2025年8月31日日曜日

涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

 涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

涌井さんは1931年生まれの94歳、静岡県藤枝市出身。  激動の戦中戦後、夢であった教師への道を諦め静岡鉄道に勤務、その後東京都中野区で新聞記者をされていた涌井啓権(ひろのり)さんと結婚され1974年に夫婦で地域に寄り添った新聞「週刊東京」を創刊します。  しかし創刊からわずか7年で夫の啓権さんが亡くなりました。  …?が全くないなか、夫の遺志を継ぎ4人の子供を育てながら、たった一人で続けてきた「週刊東京」は去年創刊50年を迎えました。  激動の時代を生き抜いてきた涌井さんの歩みと新聞記者としての思いを伺いました。 

元気で50年を迎えられたという事はありがたいです。  東京都中野区を中心に新聞をだしています。  中野区は独りで回るのには面積がちょうどいいです。  発行部数は2000部ぐらいです。  10日と25日付の2回です。  もう1342号になります。  考えの古い家に育って、約束したらやらなければいけない、嘘をついてはいけない、そういことが基本にあります。  新聞のことは全然知らない素人ですが、皆さんに助けられて続けてきました。  

子供の頃は父の集めた文庫本などを読みました。  子供の頃に親の発した言葉と言いうのは子供にとっては凄く大事なものだと思います。  成長してから感じます。 5人兄弟の下から2番目です。  母、叔母たちが教員をやっていて、姉二人兄も教員で自分でも教員になりたいと思いました。   学校の2年の時が終戦で、家庭の事情もあり教員にはなれなれず悔しい思いをしました。  教育体制が633に変る狭間で、代用教員になったものの2年過ぎて「もう来なくてもいいよ。」と言われてしまいました。  卒業証書を出した学校と出さなかった学校で教員になる道が分かれて仕舞いました。 

終戦の翌年、母が急性リウマチになってしまって、トイレも行けずご飯も食べられないので介護と、炊事洗濯、お風呂から全部しなければいけなくなりました。  母を見送って今度は父が倒れ父の看病をしました。  私が静岡鉄道に勤めることが決まってから父は亡くなりました。(20歳で就職)  務めるようになってそれまでとは180度変わった世界で青春を謳歌しました。  中野区に短歌会がありそこに通っていたら、或るローカル誌に社長から声を掛けられて、自分の部下に引き合わせる作戦で啓権さんと出会いました。  結婚式だけはしましたが、お金がありませんでした。  集金で中野区内を回ってお店の方とかから親切にしてもらいました。  集金していた当時は子供が二人いて何とか保育園に頼み込んで対応しました。   もう会社に来なくてもいいと言われて、主人と二人で「週刊東京」を立ち上げることになりました。  記事を書くことになり、主人が校正をしたりしていました。(ベッドで)  

創刊たちあげた7年後に夫が亡くなりました。(私は50歳でした。)  その時子供は全員女の子4人でした。(一番下が小学校上がったばっかり)   市役所の広報の方から書き方とか本当に真実のことを書く様に言われました。  作家の水上寛裕(ひろやす)さん植田康夫さんからもいろいろ教わったり、ただで書いてもらったりもしました。  二人とも大宅荘一の弟子です。  大宅壮一の「マスコミ塾」にも通いました。  今は娘も助けてくれています。 大腿部を骨折してからは自転車には乗らないで歩いていきます。  本当に平和という事は有難い事です。  中野区では意見を出し合って、より住みよいところにしていただきたいなあと思います。










2025年8月30日土曜日

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

日本ラグビーの最高峰 、ジャパンラグビーリーグワンは東芝ブレイブルーパス東京 が2年連続の優勝を飾りました。  この東芝ブレイブルーパス東京 のGMとしてチームの編成を任された薫田真広さんはその手腕が評価され、8月1日付でチームの社長に就任し、更にGMを兼務することになりました。 薫田さんは1966年岐阜県生まれで、岐阜工業高校からラグビーを始め筑波大学に進学し、大学時代に日本代表に選ばれました。  卒業後は社会人の東芝府中に入社、1996年からの日本選手権3連覇に貢献しました。  日本代表ではワールドカップに3大会連続で出場し、95年の南アフリカ大会ではキャプテンを務めました。 ポジションはフォワードのフッカーで日本代表キャップは44で、その後東芝の監督に就任し、日本選手権優勝を始め、トップリーグ3連覇を成し遂げました。  日本代表でもアシスタントコーチや日本協会の強化委員長などを務めました。  今回クラブチームの社長に就任した薫田さんにリーグ2連覇を達成した要因や今後のビジョン、2年後にワールドカップを控えた日本代表の現状などについて伺いました。

