2024年2月20日火曜日

天童荒太(作家)             ・ジェンダーギャップをミステリーで問う

天童荒太(作家)             ・ジェンダーギャップをミステリーで問う 

天童さんは1960年(昭和35年)愛媛県生まれ。 2000年に永遠の仔第53回日本推理作家協会賞、2009年に悼む人第140回直木賞受賞を受賞しています。 児童虐待を主題にした永遠の仔』はベストセラーになりましたが、その執筆当時から天童さんが考え続けていたテーマがありました。 四半世紀を経てそれをミステリーにしたのが、最新作の「ジェンダー・クライム」です。 ジェンダー・クライムとは何か、そして天童さんは何故人の痛みや傷を書き続けるのか伺います。

「ジェンダー・クライム」の主人公は鞍岡直生警部補、所属は八王子南署です。 本庁にの捜査一課から訳があって移動してきた。 妻と中学生の娘、小学生の息子がいます。 もう一人の警部補と殺人事件にあたってゆく。 性にまつわる犯罪がルビーがタイトルになっている。(「ジェンダー・クライム」) 言葉には力がありセクシャルハラスメントと言う言葉もそれが生まれる前から女性は厭な思いに会って来たのに、言葉がないがゆえに我慢を強いられてきた部分もあったが、それは犯罪に近いような事なんだと言葉が広がると同時に、人々の意識の中に広がってゆくことによって多くの女性たちが声を上げることが出来たり、救われたりすることが出来たと思うので、「ヘイト・クライム」と言う言葉が生まれて、人種、国家などの差別的な言動をして相手を攻撃する。 

言葉が有ることによって認識されて行って、社会が変わってきた部分があると思います。 ジェンダーと言う男女の性差、性的な差別だったり、することによって生じる犯罪、犯罪まがいのこと、嫌がらせ、それは犯罪なんだという事に認識が広まれば、加害行為が減ってゆく、あるいは被害に遭う方が救われるのではないかと言う願いを込めて、そういう言葉を使ってみようかと思いました。 ジェンダー・クライム」と言う言葉が広がって行けばいいなあと思います。   力の弱い、立場の弱い人に対して、押し付ける、自分のために利用する事が現実に日々どこかで起きている。 それはクライムだとはっきり言った方がいいのではないかと思います。 

小説の中では最初に裸の男性が縛られた状態で遺棄されている。 捜査の段階でレイプという事は排除されている。 永遠の仔』を25年前に刊行しますが、児童虐待を受けた男の子2人と女の子1人が成人した後も、虐待されたことを引きずってしまう話ですが、虐待事案を調べて行くうちに、その根っこにあるものはジェンダー問題なのではないかなと思いました。 でもその頃はジェンダーと言う言葉が有ったのかもしれないが一般的ではなかった。 性の役割文化という事が日本では古くからあって、ゆるぎない正しい文化の様に刷り込まれてきた。 支配してもいいというように男たちに思わせてしまうような文化だった。それを25年前に気付いたんですが、虐待は一般の人には認知が低くて、その後大きくなって、トラウマになってゆくことはほとんど無関心だった。 

小説のなかで「御主人」という言葉に対するやり取りがあります。 女性は女性としての人生があって、たまたま一緒に生活している、リスペクトがないとこの社会は男女が共に歩いてゆく社会になって行かない。 まず家庭のなかで無意識に性差別が起きている。 気付きが必要だと思います。 鞍岡と言う主人公を通して、なんか今社会はおかしいんじゃないか、でも何でそうなんだという事を自然と考えてゆく中で、彼がある一つの事件に対して、或る女性がこんなにひどい目に遭っているが、これは我々の罪ではないか、と言う風に気付く、そこが大事な部分ですし、書いてゆく中で自分でも気付いたことなんです。 鞍岡が罪を隠ぺいした刑事部長と向き合って、「これは我々の罪ですよ。」と言う風に書けたのは、物語が力を持っていて、作家である自分も生きることによって、はじめてポンとあの言葉が出てきたんです。 何故自分はこの物語を書こうと思ったのか、それはあの一つのセリフを書くためだったのではないかと思うほどに意識が持てました。

物語には型があって、その型は本当に少ないんです。 或る主人公が苦難を乗り越えて、敵とぶつかる。 その敵に負けるがその仲間たちに助けられて、もう一回ぶつかってその敵に勝つというのが物語の典型なんです。 恋愛ものも含めて、そのアレンジであってそんなにあるわけではない。   物語の型の中にこのジェンダーをどう扱うか、と言うところに凄くスコーンとはまって廻り始めたんです。  中年の裸の男性が殺されて、解剖で首を絞めっれて殺されたのは判るが、それで終わっていたものを志波と言う警部補が、レイプされたかどうかを問うわけです。 そこにジェンダーバイアスがある。 

若い母親が子供を置き去りにして遊びに行っている間に、飢えて死んだとか、火事にあって死んだとかありますが、若い母親をマスコミは凄く攻めるが、その子は辛い子育てをやってきた。 辛くて切れた悪い瞬間があった時に、死なせてしまったりする。 母親を責めるが何故父親のことを言わないのか。 シングルだったら産ませた男親がいる。 本当に育児放棄をしたのは誰なんだという事をこの社会、マスコミは見逃している。 このまま次の世代に渡していくのか、少しでも良くして生きやすい社会にして渡してゆくべきなんじゃないのかと、考えたことが物語に落とし込めて行きました。 

人の痛みや傷を書き続けてきましたが、ある時期書くのが辛かったです。 暗い海の底に沈んでいかないと本当の希望は見つけてこられないという感覚が何故かあって、辛い思いをしている人、悲しい思いをしている人は、人の見えないところでうずくまって居たり、自分から隠れようとして居たりする人たちなので、その人たちの真実を掬い取って、その人たちへの希望とか、暖かさへ、物語でどう見つけてゆくかという事は、やはり底まで沈んでいかないと見つけられないと思っています。 それを思ったのは永遠の仔』からなんです。   

虐待を外側から見ていると少しも判らない。  傷ついた人の履歴を書いて、その人に本当になりきるような時間を作って、3年間の間虐待されたと思って、その人の自分は汚い、臭いと言ったような感情を書き続けて、そこからようやく物語になるという形にして届けたのが永遠の仔』です。 それに対して5000通ぐらいの手紙、葉書が来ました。 多くの方が虐待を経験していました。 「ありがとう。」と書かれていて感動しました。  

その人たちの痛み、傷が全部自分の中に入ってきたんで、受け入れてしまったので、倒れて起きられなくなってしばらく寝込んでいました。 その人たちのために書こうと、回復してゆく過程で思いました。 『ムーンナイト・ダイバー』もその思いで書きました。 その2年後に或る会に福島県波江のものですという事で、「書いてくださってありがとうございました。 そのことだけを言いに来ました。」と言って下さいました。(感謝だけを伝えにきてくれた。)  自分が書くという事はそういう事だと改めて励まされた思いです。 物語の多様な楽しみ方も一方で追求しながら書いていきたい。

戦争、災害などで辛い思いをしている中で、辛い思いをしているのは、何故彼らや彼女であって私ではないのだろう、私でもよかったのに、と言うのは大事な問いかけだろうと思います。 自分たちが恵まれていることの有難さを噛み締めて、その方たちに何かの形で救いの手を差し延べたり、共に生きる、共生の思いを伝えることも出来ると思います。