2017年4月10日月曜日

宇津木妙子(ソフトボール・ドリーム理事長) ・【“2020”に託すもの】

宇津木妙子(NPO法人ソフトボール・ドリーム理事長)・【“2020”に託すもの】
ソフトボールは日本が金メダルを取った2008年の北京オリンピックの後種目からはずれてロンドン、リオでは実施されませんでした。
しかし2020年の東京オリンピックでは野球とともに3大会ぶりに実施されることが決まっています。

2008年ソフトボールで金メダルを取った時には放送席が大変で、放送中ですがおめでとうを周りからの声がありました。
その時は大泣きしてしまいました。
1964年東京オリンピックの時、小学校5年生で、たまたま飯島選手から聖火を頂き、運動会の時に聖火をもってグラウンドを2周走って拍手を貰い、オリンピックと自分がラップしていて、何で私だったんだろうといまだに不思議に思いました。
その頃スポーツは好きでいろいろやっていました。
中学校に入ってスポーツで母に褒めてもらいたいと思って、いろんな部に入ったんですが最後にソフトボールをやるるようになりました。
入ったんですが、先生の指導が厳しかったが、その時のとの出会いは今の指導の中でも生きて居ます。
ソフトボールはそれぞれの個性の良さを出せると先生から言われたことは、誰にでもできる手ごろなスポーツだと思います。

ソフトボールは人生そのものだなあと思います。
ピンチがあり、チャンスがあり、苦しい時に逃げたいと思った時に誰か助けてくれたり、でも最後は自分なんだと、自分でミスしたことを取り消すには自分が頑張らなければいけないと学びました。
ソフトボールは一人ではない、だけれども最後は自分なんだと云う事を学びました。
挨拶、時間厳守など当り前な人間教育をさせてもらったと思います。
高校、企業スポーツでもソフトボールを続けました。(13年間)
オイルショックで会社が厳しい中で続けることも有難さ感謝を学びました。
雑用、トイレ掃除などもやらされてコンプレックスも感じたし、3年頑張って人事異動があり寮生と向き合って人をどうやって生かしたら良いかを学びました。

28歳のときにジュニアのコーチをさせていただいて、埼玉に戻った後コーチをしていたら、昭和60年に監督が決まるまででいいから来てくれと言われて行って、12名の選手のいるチームに行きました。
コーチを引きうけ、31歳でバリバリだったので、先頭切って一緒にやりました。
年末に工場長に呼ばれて監督をやってほしいと言われました。
父からはお前が背中を見せてやっていかなければいけないといわれました。
企業スポーツの経験してきた厳しさについても、父にもいろいろ話したら父も泣きました。
女性は公平に扱わないといけないとか、一人ひとりその中から活かして行く事などいろいろ話す中で、やってゆくことを約束しました。
指導者になったら素の自分をさらけだそうと思って、父の涙から学びました。
チームは3部から上がっていって、日本の3冠をとってしまうまでになりました。

アトランタでソフトボ-ルはオリンピックの正式種目になってその時はコーチとして参加、2000年シドニーでは銀メダルを取ったがその時は監督として、2004年のアテネでは銅メダル、2008年は解説者としてオリンピックに行きました。
アトランタは最強のチームだと思いましたが、船頭が5人いて、組織も悪かったのか選手をうまく使いこなせなかったのが一つの敗因にもなったし、経験不足もあったと思います。
これからは守って守って守り抜いたら勝てるのではないかと思いました。
22名の選手を選んで、各々の性格なども考えたりして、向き合って話し合って指導して行きました。
厳しい練習にみんなよく付いてきました。
2000年シドニーでは銀メダルでした。
決勝では同点となり、投手交代を考えたが出来ず、雨の中で戦う中、アメリカのチームは8回の裏、審判が今までストライクを取っていたのが段々ストライクを取ってくれなくなったとキャッチャーが言ってきて、高山のうえのボールでいいから攻めろと言って、高めのボールをレフトに打たれて、レフトが滑って終わりました。

2008年にも雨が降ってきて、その時の場面は一生忘れられないと思いました。
2000年シドニーでピッチャー交代していれば金メダルは取れたと思っていたので、選手に申し訳ないと今でもいっぱいです。
アメリカは強かったです。
2008年には金メダルを取る。
上野投手の413球の熱闘、上野だったら絶対やってくれると思って、夢を彼女に託しました。
次からオリンピックから外れることになる。
普及しか無いと思って、最初ヨーロッパ ロンドンに行って、グラウンド、道具も何とかしないと思ったが、西アフリカに行った時はもっと厳しく草ぼうぼうのグラウンドで、時間はルーズ、何やっていいかわからないような人達で、グラウンド作りから始めて、指導者に指導して、翌年は道具を持って行って子供たちにも指導をしましたが、普及はなかなか難しいと感じました。
身体能力はよかったのでちょっと教えると早かったので、やって観て面白かった。

2011年 リオでのソフトボールの参加の可能性があったが駄目でショックでした。
同年 NPOを立ち上げる。
大震災の時だったのでどうしようか迷ったが、①復興支援、②オリンピック復活、③社会貢献、この三つを柱に書類を出して認可していただきました。
52年間ソフトボールで走ってきたので、ソフトのおかげで今の自分がいるし、いい選手と出会えたし、いい指導者先輩に出会ったし、恩返しをしていこうとしました。
福島、岩手に行ったりして自分の出来ることをやって行きたいと思っています。
2020年、野球、ソフトも勝たなければいけないという使命があり、結果をださなければいけないし、普及もしていかなければいけないと思います。
ソフトボールは人生みたいな感じがするので、世界中の子どもたちに伝えたいと思います。
そのあと続いて行くにはいい試合をしてほしいと思います。
ソフトボールは全部つなぎです、応援も含め和を広げて行くスポーツだと思います。