トップリーグから、2022年からリーグワンに替わってこれまで4シーズンですが、2連覇したチームは今回が初めてです。  激戦の多いリーグになりました。  圧倒的なアタック力で勝ってゆくを目指しました。  世界の一流プレーヤーがにほんのクラブチームに集まるようになったのは、2019年のワールドカップが大きいと思います。  彼らは家族を大事にする文化なので、家族に対する安心感が彼らが日本に来る一つの要因になっていると思います。  GMはスタッフ、選手のチーム編成を主に、1シーズンを通したプランニング、マネージメントをしてゆきます。  8月1日付でチームの社長に就任しました。 事業と強化をしっかり廻してゆく責任を感じています。  今のラグビーの環境に適した戦略は立てられると思ってい居るので、周りの方と連携を取ってやっていきたいと思っています。

試合前は無骨さを出す、試合が終わったら選手が笑顔を見せながらファンサービスをするという、紳士さを見せようというコンセプトでやっています。  共感を頂いてています。  今は試合が終わっても30分ぐらいは帰らずに、スタンドに立って選手たちに声援を送っています。  うちだけは観客動員数が増えています。  開幕戦を4万人でという風に計画しています。(今迄決勝にみ達成)  

クラブが大事にしているのは真面目な選手を取って行って、人を育てるという事です。  「猛勇浪士」をチームコンセプトにしています。  そしてチームつくりには変化が必要です。   相手の分析を如何にうわ回れるかという事が非常に大事です。 

筑波大学に進学しましたが、フッカー(スクラムで中心を務める選手)に変更したのは高校の日本代表の強化合宿に行っている時に監督から言われました。  大学卒業後は東芝府中を選びました。  理由は日本一になっていないチームで日本一になりたかった。 1992年度、1994年度に全国社会人大会で準優勝、1996年から日本選手権3連覇に貢献。  東芝のDNAは派手ではなく無骨にラグビーを真面目にする、 と言ったものです。 

1991年のワールドカップではアフリカのジンバブエに52-8で勝って、ワールドカップ初勝利。  ジンバブエはどんなプレイをするのか判らなかったので、下見に行きましたが。当時エイズが流行っていて恐怖心を抱きまいた。 帰国した時にも全員エイズ検査をしました。(命がけの戦いでした。)  第3回ワールドカップ南アフリカ大会予選プールで、3戦全敗でニュージーランドに17-145という大差で負ける。 (キャプテンを務める) アタックがどの程度通用するのかと言ったところにフォーカスしました。  戦った結果がどう影響するのかという事を理解していませんでした。  負の遺産を残したショックが大きかった。           1999年の第4回ワールドカップ、予選プールで3連敗。(選手としては最後の大会。)  日本ラグビーが大きく発展する大会でした。  チーム力が上がってきている段階でした。 

33歳で引退しました。  2002年に東芝の監督に就任。(2年間の準備期間はあった。) トップリーグ3連覇など多くのタイトルを獲得。  相手が倒しにくるところを如何に立ち続ける為のスキルとフィジカルをあげるかと言う練習を徹底的にやりました。  選手がいつ伸びるのか、心技体の前に知力(いかにベンチワークが出来るかなど)については伸びしろがあるなと思っています。  そういった選手を如何に育てるかという事をやっていました。

