのが基本なので、読む前に筆を執って書く、書いて覚えてゆく。 子供のころからそれをやる。 読むときには声を出して読む。 声と一緒に覚えるとか、手で書いて覚えるとか、今の稽古とよく似ている。 武道も同じ。 修身、自分の感情がいろいろ出てきた時にどういう風に修めるのか、これが修身で道徳ではない。 これを出来るようになると、家のこと、国家の事も治められるようになるという事です。 丁稚奉公に行っても奉公先で計算の仕方、挨拶の仕方などの教育を受けるわけです。
「習破離」、習ってそれを破って、離れて自分のものにする。 茶の湯、踊りとかの稽古に通じるものがある。 違っていてもそれを良しとするが、今の教育は試験があり、同じ答えを覚えなければいけない。 AIは有ってもいいが使いこなすもの。 それには使いこなすそれぞれの能力が必要で、AIを相手にしたら知識量などは全然かなわない。 知識の量を問う様な教育はもう無理なんです。 個々の持っている思い出はAIは知らないです。 でも人間はそういったものを使うんです。 身体に沁み込んでいる記憶もAIは知らないです。 人間は総動員しながら使いこなしながら編集するんです。 頭の中に知識が溜まるという事と、身に付くという事は違うらしい。
連句、一人で作らないで皆でつくった方がいいんじゃないか。 連句の作法のなかに付き過ぎない、離れ過ぎないというものがあります。 付き過ぎると前の句と同じになってしまう。 隣の人と同じ人間になってしまうという事と同じ。 離れすぎると続かなくなってしまう。 どちらでもないというのが、本当の関りなんです。 人間関係とはそういうものなんだと、実体験として連句は学ぶ場なんですね。 今はかたまるか、排除するようになってきてしまっている。 人間関係を作り直すとしたら、江戸的な人間関係は最適なんです。
前の時代には前にあったもの(能、物語とか)を持ってきて編集し直す。 新しいものを生み出す要素なんです。 私たちの時代は江戸時代以前のものを捨ててしまったので、呼び返そうとか、こっちからもらおうと言った発想は全くなくなってしまった。 江戸時代の文化の作り方を私たちが使うためには、江戸時代研究がもっと必要だと思います。 江戸時代の物語は膨大に作られているが、物語分析はさほど行われていません。 稽古を教える立場の人は教えることを指南と言った 教えられる側の心の中に入ってゆく。 その人の持っている能力の手助けをする。 寄り添うだけで、余り踏み込まない。 そういった関わり方、そういう事がこれから必要になるんじゃないかと思います。