1995年のワールドカップがオープン化、プロ化して海外のラグビーが変ってゆく時代でしたので、日本人の情報量ではこの先の日本ラグビー、日本代表は結果を残すという事がしんどいだろうとは思っていました。  最近では日本代表のヘッドコーチは外国人の人が多く務めています。  日本人でもできる指導者がここ最近出て来ていますので、日本人が担当するという事にチャレンジしてもらいたいと思います。  2027年のワールドカップにはしっかり結果を出してもらいたいと思います。  2019年のワールドカップでは決勝ラウンドで戦う余力が残っていなかった。  選手の層の厚さ、総合力の差がこの決勝ラウンドに出たと思います。まず層を厚くしなければいけない。  現在世界ランキング14位。  結果をあげて行かないと予選プールが難しくなる。  東芝ブレイブルーパス東京については3連覇に向けてしっかり準備してゆく事だと思います。  戦力が均衡化してきているのでハードルは上がっています。








2025年8月29日金曜日

2025年8月27日水曜日

永田晶彦(園芸文化協会 副会長)      ・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

 永田晶彦(園芸文化協会 副会長)・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

愛知県の花市場の理事長をしている永田さん、花の流通だけでなく地元から海外まで広く日本の花文化を広めたいと活動しています。  特に中国とのつながりが強くて44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり中国に行って花関係者とも交流し、日本の植物は中国から渡ってきた薬草を元に品種改良を重ねた結果であり、日本は世界に誇れる花文化立国だと実感しているそうです。

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長と言う立場になりました。  花自体が時代と共に変わっていきます。  花市場に役に立つことをしていったら段々手が広がって来ました。  日本の花文化は日本人にとっての生まれながらの資産と言うふうに思えてきました。  或る程度知識が固まってきたのが45歳ぐらいからです。  先代の理事長がある程度集めたものを段々増やしていって、植物園にしました。  最初は古典菊、カキツバタなどを中心に種を増やしていって、ツバキ、シャクヤク、ボタン、モミジなど日本伝統の植物を増やしていきました。  素人なのでいろいろなところへいって植物の基本から教えてもらいました。  今は2000種類ぐらい栽培しています。  ほとんど伝統園芸です。  椿は250種類ありますが、250株だけです。  

日本の植物、特に花は元々は中国から薬草として伝わったものが多いです。  本草書が文化として伝わって来る。 奈良時代の初期頃。  種とか薬とかから始まります。  代表的なのが朝顔とかです。 (芍薬、牡丹もそうだったと思います。)  朝顔は江戸時代に大ブレークします。  旧暦の9月9日に咲いた菊についた露を飲むと長寿になると言った言い伝えがあり、文化とともに伝わって来て、日本でも菊を栽培するようになりました。  菊が伝ったのは奈良時代の中ごろから終り頃です。  後鳥羽上皇が皇室の御紋にまでして、菊は日本の代表の花という事になりました。  栽培技術、新しい品種を作るという流れは日本の方が発展していきました。 (江戸期以降昭和)  日本はかなり優れています。  中国は菊で作った建築物の様なものに趣きを置いています。(規模が凄い) 

きんもくせいは香りのする花の代表の一つですが、中国から渡ってきています。  しかし、日本のきんもくせいほどは香らない。  日本ではどんどん香るものに集中していったと思います。(品種改良)  芙蓉は中国の四川省が発祥と言われています。  中国からすると芙蓉は木に見えるらしい。

44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり喋れるようになりました。   中国ではシュウカイドウは、清の時代悲劇の象徴のような花です。  雄花と雌花がありますが、雄花が先に落ちてしまいます。  残された雌花、と言ったところから小説が出来ました。    ホウセンカは周り花が咲き終わった頃に、耐え抜いたうえで花が咲く。  これに対して著名人が色々な詩を書いています。  毛沢東もホウセンカが好きだという事で書いています。(中国ではあまり知られていない。)   中国語を始めて20年になります。  2009年に中国で中国語で講演をしました。(当時は丸読みだったが。)   日本の花の文化のことを話します。  好意的に捉えてくれるのが圧倒的に多いです。  

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長になって時間が出来て、日本の花の文化にも興味を持ち、中国語も勉強したり、一気にいろいろ始めました。  お茶の作法なども勉強しました。  万葉集、百人一首だとかから花の部分を理解していきました。  かつては花と日常が一つになっている文化ってありましたよね。(今は余り無い)   モミジは日本にしかないです。  花は日本人の生活の中に沁み込んでいて、そのレベルが高いです。 日本は花の多様性が発達する土壌があったんです。  日本の伝統文化、(文学、芸能、能、雅楽など)、はどれをとっても世界に通用するものばかりです。 だから日本で生まれている植物は世界最高峰に達する何かを持っているんです。  日本の花の文化レベルの高さを皆さんにお伝えしていきたいです。










2025年8月26日火曜日

木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

 木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

木村さんは81歳、1歳の時に広島市内で被爆しました。 それまで木村さんはさんは人前では被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。 81歳を越えてから証言を始めました。   木村さんの証言のベースとなったのは、父や母が残した手記でした。  木村さんが被爆体験を語り出したのは何故なのか、被爆体験を伝えてゆく意味合いは、伺いました。

1歳9か月で被爆しましたが、ほとんど覚えていません。  父が昭和46年に広島の戦災史と言うものに手記を出して、その後話をしてくれたのでそのころから、被爆の意識を知るようになりました。  父は軍人で経理課長として勤めていました。 母は弟を生んで、8日は縁側であせもの薬を塗っていました。  3つうえの姉がいました。  その後父は病院の立ち上げに携わっていたと言っていました。  公職追放令があったので、父は母の実家の方に行って農業をやっていたと言います。  その後警察予備隊の募集があり、そちらでずっと勤務していました。  最後は陸上自衛隊の経理学校の校長を務めて終わりました。

私は東京の電気の学校に行きました。  電気関係の会社に就職したのちに、30歳の時に羽村にある自動車会社に就職をしました。 ラインの整備点検の業務をしていました。 父の手記とか母は被爆の会の証言集などを書いていたので、それらから被爆のことを知るようになりました。  母からは被爆の話を聞くことが出来ました。  私は剣道を教えていて講話で被爆のことを少しは話をしていました。  

私が80歳になった頃、東友会と言う東京の原爆被害者協議会に所属していましたが、高齢化して話をできる方が少なくなってきました。  危機感を感じて自分で話せることだったら話をして、核兵器禁止を訴えていかなければいけないと思いました。  父母の手記がまずベースになりました。  姉からも聞くようにしました。  私なりに組み立てていきました。  

母は縁側で生まれて8日目の弟にあせもを塗っていて、閃光が走ったので驚いて隣の部屋に飛び込んだそうです。  元の場所に戻るとガラスの破片で一杯だったと言っています。 姉は庭の片隅で血を流して(耳の後ろを切って)佇んでいたそうです。 私と姉は飛ばされた様ですが、私は無事だったようです。  避難しようと山の方に出たらしいんですが、途中では山から下りてきた人に出会って、皮膚がぼろきれのように下がっていたそうです。  着く頃には大粒の雨が降ってきて慌てて防空壕に避難したそうです。  黒い雨で放射線をたくさん含んだ雨だったようです。  黒い雨を浴びた方は病魔に襲われて沢山亡くなったと聞いています。母は父がけがをしたという事が頭に浮かんで、それが現実だったという事でした。 (母の手記を中心に姉からの情報を含めた内容)

父が被爆した日は、朝に自転車で市役所に行く中途で、よく晴れた空にB29が飛んでくるのが見えたそうです。  B29から光るものが落下したというので、伏せたとたんに閃光と爆風に襲われたと言っています。  自分の上には一杯瓦礫がかぶさていたそうで、それをどけておき上がったら頭から一杯血が出ていたそうです。  持っていた風呂敷で止血をして、軍の自転車なので捨ててゆくわけにはいかないので、担いで避難所の方に向かったらしいです。知っている軍医がいたので治療をしてもらおうかと思ったが、怪我をした人が沢山集まってきていて、自分が頼めるような状態ではなかったそうです。  

諦めて宇品の部隊に向かったそうです。  完全にではないが消毒をしてもらって縫ってもらったそうです。  昼頃には宇品の部隊に被爆した人がどんどん集まって来て総出で対応したそうです。  家の状況を見に一旦帰った部下の人たちが語るには、悲惨な状況を語る人が沢山いたそうです。  父も家に帰ることになったのですが、宇品から宮島に船で渡ったそうですが、市内は凄く燃えていて大変な状態になっていたという事でした。  下船してから救援のトラックと何台かすれ違ったらしいですが、亡くなったかは放り投げてゆき、負傷して歩いている方を乗せていくと言う様な状態だったと言っています。  自宅に戻ったら半壊の状態で誰もいなかったという事で、防空壕に向かったら母や私たちが無事だという事で、ホッとして虚脱状態になって、茣蓙のところに横になったと言っていました。  8日に部隊から迎えがあって行ったそうです。     部隊で治療を受ける人たちも食事はとれず水で2,3日過ごしたそうです。(父の手記を元にした内容)

父は67歳でなくなりました。  白血病の一種が発症したようです。  ノーベル平和賞については、私自身もよかったと思います。  妻と一緒に孫と被爆したところを見て回りました。  核兵器を廃絶するためには、我々が被爆証言をしっかりやって、世界の方々にも聞いてもらって、被爆資料館を観てもらえるように、そういう証言をしていきたい。 








2025年8月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 水木しげる~没後10年~

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 水木しげる~没後10年~

 水木しげるさんは鳥取県境港で育ち、21歳の時に太平洋戦争の激戦地のラバウルで左腕は失いますが、九死に一生を得て生還します。  戦後紙芝居作家を経て漫画家となり43歳で少年雑誌に登場すると一躍大人気作家となりました。 その後数多くの名作を発表し、2015年93歳で亡くなりました。 

「家の二階には英語の原書を読む以外何一つしないで生涯を過ごした親類の叔父さんがいた。  彼と親父は大いに意気投合して金持ちの親類を前にしては金儲けがいかに愚劣かを、説くことを喜びとしていた。」  水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

水木さんは大正11年の生まれ。 江戸時代は廻船問屋をやっていてお金持ちだったらしい。 明治以降の鉄道が発達して大きな家は人手に渡ってしまった。  水木さんは働いているお父さんを見た事がないといっていました。  金儲けする人が多い中で、金儲けがいかに愚劣か、と言うような人がいると、どちらの価値観も絶対ではないという事に気付くわけです。 子供のころは周囲にいろいろな価値観が乱立している方が、いいと思います。 

「今は随分つまらない。  おかしな大人を面白がる余地がうんと狭くなっている。」と書いています。  

「私は小さいころから兎に角寝る事と食べることが大好きでした。 それも普通ではないくらい好きだった。 兄や弟は朝寝坊すると朝ご飯を食べずに学校に行く。 私はどんなに時間がなくても朝ご飯はゆっくりと食べる。  お陰で小学校の時には毎日2時間目からの登校でした。  もちろん先生には叱られましたが、肝が太かったせいか全然平気でした。」水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

戦場で病気してけがをしても、現地の人からもらった果物、食べ物で回復している。  食べる人間が生き延びるという事は本当なんだなと思います。

「小学校の成績は極めて悪く、上の学校は受ける事さえ教師が禁じた。」

高等小学校を卒業すると就職することになる。  いろいろのところに就職するが対応できずに辞めさせられる。  新ためて学校に受験するが、50人募集のところに志願者が51人で、水木さんだけが不合格となる。  面接で猫のくそをお菓子と間違えて食べたことがあるという話をしたと言いう事です。  社会に収まらない人は貴重です。 

「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」 水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

昭和18年、21歳の時に召集令状が来る。  水木さんは子供の頃は軍人に憧れていたようです。 

「強くて勇敢なものが好きで、だから軍にもあこがれていた。」 (自伝)

「戦争は鉄砲を撃ち合うものだと思っている人だと思っている人はあるが、それまでの日常生活というものはとってもつらい。  わずかの米と塩と汁で365日過ごし、たまにかぼちゃの芽が入ったりするが、それで働くのは人の3人前、一時間の休みもない。  その上に毎日殴られる。  何で殴られるのか質問すると、半殺しの目に遭う。

「戦争はあんた死ぬような目にどころじゃない、みんな死ぬんですわ。」(インタビュー)

ラバウルに向かうがその船はいつ沈んでもおかしくないようなボロボロな船で、触ると金具がポロっと落ちるというんです。 (日露戦争の時の船)  この船以降の船は皆撃沈されている。  この船も帰りには沈められている。  ラバウルについて決死隊に選ばれる。  或る時敵を見る役になり、思いがけない方向から敵がやってきて銃撃を受け、みんな死んでしまう。 水木さんは寝ずの番をやっていたので助かった。  渦巻く海に飛び込んだが、後ろから機関銃の射撃があった。 海から這い上がってようやく味方のところにたどり着いたら、先ほどの言葉を言われた。  

「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」  愕然とする。

次はマラリアに罹って42℃の高熱を出す。 爆弾が落ちて左手を大けがをして大出血をする。 その血を止めるために翌日左手を切り落とすことになる。  

手術をした後はウジ虫が湧いて大変だった。  死にかけるが現地の人から食べ物を貰って食べて回復してゆく。  暫く経つと腕の傷跡から赤ん坊の匂いがしてきた。  なんだか生命が沸き上がって来る匂いだった。  

「兵隊がどれだけ内地に帰りたいかという事は、それこそ筆舌には尽くしがたい事だ。  それは体験したものでないと判らぬとしか言いようがない。」  水木しげる( 水木しげる伝から)

「何度も自問自答を繰り返し、自分は生きて帰ったんだ事を確認してみた。 なんというか悟りを開いた高僧の気持ちと言うのか、生きていると言うただそれだけのことがめちゃくちゃに嬉しかった。」

「軍隊でない世界っていいものだなあ。」 

戦後の世界でいろいろな職業に就いて働くがなかなかうまくいかない。 生きて戻ってきたが生活が苦しくて自殺した人が結構いた。  PTSD((Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”といいます。)が大きかったのかもしれない。

「兎に角長年の貧乏は、あの半死半生の目に遭った戦争よりも苦しいほどで。」 水木しげる(「寝ぼけ人生」の中の言葉)

「紙芝居から貸本漫画と十数年飲まず食わずの生き地獄が続いた様な気がする。」 水木しげる

「こんなに働いてどうして貧乏なんだろうと情けないよりも不思議さが先に立つくらいだった。」 水木しげる

「税務署員がやってきた。 何事かと思えば、申告所得が余りにも少ないが、ごまかしがあるのではないか、と言うわけ。 だって現に所得がないんです。 ないんですといったって、生きている以上は食べてるでしょう。  これじゃあ食べていける所得じゃあありませんが、と食い下がる。 我々の生活が貴様らにわかるか。  僕が怒りと絶望とでかなり迫力のある声をあげると、その後税務署からは何も言ってこなくなった。」 水木しげる

「全く金のない人間には世の中は無情なもので、何一ついいことがない。  兎に角この貧乏を克服しなければ笑い声一つ上げられない。」 水木しげる

「貸本漫画がだめになりかけた頃、僕は40歳を過ぎていた。 もう僕も漫画家として陽の当たる存在になることは出来ないだろう。 そう思っていた。  雑誌など陽の当たる場所に40歳を過ぎた漫画家が登場した例などなかったからである。」 水木しげる

「そんな時永井勝一?夫妻がおかきを持って現れた。 ・・・今度ね ガロという本を出すんだ。  原稿料は1ページ500円出すよ。 」水木しげる

ガロが転機になる。  売れっ子になって忙しすぎる。

「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」水木しげる(水木しげるさんの幸福論)

「栄光や対価などに求めず、大好きなことに熱中する、それ自体が喜びであり、幸せなんです。  水木さんの場合は漫画を描くことだった。  その行為が金銭的に報われる方がいいに決まているが、結果の良しあしには運が付きまとう。」水木しげる

「好きだからといて成功するわけではない。  いくら情熱を傾けて努力をしても、報われない人はたくさんいます。 努力は人を裏切るという事も言っておくことです。  好きなことに情熱を傾けている間はきっと幸せな空気が漂っているものです。」 水木しげる

「世の中には人間の五感では捕まえられないものがいる。  世の中には見える世界のほかに見えない世界が広大無辺に広がっているのです。  そこには目に見えないものが沢山いる。  かつて妖怪が盛んに活動していた昔は現代にはない充実感のようなものが山野に満ち溢れていたようなのです。 その存在感が薄れると共に、どうも人間はつまらなくなったようです。」水木しげる

















2025年8月23日土曜日

川口和久(野球解説者)          ・人にできることは自分にもできる

川口和久(野球解説者)          ・人にできることは自分にもできる

 川口さんは1959年鳥取市の生まれ。 野球は子供の頃から始めました。  高校は鳥取城北高校へ進学、エースとし県大会の決勝にまでチームを導きますが、甲子園にはとどきませんでした。 社会人野球を経て、1980年プロ野球広島に、左のエースとして3回にリーグ優勝に貢献、1994年のオフにFA権を行使して巨人に、現役引退後は巨人のコーチとしても活躍しました。 4年前に鳥取にUターンして野球解説者として、もう一つある事にも取り組んでいます。

野球の解説をしながら農業をやっています。  鳥取で18年間勉強しないで遊んでばかりいました。  テレビの長嶋さんの姿がかっこいいと思ったのと兄二人が野球をやっていて、野球をやってみようと思いました。  小中高校と野球をやってきました。 高校は鳥取城北高校でした。 高校3年生の時に金田正一監督からロッテに来い、契約金は3500万円俺の背番号「34」もやると言われました。 しかし断りました。 高校卒業して1軍で活躍する人は少なかった。 デュプロに入社野球がやりたかったら仕事をしろと社長から言われました。  野球をやりたかったが営業の仕事でした。  3年目に友人の伝手で、広島への話があり、1980年のドラフト会議原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受ける。  契約金3500万円でサインした。

古葉監督から左ピッチャーのエースになって欲しいと言われました。  エースとしては北別府さんがいて、針の穴をも通すコントロールと言われていて、僕はノーコンの川口と言われていました。  奪三振王を3回取っています。  ファールでカウントを稼いで一球決めて三振を取るタイプでした。  カープ14年目に妻の父親がすい臓がんになってしまって、シーズン始まる前に他界しました。  FAを宣言した時に、妻から「長嶋さんと言う人から電話よ。」と言われました。(小さいころから長嶋さんの大フアンでした。)  急遽長嶋さんと会って、巨人に入団することになりました。 (35歳)  長嶋さんのそばにいると元気になります。  

1996年のメイクドラマ、11,5ゲーム差をひっくり返して優勝しました。 突っ走っていたのは広島カープでした。  札幌丸山球場の試合の時に、僕は2軍でしたが急遽呼ばれてリリーフ専門になりました。  そのゲームに勝利しました。  そこから潮目が変わりました。  「みんな、人生もそうだけど野球は何が起きるかわからないから、兎に角一勝一勝勝って行こう。」と長嶋さんが言いました。  9月には0.5ゲーム差にまでなりました。 10月6日長嶋さんが投手陣を呼んで、「兎に角今日は勝たなければいけない。 先発、リリーフはそれぞれぞれがしっかり投げて、川口お前が抑えるんだ。」と言われて、嬉しかったです。 試合もその通りに運んで、9回マウンドに立った時には心臓の音が聞こえるんです。 (初めての経験) 立浪選手を三振に取って勝ちました。  その後巨人でコーチを4年間やらせてもらいました。

2011年広島でオープン戦をやっていました。  原監督から「川口、テレビ見て来いよ。」と言われてテレビを見たら、仙台に津波が押し寄せている映像が映っていました。 その年は3位でした。  2012年優勝できました。 それから3連敗しました。  責任を取らなければいけないので「僕辞めます。」と言ったら、原監督から「そうか」と言われました。(もっと何とか言ってほしかった。) 

コロナの時には鳥取に戻り、鳥取を知ることになりました。  野菜は美味しい、米は旨い、肉は旨い、鳥取はいいところだと思いました。  米を作り始めて1年目が2反3畝、2年目が5反、3年目が6反、今年1町です。  来年は2町歩やろうと思っています。 新しいことをやると人間若返る、それは追及するから。  都会はストレスが溜まるが、田舎はストレスは溜まらない。